from Tokyo : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #7
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                       2007年7月20日~

その1
その2
その3
その4
その5
その6の続き

 ひとつのゴンパと石窟を見るためにアルチからのミニ・バスを対岸のサスポルで途中下車し1泊、更に翌日はバスゴという小さな村で下りて岩山の上のゴンパを見学した後、何処かからやって来た大型バスに乗り込んでレーに辿り着いた。7月21日。22日振りのレーだ。足を傷めてから実に16日が経っていた。
                                               病院で安心と今後の旅の方針のためにレン
ニダプク(サスポル村の石窟)                           トゲンを撮ってもらう。だが、足首の骨は折れ
b0049671_8373424.jpgていたのだ。メインの骨ではなく、膝から伸びて足首で外踝(くるぶし)を形成する骨だ。折れていたのはその踝で、写真では少しずれているように見えた。医者は僕の足を石膏で固めたが、明日からは歩いても良いと言った。石膏さえ固まってしまえば問題無いということだ。ポプラの枝を杖にして石膏で固めた足を上げて片足だけで撥ねるように歩いていた僕に、ネット屋の青年が彼が嘗て腰を傷めた時に使った物だと言って松葉杖をくれた。
 町でとある西洋人の男に声を掛けられた。彼とはアルチに向かう橋で会ったのだ。僕がそこで途中下車した時、彼はそこでバスかヒッチできる車を待っていた。僕のバスからはもう一人、途中のラマユル(僕がトレッキングを開始した村だ)から乗り込んで来た西欧人女性が降りていた。彼女は現地人のガイドを連れており、やはりそこで車を待つと言った。他にも何人か、現地の人達がそこにはいた。だが歩き出した僕を見て、彼等も歩き出した。もちろん怪我をしている僕はすぐに彼等に抜かれてしまう。やがて後ろから1台のトラックが来た。停めようと思ったのだが上手くいかない。前を歩いていたガイドを連れた西欧人女性も、その前を歩いていたこの西欧人男性も停められなかった。だが先頭を歩いていた僧侶が停めた。仏教徒の地域なのだ。後ろを歩いていた全員がトラックに向かって走り、全員が荷台に積まれた砂の上に乗り込んだ。走れない僕だけが取り残された。冷たい連中だなぁと僕は独り言を呟いたが、何故かそれで良いような気もした。この足を引き摺ってでもアルチに行くと決めたのは僕なのだ。幸い、その5分後に別のトラックに僕は拾われたのだったが。
                                               そして彼とはアルチの村で少し話をし、更に
バスゴ村のゴンパ                                  僕がサスポルで降りたバスで彼はレーに戻っ
b0049671_8414170.jpgていた。松葉杖を付き、足を石膏で固められた僕を見て彼は驚いた。「どうしたんだ?!」 「いやぁ、2週間前にリンシェットのゴンパの石段で滑ってね、足首を折っちゃったんだ。リンシェットは知ってる?」 彼は少し混乱しているようだった「ちょっと待って。2週間前って、それはどういう意味?」 僕は丁寧にことの次第を説明した。アルチで会った時、彼は僕が足を引き摺っている理由を訊かなかったのだ。僕も説明はしなかったし、アルチやラダックの話をするのにそんなことは必要ではなかった。彼はその時に僕の怪我に気付かず、助けになれなかったことを詫びた。仕方無いのだ。自分自身でさえ骨折を知らなかったのだから。
 「あなたは強い人だ」と彼は言った。もちろん英語なのだが、その「you」は確かに「あなた」という響きだった。だが、僕は穴にでも入りたい気持ちだった。実はその言葉はカルシャのゴンパで、あのオランダ人夫婦の夫人(パドゥムでビールを呑んだ時にいたオランダ人だ)にも言われた言葉だった。大きく腫れ、内出血で変色した僕の足を見て彼女は、「赤や緑や紫や、物凄いカラフルな足ね」と笑った。祭りの始まりを待つゴンパの境内でのことだ。「そうだろ、まるで曼荼羅みたいだ」と僕は言った。彼女は面白そうに一頻り笑った後に言ったのだ、「あなたは強い人だわ」と。
