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アルゲ・バム(イラン):泥の町・失われた遺跡
 イランで日本人学生が誘拐されて以来、検索でこのページを見て下さる方が増えているようです。そこで是非、報道では語られていない旅行事情についてもご理解頂きたく、一時的に追記します。
 彼の通ったルート、つまりパキスタンのクエッタからイランのザヘダンというコースは決して特異なものではなく、陸路で西を目指す場合、シベリア鉄道を除けばアフガニスタンへの旧ソ連進軍の後は長らく唯一のルートでした。現在では中央アジアを通過するルートが可能ですが、今でもそちらの方が珍しいでしょう。彼の通った国境は、日本人を含む多くの個人旅行者が毎日のように通過している場所であるのです。
 次に、イランは一般犯罪という点では至って治安の良い国であり、多くの旅行者が口を揃えることですが、一般的にイラン人は旅行者に非常に親切であり友好的です。更に付け加えるならば、バムの遺跡はこの地域に旅行したのなら外すことの出来ない文化遺産です。
 解って頂きたいのは、彼はアフガンやイラクに行ってしまうのと同じような意味では、決して無謀な危険地志向を持っていた訳ではなく、また他の旅行者に比べて注意が足りなかった訳でもないのだろう、ということです。
 返す返すも 9.11 以後の世界の在り様が残念でなりません。                         (2007.10.13)


2008.6.15.追記)  2008.6.14. 彼が漸く解放されたというニュースが入りました。本当に良かった。旅人が自由に、安全に国境を渡っていける世界であってほしいと心から思います。

[ 西アジア略地図 ]
アルゲ・バム(イラン):泥の町・失われた遺跡_b0049671_5101882.jpg
                                                     城砦から俯瞰したアルゲ・バム

 始めに断ってしまうが、このページに掲載した写真の風景は既に、この地球上から永遠に失われてしまった。

城砦
アルゲ・バム(イラン):泥の町・失われた遺跡_b0049671_5113665.jpg 僕がイラン東部のバムという小さな町を訪れた1992年には、日本ではイランに関する個人旅行向けのガイドブックがまだ存在していなかった。旅行人の 『アジア横断』 が出版されたのが98年、『地球の歩き方・イラン編』 は更に後になる。アジアを陸路で西に渡る日本人旅行者の間では 『イランへの道』 という手書きのコピー冊子が「流通」していた。売られているものではなく、パキスタンやインド、或いはトルコで旅行者から旅行者へと手渡された。その度に旅した人の情報が書き加えられ増殖した。だから元は同じでもその内容はそれそれで違っていたのだと思う。僕も見せてもらったことはあるのだが、残念ながらこの時、それを入手することは出来なかった。手
                                              元にあったのは lonely planet 社の
城砦内の厩(うまや)                                 『West Asia』、いわゆる survival kit の
アルゲ・バム(イラン):泥の町・失われた遺跡_b0049671_5121525.jpg西アジア編だったが、これにもバムに関する情報は記載されていなかった。
 しかしどうしてもこの町、いやこの遺跡だけは外せない想いでいた。ペルセポリスやエスファハンのイマーム広場 (参照12) よりも、なんとしてもこの遺跡を見たかったのだ。いや、そこに立ってみたかった。僕がこの遺跡の存在を知ったのは、NHK(日本放送出版協会)刊 『シルクロード ローマへの道 第八巻 コーランの世界 イラン・イラク』(1983年初版)による。1980年にセンセーションを巻き起こした石坂浩二ナレーションによるシリーズの関連本だ。番組も見たのだと思うのだが、中国領(甘粛省および新疆ウイグル自治区)のシリーズ以外、記憶が定かでない。ただ、このシリーズ本の何冊かを、大学時代に手放した記憶がある。『コーランの世界』 は、イランへ行くに当っての資料として購入したものだった。

 バムの遺跡(アルゲ・バム)に色はない。総てが日干し煉瓦と泥だけでできた土色の世界だ。直径約1km周囲3kmの城壁に囲まれたこの遺跡は、イラン南東部の砂漠の沈黙の中に佇んでいる。
 その歴史は紀元前にまで遡るそうだが、ここに初めて城塞が築かれたのはササン朝ペルシャ(A.D.226~651)の時代。度重なる戦火で破壊と建設が繰り返され、現在残っているものはサファヴィー朝の17世紀の物だと言う。城壁の中には、城と高官の居所、兵舎、商業地区や住宅地区などが整備され、モスクやキャラバン・サライもあった。中央アジア一帯では良く見られる設備だが、山裾から引いたカナートという地下水路も整備されていた。この要塞都市は軍事的側面ばかりではなく、東西交易の要衝でもあったのだ。高さ40m程の城の背後には川が流れていた跡があるが、今は涸れてしまっている。
 18世紀前半、アフガン人の侵攻で打撃を受け、町は放棄される。一説によるとその後、19世紀初頭の水不足が町を完全に打ち捨てさせた最終的な原因だとも言う。完全に放棄されて200年、これだけの泥の町がほぼ原型を留めていたのは、もちろん極端に少ない降水量のためでもあるのだが、人々の生活はそう楽なものではなかったのかもしれない。
 現在のバムの町は、遺跡の南西に広がっている。ナツメヤシが生い茂る美しいオアシス都市で、人口は周辺を含めて12万5千。

民家                                                               厩の内部
アルゲ・バム(イラン):泥の町・失われた遺跡_b0049671_5125895.jpgアルゲ・バム(イラン):泥の町・失われた遺跡_b0049671_513326.jpg


