from Leh : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #2
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                       2007年7月6日~7日

この手紙の続き

 それにしてもトレイルを踏み外すとか落石に当たるとか、馬に突き飛ばされるとか子供を助けようとして怪我をしたとかならまだ格好もつくが、幾ら丸まった危険な石が使われていたとはいえ、ゴンパの石段で躓いて足首を痛めたのだとあってはどうにも間抜けだ。しかもトレッキングの最中に、こんなにも隔絶された場所で。
 怪我をした翌日、ゴンパのキャンプ地に泊まっていたドイツ人カップルが、続いて200m下にキャンプを張っていた例のオランダ人婦人たちが相次いで僕に声を掛けてテントの前を通り過ぎて行った。僕は1人でテントも持たずに歩いていたコロンビア人の姿が見えないことを気にしていた。彼は頑強そうに見えたが、厳しいトレイルにかなり参っているように見えたからだ。
                                               だが気にすべきは自分の足と今後だった。
リンシェット村入口峠のチョルテン                         この日はとにかく停滞にして、キャンプ下の細
b0049671_10404750.jpgい用水で足を冷やしたり、向かいの婆さんの家に上がり込んだりして過ごす。この家は面白い構造をしていて、おそらくチベットでは珍しくはないのだが、2階の中央部分が屋上のように成っていて、片側のひさしの下に釜戸まどがる。屋上だから土間なのだが、この青天井が彼女の居間兼食堂でもあるらしかった。汚いと言えば確かに汚い。だが彼女自身もその服も埃だらけで真っ黒なのだ。
 午後、馬方のトゥクテンが僕のテントに来る。彼には取り合えず4・5日は動けないと伝えてあったのだが、彼はもう1頭馬を雇ってはどうかと提案に来たのだ。言い忘れていたが、彼は基本的には英語は話せない。幾つかの簡単な単語を並べるだけの会話だ。馬に乗る、それは僕も考えていたことではあった。だがこれは後で分かったことなのだが、彼には僕とのトレッキングを15日に終えた後、23日にはまたラマユルからの新しいトレッキングの予定が入っていた。そのためにはザンスカールの中心パドゥムから7kmの彼の村を、17日には馬を連れて出なければならなかったのだ。僕としては日程を延ばしたくはなかったが、パドゥム以後、その西側を歩く予定の6日間をキャンセルすればなんとかなるかもしないと考えていた。勿論、念願のカルシャの祭りはこの際、もう無理だと諦めていた。だがそれにしても雨で既に1日失い、今日で2日目の停滞だった。
 夕方、僕は馬を雇うことを決める。今日が6日、車の通るザンラまで3日、上手くすればその日のうちにパドゥムまでのジープなりを見つけられるかもしれない。病院に行って、もし骨に問題が無ければ11・12日のカルシャの祭りに間に合うかもしれない。勿論、その間の村は飛ばしてしまうことになるが、それはこの際やむを得ない。やれやれ、諦めが悪いのだ。
 しかし実際には足の状態は非常に宜しくなかった。足を冷やしに用水まで行くのにも、5mほど斜面を下ればよい所を右に20m、左に同じ距離といった具合に迂回しなければならなかった。食事の仕度のためや飲料水を沸かすための水を汲みに行く場所はテントから20mほど斜面を登った所にあったが、この足でそこへ行くためには70mくらいは歩かなければならなかった。それらの行為は非常に困難で、そして疲労を伴うことだった。歩いて峠を越えることはもとより、数日間馬に乗るなどということも今は避けるべきなのかもしれない。もし出来るのであれば。
                                               夜、トゥクテンが渋い顔をしてやって来た。
リンシェット・ゴンパ(左上)とテント                        彼は妹の旦那の実家(それは数百m先に見
