イスタンブールの憂鬱・アイリナの微笑
   =或いは中央アジア・カフカス諸国VISAを巡る攻防=

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                                            新市街側からの金角湾とイエニ・ジャミィ

   アイリナはちょっとそこら辺でお目に掛かれるという程度の美人ではない。
  「ご機嫌いかが?」飛び切りの笑顔で彼女は言った。
   その笑顔には何時もながら心奪われてしまうが、その言葉は僕にはブラック・ジョークにしか聞こえなかった。
  「まあね」と答えて笑顔を作ろうとしたのだけれど、たぶん上手く出来ていない。
  「そう、それは良かったわ」そう言う彼女の顔からは、だが既に笑顔は一片の破片さえも残さずに消えていた。
  「あたしは今日もあまり元気じゃないのよ」

旧市街からの金角湾と新市街遠望                    2000年2月3日木曜、バンコックからイスタンブール
b0049671_11292963.jpgに着く。
 カオサン(バンコックの旅行者街)の代理店は何処も、日本の偽装、或いは盗品パスポートによる不法入国防止の為に片道チケットでの入国をトルコ政府が拒否しているという理由で、往復以外のチケットを売ってくれず、たった一軒、ビルの入口に机を置いただけのちっぽけな店の歳若い娘だけが、何があっても保証しないという条件で売ってくれただけだった。だが、イスタンブールの空港では、日本語で書かれた質問用紙に解答するだけで入国スタンプを押してくれた。「日本を出国したのは何年であるか、西暦ではなく年号で答えよ」そんな幾つかの質問だ。
 この街を訪れるのは3度目だ。初めの時は崩壊前夜のユーゴスラヴィア(チトーの権威が辛うじてまだ残っていたユーゴだ)から入り、イラン国境まで回って戻ったイスタンブールから2泊3日の夜行列車でギリシャに抜けた。2度目はイランから入り、イスタンブールでVISAを整えてシリアへ抜けた(当時、シリア・ヨルダンへ行くには日本大使館・領事館からのレターを持って各国大使館・領事館にVISA申請をしなければならなかった)。今回ここに来たのは、カフカス(コーカサス)と中央アジア諸国を巡って中国に至るという目的の為だ。中央アジア、それはソ連崩壊後ずっと抱き続けていた憧憬の地であった。
 思わせ振りな書き出し方をしてしまったので断っておくが、これは恋愛とかアバンチュールとか、そういった方面を巡る話では、残念ながらない。

エミノニュのサバ・サンドウィッチ舟                    イスタンブールに降り立った翌日、当該領事館(イス
b0049671_11301560.jpgタンブールは首都ではないので、各国公館は大使館ではなく領事館になる)で直接申請できないウズベキスタンとアゼルバイジャンのVISAを取得すべく、新市街タキシム広場裏の Elma Tourism を訪ねた。担当をしてくれた Arina(アイリナ)は非常に美しくチャーミングな女性で、しかもとても好感の持てるフレンドリー且つしっかりとした接客態度を身に躾けていた。最初の握手をする彼女の美しい笑顔は、この旅の成功と輝きとの先駆けであるように思われた。上々だ、この旅は祝福されている。
 彼女曰く「アゼルバイジャンは問題なく4営業日後に取れるわ。でもウズベキスタンはちょっと問題で、2週間くらい掛かるのよ。そうね、受取日は17か18日ね」アゼルバイジャンVISAがUS$120もすることを除けば問題ない。予定していた通りだ。おまけにアイリナはとびきりの笑顔で相手をしてくれたのだ。問題がある筈がない。
