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チトラール (パキスタン) : パミール、アフガニスタン国境の小さな町
           或いはアフガニスタンでの邦人拉致死亡事件によせて

[ 北部パキスタン略図 ]
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                                                           シャーヒ・モスク

 今年 (2008年) 夏の終わり、ダラエ・ヌール渓谷とかクナール川といったアフガニスタン東部の地名が頻繁に報道された。だが、これについては後で述べることにしよう。初めに断ってしまうが、このエントリーはちっともチトラールという町の紹介にはならないだろうと思う。

 チトラールはパキスタン北西部、アフガニスタンとの国境に近い小さな町だ。ラーワルピンディ (計画的に建設された首都イスラマバードの隣町で、昔からの生活の主体である街) から北部への道はパキスタン独立後に建設された (ギルギットの記事参照)。この KKH (カラコルム・ハイウェイ) を北上すると道はやがて標高約4700mのクンジェラブ峠 (フンジェラブ峠) でカラコルム山脈を越え、現中国支配域である新疆ウイグル自治区 (東トルキスタン) のカシュガルに通じている。この北部の中心がギルギットで、パキスタンがインドから独立する過程でカシミール地域が分断されてしまう前までは、ここから現インド領カシミールのシュリーナガルへ通じる道が北部と平野部とを繋ぐ道だった。勿論、現在はこの国境を通過することはできない。
 さて町を流れるギルギット川にはこのすぐ下流で北からフンザ川が合流している。KKH はこのフンザ川に沿って北上していく。一方、ギルギット川の上流は西に向かう。川はやがてキズル川と名前を変えるが、このキズル川に沿ってヒンドゥークシュ山脈を縫うように走る山岳道路がある。小さな村々を繋ぐ未舗装の危うい道だが、荒涼とした荒々しい風景と、耕作地とポプラの緑、乳緑色の川のコントラストが実に美しい。小カシミールと呼ばれる所以だ。この道の北側は6000m級のヒンドゥークシュだが、60kmほど北側はパキスタンとタジキスタンに挟まれたアフガニスタン領のワハーン回廊。玄奘三蔵がガンダーラからの帰りに通ったとされる渓谷だ。
 ギルギットから直線距離で150km程だろうか、一路西に向かうと標高3700mを越えるシャンドゥール峠に到る。5000m級の山々に囲まれたこの峠の上は広い草地で、氷河から流れ出た水が大きな湖を作っている。夜明け前の空と見紛うばかりの素晴らしい青だ。この峠を越えられるのは5月から11月頃までなのだが、夏場には湖の周囲に放牧されたヤクの姿も見ることができる。シャンドゥールを下るとマスツージという村に到るのだが、実はギルギットからマスツージへ直行する交通機関は無い (僕が訪れたのは1996年なので、現在のことは知らない)。従って峠越えの為には途中の村まで乗り合いジープで行きその先は歩くか、或いはギルギットでジープをチャーターすることになる。ジープをチャーターした場合、マスツージまでは2日の行程だ。


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                                                       マスツージ付近の風景

 マスツージはほんの小さな村に過ぎないが、充分にパミールの美しさを感じさせてくれる。ワハーン回廊との分水嶺から南西に流れるヤルフーン川は、この辺りから先ではマスツージ川と呼ばれる。ここから川に沿って乗り合いジープで5時間ほど下ると、そこがチトラールだ。メインストリート以外には数本の脇道があるだけという程度のほんの小さな町だが、イギリスがやって来る19世紀末までは独立王国だったのだそうだ。パキスタン独立後も1969年に王制が廃止されるまでは半ば独自の行政が行われていたという。町にはアフガニスタン人も多く流れ込んでいるようで、ケバブ屋やミリタリー・ジャケットを売る店の親爺もアフガン人だった。余談だが僕は12年前にここで20米ドルで買ったカーキ色のジャケットを今でも着ている。
 上流から流れてきたマスツージ川は再度名前を変え、この辺りではチトラール川と呼ばれる。チトラールから川に沿って南に20kmほどの所にアユーンという小さな集落があり、ここからピックアップ・トラックで支流のルンフール谷やブンブレット谷を西に10kmも遡れば、カラーシュ族の住むカフィリスターンと呼ばれる地域になる。彼らは特異な文化を有する非ムスリムで、カフィリスターンというのは「異教徒の国」という意味のムスリムの立場からの呼称だ。


