カテゴリ:中国( 8 )
西寧 (xining 青海省) : 草原の街、チベットの境界
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                                                       飯屋の窓から見た街路

 西安 (xi’an) からシルクロードを西に向う場合、天水 (tianshui)、蘭州 (lanzhou) を経て北西に進み、北側に広がるテンゲル、バダインジャラン両砂漠と南側に横たわる祁連 (qilian) 山脈に挟まれた河西回廊を武威 (wuwei)、張掖 (zhangye)、そして酒泉 (jiuquan) から敦煌 (dunhuang) を目指すことになるだろう。だが僕は蘭州を列車で通過して、これら西域への道を南に反れた。1990年当時の僕が天水や蘭州の石窟寺院跡や磨岩仏にあまり興味を持たなかったからでもあるのだが、当時の西域のこれらの町並みを見逃してしまったことは、今から思えば残念ではある。いずれにしても乗った列車は蘭州の先から河西回廊へは入らず、その南側一帯に連なる山岳地帯を西に登る。チベット高原に源を発した黄河は蘭州を北上してオルドス (黄土高原) へ向かう。この先が黄河たる所以だ。蘭州の手西で西から交流する支流がある。青海湖から流れ出たこの湟水 (huangshui) を遡り列車は西寧 (xining) に滑り込む。。西安を出発してから23時間、青海省 (qinghai) の省都だ。


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                                                             清真飯店にて

 今僕はこの町のことを青海省西寧と記し、中国のカテゴリとしてエントリーすることに少しの躊躇を感じている。実はこの辺りが伝統的チベット地域と中国 (通歴史的意味に於ける支那) との境界であり、チベットのアムド地方に当たるからだ。先の黄河源流は青海高原ではないかという意見もあるかもしれない。だがその名称は公平ではない。中国ではチベット高原全体を青蔵高原 (“蔵” はチベットの意) と言い、中央部に横たわるタングラ山脈以北を特に青海高原と呼ぶが、青海という呼称自体が清朝以来の中国側による一方的な押し付けであるからだ。とはいえ、西寧に関してはチベット系のチャン族 (羌) が支配していたこの地域が前漢によって落ちのが紀元前121年。その後も複雑な歴史はあったのだろうが、西寧の町自体はチベット人、モンゴル人などの雑居ではあったものの一貫して中国の支配下で発展してきたのだろう。その意味に於いて、現在のこの町をチベット人の土地とするのには無理があるように思う。だが後にここが清朝による東チベット支配の基点になったのであり、それが中華人民共和国に受け継がれたのであってみれば、チベット人たちには譲れないところかもしれない。仮に将来、チベット亡命政府の求める高度な自治を実行するための交渉のテーブルに中国が着く時がきたなら、西寧とその東側省境までの一帯である海東地区は妥協の瀬戸際になる筈の場所だろう。西寧のチベット名はスラン。
 2007年にNHKで放送された 『関口知宏の中国鉄道大紀行』 でこの街を見た時、そうだとは分かっていたのにもかかわらず声を失った。そこに映し出されたのは市街区人口130万に迫る近代的な大都会だった。僕が訪れた1990年には本当に貧しい田舎町でしかなかったのだ。高層建築と呼べるようなものは殆ど無く、あったとしても無骨なコンクリートの箱といった様相の物が数棟だったと記憶している。青海省には歴史的に回族 (hui) も住んでいるのだが、特に西寧と海東地区には多い。回族はペルシャ人など西域の人々と漢人との混血、およびイスラーム化した漢人などが起源と言われるムスリム (イスラーム教徒) だ。だが宗教とそれに関する風習 (豚肉を食べないとか男性の白い帽子とか) 以外はほぼ漢族世界に同化していて、言葉も漢語を話す。甘粛省東部の北側に寧夏 (ningxia) という小さな自治区を持つが、居住地域は中国全土に渡り、漢族と雑居している。西寧の街でも中国語でイスラームを表す清真 (qingzhen) と書かれた飲食店を良く目にしたものだ。
 西寧市統計局によると90年当時の市街区人口は76万。人口だけとってみてもこの17年で実に1.7倍に増えた訳だ。中国の行政区分に於ける市は日本のそれとは違い、県よりも上位になる。西寧市の面積は熊本県や宮崎県と同じ程度で、2007年の市全体の人口は215万人になるのだが、そのうち農村人口は86万人。90年には84万だったので農村人口はさほど増加していない。都市部で増加したこの人口の多くは他の省から殖民してきた漢人だ。因みに西寧は清朝以来中国人の支配下にあったとはいえ、人民解放軍が侵攻して来た1949年当初の人口は僅か19万人に過ぎなかったのだ。元々の住人であるチベット人やモンゴル人は、この街では完全な少数民族になってしまっている。だが、この話は別の機会に譲ることにしょよう。


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                                                祁連山脈 (山脈の間の草原から)

 僕が西寧を訪れたのはチベットへの憧憬からだった。だがその道は、89年に起こった大規模な動乱によって個人旅行者には完全に閉鎖されていた。この時に弾圧を指揮した当時のチベット自治区書記が、現在 (2009年) の中国国家主席である胡錦涛 (hu jintao) だ。それでもせめて西寧近郊のルシャル (湟中県 : huangzhong) にあるクンブル (塔爾寺 :タール寺 ) を訊ねようと思って西寧にやって来たのだ。今の僕なら蘭州からバスで南に10時間 (現在は5時間) の所にある甘粛省甘南チベット族自治州のサンチュ (夏河 : xiahe) のラプラン寺に寄ってから、バスで西寧に向かうかもしれない。当時この間のバスに外国人が乗れたかどうかはともかく、サンチュには当時も行けた筈なのだが。
 いずれにしてもこの年はチベットを諦めなければならなかった。クンブルを参拝した後、チベットに後ろ髪を引かれながらも、街の北側に横たわる祁連山脈を北側の河西回廊へとおんぼろバスで越えた。僕が念願のチベットに入ることができたのは、この3年後のことになる。


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                                                祁連山脈越えバスのフロント車窓
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by meiguanxi | 2009-04-16 21:02 | 中国
西安 (xi’an 陝西省) : 旅行者にとっての中国鉄道
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                                                         明代の鼓楼と街並み


 陝西省 (shanxi) 西安 (xi’an)、言わずと知れた唐代の都、長安 (chang’an) だ。有名な観光都市ではあるが、僕が訪れた1990年当時、旅行者たちに於けるこの街の評判はあまり良くなった。誇りっぽいのがその最大の理由であったように思う。なにしろ黄土高原南端に位置する街だし、その向こうにはゴビ砂漠が広がっているのだ。中国を旅していると喉を壊すことが多いが、特に西部では少なからぬ旅行者が気管支炎や肺炎に苦しめられていた。だが僕のこの街の印象は悪くない。文化大革命で多くの文化財が破壊されていた中国にあって西安には比較的多くの歴史遺産が残されていたし、なにより乾燥した気候と土埃に霞む街は西域への憧憬をくすぐった。
 さて、しかし今回の話はちっとも西安の街については触れられない。掲載した写真は内容と全く関しないことになるのだが、勘弁して貰いたい。


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                                                       鼓楼から見下ろした街角


 そんな訳で今回は中国鉄道旅行に関する話だ。2007年にNHKで放送された 『関口知宏の中国鉄道大紀行』 をご覧になっていた方は多いと思うし、僕も楽しく観させてもらっていた。だがそれはそれとして、僕の知る限り中国鉄道の旅はそんなに生易しくはなかった。今では中国もバス・チケットでさえコンピュータが導入されているが、90年当時には飛行機ですら手書きの台帳で管理されていた。だから列車の途中駅では寝台の切符はまず取れなかったし、例え大きな駅でも割り当て分しか販売できなかった。例えば風光明媚な景勝地として有名な桂林 (guilin) で売られる雲南省昆明 (kunming) までの二等寝台切符は毎日6枚しか無かった。乗車券だけで乗り込んだ後に、席が空いていれば車掌から買うことはできたのだが、混んだ路線ではそれも難しかった。中国人は基本的に並ぶという習慣を持たないのだが、それでも切符を買うというような場合には仕方なく一応は並ぶ。駅員に叱られるからだ。だが横入りする者は後を絶たない。怖いので誰もそれには文句は言わないが、並んでいる人たちは横入りされないために前の人の背中にピッタリとくっ付いている。文字通り、ピッタリくっ付いて見も知らぬ他人の肩や腰を掴むのだ。窓口近くまで来ると札を握っ何人もの手が伸び、なんとか自分のものを係員に掴ませようとする。少しでもぼやぼやしたりしようものなら、すぐさま後の筈の人が窓口に自分の用件を告げようとする。この当時、中国で列車の切符を入手するためには時に修羅場を経験しなければならなかったのだ。因みに西安駅には外国人用窓口というものがあり、そこに行けば優先的に切符を買うことはできた。
 切符を買えてもまだ修羅場は終わらない。中国の駅には一等用とそれ以外の待合室があって、列車ごとにそこで待つようになっている。入線の時間になって駅員の指示があるまでホームに入れないのだ。面倒臭いシステムだと思ったのだが、小津安二郎の映画などを観ると昔の日本も同じようなことをしていたようだ。だが日本には無いだろう習慣として、駅員の指示があると乗客たちは指定席の有無に関わらず一斉に改札口に殺到する。大きな荷物だけでなく自分も窓から乗り込んだりする。とにかく席や荷物の置き場所の確保に必死なのだ。世間体も他人の迷惑もへったくれも無い。改札口には切符の確認をする職員の他に台の上に乗った女性職員がいて、殺到する人民たちを箒や棒切れで、「押すんじゃない!」とかなんとか怒鳴りながらバシバシ叩いている。人々は乗客という客でないはおろか、殆ど人間扱いされていないのだ。


