カテゴリ:絲綢之路Ⅱ[中央亜]( 17 )
ビシュケク (キルギス) : トイレの思想とポプラの種子
[ 中央アジア略地図 ]
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                                           アラトー山脈を背景にしたビシュケクの街


 トクトグルからのワゴンは街の郊外を走り回り、順番に乗客たちを降ろしていった。焦る気持ちをよそに夜はどんどん深まっていく。キルギスの首都ビシュケクは首都というには非常に暗かった。少なくとも車が走った場所に明るい賑やかな場所は無かった。最後に運転手が僕を降ろした時には23時に近かった。だがそこは空き地の真ん中のような小さな交差点で、こんな郊外で降ろされても困るというような場所だった。僕が指定した場所は街のほぼ中心に近い場所の筈だ。しかし走って来た道の前後150m位は空き地か公園のようだ。左側を見ると向こう側の建物まで400m位は離れていて、その真ん中を道路が突き抜けている。広場のずっと先に何かのモニュメントが見えた。困惑する僕に運転手は反対側を指差して、僕の指定したホテルの名前を言った。その指の先も空き地のように見えた。1ブロック向こう、200mくらい先に確かに建物が見えた。2階建の暗くくすんだ建物だ。その左手前に丸い大きな建物が見える。なるほどここは僕が指定した街の中心に違いないようだ。地図によれば丸い建物はサーカス場の筈だ。


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                                                  ホテル前の広場とモニュメント


 戦前のカトリックの寄宿舎みたいなホテルは至って殺風景だった。シャワーは無い。部屋にではなくホテルにシャワーというものが存在しなかった。ホテルの造りはコの字型になっていて、中庭を回り込むように廊下を曲がるとトイレがある。広いトイレで、共同洗面所になっている。その洗面所でシャンプーする。全身に石鹸を塗ったくってタオルで拭き取る。洗濯もする。何しろ全身埃だらけなのだ。ウズベキスタンのコーカンを離れてからオシュ、トクトグルとシャワーを使えていなかった。これで4日目だ。


トロリー・バスの走る街並み
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 トイレについて書いておこう。旅行記に於いてトイレといえばなんと言っても中国だ。扉という物が無いこととその類稀な汚れ方に於いて、中国のトイレの右に出るものはない。中国のトイレに慣れた旅行者に怖いもの無し、という格言があるくらいだ。今は中国も都会では変わったのかもしれない。だが90年代前半の中国に於けるトイレはレーゾンデートルを揺さぶられるほどの代物だった。その中国に何回も足を運んだ僕が、けれど二の足を踏み、目を疑うトイレがあったのだ。ビシュケクのホテルのそれだ。扉の無い東洋式のトイレには驚かなかった。慣れている。問題はその非密閉性や汚さにあるのではない。その形状、或いは思想にあった。しゃがみ式の便器の素材は鉄、然るべき場所に直径20センチほどの穴が開いている。素材を除けは普通だ。普通ではなかったのは便器自体の大きさだった。幅が80センチ程もある。もちろん跨いではしゃがめない。絶対に無理だ。便器の中の穴の横に、ほんの僅かの厚さの足型がある。高さにして2センチ程だ。つまり、使用する人は便器の中にしゃがむように作られているのだ。
 流石に躊躇した。小用の便器は見当たらない。残念ながら女性用のトイレには入っていないので知らないが、男性用の場合、小の方をする場合には立ったままでその便器を使うことになる。いや、本来この辺の人たちは小用の時にもしゃがむのかもしれないが、少なくともロシア人や若者は立って用を足す。当然、その足型の突起だって汚れている。できればそんな所に自分の靴を載せたくはない。けれどホテルのトイレだ。使わないわけにはいかない。あなたは決して清潔ではない便器の中にしゃがんで用を足したことがあるだろうか。屈辱的だった。僕はこの便器の製作者の想像力の欠如を激しく怨んだ。いったいどうして足型まで付いたこんなに大きな便器を作らなければならいないと言うのか。そう、想像力の無い人間はわざわざこんな手の込んだ便器なんかを作ったりは決してしない。勿論その製作者は想像力豊かな人間であるに違いないのだ。ただ、彼はその製作のコンセプトを使用者の便宜に置かなかっただけだ。彼が意図したのはそれを掃除する人、つまり管理する側の便宜だったのだ。ちょっと大袈裟に聞こえるかもしれないが、僕はロシア・ソビエト型社会主義の本質を見る思いだった。何の為の社会主義革命だったのか。


ボックス型の商店街
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 中央アジアの都会のご多分に漏れずビシュケクの街にも緑が多く、グリーン・ベルトのような美しい公園通りが幾つもあった。街全体が森林公園のようだと言っても良い。着いた時に見た空き地は全て公園か広場だった。何処へ行っても郊外といった印象はあるものの、人口100万の街としてはこれで良いのかもしれないと思われた。タシケントなどと違うのはトレーラー・ハウスのようなボックス型の商店が軒を連ねる場所がそちらこちらにあり、それはそれなりに街らしくもあった。ロシア人の比率もかなり高そうに見えた。残念なのは人々の衣装に民族色は薄く、ロシア人以外でも現代的でお洒落な女性たちが多いことだった。そもそもキルギス人は遊牧民族なのだし、ビシュケクもロシアが攻め込んで来るまでは砦程度のものだったのだ。


ユルト (ゲル・パオ) のカフェ                                         街中で見掛けたリス
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 実はキルギス東部にあるウスク・キョル湖方面に行って帰って来たり、カザフスタンのアルマティに行って帰って来たりと、僕はこの街に都合8泊もしている。もちろんシャワー無しで過ごすのは辛過ぎるので、他の宿も当たってみた。ボロ宿の隣はアパートのような外観の屋号の無いホテルで、その入り口から向かいの公園に掛けては昼間から娼婦たちが屯していた。時には客を連れてこちらの宿にもやって来るようだったが、彼女たちはあまりやる気が無いように見えた。外国人である僕の姿を見ても無視するだけだった。400mくらい離れた突き当たりにある、こちらもアパートのような外観のホテルは中国人経営に変わっていたようで、シャワー付ではあるが 1泊400Ks (キルギス・ソム、僕の訪れた2000年当時 1Ks=2.3円、$1 = 48.2Ks) もした。泊まっていた宿が120Ks なので痛かったが仕方がない。中国旅社には漢族の他にウイグル族の青年がいて、中国語の他にロシア語を話した。ここで商売をしているのだから当然なのかもしれないが、新疆ウイグル自治区での彼らを見慣れている目にはウイグル人がロシア語を話す姿はなんとなく奇妙なものに映った。勿論ウイグル自治区で彼らが中国語を話しているのだって本当は同じなのかもしれない。嘗て同じようなことを、中国語を話すチベット自治区の人々とヒンディを理解するラダックの人々に感じたことがある。長い支配の年月の後、同じトルキスタンとはいえ旧ソ連圏の西トルキスタンの人々と中国支配の東トルキスタンの人々とでは、文化も心情も今は少なからず違ってしまっているのかもしれない。


