昆明 (Kunming 中国雲南省): 失われた街
[ 雲南省略地図 ]
b0049671_9205794.jpg
                                                         長春路(1990・春)

 中国、僕がこの国に興味と憧憬を初めて抱いたのは、1980年に連続放送されたドキュメンタリ、『NHK特集―シルクロード(絲綢之路)』だ。当時、中国は自由に旅行できる状態ではなかった。一方、中央アジアは旧ソ連の時代であり、これも自由な旅行は出来なかった。それだけにシルクロードと中国への想いは益々深まった。当時、学生だった僕は、毎年池袋の文芸座などで開催される中国映画祭出品作品を見捲くった。
 80年代終盤、僕は漸く海外を歩く機会を得る。そして天安門事件の翌年、90年2月、遂に中国の大地を踏んだ。大阪からの船は3泊4日掛けて上海に着いた。当時の上海は、今の超近代的な未来都市とは全く違った。上海駅の裏には、平屋の貧しい家々が犇くように軒を並べていた時代。夕暮れの上海には、薪で湯を炊く独特の匂いが立ち込めていた。
 その後、91年、93年と中国を再訪することになる。この何れの時も、インドシナ半島の付け根でありチベットの東に接する雲南省を訪れている。省都は昆明(こんめい:クンミン)。この街は雲南各地の少数民族を訪ねる為のベースで、多くの旅行者は1・2泊で通過する。僕もそうだった。

宝善街(1991・春)                              90年、僕は西の果ての新疆ウイグル自治区からパ
b0049671_9213015.jpgキスタンに抜けて帰国する予定だったのだが、新疆のトルファンに入ると、民族暴動の為に奥地へ行けなくなっていた。ヒッチなどでなんとか天山南路の中間クチャまでは行ったものの、そこからは戻るしかなかった。この先の道を進むのは93年になる。
 ヴィザが切れそうになっていた。中国の観光ヴィザには普通、有効期限と滞在期限のニつが記されている。有効期限は入国が許される期限、滞在期限は何日間滞在可能かを示している。ところが僕のヴィザには有効3ヶ月としか書かれていなかった。これを受け取った時、僕は取得日から3ヶ月後には出国しなければならないものと判断していた。入国までに既に1ヶ月を費やしていたので、入国後2ヶ月が経つ時、新疆の区都ウルムチの公安局外事課(警察のイミグレー
                                          ション・オフィス)に出向いた。中国では1ヶ月のヴィザ
宝善街(1991・春)                             延長が可能である筈だったのだ。公安職員は言っ
b0049671_9221068.jpgた。「お前のヴィザは new type のヴィザだ。このヴィザで入国から3ヶ月滞在が可能なので、延長の必要は無い」…
 ところで、この場合、香港から帰国というのが常套だろう。だが、3ヶ月の旅を中国圏だけで終わりたくなかった。僕はウルムチから列車を乗り継ぎ、5泊6日(途中、成都で1泊)掛け、遥々昆明に戻った。タイのバンコックへ飛ぶ為だ。当時、この辺りの国の国境は悉く閉鎖されたままで、ラオスなども旅行者が入れる状態ではなかった。バンコックへの飛行機も、当時は週1本しかなかった。
 幸いな事に1週間程先のチケットが取れた。それまでの間、石林(せきりん:シーリン)や大理(だいり:ダーリ)・麗江(れいこう:リージィァン)などを巡って過ご
                                          す。初めてのバンコックを堪能してゴールデン・ウイー
宝善街(1991・春)                             ク開けには出勤できる。完璧だ。
b0049671_9225216.jpg
 完璧である筈だった。フライトの日、イミグレーション職員は僕を引き止めた。出国させてくれない。彼は言った。「お前のヴィザはオーバーステイだ」…ウルムチでの事情を説明するが、勿論、取り合ってもくれない。航空機のボディー倉庫に潜り込んで、自分の手で荷物を引きずり出した経験のある方はいらっしゃるだろうか。なんとも情け無い気分のものだ。
 街に戻り、公安へ出頭。公安職員は言った。「ウルムチはウルムチ、昆明は昆明だ。文句があるならお前がウルムチに連絡してその証明をしろ」…なんて馬鹿げたシステムなんだ。だが彼は続けた。「これ以上煩わせると、事態はもっとシリアスになる」…

