カテゴリ:絲綢之路Ⅲ[西亜]( 22 )
アンタルヤとペルゲ遺跡 (トルコ) : なんだかなぁな日もある
[ 西アジア略地図 ]
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                                                        ペルゲ遺跡の劇場跡


    パレスチナ解放人民戦線の戦士・・・ではない。
    ムスリム (イスラム教徒) にこんな髪型の男はいない。
    ベカー高原で戦う往年の日本赤軍の青年・・・でもない。
    奥平剛士や岡本公三とは ひと世代違う。
    1989年1月、20年前の僕だ。
    何を考えたのか、1年間だけラモス・ルイな髪形をしていた。
    因みにこの時代、日本中の女の娘たちは一様にソバージュだった。
    バブル真っ只中だったが、日本の女の娘たちがワンレンに席捲されてしまう少し前だ。

    ペルゲ遺跡はトルコ南西部の地中海に面したアンタルヤ近郊の遺跡で
    この遺跡の町の起源は実に紀元前1200年にも遡るという。
    今残る遺跡群の多くは2・3世紀ローマ時代のものだ。
    写真は野外ローマ劇場の最上部から。

    アンタルヤはリゾートの町でもある。
    シリアとの国境にアンタクヤという似た名前の町があって旧名をアダナという。
    オトガル (バスターミナル) でどちらかの地名を告げると
    「アダナか?」 と確認されることがある。

    そもそもはこの町に立ち寄る予定は無く、
    この町の前に泊まっていたパムッカレの次はコンヤという町へ行く予定だったのだが
    パムッカレで知り合ったカナダ人のカップルに
    良い所らしいから一緒にと誘われたのだ。

    でも、確かにコンヤまで直接行くのは少し遠いとは言え、
    アベックにノコノコ付いて行ってしまったというのは、確かに間抜けである。
    町に着いてまで彼らと行動を共にする訳にもいかず・・・

    海沿いの道を歩いていると、恰幅の良い髭の男に声を掛けられる。
    レストランを経営しているとかで、是非にと誘われる。
    またノコノコと付いて行く。
    確かに〆たての魚のグリルはとても美味しかったし
    その大きさやからすれば安くしてくれたのだろう。
    800円位だったのかな?
    でも、その値段・・・1泊の僕の宿代より高い・・・

    ペルゲはドルムシュ (ミニ・バス) で30分くらい所にある。
    神殿跡や闘技場などの遺跡が広大な荒野に点在している。
    季節外れだし、さほど高名な観光地でも無いので
    誰も、居ない。
    古 (いにしえ) の町を独り占めと言えば素敵だが
    冷たい風が寂しい。

    上の写真は
    なんでリゾートなんかに来ちゃったかなぁ、と不貞腐れるの図なのだ。 


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                                                     アンタルヤの町と地中海
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by meiguanxi | 2009-02-05 23:59 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
トラブゾンとスメラ僧院 (トルコ) : 断崖の修道院と民族の交差点
[ 西アジア略地図 ]
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                                                               スメラ僧院


 イスタンブールから直行バスで19時間、黒海沿岸の街、トラブゾン。このまま東へ向かえば4時間程でカフカス(コーカサス)のグルジアとの国境だ。トラブゾンは紀元前後、ギリシャ人の殖民によって開かれ、ヨーロッパ、ロシア、ペルシャ、カフカスを繋ぐ通商の要衝として栄えた。
 街から50km程内陸に入った山深い渓谷の岩山にへばり付くように、隠れキリスタンの修道院、スメラ僧院がある。始まりは4世紀だが、現在の建物は13~14世紀、オスマン・トルコの時代の物。当時もこの地方の住人はポントス人と呼ばれ、イスラム教徒とは一線を画していた。
 第一次世界大戦で敗北したオスマン・トルコはセーブル条約で小アジア(アナトリア半島)以外の領土を失い、更に小アジアの一部もギリシャに空け渡していた。国家存亡の危機にケマル・パシャ(アタチュルク)率いるトルコ国民党の革命でオスマン・トルコは共和国に生まれ変わり近代化路線を歩みだす(参照)。その過程で、アンチ・セーブル条約の気運から、ギリシャと戦争になり小アジアからギリシャを排除する。この結果、住民交換が行われるに至り、ポントス人の多くはギリシャに送還されることに成る。


スメラ下の渓流                                               スメラ僧院への登りから
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 スメラ僧院は日本の清流のような狭い渓谷の高い断崖の中腹にある。車の入る道から小一時間は急な道を登らなければならない。まさに人里離れた隠れ修道院だ。現在も実に見事な数々のフレスコ画が見られる。写真のフレスコ画に見られる羽を広げた天使の姿を確認できるだろうか。オリエントの有翼天人像が西に伝わってキリスト教の天使は羽を持つことになり、東に伝わって仏教に飛天が生まれた。羽の代わりに羽衣を纏い女性の姿をした飛天はシルクロードを渡りガンダーラから中央アジア、そして敦煌から果ては日本にまでその姿を残すことになる。大昔に書かれたこの天子も法隆寺の飛天と共通の祖先から生まれたのだ思うと、なにか不思議な気持ちがする。


スメラ僧院内部                                                スメラ僧院のフレスコ画
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 現在のトラブゾンは、黒海沿いの幹線道路の直ぐ近くまで迫った急峻な断崖の上に開けている。近代的ではあるが落ち着いた美しい街だ。街の中心である広場から海岸公園に下りる道ある。夕刻、この坂から見る黒海に沈む夕陽は実に美しい。郊外にはこの街の象徴のようなアルメニア様式の教会・アヤ・ソフィア寺院があり、現在ではそれ自体が博物館になっていて色鮮やかなフレスコ画を観ることができる。