路上の露天                                                      オシュ・バザール
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 その後、これらの宿の裏側に 22Ks で使える共同シャワー場を見付けて元の宿と中国宿とを行ったり来たりする。物凄く大きなシャワー場で、一度に何十人も使えるのだが、何時も何人もが順番待ちをしていた。キルギスは中央アジアでは比較的湿潤である筈だが、生活水事情や生活水準という意味合いでは決して恵まれてはいないのだろう。入り口の外に飲み物を売るおばちゃんがいたりして、毎日行っていると仲良くなる。まさに銭湯だ。路地に煙草を売る少女がいて仲良くなる。ほんの子供だ。僕は毎日のように彼女から煙草を買ったが、彼女の持っている封を切っていない煙草は少ない。1本ずつばら売りしているだ。毎日ここに座ってどれだけの収入になるのだろう。驚くほど日本人に良く似たその顔立ちは年齢に比較してとても利発そうに見えたが、彼女が上の学校に進むのは至難のことなのかもしれない。
 ビシュケクの街についてはヴィザ取得に関するあれこれやバス・ターミナルの警察との攻防といった話以外これといって語るべきことは無いしさほど面白みも無かったけれど、それはそれで居心地は悪くはなかったのだ。気候は穏やかで湿度も程よく、街の南側遠景には雪を頂いた大きな山脈が聳えていた。街に着いた頃にはアカシアの実が桜吹雪のように散っていたし、最後に離れる頃には綿毛に包まれたポプラの種子が雪のように舞っていた。


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                                                           煙草売りの少女
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by meiguanxi | 2009-05-23 18:22 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜] | Comments(6)
トクトグル (キルギス) : 首都と第二の都市を結ぶ田舎道
[ 中央アジア略地図 ]
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                                                            クルプ・サイ湖


 イランのマシュハドから中央アジアに入って以来トルクメニスタン、ウズベキスタンと乾燥した平地ばかり目にしてきた旅人にはキルギスの風景は新鮮だ。国土全体が山がちで降水量も多い。ここから先は山岳地帯の旅になる。早朝6時過ぎにはオシュのバス・ターミナルに着くが誰もいない。乗客も物売りもいないまだ明けやらぬターミナルには冷たい風が吹き抜け物寂しいことこの上ない。乗り込んだバスはこの旅の中でも最も粗末な部類で、座席は二人掛けのベンチ・シートだった。道もこれまでの国とは違い、至る所で舗装が壊れていた。コーカンやオシュの記事でも書いたようにフェルガナ盆地を巡る国境線はとても複雑に込み入っている。そしてソ連時代に整えられた幹線道路は例によって国境線を無視して敷かれている。僕が乗ったウズベキスタンの町からのバスがオシュ郊外の国境で終点になってしまったように、2000年当時、両国の通行はガイドブックに書かれていたようにはスムーズではなかった。ヴィザの問題にしてもそうだったのだが、この頃ウズベクやカザフは非常に閉鎖的な政策に傾き掛けていたように思う。首都ビシュケク方面へのルートは途中でウズベキスタン領を突っ切る筈だったが、この時はフェルガナ盆地の南東から北東までの間、ウズベキスタン領をすっかり迂回して盆地の縁の起伏の多い道をぐるっと回り込んだ。そのために本来の街道を逸れて山道や未舗装の生活道を走らなければならなくなっていたりする場所もあった。その度に酷い道だ。緑は豊かだが凹凸の激しい土地は耕作には向かないのか、放置されたままであるようだった。そんな展望の無いまるで野良道のようなルートを、バスは右に傾き左に傾きしながら進んだ。オシュとビシュケクというこの国の第二の都市と首都とを繋ぐ幹線だ。驚いたのは街道を逸れて民家の脇道に侵入した時だ。バスが走るのは無理だとさえ思えるその細い畦のような道を入った奥の民家で、ポリタンクのガソリンを給油したのだ。いったいそれがどんな種類の燃料なのか、少し不安を覚えた。


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                                        キルギス帽の老人(フェルガナ盆地縁のバス停)


 僕の席は運転手の後ろの最前列だったのだが、窓が開かない。この辺りの国のバスはみんなそういうシステムだ。悪いことに上の風通しのための小窓も開かない。お陰で時間が経つにつれてバスの中は朝とは大違いの酷い暑さになってくる。盆地から離れるとバスは渓谷の中に分け入った。シル・ダリア (ダリアは川の意) 上流のカラ・ダリアだ。途中からは二つのダムに挟まれた長さ30kmにも及ぼうかというダム湖が延々と続く。クルプ・サイ湖だ。濃緑色の湖面と木々の緑、それらとは対照的な荒涼とした岩山の山肌というコントラストが実に美しい。やがてその先に広大なトクトグル湖が見え始める。写真を撮ろうと風窓が開いていた後部座席に移動すると、その席には物凄い土埃が降り積もっていた。見る見る自分の全身も白く変わっていく。出発から11時間後、湖北側に位置するトクトグルの小さな町に着いたのは既に夕暮れ近くだった。何年も前に壊れたまま放置された観覧車が風に揺れ、背の高い冬枯れしたポプラの向こうに横たわっている湖と山陰は沈み行く霞んだ夕陽に薄紅色に染まっていた。


トクトグル湖(同右)
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 翌朝は5時前に起き、5時半にはバス・ターミナルへ。ターミナルと言っても未舗装の駐車場あるいは広場で、日に何本かの発車時刻以外は機能していない。待っていたのはフォード製の9人乗りワゴン。だが乗客は運転手を除いて11人。前の席には少年を連れた夫婦、後ろの席には細身の青年2人と太ったおばちゃんに婆さん、真ん中の席はちゃんと3人掛けで、僕は一番ドア側。ドアの関係で補助席のような物だが充分快適だし、天候があまり優れないことを除けば順調だ。山の景色は本格的だし、小さいながらも清流も流れている。けれど勿論そのまま順調にことが推移する筈はなかった。そういうことはちゃんと決まっている。僕に対して悪意を持つ存在があるのかどうか分からないが、でもちゃんと問題は起こることになっているのだ。

 
トクトグル村                                                   トクトグル村の観覧車
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 ビシュケクの南にはアタ・トー山脈が横たわっている。トクトグルからの道は三千メートル級の峠を二つも越える。二つ目の峠には中央アジア最長のトンネルが貫通しているのだが、その長さ2kmのトンネルは冬の間、入り口が閉じられるという。6時に発車したワゴンが朝食休憩の後、チベットかカラコルムを思わせるような広大な最初のアラベル峠 (3184m) を越えてこのトンネルに至ったのは10時過ぎだった。テヨーアシュー峠の標高は3586mだが、トンネルは3100mから3170mの間を貫いているという。動かなかった。トンネルの前に幾台かの車が止まったまま進まない。時折トンネルの中から土砂とコンクリートの残骸を積んだダンプが現れては、それを道脇の谷に捨てていた。トンネルが崩れたか、一部崖崩れでもあったのだろうと思っていた。良くあることだ。
 ところが何時間経っても事態に変化は無い。トンネル付近まで歩いて行ってみるが、ブルドーザ等の重機が停車したままになっていたりする。崖崩れの処理とかそういうことにしては変だ。言葉の通じない人たちからなんとか聞き出して、僕が事態を知ったのは午後1時を過ぎてからだった。どういうことか正確には分からない。ただ、要するに工事の為に夜の7時にならなければ通過できないということだった。補修工事か何かなのだ。19時と時間を区切っているからにはおそらく突発的な事故とかではなく、工事労働者の活動中には車は通さないということらしい。トンネルの入り口付近には一台のトレーラーが売店と軽食堂を運営していた。時間を決めて通すとか、そういう配慮は無いみたいだった。なんとも官僚的で融通の利かないやり方だ。けれど待っている人々も文句は言わない。文句を言って何かの役に立つというものではないのだろう。