 レーでの話しに戻る。僕は西洋人青年に言った。「ねえ、僕はミスを犯しただけだよ。そして選択肢が無かっただけなんだ。僕はちっとも強くなんかないし、一人では何も出来なかったんだ」 そう、僕はあの時、一人では何もできなかったのだ。そしてトゥクテンたちに助けられて先に進むこと以外に選択肢が無かっただけなのだ。
 1週間後、医者に言われたように再度病院に行ってみると、「何処に行っても構わないが、後2・3週間は石膏は外せない」と医者は言った。僕はお願いしてもう一度レントゲンを撮ってもらった。前の時には前方からの写真で骨折が分かったのだが、横からの写真では太いメインの骨が邪魔して良く分からなかった。写真が明る過ぎたのだ。ところが今回の写真で見ると、骨折部は上下だけではなく前後にもずれている。医者は「問題ない。良く成っている」と言った。
 僕はそのままバス・スタントに向かった。勿論、彼とは違う感想を持ったからだ。レーからバスで2泊3日、デリーに早朝着いて宿を取り、そのままエア・インディアのオフィスに向かった。バンコックへの帰路はその日の便に変更できた。当日深夜、バンコックに到着。
 帰国したのはレーで2度目のレントゲンを撮ってからちょうど1週間後だった。土曜日だったので週明けを待って病院へ。医師は手術するかどうか暫し悩み込んだ。骨折2週間以内だったら、或いは僕がもう少し若かったら確実に手術を勧めると医者は言った。足首の関節は凹凸の関係になっている。足の甲が凹で、これに凸である脚のメインの骨が嵌っているのだ。この凹の一部を成しているのが折れた外踝で、これが外側にずれてしまっているために結果的に関節が開いてしまっているというのだ。要するに凹の幅が広く成ってしまった訳だ。だが既に骨はほとんど固まってしまっていた。これから手術してもう一度骨を切り離し金属で止める場合、一応松葉杖が取れるまでに2ヶ月。既に骨折部を新しい骨が包み込んでいる状態では、骨盤から骨を移植する可能性も含めてどこまで元に戻せるか疑問が残るという。要するに自信が無いという訳だ。足専門の整形外科医がそういうのだから、確かに難しいのだろう。手術しなくとも東京で普通に生活する分には傍目にも分からないように回復するそうだ。ただ、ヒマラヤとかに行っちゃう人だというのが引っ掛かるんですよね、と医者は言った。
 僕はアスリートではないし、若者でもない。2ヶ月を無駄にできるほど裕福でもない。将来的には関節の変形や関節炎を引き起こす可能性があるそうだが、取り合えず、このまま直してしまうことにする。やれやれ、だがきっと、それもそんなに遠くない時期に、僕はまたヒマラヤ地域に行くことになるのだろうと思うのだが。
                                               レーでの僕はルーフトップ・レストランに毎晩
レーのメイン・バザールと王宮                           通っていた。レー・ゴンパの隣の平屋の屋上
b0049671_8445474.jpgレストランで、レーのレストランにしては珍しくビールを大っぴらに呑むことができた。トレッキング出発前も帰ってきてからも、僕は毎晩ここでビールを2本呑むのが日課だった。1本100ルピー、約300円だ。インドでのビールは恐ろしく高い。しかもレーは何でも高いのだ。
 最後の晩、何時ものようにビールを呑み月を眺めながら、僕はカルシャでの最後の晩のことを思い出していた。オランダ人婦人達が彼女達の食堂テント(豪勢なトレッキングではそういうものがあるのだ)から出て来て、「今日もヌードル?」と僕のコッヘルを覗き込んだ。その晩は最後のキャンプだったので、僕は豪勢な料理を作ったのだ。残っていた食用油をふんだんに使って、オニオン・フライとフレンチ・フライド・ポテトを作った。大蒜で玉葱を炒め、村で買ったトマトを入れて煮込みトマトソースを作り、その中に網で焼いた餅を入れスライス・チーズを乗せて煮込む。餅のピザ風煮込みだ。「まあ、美味しそうだこと!」と彼女達は大袈裟に驚いたが、彼女達は何時もかなり美味しそうな贅沢な食事をしていた。「さあXX」と彼女は僕の名前を呼んだ。「今日は最後のお祝いよ」と言って彼女達は僕にチョコレート・ケーキを差し出した。彼女達のトレッキングではこんなものまで出来てしまうのだ。
 その夜、眠ろうとしていた僕のテントに彼女達が訪ねて来た。僕達は出会ってから今日までのことをひとしきり話した。「あなたの2度目のアクシデントの時、眠ろうとしても、もう心配で心配で、全然眠れなかったのよ」と彼女達は言った。あの落馬した日だ。その晩はキャンプ地が違ったのだ。「でもこうしてカルシャにまで来られて、本当に良かった」
 いや、僕がこうしてここまで来られたのは、彼女達のお陰でもあるのだ。実際に彼女達が僕にしてくれたことは、或いはそんなに多くはないのかもしれない。しかしもしあの日、彼女たちに出会わなければ、そしてその後の路で彼女たちに力を貰わなければ、僕はカルシャに来て祭りを見ることはできなかったのではないかと思う。確かにあの状況では先に進むしか無かった。だからいずれにしてもパドゥムには着いただろう。だが、きっとその時には全ての気力を使い切っていたに違いない。病院に行き、或いはそのまま数万円の料金を支払ってジープでレーに戻ったのかもしれない。そしてこのトレッキングはただの失敗の苦く虚しい記憶になってしまったのかもしれない。「あなたたちに会えたことで、僕は心を強く保つことができたんです」と僕は言った。「でもね」と彼女達は言った。「タイミング良くあなたと出会えたことは、私たちにとってもラッキーだったのよ。それで凄く幸せな気持ちに成れたのだから」
                                               そんなことを思い出しながらビールを飲んだ
ルーフトップ・レストランからの王宮                        レーでの最後の晩のレストランでの話しだ。
b0049671_8492134.jpg僕は少し感傷的になっていたのだろう。4人いるウエイターたちに僅かずつのチップを渡した。彼等は何時も僕を気遣ってくれたし、親切にしてくれたのだ。店を出ると、彼等は階下まで僕を追いかけて来た。彼等は幾度か階段の上り下りを手伝ってくれていたのだが、何回目かの時、一人の方が安全だと思うからと手助けを断っていたのだ。彼等は追いかけて来て、そこに整列して僕に挨拶した。そして僕にビールを1本手渡してくれた。僕が彼等に渡したチップは僅かな額でしかないし、ビールの1本は彼等にとってはきっと贅沢過ぎる飲み物である筈だ。「また来年!」と彼等は言った。もちろん来年は僕がここに来ないだろうことを、彼等も僕も知っている。だが僕は
                                              「ああ、来年ね、maybe」と答えた。

  ☆

 僕は敢えてこの文章の最後の部分の時間を前後させて書いた。一旦東京まで持って来てからカルシャの話を後ろに回した。勿論それはオランダ婦人達との出会いが僕にとってとても大きなことだったからからなのだが、本来ならこの最後の部分は馬方との別れを書くべき場所の筈だ。そうできなかったことは僕と彼にとってとても不幸なことなのかもしれない。だがひとつ断って置きたいのだが、彼は基本的には一生懸命に仕事をしてくれる、性格的にもイイ奴なのだ。おそらく、僕と出会ってしまったこと、僕が怪我をしてしまったことは、彼にとっても非常に不幸なできごとだったのだ。僕は彼のことをこの文書でヒールのように書いてしまったかもしれない。もしこの文章を読んで彼に良く無い印象を持った人がいるとしたら、それはこの文章を書いた僕の卑小さのためた。或いは逆に、彼への僕の態度や感情に美しくないものを感じた人がいるかもしれない。けれどそういう部分も書かなければあの日々の記録にはならないのだ。僕と別れた後、彼は西欧人とのトレッキングに出掛けた筈だ。それが彼にとって良い仕事であったのなら、と思わずにいられない。
 最後に、心配をお掛けした皆さんにお詫びすると同時に、自分本位な長い文章に最後まで付き合ってくださった皆さんに心からお礼を申し上げたい。ありがとう。                                             (完)
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by meiguanxi | 2007-08-17 08:53 | Air Mail
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