b0049671_10413278.jpgえる隣家だった)に馬を借りに行ったのだが、その馬には先に予定があるらしく2日間しか借りられないという。その馬を曳く馬方は彼の若い甥が勤めてくれるらしいが、3日目の1日を掛けてこの村に戻らなければならないのだと。この村で他の馬を探せるのかどうか、それについてはコミュニケーションが上手く取れないので分からない。とにかく今は、この馬しか僕のために動いてくれる馬を見付けられない。やれやれ、この先2日間のキャンプ地は村ですらないのだ。だがトゥクテンは3日目は峠も無いフラットな路なので、荷物を1頭の馬に載せてもう1頭に僕を乗せるから大丈夫だと言う。とにかく僕には、回復するかどうか定かではない数日をここで無為に過ごすか、或いは2日先のカルカでしかない場所に向けて進むしかないのだ。
 翌朝、何時ものように5時半に目覚める。間もなくトゥクテンがまたもや渋い顔でやって来る。おはようを言うなり次の言葉が「プロブレム」だった。なんとしたことか、未明に彼の連れて来た2頭の馬のうちの1頭が子供を産んだというのだ。妊娠していたことはラマユルで見た時から知っていた。いつ生まれるのかとの問いに、彼はちゃんとした回答をせずに困ったような表情をしていた。英語が上手く通じないのか、或いはまだ先のことではっきりしないのかだと僕は思っていた。だがその少し困ったような曖昧な表情は、今日明日にでも生まれてもおかしくないという意味だったのだ。やれやれ、僕はレーの町でちゃんとしたエイジェンシーを通して馬と馬方とを手配したのだ。その辺の路上でそこらの農家に声を掛けた訳ではない。何故トレッキング中に子供が生まれてしまうような馬が準備されなければならないのだ。或いは僕はエイジェントに確認するべきだったのだろうか。「その馬は妊娠なんかしてないですよね?」と…やれやれ
 トゥクテンは「ディス・トレッキング・ヴェリー・プロブレム」と言った。確かに怪我をしてしまったのは完璧に僕のミスだ。だが馬が子供を産むに至っては、彼がそれを言うのはどんなものなのだろう。だが僕は黙っていた。生まれてしまったものはここで文句を言っても何かがどうにか成るわけではないのだ。今日は出発できないのかという僕の問いに、彼はただ渋い顔で困ったように首を振るばかりではっきりした答えを出さない。
 馬は30mほど斜面を登った彼の妹の家の前の囲いにいる筈だった。僕は100mくらい迂回してゆっくりとそこまで登ってみた。なるほどそこには生まれたばかりで、まだしっかりと立っていることすら覚束ないような子馬が、母馬の乳を探してヨチヨチしていた。今日は駄目なのだな、と僕は静かに思った。そうなると親戚の馬も使えないということになる。仕方なく子馬の写真など撮ろうとしていると突然、トゥクテンが言った。「Go!」
                                               どうも上手く言葉が通じないというのは戸惑
リンシェット村の民家の屋上兼居間                       うことが多い。何を彼の親戚たちと相談したの
b0049671_10421471.jpgか、彼はいきなり出発すると言い出したのだ。そして僕の返事を聞くこともなく、2頭の彼の馬と子馬、親戚から借りた新しい馬を斜面に追い立ててテントの方に下りて行ってしまった。僕が呆気にとられながらも、また100mの踏跡を迂回して下に降りた時には、既に荷造りが始まっていた。僕は痛む足を庇いながら大慌てでテントを畳む。子馬は親馬に駆けられた袋の中に、4足を縛られて入れられた。まるでカンガルーの子状態だ。でなくとも2頭の馬では厳しいくらいの荷物だった上に子馬だ。2頭の馬、特に子供を乗せた方ではない方の馬の荷物は大変なものになった。
 僕の乗る馬は白馬だった。ちゃんと鐙(あぶみ)も付いていたが、鞍は木製で、その盛り上がった前の部分を掴むようになっている。正直に言って不安定だ。僕は椎名誠ではないのだ。馬などに日頃乗りつけている訳ではない。出発して直ぐに荷馬が荷崩れをおこした。僕の馬を曳く若い馬方は曳綱を僕に預けると、荷直しをするトゥクテンを手伝いに行った。そんな物を預けられても僕は馬上で、しかも飛び降りることも儘ならぬ怪我人なのだ。やれやれ。
