杭州 (hangzhou 浙江省) : 外国人料金とホテル、または “没有”
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 蘇州 (suzhou) から杭州 (hangzhou) へは舟を使った。大きな地図を見てもらうと分かると思うが、上海周辺の2本の大きな川、長江 (changjiang) と銭塘江 (qiantangjiang) に挟まれた江南 (jiangman) と呼ばれるデルタ地帯には無数の水路が網の目のように流れている。この地方では舟での移動が人々の生活の中に根ざしているようだった。だが、それは運河クルーズというような優雅なものではなかった。船底が扁平に近い木造舟は、これで一晩過ごすということに不安を感じるような代物だった。屋根は付いているが非常に低く、背をかがめるようにして板張りの内部に乗り込む。下半身を投げ出して伸ばすと水面は目の高さだ。ほんの数人しか乗客が集まらないまま、17時30分に舟は静かに動き出した。それは本当に何の音も出さない静かな出港だった。振り向くと船尾では船頭が櫂を動かしている。やれやれ、手漕ぎなのだろうか。蘇州と杭州の間は直線距離で130kmほど、運河の距離で160kmほどだろうか。その距離を16時間掛けて移動するのだ。緯度は鹿児島から屋久島に掛けてと同じくらいの筈だが、冬の江南を見くびっていたっとしか言いようが無い。1990年2月下旬、珍しいことらしいが数日前の上海には雪が降っていたのだ。水面とはベニヤのような薄い壁で隔てられているだけなので、到る所から隙間風が吹き込んだ。景色を楽しむどころか、眠ることすら難しそうだった。


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 蘇州などという田舎町から来ると杭州の町は都会で、人々は忙しく動き回っているように見えた。もっとも、降るみぞれが彼らをせかせていたのかもしれない。ひと晩の舟旅ですっかり冷え切っていた身体に鞭打って、みぞれの町に出る。だが宿がなかなか見付からない。当時の中国では多くの場合、外国人は町で一・ニを競う飯店 (fandian) とか賓館 (binkuan) といった名の付いたホテルに泊まるように決められた。勿論もっと安い宿もあったのだが、それらに泊まることは基本的に禁止されていたのだ。とは言ってもそれほど高価であるわけではない。多くの個人旅行者は多人房 (duorenfang : ドミトリー) に泊まっていたからだ。当時の中国では高級ホテルにでも必ずと言ってよいほど3人部屋だったり4人部屋といった多人房があり、なかには16人部屋なんていうものもあった。そして中国の多人房は多くの場合、それなりに綺麗だったし布団も清潔だった。勿論、1泊2日の夜行バスが途中で宿泊する簡易宿泊所 (夜行バスが途中で泊まるということ自体が不思議かもしれないが) や田舎ではかなり酷いものもあったわけだが。そのぶん都会のシングル・ルームやツインが高かったかというと、そうでもない。僕が主に泊まっていたのは10元程度の多人房だったが、同じくらいの値段でシングルに泊まれる町もあったし、50元も出せば快適な部屋で過ごせた筈だ。更には不包 (bupao) と言うのだが、ツインの部屋を占領せずにベッド単位で支払うことができる場合もあった。この場合、あとから他の人が来なければ半額で部屋を占有できた。当時の公定レートが1元23円、実施レートで16円ほどだった。実勢レートとは、要するに闇両替のレートのことだ。
 だが我々には安く思えるこの宿代は、実は外国人料金だった。当時の中国ではホテル代の他に飛行機や列車のチケットにも外国人料金が設定されていた。遠路遙々訪ねてくれた外国人に便宜を図って割引してくれていた、のではない。もちろん逆だ。酔狂に海外旅行なんかができる外国人は真面目に汗水流している中国人民に金銭的貢献をすべきだ、といった発想だ。外国人は列車で1.75倍、宿の場合には規定は無かったが10倍ほどの料金を支払わなければならなかった。資本主義の経済原理にはそぐわないのかもしれないが、なにしろ中国旅行に関する限り中国の独占市場なのだ。なるほどなと納得してしまう部分もあった。当然この外国人料金に関して不満を述べる旅行者は多かった。だが先の宿代を鑑みると、人民の宿泊代が異常に安いことに気付く。社会主義を標榜しているからではない。それだけ貧しかったのだ。中国人民の平均月収が100元に満たなかった時代だ。


