ブハラ (ウズベキスタン) : 土色の街
[ 中央アジア略地図 ]
b0049671_43428100.jpg
    ミーリ・アラブ・マドラサ(神学校)    カラーン・ミナール(ミナレット)    カラーン・マスジディ(モスク)


 ヒヴァの街の城壁を出て、早朝のまだ真っ暗な路上で乗り合いワゴンを捜す。ところが車など殆ど動いていない。小1時間ほど歩き回った挙句、漸くウルゲンチ行きの乗り合いを見付ける。午前6時、押し黙った人々を乗せワゴンは走り出す。
 暫くは荒涼とした風景が続く。やがて緑豊かな耕作地帯に成る。キョネ・ウルゲンチからヒヴァに向かう途中、乗り換えの為にトルクメニスタン側のダシュホーズという都会を通過したが、それを除けばトルクメニスタンの首都 アシュガバートを出て以来、砂漠と荒涼とした土漠、そして時折の耕作地と小さな町しか見ていない目に、やがて近代的な都会が姿を現す。40分でウルゲンチに着く。
 トルクメニスタンの小さな町キョネ・ウルゲンチとは別の、ウズベキスタン側ホラズム地方最大の都会だ。バスターミナルの建物はまだ扉を閉ざしている。7時過ぎ、漸く私服の警備員が鍵を開けるが、窓口に職員が現れるまでには、更に1時間半も待たなければならなかった。

アルク(要塞)の門                                      アルクから見た絨毯バザール旧市街
b0049671_4355747.jpgb0049671_4363389.jpg


 ところが彼は言った。「ブハラへの便は無いよ」…この北部の街から南部の中心地帯へは、ブハラを通る道しか無い筈だ。西はアム・ダリア(大河)、その向こうはトルクメニスタン、東はキジル・クム(赤の砂漠)が広がる荒野なのだ。
 しかし結局、ブハラを通り更に南のカルシに行く夜行が午後2時にあるだけだった。仕方なく、チケットを取って安宿を捜す。そこは線路沿いの駅宿泊所の筈だったが、実際にはアパートのように使われている感があり、泊まれないと断られたのを強引に無理を言ってバスの時間まで1ドル程で借り、仮眠する。
 ウルゲンチを出たバスはアム・ダリアを遡り、一旦、何故かトルクメニスタンのチェック・ポストを通る。地図で見る限り国境は迂回している筈なのだが、良く事情は飲み込めない。兎に角、唯一の第三国人である僕だけが、詰め所に連れて行かれ、パスポートのチェックを受ける。アシュガバートで延長したトランジットのヴィザは当然切れていて不安だったが、問題無し。

アブドゥルアジズ・ハーン・マドラサ       カラーン・ミナール(上部)                チャール・ミナール
b0049671_4372380.jpgb0049671_438272.jpg
b0049671_4385161.jpg

 アム・ダリアの堤防(堰)を対岸に渡る。ここから路は果てしない土漠に入る。行けども行けども、何も無い。やがて陽が沈む。ガイドブックには8~9時間とある。しかし、夜23時、バスは荒野の一軒家に停まる。食事休憩だ。言葉の通じない運転手に、ブハラ到着時間を訊いてみるが、埒は明かない。
 午前1時、降ろされたのは何も無い交差点。本当に何も無い。ただ真っ暗な荒野が広がっているだけなのだ。運転手はここがブハラだと言う。ターミナルへは行かないらしい。どうやら、この交差点から街を迂回して南に進むようだ。従って、ここで降りるしかない。しかし、自分のいる場所の見当さえもつかない。後で分かったことだが、そこは街から5km離れたバスターミナルの、更に北にある交差点だったのだ。
 タクシーのドライバーが寄って来る。言葉は通じない。目的の広場の名前を言ってみる。勿論、吹っ掛けられる。他の客達はどんどん去って行く。タクシーの台数はそう多くは無い。かなり不利な状況だ。何しろ距離も分からないのだ。それでも何とか納得できる料金まで下げさせる。ついでに宿を捜すことを条件にする。高級ホテルに泊まる積りなど無い旅行者にとって、この辺りでは殆どの場合、民宿を捜すしか方法は無い。いわゆる安宿といったものは殆ど無い。こんな時間に、看板を掛けているわけでもない民宿など、独りで捜せるわけはないのだ。