 路はこれまでよりも遥かに厳しいように思われた。村を出る最初の小さな峠、といってもかなり高いのだが、その峠の下りに差し掛かった時、僕は思わず「インポッシブル!」と叫んだ。下りでは腰を前にずらし、上体を後ろに反らして垂直を保つ。右手で鞍を握り、身体が前にのめらないように左手でその右手を突っ張る。これは教えられたことではなく、そうしないことにはバランスを保てないのだ。
 馬方の若者は「ノープロブレム」と言う。しかし、もしこれがプロブレムでないとするならプロブレムとはいったいどのような状況を言うのか。後ろに反らせた僕の背中は馬のそれにくっ付かんばかりで、馬の頭はほぼ垂直に前方に傾いていた。その先には少なくとも数百mの断崖。あまりに斜度がきつ過ぎて下が見えない程だ。僕は荷物ではないのだから、馬に括り付けられている訳ではない。実際、馬は幾度も足を滑らせた。馬が滑落することはなくとも、僕がバランスを、不幸なことに谷川に崩したなら、自力で元に戻ることはとても不可能に思えた。
 真っ当な神経なら降りて歩くべきだし、この恐怖心を素直に受け入れて降りることが冷静な理性というものだ。この状況でなお馬上に留まることは、むしろ狂気の沙汰であるように思われる。僕は馬に乗って出発したことを早くも後悔していた。僕がそれでも馬上に留まったのは、もちろん自力では歩けないからに他ならない。他に選択肢が無かったのだ。もし性格の悪い神が、もう1度だけたった1時間で良いからあの路を馬に乗ることと、今後1年間の通勤に一切の乗り物を使わないこととどちらかを選択せよと命じたのならば、僕は躊躇無く1年間歩くことを選ぶ。確かに僕は多少高所恐怖症の気はあるが、これは僕が非常に臆病者だからではなく、馬で通るには本当に生きた心地のしない路だったのだ。
                                               峠を下り切ると直ぐに次の登りが始まる。大
リンシェット村の子供                                 きな砂山で、もちろん危険極まりない路だ。ト
b0049671_7264912.jpgレイルの幅は20~30cm、山側・谷側両方の殆ど踏まれていない部分を含めたとしても精々40~50cm程度で、トレイル自体が谷側に傾いている。その大きな峠を下り切った所に小さな沢が流れていて、直ぐにまた登りになる。これが4750mの峠への登りだ。とにかく上っては激しく下り、下ってはひたすた登るというのがこの日のルートだった。
 頂上付近から振り返ると、うねうねと続く山並みの遥か遠くに、リンシェットのゴンパと村の緑が小さく見える。なんていう路なんだ、とつくずく思い知らされる。
 風と揺れとに堪えながら頂上を目指していると、その頂上からこちらにカメラを向けている西洋人がいる。やれやれ、格好の被写体になってしまった。と、登っていくとそのカメラを構えていたのはあのオランダ人婦人たちではないか。彼女たちは余りの路の厳しさに、前の沢で1泊したのだという。彼女たちは2人の他にガイドとキッチンボーイ、馬方3人と7頭の馬という大編成なのだが、もし僕があの狭い谷に馬方と2人でテントを張ったのなら、淋しさの余り泣き出してしまったかもしれない。西洋人のおばさんはひたすらに明るく、そしてどこまでも強いのだ。
 峠は登りから1歩を踏み出せば向こう側の断崖という鋭角な場所で、高齢の方の婦人は岩陰で強風に堪えるようにしながら、ドライ・アプリコットを差し出してくれた。オランダから持ってきた貴重なものだ。どんなに辞退しても、スペシャル・ヴィタミンだからもっと食べろと言ってきかない。そういう自分が風に震えているのだ。そう、この日は曇りがちの1日で、陽が射せばあれほど肌を焼く気候が、一旦曇るとそれなりの服を着ていても震えるほどに冷え込む。写真を送るからと彼女たちは僕の住所を訊いた。今夜のキャンプ地は僕より少し先のようだった。
 彼女たちに別れを告げて峠を下り始める。彼女たちに会ったことで僕は少し元気を取り戻していた。下りはもちろん厳しかったけれど、しかし、僕にとって現実的な危険と本当の意味での危機は、このような危うい路にあるのではなかったのだ。 (つづく
[PR]
by meiguanxi | 2007-07-25 20:02 | Air Mail
<< from Leh : 満身創痍... from Leh : 満身創痍... >>