ディヤルバクル(トルコ): クルド人問題を巡って
[ 西アジア略地図 ]

 トルコという国を3回訪れている。1回目は僕にとって始めての異国の街であったパリから崩壊前のユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを経由してイスタンブールに入った。当初の予定ではそこからギリシャに列車で抜ける予定だったのだが、5日間滞在するうちに奥地に行きたいという欲求を押さえられなくなり、その都度次の町だけを決めて長距離バスに乗りふらふらと東に向かった。結局はイランとの国境に近い最東端の町、ドウバヤジットまで行ってしまったものだ。ところが、この時の写真が殆ど無い。
 今では旅に出るとそれなりの量の写真を撮ってくるようになったが、旅を始めた頃はそうではなかった。ひとつの町で2・3枚という場合も少なくない。今に成ってみると勿体無かったような気もするが、当時はある意味でそれで充分だったのかもしれない。写真を残すために旅行するのではなく、旅することそれ自体のために旅をしていたように思う。勿論、デジカメなど存在しなかった時代であり、写真に多くを費やす金が無かったというのも事実だ。また嵩張るフィルムを持ち歩きたくなったという事情もあったのだろう。そんな訳で1989年初頭に訪れたこのディヤルバクルの写真も殆ど無い。

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 トルコ東南部に位置するディヤルバクルはいわゆるクルディスタンと呼ばれる地域に属し、トルコ共和国に住むクルド人の中心的な街だ。旧市街を取り囲む5.5kmにも及ぶ城壁は、古い部分はローマ時代に遡るという。街の脇にはかのチグリス川が流れ、嘗てはこの川を使ってバクダッドまで交易がなされていたのだそうだ。もともとこの地域を含め東アナトリア地方はいわゆる歴史的アルメニアの土地だが、第1時世界大戦時のオスマン・トルコによるアルメニア人のシリアへの強制移住とそれに伴ういわゆる大量虐殺によって、この地域からは少なくとも殆どの正教徒であるアルメニア人は姿を消した。あまり知られていないことだが、欧州列強による分割の脅威に晒されていた当時のトルコにあって、このアルメニア人虐殺にはクルド人も関わっていたのだ。
 その後、第一次世界大戦によって敗北したオスマン・トルコを欧州列強が解体させる際、この地域のクルド人を独立させるという条約が一度は結ばれながら、イギリスとフランスによる中東分割統治(植民地化)によって、今のイラクやシリア、ヨルダンなどの国境線が引かれた。またトルコ本土も分割の危機にあった。
 こうした中、トルコの父と謳われるケマル・アタチュルクによってトルコ共和国が建国され、危機を乗り切ることになる。クルド人はこの建国に貢献したのであったが、だがこの建国の過程は列強への対抗と独立保持という目的から、トルコの民族的ナショナリズムが高揚する過程でもあった。建国後、共和国政府は少数民族に対し同化政策を執る。トルコ国内に居住する者はトルコ人ということだ。現実的にはこれがトルコ政府が国内の少数民族の存在自体を認めないという結果をもたらす。クルド人達は公式の場でのクルド語の使用もアイデンティティの表明も認められず、民族的抑圧を強いられることになる。
 僕が訪れた当時、ディヤルバクルを含むトルコ東南部地域には非常事態宣言が出ていた。僕がクルド問題を最初に意識したのは、クルド人映画監督ユルマズ・ギュネイが牢獄からの指示で撮った 『路 YOL 』 を観た時だったと記憶している。この旅に出る数年前のことだ。日本で公開された1985年の前年、彼は亡命先で亡くなっている。実はトルコでは1980年に軍による無血クーデターとそれに続くトルコ民族主義色の濃い共和国憲法の制定により、クルド人への迫害はより厳しいものになっていた。彼が死んだ同じ年、トルコではクルド労働者党(PKK)が結成され、分離独立を求めてゲリラ活動を開始する。こうした中、1987年に東南部地域が非常事態宣言による統制化に置かれることになったのだ。
 しかし一方でこの問題はEU加盟を目指すトルコ政府にとってはネックでもある。同じ年、トルコは正式にEUへの加盟申請を出しているのだ。1999年、PKKは戦闘の停止を宣言し、非常事態宣言が解除されたのは2002年のことだ。この頃からトルコ政府によるクルド人に対する政策は幾分か軟化することになる。
 ところが、だ。2003年のアメリカとイギリスなどによるイラク攻撃は事態を複雑にさせる。イラク北部に於けるクルド人自治政府の存在だ。イラク戦争後のイラクに於けるクルド人地域は相当の自治権を有することになり、また外国資本の流入もあって嘗て無い活況を呈している。当然ながらこの自治区は北辺でトルコと国境を接している。これがトルコ国内のクルド人の分離独立の気運を再燃させることになる。イラク北部に拠点を移したPKKはトルコ軍へのゲリラ攻撃を再開し、多くのトルコ軍兵士が死亡するに至って国内ではトルコの民族主義が高揚する。ディヤルバクルの街ではクルド人によるデモ隊と警察が衝突を繰り返す。そして2007年10月、トルコ政府はイラク領内への越境攻撃を国会で承認させた。
 イラク戦争に於いてイラクのクルド人自治区を利用し、一方ではトルコに基地を置き今でも燃料などの補給にトルコ領を頼っているアメリカとしては頭の痛い問題だ。だが、アメリカの立場などはどうなろうと知ったことではない。