霊隠寺                                             飛来峰石窟彫像
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 さて、そんな訳だから宿探しに困ることもあれこれ選択する余地も無かった中国なのだが、この時の杭州に限っては別だった。杭州には外国人を受け入れる宿の数は多いようだったし、観光地とはいっても邦人外国人ともに旅行者数が今とは比べ物にならなかった当時の中国で、しかも完璧なオフシーズンだ。にもかかわらず何軒ものホテルで断られた。結局は冷えた身体をみぞれで更に凍えさせながら、バスに乗って有名な西湖 (xihu) の畔沿いに市街地をずっと離れた場所まで捜し歩かなければならなかっった。
 あまり立派とは言い難い宿の部屋は、薄暗いただの四角い箱だった。コンクリート打ちっ放しの汚れた壁は腰から下くらいの部分だけが緑色のペンキで塗られていて、それが所々あからさまに剥げていたのが一層陰気臭さを助長しているように感じられた。部屋の奥にスチーム暖房が設置されていたが機能していないようで、東京出身の者には辛い寒さだった。湿度の高い寒さには慣れていないのだ。寒気が湿度と一緒に身体の芯まで侵食してくるようだった。
 部屋には三台のベッドがあり、午前も遅い時間になるというのにそのうちの一つに先客の西洋人が寝ていた。彼はゴホゴホと咳をしながらこちらをちらっと見たが、言葉は発しない。得体の知れない東洋人に映ったのかもしれない。僕はハーイとだけ挨拶してバックパックからステンレスのカップを引っ張り出し、ネスカフェの粉を入れた。これは特筆すべき中国のホテルの素晴らしい点なのだが、どんな宿でも部屋ごとに熱い湯がポットに入れられているのだ。中国好みの派手な柄の寸胴な魔法瓶で、口には木の栓がねじ込まれている。ワインのコルク栓と同じ状態だ。大概の場合、栓は既に黒ずみぬめっていたので衛生上は多少の問題があるのかもしれないが、中国で衛生観念について文句を言っても始まらない。とにかく保温力は確かなのだ。毛布から出した目だけで、ネスカフェに湯を注ぐ僕を見ていた西洋人が、それは何処で買ったのかと訊ねる。当時の中国ではネスカフェですら好きな時に近くで買えるというわけではなかったのだ。50グラム瓶で10元くらいだっただろうか。やれやれ、平均月収の10分の1 だ。
 彼はアメリカ人で、風邪をひいて臥せっているのだという。僕が日本人だと分かると、ネスカフェがなかなか見付けられないという話から一気に中国と中国人の悪口を捲くし立て始めた。この頃の中国では相部屋になった外国人たちは挨拶代わりのように中国の悪口と中国旅行の愚痴を言い合ったものなのだ。なにしろホテルのトイレでも仕切りの壁しかなく扉が無いなんていうことはざらだったし、それらは世界の動かし難い原理原則であるかのように常に汚れていた。当然、水洗ではない。切符を買うために駅に行けば 「没有」 という服務員の不機嫌な一言でそれまで並んだ数時間が無駄に終わってしまうということもあった。没有 (meiyou)、“メイヨー” といった発音で、中国で “無い” という意味だ。中国への旅行者たちにとって “再見” や “謝謝” 以上に慣れ親しむことになる、悪魔のような言葉だった。だが、旅行者たちを不快にしていたのは非衛生的なことや切符を取るのに苦労するということだけではなかった。時にはホテルのフロンで、空き室があるにもかかわらず服務員の機嫌次第では 「没有」 と言われることさえあった。総じて旅行者達が接する中国人たちには親切心とか公衆道徳という概念が決定的に欠落していた。そのことに多くの旅行者たちはうんざりしていたし、事実半分の旅行者は 「二度と来るか!」 という捨て台詞を吐いて帰って行った。だが、それらについては別の機会に話すことにしよう。ただ、誤解の無いように付け加えるが、僕の場合には残りの半分だったのだ。


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by meiguanxi | 2009-04-01 20:46 | 中国
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