 ところが、というか勿論、問題はちゃんとあった。「その日程はダメだわ」と彼女は言った。旧ソ連系の国ではVISAに入国日を指定するという忌まわしいシステムが残っている。その日に入国しなければならない訳ではないのだが、その日から滞在可能日数のカウントが始まってしまうのだ。つまり入国が遅れればそれだけ滞在可能日数は減る。ガイドブック『旅行人』によれば2・3ヶ月先まで指定できるとあったのだが、なんとウズベクの入国日が取得日の実質1ヶ月先までしか指定できないというのだ。カフカス3国とイランを経て中央アジアから中国に抜けようとしていたのだが、1ヶ月ではウズベクまで辿り付くのはその日程では不可能だ。出来なくはないのだろうが、そういうのは旅行ではなく単なる移動という。食い下がってみたがどうにもならない。しかたなく嘗て行ったことのあるイランをパスすることにして(本当は前回飛ばしてしまったイラン最大のシーア派の聖地マシュハドに行きたかったのだが)、更にグルジアから一度入国するとアゼルバイジャンに行くには再度グルジアに戻らなければならないアルメニア(アルメニアとアゼルバイジャンは国境を接しているが、領土問題での戦争以来、双方の国境を閉ざしている)は、殆どトランジット状態に成りそうだった。アイリナの所為ではないのだ。仕方が無い。いずれにしてもウズベクの場合、取得日当日まではパスポートをホールドされないので、アゼルバイジャンを受け取った後、トルクメニスタンとグルジアのVISAをそれぞれの領事館で取ることが出来るだろう。
 リンクの地図を見てこう思った方もいらっしゃると思う。ウズベクに辿り付くまでには幾つもの国を通る訳だから、その何れかで取れば良いのではないか、と。ところがこのトルコを除くと、途中の国での取得は大変に困難なものとなるのだ。ウズベク本国からのレターが必要だったり、そもそも取得ルートが無かったり。少なくともこの当時、イスタンブールからウズベクに向かう場合には、トルコ国内で取得しておく必要があった。
 Elma に行ったのが金曜日だったので、4営業日後であるアゼルバイジャンの受け取りは翌週の木曜10日だ。その午前中、アイリナから宿に電話が入る。Elma Tourism が提携している旅行会社から連絡が入り、イスタンブールのアゼルバイジャン領事館では急遽VISAを取れなく成ったので、アンカラ(トルコの首都)の大使館にパスポートを送らなければならない。その為に費用がもうUS$40掛かり、取得は翌週の火曜日(15日)に成るが良いか、という内容だった。$40はあまりに痛いけれど仕方が無い。問題は申請から2営業日後取得のトルクメンのVISAは曜日の関係でイスタンブール出発日に間に合わないかもしれないということだが、それなら週末にアンカラまで移動すれば、上手くいけば即日発行してくれる筈だ。日程的には大丈夫だろう。
                                            ここでもう一度、同じ疑問を持たれるかもしれない
イスティクラル通りのトラム                        (地図)。アゼルバイジャンの前にはグルジアとアルメ
b0049671_113195.jpgニアを通るのじゃないのか、と。その通りだ。だが、領土戦争後国交を絶っているアルメニアはもとより、グルジアでもアゼルバイジャンのVISAは取れない。カフカスや中央アジアを巡るVISA取得は理不尽なほどに面倒なことになっているし、混沌としていた。
 15日、なかなかアイリナからの電話が掛かってこない。夕方、自分から電話してみると、アイリナより遥かに流暢な英語を話す女性の声で、既にウズベクのOKは出ているのだけれど、アゼルバイジャンがもう2日掛かるようなので木曜日に来て欲しいと言う。なんてことだ。それではグルジアのVISAも取れないではないか。結局二つのVISAが揃うまでパスポートをホールドされっぱなしに成ってしまった。よろしい。どのみちトラブソン(黒海沿いのトルコの街で、グルジアへのゲットウェイになる)に寄らなければならないのだし、グルジアのVISAはそこで即日取得できる筈だ。文句を言ったってパスポートがアンカラに行っている以上どうしようもないのだ。
 ところが彼女は駄目を押すようにこう付け加えた。最悪の場合は金曜に成るかもしれない、と。「ちょっと待って。その場合、ウズベクはどうなるの?」「月曜に成るかしら」冗談じゃない。そんなことしていたら本当に入国日に辿りつけない。
 僕は諦めて予定を大幅に変更した。イランに継いでアルメニアもパス、更にグルジアもトランジットで抜けてアゼルバイジャンへ。カスピ海を渡ってトルクメンに入りウズベク。新しい情報ではキルギス(キルギスのVISAはウズベクで取れる)で簡単にウズベクのVISAが取れるように成ったらしいので、キルギスからカザフ領を通って再びウズベクに戻り、更にトルクメンを通ってイランからアルメニア、そしてグルジアを今度はちゃんと観光してイスタンブールに戻る。
