ボーテン / 磨憨 : 激変する中国・ラオス国境
[ 北部ラオ周辺略地図 ]
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                                       磨憨からラオ国境への道(1999年撮影:以下同)

 別の記事でも書いたが、僕が毎年のように数ヶ月の旅をしていた80年代終盤から90年代初頭、インドシナ半島の国々の国境は悉く閉ざされていたし、それのみか個人でその国内を自由気儘に旅行することすらできなかった。
 その意味で、タイを除けば中国雲南省南部の西双版納(シーサンパンナ)州はインドシナの空気を感じることができる特別な場所だった。ただしそこはどん詰まりであり、その先は何処の国にも出られない。中国国内の別の場所に抜けるしかなかった。ビルマ(ミャンマーという現在の国名は軍事独裁政権によるものなので、敢えてこう呼ぶ)だったかラオスだったか、越境しようとした学生が公安(中国の警察)に捕まり強制送還させられるといった事件も起きたりしていた。

ボーテンのイミグレ(右)(道の向こうが磨憨)                   さて、ラオスである。始めに断っておくが、英
b0049671_23363458.jpg語表記では Laos だが自称の発音は国名・主要民族名とも“ラオ”であるので、以後、ラオスではなくラオと表記する。
 ラオが外国人に対する旅行制限を解除したのは94年のことだそうだ。同時にこの90年代中葉以後、この地域の国境が次々に開放されることになる。だが、手元にある96年12月初版の旅行人のガイドブック 『メコンの国』 には、「ある県を出て他の県に到着したら、警察(イミグレ)に行き(…中略…)入国カードにスタンプを押してもらわなければならない」 との記載がある。同じようなシステムは嘗てのイランにもあった。僕が初めてラオを訪れた99年にはこの制度が実際に残っていたのだが、2000年に再訪した時には警察に行った記憶が無い。この時代、旅行事情にはまだ急速な
                                              変化の名残があったのだろう。ところがその
ボーテンの国境マーケット                             変化は実は、今また別の形で押し寄せている
b0049671_23372465.jpgようなのだ。

 西双版納州の州都・景洪からラオへの起点となる勐腊(モンラ)という街へ初めてルートを採った99年1月には、その途中に勐養(モンヤン)と基諾(ジヌォ)という2つの田舎町を訪ね歩いたのだが、本来はこちらが本道だった。細い山道を登り下りすること193km、移動時間を合計すると走行時間は7時間になる。ところが翌年8月、景洪からの直行バスに乗ると、その時間は1時間程の休憩を含めて5時間20分だった。実は、有名な観光地である橄榄壩(カンランパ : 別名を勐罕=モンハン)を通る新道ができ、171kmに短縮されていたのだ。
 手元に現地で入手した88年版と98年版の
                                               『雲南省交通図』 という一枚地図がある。88
国境マーケットの商店・竹壁の奥は飯屋                    年版では景洪から30数kmの橄榄壩は行き
b0049671_23381435.jpg止まりであり、その先には瀾滄江(ランツァンジィァン:メコン川)がラオス・ビルマ国境に向かって流れているだけだ。98年版では道は勐腊への旧道の途中に繋がってはいるが、やはり幹線道路の表記は旧道になっている。ところがこの新道、付近の遠々と続く田園と熱帯雨林という風景の中にあって、その近代的な様は異様としか言い様の無いほどに不均衡に映る代物だった。

