広州 (guangzhou 広東省) : 闇両替と “外汇 ”
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                                                         雨の中の自転車通勤


 “中国人は四脚の物は机以外、飛ぶのなら飛行機以外なんでも食べる” という言い方があるが、これは間違いだ。そもそも民族という概念は形質や血統といった人種分類ではなくアイデンティティの問題でしかない。その意味で漢族というアイデンティティに関しては少々拡大し過ぎているように感じる。もともと彼らは現在の版図の中国ではなく、もっと狭い範囲の地域性や血族をそのアイデンティティの拠り所とする人々だった筈なのだ。清朝中庸以後の爆発的な人口増大とそれに伴う周辺地域への拡散および混血、更には中華人民共和国成立以後の国民国家の人民としての教育が現在の漢族というアイデンティティを確立していったのだと思う。実際、この周辺への拡大と混血、殖民 (例えばタイの華僑がタイ化しているように、占領地の植民地化という意味での “植民” では必ずしも無いが) は例えば満州人や一部のモンゴル人などの北方民族、南方諸民族の一部をして民族というアイデンティティからも版図という意味からも殆ど漢化してしまったのでり、チベットやウイグルで進められている事態も放置すれば早晩、同じようなことになってしまう危険がある。だがここではそうした問題について語る積りなのではない。中国人はなんでも食べるのか、という話だ。食文化はその土地土地の自然環境によって決まると言ってもよい。事実その昔、現在の中国地域の人たちは南方では米食、北方では麦食が好まれた。というより栽培できる品種の問題で自然にそうなっていた。穀物のみならず副菜やその調理法にしても地域によって様々だ。考えてみれば乾燥した北京 (beijing) や西安 (xi’an) でそれほど豊富な食材が手に入るわけもない。広州 (guangzhou) で仕事をしていたことがあるという咸陽 (xianyang : 西安の近くで秦の始皇帝が都を置いた場所) 出身の中国人留学生と話をしたことがある。「広州の市場は凄いですよ。蛇とか蛙とか猫とかアルマジロとか、なんでも売ってますよ。虫も食べるんですよ」 と言う彼女に君は食べたのかと訊くと、「信じられません」 と言って顔をしかめた。そう、なんでも食べてしまうのは中国人ではなく広東 (guangdong) 人なのだ。
 上海 (shanghai) に近い杭州 (hangzhou) から広州までは列車でたっぷり35時間掛った。中国は本当に広い。いや、これは20年近く前の話で、今では18時間から19時間程度で着いてしまうらしい。とにかく1990年には朝の9時過ぎに出発して翌日の夜20時過ぎに到着したのだ。
                                    広州は当時から近代的な都会だった。当時に於いては上海よ
                                   りずっと垢抜けているように感じられた。もちろん近代的とは言っ
広州駅前広場                          ても香港のそれとは違う。広州の駅前広場は大きな荷物を伴っ
b0049671_162516.jpgた盲流と呼ばれる出稼ぎの人たちで溢れていたし、街にはまだ通勤の自転車が溢れていた時代だ。中国の都会では歩道と車道の間に自転車専用道路があったものだが、写真のような光景はもう見られないのだろう。因みに自転車に乗る人たちは前後をすっぽりと隠せてしまうビニールの合羽を着ていた。これは優れものでバックパックを背負った旅行者にも便利だった。それに比べて前の年に成田空港で買った旅行用のビニール合羽のなんと想像力に欠けることか。
 広州では駅に近いホテルに泊まっていた。到着したのが夜だったし、バックパッカーが集まっているのだろう地域まで荷物を背負ってバスに乗るのが億劫だったからだ。中級ホテルだったがツインが比較的安く取れた。眠ろうとしていた時、電話のベルが鳴る。出てみると 「喂 (wei) ?」 と女の声が言った。全く中国語が分からなかった僕は英語で応対したのだが、相手は驚いて隣に居るらしい誰かと笑いながら言葉を交わした後、中国語で何かを言ってきた。もちろん意味は分からない。だがその声には甘えのような響きがあった。英語で対応しても向こうは理解していないようだ。こちらが言う言葉を面白がるように更に甘ったるい声で何事か言っている。こちらが中国語を理解しないことについてはあまり重要ではないようだった。おそらく外国人が珍しかったのだろう。僕は諦めて受話器を置いた。
 今では中国の売買春産業は公然と行われているし、繁華街というほどではないような地域に赤や紫の怪しげな明かりを灯した美容院や按摩屋があったりして、改革開放の方向を間違えているのではないかと思えるほどだ。だが当時の中国には少なくとも旅行者の目に付くようなその手の店舗はなかったように思う。あるいは僕がその手のものを探そうとしていなかったからなのかもしれないが、そうした店を見掛けた記憶は無い。大きなホテルには舞庁 (wuting) というダンスホールがあり、当時の日本で言うディスコの役割をしていた。もちろん16ビートのダンスミュージックが流れていたわけではなく、フォークダンスなどが踊られていたりもしたのだが。そうしたホテルの前やエントランス・フロアーで当時の中国人民には似つかわしくない華美に着飾った女性達を見掛けたものだ。化粧などというものすらあまり一般的ではなかったので、彼女達の濃い化粧法は概ね勘違いの傾向にあったのだが、中国に詳しい旅行者から聞いた話では、要するに舞庁に誘うという建前のその手の職業婦人だったのだろう。極端に中央集権的な独裁国家ではそういう 「犯罪」 は簡単に取り締まられるのではないかと思うかもしれないが、そうはいかない。警察だろうと地方役人だろうと貨幣の前には腐敗するのだ。
 闇両替についても同じだ。当時の中国には二種類の通貨が存在した。中国の通貨はご存知の通り元だ。発音は yuan (ユゥェン)。“ユ” の後ろにあえて “ゥ” を付ける必要はないではないかと思うかもしれないが、中国語の発音をカナ表記するのにはもともと無理があるのだ。もしこの “ゥ” が無かったら日本人には “イェン” という発音になってしまうと思う。因みに “元” はもともとは “圓” なのだが、発音が同じだからという安易な理由から代用されるようになった。日本の円も韓国のウォンも、実はこの圓から来ていて、“円” は日本式の略字だ。ところで円とかドルとか言った場合、それはそれぞれ日本やアメリカの通貨名称でありその単位であるわけだが、どうも中国語に於ける元は中国の通貨とその単位という概念を越えて、純粋に通貨そのものを指している感がある。彼らが日本円のことを日元 (riyuan) と呼ぶのは円がもともと圓であるのだから分かるとしても、米ドルのことも美元 (meiyuan : “美” は “アメリカ” の意) と言うのだ。そして通訳などは外国人に分かり易いように “It's 10 yuan” などと訳すのかもしれないが、実際の口語では値段を言う時に元という単位を用いない。块 (kuai :クゥァイ ) という単位を使うのだ。
 とにかく中国の通貨は元で、その紙幣は人民幣 (renminbi) という。ところが我々外国人が中国に行って銀行で外貨両替をした時に受け取るのはこの人民幣ではない。単位は同じ元なのだが外汇 (waihui) という全く別の外貨兌換券を渡されるのだ。人民幣が人々の手から手に渡ってきたという生活感があるのに対して、皺一つ無いこの紙幣にはそのようなリアリティを一切感じることができなかった。一般のまともな庶民には縁の無い紙幣なので、特に田舎町の商店や飲食店、露天などでは受け取りを拒否されることもあったのだが、ホテルの支払いや列車・飛行機のチケット購入の際に外国人はこの外汇を要求される。もっとも1990年には多くのホテルで人民幣払いが可能に成ってはいたが。一方、まだ家電など外国製品が貴重で珍しかった当時の中国に於いては、外国製品や一部の高級品は外貨でしか購入することができなかった。多少の小銭を溜めた人でも、外貨無しにはそうした物を買えないのだ。今でこそ世界第一位の外貨保有を誇る中国だが、当時は外貨獲得に躍起だったのだろう。なにしろ今では欧米諸国から元の切り上げを要求されているが、当時は敢えて実勢より高く元の公定レートを設定していたのだ。中国元は今では多少の揺れを許容しているのかもしれないが、基本的には米ドルに連動した固定相場制だ。もちろんレートは中国政府が一方的に決める。闇両替屋が登場するゆえんだ。旅行者たちは殆ど罪悪感無くそちらこちらの町で闇両替屋と接触した。人民幣と外汇の交換レートはその時々で1.8から1.3倍にもなったのだ。日常的なこととしてあまり不安もなく闇屋と両替をしていたものだが、なかには騙される旅行者もいたようだ。僕は出会ったことがないが上海や広州に出稼ぎに着ているウイグル人の両替屋に関しては評判が良くなかった。自分でもきちんと数えたのにもかかわらず、宿に戻ってみると紙幣が全く足りないことに気付くらしい。ウイグル・マジックと呼ばれる所以だった。