 3日間公安に通った。英文で上官への事情説明をする。結局、100元(当時、公定1元=23円、闇16円だったが、当然、公定レート払い)の罰金で1ヶ月の延長が認められた。その100元が公安職員達の懐に入ったのだとしても、その額は相当に情状酌量された額だろう。
 フライト出来なかった日、公安の次に中国民航のオフィスでフライトの変更を申し出る。窓口の小姐(シィァォジィェ:若い女性職員)は流暢な英語で言った。「1ヶ月後まで空席はありません」…当時の中国では、航空会社でもコンピュータなど使ってはいなかった。全ては台帳で管理されていたが、彼女はその台帳さえ見なかった。
 僕は事情を説明する。小姐「パスポートは?」、僕「公安に」。小姐はササっとチケットを書き換えた。1週間後のフライトだ。今度も彼女は台帳を見るでもなく、上司に相談する訳でもなく、1ヶ月後まで無かった筈なのに、ただ、ササっと書き換えたのだ…やれやれ、どんなシステムになってるんだ。
                                                    宝善街付近の民家(1991・春)
b0049671_9235031.jpg そんな訳で、僕はこの昆明という内陸の都会に、当初フライト前の2日間を含めて9日間も連続で滞在することになったのだ。そもそも新疆へ行く前の雲南の地方への行き帰り、新疆から帰って来た時と、既に何日も滞在していた。
 僕は公安通いの合間に、暇に任せてこの街を隅から隅まで歩き廻った。都会とは言っても、高層ビルがある訳ではない。街には長屋のような2階建ての伝統的な家並が軒を連ねていた。その柱や窓枠の何れもが、街角によって茶色か緑色に色分けされていた。通りには美しい並木が陽光に輝いていた。飲食店街には小さな、決して綺麗とは言えない店々から、何とも言えない食欲をそそる匂いが立ち込めていた。街の人々は、当時の中国にあっては異例なことだったが、みんな友好的で微笑を絶やさなかった。茶花賓館というホテルのドミトリー(大部屋)も清潔で、服務員の愛想も良く、過ごし心地は上々だった。
 金碧街という通りに南来盛というベーカリーがあった。当時の中国にあっては珍しく、本格的なフランスパンや揚げパンなどを作って売っていた。ベーカリーと言っても、見た目は薄汚れた惣菜屋か何かのような、小さな店だ。中国では一流ホテルのレストランでさえ、コーヒーと言ったらネスカフェだった時代。ここでは煮出しの、濃い欧州風のリアル・コーヒーを飲むことができた。店の二階に簡単な休憩室がある。休憩室と言うより、打ち捨てられた倉庫のような場所だったが、採光だけは良かった。マクドナルドのコップのような形の、硬いプラスチックの容器に波々と注がれたブラック・コーヒーを持って、僕はその二階で何度と無く午後の時間を過ごした。片隅では何時も、数人の男達がトランプ賭博に興じていた。十元札が何枚も飛び交う。当時、そこそこの公務員でも月給300元程だった時代、どの道ろくな素性の男達ではないのだろう。けれどそこは僕にとって、とても心落ち着く秘密の場所だった。
 この9日間の間に、普通の旅行者にとってはただの通過地に過ぎないこの街が、僕は大好きになっていた。何時かまた戻って来たいと、本気で思ったものだ。そして事実、その後3年の間に2回も戻ったのだ。

金碧路(1991・春)                              それから暫く、長い旅に出られない時期が続いた。
b0049671_9242459.jpg 98年暮、その時は来た。もう一度、あの昆明に戻れる。この間にインドシナ諸国の旅行事情は一変していた。カンボジア、ヴェトナム、ラオス、タイ、そして雲南省の国境が悉く開き、何処も自由に旅できるように成っていた。バンコックからカンボジア、ヴェトナムを渡り歩きながら、僕は昆明に恋焦がれていた。それを楽しみに旅していたと言っても過言ではない。
 ヴェトナムから雲南省に入り、田舎町をバスで転々と移動した。そして遂に…しかし、そこにあったのは見知らぬ街だった。バスターミナルを一歩出た所で、僕は本気で自分が何処にいるのか分からなかった。僕の目に映る風景は、東京の都心と変わらぬ近代的な大都会だった。数十階建ての高層ビルが林立している。ターミナルから鉄道駅は直ぐ近くだった筈だ。3回
                                          も訪れてその度にあれだけ歩き廻った街、だが、今、
ベーカリー「南来盛」(1991・春)                    僕には駅の方向さえ分からなかった。それは、確か
b0049671_925254.jpgに、全く別の街だった。
 なんとか辿り着いた茶花賓館のドミトリーは、薄暗い別館に移動されていた。荷を置いた僕は、真っ直ぐに金碧路を目指した。しかし、その道が見付からない。大通りではないが、片側一車線ずつの通りだ。見落とす訳はない。だが、その付近を何回歩いても、見付けられない。
 99年、昆明では世界花博覧会が開かれたのだが、その為に大規模な再開発が行われたのだ。それは再開発というような代物ではなかった。僅か6年足らずの裡に、無差別爆撃で一旦全てを焼き払い、大急ぎで全てを近代的に作り直したかのようだった。ハリウッドのハリボテでもここまではできない。

 結局、金碧路は俄かには信じ難いほどに拡張されていた。その辺りの道筋さえ変わっていた。街は清潔になったが、嘗ての美しい家並みは何処を探しても、無かった。南来盛は勿論、無くなっていた。世界中の何処にでもあるコンクリートの街。僕は街の一角に佇み、総ガラス張りのひとつの高層ビルを見上げていた。中国語で一階一階数えていく。それは40数階ほどあった。呆然とビルを見上げて階数を数えている人間なんて、今の昆明にはいない。それよりもっと高いビルだって、幾らでもあるのだ。僕は、知らず目を腫らしていた。

 昆明、中国雲南省の省都だ。あなたも時間さえあれば訪れることができる。僕の愛した街だ。
 だが、あの昆明は、世界中探しても何処にも、もう、無い。

b0049671_9254187.jpg
                開発の波に取り壊された古い街並み・金碧路付近(1998・暮)
[PR]
by meiguanxi | 2006-10-07 09:30 | 雲南省と少数民族 | Comments(2)
Commented by takigi at 2006-10-08 08:23 x
98年の春節ごろ、昆明にいました。昆明の友人が急に病気で、大理や麗江とか、どこにも行けず、本当に残念でした。
民族村にあるお寺で、お坊さんが手に付けてくれた色鮮やかな縄はあれから離さずに毎日してます。
友人の家の近くは、写真のように建物を取り壊れていますが、古い民居だそうです。
Commented by meiguanxi at 2006-10-09 02:36
98年の春節なら、この最後の写真の10ヶ月くらい前ですね。実はこの1年半後(2000年夏)にも行ったのですが、98年にはビルの谷間まだ極僅かに古い民家(民居)が取り残されていたのですが、2000年には全く姿を消していました。多分、98年春節の頃だと、古い町並みがもっと残っていたかもしれませんね。何しろ急激な再開発でしたから。
<< マラナ村の不思議な風習(インド... アンナプルナ内院(ネパール):... >>