エフェス遺跡 (トルコ) : トルコ旅行事情に関する昔話
[ 西アジア略地図 ]
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                                                収容人数25,000人の野外劇場


 イスタンブールのオトガル (バス・ターミナル) は旧市街の中心地(港)から北西に10km程の郊外にある。シルケジ駅やアヤ・ソフィア、スルタン・アフメット・ジャミィ (ブルー・モスク) のある地域からならトラム (路面電車) に乗ってアクサライという大きな交差点でメトロに乗り換える。何も無い閑散とした場所に近代的なターミナルが建っている。だが嘗てオトガルは岬から4・5km程の所に連なる “テオドシウスの城壁” の直ぐ外にあり、トプカプ・ガラジと呼ばれていた。今、そこは市内を走るドルムシュ (ミニ・バス) の発着所に成っている。今では中心部からトラムが走っているが、当時はドルムシュかタクシーしか無かった。
 ここで断ってしまいたいことがある。僕のブログでは良くあることだが、このエントリーはタイトルと内容があまり合致していない。つまりエフェスの紹介や説明、そこでの出来事などはあまり出てこないだろうと思う。
 さて、初めての旅だったこの時の当初の予定では、パリから崩壊前のユーゴスラヴィアのベオグラードを経てやって来たトルコは、イスタンブールだけでその後は列車でアテネに抜ける積りでいた。ところが5日間イスタンブールをうろついているうちにどうしても奥地に入って行きたくて仕方がなくなっていた。何しろ初めての旅行だったし、今ほどにはまだ誰も彼も個人旅行という時代でもなかったのでアジアの奥地に入っていくということには不安もあった。僕にも可愛い時代はあったのだ。だがその日の午後、どうしても堪えられなくなってしまった。夕刻前、バスの予定も知らないまま払ってあった宿をチェックアウトして、僕はトプカプ・ガラジに向かった。


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                                                         マーブル・ストリート


 そこは整地もろくにされていないような凸凹の荒地とでも呼べそうな広大な広場で、バス会社の無数のブースと食品店や土産物屋が立ち並び混乱を極めていた。地面は融けた雪でぬかるんでいる。城壁の直ぐ外側は露天のバザールに成っていて、放牧された羊がうろついていたりもした。バス会社の客引きたちの呼び込みの声、それぞれの目的地へのバス会社を探す無数の人々のざわめき、物売りの甲高い声、まさにカオスのような場所だった。といっても心配は要らなかった。うろうろしているだけで誰かが直ぐに声を掛けてくる。目的地を聞くと自分の会社で扱っていようがいまいが、乗りたいバスを運行しているブースまで連れて行ってくれる。トルコの人々は非常に親切で、何の不安も感じさせなかった。だが勿論これはイスタンブール管区が旅行者達にとって安全だった時代の話だ。1988年暮れから89年初頭。その後、イスタンブール付近の治安は非常に悪化してしまった。2000年に訪れた時にはヴィザ取得に必要なレターを作成して貰うために2回ほど日本総領事館に立ち寄ったのだが、その2回ともパスポート、現金を含めて貴重品を身包み剥がれたという別々の青年に出会った。睡眠薬強盗だという。更に今ではテロの危険まで加わってしまった。初めに訪れた時と92年当時はのんびりしたものだったのだ。旧市街にはトラムもメトロも走っていなかった時代であり、ガラタ橋はまだ架け直される前で揺れる二層式の橋の下階には海鮮料理屋が軒を連ねていた時代。橋を渡り新市街の中心部に登る急な坂の途中をちょっと下った所にある公娼所に、まだ外国人も入れてくれた時代だ。いや、僕は後学の為に寄らせて貰ったのであり、アッラーに誓ってそれ以上の何も無い。むしろそこの光景は、こう言っては失礼になるのかもしれないが、あまり心躍るようなものではなかった。段差のある敷地に何軒もの店があり、女性達が客を呼んでいる。美しい娘も居たが中には母親の年齢を越えているのではないかと思える女性が崩れた姿態を晒していたりもした。


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                                                                 城塞跡