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                                                              明代の鐘楼


 例えば昆明から成都までは1100km、その距離を24時間、成昆鉄道は横断山脈縁の険しい山岳地帯を走る。どうしても寝台が欲しいところだが、都合3回乗ったこの路線で硬臥 (yingwo : 二等寝台) のチケットが手に入ったのは1回だけだ。それもダフ屋から買った物だ。おそらく今でもあると思うのだが、当時の中国には列車チケットのダフ屋がいたのだ。それでなくとも需給バランスの取れていない切符数である上に、いや需要に供給が追いついていないからこそダフ屋が蔓延る訳だが、いずれにせよ更にダフ屋が、それもおそらくは駅員と繋がっているのだろうダフ屋が買い占めるのだからますます切符は取れない。だが、外国人旅行者にとっては便利な連中でもあったのだ。別の場所にも書いたが、当時の中国の列車には外国人料金が設定されていて、人民料金の1.75倍の料金を支払わなくてはならなかった。ダフ屋が扱っているのは当然ながら人民料金の切符で、それを正規の5割増から2倍程度で売る。従って外国人は正規に買うよりもダフ屋から買った方が安かったりする場合もあったのだ。
 硬臥が取れなかったその他の二回は二等自由席と軟臥 (ruanwo : 一等寝台) だ。この軟臥のチケットは飛行機と同じくらい高価なのだが、帰国間際だったので取れない硬臥を諦めて思い切ったのだ。二段ベッドが向かい合った4人部屋コンパートメントで、清潔な布団は気持ち良かったが、何処が一等なんだと思えなくも無い程度のものだ。しかし当時の中国において軟臥は天国だったと言って良い。なんといってもそこでは車掌に人間扱いを受けることができたのだから。車内は比較的清潔に保たれていたし、一車両に一人乗っている女性車掌は笑顔で接してくれた。これは中国では破格なことだったのだ。
 一方、硬臥はビニール張りシートの三段ベッドが向かい合わせに並んでいるオープン形式でコンパートメントにはなっていず、日中は下段を起こして座席にする。シーツと毛布は貸してくれたが、カーテンのような物は付いていない。奥の窓辺には小さな棚テーブルがあり、その下にポットが置いてある。丸い木片で栓をする質実剛健な魔法瓶だ。充分に快適ではあったのだ、難点は乗客たちが車内をこれでもかというくらいに汚すことだった。中国の列車には数両に一ヶ所、連結部にサモワールがある。いやそんな上品な代物ではなく、要は石炭をくべるタイプの無骨一辺倒な湯沸しストーブだ。しかしこれはとても有り難い物で、ここから魔法瓶や自分のカップに湯を汲めるのだ。ミネラル・ウォーターはまだあまり普及していなかったし、売っていても誰もそんな物は信用していなかった。人々は蓋と取っ手の付い中国的スタイルの陶器製湯飲み (マグカップ)や缶詰の空き瓶に直接茶葉を入れ、それに湯を注いでちびちにと飲んでいた。ちびちび飲んでは蓋をして、湯が無くなれば注ぎ足すのだ。問題はその湯をやたらとこぼすことだった。だから床はたいてい濡れていた。


大雁塔 (慈恩寺)                                                  小雁塔 (薦福寺)
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 だが床を汚す物は湯や茶だけではなかった。彼らは砂糖黍や瓜子 (guazi) を良く食べる。瓜子はグアヅといった発音なのだが、要するにカボチャやヒマワリの種だ。砂糖黍は5・60cmに切ったものや、一口サイズにした袋入りの物などが売られている。砂糖黍や種なのだから食べればカスが出る。瓜子の殻はともかく、砂糖黍は齧って口の中で噛んで甘い樹液を味わった後に残った繊維を出すのだが、彼らはこれをペッと床に吐き捨てるのだ。中国人が食事の際に骨などの食べられない物や要らない物を床に捨てるという話は別のところで書いたと思う。そしてこれが実に勘弁して欲しいところなのだが、彼らは所構わず痰を吐くのだ。そんな訳で床は概ねドロドロの様相を呈している。誰も文句は言わないし顔を顰めたりもしない。みんなそうするのが当たり前だからだ。時々車掌が手箒で床を掃きに来る。なにしろ腕の長さしかない箒なので、彼女達は掃きながらしゃがんで進んで行く。重労働だ。掃いた後にはビシャビシャに濡れたモップで床拭きを始めるのだが、乗客の足があろうと荷物があろうとお構い無しにひたすらに拭いて行く。なにしろ彼女達は常に不機嫌で居丈高なのだ。誰も文句は言わないし、むしろ逆に邪魔だとばかりに叱られる。車内販売のぶっ掛け飯を食べ終わり、発泡スチロールの入れ物をどうしたものかと窓テーブルに置いてた時に車掌が掃きにやって来た。彼女は僕の空箱を手に取ると、おもむろに窓を開けて外に放り出した。当然ながら掃き集められた一両分の大量のゴミは、乗降口から掃き捨てられるのだ。シルクロード方面を西に向かう列車の車窓には、荒涼とした土漠に無数の発泡スチロール容器が風に舞っていたものだ。そういえば当時は缶ビールというものが普及していずビールといえば瓶だったのだが、トンネルに入ると人民たちは空になったビール瓶を窓からトンネルの壁にぶつけては喜んでいた。いや、僕の乗った列車にたまたま変わった人いたのではない。中国で列車の旅をしたことのある人なら誰もが目にした光景だ。因みに昆明・成都間には427 ものトンネルがあるのだ。やれやれ。
                                    最悪なのは硬座 (yingzuo) の無座、二等席の指定無しだ。
                                   寝台ですら上のような状況なのだから、二等席は時に大変な混
大雁塔からの市街                       乱を呈する。席の無い多くの人々と沢山の荷物、ドロドロに汚れ
b0049671_12294027.jpgた床、泣き叫ぶ子供、座席の下に潜り込んでその床で眠る者、怒鳴り合う人々…何年か前に硬座を取材したTV番組があったのだが (欄外追記)、そのたった一本の列車が始発駅から終着駅に着く2泊3日の間に、複数の死者と行方不明者、そして発狂者をだしたほどだった。僕は客室の端、連結部との境で不要に成った一枚地図を敷いた上にバックパックを置き、それを椅子代わりにして夜半まで過ごした。車両の反対側から幼子を抱いた母親が歩いて来た。僕の後ろの連結部にあるトイレに来たのだなと思った。ところが、僕の隣まで来た母親はおもむろに子供と一緒にしゃがんだのだ。中国の幼児用ズボンというは股が裂けている。そのまましゃがめば用が足せるようになっているのだ。傍目には微笑ましいし便利なのかもしれないが、衛生上はどうなのだろう。ともかくその子供はそこで小便を始めてしまった。僕は慌ててバックパックを抱え上げたが既に少し被害を被ってしまっていた。僕は呆然として、濡れてしまった地図を見下ろした。だが勿論、母親は謝るでもなく行ってしまう。回りの人たちも、まあそんなこともある程度にしか感じていないようで笑い合ったりしている。なんてこった。その後何時間も経ってようやく座ることができたのだが、3人掛けのシートに無理矢理4人目が強引に腰を押し付けて来るは、乗り込んで来た物売りを車掌が蹴散らした瞬間になんだか訳の分からない食べ物が飛んでくるはで大変な思いをしたものだ。窓に凭れてうとうとし始めた時、肩に冷たさを感じる。網棚に乗せた荷物から漬物か何かの辛油が滴っていた。それも大量にだ。着ていたジャケットには抜けない大きな油
                                   ジミができてしまったわけで、僕は当然その荷物の持ち主に抗議した。故郷に帰るか或いは休暇明けで隊に戻る途中かどちらかの人民解放軍兵士だった。僕の怒りに、まだ幼顔の彼は困り果てていた。怒りに任せた勢いで 「弁償しろ」 と言ったのだが、その言葉を発すると同時に後悔した。払える筈も無いのだ。彼の給料を聞いて僕は自己嫌悪に苛まれることになる。軍だから衣食住には困らないにしろ、確か数十元だったと記憶している。
 まったく西安の話に関係なくさんざん中国鉄道とその乗客である人民の悪口を書いてきたが、僕は必ずしも中国での列車旅が嫌いであるわけではない。実は同席になった中国人たちの中には友好的な人々も多かったし、食べ物や煙草をこれでもかというくらいに分けてくれたものだ。硬臥の通路には跳ね上げ式の補助椅子と狭い棚テーブルが備えられている。寝静まった硬臥の補助椅子に掛け、非常灯だけでビールを飲む時間が好きだった。煙草の煙の向こうの車窓は漆黒の闇で、時折、山村の儚気な灯りが過ぎて行く。旅人冥利に尽きる贅沢な時間だ。
 西安の西に宝鶏 (baoji) という駅がある。成都からの線路が南から合流する所だ。この年、陸路パキスタンに抜けて帰国しようと計画していたのだが、新疆ウイグル自治区で後にバリン郷事件と呼ばれる民族蜂起が起こり (参照)、カシュガルに行けなくなってしまった僕はウルムチから2泊3日、55時間掛けてこの駅に着いた。ここから更に12時間欠けて成都に向かうために、3時間後の列車を待つのだ。夕方だったし疲れてもいたので駅で休んでいると、一人の青年が英語で声を掛けてきた。鄧小平 (deng xiaoping) が死んだらもう一度民主化運動が復活して中国は変わる、、と彼は言った。この前年は天安門事件が起きた年だ。だがそんな彼でさえ、軍の戦車が学生達を轢きながら蹴散らしたという事実については知らなかった。それを伝えても、それはアメリカのTVが作った偽情報だと言って信じようとはしなかった。まだインターネットなど無かった時代だ。彼らの得ることができる情報は非常に限られていたのだ。この7年後、鄧小平は死亡した。しかし目覚しい経済発展が始まっていた中国で、民主化運動が再燃することはなかった。千載一遇のチャンスに乗り遅れないために躍起で、一人っ子政策の中で育ったインテリ層は民主化や貧困層のことを考える余裕は持ち合わせていないように見える。
 中国の列車は今では客室禁煙になった。連結部では吸うことができると聞いたが、その後はどうなったのだろう。上海 (shanhai) にはリニア・モーターカーが走り、やがて北京 (beijing) との間に高速鉄道が開通する。時代は、凡庸な僕の想像を遥かに超えて変貌していくようだ。

