クチャ (東トルキスタン): 田舎町の大バザールと、民族問題と旅行者と
b0049671_231029.jpg
                                                           ナン売りの少女

 トルファン からバスで1日半、途中コルラ付近で一泊して翌日の午後、シルクロード天山南路中程の町クチャ(庫車)に着く。いや、今では鉄道はコルラからカシュガルまで伸びたのだが、それは1999年のこと。僕がこの町を訪れた90年と93年当時には、荒涼とした岩山を縫い土漠をひた走るバスしかなかったし、それも1日に1本でしかなかった。

近郊の景観                            河西回廊を抜けるとシルクロードはタリム盆地に入る。その平
b0049671_2314732.jpg地の大半は世界第2位の広さを有するタクラマカン砂漠だ。長安(現在の西安)を出発した嘗てのシルクロードは、敦煌で、アルトゥン山脈からクンルン山脈の北側、タリム盆地南辺を行く西域南路を分ける。一方、北路はトルファンの先で天山山脈に出会い中央アジアへ向かう天山北路を分ける。西域のメインルートである天山南路はタリム盆地北辺のオアシスを繋ぎ、やがてカシュガルに到る。ここで西域南路を合流してカラコルム・パミールの山岳地帯に入っていくのだ。
 クチャは天山南路のトルファンからカシュガルに到るちょうど中間に位置する。漢代には亀茲(キジ)国として栄えた。当時の西域最大のオアシス都市国家で、独自の言葉を持ち音楽と仏教が盛んだった。勿論、当時の主な住民は胡人、つまりイラン系民族だ。
 数多くの仏典を漢訳した鳩摩羅什(クマラジュウ)の出身地として、また玄奘が滞在した町としても有名だ。玄奘は当時の亀茲国について、「伽藍100、僧5000」と記している。当時の遺産は郊外のスバシ故城、クズルガハ千仏洞、キジル千仏洞、クムトラ千仏洞などに見ることができる。特にキジル千仏洞に描かれた菩薩の持つ楽器は、日本の雅楽のルーツと言われる。また、正倉院の宝物と共通する琵琶を奏でる飛天の姿も見事に残っている。
 その後、7世紀に唐によって滅亡し、9世紀にはウイグル族が侵入、やがてイスラム化していった。

スバシ故城(嘗ての亀茲国の城跡)                                     クズルガハ千仏洞
b0049671_232476.jpgb0049671_2332038.jpg


 現在のクチャはトルファン―カシュガル間の中継地としての、落ち着いた小さな町だ。新市街にさえも当時はビルなどは無く、漢族の姿も稀だった。旧市街は2kmほど離れていて、ここでは毎週金曜日に市が立つ。これは西域(新疆ウイグル自治区)で最大のものだ。
 初めて僕が西域に足を踏み入れた年の春、トルファンの宿に着いた僕を思い掛けないニュースが出迎えた。トルファンと北西のウルムチとを結ぶライン以西へのバス・チケットを、外国人は買えなくなったというのだ。理由については当初、良く分からなかった。バス・ターミナルでも当時中国でほぼ唯一外国人を相手にしていたCITS(中国国際旅行社)のオフィスでも、分からないという答えを繰り返すだけで一向に埒が明かない。疫病が流行しているらしいという噂がまことしやかに流れてもいた。

ウイグルの子供達                                                     旧市街の路
b0049671_23402.jpgb0049671_2345157.jpg


露天のケバブ屋                                              ラグメン(トマトうどん)屋
b0049671_2353454.jpgb0049671_236610.jpg


 だが欧米の旅行者がBBCラジオの国際放送から漸く信頼できる情報を得た。カシュガル近郊で「暴動」が起こり治安当局と衝突したらしい、というのだ。同宿だった学生が北京の日本大使館に事の次第を照会する電話を掛けるが、大使館は「暴動」が起きたという一報以外には事態を全く把握していなかった。トルファンにいる日本人の氏名とパスポート番号を調べて連絡してほしい、その上で早急に新疆ウイグル自治区から退去されたい、大使館は電話をした学生にそう伝えただけだった。
 これが今に言うバリン郷事件だった。カシュガルの南10kmのアクト県バリン郷でウイグル人農民が武装蜂起し、当局はこの鎮圧のために空軍まで動員したと言われる。切欠はモスク建築に関するトラブルと、政府が産児制限(一人っ子政策)を少数民族にまで広げようとしたことに対する反発だったようだが、結果として国際アムネスティの報告によると死者は50人、反革命罪で起訴された者6000人という大規模な動乱になったようだ。事件が勃発したのが4月5日、数日間の攻防の末に武力鎮圧されたのが9日、僕がトルファンに到着したのが11日だった。だが僕がこのことを知るのはずっと後、むしろつい最近のことだ。この帰国後には、誰に聞いてもそんなニュースは知らなかった。

金曜バザールにて
b0049671_236532.jpgb0049671_239257.jpg


 ともかく、当時トルファンにいた僕たち旅行者にはピンとこない話だった。トルファンは春の陽光の下で葡萄棚は明るく緑に輝き、人々は愛想が良く居心地が良い。平和そのものだったのだ。僕は他3人の旅行者と西を目指した。観光用の輪タクでウルムチ方面とカシュガル方面との分岐点であるトクスンという小さな町まで2時間、そこでウルムチから来たバスをヒッチする。バスなのだからヒッチと言うのは変かもしれないが、なにしろ正式にはチケットを売ってくれない状況で、外国人観光客がいない町でバスに乗り込むというのはヒッチとしか言いようがなかった。
 そのようにして訪れたクチャではあったが、到着した日の夜、公安(中国語で警察のこと:公安警察ではない)が僕たちの宿に訪れ取調べが行われた。もちろんカシュガルから来たと答えた僕たちに、公安は東方への退去を命ずる。ただ彼らは友好的で、近郊の観光と金曜バザールだけはどうしても見たいという僕たちの要望を聞き入れてくれたのだ。こうして4日後、土曜日の朝に僕ともう一人の女の娘はトルファンへのバスに乗ったのだが、更に西を目指そうとした他の2人は、公安に捕まり強制退去させられたらしい。僕がこれより西、カシュガル方面に足を踏み入れるのはそれから3年後のことになる。

b0049671_23101213.jpg
                                                     金曜バザールの駐馬車場
[PR]
by meiguanxi | 2007-11-21 23:11 | 絲綢之路Ⅰ[西域] | Comments(0)
<< カルシャ (ザンスカール): ... クチャの子供達 (東トルキスタン) >>