 脱線してしまったが、まあ、そんな時代だ。18時、乗り込んだ長距離バスは既に夕闇に包まれた街を離れる。ボスポラス海峡を渡るのかと思っていたのだが、意に反してバスは西に進んだ。マルマラ海のエーゲ海への出口であるダーダネルス海峡に向かっているようだった。トルコのトランスポーテーションは当時から立派なもので、長距離バスの殆どはベンツの高級車だったし、道の整備も素晴らしかった。走り出して直ぐに車掌がコロンヤを手に振り掛けてくれる。エチルアルコールに加えられたレモンの香りが爽やかだ。やがて飲み物と軽食が振舞われる。夜行とはいえ快適なバスの旅だ。この翌年僕は中国のバスを知ることになる。今の中国ではない。当時、中国の殆どのバスは国産で、それはそれは恐ろしい乗り物だった。更に次の年にはインドのバス、その翌年にはパキスタンのバス…やれやれ、奥地へとはいってもトルコの旅なんて本当に幸せだったのだ。
 翌早朝、まだ明けやらぬ街道のバス停で下ろされる。ターミナルではなくバス停だ。周りには畑や牧草地が広がっているだけのようだ。直行だと聞いていたのだが、どうやらここで乗り換えろということらしい。後で知ったことだが、そこはイズミールという大きな町の郊外らしかった。ローカル・バスが来るまで小一時間は待っただろうか、こんな何も無い場所に一人で放り出されるのはあまり気持ちの良いものではなかった。だが車掌が言った通り、チケットは買い直さずに良いようだった。午前7時、ローカル・バスはセルチュクの小さな町に停まった。すると老人が話し掛けてくる。英語なんて話せない。彼はただ 「ゲスト・ハウス? ゲスト・ハウス! ヴェリー・チープ!」 を繰り返した。何しろ早朝7時だ。非常に胡散臭かったが僕は彼に付いて行くことにした。しかし驚いたことに、彼の連れて行ってくれたのは実に気持ちの良い家族が営む実に安価で清潔な民宿だった。もちろん彼は何某かのマージンを受け取ってもいるのかもしれないが、宿代から察するに早朝に来るかどうかも分からない旅行者をバス停で待つ見返りには合わない仕事だ。或いは親戚か何かなのかもしれない。ただ分かったことは、やはりトルコ人は親切で信用できるようだということだった。勿論、あくまで “当時は“ ということなので、今のことは保証しない。
 エフェスはセルチュクの町から4km程の所にあるローマ時代の広大な遺跡だ。この地は在りし日には世界七不思議のひとつに数えられたアルテミス神殿がB.C.550年頃に建てられたとされる場所でもある。1月の初め、季節外れの遺跡には観光客など誰一人として居ず、繁栄していたのだろう古の都市には、草を食む羊達の上を冷たい風が吹き抜けていた。


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                                                                 羊飼い
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by meiguanxi | 2008-12-17 23:22 | 絲綢之路Ⅲ[西亜] | Comments(2)
Commented by りー at 2008-12-30 23:33 x
更新、嬉しいですん♪ このペースで、とは言いませんがもっともっとたくさん見せていただきたいです。空間と時間と両方の意味で私には手が届かないと思うのでよろしくお願いします。
この羊飼いのおじさんは今はどうされているのかな~。1988年暮れ、と書かれているのでちょうど20年前になりますね。どこに生まれてどう生きるか・・・いろいろ思っちゃいました。私にも何か意味があるんでしょうw
Commented by meiguanxi at 2008-12-31 14:03
今年後半、更新が滞ってしまってごめんなさい。なんというか、旅ブログを書いているような気分じゃなかったので・・・
そうそう、この爺さんと会ったのは89年の1月だから20年ですね。もし元気にしていれば今でも羊を追っているのだと思うけど、あれからトルコもけっこう経済発展した筈だし、特に経済的には進んでる地中海近くだし、彼の生活はむしろ苦しくなってたりするのかもしれない。
この時は初めての旅で、羊飼いは前の記事のセルチュクに続いて2度目だったんです。

ねぇ、羊飼いって本当に居るんですよ!

って、まあ、その後そちらこちらで出会ったし、当然いる訳ですw でもこの時には、そのことが凄く感動的だったし、夢でも見ているような気持ちだったんですよ^^
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