 さて、勐腊は比較的大きな街だが、ここに見るべきものは無い。因みに前出の88年版地図ではこの街はやはり行き止まりで、迂回して景洪方面に戻る道が記されているだけだ。だが勿論、今は道は先に伸びている。長途汽車站(バス・ターミナル)から自転車人力車で10分、約2kmほどで町外れの中巴汽車站(ミニバス発着所)。ただの未舗装の広場だ。ここでワゴンのバスに乗り換えて50数km、2時間ほどで終点に着く。
 ほんの小さな町、むしろ村と言った方が正確な磨憨(モーハン)の町の、閑散とした1本道を暫く歩くと広場に出る。数十軒の小さな店が並ぶバザールだが、人通りは殆ど無く、やはり閑散としている。このバザールの突き当たりに1軒の飯屋があり、そこがゲストハウス。大概の旅行者はこの閑散としたバザールで1泊することになる。
 この広場突き当たりの角から細い道が小川沿いに熱帯雨林の中に伸びている。だが、勝手にノコノコと歩いて行くことは出来ない。広場から道への進入口に1棟の建物がある。中国側のイミグレーションだ。本当の国境線は道の先の森林の中にある。出国手続きを終え、前に停まっている軽トラック(荷台にシートを置いた、6人程度乗れば満員になるような小さなもの)で2km程の山道を行く。
 森林が突然大きく開けると、そこがボーテン。集落と言うほどのものは無いのだが、ラオ側のイミグレーションがある場所だ。その向かいにはかなり大きな未舗装の広場があり、国境マーケットに成っている。磨憨のマーケットよりも開けた感じがするが、やはり人出は少なく、閑散としている。バスはイミグレーション脇の駐車場から出るが、時刻表があるわけでもチケット売り場があるわけでもない。国境を朝の裡に越えて待っていればやがて、運が悪くとも数時間後にはバスか大型のトラックバスがやって来る。行き先は運転手に訊ねるしかないのだが。
 バスで19km、道は北のポンサリー方面、西のルアンナムター、フェイサイ方面、南のウドンサイ(ムアンサイ)、ルアンパバン(ルアンバルバン)、首都ヴィエンチャン方面に分かれる。その交差点付近の集落では、何時も民族衣装のモン族の姿を見ることができる。道はどちらに向かっても山岳少数民族の領域を走ることになる。

バンナモ付近のモン族                     さてところで、2006年12月、タイとラオの国境を流れるメコンに
b0049671_2339543.jpg第2国際橋が掛けられた。第1橋はラオの首都ヴィエンチャンとタイ東北のノーンカイを渡すものだが、今回掛けられたのはラオ第2の都市で中部のサワンナケートとタイ東部ムクダハンを繋ぐものだ。これによって既に完成していたヴェトナム沿岸地域までのハイウェイとタイが結ばれたことになる(東西経済回廊)。さらにヴェトナム側でこの道は北に向かえば2005年に完成した中国へのハイウェイに繋がる。
 そして今年2007年には南北経済回廊が開通しようとしている。まさに雲南省の省都・昆明から磨憨 / ボーテン、ビエンチャン /
ノーンカイからバンコックを結ぶ動脈だ。いや、もちろん道はあった。実際に僕が2回通っている。だが、今回はその道が圧倒的に整備全線開通しようとしているのだ。更には北西部のフェイサイからタイ北部のチェンコンへのハイウェイも整備されているという。チェンコンのルートを通れば、タイからラオを抜けて雲南国境まで3・4時間で結ばれるという。

 この磨憨やボーテンも様相を大きく変えようとしているようだ。事実、あの殺風景で閑散としていたボーテンの国境マーケットに、中国資本の高級ホテルが開業したのだそうだ。しかもそこでは中国語しか通じず、流通する通貨も中国元のみ。先ごろ放送されたNHKの取材によると、中国から大量の物資と資本と人がラオに
                                  流れ込んでいるという。その中には安価な中国製既製服も含まれる。少数民族の暮らしは大きく変化しつつあるようだ。
 あの、どうやっても発展など夢のまた夢と思われたラオの発展のチャンスはラオ人と共に喜びたいのだが、果たして本当に彼等の為の彼等による発展になるのか否か、他人事ながら疑心暗鬼に苛まれてもいる。中国はあまりに大きく、そしてその資本力は強い。ラオはあまりに小さく、そして資本というものを殆ど持っていないのだ。何時かラオが実質的に「老撾省」のように成ってしまう日が、自給自足の生活をしていた少数民族達が資本の下で貧しいまま過酷な労働に明け暮れなければならない日が、来るのではないかと。いや、それは直ぐそこに迫っているのかもしれない。勿論、穿った杞憂であるのなら、それに越したことは無いのだが。


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                                                       バンナモ付近のモン族
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by meiguanxi | 2007-04-24 00:48 | メコン流域 | Comments(0)
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