トクトグル先の清流                                                     アラベル峠
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 夕暮れ時、漸くトンネルを抜けるとそこは物凄く大きな渓谷で、車は九十九折の道を一気に下りV字谷の底を走った。渓谷の深さに比して川の流れは小川程度だ。道は至って悪く、バスで走ったのならさぞやきつかろうと思われた。漸く渓谷を抜け平地に出た頃には日も暮れていたが、そこからがまた長かった。途中でパンク。タイヤ交換は素早かったが、ビシュケクの街に入る寸前でパンクしたタイヤの修理のために停車する。そういうことは客を降ろした後にするべきことのようだが、そうはならない国は多い。乗客を乗せてから町外れのガソリンスタンドで給油したり、町の郊外に着いているのにターミナルの前にスタンドに寄ったりといったことは、そちらこちらの国のバスで経験がある。この時はガソリンが切れて、どうしてだかガソリン代を折半させられる。そういうのが運賃の内ではないシステムも世界にはあるのだ。
 全員を順番に降ろし、結局最後に街の中央で僕が降ろされたのは既に23時に近かった。街は首都にしては非常に物寂し気だ。こんな時間にビールにありつけるのだろうか・・・いや、その前に宿探しだ。


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                                                  テヨーアシュー峠トンネル手前
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by meiguanxi | 2009-05-18 23:33 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜] | Comments(10)
オシュ (キルギス) : 複雑な国境線と民族模様
[ 中央アジア略地図 ]
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                                                       バザール近くの中心街


 ウズベキスタンのコーカンから、国境を越えてキルギスのオシュ (オシ) に向かう。直行バスは無く、フェルガナ盆地西南のコーカンから盆地中央を東に130kmほど突っ切ったアンディジャンという町に向かっていた。ところがバスは100kmほど走った所で停まってしまう。途上国を旅しているとバスが故障するというようなことは日常茶飯事で、特にウズベキスタンでは乗った殆どのバスが途中で何らかの故障に見舞われた。その度に運転手が何かをトンカチやったり修理工場に入ったりしてはまた走り出す。この日のバスも当然のことのように停まってしまったのだが、何時もとは少し様子が違った。どうやらラジエターに穴が開いてしまったようで、完璧に走行不能。乗客たちは45分後に通り掛った近郊バスに乗り換え、ぎゅうぎゅう詰めの車内で残りの距離を立ったまま我慢するしかなかった。
 アンディジャンもフェルガナでは古い都市なのだが、20世紀初頭の地震で古い建物の殆どが失われたということだったので、この時には通過することにした。この旅の5年後、2005年にこの町が大きなニュースの舞台になるなどとは、この時には思ってもいなかった。カリモフ大統領の独裁的政権と経済への不満から抗議に集まった5万人とも言われるデモに軍が発砲、政府発表で187人、実際には500人から1000人もの死者を出したと言われる事件だ。発端は武装勢力が刑務所を襲撃したことによるとも伝えられ、政府はイスラム原理主義組織の関与を主張している。だがその辺りの真実ははっきりしない。いずれにしてもフェルガナは保守的なイスラームの色濃い土地であり、独立後の経済的困難から反政府、原理主義への傾斜という傾向を強め得る状況にあったことは確かなようだ。この事件は国政政治にも影響を及ぼし、アメリカがウズベク政府の対応を批判し、これに反発したカリモフ政権はアフガン戦争の時から南部国境のテルメズに設置していた米軍基地の撤退を要請するという事態に至った。一方、中国やロシアはこの時の武力鎮圧を支持している。中央アジアの民族主義的独裁政権も憂鬱だが、仮にイスラム原理主義組織が関与した暴動だったのならそれも憂鬱な話だ。ただ、原理主義組織と言ってもゲリラやテロばかりをしている訳ではなく、住民の仕事や社会基盤を整えたりといった活動もしている。おそらく力で押さえつける限り氾濫の地盤は崩れないのだろう。更に言えばロシアや中国という倫理的とは言い難い政権を持った大国の、この地域への影響力が大きいことも憂鬱だ。


タフティ・スレイマンと呼ばれる岩山と博物館                           岩山の上のバーブルの祠b0049671_19532872.jpgb0049671_19552524.jpg



 結局途中の停滞を含めてアンディジャンまで3時間半掛ったわけだが、幸いなことにアンディジャンのターミナルでは40分後のバスに乗り換えることができた。オシュまでは南東に60kmほどだろうか。だがバスは国境の手前が終点。国境と言っても路上に設けられた検問程度のものだ。パスポートだけチェックすると出国印も押さずに通される。待っているタクシーに乗って直ぐにキルギス側のイミグレーションだが、ここもただの検問。同じくパスポートを見るだけで入国印も押さない。そのままタクシーに乗り続けて 1kmほどでオシュのバス・ターミナル。オシュの町は本当に国境の間近なのだ。しかしその僅か1kmでしかない距離をバスは走らない。この辺りの国境や民族を巡る問題の難しさが垣間見える現実かもしれない。ソビエト時代末期の1990年、オシュ周辺ではウズベク人とキルギス人との間で激しい衝突 (オシュ事件) が起こり、200名を越える命が失われ400名もの行方不明者を出した。負傷者に至っては4000名と伝えられる。原因は住宅用地の分配を巡る争いだと言われているが、オシュを含めてフェルガナ盆地はウズベク人の多い地方であるとは言え、周辺の民族模様はモザイク状態だ。国境線はソビエト時代に制定されたもので、人口比ではウズベク人の多いオシュがキルギスに編入されたり、逆にキルギス人やタジク人の多い土地でも耕作に適した場所はウズベクに割り当てられるといったこともあったようだ。ウズベク人もキルギス人も民族的にはテュルク系だし宗教もスンナ派イスラームだが、もともと遊牧民だったキルギスがイスラーム化するのは19世のことで、その後直ぐにロシアがやって来て20世紀初頭には社会主義革命が起こったのだから、ウズベク人とは宗教観に微妙な違いもあるのかもしれない。一方、フェルガナはウズベクの中でも宗教的には特に保守的な土地柄だ。


老人達のピクニック風景                                 カフェを営業するユルト (ゲル、パオ)b0049671_19591983.jpgb0049671_2013474.jpg



 さて、ターミナルを通り過ぎて4kmで町の中心に着く。今はどうか分からないが、この時にはキルギスに3日以上滞在するには3日以内に外国人登録をしなければならないことになっていた。ガイドブックの地図を見ても載っていないので、翌日の午前中、タクシーを捉まえてオビール (外国人査証登録課) に行ってレギュストラーチア (登録)を済ませる。この際、銀行で料金を振り込まなければならないが、60円程度なのでそれ自体は問題無い。ただ、こういう登録制度はかつてのイランやラオスにしても同じだが実に面倒で、そして時間が掛る。充分に待たされた挙句に事務処理が非常に遅いのだ。この時には僕の他にはの2人組みの男がいただけだったが、係官が他の仕事か休憩かで不在で延々と待たされることになった。ところがこの2人組みと話をしているうちに、今が昼休みの時間だということを教えられた。ガイドブックではウズベクとキルギスとの間に時差は無いことになっていたのだが、本当は1時間の差があったのだ。この2人組み、中国が実効支配する東トルキスタン、中国の行政区で言う新疆ウイグル自治区の政府外事課職員だった。ここからウイグルスタンのカシュガルまでは直線距離で280km、今ではオシュの南東にイルケシュタムという国境が開いているが、この時はまだ一般旅行者には開放されていなかった。