アヤ・ソフィア寺院博物館                                        キリム(絨毯)を洗う婦人
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 ところで、ソ連崩壊後、この街には多くのロシア系の商人が押し掛けた。また、多くのチェチェン人難民達が集まり、通過して行ったのもこの街だ。港近くの海岸通り脇に300mは続くかと思われるアーケード(半透明の天井を付けたトンネルのような造り)があり、そこがロシア・マーケットに成っていて日用品などを並べた露天が延々と連なっている。夜、この近くの飲食店には派手な衣装を着たロシア系女性達が屯し、なにやら怪しげな様子になる。国境の街というのは何時の日、そして良くも悪くも文化や民族の混ざり合う場所なのだ。


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                                                        トラブゾン郊外と黒海
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by meiguanxi | 2009-01-07 19:08 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
パムッカレ (トルコ) : 温泉が造った石灰棚
[ 西アジア略地図 ]
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                                                                 石灰棚


 雪景色・・・ではない。

 石灰分を含んだ水が段差のある地形を流れることで出来る石灰棚。石灰棚と言えば今ではチベット (自治区ではなく本来のチベット地域) 東北部アムド地域の東南ンガワ地方 (現中国支配域四川省阿壩蔵族羌族自治州 : 蔵はチベットの意の漢語) の九寨溝近くの黄龍が有名だが、成り立ちは同じだ。
 イスタンブールからなら20kmほど離れたデニズリまでバスで13時間、そこからはドルムシュ (ミニ・バス) になる。僕の場合にはエフェス遺跡で有名なセルチュクからだったので、デニズリでの乗換えを含めて3時間半程だった。
 ここは古代ローマ、更にその前のヘレニズム王国であるペルガモン王国の時代から保養地があったと言われる温泉地で、往時の遺跡が断崖の上に残されている。黄龍に比してパムッカレが特異なのは、温泉が石灰棚を形成しているということだ。その名も Pamukkale Motel というホテルの中庭に露天の温泉プールがある。湧き出た温水が池を作っているのだが、小魚も泳ぐこの池にはヘレニズム時代の円柱がゴロゴロと沈んでいる。勿論、旅行者が入ることもできる。
 ここから流れ出た石灰分を多く含んだ温水が断崖を下る。流された土や小石、枯葉や小枝などが溜まった部分に石灰が固まり堰になる。堰の内側に溜まった水が流れ出て更にその先に堰を作る。このようにして高低差200mにもなる石灰棚が築かれた。無数の真っ白な石灰棚ひとつひとつに溜まった水は青く輝き、夕刻には赤く染まる。


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 僕がここを訪れたのは1989年初頭なのだが、この時代、本当に写真を撮らなかったのだなと思う。プールの写真も遺跡の写真も、石灰棚を俯瞰した写真も無い。やれやれ、なんてことだ。初めての旅だった当時の僕には、本物の羊飼いとの出会いの方がずっと感動的だったのかもしれない。
 下の写真は羊飼いの写真ではなく、羊飼いにシャッターを押して貰ったものだ。この頃、僕は羊さんと同じような髪形をしていた・・・


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by meiguanxi | 2008-12-28 19:28 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
エフェス遺跡 (トルコ) : トルコ旅行事情に関する昔話
[ 西アジア略地図 ]
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                                                収容人数25,000人の野外劇場


 イスタンブールのオトガル (バス・ターミナル) は旧市街の中心地(港)から北西に10km程の郊外にある。シルケジ駅やアヤ・ソフィア、スルタン・アフメット・ジャミィ (ブルー・モスク) のある地域からならトラム (路面電車) に乗ってアクサライという大きな交差点でメトロに乗り換える。何も無い閑散とした場所に近代的なターミナルが建っている。だが嘗てオトガルは岬から4・5km程の所に連なる “テオドシウスの城壁” の直ぐ外にあり、トプカプ・ガラジと呼ばれていた。今、そこは市内を走るドルムシュ (ミニ・バス) の発着所に成っている。今では中心部からトラムが走っているが、当時はドルムシュかタクシーしか無かった。
 ここで断ってしまいたいことがある。僕のブログでは良くあることだが、このエントリーはタイトルと内容があまり合致していない。つまりエフェスの紹介や説明、そこでの出来事などはあまり出てこないだろうと思う。
 さて、初めての旅だったこの時の当初の予定では、パリから崩壊前のユーゴスラヴィアのベオグラードを経てやって来たトルコは、イスタンブールだけでその後は列車でアテネに抜ける積りでいた。ところが5日間イスタンブールをうろついているうちにどうしても奥地に入って行きたくて仕方がなくなっていた。何しろ初めての旅行だったし、今ほどにはまだ誰も彼も個人旅行という時代でもなかったのでアジアの奥地に入っていくということには不安もあった。僕にも可愛い時代はあったのだ。だがその日の午後、どうしても堪えられなくなってしまった。夕刻前、バスの予定も知らないまま払ってあった宿をチェックアウトして、僕はトプカプ・ガラジに向かった。


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                                                         マーブル・ストリート


