from Tokyo : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #6
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                     2007年7月10日~19日

その1
その2
その3
その4
その5の続き

 翌朝8時過ぎ、遅れているバスの到着を待つ僕は、トゥクテンと馬たちを見送った。穏やかな路とはいえ、彼等はこれから28kmを歩いて行くのだ。30分遅れて来たバスは出発の時点で既に満席に近かったが、進むにつれ多くの乗客を乗せた。車内は人が折り重なり、押し合い圧し合いの大騒ぎで、座っている僕の膝の上にはヤクの子供が頭を乗せていた。乗り込んできた時に心配したのだが案の定、子ヤクはバスの中で糞をしてしまう。僕のトレッキング・シューズのすぐ横に、下痢気味の糞が落ちた。
 2001年初版のガイドブックではパドゥムの町は急速に北に広がっているとあったが、既に町の中心は北側の新市街に移っていた。とはいっても三叉路の周辺に商店が集中しているだけで、旧市街に向かう路を除けば50mほどで町は終わってしまう。旧市街への路も賑やかななのはせいぜい100mまでだ。三叉路の直ぐ側に、300ルピーを250ルピーに負けてもらって宿をとる。少し高いが、痛む足で大きな荷物を背負って、幾つかの宿を比較して回ることは不可能だった。
                                               病院は町の中心の宿から150mか200m
パドゥムの旧市街                                   ほど外れたところにあった。大きな敷地の政
b0049671_821730.jpg府系病院だ。既に病院の中は沢山の患者や付き添いの人達でごった返している。外国の病院に行った場合、とりあえずそこのシステムを理解するのに苦労することになる。まあ、とにかくすったもんだの末、漸く診察になる。足首の患部を触診したドクターは、骨は折れていないと断言した。数日は安静にして足を高くして寝るようにと言って、痛み止めと消炎剤とをくれた。胸や腰、背中の痛みについても問題無いと言った。足の骨に関しては僕も同じ意見だったが、それ以外については少し違う感想を持った。自慢ではないが僕はそちらこちら何回も骨折したことがあるのだ。その経験からして肋骨や腰椎がちょっと折れた程度では人間は歩けなくなったりしないし、折ってしまった後には死ぬほどの痛みを感じたりしないのだということを知っていた。僕が心配だったのはその折れ方で、例えば肋骨が肺を圧迫していたり、腰椎が後遺症を残すことにならないかということだった。だがドクターは、もし問題があるのならそんな風に歩いたり動いたりできないだろうと言って笑った。
 診察はそれで終わった。レントゲンは無いらしい。僕としては幾許かの不安を感じはしたが、彼の言葉は少なくとも僕の期待に沿うものだった。そして何より、足を怪我して5日、落馬して3日、こうして生きて歩いている。大丈夫だ。これでカルシャに行ける、僕はそう思った。
 この町はザンスカールからラダックに戻るためのバスが発着する場所なので、また戻って来ることになる。今は無理をして観光しなくても良かった。旧市街は1kmほど北にあり、その後ろの岩山にゴンパがある。そこまで往復した後は宿でのんびりと過ごした。夕方、ビールが呑みたくなり、幾つかの商店を探してみたが見当たらない。この辺りの一般のレストランでは酒は出さない。実は三叉路の近くに小さなバーがあって酒はそこで呑めたのだが、見付けることがことができなかったのだ。三叉路に「Tourist Complex 1.5km」という看板があった。そしてそこには「Bar」の文字が。この足で1.5kmを歩くのにいったい何十分掛るのか、少し絶望的な気分だったが僕は歩き出していた。どうしてもビールが呑みたかったのだ。一応舗装がしてあったり壊れていたりといった農道のような路を、ポプラの枝を杖に歩いた。遠い山裾にへばりつくようにカルシャのゴンパが見える。気が付くと1.5km先のピピティンという村まで来てしまっていたが、目的のトゥーリスト・コンプレックスは見付けられず、夕方の水を運ぶ子供達と話をしながら町に戻る。辺りはすっかり暗く成っていた。
 町の200mほど手前に、テント・ホテルがあった。レストランの標識もある。レストラン・テントに入ってみると中年の西欧人夫婦が、お茶を飲みながら現地人と話をしていた。僕はビールを注文し、彼等と話をした。現地人はこのテント・ホテルのオーナーで、西洋人はオランダ人だった。やれやれ、またオランダ人だ。僕はことの経過を話し、オランダ人婦人達に世話に成ったことを話した。風は冷たかったが、空は満天の星だった。僕は10日振りのビールに、すっかり幸せな気分でその空を見上げていた。
                                               ところでこの日、2つのことが分かった。カル
カルシャ・グストル(カルシャ・ゴンパの祭りの仮面舞踏)          シャの祭りは1日延期になっていた。詳しいこ