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 僕は憂鬱なのだ。勿論、僕の憂鬱などそれこそ知ったこではないと言われるのが落ちではあるのだが。人口3000万とも4000万とも言われる決して少数ではないひとつの民族が、トルコ・イラン・イラク・シリア・アルメニアなどに分断され自らの国家を持たないというのは、少なくとも現状の世界の在り方としては不公平であろうし、それぞれの国で虐げられているとするならば独立への希求も当然のことだろう。だが、パレスチナやチベットなどに於ける問題のようには単純ではない。そもそもいわゆるクルディスタンと呼ばれる地域の住民は古来クルド人だけであった訳ではなく、この地域の民族構成はモザイク状態だ。
 現状では考え難いが仮にトランス・クルディスタンといった国家がこの地域に出来たのだとしたら、それはまた新たなナショナリズムと民族浄化とを生む可能性とを否定できるのだろうか。一方、例えばトルコのクルド人とイランのクルド人とでは意思疎通ができないほどに言語の差異があるのだそうだ。そもそも既に近代以前にトルコとペルシャによって分断されてもいた。石油を産する一部の地域を除き、決して裕福とは言えない状態で、地域間格差とそれに伴う抗争とを回避しうる民主主義が成熟するまでにどれほどの時間が必要なのだろうか。
 僕はとにかくナショナリズムというものが嫌いだ。だが、ある国家に於いて主要民族の利害とナショナリズムとによって虐げられた少数民族が独立を求める場合、どうしてもその過程は非抑圧民族がナショナリズムを高揚させる過程とパラレルだ。思うのだが、全ての民族が必ずしもそれぞれひとつの国家を運営する必要などはない。そんなことをしたら世界中が極小極貧国家群の乱立で収拾が付かなくなるだろう。そしてそれぞれが周辺からの軍事的、経済的、或いは文化的侵略の危惧からからの要請としてナショナリズムを高揚させるなら、出口は力尽くの抑圧でしかなくなるだろう。また、ひとつの民族が複数の国家に別れて存在していることが必ずしも不幸であるわけではない。問題は、それぞれの属する国に於ける状況である筈だ。
 そもそも民族というのは何か実体のようなものではない。それは例えば言語や文化、宗教や身体的特徴、或いは遺伝的系譜等、どれをしても括れる概念ではない。ただひとつ、アイデンティティによってのみ語られうるものだ。しかし、だからそんなものに執着するなと言っているのではない。おそらくそうした言説は、少なくともそれだけではトルコに於ける同化政策がそうであるように、優位な勢力に利用される結果に終わる。
 憂鬱ではあるが話をトルコに戻そう。トルコに於けるクルド人の割合は全人口の4分の1 にも達するという。第一次大戦後の列強によるオスマン・トルコ分割植民地化という危機が迫っていた時、ケマル・アタチュルクによる共和国建国に力を尽くしたのはトルコ民族だけではない。先にも述べたようにアルメニア人虐殺に加担したのでもあるが、クルド人は建国にも尽力したのだ。
 例えばトルコに於いて、それぞれの民族を尊重した民主主義の成熟とか共存・共生の概念の共有とか、そういった方向へ問題を止揚する為に必要な条件とは、いったいどのようなものなのだろう。少なくともどちらの側のものであっても、民族主義がその解決に道を付けるものではないことだけは確かだ。
 しかしこう書いても更に憂鬱だ。この文章はクルドの独立を阻みたい各国の支配民族にとって結果的には痛くも痒くもない。ナショナリズムへの危惧が先行するあまり、各国で不利益を被り続ける人達のそれ自体正当な独立への希求に対して、あまりに否定的であるという謗りを免れないだろう。
 日本からは遠い地域での関係の無い国での問題に見えるかもしれない。だが日本政府のトルコに於けるクルド人問題に対する姿勢は、トルコ政府の意向をそのまま反映させたもになっている。UNHCR(国連難民高等弁務官)が難民認定したクルド人に対してさえ、迫害は無いとして日本政府は国外退去を命じる始末だ。
 ディヤルバクルを訪れた時、城壁の外の狭い裏道をチグリス川に向かっていると、幼い子供たちが石を投げつけてきたものだ。この街では子供に石を投げられることがあるというのは有名な話だった。あれから19年近くの時が流れた。先日、NHK 『新シルクロード』 という番組で、ディヤルバクルでのデモで顔面を負傷したクルド人青年が映し出されていた。もしかしたら、彼は僕に無邪気に石を投げていた、或いは道案内をしてくれた子供たちと同じ世代なのかもしれない。
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by meiguanxi | 2007-11-02 22:02 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
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