ジャイマ・バザール (4枚とも同じ)                   b0049671_2017699.jpgb0049671_20103622.jpg



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 この町のバザールは非常に賑わっていて、小さな川沿いに1kmも露天が連なっている。ウズベク人が多い町だとは言っても、しかしそれでも確かに国が変わったのだという実感を持つ。ウズベクとは明らかに違う印象を受ける顔立ちの人々を多く見かける。或いはサマルカンドにしろブハラにしろ、実はウズベク人よりタジク人の割合が濃い地域を歩いて来たからそう感じるのかもしれない。ただ、キルギス人の顔立ちが中央アジアのトルキスタンの中でもよりモンゴロイド色を強く残しているのは確かなようだ。中央アジアのイスラーム圏では男性の特に老人は帽子を被っていることが多い。ウズベクでは御椀を伏せたような浅い帽子を良く目にした。ウイグル帽に似た形だ。ちょっと国境を越えただけで、オシュでは高山のキルギス帽を良く目にする。一方、女性の民族衣装着用率はウズベクより低いような気がする。
 経済は厳しいようで、ホテルにはバスタブはあるものの肝心のお湯が出ない。バスやタクシー代が非常に高い。これはイラン、トルクメニスタン、ウズベキスタンという石油や天然ガスに恵まれた国を歩いて来た旅行者にはびっくりするくらいの差だ。フェルガナ盆地東南に位置するオシュは首都ビシュケクに次ぐ都市だが人口は25万に満たない程度の地方都市で、どちらかと言えば辺境といった面持ちだった。イルケシュタムの国境が開いた今は少しは賑やかになったのだろうか。とにかくこの時にはビシュケクまでのバスはあまり走っていず、1日1本のトラックも20時間掛けて山岳地帯を越えていかなければならなかった。もともとがフェルガナの一部であるから、ソビエト時代まではフェルガナの地方都市といった性格で充分だったのかもしれない。


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                                                         キルギス帽の老人

 町それ自体はやはり閑散としているようではあるのだが、何処かしら温もりがあるように感じられたしバザーには活気があり、居心地は良かった。ほんの10年前に悲惨な衝突があったということが信じられないような穏やかさだった。そういえばこの2年前の98年には、オシュ州のアルティンジルガ地区でJICAの日本人技師4人を含む7人が、タジキスタンから侵入したウズベキスタンの反政府勢力に誘拐されるという事件もあったのだった。アルティンジルガはフェルガナ盆地南側に横たわるアライ山脈の、タジキスタンとの国境に近い山中にある地域だ。上にリンクした地図を見てもらうと分かるように、オシュ州はフェルガナ盆地とタジキスタン山岳地帯の間を割ってタジキスタン領に食い込むように伸びている。逆に言えばウズベク領フェルガナはキルギスに、タジク領ホジャンド (ホジェンド) 地区はウズベクにそれぞれ食い込むように存在している。3つの国とっては盲腸のような地理的には飛び出した地域が、それぞれに右回りに絡まり合うように位置しているのだ。一見平和に、そして長閑に見える町や人々にも、通り過ぎるだけの旅行者などには計り知ることのできないそれぞれ複雑な事情や心情があるのかもしれない。事実、民族問題ではないがこの5年後の2005年、フェルガナのアンディジャンで暴動があった同じ年だが、キルギスでチューリップ革命と呼ばれる政変が起こった時、この町はその発端の重要な一部を担うことになったのだ。


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                                                         バザールの両替所
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by meiguanxi | 2009-05-15 20:24 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜] | Comments(0)
コーカン (ウズベキスタン) : フェルガナの美しさと現実
[ 中央アジア略地図 ]
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                                                     ダフマ・イ・シャーハーン廟


 漢の武帝が恋焦がれたという汗血馬、その馬を有していた月氏の国である大宛が存在していたのがフェルガナ地方だ。フェルガナは東西300km、南北150kmにも及ぶ広大な盆地で、周囲は険しい山岳地帯に囲まれている。現在はその平野部分の大半がウズベキスタン領になっているが、周辺はキルギスとタジキスタンの国境線が複雑に入り組んでいて、ウズベキスタンの平野部からは山脈で隔てられている。そのため首都タシケントからは冬季には雪の為に通行不能になることもあるカムチク峠を越えなければならない。僕が訪れた2000年当時にはトンネルが建設中だった。アム・ダリア (ダリアは川の意) と並んで中央アジアを代表する河川であるシル・ダリアが盆地の西方に流れ出ていて、ロシア支配からソ連時代に掛けて築かれた鉄道や幹線道路はこのシル・ダリアに沿ってサマルカンド方面と繋がっている。いや、おそらくは古来このルートが主要な交易路だったのだろう。だが今はその間にタジキスタン領が横たわっているために、少なくとも2000年当時にはシル・ダリア沿いのルートを直行するバスは運行されていなかった。


中央アジアでよく見掛ける近郊バス                                      一般的なアパート
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ケバブ屋                                                             陶器工場
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 本当はサマルカンドからタジキスタンのホジャンドに寄ってシル・ダリア沿いにフェルガナに向かう予定にしていたのだが、ヴィザの問題もあり、サマルカンドで泊まらせてもらったタジク人の反対に従って、タシケントから峠を越えるルートを取ったのだった。タジクでの内戦は97年に一応は和平合意に至ってはいたものの、98年には日本人を含む4人の国連タジキスタン監視団が殺害されていたし、翌年にはフェルガナ盆地南辺のキルギス領でタジキスタンから侵入したウズベキスタンの反政府勢力によってJICAの日本人4人を含む技術者7人が誘拐されるという事件も起きたばかりだった。
 ソ連によって策定された国境線が入り組んでいるだけではなく、それぞれの国内に隣国の飛び地があったりある町の多数を占める住民が隣国民族であったりと民族模様は非常に複雑で治安状況はとても不安定だった。ソビエト時代末期にも90年に盆地東辺のキルギス領オシュでキルギス人とウズベク人による大規模な衝突 (オシュ事件) 、89年にはスターリンによってコーカサスから強制移住させられたメスフ人 (メスヘティア・トルコ人 : 参照) とウズベク人との間での衝突 (フェルガナ事件) など悲惨な事件が起きていた。
 フェルガナ地方の困難は民族問題だけではない。人口は700万 (2007年) を越え、ウズベキスタン全体の4分の1を上回る。元々は豊かな水と肥沃な土地に恵まれた人口密度の高い地域なのだが、ロシア支配、ソ連時代を通じて農業の殆どが綿花栽培に集約される政策が採られたために、産業のモノラル化と慢性的な土地不足とに悩まされることになり、経済も停滞した。また原理主義的なイスラーム宗派の強い保守的な地域でもあることが、更にこの地域を難しくしている。僕が訪れた5年後、東部のアンディジャンで大規模な反政府暴動が起こり、政府発表でも187人、一説には500とも700とも言われる人々が軍によって殺害された (アンディジャン事件)。


