上海 (shanghai) : 失われた光景
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                                                             黄浦江と外灘


 夕刻の港は独特の匂いに包まれていた。初めての匂いだった。それが正しいのかどうか確かなことは分からないが、薪で湯を沸かす匂いだと思った。
 島影ではなく本格的に陸地が見えることに気付いた時には既に河口から30km内陸の支流に入っていた筈だ。長江 (changjiang) の河口幅は50kmを超えるし、幅10km超、長さ60km超の大きな中州があるが、通った筈の中州南側の川幅だけでも優に20km以上ある。支流の黄浦江 (huangpujiang) からは霧に霞んだ果てし無い堤しか見えなかったが、その向こうには広大な田園が広がっているようだった。時々目に入る岸辺に佇んだり座ったりしている人々の姿は素朴そのものに見えた。川には引っ切り無しに船が行き来していた。その多くが屋根付きの平たい木造船で、殆どは粗末だし年代物のように見えた。中にはそれ自体が生活の場であるかのような物もあったし、幾つもの筏を牽引している物もあった。時代錯誤のような、夢の中のような光景に思えたが、実際に僕はその風景の中にいた。
                                    港の建物は国際港としては信じられないほど貧相で薄暗く、
                                   大勢の中国人たちのまるで倉庫への搬入でもあるかのような
豫園商場                             大量の荷物のために、カスタムを通過するのには時間が掛かっ
b0049671_21515488.jpgた。街には既に夕闇が迫っていた。大阪南港から57時間余り、2泊3日掛けて鑑真号は上海に着いた。たまたま船で同室だった青年の父親の知り合いが教授をしているという大学の招待所に向かうことにした。港からのタクシーは街灯も無い真っ暗な細い路を、クラクションを鳴らしっ放しでのろのろと走った。ヘッドライトの当たる狭い範囲以外は全く見えない。そのライトが映し出すのはひたすら無数の自転車だけだ。追い抜いても追い抜いても、自転車はその先に果てしなく連なっている。まるで北極海を進む砕氷船のようだった。1990年2月、19年前のことだ。
 教授は大学の学食で晩餐を用意してくれた。同船だった5人と教授、それと片言の日本語を話す職員が長いテーブルに付いた。我々以外には誰もいない。考えてみれば春休みなのだ。おそらく教授が食堂職員に無理を言ったのだろう。中国人は個人的な義理や旧知への情は深い。知り合いの息子とその友達の他に3人も急遽増えてしまった外国人を、彼は嫌な顔もせず大歓迎してくれたし、翌日は二班に分かれて市内案内をしてくれた。しかも交通費は全て教授持ちだったのだ。食堂内は非常に薄暗く天井がとても高い。その天井には裸電球がぼんやりと灯っている。外に直接続く木の扉、ペンキが塗られただけのコンクリート打ちっ放しの壁、化粧張りの無い床、何もかもがくすんでいた。声が非現実的に反響する。大正時代の講堂にでも迷い込んだような光景だった。出された素朴な料理を食べることも忘れて、その場に自分が居るリアリティを上手く掴めないまま、僕は周りを見回していた。それはまるで映画のワン・シーンででもあるかのようだった。80年代前半から中庸、僕は中国映画を観まくっていた。当時は今ほど中国の映画は一般的ではなく、年に一度、池袋の文芸座といううらぶれた二番館で中国映画祭が行われていた。『人、中年に到る』 『黄色い大地』 『赤い服の少女』 『北京の想い出』・・・そんな映画を観ては中国の大地への憧憬を募らせていたものだ。
 NHKで1年間掛けてシルクロードの特集を放送したのは1978年のことだ。その頃はまだ一般人が中国に旅行に行くことはできなかった。尤も、日本でも海外旅行はまだ一大事の感が残っていた頃だし、学生が卒業旅行に海外に行くなどどいうことも殆ど無かった筈だ。中国が個人旅行者を受け入れたのは80年代に入ってからのことだと思う。90年といえばその前年が天安門事件のあった年であり、中国はまだまだ貧しく外国人旅行者にとっては中国を旅するということが色々な意味で試練だった。そして、それだけに面白くもあったのだ。


上海雑技                                                              玉仏寺
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 この間に中国は信じられないほどの経済発展を遂げ、かなり辺鄙な田舎の小さな町に行っても当時とは大きく町並みが変わった。省会 (省都) ともなれば全く当時の面影が無いと言って良いだろう。上海を象徴する風景と言えば今は高層ビルが林立する浦東新区だが、当時は20世紀初頭に建てられた欧州風のビルが並ぶ外灘 (waitan : 通称・バンド) から黄浦江の対岸である浦東地区を眺めるとそこには何も無かった。インドの聖地ヴァラナシの、不浄と言われるガンガー東岸のように何も無かった。上海駅のすぐ裏手には平屋の小さな粗末な家が犇くように並び、それらの家にはおおよそトイレが無く、人々は馬桶 (matong) という桶に用を足し、それを町角の共同トイレに捨てていたような時代だ。だから町のトイレはとても用を足せるような状態ではなかったし中に入ることすら困難だった。そんな時代だ。それが僅か15年余りの間に日本円にして億を越えるマンションが林立し、人々は携帯電話とパソコンを操作するようになった。もちろん当時は民家に電話など無かったのだ。驚くことに99年に開港した新しい空港とは リニアが最高時速430キロで結んでいるという。30kmの距離を7分20秒だ。
 今では日本から妙齢でお洒落な女の娘が中国に旅行して買い物や高級レストランでの食事、中にはエステまで満喫するようだが、当時は気の利いた女の娘は中国になんか絶対に行かなかったものだ。もちろん中には変わり者だっていたわけだし、実は当時から中国への留学生は相当数いた。そんな中国を知る外国人旅行者は最も若い世代でも40歳に成る頃だろう。それにしても当時、僕はなんで中国の写真をもっと撮っておかなかったのかと訝しい。当時の僕は旅行であまり沢山の写真を撮らなかったとはいえ、チベットや新疆 (東トルキスタン : 「新疆」という呼び方はあまりにも身勝手な中国中心主義的なので嫌いな方も多いと思うが、当時の僕はそう呼んでいた) といった占領地域と雲南省を除けば中国に関しては本当に何も撮っていない。中国という文化の中で何を撮るべきなのか、当時の僕は全く分かっていなかったのかもしれない。よほど おたんこ茄子だったのだ。今となっては撮り直しに行くことはできない。あの姿は記憶の中以外の何処にも存在しないのだ。


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by meiguanxi | 2009-03-27 20:22 | 中国 | Comments(0)
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