 そこは整地もろくにされていないような凸凹の荒地とでも呼べそうな広大な広場で、バス会社の無数のブースと食品店や土産物屋が立ち並び混乱を極めていた。地面は融けた雪でぬかるんでいる。城壁の直ぐ外側は露天のバザールに成っていて、放牧された羊がうろついていたりもした。バス会社の客引きたちの呼び込みの声、それぞれの目的地へのバス会社を探す無数の人々のざわめき、物売りの甲高い声、まさにカオスのような場所だった。といっても心配は要らなかった。うろうろしているだけで誰かが直ぐに声を掛けてくる。目的地を聞くと自分の会社で扱っていようがいまいが、乗りたいバスを運行しているブースまで連れて行ってくれる。トルコの人々は非常に親切で、何の不安も感じさせなかった。だが勿論これはイスタンブール管区が旅行者達にとって安全だった時代の話だ。1988年暮れから89年初頭。その後、イスタンブール付近の治安は非常に悪化してしまった。2000年に訪れた時にはヴィザ取得に必要なレターを作成して貰うために2回ほど日本総領事館に立ち寄ったのだが、その2回ともパスポート、現金を含めて貴重品を身包み剥がれたという別々の青年に出会った。睡眠薬強盗だという。更に今ではテロの危険まで加わってしまった。初めに訪れた時と92年当時はのんびりしたものだったのだ。旧市街にはトラムもメトロも走っていなかった時代であり、ガラタ橋はまだ架け直される前で揺れる二層式の橋の下階には海鮮料理屋が軒を連ねていた時代。橋を渡り新市街の中心部に登る急な坂の途中をちょっと下った所にある公娼所に、まだ外国人も入れてくれた時代だ。いや、僕は後学の為に寄らせて貰ったのであり、アッラーに誓ってそれ以上の何も無い。むしろそこの光景は、こう言っては失礼になるのかもしれないが、あまり心躍るようなものではなかった。段差のある敷地に何軒もの店があり、女性達が客を呼んでいる。美しい娘も居たが中には母親の年齢を越えているのではないかと思える女性が崩れた姿態を晒していたりもした。


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                                                                 城塞跡


 脱線してしまったが、まあ、そんな時代だ。18時、乗り込んだ長距離バスは既に夕闇に包まれた街を離れる。ボスポラス海峡を渡るのかと思っていたのだが、意に反してバスは西に進んだ。マルマラ海のエーゲ海への出口であるダーダネルス海峡に向かっているようだった。トルコのトランスポーテーションは当時から立派なもので、長距離バスの殆どはベンツの高級車だったし、道の整備も素晴らしかった。走り出して直ぐに車掌がコロンヤを手に振り掛けてくれる。エチルアルコールに加えられたレモンの香りが爽やかだ。やがて飲み物と軽食が振舞われる。夜行とはいえ快適なバスの旅だ。この翌年僕は中国のバスを知ることになる。今の中国ではない。当時、中国の殆どのバスは国産で、それはそれは恐ろしい乗り物だった。更に次の年にはインドのバス、その翌年にはパキスタンのバス…やれやれ、奥地へとはいってもトルコの旅なんて本当に幸せだったのだ。
 翌早朝、まだ明けやらぬ街道のバス停で下ろされる。ターミナルではなくバス停だ。周りには畑や牧草地が広がっているだけのようだ。直行だと聞いていたのだが、どうやらここで乗り換えろということらしい。後で知ったことだが、そこはイズミールという大きな町の郊外らしかった。ローカル・バスが来るまで小一時間は待っただろうか、こんな何も無い場所に一人で放り出されるのはあまり気持ちの良いものではなかった。だが車掌が言った通り、チケットは買い直さずに良いようだった。午前7時、ローカル・バスはセルチュクの小さな町に停まった。すると老人が話し掛けてくる。英語なんて話せない。彼はただ 「ゲスト・ハウス? ゲスト・ハウス! ヴェリー・チープ!」 を繰り返した。何しろ早朝7時だ。非常に胡散臭かったが僕は彼に付いて行くことにした。しかし驚いたことに、彼の連れて行ってくれたのは実に気持ちの良い家族が営む実に安価で清潔な民宿だった。もちろん彼は何某かのマージンを受け取ってもいるのかもしれないが、宿代から察するに早朝に来るかどうかも分からない旅行者をバス停で待つ見返りには合わない仕事だ。或いは親戚か何かなのかもしれない。ただ分かったことは、やはりトルコ人は親切で信用できるようだということだった。勿論、あくまで “当時は“ ということなので、今のことは保証しない。
 エフェスはセルチュクの町から4km程の所にあるローマ時代の広大な遺跡だ。この地は在りし日には世界七不思議のひとつに数えられたアルテミス神殿がB.C.550年頃に建てられたとされる場所でもある。1月の初め、季節外れの遺跡には観光客など誰一人として居ず、繁栄していたのだろう古の都市には、草を食む羊達の上を冷たい風が吹き抜けていた。


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                                                                 羊飼い
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by meiguanxi | 2008-12-17 23:22 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
[ 西アジア略地図 ]
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ここは駅だ。
夜、21時半くらいだろうか。待合室で国際列車を待っている。ここはその始発駅だ。
それにしては閑散としている。正面のベンチに写っている以外にも、
この部屋の中には何人かの人達が壁に備え付けられたベンチに座っている。
でも彼らは列車を待っている訳ではない。ただの酔っ払いであり、或いはジャンキー…
そもそも国際列車の出発駅の待合室にしては、シートが少な過ぎる。
まあ、文句を言ってもどうにか成るものではないのだが。
だいたい、この時間の乗降客自体が多くはない。
これから国際列車が発車するんだぞ、というような緊張感は駅の何処を探しても見当たらない。
必要以上に高い天井に吊るされた古めかしいシャンデリアはほの暗く、
まるで前衛演劇の舞台セットのように空気が止まっている。
この待合室の片隅にいた老女が自分のベンチを離れて突然、芝居じみた大きな声で何かを叫ぶ。
その声が、高い天井にわざとらしい程に反響する。
勿論、僕にはその言葉の意味は分からない。
けれどこの国の人達である他の人々にも、その意味がどのくらい伝わっていたのか。
彼女は時々、それを繰り返す。明らかに精神に問題を抱えているのだろう…。
その声を、港からの汽笛が打ち消す。

イスタンブール、シルケジ駅。ヨーロッパ側の終着駅だ。
ここを22時に発車した列車には2等車両しか繋がれていない。
乗客は疎らで、乗った車両には他に誰もいない。寒さに凍える車内。
いつの日か、今度はアジアから渡って戻ってくるよ…
1989年1月末、動き出した列車の窓外に過ぎるアヤ・ソフィアを見上げながらそう呟いた。
そして事実、僕はその後2回の旅で3回もこの街を訪れることになったのだ。
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by meiguanxi | 2007-11-06 22:57 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
マルディン(トルコ): メソポタミア平原を見渡す丘
[ 西アジア略地図 ]
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                                                 岩山にへばりつくマルディンの町

 ディヤルバクルの記事が非常に重くなってしまったので、今回はあまり口を開かずのんびりと風景を眺めながら旅情に浸っていようと思う。

b0049671_13242294.jpg マルディンはデヤルバクルから96km、ドルムシュ(ミニバス)で1時間半ほど南、綺麗な円錐形をした石灰岩の岩山にへばり付いた小さな町だ。南に2・30kmでシリアとの国境、その国境線を東に進めば200kmもせずにイラクとの国境。

 僕がこの町を訪れた当時、まだガイドブックの情報は非常に簡単なものしかなく、もちろんインターネットも存在しなかった。現在ネット上で見ると、周辺も含めて知らずに通り過ぎてしまったらしい見所が沢山あったことが分る。今では丘の麓に新市街ができているらしいのだが、僕の知るマルディンは丘の中腹を走るたった1本の狭いメインストリートとその周辺に過ぎない。

 周辺の名所も知らずに過ごした数日の滞在。僕は何をして過ごしていたのだったか、今では良く思い出せない。散歩をし、出会った子供達と遊び、夜になると停電したロカンタ(飯屋)で食事をし、商店で買った缶ビールを安宿の部屋でこっそり飲んでいたのかもしれない。おそらくそんなところだ。
 この町の歴史は興味深いものなのだが、当時の僕には知識も情報もなかった。ただ、砂に霞む果てしないメソポタミアの平原に沈む夕陽を眺めながら、情緒的な想像に浸っていたのだろう。

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by meiguanxi | 2007-11-04 13:26 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
ディヤルバクル(トルコ): クルド人問題を巡って
[ 西アジア略地図 ]

 トルコという国を3回訪れている。1回目は僕にとって始めての異国の街であったパリから崩壊前のユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを経由してイスタンブールに入った。当初の予定ではそこからギリシャに列車で抜ける予定だったのだが、5日間滞在するうちに奥地に行きたいという欲求を押さえられなくなり、その都度次の町だけを決めて長距離バスに乗りふらふらと東に向かった。結局はイランとの国境に近い最東端の町、ドウバヤジットまで行ってしまったものだ。ところが、この時の写真が殆ど無い。
 今では旅に出るとそれなりの量の写真を撮ってくるようになったが、旅を始めた頃はそうではなかった。ひとつの町で2・3枚という場合も少なくない。今に成ってみると勿体無かったような気もするが、当時はある意味でそれで充分だったのかもしれない。写真を残すために旅行するのではなく、旅することそれ自体のために旅をしていたように思う。勿論、デジカメなど存在しなかった時代であり、写真に多くを費やす金が無かったというのも事実だ。また嵩張るフィルムを持ち歩きたくなったという事情もあったのだろう。そんな訳で1989年初頭に訪れたこのディヤルバクルの写真も殆ど無い。

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 トルコ東南部に位置するディヤルバクルはいわゆるクルディスタンと呼ばれる地域に属し、トルコ共和国に住むクルド人の中心的な街だ。旧市街を取り囲む5.5kmにも及ぶ城壁は、古い部分はローマ時代に遡るという。街の脇にはかのチグリス川が流れ、嘗てはこの川を使ってバクダッドまで交易がなされていたのだそうだ。もともとこの地域を含め東アナトリア地方はいわゆる歴史的アルメニアの土地だが、第1時世界大戦時のオスマン・トルコによるアルメニア人のシリアへの強制移住とそれに伴ういわゆる大量虐殺によって、この地域からは少なくとも殆どの正教徒であるアルメニア人は姿を消した。あまり知られていないことだが、欧州列強による分割の脅威に晒されていた当時のトルコにあって、このアルメニア人虐殺にはクルド人も関わっていたのだ。
 その後、第一次世界大戦によって敗北したオスマン・トルコを欧州列強が解体させる際、この地域のクルド人を独立させるという条約が一度は結ばれながら、イギリスとフランスによる中東分割統治(植民地化)によって、今のイラクやシリア、ヨルダンなどの国境線が引かれた。またトルコ本土も分割の危機にあった。
 こうした中、トルコの父と謳われるケマル・アタチュルクによってトルコ共和国が建国され、危機を乗り切ることになる。クルド人はこの建国に貢献したのであったが、だがこの建国の過程は列強への対抗と独立保持という目的から、トルコの民族的ナショナリズムが高揚する過程でもあった。建国後、共和国政府は少数民族に対し同化政策を執る。トルコ国内に居住する者はトルコ人ということだ。現実的にはこれがトルコ政府が国内の少数民族の存在自体を認めないという結果をもたらす。クルド人達は公式の場でのクルド語の使用もアイデンティティの表明も認められず、民族的抑圧を強いられることになる。
 僕が訪れた当時、ディヤルバクルを含むトルコ東南部地域には非常事態宣言が出ていた。僕がクルド問題を最初に意識したのは、クルド人映画監督ユルマズ・ギュネイが牢獄からの指示で撮った 『路 YOL 』 を観た時だったと記憶している。この旅に出る数年前のことだ。日本で公開された1985年の前年、彼は亡命先で亡くなっている。実はトルコでは1980年に軍による無血クーデターとそれに続くトルコ民族主義色の濃い共和国憲法の制定により、クルド人への迫害はより厳しいものになっていた。彼が死んだ同じ年、トルコではクルド労働者党(PKK)が結成され、分離独立を求めてゲリラ活動を開始する。こうした中、1987年に東南部地域が非常事態宣言による統制化に置かれることになったのだ。
 しかし一方でこの問題はEU加盟を目指すトルコ政府にとってはネックでもある。同じ年、トルコは正式にEUへの加盟申請を出しているのだ。1999年、PKKは戦闘の停止を宣言し、非常事態宣言が解除されたのは2002年のことだ。この頃からトルコ政府によるクルド人に対する政策は幾分か軟化することになる。
 ところが、だ。2003年のアメリカとイギリスなどによるイラク攻撃は事態を複雑にさせる。イラク北部に於けるクルド人自治政府の存在だ。イラク戦争後のイラクに於けるクルド人地域は相当の自治権を有することになり、また外国資本の流入もあって嘗て無い活況を呈している。当然ながらこの自治区は北辺でトルコと国境を接している。これがトルコ国内のクルド人の分離独立の気運を再燃させることになる。イラク北部に拠点を移したPKKはトルコ軍へのゲリラ攻撃を再開し、多くのトルコ軍兵士が死亡するに至って国内ではトルコの民族主義が高揚する。ディヤルバクルの街ではクルド人によるデモ隊と警察が衝突を繰り返す。そして2007年10月、トルコ政府はイラク領内への越境攻撃を国会で承認させた。
 イラク戦争に於いてイラクのクルド人自治区を利用し、一方ではトルコに基地を置き今でも燃料などの補給にトルコ領を頼っているアメリカとしては頭の痛い問題だ。だが、アメリカの立場などはどうなろうと知ったことではない。

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 僕は憂鬱なのだ。勿論、僕の憂鬱などそれこそ知ったこではないと言われるのが落ちではあるのだが。人口3000万とも4000万とも言われる決して少数ではないひとつの民族が、トルコ・イラン・イラク・シリア・アルメニアなどに分断され自らの国家を持たないというのは、少なくとも現状の世界の在り方としては不公平であろうし、それぞれの国で虐げられているとするならば独立への希求も当然のことだろう。だが、パレスチナやチベットなどに於ける問題のようには単純ではない。そもそもいわゆるクルディスタンと呼ばれる地域の住民は古来クルド人だけであった訳ではなく、この地域の民族構成はモザイク状態だ。
 現状では考え難いが仮にトランス・クルディスタンといった国家がこの地域に出来たのだとしたら、それはまた新たなナショナリズムと民族浄化とを生む可能性とを否定できるのだろうか。一方、例えばトルコのクルド人とイランのクルド人とでは意思疎通ができないほどに言語の差異があるのだそうだ。そもそも既に近代以前にトルコとペルシャによって分断されてもいた。石油を産する一部の地域を除き、決して裕福とは言えない状態で、地域間格差とそれに伴う抗争とを回避しうる民主主義が成熟するまでにどれほどの時間が必要なのだろうか。
 僕はとにかくナショナリズムというものが嫌いだ。だが、ある国家に於いて主要民族の利害とナショナリズムとによって虐げられた少数民族が独立を求める場合、どうしてもその過程は非抑圧民族がナショナリズムを高揚させる過程とパラレルだ。思うのだが、全ての民族が必ずしもそれぞれひとつの国家を運営する必要などはない。そんなことをしたら世界中が極小極貧国家群の乱立で収拾が付かなくなるだろう。そしてそれぞれが周辺からの軍事的、経済的、或いは文化的侵略の危惧からからの要請としてナショナリズムを高揚させるなら、出口は力尽くの抑圧でしかなくなるだろう。また、ひとつの民族が複数の国家に別れて存在していることが必ずしも不幸であるわけではない。問題は、それぞれの属する国に於ける状況である筈だ。
 そもそも民族というのは何か実体のようなものではない。それは例えば言語や文化、宗教や身体的特徴、或いは遺伝的系譜等、どれをしても括れる概念ではない。ただひとつ、アイデンティティによってのみ語られうるものだ。しかし、だからそんなものに執着するなと言っているのではない。おそらくそうした言説は、少なくともそれだけではトルコに於ける同化政策がそうであるように、優位な勢力に利用される結果に終わる。
 憂鬱ではあるが話をトルコに戻そう。トルコに於けるクルド人の割合は全人口の4分の1 にも達するという。第一次大戦後の列強によるオスマン・トルコ分割植民地化という危機が迫っていた時、ケマル・アタチュルクによる共和国建国に力を尽くしたのはトルコ民族だけではない。先にも述べたようにアルメニア人虐殺に加担したのでもあるが、クルド人は建国にも尽力したのだ。
 例えばトルコに於いて、それぞれの民族を尊重した民主主義の成熟とか共存・共生の概念の共有とか、そういった方向へ問題を止揚する為に必要な条件とは、いったいどのようなものなのだろう。少なくともどちらの側のものであっても、民族主義がその解決に道を付けるものではないことだけは確かだ。
 しかしこう書いても更に憂鬱だ。この文章はクルドの独立を阻みたい各国の支配民族にとって結果的には痛くも痒くもない。ナショナリズムへの危惧が先行するあまり、各国で不利益を被り続ける人達のそれ自体正当な独立への希求に対して、あまりに否定的であるという謗りを免れないだろう。
 日本からは遠い地域での関係の無い国での問題に見えるかもしれない。だが日本政府のトルコに於けるクルド人問題に対する姿勢は、トルコ政府の意向をそのまま反映させたもになっている。UNHCR(国連難民高等弁務官)が難民認定したクルド人に対してさえ、迫害は無いとして日本政府は国外退去を命じる始末だ。
 ディヤルバクルを訪れた時、城壁の外の狭い裏道をチグリス川に向かっていると、幼い子供たちが石を投げつけてきたものだ。この街では子供に石を投げられることがあるというのは有名な話だった。あれから19年近くの時が流れた。先日、NHK 『新シルクロード』 という番組で、ディヤルバクルでのデモで顔面を負傷したクルド人青年が映し出されていた。もしかしたら、彼は僕に無邪気に石を投げていた、或いは道案内をしてくれた子供たちと同じ世代なのかもしれない。
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by meiguanxi | 2007-11-02 22:02 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
アンタクヤ (トルコ) : シルクロードの終点
[ 西アジア略地図 ]
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                                                         アンタクヤの町並み