 追記注) 2009年4月20日にNHKで放送された 『春節列車』 ではありません。
       あれは随分とバージョンアップされた車両のようです。内部も余り汚れている様子が映っていませんでしたが、
       そういう点も変化したのか映さなかったのか分かりません。


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                                                       街を取り囲む城壁と濠
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by meiguanxi | 2009-04-12 12:41 | 中国
成都 (chengdou 四川省) : 四川料理と脳の関係
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                                                                杜甫草堂


 雲南省昆明 (kunming) から成都 (chengdou) までは1100km、その距離を24時間、成昆鉄道は横断山脈縁の険しい山岳地帯を走る。どうしても寝台が欲しいところだが、都合3回乗ったこの路線で硬臥 (yingwo : 二等寝台) のチケットが手に入ったのは1回だけだ。それもダフ屋から買った物だ。当時の中国では寝台の切符を取ることが非常に難しかったのだ。そして24時間という時間は、時に単に長いというだけではない苦痛を伴うものでもあったのだが、それについては長くなるので別の場所で話すことにしよう。
 成都はご存知の通り四川省の省会 (省都) だ。四川省といえば南隣の雲南省、その東の貴州省や広西壮族自治区などとともに中国では西南と呼ばれる地域だ。現在の地図ではもっと遥か西まで中国の版図として黄色く塗られているが、本来はこの辺りが南西の境界なのだ。成都のある四川盆地の西側は山岳地帯で、チベット高原から下り雲南を経てインドシナに到る横断山脈が深い皺を刻んでいる。ヒマラヤがインド亜大陸のユーラシアへの衝突でできた横皺なら、こちらは同じ原因で縁部にできた縦皺だ。地形や四川省の境界線を記した地図を持っている方なら直ぐに分かると思うが、この西部山岳地域は四川省のおそらく三分の二程の面積になる。実はこの山岳地帯がチベット人の土地なのだということは、2008年5月の四川大地震である程度は日本でも認識されたのではないだろうか。世界遺産である九賽溝 (jiusaigou) や黄竜 (huanglong) があるのもこの地域だ。だが僕はそれらを訪れていない。世界遺産に登録されたのは1992年だが、日本で一般に知られるようになったのはNHKでドラマ 『大地の子』 が放送された95年暮れ以後のことだろう。少なくとも僕がこの辺りをうろついていた90年や93年には知られていなかったし、おそらく未開放地域だったのだと思う。
 さて、しかし今回はチベット問題の話ではない。あくまで中国四川省の成都の話だ。だが、実に写真が少ない。以前にも何回か言い訳したように、この時代にはあまり沢山の写真を撮らなかったのだが、それにしても少ない。僕はこの町を都合三回訪れているのだが、本当にこれだけなのだ。おそらく今では壊されて再開発されてしまっているのだろうが、成都にも伝統的な美しい家並みはあったのだが。


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                                                           成昆鉄道の車窓

 とにかく成都に来たからには四川料理を食べないわけにはいかない。ところで中国では一般に四川料理という呼び方はしない。川菜 (chuancai) と呼ぶのだ。あるいは飲食店によっては川味 (chuanwei) とか四川風味とかいった看板も見掛ける。もちろん “川” は四川のことであり、“菜” は料理のことだ。日本で中華料理と言えば四川以外には広東料理くらいしか見掛けないが、中国には省の数だけ料理法があると言っても良い。なにしろ広いのだ。言語も同じで省の数、いや人民の数だけ言語があるとさえ言われる。中国で有名な八大料理と言えば四川と広東の他に江蘇、山東、湖南、安徽、浙江、福建などがあるが、四川料理を川菜、広東料理を粤菜と呼ぶのと同じようにそれぞれ蘇菜、魯菜、湘菜、晥菜、浙菜、閩菜という。ご存知かと思うが中国には “南甜、北咸、東酸、西辣” という言葉がある。南は甘く北は塩っぱい、東は酸っぱく西は辛いという意味だ。この “辣” は唐辛子の辛さのことだが、川菜の辛さのもう一つの本質は “麻” (ma)、花椒の痺れるような辛さだ。その代表的な料理が言わずと知れた麻婆豆腐であるわけだが、中国では一般に麻辣豆腐と呼ばれることが多い。実に辛そうな名前だ。そしてこれは実際、本当に辛い。食べねばなるまいと成都の大通りに面した一般的な飯屋でこれを注文したのだが、一くち口に運んだ瞬間に頭が爆発した。豆腐を5片ほど、皿の淵でソースを拭い落としてなんとか食べたのだが、それ以上は無理だった。しかし辛さというのは癖になる。カプサイシンの刺激はアドレナリンを分泌させる。言ってみれば脳内麻薬だ。僕はあまり胃腸が強い方ではないので、四川や雲南省などの中国西南地域を旅行しているとすぐに腹を壊す。例えば雲南からラオスに抜けると直ぐに直るのだが、麻辣の無いラオスの、言ってみれば日本人好みの味が物凄く物足りなく気が抜けたように感じるのだ。
 川菜のもう一つの有名料理に火鍋 (huoguo) がある。最近はTVで紹介されることも多いので知っている方も多いと思う。鍋が真ん中で区切ってあって、一方に香辛料をたっぷりと入れた真っ赤なスープ、もう一方に白湯スープ (“湯 tang” はスープの意味なので、これは重複表現なのだが) が入ったしゃぶしゃぶのようなあの料理だ。だが僕が中国のそちらこちらで見た火鍋には白湯は無かった。これは根拠の無い想像なのだが、あれは北京 (beijing) 辺りの資本が本場以外の人たちに売り込むために付け加えた創作なのではないだろうか。とにかく、四川でも雲南でも或いはチベットでも、火鍋はただひたすらに濃い真っ赤なスープだけだった。麻辣豆腐も食べきらない奴が火鍋など食べられないと思うかもしれない。だが、違うのだ。確かに辛い。酷く辛い。なにしろ唐辛子で真っ赤になった鍋には花椒がたっぷりと入っていて、そのぐらぐら煮える鍋に具材を放り込んで食べるのだから。ところがこれが実に美味いのだ。下の写真は成都の火鍋屋だ。こういう店がそちらこちらにあった。映っているのは店員の少女たち。まかないを食べているのだが、店には他に店員も客もいず、勝手に売り物を食べているという感じだ。テープルが少し汚れていると思うかもしれない。だがこれは彼女達の食べ方が特別にガサツだからではない。中国人はテーブルを汚すことを気にしない。というより敢えて汚す。例えば骨など食べられないものはテーブルや床に落とすのだ。みんなそのように食べる。だからテーブルにはクロスが敷いていないかビニール制かのどちらかだ。客が帰った後は店員がテーブルの残飯を布巾で床に落として掃くのだ。それはともかく、この鍋だが、客それぞれに作ってくれる物ではなく、前の客が使った鍋をそのまま出してくる。あるいはずっと置きっ放しになっている。もちろん中のスープもだ。汚らしいと思うだろうか。まあ、あれだけ辛いのだ。殺菌力もそうとうである筈だ。それに、色々な旨味が溶け込んでいるので、むしろ段々と絶品になってくるという訳だ。
 ところで、火鍋の具として何が最も美味いかと言えば、これは断突に脳だ。羊や豚の脳味噌。勿論これは個人の好みによる独断で、そんな物は食べられないという方が大方なのだろうとは思うのだが。味は鱈の白子をもう少しあっさりさせた感じ。形も似ている。大きさは女性の拳くらいだ。ただ、少し怖い話もある。この3年後、チベットの首都 (敢えて首都と呼ぶが) ラサで溜まっていた数人の日本人旅行者達と火鍋を食べに行った時、一人の青年だけがどうしても食べようとしなかった。卒業旅行で来ていた彼は、大学院入学が決まっていた医学生だった。彼の言うには、羊の脳を食する地域では昔から脳が破壊され廃人になって死に到る奇病が報告されているのだそうだ。羊には異常プリオン蛋白物質が原因で発祥すると一般に言われているスクレイピーという病気がある。異常プリオン蛋白物質が蓄積して脳が海綿状になってしまうのだが、それを人間が食することで伝染すると言うのだ。イギリスで狂牛病 (牛海綿状脳症 BSE ) が発生し、脳や骨髄を食した人間に変異型クロイツフェルト・ヤコブ病が発症して世界中がパニックになったのは、チベットから帰って数ヶ月後のことだった。1993年以前には一般人はこの病気について知らなかったのだ。医学生が脳を食べたがらなかったのも当然だ。しかし僕はその後も機会がある度に中国やヴェトナムなどで脳を食べ続けている。美味しいのだ。