 僕は陸路による中国までの横断には拘るし残念ではあるが、もう若者ではなく、色々と旅を繰り返して来たのだ。上海からポルトガル・モロッコまでも、既にチベットを通って足跡は繋がっている。大人には仕方の無い状況を受け入れることだって、時には必要なのだ。今回は大陸横断は諦めよう。それに中国とだって、イスタンブールを通して足跡は繋がるのだし。
 3回目の受け取り予定日である17日木曜日の午前中、アイリナから電話が入る。ちょっと話したいことがある。内容は会ってから話すので来て欲しいと言う。アイリナの英語は電話でこまごまとしたことを澱み無く伝えるには充分ではない。暗い気分に成る。けれどもうこうなったらどんなことが起ころうとも驚かないし慌てふためいて見苦しく取り乱したりはしないぞ、と自分に言い聞かせるようにして Elma へ。
 僕が泊まっていた安宿は旧市街の中心、スルタン・アフメット・ジャミィ(ブルー・モスク)やアヤソフィア寺院のある広場の裏にある。新市街へはシルケジ駅(イスタンブール駅)を抜けてエミノニュという港を通り過ぎ、金角湾に掛かる長さ500mものガラタ橋を渡る。
                                     僕が初めてこの街を訪れた時には、橋は今よりも100mほど
手風琴弾きの少女:イスティクラル通り          手前(駅寄り)に架かっていた。嘗てこの細長い湾を挟んで住ん
b0049671_113279.jpgでいた2人のイギリス人が毎晩交代でこの橋を渡り、相手の家でトランプに興じていたという。ブリッジというゲームの由来だ。
 橋は二階構造に成っていて、上階は車道と歩道、下階はロカンタ(この国の大衆レストレン)が並ぶ。店先に並べられた魚介を冷かしながらボスポラス海峡からの風に吹かれて歩けば、橋は大きく揺れる。イスタンブール観光のひとつの目玉であり、東西の狭間に立つ旅情を最も感じさせてくれる場所だ。しかし、2度目に訪れた92年、隣に超現代的なもう一本の橋が平行して架けられていた。旧橋の老朽化とロカンタから出た火事が、架け替えの切欠だったともいう。そして今回、旧橋の姿は既に無くなっていた。
 この橋を渡ってすぐ、両側に小さな商店が犇く狭い裏路の急坂を500mほど登るとイスティクラル通り。さほど広い通りではないが、お洒落な店が並ぶイスタンブールきっての繁華街で、道の中央には玩具のようなトラム(路面電車)が走る。この道を1kmほどで漸くイスタンブール新市外の中心、タキシム広場に着く。宿からは小1時間掛かる距離だ。勿論バスもあるにはある。だがエミノニュのターミナルからタキシム広場までのバスは、ガラタ橋よりも少し金閣湾奥のアタチュルク橋を通り、新市街の丘を回り込むように登るのでかなりの遠回りになり、待ち時間等を考えると、歩いてもさほど違わない。それにしても長い距離だ。この道をしかし、僕はまだ何回も通うことになる。

 アイリナからの呼び出しに、もうこうなったらどんなことが起ころうとも驚かないし慌てふためいて見苦しく取り乱したりはしないぞ、と自分に言い聞かせ…
 話を聞いて、僕は充分に慌てたし充分に取り乱した。申請時に提出した日本領事館からのレターの宛先がイスタンブールのアゼルバイジャン領事館宛に成っているということに対して、アンカラのアゼルバイジャン大使館がクレームを付けてきたというのだ。アンカラの日本大使館からアゼルバイジャン大使館宛のレターを取り直すように言われたという。無理だ。何時もそうなのだが、どうしてそう言う問題は発行日およびそれを過ぎてから判明するのだ。とにかく Elma としては通していた旅行社をキャンセルして、パスポートを引き揚げ、別の旅行社を通してイスタンブールで取ることが可能であるが、その為には翌週の木曜日(24日)まで待って欲しい、ウズベクはその翌日に成る、と言う。もしそんなことが可能なのならば、どうしてアンカラ云々という話に成った時点でそういう方向を探らなかったのか。
「ねぇ、アイリナ、僕は思うのだけれど、こういうのは僕にはとても理解できないし、こういったことは全て君達の会社の責任なんじゃないかな?」
「ねぇ、XXX(僕のファースト・ネーム)、私達としては一生懸命にやっているんだけれど、これが彼等のメンタリティーなの。私やあなたとは違うのよ。分かる?」
 アゼーリー(アゼルバイジャンの主要民族)とはトルコ系民族ではないのか。しかも幾つもに分けられるトルコ系言語の中でも共にトルメン語派系に属する、言ってみればトルコ共和国とは双生児みたいな民族関係ではないのか。であるにも関わらず、アイリナはアゼルバイジャンを“彼等”と呼び、アジアの反対側の国の人間である僕を“私達”に分類するのだ。やれやれ、世界はとんでもなく錯綜し歪んでいるようだ。
 僕は怒る気力も無く、トボトボと宿に帰って、力無くベッドに倒れ込んだ。夕方、電話でアゼルバイジャンをキャンセルする。いい加減うんざりだし、あまりに駆け足の移動に成ってしまうことに嫌気がさしたのだ。カフカスを無視してトルコからイランを抜けてトルクメンに入ろう。ウズベクだけなら週明け(21日)に取れると聞かされていた。イランVISA取得には1週間から10日掛かるという話だが、どの道マシュハドと出来ればコムだけ見られれば良いのだ。それにその間にトルクメンのVISAも取れる。本来イランのVISAを取る積りならパスポートをポールドされないのでウズベクと同時進行で取れた筈だということを考えると、どうにも苦々しいが。中央アジアへ行った後、ウズベクのタシケントで各国のVISAを整えて、闇両替の為に正規の4分の1で買えるというエア・チケット(ウズベク国内ではウズベク航空のチケットは外貨払いではなく、しかもバンク・レシートが要らない)でアゼルバイジャンに飛び、グルジア、アルメニアを旅してイスタンブールに戻る。いったい何度、入国指定日や曜日に悩まされながら大幅な予定変更を繰り返せば良いのだろう。
                                    ここのところイスタンブールはずっと天気が悪い。街ごと永久に
宿近くの路地:旧市街                     寒風と曇天の中に閉じ込められてしまったようだ。
b0049671_1132575.jpg 21日月曜日夕方、明日の午前中にトルクメニスタン領事館に提出するためのレターを日本領事館で書いて貰い、相変わらずの小雨の中、約束の時刻に Elma を訪ねる。こんなにも待ちに待ったウズベクのVISAを漸く手に出来るというのに、ちっとも気持ちは浮き立たない。むしろ天気と同じようにどんよりとしていて憂鬱だ。
「ご機嫌いかが?」飛び切りの笑顔でアイリナは言った。
その笑顔には何時もながら心奪われてしまうが、その言葉は僕にはブラック・ジョークにしか聞こえなかった。
「まあね」と答えて笑顔を作ろうとしたのだけれど、たぶん上手く出来ていない。
「そう、それは良かったわ」そう言う彼女の顔からは、だが既に笑顔は一片の破片さえも残さずに消えていた。
「あたしは今日もあまり元気じゃないのよ」皮肉とも取れる苦笑を浮かべた彼女は、受話器を取ってウズベク領事館に電話を掛ける。何事か語気きつく話をして受話器を置く。やれやれ、どっちにしてもあまり良い情報ではないらしい。彼女の言うには、今朝、確かに今日中という確認を取って領事館にパスポートを提出したのだが、大事な会議とかで明日に成ると今に成って領事館が言っているという。冗談じゃない。というか、こんな出来すぎた話、どんなに才能の無い通俗的なシナリオ・ライターだって書きはしない。

 僕はアッラーの神に何処までも見放されているようだ。確かにそちこちでジハードだと言ってテロを引き起こしているイスラーム原理主義には辟易しているけれど、アメリカがイラクに空爆した時(91年の湾岸戦争)にはアメリカを非難したし、ボスニアの時だってセルビアを非難したぞ。確かに僕はイスラエルに入国した事があるけれど、パレスチナに関しては一貫してイスラエルを非難し続けてきた。でもアッラーは冷たいみたいだ。(この旅は9.11テロの前年)
 流石に苦情を並べながらも、もう少しで大声で怒鳴り散らしそうに成るのを必死で押さえて、冷静を装おうとしていたがどうも上手くいかない。もし彼女が男なら、或いは愛想の無いおばちゃんだったなら、僕は間違い無く組んでいた脚で目の前の低いテーブルを蹴り上げていたに違いない。いっそ自嘲的に笑ってみたのだけれど、引き攣った笑いはともすると泣き顔に成りそうだった。しかもアイリナは、気の毒な迷子を宥めるかのような目で見詰めている。なんてことだ。
 イスタンブールに着いて既に20日が経とうとしている。なのに僕はまだたった1つのVISAさえも手に出来ていない。僕自身がこの寒風と曇天の中に永遠に囚われてしまったかのようだ。そしてアイリナは気の毒そうに、けれど決して責任は自分には無いと言う前提で、僕の目を同情を持って覗き込むのだ。
                                            そして不幸はまだ続く。翌火曜日、つまりVISAの
路地の子供達:旧市街                           下りる日の朝、パスポートのコピーを持って思い切っ
b0049671_11334921.jpgてイラン領事館に行ってみる。初めはパスポートを持って来いと言われるが、時間が無い由を告げると、その場で申請を許可してくれる。けれど次に来るのは10日後(3月3日:この年は閏年)だと言うので、お願いだから1週間後にと頼むと来週の木曜日(3月1日)と言い直してくれた。もう少しだと思い、勿論丁寧にそして下手に丁重に「月曜日になんとか」と行ってみた途端、アプリケーション・ホームを付き返してよこし、パスポートと一緒に出直して来いと言ったきり、彼はどんなに誤っても受け付けてくれようとはしなかった。確かに少ししつこかったかもしれないけれど、あんなに丁重にお願いしたのだ。なにも機嫌を損ねなくたって良いじゃないか。本当に全てをキャンセルして帰ってしまいたくなった。帰ったからって何かがどうにか成る訳ではないけれど、もう本当にこれ以上この街で頑張ることも、これを乗り越えて旅を続けることも、僕にはもうそんな気力は残ってはいないような気がした。
 昨日と同じ夕刻、街には小雪がちらつき始める。アイリナは領事館がダメだというのを押し切って5日間入国指定日を繰り下げたウズベキスタンVISAを取って来てくれた。今更たかが5日間、けれど今だからこそ僕にとってその5日間は有難くもあったのだ。いや、5日間でも繰り下げてくれた彼女の気持ちが。
 これでアイリナともお別れだ。
「Bon Voyage」と彼女は言った。勿論、最高の笑顔で。
 降る雪はこの先の新たなる苦難を暗示しているようでもある。けれど、こういうふうにも思われた。最後に成って降ったこの雪は、確実に1つのストーリーの終わりを象徴しているのだ、と。

[ 補足:旅の顛末 ]
 結局のところ、トルクメニスタンのトランジット・VISAとイラン、ウズベキスタンのVISAとを持ってイスタンブールを出発する。3月3日、イスタンブールに降り立ってからちょうど1ヶ月後の日だった。
 → イラン → トルクメニスタン(通過VISA延長) → ウズベキスタン(キルギスVISA取得) →
 キルギス(カザフスタン通過VISA取得、ウズベキスタンVISA申請) → カザフスタン →
 キルギス(ウズベキスタンVISA取得、カザフスタン通過VISA取得) ―(カザフスタン領通過)→
 ウズベキスタン(アゼルバイジャンVISA取得、グルジア複入国VISA取得) ―(飛行機)→ アゼルバイジャン →
 グルジア(アルメニアVISA取得) → アルメニア → グルジア → トルコ

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                                         金角湾と旧市街の夕陽:新市街ガラタ塔から
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by meiguanxi | 2006-11-05 11:37 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
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