マーダリ・ハーン廟                                             ブダヤル・ハーンの宮殿
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                           ジャーメ・マスジディ (金曜モスク)
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 タシケントから標高2267mのカムチク峠を越える道はかなり本格的な山岳ルートだ。中央アジアに入って以来平坦な草原や土漠ばかりを見てきた目には、黒い山肌や白い雪は新鮮な風景だ。しかし峠からの下り道はさほど長くはない。盆地の標高がそれなりに高いのだろう。だが盆地に下りてからの道が果てし無く長い。盆地北西部の峠から道は一路南に下る。やがて山陰も見えなくなり、そこが山岳地帯の盆地であるということを忘れそうになる。なにしろ盆地といっても四国に匹敵する面積を有するのだ。
 紀元前2世紀に大宛の都があったのは盆地の中央部やや北側だと言われている。月氏がいかなる民族であったのかははっきりとしないが、いずれにしてもこの地が完全にテュルク (トルコ) 系民族によって支配されイスラム化するのは10世紀になってからだ。現在のナマンガンという町の近郊にアフシケントの遺跡が発掘されている。モンゴルの侵入による破壊で壊滅的な打撃を受け、17世紀の地震で打ち捨てられた往時の都だ。
 フェルガナ観光の目玉は盆地南西に位置するコーカン (コーカンド) の町だ。この町の歴史は長いが、繁栄した時代はそれほど昔ではない。18世紀中庸、この地を支配したウズベク族のコーカンド・ハーン国によるロシアと清朝との交易によって栄えた。しかしその繁栄は長くは続かず、19世紀後半にはロシアによって滅ぼされることになる。盆地中央南部にその名もフェルガナという町があるが、これは占領したロシアによって築かれた町だ。


チャイハナとミナレット                                      灌漑用水路と旧市街の家並み
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 僕の訪れた4月のコーカンは朝には外出するのにジャケットを必要とするくらいの気候で、適度な湿度を持った空気と背の高い街路樹のプラタナスの緑が気持ちがいい。陽が照り始めるとさすがに暑くなってきたが、人工的で何処か閑散とした物寂しさを感じる他の幾つかの中央アジアの町とは違い、その緑と潤いが心地良いだけではなくちゃんと町らしい町の表情を持っていた。新市街のメイン・ストリートはそれほど賑やかではないが、人口18万の田舎町としては落ち着いた感じの良さを与えている。細い運河が流れる旧市街の路地裏でファインダーを覗くと、道の両側に続く家々の白い壁と青い空との対比が眩しい。人々は気さくで概ね友好的に接してくれる。この地方の難しい現実を上手く実感として把握できない思いだった。


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                                                              チャイハナ
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by meiguanxi | 2009-05-10 20:02 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜] | Comments(4)
タシケント (ウズベキスタン) : 生活臭の無い街
[ 中央アジア略地図 ]
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 概ね街というものには中心部と見なされる地域がある。その中心部には商店が並び多くの人々が行き交ってる。およそ街の賑わいというものは人々の欲望の自然発生的な集積でもあるわけだから、時に街の中心部は如何わしさのようなものを内包していたりもする。そして周辺の郊外には人々の静かな生活が広がっている。日本の都市では多少事情が異なるかもしれないが、郊外には列車の駅や長距離バス・ターミナルなどが設けられていたりもする。或いは中心部には官庁などが集中してる場合もあるかもしれないが、それとは別に商業的な意味での中心はあるものだ。東京などのように超巨大な都市にあっては中心は幾つかに分散されたり沿線沿いに長く伸びたりといったことも起こるだろうが、これは小さな町に於いて街道やメインストリート沿いに賑やかな場所が伸びていることと基本的には同じだ。だが、この街は少し様子が違っている。ウズベキスタンの首都タシケント、200万の人口を有する中央アジア最大の大都会だ。


サイルガーフ通り                                                    郊外の日曜市
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 この街には同じ旅で二度訪れている。そもそもはトルコからコーカサスを通って中央アジアから中国に抜ける予定でいたのだが、トルコでのヴィザに纏わる諸々が上手くいかず、コーカサスを後回しにしてイランから中央アジアに入っていた。そのため中国へ抜けることは諦めて、ここタシケントからコーカサスに飛び、トルコに戻ることにしたのだった (参照) 。何故タシケントからかというと、飛行機代が安いためだ。前後とも良く街を歩き回った。各国のヴィザを取ったりその為のレターを日本大使館に発行してもらったり、あるいは飛行機のチケットを取ったりといった用事を済まさなければならなかったからだ。
 そもそもこの街には観光名所のような所は殆ど無いのだが、奇妙なことに何処まで歩いても賑やかさや活気といったものとは無縁だった。綺麗に整備されてはいるし緑も美しいのだが、何処へ行っても郊外であるような雰囲気なのだ。概して中央アジア諸国の都市というものは何処か物寂しさ、或いは物足りなさを感じさせる。おそらくソ連時代のロシア式の人工的計画的な再開発の結果なのだろう。トルクメニスタンのアシュガバート、キルギスのビシュケク、カザフスタンのアルマティなど、何処も首都としての華やかさとか活気、生活感というものに欠ける印象を受ける (カザフの首都は97年にアスタナに遷都されている)。もちろん人口や経済の問題もあるだろうが、例えば経済が悪くとも日常の人々の生活は何処かしらに活気を感じさせる場所を作らずにはいないものだ。
 原因の一つには人々の日常的な買い物の場がバザールに限られるということも関係しているのかもしれない。バザールと言っても中東のスークのような自然発生的な商業地域ではなく、あくまで人工的な巨大市場だ。それでも市内には8ヶ所のバザールがあるのだそうだから、200万人の日常消費はそれでほぼ間に合ってしまっているだろう。しかしそれらのバザールも1ヶ所を除いては大概は閑散としていた。他にも数件の商店が集まるような通りが無いわけではないのだが、それらは決して賑わっているという雰囲気ではないし、人通りも多くはない。
 いや、地理的な中心は勿論あるのだ。アミール・ティムール広場という周囲1kmほどの公園広場。ソ連時代には革命広場と呼ばれていた場所だ。おそらく街はここを中心に設計されている。この西1km足らずのところにあるムスタルリック・メイダニ (独立広場 : 旧レーニン広場) との間に公官庁などが集中している。二つの公園を結ぶサイルガーフ通りが一応は最大の繁華街ということになっている。そこにはオープン・レストラン形式の屋台や土産物屋、似顔絵描きや古コイン、切手の露天などが並んでいて、さながら縁日のように賑わっている。だがそれはあくまで公園通りなのだ。アミューズメント・パークと言ったら良いだろうか。もちろん車の乗り入れはできない。そこは僕たちが普通に街の繁華街として抱くイメージとは程遠い。タシケントの鉄道駅はアミール・ティムール広場の南南東2km程のところにある。200万都市としてはさほど郊外という訳ではない距離だ。だが駅前にもやはり活気は無い。そこには団地のような高層アパートが延々と立ち並んでいるだけだ。


郊外のモスクとトラム                                         アブドゥル・ハシム・マドラサ
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 この街がロシアによって占領されたのは1867年。それ以来ロシアはここを中央アジア植民地化の拠点として開発した。だがそれでも、街の中央を北東から南西に流れるボズス運河西側の地域は、シルクロードの面影を残していたのだそうだ。1966年、街をマグニチュード 8 の大地震が襲う。タシケントの建造物の9割が被害を被ったとも伝えられるこの地震の後、当時のソ連はこの街全体を計画的に再開発した。現在なお往時の中央アジアの面影を僅かながら残しているのは、北西郊外のほんの一角だけになってしまった。
 この一画にあるチャルス・バザールだけは何時も賑わっていて、中央アジアのバザールの雰囲気を感じることができる。僕はここであれこれと買い物をしては宿に持ち帰って夕食にしたものだ。お気に入りは Korea のおばちゃんたちが作るキムチ。中でも魚のキムチは実に美味だった。チャンジャのように胃袋だけを漬けた物ではなく、実も一緒に漬けてある。中央アジアにはスターリンの時代に沿海州から強制移住させられた Korea が多い。1937年のことだ。既に彼らは朝鮮語を解さないようだった。泊まっていた郊外の宿の近くにコリアン・レストランがあるのだが、別の場所にあるロッテ資本のカフェとともに僕はこの街では随分 Korea に癒されていた。
 一日中歩き回った後は、アミール・ティムール広場に近い劇場でバレーやオペラを観た。戦後、ソ連によって抑留させられた数百人の日本兵が建設に参加させられたナヴォイ劇場だ。何時も短い演目だったけれど、なにしろ闇レートで1ドルほどで観ることができた。ただし内容は民独主義的なものが多く、この国の現実を思い知らされるような気もした。ソ連崩壊後、中央アジアの国々はいずれも民族主義的で独裁的な国になってしまった。いや、ロシア自体がそうなのだが。残念ながらソビエトというシステムは民主主義にとっては何も築くことができなかったのだ。


ナヴォイ劇場エントランス              ナヴォイ劇場礎石                   ナヴォイ劇場内部
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 ところで、この街にはあまり良い思い出が無い。僕がタシケントを訪れた2000年4月に、外国人旅行者のホテル代がドル払いになっていた。郊外の長距離バス・ターミナルから地下鉄に乗って予定していたホテルに着いたのは15時30分頃だったと思う。だがレセプションは不在で、漸く担当の男が外出から帰ったのは小1時間経ってからだった。トルクメニスタンからウズベキスタンに入国して以来、南部のテルメズを除けばヒヴァブハラサマルカンドと民宿のような処に泊まっていたので良くは分からないのだが、とにかく4月1日をもって支払い方法が変わったのだと男は言った。実勢レートで1米ドル余り、公定レートでは4倍以上になるがそれでも5ドル程度なので、ドル払い自体はたいしたことではない。問題はその支払いシステムだった。まず指定された銀行に行き宿泊費分の外貨を両替する。そのレシートを付けてホテルのレセプションで現地通貨払いするというものだ。闇両替をさせないためなのかもしれないが、ホテルでは直接ドルは受け取らない。だが、既に銀行は閉まっている時間だ。しかしドル預かりで翌日払いという妥協さえ許されなかった。社会主義ではなくなった筈だが、上からの命令には絶対服従であるらしい。非常に融通の利かない徹底的に官僚的な社会なのだ。おそらく上は現場の労働者をまったく信用していないのだろう。怒っても拝んでも埒は明かなかったが、最後にレセプションの男は郊外の安宿を紹介してくれた。タクシーを停めて彼の書いてくれたアドレスを渡す。辿り着いたのはバス・ターミナルの直ぐ側の住宅地だった。やれやれ。それは団地のような建物で、本当に住居として暮らしている人が大半であるような宿だった。1泊75円ほど。地下鉄の終点という郊外ではあったがバス・ターミナルも近く、それで充分だった。ただ困ったことが一つあった。バネの伸び切ったスプリング・ベッドで寝たことはあるだろうか。金属の枠に何本かのスプリングが縦に張ってあり、その上に薄いマットレスが敷いてある。実際に横に成るとまるでハンモックだ。朝起きると身体中が痛む。だが、それでも泊めて貰えただけ幸運だったのだ。この3週間後、カザフスタンから戻った時にはこの宿での支払いも同じシステムになっていた。支払いの為には地下鉄に乗って6つ目の駅で乗り換えて更に4つ目、タシケントの鉄道駅まで行かなければならなかった。


アブー・バクル・カッファル・シャシー廟                                 ハシュト・イマーム付近
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水路の少女                                                  下水路を掃除する老婆
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 そんな訳でこの街では良く地下鉄に乗った。街に走る2本の地下鉄の全てのホームは美術館さながらの美しいモザイクや彫刻で飾られていた。だが残念なことに撮影は禁止。構内には何時も暇そうな警官がうろうろしている。僕の場合にはほぼ3回に1回は尋問を受けた。時には詰所に連れて行かれてパスポート・チェックだけではなく外貨チェックを受けることになった。別に銀行での両替を確認するという訳ではない。単に幾ら持っているのかを調べるのだ。何のために?勿論、その中の幾許かを自分の懐に入れるために。今はどうなったか知らないが、少なくともその頃の中央アジアやコーカサスなど旧ソ連圏ではよくあることだった。国境、バス・ターミナル、鉄道駅、そういう場所にいる警察はことごとく腐敗していたし、実際に現金を抜き取られたという話はゴロゴロしていた。僕はそういう場合に備えて、ドル紙幣は額面ごとに分けて持っていた。そして更にそれぞれが何枚あるのかをメモしていた。勿論まず自分で数えてから警察に渡す。渡した1ドルの束を返してよこし自分で再度数え直すまでは5ドルの束は渡さない。そのようにして10ドル、20ドル、50ドル、100ドルと順番に進めていく。当然ながら彼らはそんなことでは諦めない。今度はあからさまに賄賂を要求してくる。そのためには問題の無い筈のヴィザに難癖を付けてきたりさえもする。掴まってしまった場合にはかなりの根気を要するし、時には恐怖心と闘わなければならないことさえあった。まあ、しかし、ウズベキスタンについてはカザフスタンなどに比べればまだマシだったかもしれない。それについては別の機会に書くことにしよう。


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                                                       市場で売っていた磁器
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by meiguanxi | 2009-05-04 22:10 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜] | Comments(0)
サマルカンドの街角(ウズベキスタン)
[ 中央アジア略地図 ]
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b0049671_8361056.jpg      ブハラからバスで5時間半、
      チンギス・ハーンが破壊し、
      チムールが築いた青の都、
      サマルカンドに至る。

      サマルカンドの歴史と
      レギスタン広場などの写真はこちら
      シャー・イ・ジンダ廟はこちらを参照。

      今回は街の表情を少し。

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 中央アジア諸国の都会の多くは度重なる地震と、ソ連時代のロシア式再建によっているので、
 伝統的な旧市街地というものが余り残っていないケースが多い。
 この街もまた、例外ではない。サマルカンドの人口は55万(ソ連崩壊直前のデータ)。

スィアブスキー・バザール(同右)
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 ただ、他の国の主要都市に比べると、庶民の生活感を感じられる路地が、幾らか残っている。
 旅をしていて楽しいのは勿論、こうした路地に出会えた時だ。
 また、都会にしては比較的、民族衣装の着用率が高いのも嬉しい。男性も老人は民族衣装だ。



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 この街には中心部に個人旅行者の集まる安宿がある。立派なホテルで、中央アジアでは珍しいことだ。
 だが、設備は老朽化していると聞く。
 僕はタジク人の立派な御屋敷に民泊させてもらった。この街はもともとタジク人の方が多い町なのだ。


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by meiguanxi | 2007-05-11 01:53 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜] | Comments(0)
シャー・イ・ジンダ廟 (サマルカンド : ウズベキスタン):死者達の宮殿
[ 中央アジア略地図 ]
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                                                  アーリミ・ナサフィー廟(中央左)


ピシュタークの門(入口)
b0049671_1316065.jpg シャー・イ・ジンダ廟は
 サマルカンドのアフラースィヤーブの丘の一角にある。

 イスラーム創始者ムハンマドの
 従兄弟クサム・ブン・アッバースを讃えた廟だ。
 西暦676年、サマルカンドにイスラームを伝えた人物。
 彼は677年、礼拝中に異教徒に襲われ首を刎ねられる。
 伝承によると、彼は動じること無く、
 刎ねられた自分の首を拾い上げると脇に抱え、
 地下の井戸の中に降りて行ったという。
 そしてそこで永遠の生を得たのだそうだ。
 この伝承を元に11世紀に建立されたのがこの廟。
 「シャー・イ・ジンダ」とは「生ける王」という意味。

 その後、チムールの親族などの廟が次々と建てられ、
 15世紀初めには現在の形に成ったようだ。
 階段を登り入口の門を潜ると、
 細い路が100m以上続いていて、
 20程の廟やマスジット(モスク)が両側に並ぶ。

 ここは遺跡であると同時に、
 今も人々の信仰を集める場でもあるのだ。



門から続く階段                             アミールザーデ(右)とカーズィザーデ・ルーミー(奥)
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クトゥルグ・アカ廟内部                           ホジャ・アフマド廟(中)とクトゥルグ・アカ廟(左)
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アミール・ザーデ廟                 チャール・ターク入口と             シーリーン・ビカ・アカ廟
b0049671_13215976.jpgb0049671_13225256.jpgトゥーマーン・アカ・モスクのドーム
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 サマルカンド中心部外れの、アフラースィヤーブの丘の谷を貫く淋しい道の傍らに入口がある。
 入口から数々の廟やマスジッドの並ぶ小道を最奥まで進み、そこからから外に出ると、そこはアフラースィヤーブの丘。
 蒼穹の下、庶民の墓が広がり、風が渡っている。


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                                               墓地から見たシャー・イ・ジンダ奥部
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by meiguanxi | 2007-04-28 13:27 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜] | Comments(4)
サマルカンド : (ウズベキスタン)青の都
[ 中央アジア略地図 ]
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    レギスタン広場 : ウルグ・ベク・マドラサ  ティッラ・カーリー・マドラサ  シールダール・マドラサ

 「青の都」…西は東アナトリア(現在のトルコ)・シリア、南はペルシャ・現在のパキスタン・インドのデリー、東はタリム盆地(中国新疆)に及ぶ広大な帝国を築いたティムールの都だ。尚、北部インドを支配したイスラーム帝国ムガールはチムールの流れを汲む帝国だ。

ウルグ・ベク・マドラサ                                           シール・ダール・マドラサ
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 しかしこの町の歴史は2500年前にまで遡る。後に東西交易の主役として名を馳せるソグド人(イラン系)が築いたのが始まりだ。その後、アレクサンダー、アラブ人、チンギスと、幾度もの支配と破壊が繰り返された。ソグド人は8世紀からのアラブの侵入とそれに続くトルコ化の流れの中で歴史に埋もれて行った。それでも町は、支配者や主要民族が変化し破壊と建設を繰り返しながらも栄え続けた。

           シール・ダール・マドラサドームミナレット(左右)、ファザードの具象画(中央)
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 だが、13世紀初頭、かの「蒼い狼」チンギス・ハーンの侵攻は苛烈だった。彼は町を徹底的に破壊し尽くした。住民を殺し尽くした。後には草一本生えていなかったと言う。この時代までの町は、現在のアフラスィャブの丘にあった(写真:最下)。今そこには羊が放牧される草地だ。草を踏んで広大な高台を歩くと、所々に発掘された当時の遺構が唐突に掘り下げられている。といっても見学用に整備されている訳でもなく、青い陶器片が無造作に転がっていたりする。、当時の人々の生活も思いも、全ては草叢を吹き渡る風の中だ。

グーリ・アミール廟                                            ハズラット・ヒズル・モスク
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 チンギスの死後、モンゴルは分裂する。そしてチムールが現れる。「チンギスは破壊し、チムールは建設した」という言葉がある。彼は世界中から集めた建築家を使って、現在の位置に町を再建した。レギスタン広場に面する3つのマドラサ(神学校)、中央アジア最大のモスクであるビビ・ハヌム、壮大なシャー・イ・ジンダの霊廟群など、現在この町に残る遺跡としてのイスラーム建築は全てこの時代のものだ。

ビビ・ハヌム・モスク                                               イシュラット・ハナ廟
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 しかし、中央アジアの多くの街がそうであるように、この街もまた度重なる地震の被害を受けた。ソビエトの時代にロシア風に再建された現在の街に、それら一部の遺跡的イスラーム建築を除いては、伝統的街並みを垣間見ることは難しい。それでもタシケントなどに比べれば僅かながらに旧市街と呼べる場所もあり、何処とは無しに落ち着いた古都の品格とでもいうべき雰囲気を有している(参照)。
 ところで、チムールの栄華も長くは続かなかった。遠征中に命を落とした彼は、故郷のシャフリサブスに葬られることを願っていたが、願いは叶わず、今、グーリ・アミール廟に眠っている。

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                       アフラスィャブの丘からのビビ・ハヌム・モスク
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by meiguanxi | 2007-02-06 23:40 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜] | Comments(2)
ブハラ (ウズベキスタン) : 土色の街
[ 中央アジア略地図 ]
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    ミーリ・アラブ・マドラサ(神学校)    カラーン・ミナール(ミナレット)    カラーン・マスジディ(モスク)


 ヒヴァの街の城壁を出て、早朝のまだ真っ暗な路上で乗り合いワゴンを捜す。ところが車など殆ど動いていない。小1時間ほど歩き回った挙句、漸くウルゲンチ行きの乗り合いを見付ける。午前6時、押し黙った人々を乗せワゴンは走り出す。
 暫くは荒涼とした風景が続く。やがて緑豊かな耕作地帯に成る。キョネ・ウルゲンチからヒヴァに向かう途中、乗り換えの為にトルクメニスタン側のダシュホーズという都会を通過したが、それを除けばトルクメニスタンの首都 アシュガバートを出て以来、砂漠と荒涼とした土漠、そして時折の耕作地と小さな町しか見ていない目に、やがて近代的な都会が姿を現す。40分でウルゲンチに着く。
 トルクメニスタンの小さな町キョネ・ウルゲンチとは別の、ウズベキスタン側ホラズム地方最大の都会だ。バスターミナルの建物はまだ扉を閉ざしている。7時過ぎ、漸く私服の警備員が鍵を開けるが、窓口に職員が現れるまでには、更に1時間半も待たなければならなかった。