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                                                          火鍋屋の小姐たち
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by meiguanxi | 2009-04-10 21:59 | 中国
桂林 (guilin 広西壮族自治区) : 不機嫌な服務員と “売票”
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                                                              漓江の風景


 1990年当時、外国人旅行者に中国の印象を悪くさせていたものは、プライバシーの無い、そして恐ろしいほど汚れたトイレだけではない。それ以上に多くの旅行者たちをうんざりさせていたものは、旅行者達が日常的に接する中国人民たちの態度だった。駅の窓口やホテルのレセプション、町の飲食店や商店の店員たちだ。彼らにはおよそ客という概念が欠如していた。例えばホテルでは空き室があっても服務員の機嫌しだいでは 「没有」 と断られてしまう。中国語で 「無い」 という意味で 「メイヨー」 といった発音なのだが、これが取り分けて日本人には 「ねーよ!」 に聞こえたりするのだ。泊まって頂くのではなく、泊めてやるというのが彼らのスタンスだった。これは外国人に対する嫌がらせではなく、中国的社会主義の副作用産物だ。 「没有」 は当時の中国のキーワードのような言葉で、駅の窓口などでは特に苦しめられることになる。そして彼らは常に不機嫌だった。「売切れてしまって申し訳ありません」 といったメンタリティは欠片も無く、「うっせーな!そんなもん有る訳無いだろが!邪魔だ邪魔だ、さっさとどけ!」 と言っているとしか受け取れないような態度に感じられた。勿論これには中国語という言語の特殊性も関係しているのかもしれないが。いずれにしても当時の中国では売り手の立場が買い手に比して極端に高かったのだ。買い物をした場合の釣銭は投げてよこすというのが日常茶飯事だった。彼らは親切心や感謝といった言葉を持たないかのようだった。謝謝 (xiexie) などという言葉を中国の商店や飲食店で聞いたことが無い。また、中国の駅では駅員の指示が無ければホームに入れないのだが、列車が入線し駅員から指示があると席を確保しようとして、あるいは大量の荷物の置き場所を確保しようとして改札口に人々が殺到する。その乗客たちを台の上から女性職員が箒とか棒切れなどで 「押すんじゃない!」 とばかりにバシバシ叩く。まるで家畜運搬列車か囚人列車のようだった。いや、これらは公平な言い方ではないかもしれない。あくまでこの時代の大方の旅行者の印象としては、という意味だ。だがこの時の僕は全くそのように感じていた。


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                                                              漓江の風景

 なんとか確保した硬臥 (yingwo : 二等寝台) のチケットを持って広州 (guangzhou) から乗り込んだ列車は、19時間以上掛けて桂林 (guilin ) に着いた。言わずと知れたカルスト地形の山水画のような風景で有名な桂林だが、おそらく日本人のこの町に関するイメージを決定的にしたのはサントリー烏龍茶のCMだ。と言っても若い人たちには馴染みが薄いかもしれないが、1980年代後半には烏龍茶と言えば桂林の風景だったのだ。いや、勿論サントリー烏龍茶は福建 (fujian) 省の茶葉を使っているので桂林には関係ない。だがそれ以前は80年にNHK特集 (後のNHKスペシャル) が1年を掛けて放送した 『シルクロード ~ 絲綢之路』 だった中国のイメージを、すっかり桂林・漓江 (lijiang) の風景に塗り替えてしまったほど、それは当時の日本人の脳裏に刻まれていた筈だ。この烏龍茶MCのシリーズは今に到るまで続いているが、一時期、可愛らしい中国語で歌う日本の昔の歌をBGMにしたシリーズがあり、ブラウン管の中で清純そうな女の娘たちがはしゃいでいた。当時、 それを見て中国に憧れた友人に僕は言ったのもだ。中国に行くのは良いけどあの中国女性のイメージだけは一片残さず日本に置いて行った方が身の為だ、と。中国女性はそんなに甘くない。
 旅行者達に於ける桂林の評判もまた、美しいイメージとは裏腹だった。かつて日本軍が空爆し町を焼き尽くした挙句に占領した経緯から反日感情が強い、という理由ではない。桂林では日本語教育が盛んで、その副産物として怪しい輩が多かったのだ。騙されたりぼったくられたりといった話がゴロゴロしていた。だが、僕の桂林に関する印象は決して悪くなかったのだ。


独秀峰からの桂林郊外                                            漓江を筏で渡る村人
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 桂林といえば漓江下りだ。町には到る所に漓江下りツアーの看板があり、観光客争奪戦の様相を呈しているようだ。僕は泊まったホテルで前日に予約した。ホテルが運営しているものではなく、当日の早朝、ホテルでピックアップしてくれるシステムだった。ところが待てど暮らせど迎えは来ない。初めのうちは 「そのうちに来るわよ」 という態度だった服務台 (fuwutai : レセプション) の小姐 (xiaojie : 若い女性への呼び掛け言葉,お嬢さん) もついには運行会社に電話をしてくれた。彼女は 「困ったわね」 という顔をして、僕が座っているソファーにやって来た。要するに忘れられたらしい。「明日に予約を変更するから、今日は鍾乳洞を見学に行ったらどう?」 と彼女は言った。勿論これは運行会社の責任なのであって彼女やホテルの責任ではないのだから、小姐は決して謝ってくれたりはしない。中国語には 「ごめんなさい」 という意味の “対不起” (duibuqi) という立派な謝罪言葉があるのだが、僕が中国でこの言葉を聞いたのはたったの1回しかない。それもこの9年後、4回目に中国を訪れた時だ。それでもこの小姐は決して態度が横柄だったわけも素っ気無かったわけでもなかった。彼女は僕の持っていた町の地図 (小さな田舎町は別にして、中国の駅やバス・ターミナルには必ずその町の安価な一枚地図が売られていた) を広げ、鍾乳洞の場所と名前、何処のバス停から何番のバスに乗るのかを丁寧に教えてくれた。僕は中国語を理解できなかったし彼女は英語を殆ど話せなかったので、中日英ごちゃ混ぜの会話と筆談だ。鍾乳洞なんかにはあまり興味は無かったのだが、文句を言ったところで何かがどうにかなるわけでもない。このまま漓江下りを取りやめにして町を出て行くのならともかく、ホテルや運行会社に何らかの譲歩なり補償なりを期待しても無駄なのだ。
 このようにしてその日、僕は町の東側を流れる漓江対岸の七星岩 (qixingyan) と北に5km離れた郊外にある蘆笛岩 (ludiyan) という2ヶ所の鍾乳洞巡りをすることになった。しかしそれにしても、その後中国では他の場所でも鍾乳洞を見学したことがあるのだが、どうして中国の鍾乳洞は何処も七色のライト・アップをしてしまうのだろう。こっちは赤、あっちは青、という照明ではなく、あっちの黄色が紫に変わり、こっちの緑が茶色に変わるのだ。次々に変色していく。美しいというよりは落ち着かない。数万年の神秘とか自然への敬意や畏怖とか、とにかくそういう情緒が入り込む余地が無いのだ。やれやれ・・・。さて、それはともかく、蘆笛岩を見学すべくバスの終点で降りた時の話だ。