                               チトラールの街路

チトラール (パキスタン) : パミール、アフガニスタン国境の小さな町_b0049671_014089.jpgチトラール (パキスタン) : パミール、アフガニスタン国境の小さな町_b0049671_031487.jpg



 南への道はこの更に2・30km先で川を南東に離れ標高約3200mのロワライ峠へと登って遥かペシャワールへと繋がっている。バスで12時間の行程だが、この峠を越えられるのも7月から11月頃までに限られる。一方、チトラール川はこの辺りからクナール川と名を変えて更に南西へと下って行く。先月 (2008年8月26日)、アフガニスタン東部のダラエ・ヌール渓谷で拉致され死亡したペシャワール会 (H.P.) の伊藤和也さんが農業指導していたブディアライはこのほんの150kmか200kmほど下流に当たる。クナール川はアフガニスタンのジャララバードで方向を変えるとパキスタンに戻り、やがてインダス川に合流する。

 僕が旅を始めたのは1988年暮れのことであり、その時にはアフガニスタンが旅行できる状態ではなくなって既に長い時間が経っていた。それ以来現在に到るまで、気楽に個人旅行できる状況は回復していない。一度だけその国土を目にしたことはある。ウズベキスタン南部のテルメズ、この町の南側を流れるアム・ダイアに掛かる鉄橋、その対岸がアフガニスタンだった。1979年、ソ連の戦車がアフガニスタンに侵攻していった橋だ。橋を渡ればマザリシャリフに到る筈だが、橋には軍の詰所がありカメラを川の方向に向けることすら許されなかった。2000年のことだ。この翌年、9.11 の同時多発テロが起こり、翌10月7日にはアメリカによるアフガン攻撃が始まる。アフガン戦争ではテルメズにアメリカ空軍の基地が置かれた。
 それ以外ではジャララバードやカブールへ繋がるペシャワール、南部のカンダハルに通じるパキスタン南部のクエッタ、クエッタからイランに到る鉄道とその先のイランの町であるザヘダン、西部のヘラートへ向かうイラン北東部のマシュハドと何度か周辺をうろついてはいるものの、僕がこれまでにアフガニスタンに入国したことは無い。だからチトラールとその周辺はテルメズに次いで最もアフガンに近づいた場所だ。

 伊藤和也さんがアフガンに思いを馳せた切欠は 9.11 とそれに続くアフガン戦争だったと聞く。あの時、国際社会は一斉にアメリカのアフガン攻撃を支持した。ロシアや中国もだ。ブッシュ大統領は 「アメリカに付くかテロリストの側に付くか」 と国際社会に向かって演説した。僕は予感した。この攻撃を世界の人々が許容するなら、ロシアはチェチェンの独立運動を、中国はチベットやウイグルのプロテストを徹底的に弾圧するだろうと。勿論、「テロとの戦い」 というレッテルの下に。そして実際にそのように成ってしまった。世界はチェチェンを見殺しにし、中国によるチベットやウイグルへの文化的民族的ジェノサイドに目を瞑ったのだ。
 当時、日本のマスメディアはまるで報道管制でも敷かれているかのような状態で、アフガン開戦を回避すべきだという論調は殆ど無かった。いや、報道管制或いは思想統制は強制ではなくともソフィストケートされた形で確実にあったのだ。僕は何回かの大きなデモに出たが、それらが報道されたのを1回たりとも目にしなかった。TVのキャスターやコメンテータも口を揃えてアメリカを支持していた。そんな状況にあって、ペシャワール会の中村哲 医師だけがそれに反対していたのだ。何故アフガニスタンでタリバーンが勢力を持ち得ているのか、アフガンの旱魃の状況、戦闘に成った場合に冬を越せないだろう農村の子供達の現実。そして無責任な考えを垂れ流すだけの人々とは違い、実際、彼らはあの戦闘の最中にすらその活動を続けたのだ。どこの国の軍隊の保護も受けずに。


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                                                       アフガン人のケバブ屋

 僕のしたことはいえば何回かのデモや集会に出たこととその場でペシャワール会に僅かばかりの寄付をしたこと、後はこのブログの 「愛する者へ or Profile」 に書いたポストカードを友人知人たちに送ったことだけだ。だが伊藤和也さんはその後ペシャワール会に入り実際にアフガニスタンに出掛けて行った。そして何年にも渡り現地の人達との交流を図りながら井戸やカレーズを掘り、現地の人達と一緒に農業復興に力を尽くしてきたのだ。
 今回の事件は痛恨の極みだ。武器も持たず、ただ知識と技術を伝える為に、国家の援助も得ず国家に対してではなく庶民の為に力を尽くしていた彼が何故、死ななければならなかったのか。勿論、あの国では1979年のソ連の侵攻以来、実に30年にも渡って内戦が続いている。武器を持って闘うこと以外の仕事をしてこなかった、或いは知らない人達も数多くいるのだろう。貧困の中で憎しみや悲しみや怒りだけを学んできた人達に、喜びや希望や信頼を教えられなかった人達に、僕達の理性はどのような力を持ち得るのだろうと考える時、不条理としか言えないほどの絶望感を感じずにはいられない。いや、だが、例えばペシャワール会の活動はそうした努力の確かなひとつの試みであったし、実際に大きな成果をも実らせてきた筈なのだ。
 そもそも今回の犯人の背景や目的に関してはまだはっきしりしない。しかし戦闘という状況が常態化すると、庶民生活の復興を利敵状況であると考える者たちも現れるだろう。混乱と貧困と怨恨と不幸こそは反政府軍閥にとっての求心力であるのだから。問題がこのようなところまで来てしまった今、事態を早急に解決させるマジックなど存在しないのだろう。むしろタリバーンが政権を取っていた時の方が、幾らか話は簡単だったに違いない。アルカイーダを匿いバーミヤンの磨岩仏を破壊するような政権を支持する訳にはいかないが、少なくともペシャワール会のような活動は安全に行えたのだ。2001年当時、女子の学校教育が禁止されていることやベールで身体を覆わなければならないことを以って、非人道的であるという報道が散々流された。だからタリバーンは殲滅すべしと。勿論これはアメリカのプロパガンダであり、日本のメディアはなんの検証も批判も無しにこれを垂れ流した。だが女性の権利に関して伝統的な政権はアフガニスタンに限ったことではなかった。新米派のアラブの国々でも同じような状態であることには、しかし一切触れられなかった。もしあの時、世界が銃弾や爆弾ではなく、議論と、例えばペシャワール会のようなアプローチにこそ力を注いでいたのなら、状況は今より遥かにマシだったのではないかと思うと、返す返すも無念でならない。


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                                                      チトラールの精悍な老人

 今回の事件が2004年のイラクでの人質事件のような 「自己責任」 論議に成らなかったことは幸いだ。今の政府が当時のような行け行けドンドン的政権ではなかったからかもしれない。しかし日本政府は今回の事件を受けて 「尊い犠牲が出てしまったが、そうであればあるほどテロとの戦いに引き続き関与していくことの重要性を日本の国民のみなさんは感じたのではないか」 と官房長官が発言したり、首相もメールマガジンで 「紛争や貧困に苦しむ地域や人たちに少しでも手を差しのべていくことが、伊藤さんの遺志にもこたえ、平和協力国家としての日本の役割である」 と述べている。勿論、テロ特措法によるインド洋での自衛隊による給油活動継続の意思を示したものだ。彼の死をアメリカ追随の戦争加担に利用する、なんという欺瞞、なんという倫理的鈍感。
 中村哲 氏は滞在先のバンコックからアフガンに飛び、伊藤さんの亡骸とともに帰国した。バンコックでの彼のインタビューは各局のニュース番組で報道されたので多くの方が目にしたことだろう。だが、その中で彼が 「(今回の事件の背景には) 自衛隊の行動が関係していると思う」 と指摘していたことを知っている人はどれだけいるだろう。日本がアメリカに加担した行動を取るならペシャワール会のような活動も危険に晒されることになるかもしれないというのは、当初より彼が強調していた警鐘だ。だがメディアはこの部分をほぼ完全に圧殺し、報道で強調されたのは 「情勢に対する認識が甘かった」 という部分だった。
 ペシャワール会ですら危険に晒される状況で何をどうすれば良いのか、どうすべきなのか、その明確な答えを僕は持っていない。だが、これだけは言える。彼らに銃弾の嵐を浴びせることや爆弾の雨を降らせることでは、永遠に何も解決しないだろうと。

 やがて季節は秋へと向かう。涼しくなった頃、僕はまた今年も13年目のジャケットに袖を通すことだろう。


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                                                        マスツージの子供達
by meiguanxi | 2008-09-02 23:59 | インド・パキスタン | Comments(0)
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