イスマイール・サーマーニー廟(内部)                                   ハウズと呼ばれる溜池
b0049671_4393534.jpgb0049671_440566.jpg


 土色の街、ブハラ。実はこの街はタジク人の街だ。コーカンなどフェルガナ盆地の町と、サマルカンドやブハラなどのウズベク南部の町には、トルコ系のウズベク人とイラン系のタジク人がもともと渾然と生活していた。それが、ソ連時代初期、中央アジアを5つの民族共和国に分ける際、ホジャンド地区以外の全てをウズベキスタンに編入させてしまったのだ。ウズベキスタン政府は現在、彼らをタジク人とは認めていない。公式にはタジク化したウズベク人ということに成っている。領土問題を避ける為だ。

ナディル・ディワンベギ・マドラサ     民族衣装の少女(ハウズの畔にて)         バラ・ハウズのマスジディ
b0049671_4405444.jpgb0049671_4412489.jpg
b0049671_442885.jpg

 中世の町並みを残したこの街の旧市街は、ヒヴァと同じくそれ自体が美術館のようだが、この街の素晴らしさは、庶民の生活と歴史的建造物が渾然と溶け合っていることだ。例えば僕が宿泊した家は、上の写真のリャビ・ハウズ(溜池)に面してある。そして、このハウズは2つのマドラサ(神学校)と1つのハーンカー(キャラバンサライ)に囲まれている。自室の窓景が既に中世の世界なのだ。
 左上の写真のナディル・ディワンベギ・マドラサもハウズに面している。このファザードには、不死鳥と人間の顔をした太陽のモザイクが施されている。偶像を排するイスラームにあっては、殆どあり得ない珍しいものだ。サマルカンド のシール・ダール・マドラサにはライオンと人間の顔の太陽が描かれれいるが、知る限りでは他にこのような具象の文様は無い。

b0049671_4425685.jpg
     ターキ・ザルガラーンの夕景(16世紀のバザール:ターキはバザールの意のタークに接尾語 i を伴った形)
[PR]
by meiguanxi | 2007-01-11 23:32 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜] | Comments(2)
Commented by orientlibrary at 2007-01-15 23:42
ブハラ、、すご〜く惹かれる街です。『聖なるブハラ』という映画を、昔見たのがウズベキスタンに興味を持つきっかけです。ゆっくり滞在して、ブラブラ歩きたいなあ。旧市街や古い住居に、どっぷり浸りたいです。
一番上の写真、夜に見るとこんな感じなんですね。見てみたい。
18世紀くらいまで、すごく豊かな街だった様子、昔の写真や貴族の衣装や持ち物から想像します。サマルカンドみたいにピカピカに修復せずに、中世の雰囲気を漂わせていて欲しいな〜。。
Commented by meiguanxi at 2007-01-16 02:00
あれ? ブハラには行ったことが無かったんでしたっけ?
もちろん修復は進んじゃってるんですが、サマルカンドと違って何もかも青ー!という感じではないし、サマルカンドは都会の中にイスラム建築が遺跡的、もっと言うと観光スポット的に存在している感があるあるのと違って、ブハラの場合にはもう少し生活の場といった面持ちがあります。しかもサマルカンドのように点在しているのではなく、まとまってかなり広い範囲が全部そんな感じの建物なんです。ヒヴァの場合にはちょっとテーマパーク的な感じがするきらいもあるんですが、ブハラはもっと自然です。3段目のアブドゥルアジズ・ハーン・マドラサはもう1つ別のマドラサと向かい合わせなんですが、これなんか、少なくとも2000年には殆ど修復されていず、近所のガキっちょどもがファザードの段差に登ったりして遊んでました。
ただ、夜は早い時間に人通りが無くなるし、真っ暗なので女性の一人歩きは少し怖いかもしれませんよ。
<< ラダックのゴンパ #Ⅰ(インド... カラ・カルパクスタン : (ウ... >>