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                                                            桂林での川鵜飼


 中国のバスというのは時に無茶苦茶に混んでいる。東京のラッシュよりも酷い。しかも彼らは日本のサラリーマンのようにおとなしく静かになどしてはいない。バス停に着くと下りる人を押し返して入り口に乗客が殺到する。大きな荷物を持ち込んで座っている他人の足にこれでもかというほどそれを押し付ける。とにかく並ぶことのできない人たちだし、他人の迷惑などには頓着しない人たちなので、それはもう酷い状態なのだ。もっとも、これは当時はそう思ったということで、最近の日本はあまり中国人のそうした点を揶揄できる状態ではなくなってきたようにも感じるが。今の中国ではワンマンカーが当たり前になった (とはいっても当初、釣銭が出ないシステムだったのだが、あれは改善されたのだろうか) が、当時のバスには必ず車掌が乗っていた。中国では公的労働に関する限りほぼ完璧な男女同権なので運転手が女性のケースも多いのだが、車掌は概ね女性の担当であったように思う。そのぎゅうぎゅう詰めの車内を彼女達は後ろから前へ、前から後ろへ乗客たちの間をすり抜けて、いや押しのけて 「売票、売票!」 (maipiao) と叫びながら移動していく。料金を徴収して切符を売っているのだ。なにしろただでさえ立錐の余地も無い車内なのだから、彼女達の移動は更なる混乱を撒き散らしていた。中にはただ乗りしようとする輩もいるのだろう。彼女達は常に険しい目をして語気きつく怒鳴り捲くっている。「あんた何やってんのよ!さっさと払って!ほらそこ、どいてどいて!通しなさいよ!」 中国語は分からなかったが、多分そんな感じだ。なぜ中国の女性達はかくも常に不機嫌なのかと訝しく思ったほどだ。この時の蘆笛岩行きのバスでもやはり、怖いお姐さんが同じような光景を繰り広げていた。


牛追い (漓江流域の村)                                川で洗物をする婦人 (漓江流域の村)
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 バスは郊外の空き地のような場所に泊まった。他の乗客たちに押し出されるようにしてバスを降りたのだが、さて、どちらに行ったものか。なにしろ時間はたっぷりあったので、僕はしばらくぼんやりと周りを見回していた。後ろから笛の音がした。乗って来たバスが無人のまま引き換えして行くところだった。その車窓から車掌の女性が一つの方向に指をさしている。僕に行くべき方向を教えているようだった。今はどうか分からないか、中国では日本人と中国人、或いは中国人とまだ返還されていなかった香港人は一見して区別ができた。民族的形質の違いではない。服装や髪型、表情が作り出す雰囲気などが全く違っていたのだ。こんな町の外れまでやって来る外国人が行く所は鍾乳洞に違いないと思ったのだろう。僕は彼女の真似をして同じ方向に指をさしてみた。彼女はにっこりと微笑んで頷いた。あ、中国人の女性も人に微笑むことができるんだ・・・その時の正直な感想だった。そしてそれはある種、感動ですらあった。そして、車内では気付くことがなかったのだが、彼女はちょっとお目に掛れないくらいの美人だったのだ。僕はちょっと幸福な気持ちになった。いや、美人だったからではない。中国人の女性が、身も知らぬ外国人に微笑んで頼まれもしないのに親切にすることが出来るということを知ったからだ。きっと当時の彼女達が常に不機嫌そうに見えたのには、それはそれでそれなりの社会的理由があったのだろう。


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                                                      桂林と陽朔の間の村にて
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by meiguanxi | 2009-04-06 20:11 | 中国
広州 (guangzhou 広東省) : 闇両替と “外汇 ”
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                                                         雨の中の自転車通勤