食料品市場                                                         衣料品市場
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 さて、広州で何か珍味を味わったかというと、そうでもない。ゲテ物は高いのだ。僕が食べたのは鳩のスープと狗鍋くらいのもだ。犬鍋だ。ただ、広州にはおそらく当時の中国で最も美味だったのではないかと思うビールがあった。大阪から上海に向かう鑑真号のバーで誰かと一緒にビールを呑んだ時、そこにはアサヒと青島 (qingtao) の二種類の銘柄があった。これからお互い長い中国の旅が始まるのだから、ここは青島啤酒 ( pijiu : 啤酒はビールの意) で乾杯だということで意見が一致した。ひとくち口を付けた瞬間にお互い顔を見合わせた。どちらも落胆と失笑の表情をしていたに違いない。不味かったのだ。これは失敗だった。暫くは中国のビールしか飲めないのだから、ここは断然アサヒを飲んでおくべきだったのだ。中国には地方ごとにビール・メーカーがあり、当時は煙草もそうだが違う地域の商品を見掛けることは稀だった。行く先々でビールと煙草が変わるのだ。僕が訪れた地域に限っては、この広東 (guangtong) の珠江啤酒 (zhujiang ) 以外は殆ど酷いものだった。この約3ヶ月後、僕は雲南省の昆明 (kinming) からタイのバンコックに飛ぶことになる。その機内でビールを注文すると青島ビールを渡された。ナショナル・ブランドなのだ。だが、あれほど不味かった筈の青島啤酒のなんと美味く感じたことか。だがそんな中国ビールも今ではそこそこ飲めるようになったようだ。


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                                                   公園で麻雀に興じる老人たち
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by meiguanxi | 2009-04-04 16:16 | 中国
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