 現在ではイスタンブールのオトガル(バスターミナル)は旧市街からトラム(路面電車)と地下鉄とを乗り継いだ遥か郊外に移ってしまったが、以前は中心部から5km程の テオドシスの城壁 のすぐ外にあり、トプカプ・ガラジと呼ばれていた。それは現在のオトガルのように近代的な場所ではなく、舗装もされていない広大な広場に無数のバス会社のブースが無秩序に立ち並び、数え切れないバスが犇く、それは混沌の坩堝のような場所だった。現在ではアジア側に渡る多くのバスが第2ボスポラス橋を渡るのかもしれないが、まだボスポラス海峡に架かる橋が1本だった時代だ。
 午後3時にトプカプ・ガラジを出発したバスは、約20時間掛けて地中海の最奥北端の小さな町に着く。ここを南に下ればシリアやヨルダンといったアラブ中東。トルコの外れの町であり、中東への玄関口だ。アンタクヤは第一次世界大戦から暫くフランス統治下のシリアに編入されていたことがあり、現地では当時の呼び名であるハタイの方が通じが良い。だが、歴史や聖書に詳しい方には、ギリシャ風にアンティオキアと言った方がピンと来るだろう。


旧市街の路地とモスクの鐘楼                                ハビブ・ナシャル・ジャミィ(モスク)
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 東は中央アジアからインダス川(現パキスタン)にまで及ぶ大帝国を打ち立てたギリシャ(マゲドニア)のアレクサンドロス(アレクサンダー)の死後、帝国は本拠地バルカン半島のマケドニア王国、プトレマイオス朝のエジプト王国、セレウコス朝のシリア王国、及びその他の小国に分裂する。この内、小アジア(アナトリア:現在のトルコ)からインダス川に及ぶ西アジア一帯の広大な領土を引き継いだのが、シリア王国だ。アンティオキアは、セレウコスⅠ世によって紀元前300年頃に建設され、シリア王国の首都となった。


聖ペテロ教会(外観)                                              聖ペテロ教会(内部)
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     キリストの死後、使徒ペテロがこの地を拠点に布教活動を始め、
   弟子達が初めて「キリスト者(クリスチャン)」と呼ばれたのも、この町
   だ。勿論キリストはキリスト教徒であった訳はないので、ここがキリス
   ト教という宗教発祥の地だと言っても過言ではない。町の郊外には、
   ペテロが初めて説教をし、キリスト者のコミュニティを作ったとされる
   石窟寺院、聖ペテロ教会が今も残る。尤も、山の斜面に穿たれた内
   部は意外に狭く、壮麗な装飾も無い。ただ想像力だけが往時への案
   内人だ。
  また、ローマ時代には、ローマ、アレクサンドリア(エジプト)、コンスタンティノープル(イスタンブール)、エルサレムと並んで、ローマ教会の五大本山が置かれた場所でもある。しかし、6世紀の大地震やイスラームの進入により、現在では見るべき遺跡も殆ど残っていない。
 ここは遥か長安から続いてきたシルクロードの陸の終点だ。物品はここから船でローマを始め各地に輸送されていった。しかし、現在のアンタクヤの町は静かな田舎町だ。12世紀の十字軍によって造られた教会が、後にイスラームのモスクに改修されが、このハビブ・ナジャル・ジャミィだけが、僅かに往時を偲ばせる。町にはアラブ系の住民も多く、ここから西に1時間程、十字軍時代の要塞跡などが残る道を行けば、シリアとの国境。シリアの地図では今も、この町はシリア領として記載されていると言う。
 僕がこの町を訪れたのは1992年、当時はここからシリアやヨルダンに向かうためには、イスタンブールの日本領事館(又はアンカラの大使館)で発行してもらったレターを持って当該領事館(大使館)でヴィザを取得しなければならなかったが、その後、ビザを巡る状況は時々に変化しているようだ。現在のアンタクヤの町は往時の賑わいもさほど観光資源があるわけでもないが、いずれにせよ陸路に拘る旅行者にとって今もこの町は要衝であることに変わりはない。

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                                                              町のナン屋
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by meiguanxi | 2007-10-04 18:34 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
カシャーン(イラン) : 泥の街
[ 西アジア略地図 ]
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                                                            旧市街の路地

マスジッデ・ソルターニーイェ                  アラビア海から北西に入り込むペルシャ湾を陸地に延長する
b0049671_1031959.jpgと、そのままチグリス川・ユーフラテス川の流れるメソポタミア平原だ。菱形のような形をしたイランの南西辺はこのメソポタミアとペルシャ湾に接しているわけだが、このラインに沿ってザクロス山脈が聳える。エスファハンはこの山脈中部の北東裾野の細長い盆地様の高原の一角に開けた都市なのだが、更に東側にはザクロス山脈と平行する支脈が伸びている。
 エスファハンから首都テヘランへの道は、この支脈を北辺で回り込むように通じているが、僕の乗ったバスはこの支脈を潔く越え、イラン中部の低地地帯に降りる。低地といってもその殆どは砂漠で、北側にはキャビール砂漠、南側にはルート砂漠が広がる。越えて来た山脈は白い雪を抱き、走る道の周囲はキャビールの、色の無い土漠だ。メインルートからは外れ交通量も少ないが、しかし西アジアの大陸を移動しているのだという実感を強く抱かせてくれる道でもある。
 ペルシャ絨毯の産地として名高いカシャーンは、このキャビール砂漠西端に位置するオアシス都市で、パキスタン国境からザヘダン、バム、ケルマン、ヤズドを通り、コムでエスファハンからの道を合流してテヘランへ至る、いわばイラン中央を南東から北西に突っ切るルート上に位置する。
 今はこの街に関する情報もそれなりに充実しているようで、ちょっと検索してみてもフィン庭園やテペ・シャルク遺跡など郊外の見所の他、昔ながらの景観を有するアブヤーネ村へのゲットウェイとしても紹介されている。
 だがこの時に僕の持っていたガイドブックには、サファビー朝シャー・アッバースの宮殿を有するバーゲ・タリキイェ・フィンという庭園が郊外にあるという程度のインフォメーションしか掲載されていなかった。知らないということは恐ろしいことだ。アブヤーネ村を知らなかったことなど特に、今では地団駄を踏む思いだ。

ハビーブ・エブネ・ムーサー廟                                              絨毯の洗浄
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 ところでこの時、僕はトルコから中央アジアへ至るべく、その通過地としてイランに入国したので、2回目だったイランは実のところマシュハドさえ見られれば良かったのだ。トルクメニスタン入国期日までの日程を消化する為もあってエスファハンの金曜礼拝を訪れた後、どうしてカシャーンに寄ろうと思ったのか、実のところ判然としない。イラン式宮殿と庭園に感心があった訳でもないし、なにしろ殆ど行き方くらいしか情報が無かったのだから、ちょっとした気紛れ以上の興味があった訳ではないことは確かだ。
 確かに僕はアブヤーネ村もフィン庭園やテペ・シャルク遺跡も目にしていないわけだが、それでもこの街を訪れた気紛れに、僕は感謝した。落ち着いた賑わいの表通りからアーケードのバザール通りに入る。地方の小都市的バザールで、それ自体はそれほど珍しい光景ではない。
 バザールの一角から裏路地に出る。そこに現れたものは土色の世界だった。日干煉瓦と泥で塗り固められた家並みが犇いている。その向こうにモスクや聖者廟のドームが聳えている。そのドームも土の色だ。まるで中世に迷い込んだような錯覚に陥る光景だ。


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泥の家々が犇く路地を彷徨っていた時、一人の男に呼び止められた。彼は僕が立っていた前の絨毯ファクトリーを経営しているのだという。と言われても、そこに建っていたのは周りと変わらない泥壁の住宅だ。中に入ってみると、漆喰で塗り固められている所為か、鉄筋の建物かと錯覚するような感じだ。2階でチャイを御馳走になりながら、絨毯の洗浄を見学させてもらった後、更に上階から屋上へ。
 そこで僕が見たものは、この8年前に見たアルゲ・バムが現在に蘇ったかと見紛うばかりの、日干煉瓦と泥の屋並の連なりだった。そしてそれは今現在なお人々が生活する生きた街で、かなりの大きさを持った都市だった。欧州に石の文化があり東アジアに木の文化があるように、ここイランには脈々と営まれてきたのだ泥の文化が確かに存在したのだ。

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                          カシャーンへ向かうバスの車窓(ザクロス山脈の支脈とキャビール砂漠)
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by meiguanxi | 2007-03-21 02:46 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
アルゲ・バム(イラン):泥の町・失われた遺跡
 イランで日本人学生が誘拐されて以来、検索でこのページを見て下さる方が増えているようです。そこで是非、報道では語られていない旅行事情についてもご理解頂きたく、一時的に追記します。
 彼の通ったルート、つまりパキスタンのクエッタからイランのザヘダンというコースは決して特異なものではなく、陸路で西を目指す場合、シベリア鉄道を除けばアフガニスタンへの旧ソ連進軍の後は長らく唯一のルートでした。現在では中央アジアを通過するルートが可能ですが、今でもそちらの方が珍しいでしょう。彼の通った国境は、日本人を含む多くの個人旅行者が毎日のように通過している場所であるのです。
 次に、イランは一般犯罪という点では至って治安の良い国であり、多くの旅行者が口を揃えることですが、一般的にイラン人は旅行者に非常に親切であり友好的です。更に付け加えるならば、バムの遺跡はこの地域に旅行したのなら外すことの出来ない文化遺産です。
 解って頂きたいのは、彼はアフガンやイラクに行ってしまうのと同じような意味では、決して無謀な危険地志向を持っていた訳ではなく、また他の旅行者に比べて注意が足りなかった訳でもないのだろう、ということです。
 返す返すも 9.11 以後の世界の在り様が残念でなりません。                         (2007.10.13)


2008.6.15.追記)  2008.6.14. 彼が漸く解放されたというニュースが入りました。本当に良かった。旅人が自由に、安全に国境を渡っていける世界であってほしいと心から思います。

[ 西アジア略地図 ]
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                                                     城砦から俯瞰したアルゲ・バム