 “中国人は四脚の物は机以外、飛ぶのなら飛行機以外なんでも食べる” という言い方があるが、これは間違いだ。そもそも民族という概念は形質や血統といった人種分類ではなくアイデンティティの問題でしかない。その意味で漢族というアイデンティティに関しては少々拡大し過ぎているように感じる。もともと彼らは現在の版図の中国ではなく、もっと狭い範囲の地域性や血族をそのアイデンティティの拠り所とする人々だった筈なのだ。清朝中庸以後の爆発的な人口増大とそれに伴う周辺地域への拡散および混血、更には中華人民共和国成立以後の国民国家の人民としての教育が現在の漢族というアイデンティティを確立していったのだと思う。実際、この周辺への拡大と混血、殖民 (例えばタイの華僑がタイ化しているように、占領地の植民地化という意味での “植民” では必ずしも無いが) は例えば満州人や一部のモンゴル人などの北方民族、南方諸民族の一部をして民族というアイデンティティからも版図という意味からも殆ど漢化してしまったのでり、チベットやウイグルで進められている事態も放置すれば早晩、同じようなことになってしまう危険がある。だがここではそうした問題について語る積りなのではない。中国人はなんでも食べるのか、という話だ。食文化はその土地土地の自然環境によって決まると言ってもよい。事実その昔、現在の中国地域の人たちは南方では米食、北方では麦食が好まれた。というより栽培できる品種の問題で自然にそうなっていた。穀物のみならず副菜やその調理法にしても地域によって様々だ。考えてみれば乾燥した北京 (beijing) や西安 (xi’an) でそれほど豊富な食材が手に入るわけもない。広州 (guangzhou) で仕事をしていたことがあるという咸陽 (xianyang : 西安の近くで秦の始皇帝が都を置いた場所) 出身の中国人留学生と話をしたことがある。「広州の市場は凄いですよ。蛇とか蛙とか猫とかアルマジロとか、なんでも売ってますよ。虫も食べるんですよ」 と言う彼女に君は食べたのかと訊くと、「信じられません」 と言って顔をしかめた。そう、なんでも食べてしまうのは中国人ではなく広東 (guangdong) 人なのだ。
 上海 (shanghai) に近い杭州 (hangzhou) から広州までは列車でたっぷり35時間掛った。中国は本当に広い。いや、これは20年近く前の話で、今では18時間から19時間程度で着いてしまうらしい。とにかく1990年には朝の9時過ぎに出発して翌日の夜20時過ぎに到着したのだ。
                                    広州は当時から近代的な都会だった。当時に於いては上海よ
                                   りずっと垢抜けているように感じられた。もちろん近代的とは言っ
広州駅前広場                          ても香港のそれとは違う。広州の駅前広場は大きな荷物を伴っ
b0049671_162516.jpgた盲流と呼ばれる出稼ぎの人たちで溢れていたし、街にはまだ通勤の自転車が溢れていた時代だ。中国の都会では歩道と車道の間に自転車専用道路があったものだが、写真のような光景はもう見られないのだろう。因みに自転車に乗る人たちは前後をすっぽりと隠せてしまうビニールの合羽を着ていた。これは優れものでバックパックを背負った旅行者にも便利だった。それに比べて前の年に成田空港で買った旅行用のビニール合羽のなんと想像力に欠けることか。
 広州では駅に近いホテルに泊まっていた。到着したのが夜だったし、バックパッカーが集まっているのだろう地域まで荷物を背負ってバスに乗るのが億劫だったからだ。中級ホテルだったがツインが比較的安く取れた。眠ろうとしていた時、電話のベルが鳴る。出てみると 「喂 (wei) ?」 と女の声が言った。全く中国語が分からなかった僕は英語で応対したのだが、相手は驚いて隣に居るらしい誰かと笑いながら言葉を交わした後、中国語で何かを言ってきた。もちろん意味は分からない。だがその声には甘えのような響きがあった。英語で対応しても向こうは理解していないようだ。こちらが言う言葉を面白がるように更に甘ったるい声で何事か言っている。こちらが中国語を理解しないことについてはあまり重要ではないようだった。おそらく外国人が珍しかったのだろう。僕は諦めて受話器を置いた。
 今では中国の売買春産業は公然と行われているし、繁華街というほどではないような地域に赤や紫の怪しげな明かりを灯した美容院や按摩屋があったりして、改革開放の方向を間違えているのではないかと思えるほどだ。だが当時の中国には少なくとも旅行者の目に付くようなその手の店舗はなかったように思う。あるいは僕がその手のものを探そうとしていなかったからなのかもしれないが、そうした店を見掛けた記憶は無い。大きなホテルには舞庁 (wuting) というダンスホールがあり、当時の日本で言うディスコの役割をしていた。もちろん16ビートのダンスミュージックが流れていたわけではなく、フォークダンスなどが踊られていたりもしたのだが。そうしたホテルの前やエントランス・フロアーで当時の中国人民には似つかわしくない華美に着飾った女性達を見掛けたものだ。化粧などというものすらあまり一般的ではなかったので、彼女達の濃い化粧法は概ね勘違いの傾向にあったのだが、中国に詳しい旅行者から聞いた話では、要するに舞庁に誘うという建前のその手の職業婦人だったのだろう。極端に中央集権的な独裁国家ではそういう 「犯罪」 は簡単に取り締まられるのではないかと思うかもしれないが、そうはいかない。警察だろうと地方役人だろうと貨幣の前には腐敗するのだ。
 闇両替についても同じだ。当時の中国には二種類の通貨が存在した。中国の通貨はご存知の通り元だ。発音は yuan (ユゥェン)。“ユ” の後ろにあえて “ゥ” を付ける必要はないではないかと思うかもしれないが、中国語の発音をカナ表記するのにはもともと無理があるのだ。もしこの “ゥ” が無かったら日本人には “イェン” という発音になってしまうと思う。因みに “元” はもともとは “圓” なのだが、発音が同じだからという安易な理由から代用されるようになった。日本の円も韓国のウォンも、実はこの圓から来ていて、“円” は日本式の略字だ。ところで円とかドルとか言った場合、それはそれぞれ日本やアメリカの通貨名称でありその単位であるわけだが、どうも中国語に於ける元は中国の通貨とその単位という概念を越えて、純粋に通貨そのものを指している感がある。彼らが日本円のことを日元 (riyuan) と呼ぶのは円がもともと圓であるのだから分かるとしても、米ドルのことも美元 (meiyuan : “美” は “アメリカ” の意) と言うのだ。そして通訳などは外国人に分かり易いように “It's 10 yuan” などと訳すのかもしれないが、実際の口語では値段を言う時に元という単位を用いない。块 (kuai :クゥァイ ) という単位を使うのだ。
 とにかく中国の通貨は元で、その紙幣は人民幣 (renminbi) という。ところが我々外国人が中国に行って銀行で外貨両替をした時に受け取るのはこの人民幣ではない。単位は同じ元なのだが外汇 (waihui) という全く別の外貨兌換券を渡されるのだ。人民幣が人々の手から手に渡ってきたという生活感があるのに対して、皺一つ無いこの紙幣にはそのようなリアリティを一切感じることができなかった。一般のまともな庶民には縁の無い紙幣なので、特に田舎町の商店や飲食店、露天などでは受け取りを拒否されることもあったのだが、ホテルの支払いや列車・飛行機のチケット購入の際に外国人はこの外汇を要求される。もっとも1990年には多くのホテルで人民幣払いが可能に成ってはいたが。一方、まだ家電など外国製品が貴重で珍しかった当時の中国に於いては、外国製品や一部の高級品は外貨でしか購入することができなかった。多少の小銭を溜めた人でも、外貨無しにはそうした物を買えないのだ。今でこそ世界第一位の外貨保有を誇る中国だが、当時は外貨獲得に躍起だったのだろう。なにしろ今では欧米諸国から元の切り上げを要求されているが、当時は敢えて実勢より高く元の公定レートを設定していたのだ。中国元は今では多少の揺れを許容しているのかもしれないが、基本的には米ドルに連動した固定相場制だ。もちろんレートは中国政府が一方的に決める。闇両替屋が登場するゆえんだ。旅行者たちは殆ど罪悪感無くそちらこちらの町で闇両替屋と接触した。人民幣と外汇の交換レートはその時々で1.8から1.3倍にもなったのだ。日常的なこととしてあまり不安もなく闇屋と両替をしていたものだが、なかには騙される旅行者もいたようだ。僕は出会ったことがないが上海や広州に出稼ぎに着ているウイグル人の両替屋に関しては評判が良くなかった。自分でもきちんと数えたのにもかかわらず、宿に戻ってみると紙幣が全く足りないことに気付くらしい。ウイグル・マジックと呼ばれる所以だった。


食料品市場                                                         衣料品市場
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 さて、広州で何か珍味を味わったかというと、そうでもない。ゲテ物は高いのだ。僕が食べたのは鳩のスープと狗鍋くらいのもだ。犬鍋だ。ただ、広州にはおそらく当時の中国で最も美味だったのではないかと思うビールがあった。大阪から上海に向かう鑑真号のバーで誰かと一緒にビールを呑んだ時、そこにはアサヒと青島 (qingtao) の二種類の銘柄があった。これからお互い長い中国の旅が始まるのだから、ここは青島啤酒 ( pijiu : 啤酒はビールの意) で乾杯だということで意見が一致した。ひとくち口を付けた瞬間にお互い顔を見合わせた。どちらも落胆と失笑の表情をしていたに違いない。不味かったのだ。これは失敗だった。暫くは中国のビールしか飲めないのだから、ここは断然アサヒを飲んでおくべきだったのだ。中国には地方ごとにビール・メーカーがあり、当時は煙草もそうだが違う地域の商品を見掛けることは稀だった。行く先々でビールと煙草が変わるのだ。僕が訪れた地域に限っては、この広東 (guangtong) の珠江啤酒 (zhujiang ) 以外は殆ど酷いものだった。この約3ヶ月後、僕は雲南省の昆明 (kinming) からタイのバンコックに飛ぶことになる。その機内でビールを注文すると青島ビールを渡された。ナショナル・ブランドなのだ。だが、あれほど不味かった筈の青島啤酒のなんと美味く感じたことか。だがそんな中国ビールも今ではそこそこ飲めるようになったようだ。


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                                                   公園で麻雀に興じる老人たち
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by meiguanxi | 2009-04-04 16:16 | 中国
杭州 (hangzhou 浙江省) : 外国人料金とホテル、または “没有”
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                                                                   西湖


 蘇州 (suzhou) から杭州 (hangzhou) へは舟を使った。大きな地図を見てもらうと分かると思うが、上海周辺の2本の大きな川、長江 (changjiang) と銭塘江 (qiantangjiang) に挟まれた江南 (jiangman) と呼ばれるデルタ地帯には無数の水路が網の目のように流れている。この地方では舟での移動が人々の生活の中に根ざしているようだった。だが、それは運河クルーズというような優雅なものではなかった。船底が扁平に近い木造舟は、これで一晩過ごすということに不安を感じるような代物だった。屋根は付いているが非常に低く、背をかがめるようにして板張りの内部に乗り込む。下半身を投げ出して伸ばすと水面は目の高さだ。ほんの数人しか乗客が集まらないまま、17時30分に舟は静かに動き出した。それは本当に何の音も出さない静かな出港だった。振り向くと船尾では船頭が櫂を動かしている。やれやれ、手漕ぎなのだろうか。蘇州と杭州の間は直線距離で130kmほど、運河の距離で160kmほどだろうか。その距離を16時間掛けて移動するのだ。緯度は鹿児島から屋久島に掛けてと同じくらいの筈だが、冬の江南を見くびっていたっとしか言いようが無い。1990年2月下旬、珍しいことらしいが数日前の上海には雪が降っていたのだ。水面とはベニヤのような薄い壁で隔てられているだけなので、到る所から隙間風が吹き込んだ。景色を楽しむどころか、眠ることすら難しそうだった。