 僕がこの遺跡を訪れた1992年には入り口で暇そうな管理人に入場料を払うだけで自由に歩き回れたし、城壁に登ることも出来た。観光客も殆どいなかった。少なくともイスラム革命後にはそもそも外国人旅行者の少ないイランにあっても、当時の知名度は更に低かったのだろう。しかしその後、整備された順路に沿った見学しか出来なく成ったようだ。この遺跡が圧倒的な迫力で迫ってきたのは、城以外には殆ど修復されていない、まさに廃墟、死の町といった面持ちだった。泥の家屋に挟まれた狭い小道を歩いていると、ついその先の角から顔中に立派な髭を蓄えた当時のイラン人の男がひょいと出て来るような、或いは笑い声と理解できない言語で囁き合う家族のざわめきが玄関の奥から聞こえたような、そんな錯覚にふと陥ってしまったりしたものだ。
 だがその後の写真を見ると、修復が進み小奇麗に成ってしまい、地下に立派なチャイ・ハネ(茶店)まで出来たようだ。石の建造物と違って泥であるから、修復は復元というに近い方法になってしまう。仕方がないこととは言え、惜しい気がして成らない。
 と、思っていた。

バザール通り                                      2003年12月、この地方を大きな地震が襲
アルゲ・バム(イラン):泥の町・失われた遺跡_b0049671_5145424.jpgう。マグニチュード6.6、震源は市街地から10数km。震度は中程度だったというが、遺跡同様、今でも日干し煉瓦構造の家屋が圧倒的だった町はあまりにも大きな被害を被る。建造物の60~80%が倒壊し、死亡者は人口の実に 3分の1 に当たる4万3千人。殆どが建造物の倒壊によるものだ。
 勿論、アルゲ・バムの被害も甚大だった。幾つかの画像を見る限りでは、遺跡は無残なほど壊滅的な打撃を被ったようだ。修復された建造物のほぼ100%、全遺跡の80%が崩れ落ちたという。これを受けてユネスコはアルゲ・バムを世界遺産と同時に危機遺産に指定する。修復の為には日本も貢献し、特にNHKが嘗て撮影した空中撮影映像は大きな資料
                                              になっているという。復元的修復には否定的
モスク                                          なのだが、今回ばかりは修復はされるべきだ
アルゲ・バム(イラン):泥の町・失われた遺跡_b0049671_5153629.jpgし、その為の協力は賞賛されるべきだ。
 少しく話は反れるが、彼らが必要としているものは核兵器でも空爆でもなく、町の経済が復興することであり、世界中から多くの人がこの遺跡を訪れることだろう。
 だがそれは別の話として、それは資料としての貴重さは測り知れなく、また訪れる者を古の世界に誘(いざな)う魅力をも回復するだろうが、しかしそれでも修復されてしまったものには当時の威厳が失われるだろうことは、残念ながら確かなのだろう。
 ここに掲載した僅かばかりの稚拙な写真は、現在web上で見られるアルゲ・バムの画像の中でも、最も古い姿のひとつだろうと思われる。

アルゲ・バム(イラン):泥の町・失われた遺跡_b0049671_516856.jpg
                                                        城壁から城砦を遠望する
by meiguanxi | 2007-02-27 23:37 | 絲綢之路Ⅲ[西亜] | Comments(4)
Commented by orientlibrary at 2007-02-28 10:00
貴重な写真を見せていただいてうれしいです。ほんとうにイランの土の建築文化、ここに極まる、といった感じのところですね。土色の町は、幻想的でさえあります。現在か、古代か、いや未来か、、わからない。。

でもイランも地震の多い土地柄、今後どういうかたちで、受け継がれていくのか気になります。住んでいる人の安全が第一ですものね。でもコンクリートの街が安全かというと、災害で起きることには100%はないし、なんとも言えないという気も、、

修復が進んでいるという話しは伝え聞きます。観光観光しないバムに一度行ってみたいです。それにしても、旅行は都合をつけて、とにかく行くべきだなあと思うし、早い方がいい、と思う場所が多いですよね。すごい勢いで変わっていきますし、、
Commented by meiguanxi at 2007-03-01 01:49
確かにイランは地震多発国であるのだけれど、でも同じ場所でそうしょっちゅう起こる訳ではないでうからね。バムの遺跡だってこれまで残ってきたのは少なくともそんなに激しい地震はこの間に無かったからだし。でも、これから町を再建するに当たっては、やっぱり日干し煉瓦構造はマズイですよね。少なくとも行政的にはそれはやっぱりマズイです。ただ、それとは別の意味で、ちょっと残念ではあるのですけどね、こういう建築文化が失われてしまうのは。
バムに関してはもっと良い写真を掲載しているページもあるので、検索してみて下さい。ただ、90年代後半以後2003年までの写真では随分、復元修復が進んでいたようですけど。
近いうちに、今現在生きている泥の町をUPしますね。
Commented by lunablanca at 2007-03-02 20:54 x
いや~感動的に美しいです。日干し煉瓦の町が1992年までこの状態で残っていたっていうほうが奇跡だって気がします。
Commented by meiguanxi at 2007-03-02 23:31
被害に遭った現地の人達にはもう言葉も無いけど、僕は倒壊する前のこの遺跡を、しかもまだ復元修復が進む前に見ることができて、本当にラッキーだったと思うし幸せだったって思う。
流石にこんな感じではないけど、イランでは未だに日干し煉瓦が中心の町や村があるんですよ。なにしろ乾燥地帯で樹木が乏しいからね。上にも書いたけれど、そのうち、今も人々が生活している泥の町を紹介しますね。
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