 始めに断ってしまうが、このページに掲載した写真の風景は既に、この地球上から永遠に失われてしまった。

城砦
b0049671_5113665.jpg 僕がイラン東部のバムという小さな町を訪れた1992年には、日本ではイランに関する個人旅行向けのガイドブックがまだ存在していなかった。旅行人の 『アジア横断』 が出版されたのが98年、『地球の歩き方・イラン編』 は更に後になる。アジアを陸路で西に渡る日本人旅行者の間では 『イランへの道』 という手書きのコピー冊子が「流通」していた。売られているものではなく、パキスタンやインド、或いはトルコで旅行者から旅行者へと手渡された。その度に旅した人の情報が書き加えられ増殖した。だから元は同じでもその内容はそれそれで違っていたのだと思う。僕も見せてもらったことはあるのだが、残念ながらこの時、それを入手することは出来なかった。手
                                              元にあったのは lonely planet 社の
城砦内の厩(うまや)                                 『West Asia』、いわゆる survival kit の
b0049671_5121525.jpg西アジア編だったが、これにもバムに関する情報は記載されていなかった。
 しかしどうしてもこの町、いやこの遺跡だけは外せない想いでいた。ペルセポリスやエスファハンのイマーム広場 (参照12) よりも、なんとしてもこの遺跡を見たかったのだ。いや、そこに立ってみたかった。僕がこの遺跡の存在を知ったのは、NHK(日本放送出版協会)刊 『シルクロード ローマへの道 第八巻 コーランの世界 イラン・イラク』(1983年初版)による。1980年にセンセーションを巻き起こした石坂浩二ナレーションによるシリーズの関連本だ。番組も見たのだと思うのだが、中国領(甘粛省および新疆ウイグル自治区)のシリーズ以外、記憶が定かでない。ただ、このシリーズ本の何冊かを、大学時代に手放した記憶がある。『コーランの世界』 は、イランへ行くに当っての資料として購入したものだった。

 バムの遺跡(アルゲ・バム)に色はない。総てが日干し煉瓦と泥だけでできた土色の世界だ。直径約1km周囲3kmの城壁に囲まれたこの遺跡は、イラン南東部の砂漠の沈黙の中に佇んでいる。
 その歴史は紀元前にまで遡るそうだが、ここに初めて城塞が築かれたのはササン朝ペルシャ(A.D.226~651)の時代。度重なる戦火で破壊と建設が繰り返され、現在残っているものはサファヴィー朝の17世紀の物だと言う。城壁の中には、城と高官の居所、兵舎、商業地区や住宅地区などが整備され、モスクやキャラバン・サライもあった。中央アジア一帯では良く見られる設備だが、山裾から引いたカナートという地下水路も整備されていた。この要塞都市は軍事的側面ばかりではなく、東西交易の要衝でもあったのだ。高さ40m程の城の背後には川が流れていた跡があるが、今は涸れてしまっている。
 18世紀前半、アフガン人の侵攻で打撃を受け、町は放棄される。一説によるとその後、19世紀初頭の水不足が町を完全に打ち捨てさせた最終的な原因だとも言う。完全に放棄されて200年、これだけの泥の町がほぼ原型を留めていたのは、もちろん極端に少ない降水量のためでもあるのだが、人々の生活はそう楽なものではなかったのかもしれない。
 現在のバムの町は、遺跡の南西に広がっている。ナツメヤシが生い茂る美しいオアシス都市で、人口は周辺を含めて12万5千。

民家                                                               厩の内部
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 僕がこの遺跡を訪れた1992年には入り口で暇そうな管理人に入場料を払うだけで自由に歩き回れたし、城壁に登ることも出来た。観光客も殆どいなかった。少なくともイスラム革命後にはそもそも外国人旅行者の少ないイランにあっても、当時の知名度は更に低かったのだろう。しかしその後、整備された順路に沿った見学しか出来なく成ったようだ。この遺跡が圧倒的な迫力で迫ってきたのは、城以外には殆ど修復されていない、まさに廃墟、死の町といった面持ちだった。泥の家屋に挟まれた狭い小道を歩いていると、ついその先の角から顔中に立派な髭を蓄えた当時のイラン人の男がひょいと出て来るような、或いは笑い声と理解できない言語で囁き合う家族のざわめきが玄関の奥から聞こえたような、そんな錯覚にふと陥ってしまったりしたものだ。
 だがその後の写真を見ると、修復が進み小奇麗に成ってしまい、地下に立派なチャイ・ハネ(茶店)まで出来たようだ。石の建造物と違って泥であるから、修復は復元というに近い方法になってしまう。仕方がないこととは言え、惜しい気がして成らない。
 と、思っていた。

バザール通り                                      2003年12月、この地方を大きな地震が襲
b0049671_5145424.jpgう。マグニチュード6.6、震源は市街地から10数km。震度は中程度だったというが、遺跡同様、今でも日干し煉瓦構造の家屋が圧倒的だった町はあまりにも大きな被害を被る。建造物の60~80%が倒壊し、死亡者は人口の実に 3分の1 に当たる4万3千人。殆どが建造物の倒壊によるものだ。
 勿論、アルゲ・バムの被害も甚大だった。幾つかの画像を見る限りでは、遺跡は無残なほど壊滅的な打撃を被ったようだ。修復された建造物のほぼ100%、全遺跡の80%が崩れ落ちたという。これを受けてユネスコはアルゲ・バムを世界遺産と同時に危機遺産に指定する。修復の為には日本も貢献し、特にNHKが嘗て撮影した空中撮影映像は大きな資料
                                              になっているという。復元的修復には否定的
モスク                                          なのだが、今回ばかりは修復はされるべきだ
b0049671_5153629.jpgし、その為の協力は賞賛されるべきだ。
 少しく話は反れるが、彼らが必要としているものは核兵器でも空爆でもなく、町の経済が復興することであり、世界中から多くの人がこの遺跡を訪れることだろう。
 だがそれは別の話として、それは資料としての貴重さは測り知れなく、また訪れる者を古の世界に誘(いざな)う魅力をも回復するだろうが、しかしそれでも修復されてしまったものには当時の威厳が失われるだろうことは、残念ながら確かなのだろう。
 ここに掲載した僅かばかりの稚拙な写真は、現在web上で見られるアルゲ・バムの画像の中でも、最も古い姿のひとつだろうと思われる。

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                                                        城壁から城砦を遠望する
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by meiguanxi | 2007-02-27 23:37 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]