b0049671_8241920.jpgとは分からなかったが、レー或いはラダックの何処かの高僧が亡くなったとかの影響らしかった。もうひとつはカルシャへの公式なバスは夕方の4時に1本あるだけだということだった。だが、トゥクテンとは3時に約束している。なんとかジープを捕まえてそれまでに行かなければならない。僅か6kmだが、ユニオンの行程価格は300ルピーもする。だがそれは仕方が無い。どうも原油の高騰は、航空運賃の燃油チャージだけではなく、こんな山の中でも僕等のような決して裕福ではない旅をする者に負担を迫っているようだった。
 翌日の午前中、僕は三叉路付近で飯屋を探していた。ホテル併設のレストランで食べても良かったのがだ、町中の普通の飯屋で食事がしたかったのだ。すると誰かが僕の肩を掴む。振り向くとトゥクテンだった。
 彼は馬を連れていなかった。乗合ジープで来たのだと言う。僕は既に怒る気力を失っていた。既に彼は来てしまったのだ。勿論、彼の村まで7kmなのだし、祭りが1日延期になったので明後日まで僕はカルシャにいる訳だから、戻って馬を連れて来いと言うことはできたのかもしれないが。僕は彼を宿のレストランに連れて行った。考えてみれば彼はザンラで、「5時にカルシャに行く」と言ったのだ。おそらくパドゥムからのバスの時間を知っていたのだろう。ザンスカールを走るミニバスは2本しか無い。1本はパドゥムからザンスカール川右岸を北へザンラまで、もう1本は川を渡ってカルシャから左岸を北西に向かう。どちらも朝はパドゥムに向かい、同じバスが夕方下って行くのだ。
 それに、彼は馬を3頭持っていると言ったのだが、考えてみればもしそうとしたなら何故わざわざ妊娠している馬を連れて来たのか。3頭は持っていないか、或いはもう1頭は連れて来られない状況にあるかのどちらかなのだ。彼は初めから馬を連れてくる意思は無かったのだ。勿論、母馬を残して1頭だけ連れて来ることは可能だったが、ザンラへの路で僕が母馬に乗った時にでさえ、僕の乗った馬にも彼のテントやストーブやその他諸々の用具が乗せられていたのだ。つまり、僕の食料が減ったとはいえ、どうやっても1頭では無理なのだ。おそらく彼は、僕の足ではどのみちトレッキングは無理だろうと判断しもしたのだろう。
 僕は彼にチャイを勧めながら静かに訊いた。「最後に1つだけ教えて欲しいんだ。何故、馬を連れて来なかったんだ?」 彼は僕の質問の「何故」という言葉を口の中で反芻した。そして「No understand」と言って難しい表情の顔を横に振った。勿論、馬を連れて来なかった理由が分からないと言ったのではなく、「何故」という単語が理解できないと言ったのだ。僕は「理由を知りたいんだ」と言い直した。彼は「理由」という単語を反芻した。「No understand」 確かに彼は基本的には英語を話せない。しかしこれまでそれなりのコミュニケーションを取ってきたのだ。僕は質問をやめた。「これでカルシャの後は何処にも行けなくなった訳だ」と僕は呟いた。「By jeep, go」と彼は言った。外国人は際限無く金を使えるとでも思っているのだろうか。
 その日の午後、僕達はジープをチャーターしてカルシャに向かった。僕には不思議だった。確かに彼は僕の荷物を運び、ジープを探してくれた。だが、例え大変でもそれだけなら僕にでもできる。カルシャでは3泊することになるが、その間、彼にはやるべきことは何も無い。勿論、馬を連れて来ていてもそれは同じだが、少なくともそれにはその後の移動の待機という意味がある。しかし3日後、彼は僕の荷物をバスに載せ、バスから宿に運ぶだけのためにその3日間を待つのだ。いったいこの人は何のためにパドゥムに来たのだろう。
                                               カルシャのキャンプはとある民家の庭で、門
カルシャ・グストル                                   と仕切りのある気持ちの良い草地だった。と
b0049671_8284968.jpgころがそこにいた先客は、あのオランダ人婦人達だったのだ。彼女達は僕達の到着を歓迎し、キッチンボーイにお茶とスープを入れさせ、病院での診察結果を熱心に聞いた。僕は、もうこれでいいのかな、という気持ちに成っていた。あのリンシェットで怪我をした直後に彼女達に世話に成り、ここまでの路々何回か会い、その度に気遣ってもらった。ザンラに向けて出発する日、彼女達は対岸の路を別の村に向かった。本当なら僕はそこに寄ってからザンラに回る予定だった村だ。その時、カルシャで会おうと言った彼女達との「maybe」であった約束が、こうして果たされたのだ。ここで良いのかも知れない。ここを最後にして良いのかも知れない。いずれにせよ馬が無い以上、僕はここから先へは進めない訳だが、これで良いのかも知れないと思っていた。その夜、午前3時、ヘミスで聞いたものと同じような管楽器の音がゴンパから聞こえた。低く重いその単調な音は夜中の静けさを乱すというよりは、その静けさと暗さとを包み込むように鳴り響いていた。
 3日後の早朝、カルシャから直接1泊2日掛けてジープでレーに向かうオランダ人婦人たちを見送った時、パドゥムへのバスは8時にカルシャを通るとキャンプ地の主人は教えてくれた。トゥクテンはバスは9時だから8時半にテントに来ると言っていた。彼はゴンパの僧房に泊まっていたのだ。僕は慌ててテントをたたみ、馬方が来たら食料などの荷物の入った2つのバッグと灯油タンクを渡してくれと主人に頼み、ザックを背負いサブザックを抱え杖を突きながらバスストップに歩いた。バスの停まる村外れのチョルテン(ストゥーパ)には学校へ向かう子供や数人の尼僧、そのほか沢山の人達がバスを待っていた。だがバスは遅れていた。8時過ぎ、大慌ての様子でトゥクテンが駆け下りて来た。かれはバスの様子を見に村の下の方に歩いて行ったが、そのまま暫く戻って来なかった。その間に何台ものジープや軽トラが通っては人々を満載してパドゥムに向かって行った。僕は荷物を背負って駆け乗ることはできない。
 やがて1時間近く送れたバスがチョルテンの角にやって来て、そのドアからトゥクテンが飛び降りる。満員の人々を乗せたバスは停まることなく、待っていた人々の前を通過した。「No seat」とトゥクテンが言った。彼が言うには、バスは一旦パドゥムに行ってからもう一度戻って来るらしい。祭りの次の日で今日は特別なのかもしれない。その後も2台ほどのジープが通ったがトゥクテンは運転手に何か話し掛けるだけで、「ダメだ」といった表情で僕の方に首を振るだけだった。他の人達が乗り込むのが早過ぎるのだ。彼は諦めて1mほど高くなった草地に座りこんだ。その数十分後、やって来た軽トラに向かって僕は走り出した。勿論ザックを背負いサブザックを抱えて足を引き摺っているのだから、その歩みは亀のようだ。だが出だしは他の人達よりも早かった。トゥクテンが慌てて僕の方に駆け寄ってくる。僕は運転手に聞く前に荷物を荷台に放り込んだ。他の人達は既に乗り込んでいる。自分で、動かなければダメなのだ。僕は旅を、しているのだ。そんなことを思っていた。
 パドゥムに帰り着き、宿のレストランでトゥクテンに最後の食事を奢った。レストランはポーランド人の団体に占拠されたような状態で、注文のフライド・ライスが出てくるまでに1時間も掛かった。その間、僕達はティーポットで注文したチャイを呑んで待った。トゥクテンは僕と顔を合わせないようにしているようだった。こちらから話し掛けることにポツポツと答えるだけで、すぐにあらぬ方向を向いてしまったり地元の人と話始めたりした。最後の別れの言葉は既に部屋で済ませていたし、僕としても何を話したものか困っていた。食事が済んでしまうと僕はもう一度、彼に別れと礼とを言って握手をしその場を離れた。16日間の契約の14日目だ。2週間一緒に旅をし、そして世話になった人との分かれとしては、あまりに素っ気無い瞬間だった。
                                               パドゥムからレーへの直行バスは、町に戻
ドゥルン・ドゥン氷河(パドゥム―カルギル間のバス車窓)          って2日目の夕方に到着したが、翌日の客が
b0049671_8313085.jpg集まらないという理由で出発は4日目の早朝4時になった。午前4時に出発し午後の6時にカルギルに到着、翌日の4時半に再出発する。僕はレーまで62km手前のサスポルという村に入る手前で途中下車した。村まで2kmほどのその場所に、インダス川を渡る橋がある。その橋を渡って4kmでアルチという集落に着く。チベット仏教美術ではあまりにも有名なゴンパのある村だ。僕は13年前にそこを訪れていたのだが、もう一度その壁画や塑像を見たかった。本来は更にこの10kmほど手前のウレ・トクポという集落で降りる予定だったのだが、見たかったマンギュというゴンパまではインダスを渡った集落から6km歩かなければならず、諦めてパスしたのだ。アルチなら橋からヒッチができるかもしれない。実際、登りのきつい途中の2kmは砂運搬のトラックに乗せてもらえた。
 ほんの小さな村は以前とは違って随分観光化されていた。1日中、レーからのジープが西洋人グループを連れて来ては戻っていく。アルチ・チョスコル・ゴンパは撮影禁止になっていたし管理をしている僧は非常に感じが悪かったが、以前は情報が無かった為に見ることのなかったドゥジェチェンポ・ゴンパの素晴らしい壁画を見ることができ、僕は上機嫌だった。この村に2泊して洗濯などをした。安宿だったが宿の庭はガーデン・テラスになっていて、そこで満天の星を眺めながら呑むビールは最高で、危うく足の怪我や落馬のことなど忘れてしまいそうになった。2本呑んだ後で、今日は特別にもう1本呑んじゃおうかなと思った時、上の方から誰かの笑い声が聞こえたような気がした。その声のした方を見上げると、そこには庭の横の高く細いポプラの木の上で、まるで箒の先のようにそこにだけ茂った葉が風に揺れていた。ふと目の端に眩しいものを感じる。少し身を乗り出して木の向こうの隣の家の壁の脇を覗くと、空の非常に低い所に、しかし明るくしっかりした月が出ていた。下弦の月だ。デリーからの夜行バスで見て以来、実に久し振りの月だった。                (つづく
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by meiguanxi | 2007-08-15 10:06 | Air Mail
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