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 蘇州などという田舎町から来ると杭州の町は都会で、人々は忙しく動き回っているように見えた。もっとも、降るみぞれが彼らをせかせていたのかもしれない。ひと晩の舟旅ですっかり冷え切っていた身体に鞭打って、みぞれの町に出る。だが宿がなかなか見付からない。当時の中国では多くの場合、外国人は町で一・ニを競う飯店 (fandian) とか賓館 (binkuan) といった名の付いたホテルに泊まるように決められた。勿論もっと安い宿もあったのだが、それらに泊まることは基本的に禁止されていたのだ。とは言ってもそれほど高価であるわけではない。多くの個人旅行者は多人房 (duorenfang : ドミトリー) に泊まっていたからだ。当時の中国では高級ホテルにでも必ずと言ってよいほど3人部屋だったり4人部屋といった多人房があり、なかには16人部屋なんていうものもあった。そして中国の多人房は多くの場合、それなりに綺麗だったし布団も清潔だった。勿論、1泊2日の夜行バスが途中で宿泊する簡易宿泊所 (夜行バスが途中で泊まるということ自体が不思議かもしれないが) や田舎ではかなり酷いものもあったわけだが。そのぶん都会のシングル・ルームやツインが高かったかというと、そうでもない。僕が主に泊まっていたのは10元程度の多人房だったが、同じくらいの値段でシングルに泊まれる町もあったし、50元も出せば快適な部屋で過ごせた筈だ。更には不包 (bupao) と言うのだが、ツインの部屋を占領せずにベッド単位で支払うことができる場合もあった。この場合、あとから他の人が来なければ半額で部屋を占有できた。当時の公定レートが1元23円、実施レートで16円ほどだった。実勢レートとは、要するに闇両替のレートのことだ。
 だが我々には安く思えるこの宿代は、実は外国人料金だった。当時の中国ではホテル代の他に飛行機や列車のチケットにも外国人料金が設定されていた。遠路遙々訪ねてくれた外国人に便宜を図って割引してくれていた、のではない。もちろん逆だ。酔狂に海外旅行なんかができる外国人は真面目に汗水流している中国人民に金銭的貢献をすべきだ、といった発想だ。外国人は列車で1.75倍、宿の場合には規定は無かったが10倍ほどの料金を支払わなければならなかった。資本主義の経済原理にはそぐわないのかもしれないが、なにしろ中国旅行に関する限り中国の独占市場なのだ。なるほどなと納得してしまう部分もあった。当然この外国人料金に関して不満を述べる旅行者は多かった。だが先の宿代を鑑みると、人民の宿泊代が異常に安いことに気付く。社会主義を標榜しているからではない。それだけ貧しかったのだ。中国人民の平均月収が100元に満たなかった時代だ。


霊隠寺                                             飛来峰石窟彫像
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 さて、そんな訳だから宿探しに困ることもあれこれ選択する余地も無かった中国なのだが、この時の杭州に限っては別だった。杭州には外国人を受け入れる宿の数は多いようだったし、観光地とはいっても邦人外国人ともに旅行者数が今とは比べ物にならなかった当時の中国で、しかも完璧なオフシーズンだ。にもかかわらず何軒ものホテルで断られた。結局は冷えた身体をみぞれで更に凍えさせながら、バスに乗って有名な西湖 (xihu) の畔沿いに市街地をずっと離れた場所まで捜し歩かなければならなかっった。
 あまり立派とは言い難い宿の部屋は、薄暗いただの四角い箱だった。コンクリート打ちっ放しの汚れた壁は腰から下くらいの部分だけが緑色のペンキで塗られていて、それが所々あからさまに剥げていたのが一層陰気臭さを助長しているように感じられた。部屋の奥にスチーム暖房が設置されていたが機能していないようで、東京出身の者には辛い寒さだった。湿度の高い寒さには慣れていないのだ。寒気が湿度と一緒に身体の芯まで侵食してくるようだった。
 部屋には三台のベッドがあり、午前も遅い時間になるというのにそのうちの一つに先客の西洋人が寝ていた。彼はゴホゴホと咳をしながらこちらをちらっと見たが、言葉は発しない。得体の知れない東洋人に映ったのかもしれない。僕はハーイとだけ挨拶してバックパックからステンレスのカップを引っ張り出し、ネスカフェの粉を入れた。これは特筆すべき中国のホテルの素晴らしい点なのだが、どんな宿でも部屋ごとに熱い湯がポットに入れられているのだ。中国好みの派手な柄の寸胴な魔法瓶で、口には木の栓がねじ込まれている。ワインのコルク栓と同じ状態だ。大概の場合、栓は既に黒ずみぬめっていたので衛生上は多少の問題があるのかもしれないが、中国で衛生観念について文句を言っても始まらない。とにかく保温力は確かなのだ。毛布から出した目だけで、ネスカフェに湯を注ぐ僕を見ていた西洋人が、それは何処で買ったのかと訊ねる。当時の中国ではネスカフェですら好きな時に近くで買えるというわけではなかったのだ。50グラム瓶で10元くらいだっただろうか。やれやれ、平均月収の10分の1 だ。
 彼はアメリカ人で、風邪をひいて臥せっているのだという。僕が日本人だと分かると、ネスカフェがなかなか見付けられないという話から一気に中国と中国人の悪口を捲くし立て始めた。この頃の中国では相部屋になった外国人たちは挨拶代わりのように中国の悪口と中国旅行の愚痴を言い合ったものなのだ。なにしろホテルのトイレでも仕切りの壁しかなく扉が無いなんていうことはざらだったし、それらは世界の動かし難い原理原則であるかのように常に汚れていた。当然、水洗ではない。切符を買うために駅に行けば 「没有」 という服務員の不機嫌な一言でそれまで並んだ数時間が無駄に終わってしまうということもあった。没有 (meiyou)、“メイヨー” といった発音で、中国で “無い” という意味だ。中国への旅行者たちにとって “再見” や “謝謝” 以上に慣れ親しむことになる、悪魔のような言葉だった。だが、旅行者たちを不快にしていたのは非衛生的なことや切符を取るのに苦労するということだけではなかった。時にはホテルのフロンで、空き室があるにもかかわらず服務員の機嫌次第では 「没有」 と言われることさえあった。総じて旅行者達が接する中国人たちには親切心とか公衆道徳という概念が決定的に欠落していた。そのことに多くの旅行者たちはうんざりしていたし、事実半分の旅行者は 「二度と来るか!」 という捨て台詞を吐いて帰って行った。だが、それらについては別の機会に話すことにしよう。ただ、誤解の無いように付け加えるが、僕の場合には残りの半分だったのだ。


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by meiguanxi | 2009-04-01 20:46 | 中国
蘇州 (suzhou 江蘇省) : 伝統美と観光開発
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                                                               水郷の風景


 蘇州 (suzhou) は上海 (shanghai) から西に直線距離で約80km、列車で 1時間20程の近郊にある水郷だ。とは言っても上海が北京 (beijing)、天津 (tianjin)、重慶 (chongqing) と並んで直轄市であるのに対して (重慶が直轄市に昇格したのは1997年のことで、僕が最初に中国を訪れた時には四川省に含まれていた)、蘇州は江蘇省に属する市だ。
 ご多分に漏れずこの町にも今では高層ビルが林立しているが、僕が訪れた90年にはおよそ高いビルなどは無く、どちらかと言えば素朴な田舎町に見えた。玄妙観 (xuanmiaoguan) という道教のお寺が町の中心にあって、中国農家婦人的服装の老婦人達で賑わっていた。当時でも隣の浙江省杭州 (hangzhou) と並んで一応は江南きっての観光地ではあったから、玄妙観前の通りには沢山の土産物屋が並んでいた。それでも舗装道路は殆ど無く、どちらの方向にでも1・2kmも行けば田園だったものだ。ここに掲載した何枚かの写真の技術やセンスは悲惨なものだが、この光景を僕は美しいと感じる。確かに貧しいし衛生的な環境ではないかもしれない。だが、そうしたことを含めて美しいと感じるのだ。今から思えばもっと沢山の写真を撮っておくべきだったと口惜しい。


水路で洗物をする老婆                                                  蘇州の路地
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 今も地域によっては残っているのかもしれないが、当時の中国では外国人が何処でも勝手に旅行できるというわけではなかった。当局が開放都市と定めた町以外への訪問は禁止されていたのだ。好意的に考えれば、外国人用ホテルなどの準備ができない場所に迎え入れるのは憚られるという中国的見栄だったのかもしれない。それでも500程の町があったのだが、なにしろ広い中国だ。3直轄市、5自治区、21省、全て合わせると面積で日本の26倍にもなる (その後、マカオと香港が返還されてそれぞれ特別行政区に、広東省から海南省が分離され省の数は22に、重慶市が昇格したので直轄市は 4になった。尚、当然ここでは中国政府が主張する台湾省は数に含めていない。またチベットやウイグルなどの自治区は実効支配域という意味で数に含めたが、その正当性を認めるものではない)。ダイジェスト的に中国全土を旅行するには充分だったが、地域ごとに丁寧に見てやろうという向きには余りに不十分だった。
 例えば今ではインドシナ山岳少数民族を訪ねる旅と言えばラオスやヴェトナムが有名だが、当時の旅行者にあってはタイ北部と雲南省しかなく、この雲南省を回ることに関しては非常に不便を感じたものだ。と言うより、中国への留学生で中国語をそこそこ操れるのでない限り、未開放地域に踏み入ることは殆どの旅行者にとって不可能だった。実際、旅行者たちは省都の昆明 (kunming) から北西の大理 (dali) や麗江 (lijiang)、または南の西双版納 (xishuangbanna) かのどちらかに向かったが、両方に行こうとすると一度 昆明に戻らなければならなかった。今では高速道路が開通したので大理までは 5時間ほどだが、当時は朝の便と夕方の便の2本しかなくそれぞれ12時間掛った。同じく西双版納州の中心の町である景洪 (jinghong) までは 2泊3日のバスに乗らなければならなかった。途中の村の簡易宿泊所で 2晩泊まるのだ。走りっ放しで 1泊2日というバスもあるにはあったのだが、当時の中国のバスはリクライニングはもとよりサスペンションという概念すら無いのではないかと疑ってしまうような代物であり、幾つもの峠を越える道は果てし無くガタガタだったから、これは相当に辛い旅だったようだ。そしてこの 2ヶ所を繋ぐルートはあったのだが、この道を通ることは許されていなかったのだ。僕がそのルートを通ったのは1999年に成ってからだ。残念ながらその間に雲南の田舎町はかなり開発が進んでしまっていた。
 また四川省や青海省、雲南省に含まれてしまっているチベット地域 (チベット名でカムとアムド) に関しても、そのほんの一部しか入ることができなかった。実際問題、そうした状況だから情報は皆無と言っても良かった。一部の留学生達は雲南や四川からチベットを目指していたようだが、一般旅行者には冒険というより無謀の領域に近かったのだと思う。本当は情報を自力で集めてそういう場所に踏み入って行くのが立派な旅人なのかもしれないが、当時の僕には思いもよらぬことだったのだ。


寒山寺門前の江村橋                                                      北寺塔
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 ここ江南においても情報は限定されていた。江南とは長江 (changjian) 河口デルタの南側一帯のことだ。中国経済の発展に伴ってこの江南の水郷地帯は大々的に観光開発が行われたようだ。それにともなって人気になった周辺の周庄 (zhouzhuang) や朱家角 (zhujiajiao) といった町の映像を時々テレビで見かけるようになったが、中国人好みに飾り付けられてちょっとツーリスティックな印象を受ける。それを異国情緒と呼ぶならそれは少し違う。テーマ・パークと伝統の美しさは別のものなのだ。おそらく蘇州の運河の風景も人々の生活も随分変わったことだろう。


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                                                         玄妙観の参拝者たち
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by meiguanxi | 2009-03-30 19:52 | 中国
上海 (shanghai) : 失われた光景
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                                                             黄浦江と外灘


 夕刻の港は独特の匂いに包まれていた。初めての匂いだった。それが正しいのかどうか確かなことは分からないが、薪で湯を沸かす匂いだと思った。
 島影ではなく本格的に陸地が見えることに気付いた時には既に河口から30km内陸の支流に入っていた筈だ。長江 (changjiang) の河口幅は50kmを超えるし、幅10km超、長さ60km超の大きな中州があるが、通った筈の中州南側の川幅だけでも優に20km以上ある。支流の黄浦江 (huangpujiang) からは霧に霞んだ果てし無い堤しか見えなかったが、その向こうには広大な田園が広がっているようだった。時々目に入る岸辺に佇んだり座ったりしている人々の姿は素朴そのものに見えた。川には引っ切り無しに船が行き来していた。その多くが屋根付きの平たい木造船で、殆どは粗末だし年代物のように見えた。中にはそれ自体が生活の場であるかのような物もあったし、幾つもの筏を牽引している物もあった。時代錯誤のような、夢の中のような光景に思えたが、実際に僕はその風景の中にいた。
                                    港の建物は国際港としては信じられないほど貧相で薄暗く、
                                   大勢の中国人たちのまるで倉庫への搬入でもあるかのような
豫園商場                             大量の荷物のために、カスタムを通過するのには時間が掛かっ
b0049671_21515488.jpgた。街には既に夕闇が迫っていた。大阪南港から57時間余り、2泊3日掛けて鑑真号は上海に着いた。たまたま船で同室だった青年の父親の知り合いが教授をしているという大学の招待所に向かうことにした。港からのタクシーは街灯も無い真っ暗な細い路を、クラクションを鳴らしっ放しでのろのろと走った。ヘッドライトの当たる狭い範囲以外は全く見えない。そのライトが映し出すのはひたすら無数の自転車だけだ。追い抜いても追い抜いても、自転車はその先に果てしなく連なっている。まるで北極海を進む砕氷船のようだった。1990年2月、19年前のことだ。
 教授は大学の学食で晩餐を用意してくれた。同船だった5人と教授、それと片言の日本語を話す職員が長いテーブルに付いた。我々以外には誰もいない。考えてみれば春休みなのだ。おそらく教授が食堂職員に無理を言ったのだろう。中国人は個人的な義理や旧知への情は深い。知り合いの息子とその友達の他に3人も急遽増えてしまった外国人を、彼は嫌な顔もせず大歓迎してくれたし、翌日は二班に分かれて市内案内をしてくれた。しかも交通費は全て教授持ちだったのだ。食堂内は非常に薄暗く天井がとても高い。その天井には裸電球がぼんやりと灯っている。外に直接続く木の扉、ペンキが塗られただけのコンクリート打ちっ放しの壁、化粧張りの無い床、何もかもがくすんでいた。声が非現実的に反響する。大正時代の講堂にでも迷い込んだような光景だった。出された素朴な料理を食べることも忘れて、その場に自分が居るリアリティを上手く掴めないまま、僕は周りを見回していた。それはまるで映画のワン・シーンででもあるかのようだった。80年代前半から中庸、僕は中国映画を観まくっていた。当時は今ほど中国の映画は一般的ではなく、年に一度、池袋の文芸座といううらぶれた二番館で中国映画祭が行われていた。『人、中年に到る』 『黄色い大地』 『赤い服の少女』 『北京の想い出』・・・そんな映画を観ては中国の大地への憧憬を募らせていたものだ。
 NHKで1年間掛けてシルクロードの特集を放送したのは1978年のことだ。その頃はまだ一般人が中国に旅行に行くことはできなかった。尤も、日本でも海外旅行はまだ一大事の感が残っていた頃だし、学生が卒業旅行に海外に行くなどどいうことも殆ど無かった筈だ。中国が個人旅行者を受け入れたのは80年代に入ってからのことだと思う。90年といえばその前年が天安門事件のあった年であり、中国はまだまだ貧しく外国人旅行者にとっては中国を旅するということが色々な意味で試練だった。そして、それだけに面白くもあったのだ。


上海雑技                                                              玉仏寺
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 この間に中国は信じられないほどの経済発展を遂げ、かなり辺鄙な田舎の小さな町に行っても当時とは大きく町並みが変わった。省会 (省都) ともなれば全く当時の面影が無いと言って良いだろう。上海を象徴する風景と言えば今は高層ビルが林立する浦東新区だが、当時は20世紀初頭に建てられた欧州風のビルが並ぶ外灘 (waitan : 通称・バンド) から黄浦江の対岸である浦東地区を眺めるとそこには何も無かった。インドの聖地ヴァラナシの、不浄と言われるガンガー東岸のように何も無かった。上海駅のすぐ裏手には平屋の小さな粗末な家が犇くように並び、それらの家にはおおよそトイレが無く、人々は馬桶 (matong) という桶に用を足し、それを町角の共同トイレに捨てていたような時代だ。だから町のトイレはとても用を足せるような状態ではなかったし中に入ることすら困難だった。そんな時代だ。それが僅か15年余りの間に日本円にして億を越えるマンションが林立し、人々は携帯電話とパソコンを操作するようになった。もちろん当時は民家に電話など無かったのだ。驚くことに99年に開港した新しい空港とは リニアが最高時速430キロで結んでいるという。30kmの距離を7分20秒だ。
 今では日本から妙齢でお洒落な女の娘が中国に旅行して買い物や高級レストランでの食事、中にはエステまで満喫するようだが、当時は気の利いた女の娘は中国になんか絶対に行かなかったものだ。もちろん中には変わり者だっていたわけだし、実は当時から中国への留学生は相当数いた。そんな中国を知る外国人旅行者は最も若い世代でも40歳に成る頃だろう。それにしても当時、僕はなんで中国の写真をもっと撮っておかなかったのかと訝しい。当時の僕は旅行であまり沢山の写真を撮らなかったとはいえ、チベットや新疆 (東トルキスタン : 「新疆」という呼び方はあまりにも身勝手な中国中心主義的なので嫌いな方も多いと思うが、当時の僕はそう呼んでいた) といった占領地域と雲南省を除けば中国に関しては本当に何も撮っていない。中国という文化の中で何を撮るべきなのか、当時の僕は全く分かっていなかったのかもしれない。よほど おたんこ茄子だったのだ。今となっては撮り直しに行くことはできない。あの姿は記憶の中以外の何処にも存在しないのだ。


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                                                                   豫園
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by meiguanxi | 2009-03-27 20:22 | 中国