アルク(要塞)の門                                      アルクから見た絨毯バザール旧市街
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 ところが彼は言った。「ブハラへの便は無いよ」…この北部の街から南部の中心地帯へは、ブハラを通る道しか無い筈だ。西はアム・ダリア(大河)、その向こうはトルクメニスタン、東はキジル・クム(赤の砂漠)が広がる荒野なのだ。
 しかし結局、ブハラを通り更に南のカルシに行く夜行が午後2時にあるだけだった。仕方なく、チケットを取って安宿を捜す。そこは線路沿いの駅宿泊所の筈だったが、実際にはアパートのように使われている感があり、泊まれないと断られたのを強引に無理を言ってバスの時間まで1ドル程で借り、仮眠する。
 ウルゲンチを出たバスはアム・ダリアを遡り、一旦、何故かトルクメニスタンのチェック・ポストを通る。地図で見る限り国境は迂回している筈なのだが、良く事情は飲み込めない。兎に角、唯一の第三国人である僕だけが、詰め所に連れて行かれ、パスポートのチェックを受ける。アシュガバートで延長したトランジットのヴィザは当然切れていて不安だったが、問題無し。

アブドゥルアジズ・ハーン・マドラサ       カラーン・ミナール(上部)                チャール・ミナール
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 アム・ダリアの堤防(堰)を対岸に渡る。ここから路は果てしない土漠に入る。行けども行けども、何も無い。やがて陽が沈む。ガイドブックには8~9時間とある。しかし、夜23時、バスは荒野の一軒家に停まる。食事休憩だ。言葉の通じない運転手に、ブハラ到着時間を訊いてみるが、埒は明かない。
 午前1時、降ろされたのは何も無い交差点。本当に何も無い。ただ真っ暗な荒野が広がっているだけなのだ。運転手はここがブハラだと言う。ターミナルへは行かないらしい。どうやら、この交差点から街を迂回して南に進むようだ。従って、ここで降りるしかない。しかし、自分のいる場所の見当さえもつかない。後で分かったことだが、そこは街から5km離れたバスターミナルの、更に北にある交差点だったのだ。
 タクシーのドライバーが寄って来る。言葉は通じない。目的の広場の名前を言ってみる。勿論、吹っ掛けられる。他の客達はどんどん去って行く。タクシーの台数はそう多くは無い。かなり不利な状況だ。何しろ距離も分からないのだ。それでも何とか納得できる料金まで下げさせる。ついでに宿を捜すことを条件にする。高級ホテルに泊まる積りなど無い旅行者にとって、この辺りでは殆どの場合、民宿を捜すしか方法は無い。いわゆる安宿といったものは殆ど無い。こんな時間に、看板を掛けているわけでもない民宿など、独りで捜せるわけはないのだ。

イスマイール・サーマーニー廟(内部)                                   ハウズと呼ばれる溜池
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 土色の街、ブハラ。実はこの街はタジク人の街だ。コーカンなどフェルガナ盆地の町と、サマルカンドやブハラなどのウズベク南部の町には、トルコ系のウズベク人とイラン系のタジク人がもともと渾然と生活していた。それが、ソ連時代初期、中央アジアを5つの民族共和国に分ける際、ホジャンド地区以外の全てをウズベキスタンに編入させてしまったのだ。ウズベキスタン政府は現在、彼らをタジク人とは認めていない。公式にはタジク化したウズベク人ということに成っている。領土問題を避ける為だ。

ナディル・ディワンベギ・マドラサ     民族衣装の少女(ハウズの畔にて)         バラ・ハウズのマスジディ
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 中世の町並みを残したこの街の旧市街は、ヒヴァと同じくそれ自体が美術館のようだが、この街の素晴らしさは、庶民の生活と歴史的建造物が渾然と溶け合っていることだ。例えば僕が宿泊した家は、上の写真のリャビ・ハウズ(溜池)に面してある。そして、このハウズは2つのマドラサ(神学校)と1つのハーンカー(キャラバンサライ)に囲まれている。自室の窓景が既に中世の世界なのだ。
 左上の写真のナディル・ディワンベギ・マドラサもハウズに面している。このファザードには、不死鳥と人間の顔をした太陽のモザイクが施されている。偶像を排するイスラームにあっては、殆どあり得ない珍しいものだ。サマルカンド のシール・ダール・マドラサにはライオンと人間の顔の太陽が描かれれいるが、知る限りでは他にこのような具象の文様は無い。

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     ターキ・ザルガラーンの夕景(16世紀のバザール:ターキはバザールの意のタークに接尾語 i を伴った形)
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by meiguanxi | 2007-01-11 23:32 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜] | Comments(2)
カラ・カルパクスタン : (ウズベキスタン)砂漠の遺跡
[ 中央アジア略地図 ]
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                                                         アヤズ・カラ小遺跡

 以前紹介したヒヴァの西にはカラ・クム(黒の砂漠)が広がっているが、ヒヴァの東数十キロを流れるアム・ダリア(川)を渡ると、そこから東はキジル・クム(赤の砂漠)だ。つまりはアム・ダリアは2つの広大な砂漠の間を流れている、或いは砂漠を分けて流れているのだ。
 カラ・クムのこの辺りから北、アラル海に掛けての地域がカラ・カルパクスタン共和国。カラ・カルパック人はウズベク人と同じくテュルク系民族で、スンニ派イスラム教徒だが、言語的にはカザフ語に幾分近く、ウズベク人が定住民族であるのに対して遊牧民族。共和国といっても自称なのだが、かなりの自治権が与えられているらしい。

アム・ダリア                                                  河岸の瓜(メロン)売り
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 ソ連時代にアム・ダリア上流域では大規模な灌漑事業が行われ、トルクメニスタンの首都アシュガバートを通過する全長850にも及ぶ大運河が建設された。この為にトルクメニスタンは世界有数の綿花生産地なった。だが、その影響はもろにウズベキスタンのこの下流域を襲った。今ではアム・ダリアは河口が先細りアラル海は海岸線が100kmも後退した。河口にあった港町は舟の墓場と化している。トルクメニスタン政府は将来、この運河をカスピ海にまで伸ばし、全長1500kmにする計画だと言う。

アヤズ・カラ大遺跡                                                   大遺跡の城壁
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大遺跡からのカラ・クム                                                 放牧する少年
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 このカラ・カルパクスタンの砂漠には、トプラック・カラ遺跡やコイ・クルルギャン遺跡など、紀元前からの遺跡が数多く点在している。上の写真はその中のひとつ、アヤズ・カラ遺跡。小高い丘の上に築かれた、城郭都市遺跡だ。実はアヤズ・カラには大小2つの遺跡がある。2枚目の写真が大遺跡で、上は大遺跡から見下ろした小遺跡。
 羊を遊牧する父子に出会ったのだが、見渡す限りの土漠。いったい彼等は何処からやって来たのだろう。
 尚、上の写真の遠方に見える煙は、天然ガスの採掘と思われる。

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                                                           トプラック・カラ遺跡
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by meiguanxi | 2007-01-09 23:59 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜] | Comments(2)