カテゴリ:絲綢之路Ⅱ[中央亜]( 17 )
ヒヴァの旧市街 (ウズベキスタン) :遺跡の町
[ 中央アジア略地図 ]
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                                                    ヒヴァの旧市街イチャン・カラ

中央アジア、ウズベキスタンの国土の多くは、アム・ダリアとシル・ダリアという中央アジアを代表する2つの大河に挟まれたキジル・クムという砂漠だ(ダリア・クムはそれぞれ川・砂漠の意)。アムダリアが巨大な塩湖アラル海に注ぐ北方地域は古来、ホラズムと呼ばれ、交通交易の要衝として栄えた。

カルタ・ミナールムハンマド・アミノ・ハーン・マドラサ                 タシュ・ダルヴァザ(町の南門)
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一番上の写真はヒヴァの、城壁に囲まれたイチャン・カラと呼ばれる旧市街。
18世紀以後、ロシアとの交易で富を得た有力者達が競ってマスジット(モスク)やマドラサ(神学校)を建設した結果、
このような街並みができたのだそうだ。
イチャン・カラは旧ソ連によって町自体が博物館に指定され、後に世界遺産に登録された。

ダシュ・ハウリ宮殿裏の路地                                  ジャーメ・マスジディ(金曜モスク)
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イチャン・カラの外にはロシア式の閑散とした新市街が広がっていて、その外側は果てしない砂漠だ。
だが、この遺跡のような町にも、勿論、人々は生活している。ソ連時代終盤の統計では2000人だそうだ。

夜、暗く成ると人通りは全く無くなる。漆黒の遺跡の町を歩くと、逆光の月にミナレットのシルエットがそそり立つ。
石畳に自分の踏む足音だけが響く。心なしかその音には僅かなタイムラグが存在するような錯覚に陥る。
時間と現実の感覚が上手く掴めなく成るようだ。

土の窯でナンを焼く                                               庭には縁台
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この町へのアクセスは、空路を使うなら良いのだが陸路でとなるとちょっと大変。
ウズベキスタンの有名な観光地ブハラからは、
ヒヴァからミニバスで小1時間程のウルゲンチという大きな街までバスで13時間も掛かる。
僕がブハラに向かった時には、早朝にウルゲンチに着いたにも拘らずバスが午後にしか無かった為に到着は
午前1時に成ってしまった。
しかも、国境を越えるのでない限り、この国境沿いの道を往復することになる。
路の東側はキジル・クム(赤い砂漠)、西は国境線とカラ・クム(黒い砂漠)。何処にもそれることはできない。

僕は国境を挟んだトルクメニスタンのキョネ・ウルゲンチという小さな町から
バスとタクシーを乗り継いで4時間程で来たのだが、直通は無い。
まずキョネ・ウルゲンチからそこそこ大きな街ダシュホウズまでミニバスで1時間半、ここからタクシーで国境へ。
国境は何も無い荒野の一本道にある。国境を越えてタクシーを乗り継ぎヒヴァまで50分といったところ。
尚、ダシュホウズからヒヴァまでのバスは日に2本あるらしいが、ただし、この辺りのバスは冬季には全て運休になる。
ところで、そのキョネ・ウルゲンチにはトルクメニスタンの首都アシュガバートから、
カラ・クム(砂漠)をバスで10時間以上突っ切らなければならない。

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                                                            老人と子供達
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by meiguanxi | 2006-10-01 11:47 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜]
グルガンジ遺跡 (トルクメニスタン)
[ 中央アジア略地図 ]
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                                                        スルタン・テケシュ廟

前の記事で紹介したキョネ・ウルゲンチの町から1km外れた荒野に、グルガンジ遺跡は点在する。

元々この辺りはグルガンジと呼ばれていたものが、後にテュルク風に変化した呼び名がウルゲンチだ。ウズベキスタン側のヒヴァ同様、この辺りもホラズム地方に入るのだが、16世紀にヒヴァが振興する以前、ホラズムの中心はこのグルガンジだった。

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クトゥルッグ・テミルのミナレット









   右は上部の装飾


ここには10世紀終盤からの遺跡が点在するが、初期のアラブ系の時代の物はモンゴル侵攻による破壊が激しく、殆どは土塊に帰している。
その後テュルク化したホラズム・シャー朝の時代(11世紀終盤~13世紀前半)、ホラズムの領土はペルシャにまで及ぶ。この時代の物は、良い保存状態で幾つかが残っている。1枚目の写真、スルタン・テケシュ廟もそのひとつ。
ただし、やはりモンゴルによる徹底的な破壊で、例えばアグ・ガラという要塞などは基底部が僅かに往時を偲ばせるだけだ。

モンゴルによって徹底的に破壊されたグルガンジだが、13世紀前半からのスフィー朝の時代、再建される。上のクトゥルッグ・テミルのミナレットや下のトレベグ・ハヌム廟はこの時代の物。クトゥルッグ・テミルのミナレットは高さ67メートル、中央アジア一位を誇る高さだ。

しかしその後、14世紀後半には2回に渡るティムールの侵攻で、壊滅的打撃を受ける。
「チンギスは破壊しティムールは建設した」という言葉があるが、征服にあたっては勿論、ティムールも破壊したのだ。


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トレベグ・ハヌム廟









右は内部からの天井
        のドーム


16世紀、アム・ダリア(川)の流れが大きく変わり、グルガンジは完全に滅びる。
振興したヒヴァによって住民は移住させられた。それが150km離れたウズベキスタンの現在のウルゲンチだ。(キョネ・ウルゲンチとは別)

トレベク・ハヌム廟のドーム内側のモザイクは、600数十年の時を越えて当時の色を今に伝えている。しかし今、嘗て栄華を誇ったグルガンジには,風の音が渡っていくだけだ。

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                                                               駱駝の屍
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by meiguanxi | 2006-09-29 01:23 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜]
キョネ・ウルゲンチ(トルクメニスタン):砂漠の道を突っ切る
[ 中央アジア略地図 ]
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ネジメッディン・クブラー廟
b0049671_3131677.jpgトルクメニスタンの首都 アシュガバート でキョネ・ウルゲンチ行きのバスを探す。ところがバスターミナルで問合せると、英語が通じない。旧ソ連圏中央アジアは何処もそうだが、多くの人が one~ten のカウントも英語では出来ない。
なんとか理解できたのは、どうやら違う場所から便はあるらしいということだが、僕の持っていたガイドブックにはその場所が記されていない。仕方なくタクシーを拾い、窓口の女性がキリル文字で書いてくれたメモを見せる。
連れて行かれたのは街外れの小さな市場。その前の未舗装の広場というか駐車場が、そのバス駅らしい。控えめに言っても乗り心地の良くは無さそうなバスが、確かに一台停車してはいるが、チケットブースが
                                          あるわけでも、囲いがあるわけでもなく、要するにた
ネジメッディン・クブラー廟とスルタン・アリ廟             だの空き地なのだ。
b0049671_3135610.jpg幸いバスには運転手が乗っていた。彼に話しかける…勿論、言葉は通じない。そのうちに数人の男達が僕を取り囲む。一向に要領を得ない会話…
ただ、何となく分かったことは、明日の朝にその便はあるらしいということ、チケットはその場で買うらしいということ。アナログの腕時計を指差しながらロシア語で時間を訪ねるが、彼等が指す文字盤の時間が到着時間なのか出発時間なのか、あるいは所要時間なのか、どうにも今ひとつ判然としない。

翌朝、まだ暗い裡から宿を出る。幸い、1時間後にバスは確かに来た。
街を出るとそこは既にカラ・クム(黒い砂漠)。ここから真っ直ぐ北に砂漠の真中を縦断するのだ。初めは土漠で灌木も生えていたのだが、やがて乾燥した疎らな草だけになり、そして砂丘砂漠に変わる。それは何処までも続く砂丘と土漠の海だった。何時間走っても風景は殆ど変わらない。砂丘の中の、何故こんな場所にと思うような所に、突然、小さな集落が現れる。砂丘は背後まで迫っている。おそらくは天然ガスか何かの採掘場でもあるのかもしれない。
砂漠の中の一軒屋で昼食を取る。掘っ立て小屋だ。食べられるのはプロフだけ。羊肉と共に炊き上げたピラフだ。ピラフは中央アジアが発祥なのだ。
                                                       路地で食用の種を売る老人
b0049671_3143998.jpg午後、さっきまであんなに晴れ渡っていたのに、急速に黒い雲が空を覆う。やがて砂漠にポツボツと雨粒が落ち始める。世界は薄暗い闇に包まれる。何処までも続く砂漠での移動中、夕暮れに真っ黒な空から雨粒が落ちてくるという状況に出くわしたことがあるだろうか。世界中が永遠に黒い雲に覆い尽くされてしまったような、このまま何処にも辿り着けないのではないかというような不安感、疑心暗鬼に陥ってしまう。

しかし勿論、バスは目的地にちゃんと辿り着く。
漸く辿り着いたのは、町の中心から遠く離れた、何もない道端だった。街灯なんて、もちろん無い。どっちに行けば中心なのか、宿は何処にあるのか・・・何も分からない。地図さえ持っていないし、何処にいるのかさえ分からないのだ。不幸なことに、持っていたガイド
ブックにはこの町の地図もバス停のインフォメーション              中央アジアや西アジアの老人は絵に成る
b0049671_3152313.jpgも載ってはいなかった。辺りは既に真っ暗で、おまけに雨まで降っている・・・

キョネ・ウルゲンチはアム・ダリア(「ダリア」は「川」の意)に程近い小さな町だ。町というより村と言った方が良い。ちょうど街道が交差する所を中心に、民家がポツポツと点在するだけだ。
東に行けば直ぐにウズベキスタンとの国境。ウズベキスタン側にウルゲンチという近代的な街があるが、それとは別で、キョネとは「古い」という意味。
この町の歴史は古く、11世紀から13世紀の遺跡
グルガンジ)で有名なのだが、当時の町は歴史の中で繰り返し破壊された。現在の町は、イスラム神秘教団クブラウィー教団の開祖であるネジメッディン・クブラーを祀る廟が14世紀に建立されたことに始まるようだ。

陽が沈み雨の降る中、人通りも無い街道沿いに見付けた宿は看板さえ無い平屋だった。在ったのかもしれないが、少なくとも電灯は付いていなかったしローマ字表記も無かった。こちらはキリル文字など読めないのだ。一見すると打ち捨てられた農業試験場庁舎か何かに見える。宿泊棟から広い裏庭を、持参したヘッドランプを頼りに突っ切るとトイレがある。木製の扉が朽ちた掘っ立て小屋だ。中は土間で、穴に板が二枚渡してある。誰かが何時か汚した跡がそのままだ。
部屋には鍵が掛からなかった。というか、付いてさえいない。誰かがノックする。管理人の婆さんだ。もちろん言葉は通じない。入口脇の管理室を通り越して反対側の部屋に連れていかれる。部屋の戸は開いていて、粗末なベッドに女が腰掛けている。要するに、その手の斡旋だ。やれやれ。しかし雨のそぼ降るこの寂しい町で、その女の姿はあまりに哀しく見えた。女は処理をされていない髭を生やした顔で媚を売ったが、その姿とこのシチュエーションは世界の終わりさえ連想させた。僕は勿論、適当な言い訳を残して外に出、食事とビールにありつける店を求めて漆黒の通りをとぼとぼと歩き出した。

*尚、近年は“キョネ”ではなく“クフナ・ウルゲンチ”(又は“クニャ・ウルゲンチ”)と表記されることが多いようだ。


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                  お偉いさんを迎える為か、女性達が正装で並んでいた
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by meiguanxi | 2006-09-28 03:17 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜]
タルクーチュカ (トルクメニスタン):アシュガバートの日曜バザール
[ 中央アジア略地図 ]
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タルクーチュカはトルクメニスタンの首都 アシュガバート の郊外で、毎週日曜日の朝7時頃から13時頃まで開かれる
露天バザールだ。
前のの記事で書いたように、イスタンブールの領事館で6日間のトランジット・ヴィザしか取得できなかったものを、
アシュガバートの係官に無理を言って4日間延長しなければならなかった理由の一つが、このバザールを見る為だった。
タルクーチュカとはロシア語で「古着市」の意味なので、歴史はさほど古いものではないのかもしれないが、
中央アジアでも最も華やかなバザールとして有名だ。
バザールが立つ場所は街から7・8kmの何も無い土漠の広場で、日曜日にだけ市内各所からバスが頻発する。


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(左上)トルクメンに限った事ではないが、中央アジアの女性の衣装は色とりどりだ
(右上)遊牧民族だけに、財産を装身具として持つ習慣があった


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(左上)遊牧民族に絨毯は欠かせない。ゲルの中にも敷き詰められている。トルクメンの絨毯は世界的に有名
(右上)米を炒めて羊肉と炊き上げたプロフは、ピラフの原型。シャシリクがいわゆるケバブ。
     マントゥは羊肉の肉まん、蒸した物や茹でた物がある。勿論、中国の「饅頭」から来ている


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(左)
 この男性が
 着ている民族衣装は、
 チャパンだと思う

 女性の民族衣装は
 クイナックという



(右)
 訳の分らない物を
 広げる爺さん

 爺さん、売れるかい?



タルクーチュカは凄まじい盛況を呈していたが、バザール会場の直ぐ外側ではラクダが放牧されているようなこんな場所だ。会場になっている場所も、週末以外にはおそらく轟々と風が渡るだけの荒野である筈だ。

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by meiguanxi | 2006-09-26 12:18 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜]
アシュガバート (トルクメニスタン):独裁者の首都
[ 中央アジア略地図 ]
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                                     アザディー広場(大統領官邸など政府機関が集まる)

黄金のテュルクメンバシュ(ニヤゾフ)
b0049671_1327566.jpgトルクメニスタンの首都アシュガバートは、
ガラ・グム(黒の砂漠)の南端にある。
数十km南のコペト・ダグ山脈の向こうはイランだ。
ガウダン峠に国境ポイントがあり、マシュハド に通じている
マルゥ の記事で紹介したサラフス国境とは別)。
マルゥからは西に列車で7時間半、バスで6時間。

この地域には紀元前3世紀のパルティア王国(イラン系)時代から
集落があったようだが、
本格的に造成されたのは1881年、ロシアの砦が築かれたことに始まる。
1948年の大地震で街は壊滅する。
16万の人口のうち、11万人が死亡したという。
その後、計画的に再建され、現在の人口は40万人。

アシュガバートとは「愛の街」という意味だが、
元々が占領したロシアが抵抗の激しかった部族を攻め滅ぼす為に
築いた砦が始まりなのだから、
どうも取って付けたようなイメージがある。


ロシア風に整備された無機質な街に見所はない。                   ルスキー(ロシア人)バザール(同下)
b0049671_13284291.jpg街を歩いていて目に付くのは、
ニヤゾフ大統領の巨大な肖像画や写真。
駅と言わず銀行と言わず、
いたる所に掲げられている。

共和国の共産党第一書記だった
サパムラト・ニヤゾフが、
1991年の旧ソ連からの独立以来、
民主党と名称変更した党を率いて
一貫して大統領に君臨し、
そのカリスマ性で個人崇拝的半ば独裁体制にある。

彼は「トルクメン人の頭領」を意味する
“テュルクメンバシュ”という称号を
公式に名乗っていて、
公共施設や通りの多くに
b0049671_13292787.jpg“テュルクメンバシュ(記念)~”を冠し、
果てはカスピ海の港湾都市の名称まで
テュルクメンバシュに変更してしまう有様だ。
勿論、この場合それはニヤゾフその人個人を指す。

市民に話を聞くと、口を揃えて彼を賞賛する。
それが建前なのか、或いは
民主主義という概念自体の希薄さなのか、
早計には判断できない。

郊外には、7000年前から農耕文化が栄え、
ティムールの時代に最盛期を迎えたアナウ遺跡や、
パルティア王国の最初の首都だったニサの遺跡
などがある。

アナウ遺跡                                  ただ、考古学的には重要なこれらの遺跡も、
b0049671_1331317.jpg今は遺構が残るのみの土塊に帰している。

街の北をガラ・グム運河が流れる。
ウズベキスタンとの国境近くを流れる大河
アム・ダリアから、ソ連時代の1962年に
引かれた全長850kmにも及ぶ運河だ。
現在はアシュガバートより更に西に伸び、やがては
カスピ海までの1500kmを繋げるのだという。

この運河のお陰で、この国の南部一帯は
有数の綿花生産地に成った。
しかし同時に、このことが下流のアラル海
(ウズベク及びカザフ領)の縮小化を
もたらす原因にも成っている。

ニサ遺跡                                    ところで、マルゥからは夜行列車を使ったのだが、
b0049671_13323299.jpgこのチケット取得には苦労させられた。
「明日の夜行、アシュガバートまでの2等寝台が
欲しい」伝えたい事はたったこれだけ。
付け加えるなら「それは何時の出発で
所要何時間なのか」「値段は幾らなのか」
マルゥ駅は至って閑散としていて、
列車の発着時間以外には人気は全く無い。
暇を持て余したチケットブースの職員は粘り強く
付き合ってくれた。しかし、“tomorrow”が通じない。
“how much”が通じない。
当然、“second-class”も“sleeper”も
“ what time”も通じない。
僕は一旦宿に戻って、ロシア語会話集を
持参しなければならなかった。
                                         “明日”という言葉を伝える為に。
ガラグム運河                                “何時”という言葉を伝える為に。やれやれ、
b0049671_1333677.jpg英語の通じないとうことは、斯も不便なことなのだ。

尚、マルゥの記事で書いたヴィザの延長の件は、
「トランジット・ヴィザの延長は出来ない」と
パスポートを投げ返す係官をなんとか泣き落として、
4日間の延長が認められた。
そもそも事前の情報では、
更新は簡単にできるということだったが、
簡単とはとても言える状況ではなかったのだが。
だがいずれにせよ、お陰でこの後、
中央アジア最大と言われる日曜バザール・
タルクーチュカを見ることが出来き、
更に、ガラ・グムをバスで真っ直ぐ北に10時間
突っ切るルートで、グルガンジ遺跡を見る為に
                                          キョネ・ウルゲンチに向かうことになる。
     ※ 2007.1.4 追記
       サパムラト・ニヤゾフ氏は終身大統領という立場のまま2006年12月21日、死亡した。


   正装したトルクメンの子供達
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by meiguanxi | 2006-09-24 13:36 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜]
メルヴ遺跡(トルクメニスタン)
[ 中央アジア略地図 ]
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                                          グズ・ガラからスルタン・サンジャール廟を遠望

マルゥー の街はガラ・グム(黒の砂漠)南端にあたる。ここから東に25km、バイラム・アリという小さな町から北に4kmほど入ると、一面の土漠の中にメルヴ遺跡が点在している。60㎢ (平方)に及ぶ広大な遺跡群だ。
この地に初めて町が築かれたのは紀元前6世紀だというが、今、形として残るのは紀元前3世紀から16世紀位までのもの。また、最西端の仏教遺跡が発見されたことでも有名だ。
11世紀から12世紀に掛けてはセルジューク・トルコの都が置かれて、最盛期を迎える。往時はバクダッドに継ぐイスラーム圏第2の都市を誇った。
しかし13世紀初頭、モンゴルのチンギス・ハーンの西進の際に徹底的に破壊し尽くされる。モンゴルによる征服のご多分に漏れず、住民は皆殺しにされたと言う。
その後、16世紀の聖廟が残ってはいるが、数世紀の間、人の住まない場所になった。
今はただ、往時の陶器片が散乱する乾燥した荒野を、轟々と風が渡るだけだ。


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【グズ・ガラ】  6・7世紀ササン朝ペルシャ時代の豪族の居城。外壁の土柱に開いた無数の穴は、鳥の巣。

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 【スルタン・サンジャール廟】

  12世紀セルジューク・トルコ時代の
  スルタンの聖廟






                     スルタン・サンジャール廟ドーム部分

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     【エルク・ガラ】

      紀元前3世紀、
      パルティア王国(イラン)時代の都城跡
      (写真中央、土塁の上にポツンとある点が人間。
       広大さが分かると思う)





メルヴ遺跡は本当に広大な遺跡なので、徒歩で廻るのは困難だと思われる。その上、なにしろ土漠の中に点在しているのだから陽を避ける場所も無い。勿論、売店や飲食店の類を探すには4km離れたバイラム・アリの町まで行くしかない。
僕はマルゥの街で捉まえたタクシーを使って見学したのだが、その帰路、バイラム・アリのバザールを覗いてみた。とても小さな町なのだが、バザールはなかなかの活気を呈していた。

                          バイラム・アリのバザールの風景

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    メルヴ遺跡城壁跡(詳細未確認)
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by meiguanxi | 2006-09-23 01:02 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜]
マルゥ (トルクメニスタン):イランから国境を越えて
[ 中央アジア略地図 ]
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                                                            バザール外観

僕が中央アジアを訪れたのは2000年早春、今現在のことは知らないが、この地域を個人旅行することが出切るように成ってまだ間もないこの時、旧ソ連中央アジア諸国の旅行事情に関する評判はすこぶる悪かった。
第一にはヴィザ取得に関する問題で、陸路での旅行計画が非常に立て辛い。第二には国境役人および駅やバスターミナルの警察の腐敗。公然と賄賂を要求されたり(恐喝に等しい)、外貨チェックと称して現金を抜き取られたりといった事例が続発していた。

バザールにて(同以下3枚)                       イスタンブール(トルコ)のトルクメニスタン領事館で
b0049671_11294522.jpgは、入国日込みで6日間のトランジット・ヴィザしか発行されなかった。この国での目的地は3ヶ所、しかも距離が掛け離れている上に、タルクーチュカと呼ばれる週末バザールの日程などを考えると、とても無理な日数だ。ただし、上手くいけば首都のアシュガバートで数日間の延長が認められる可能性があった。
イランのマシュハド からマルゥに向う。早朝6時半前のバスに載って3時間ほどでサラクス、この町からタクシーで5分、イラン側イミグレーションに着く。
このイミグレを出たトルクメン人やロシア人の女性たちは、頭を覆っていたスカーフを一斉に外し、纏っていた薄手のコートを脱ぐ。タンクトップ姿に露になる豊満な肉体。イランを抜けたのだ。
トルクメニスタン側イミグレまでは1km以上離れてい
                                          る。数十人の人達が膨大な荷物を携えて、迎えの車
                                          を待っている。出稼ぎや商売上の買い付けに来た人
b0049671_11302412.jpg達なのだろう。僕のような旅行者はいない。トボトボと荒野の中を歩いていると、途中に停まっていたボロバスが拾ってくれる。
トルクメニスタン側のイミグレは、何もない荒野にポツンと建っている。入国カード、税関申告書ともにキリル文字(ロシア文字)。トルクメン語なのかロシア語なのかも分からないが、唯一英語を話す若い職員が親切にも代筆してくれる。
その後、彼に別室に連れて行かれる。多分、所長か何かと思われる男が座っている。変ににやけた二人の表情、しかも軍服。あまり気持ちの良いものではない。
実は事前の情報では、ヴィザには入出国地が記載され、それ以外のポイントは通過できないとのことだっ
                                          た。僕のヴィザのその欄には傍線が引いてある。領
                                          事は何処のポイントでも通過できると言った。事情が
b0049671_1131060.jpg変わったのかもしれない。この辺りのヴィザ状況は猫の目のように変わるのだ。だが国境職員にそれが徹底されているとは限らない。信じがたいかもしれないが、そんなことは良くあることだ。
係官は税関手続料10ドルを要求した。拒否すると、それは義務だと言う。では首都に着いたら役所で確認して良いか問うと、義務という言葉がプレゼントに変わる。イスタンブールの領事にその手の費用は不必要だという確認を取って来たと告げる。勿論、嘘だ。すると5ドルに値が下がる。しかし、雰囲気は明らかに険悪に成りつつあった。ヴィザの通過地記載が気に成る。3ドルならと切り出す。暫くの悶着の後、それで交渉成立。
これはこの地域での、唯一の僕の汚点だ。だが、この
                                          後、一切の賄賂を拒否し続けた為に、中央アジアの
唯一見つけた軽食とビールを飲める店にて              旅は極度の精神的疲労と時間的ロスとを余儀なくさ
b0049671_11313296.jpgれることになる。
係官は言った。「アシュガバートまでタクシーで50ドルだ」 その向こうにはタクシードライバーが狡賢そうな笑みを浮かべてこちらを窺っている。ぼったくりのグルだ。
丁重に辞退し表に出るが、そこには何も無い荒野が延々と広がっているだけだ。同じ時間に入国した数人の人達は、それぞれ迎えの車で去って行く。バスが来る気配は金輪際無さそうだった。
敷地を出た所に何台かの車が停まっている。交渉するとマルゥまで20ドルだと言う。方向は違うが、距離はアシュガバートまでの3分の2程の筈だ。思い切って10ドルと言ってみる。渋々といった感じだったが交渉成立。勿論、さっきのドライバーとは違う人だ。

車は行けども行けども代わり映えのしない土漠の中を走る。幹線から外れているので、道も悪い。パンクして途中の集落に引き返すこと1回、この間のロス1時間を含めて4時間後、暮れなずむマルゥの街に漸く辿り着く。
19世紀終盤にロシア人の入植で作られた人口10万の街は、通る車も稀なメインストリートの道幅ばかりが無意味に広く、この国第4の都市と言うには、あまりに閑散としていた。

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                                                    閑散としたメインストリート
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by meiguanxi | 2006-09-20 00:26 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜]