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from Tokyo : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #7
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                       2007年7月20日~

その1
その2
その3
その4
その5
その6の続き

 ひとつのゴンパと石窟を見るためにアルチからのミニ・バスを対岸のサスポルで途中下車し1泊、更に翌日はバスゴという小さな村で下りて岩山の上のゴンパを見学した後、何処かからやって来た大型バスに乗り込んでレーに辿り着いた。7月21日。22日振りのレーだ。足を傷めてから実に16日が経っていた。
                                               病院で安心と今後の旅の方針のためにレン
ニダプク(サスポル村の石窟)                           トゲンを撮ってもらう。だが、足首の骨は折れ
b0049671_8373424.jpgていたのだ。メインの骨ではなく、膝から伸びて足首で外踝(くるぶし)を形成する骨だ。折れていたのはその踝で、写真では少しずれているように見えた。医者は僕の足を石膏で固めたが、明日からは歩いても良いと言った。石膏さえ固まってしまえば問題無いということだ。ポプラの枝を杖にして石膏で固めた足を上げて片足だけで撥ねるように歩いていた僕に、ネット屋の青年が彼が嘗て腰を傷めた時に使った物だと言って松葉杖をくれた。
 町でとある西洋人の男に声を掛けられた。彼とはアルチに向かう橋で会ったのだ。僕がそこで途中下車した時、彼はそこでバスかヒッチできる車を待っていた。僕のバスからはもう一人、途中のラマユル(僕がトレッキングを開始した村だ)から乗り込んで来た西欧人女性が降りていた。彼女は現地人のガイドを連れており、やはりそこで車を待つと言った。他にも何人か、現地の人達がそこにはいた。だが歩き出した僕を見て、彼等も歩き出した。もちろん怪我をしている僕はすぐに彼等に抜かれてしまう。やがて後ろから1台のトラックが来た。停めようと思ったのだが上手くいかない。前を歩いていたガイドを連れた西欧人女性も、その前を歩いていたこの西欧人男性も停められなかった。だが先頭を歩いていた僧侶が停めた。仏教徒の地域なのだ。後ろを歩いていた全員がトラックに向かって走り、全員が荷台に積まれた砂の上に乗り込んだ。走れない僕だけが取り残された。冷たい連中だなぁと僕は独り言を呟いたが、何故かそれで良いような気もした。この足を引き摺ってでもアルチに行くと決めたのは僕なのだ。幸い、その5分後に別のトラックに僕は拾われたのだったが。
                                               そして彼とはアルチの村で少し話をし、更に
バスゴ村のゴンパ                                  僕がサスポルで降りたバスで彼はレーに戻っ
b0049671_8414170.jpgていた。松葉杖を付き、足を石膏で固められた僕を見て彼は驚いた。「どうしたんだ?!」 「いやぁ、2週間前にリンシェットのゴンパの石段で滑ってね、足首を折っちゃったんだ。リンシェットは知ってる?」 彼は少し混乱しているようだった「ちょっと待って。2週間前って、それはどういう意味?」 僕は丁寧にことの次第を説明した。アルチで会った時、彼は僕が足を引き摺っている理由を訊かなかったのだ。僕も説明はしなかったし、アルチやラダックの話をするのにそんなことは必要ではなかった。彼はその時に僕の怪我に気付かず、助けになれなかったことを詫びた。仕方無いのだ。自分自身でさえ骨折を知らなかったのだから。
 「あなたは強い人だ」と彼は言った。もちろん英語なのだが、その「you」は確かに「あなた」という響きだった。だが、僕は穴にでも入りたい気持ちだった。実はその言葉はカルシャのゴンパで、あのオランダ人夫婦の夫人(パドゥムでビールを呑んだ時にいたオランダ人だ)にも言われた言葉だった。大きく腫れ、内出血で変色した僕の足を見て彼女は、「赤や緑や紫や、物凄いカラフルな足ね」と笑った。祭りの始まりを待つゴンパの境内でのことだ。「そうだろ、まるで曼荼羅みたいだ」と僕は言った。彼女は面白そうに一頻り笑った後に言ったのだ、「あなたは強い人だわ」と。
 レーでの話しに戻る。僕は西洋人青年に言った。「ねえ、僕はミスを犯しただけだよ。そして選択肢が無かっただけなんだ。僕はちっとも強くなんかないし、一人では何も出来なかったんだ」 そう、僕はあの時、一人では何もできなかったのだ。そしてトゥクテンたちに助けられて先に進むこと以外に選択肢が無かっただけなのだ。
 1週間後、医者に言われたように再度病院に行ってみると、「何処に行っても構わないが、後2・3週間は石膏は外せない」と医者は言った。僕はお願いしてもう一度レントゲンを撮ってもらった。前の時には前方からの写真で骨折が分かったのだが、横からの写真では太いメインの骨が邪魔して良く分からなかった。写真が明る過ぎたのだ。ところが今回の写真で見ると、骨折部は上下だけではなく前後にもずれている。医者は「問題ない。良く成っている」と言った。
 僕はそのままバス・スタントに向かった。勿論、彼とは違う感想を持ったからだ。レーからバスで2泊3日、デリーに早朝着いて宿を取り、そのままエア・インディアのオフィスに向かった。バンコックへの帰路はその日の便に変更できた。当日深夜、バンコックに到着。
 帰国したのはレーで2度目のレントゲンを撮ってからちょうど1週間後だった。土曜日だったので週明けを待って病院へ。医師は手術するかどうか暫し悩み込んだ。骨折2週間以内だったら、或いは僕がもう少し若かったら確実に手術を勧めると医者は言った。足首の関節は凹凸の関係になっている。足の甲が凹で、これに凸である脚のメインの骨が嵌っているのだ。この凹の一部を成しているのが折れた外踝で、これが外側にずれてしまっているために結果的に関節が開いてしまっているというのだ。要するに凹の幅が広く成ってしまった訳だ。だが既に骨はほとんど固まってしまっていた。これから手術してもう一度骨を切り離し金属で止める場合、一応松葉杖が取れるまでに2ヶ月。既に骨折部を新しい骨が包み込んでいる状態では、骨盤から骨を移植する可能性も含めてどこまで元に戻せるか疑問が残るという。要するに自信が無いという訳だ。足専門の整形外科医がそういうのだから、確かに難しいのだろう。手術しなくとも東京で普通に生活する分には傍目にも分からないように回復するそうだ。ただ、ヒマラヤとかに行っちゃう人だというのが引っ掛かるんですよね、と医者は言った。
 僕はアスリートではないし、若者でもない。2ヶ月を無駄にできるほど裕福でもない。将来的には関節の変形や関節炎を引き起こす可能性があるそうだが、取り合えず、このまま直してしまうことにする。やれやれ、だがきっと、それもそんなに遠くない時期に、僕はまたヒマラヤ地域に行くことになるのだろうと思うのだが。
                                               レーでの僕はルーフトップ・レストランに毎晩
レーのメイン・バザールと王宮                           通っていた。レー・ゴンパの隣の平屋の屋上
b0049671_8445474.jpgレストランで、レーのレストランにしては珍しくビールを大っぴらに呑むことができた。トレッキング出発前も帰ってきてからも、僕は毎晩ここでビールを2本呑むのが日課だった。1本100ルピー、約300円だ。インドでのビールは恐ろしく高い。しかもレーは何でも高いのだ。
 最後の晩、何時ものようにビールを呑み月を眺めながら、僕はカルシャでの最後の晩のことを思い出していた。オランダ人婦人達が彼女達の食堂テント(豪勢なトレッキングではそういうものがあるのだ)から出て来て、「今日もヌードル?」と僕のコッヘルを覗き込んだ。その晩は最後のキャンプだったので、僕は豪勢な料理を作ったのだ。残っていた食用油をふんだんに使って、オニオン・フライとフレンチ・フライド・ポテトを作った。大蒜で玉葱を炒め、村で買ったトマトを入れて煮込みトマトソースを作り、その中に網で焼いた餅を入れスライス・チーズを乗せて煮込む。餅のピザ風煮込みだ。「まあ、美味しそうだこと!」と彼女達は大袈裟に驚いたが、彼女達は何時もかなり美味しそうな贅沢な食事をしていた。「さあXX」と彼女は僕の名前を呼んだ。「今日は最後のお祝いよ」と言って彼女達は僕にチョコレート・ケーキを差し出した。彼女達のトレッキングではこんなものまで出来てしまうのだ。
 その夜、眠ろうとしていた僕のテントに彼女達が訪ねて来た。僕達は出会ってから今日までのことをひとしきり話した。「あなたの2度目のアクシデントの時、眠ろうとしても、もう心配で心配で、全然眠れなかったのよ」と彼女達は言った。あの落馬した日だ。その晩はキャンプ地が違ったのだ。「でもこうしてカルシャにまで来られて、本当に良かった」
 いや、僕がこうしてここまで来られたのは、彼女達のお陰でもあるのだ。実際に彼女達が僕にしてくれたことは、或いはそんなに多くはないのかもしれない。しかしもしあの日、彼女たちに出会わなければ、そしてその後の路で彼女たちに力を貰わなければ、僕はカルシャに来て祭りを見ることはできなかったのではないかと思う。確かにあの状況では先に進むしか無かった。だからいずれにしてもパドゥムには着いただろう。だが、きっとその時には全ての気力を使い切っていたに違いない。病院に行き、或いはそのまま数万円の料金を支払ってジープでレーに戻ったのかもしれない。そしてこのトレッキングはただの失敗の苦く虚しい記憶になってしまったのかもしれない。「あなたたちに会えたことで、僕は心を強く保つことができたんです」と僕は言った。「でもね」と彼女達は言った。「タイミング良くあなたと出会えたことは、私たちにとってもラッキーだったのよ。それで凄く幸せな気持ちに成れたのだから」
                                               そんなことを思い出しながらビールを飲んだ
ルーフトップ・レストランからの王宮                        レーでの最後の晩のレストランでの話しだ。
b0049671_8492134.jpg僕は少し感傷的になっていたのだろう。4人いるウエイターたちに僅かずつのチップを渡した。彼等は何時も僕を気遣ってくれたし、親切にしてくれたのだ。店を出ると、彼等は階下まで僕を追いかけて来た。彼等は幾度か階段の上り下りを手伝ってくれていたのだが、何回目かの時、一人の方が安全だと思うからと手助けを断っていたのだ。彼等は追いかけて来て、そこに整列して僕に挨拶した。そして僕にビールを1本手渡してくれた。僕が彼等に渡したチップは僅かな額でしかないし、ビールの1本は彼等にとってはきっと贅沢過ぎる飲み物である筈だ。「また来年!」と彼等は言った。もちろん来年は僕がここに来ないだろうことを、彼等も僕も知っている。だが僕は
                                              「ああ、来年ね、maybe」と答えた。

  ☆

 僕は敢えてこの文章の最後の部分の時間を前後させて書いた。一旦東京まで持って来てからカルシャの話を後ろに回した。勿論それはオランダ婦人達との出会いが僕にとってとても大きなことだったからからなのだが、本来ならこの最後の部分は馬方との別れを書くべき場所の筈だ。そうできなかったことは僕と彼にとってとても不幸なことなのかもしれない。だがひとつ断って置きたいのだが、彼は基本的には一生懸命に仕事をしてくれる、性格的にもイイ奴なのだ。おそらく、僕と出会ってしまったこと、僕が怪我をしてしまったことは、彼にとっても非常に不幸なできごとだったのだ。僕は彼のことをこの文書でヒールのように書いてしまったかもしれない。もしこの文章を読んで彼に良く無い印象を持った人がいるとしたら、それはこの文章を書いた僕の卑小さのためた。或いは逆に、彼への僕の態度や感情に美しくないものを感じた人がいるかもしれない。けれどそういう部分も書かなければあの日々の記録にはならないのだ。僕と別れた後、彼は西欧人とのトレッキングに出掛けた筈だ。それが彼にとって良い仕事であったのなら、と思わずにいられない。
 最後に、心配をお掛けした皆さんにお詫びすると同時に、自分本位な長い文章に最後まで付き合ってくださった皆さんに心からお礼を申し上げたい。ありがとう。                                             (完)
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by meiguanxi | 2007-08-17 08:53 | Air Mail
from Tokyo : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #6
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                     2007年7月10日~19日

その1
その2
その3
その4
その5の続き

 翌朝8時過ぎ、遅れているバスの到着を待つ僕は、トゥクテンと馬たちを見送った。穏やかな路とはいえ、彼等はこれから28kmを歩いて行くのだ。30分遅れて来たバスは出発の時点で既に満席に近かったが、進むにつれ多くの乗客を乗せた。車内は人が折り重なり、押し合い圧し合いの大騒ぎで、座っている僕の膝の上にはヤクの子供が頭を乗せていた。乗り込んできた時に心配したのだが案の定、子ヤクはバスの中で糞をしてしまう。僕のトレッキング・シューズのすぐ横に、下痢気味の糞が落ちた。
 2001年初版のガイドブックではパドゥムの町は急速に北に広がっているとあったが、既に町の中心は北側の新市街に移っていた。とはいっても三叉路の周辺に商店が集中しているだけで、旧市街に向かう路を除けば50mほどで町は終わってしまう。旧市街への路も賑やかななのはせいぜい100mまでだ。三叉路の直ぐ側に、300ルピーを250ルピーに負けてもらって宿をとる。少し高いが、痛む足で大きな荷物を背負って、幾つかの宿を比較して回ることは不可能だった。
                                               病院は町の中心の宿から150mか200m
パドゥムの旧市街                                   ほど外れたところにあった。大きな敷地の政
b0049671_821730.jpg府系病院だ。既に病院の中は沢山の患者や付き添いの人達でごった返している。外国の病院に行った場合、とりあえずそこのシステムを理解するのに苦労することになる。まあ、とにかくすったもんだの末、漸く診察になる。足首の患部を触診したドクターは、骨は折れていないと断言した。数日は安静にして足を高くして寝るようにと言って、痛み止めと消炎剤とをくれた。胸や腰、背中の痛みについても問題無いと言った。足の骨に関しては僕も同じ意見だったが、それ以外については少し違う感想を持った。自慢ではないが僕はそちらこちら何回も骨折したことがあるのだ。その経験からして肋骨や腰椎がちょっと折れた程度では人間は歩けなくなったりしないし、折ってしまった後には死ぬほどの痛みを感じたりしないのだということを知っていた。僕が心配だったのはその折れ方で、例えば肋骨が肺を圧迫していたり、腰椎が後遺症を残すことにならないかということだった。だがドクターは、もし問題があるのならそんな風に歩いたり動いたりできないだろうと言って笑った。
 診察はそれで終わった。レントゲンは無いらしい。僕としては幾許かの不安を感じはしたが、彼の言葉は少なくとも僕の期待に沿うものだった。そして何より、足を怪我して5日、落馬して3日、こうして生きて歩いている。大丈夫だ。これでカルシャに行ける、僕はそう思った。
 この町はザンスカールからラダックに戻るためのバスが発着する場所なので、また戻って来ることになる。今は無理をして観光しなくても良かった。旧市街は1kmほど北にあり、その後ろの岩山にゴンパがある。そこまで往復した後は宿でのんびりと過ごした。夕方、ビールが呑みたくなり、幾つかの商店を探してみたが見当たらない。この辺りの一般のレストランでは酒は出さない。実は三叉路の近くに小さなバーがあって酒はそこで呑めたのだが、見付けることがことができなかったのだ。三叉路に「Tourist Complex 1.5km」という看板があった。そしてそこには「Bar」の文字が。この足で1.5kmを歩くのにいったい何十分掛るのか、少し絶望的な気分だったが僕は歩き出していた。どうしてもビールが呑みたかったのだ。一応舗装がしてあったり壊れていたりといった農道のような路を、ポプラの枝を杖に歩いた。遠い山裾にへばりつくようにカルシャのゴンパが見える。気が付くと1.5km先のピピティンという村まで来てしまっていたが、目的のトゥーリスト・コンプレックスは見付けられず、夕方の水を運ぶ子供達と話をしながら町に戻る。辺りはすっかり暗く成っていた。
 町の200mほど手前に、テント・ホテルがあった。レストランの標識もある。レストラン・テントに入ってみると中年の西欧人夫婦が、お茶を飲みながら現地人と話をしていた。僕はビールを注文し、彼等と話をした。現地人はこのテント・ホテルのオーナーで、西洋人はオランダ人だった。やれやれ、またオランダ人だ。僕はことの経過を話し、オランダ人婦人達に世話に成ったことを話した。風は冷たかったが、空は満天の星だった。僕は10日振りのビールに、すっかり幸せな気分でその空を見上げていた。
                                               ところでこの日、2つのことが分かった。カル
カルシャ・グストル(カルシャ・ゴンパの祭りの仮面舞踏)          シャの祭りは1日延期になっていた。詳しいこ
b0049671_8241920.jpgとは分からなかったが、レー或いはラダックの何処かの高僧が亡くなったとかの影響らしかった。もうひとつはカルシャへの公式なバスは夕方の4時に1本あるだけだということだった。だが、トゥクテンとは3時に約束している。なんとかジープを捕まえてそれまでに行かなければならない。僅か6kmだが、ユニオンの行程価格は300ルピーもする。だがそれは仕方が無い。どうも原油の高騰は、航空運賃の燃油チャージだけではなく、こんな山の中でも僕等のような決して裕福ではない旅をする者に負担を迫っているようだった。
 翌日の午前中、僕は三叉路付近で飯屋を探していた。ホテル併設のレストランで食べても良かったのがだ、町中の普通の飯屋で食事がしたかったのだ。すると誰かが僕の肩を掴む。振り向くとトゥクテンだった。
 彼は馬を連れていなかった。乗合ジープで来たのだと言う。僕は既に怒る気力を失っていた。既に彼は来てしまったのだ。勿論、彼の村まで7kmなのだし、祭りが1日延期になったので明後日まで僕はカルシャにいる訳だから、戻って馬を連れて来いと言うことはできたのかもしれないが。僕は彼を宿のレストランに連れて行った。考えてみれば彼はザンラで、「5時にカルシャに行く」と言ったのだ。おそらくパドゥムからのバスの時間を知っていたのだろう。ザンスカールを走るミニバスは2本しか無い。1本はパドゥムからザンスカール川右岸を北へザンラまで、もう1本は川を渡ってカルシャから左岸を北西に向かう。どちらも朝はパドゥムに向かい、同じバスが夕方下って行くのだ。
 それに、彼は馬を3頭持っていると言ったのだが、考えてみればもしそうとしたなら何故わざわざ妊娠している馬を連れて来たのか。3頭は持っていないか、或いはもう1頭は連れて来られない状況にあるかのどちらかなのだ。彼は初めから馬を連れてくる意思は無かったのだ。勿論、母馬を残して1頭だけ連れて来ることは可能だったが、ザンラへの路で僕が母馬に乗った時にでさえ、僕の乗った馬にも彼のテントやストーブやその他諸々の用具が乗せられていたのだ。つまり、僕の食料が減ったとはいえ、どうやっても1頭では無理なのだ。おそらく彼は、僕の足ではどのみちトレッキングは無理だろうと判断しもしたのだろう。
 僕は彼にチャイを勧めながら静かに訊いた。「最後に1つだけ教えて欲しいんだ。何故、馬を連れて来なかったんだ?」 彼は僕の質問の「何故」という言葉を口の中で反芻した。そして「No understand」と言って難しい表情の顔を横に振った。勿論、馬を連れて来なかった理由が分からないと言ったのではなく、「何故」という単語が理解できないと言ったのだ。僕は「理由を知りたいんだ」と言い直した。彼は「理由」という単語を反芻した。「No understand」 確かに彼は基本的には英語を話せない。しかしこれまでそれなりのコミュニケーションを取ってきたのだ。僕は質問をやめた。「これでカルシャの後は何処にも行けなくなった訳だ」と僕は呟いた。「By jeep, go」と彼は言った。外国人は際限無く金を使えるとでも思っているのだろうか。
 その日の午後、僕達はジープをチャーターしてカルシャに向かった。僕には不思議だった。確かに彼は僕の荷物を運び、ジープを探してくれた。だが、例え大変でもそれだけなら僕にでもできる。カルシャでは3泊することになるが、その間、彼にはやるべきことは何も無い。勿論、馬を連れて来ていてもそれは同じだが、少なくともそれにはその後の移動の待機という意味がある。しかし3日後、彼は僕の荷物をバスに載せ、バスから宿に運ぶだけのためにその3日間を待つのだ。いったいこの人は何のためにパドゥムに来たのだろう。
                                               カルシャのキャンプはとある民家の庭で、門
カルシャ・グストル                                   と仕切りのある気持ちの良い草地だった。と
b0049671_8284968.jpgころがそこにいた先客は、あのオランダ人婦人達だったのだ。彼女達は僕達の到着を歓迎し、キッチンボーイにお茶とスープを入れさせ、病院での診察結果を熱心に聞いた。僕は、もうこれでいいのかな、という気持ちに成っていた。あのリンシェットで怪我をした直後に彼女達に世話に成り、ここまでの路々何回か会い、その度に気遣ってもらった。ザンラに向けて出発する日、彼女達は対岸の路を別の村に向かった。本当なら僕はそこに寄ってからザンラに回る予定だった村だ。その時、カルシャで会おうと言った彼女達との「maybe」であった約束が、こうして果たされたのだ。ここで良いのかも知れない。ここを最後にして良いのかも知れない。いずれにせよ馬が無い以上、僕はここから先へは進めない訳だが、これで良いのかも知れないと思っていた。その夜、午前3時、ヘミスで聞いたものと同じような管楽器の音がゴンパから聞こえた。低く重いその単調な音は夜中の静けさを乱すというよりは、その静けさと暗さとを包み込むように鳴り響いていた。
 3日後の早朝、カルシャから直接1泊2日掛けてジープでレーに向かうオランダ人婦人たちを見送った時、パドゥムへのバスは8時にカルシャを通るとキャンプ地の主人は教えてくれた。トゥクテンはバスは9時だから8時半にテントに来ると言っていた。彼はゴンパの僧房に泊まっていたのだ。僕は慌ててテントをたたみ、馬方が来たら食料などの荷物の入った2つのバッグと灯油タンクを渡してくれと主人に頼み、ザックを背負いサブザックを抱え杖を突きながらバスストップに歩いた。バスの停まる村外れのチョルテン(ストゥーパ)には学校へ向かう子供や数人の尼僧、そのほか沢山の人達がバスを待っていた。だがバスは遅れていた。8時過ぎ、大慌ての様子でトゥクテンが駆け下りて来た。かれはバスの様子を見に村の下の方に歩いて行ったが、そのまま暫く戻って来なかった。その間に何台ものジープや軽トラが通っては人々を満載してパドゥムに向かって行った。僕は荷物を背負って駆け乗ることはできない。
 やがて1時間近く送れたバスがチョルテンの角にやって来て、そのドアからトゥクテンが飛び降りる。満員の人々を乗せたバスは停まることなく、待っていた人々の前を通過した。「No seat」とトゥクテンが言った。彼が言うには、バスは一旦パドゥムに行ってからもう一度戻って来るらしい。祭りの次の日で今日は特別なのかもしれない。その後も2台ほどのジープが通ったがトゥクテンは運転手に何か話し掛けるだけで、「ダメだ」といった表情で僕の方に首を振るだけだった。他の人達が乗り込むのが早過ぎるのだ。彼は諦めて1mほど高くなった草地に座りこんだ。その数十分後、やって来た軽トラに向かって僕は走り出した。勿論ザックを背負いサブザックを抱えて足を引き摺っているのだから、その歩みは亀のようだ。だが出だしは他の人達よりも早かった。トゥクテンが慌てて僕の方に駆け寄ってくる。僕は運転手に聞く前に荷物を荷台に放り込んだ。他の人達は既に乗り込んでいる。自分で、動かなければダメなのだ。僕は旅を、しているのだ。そんなことを思っていた。
 パドゥムに帰り着き、宿のレストランでトゥクテンに最後の食事を奢った。レストランはポーランド人の団体に占拠されたような状態で、注文のフライド・ライスが出てくるまでに1時間も掛かった。その間、僕達はティーポットで注文したチャイを呑んで待った。トゥクテンは僕と顔を合わせないようにしているようだった。こちらから話し掛けることにポツポツと答えるだけで、すぐにあらぬ方向を向いてしまったり地元の人と話始めたりした。最後の別れの言葉は既に部屋で済ませていたし、僕としても何を話したものか困っていた。食事が済んでしまうと僕はもう一度、彼に別れと礼とを言って握手をしその場を離れた。16日間の契約の14日目だ。2週間一緒に旅をし、そして世話になった人との分かれとしては、あまりに素っ気無い瞬間だった。
                                               パドゥムからレーへの直行バスは、町に戻
ドゥルン・ドゥン氷河(パドゥム―カルギル間のバス車窓)          って2日目の夕方に到着したが、翌日の客が
b0049671_8313085.jpg集まらないという理由で出発は4日目の早朝4時になった。午前4時に出発し午後の6時にカルギルに到着、翌日の4時半に再出発する。僕はレーまで62km手前のサスポルという村に入る手前で途中下車した。村まで2kmほどのその場所に、インダス川を渡る橋がある。その橋を渡って4kmでアルチという集落に着く。チベット仏教美術ではあまりにも有名なゴンパのある村だ。僕は13年前にそこを訪れていたのだが、もう一度その壁画や塑像を見たかった。本来は更にこの10kmほど手前のウレ・トクポという集落で降りる予定だったのだが、見たかったマンギュというゴンパまではインダスを渡った集落から6km歩かなければならず、諦めてパスしたのだ。アルチなら橋からヒッチができるかもしれない。実際、登りのきつい途中の2kmは砂運搬のトラックに乗せてもらえた。
 ほんの小さな村は以前とは違って随分観光化されていた。1日中、レーからのジープが西洋人グループを連れて来ては戻っていく。アルチ・チョスコル・ゴンパは撮影禁止になっていたし管理をしている僧は非常に感じが悪かったが、以前は情報が無かった為に見ることのなかったドゥジェチェンポ・ゴンパの素晴らしい壁画を見ることができ、僕は上機嫌だった。この村に2泊して洗濯などをした。安宿だったが宿の庭はガーデン・テラスになっていて、そこで満天の星を眺めながら呑むビールは最高で、危うく足の怪我や落馬のことなど忘れてしまいそうになった。2本呑んだ後で、今日は特別にもう1本呑んじゃおうかなと思った時、上の方から誰かの笑い声が聞こえたような気がした。その声のした方を見上げると、そこには庭の横の高く細いポプラの木の上で、まるで箒の先のようにそこにだけ茂った葉が風に揺れていた。ふと目の端に眩しいものを感じる。少し身を乗り出して木の向こうの隣の家の壁の脇を覗くと、空の非常に低い所に、しかし明るくしっかりした月が出ていた。下弦の月だ。デリーからの夜行バスで見て以来、実に久し振りの月だった。                (つづく
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by meiguanxi | 2007-08-15 10:06 | Air Mail
from Tokyo : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #5
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                          2007年7月9日

その1
その2
その3
その4の続き

 赤ら顔のトゥクテンが戻って来たのは7時近くになってからだった。何処へ行っていたのかとの僕の問いに彼は、「今日は“メラ”なんだ」と答えた。「ねえトゥクテン、家の中へは入れるのかな?」「No」彼の声は力強く明確に響いた、「今日は“メラ”だ」。僕には彼が何を言っているのか、初めのうち良く理解することができなかった。「家の人は何処に行ったの?」「“メラ”」…“メラ”というのがなんであるのか僕は質問してみた。彼は暫くそれについて考えていたが、やがてこう答えた、「One Zanra sister go XXXX」最後の部分は地名らしかったが、僕の知らない地名だった。
                                               そういえばゴンパからの帰りに村外れで太
ザンラ村の結婚式                                   鼓や笛の音に誘われて1軒の家に近付くと、
b0049671_863472.jpg何人もの子供達が塀越しに庭を覗き込んでいた。沢山の人達が庭に敷かれた絨毯に座り、何かしらの宴が執り行われている。中にはラダックでも滅多に見かけることのない正装をした男達もいる。どうやら結婚式のようだったが、新郎新婦の姿は塀の外からは確認することができなかった。こういう場合、もう少し積極的に目立ってみたりすると、酔っ払った誰かが珍しい陳客として強引に招き入れてくれたりするのが常なのだが、体調不良の状態の僕にはその元気は無く、塀越しに数枚の写真を撮ってその場を離れたのだった。
 彼とのたどたどしい会話からすると、どうもこの “sister” というのは彼の姉妹という意味では無く、要するに「このザンラ村のとある女性が何処かの村に嫁いで行く」という意味らしい。それが彼の知り合い筋なのかどうか、そこまでは確認できない。「今日はこの家に泊まるんだよね?」と僕は確認してみた。「そうだ」彼の答えは明確で自信に溢れている。「じゃ、どうして家の中に入れないんだろう?」「今日は“メラ”」…「家の人は何時になったら帰って来るのかな?」「知らないが…7時か8時か…」「ねえトゥクテン、もう既に7時だ。もう直ぐ帰って来るってことかな?」「…今日は“メラ”なんだ」やれやれ、どうも僕に出来ることはまだ何もないらしい。なにしろ今日は“メラ”なのだ…
 ところでこの夜は結婚式に関係した人々にとってばかりではなく、僕達2人にとってもある意味で大切な夜であったのだ。なにしろ明日早朝、僕は病院に行くためにバスで35km離れたザンスカールの中心パドゥムに移動する。トゥクテンは彼の希望でその7km手前の彼の村に1泊することになっていた。本来ならトレッキングの期間内に、いくら通り路だからといっても馬方が自分の村に帰ってしまうなどはありえないことではあるのだが、僕が負傷し、連れていた馬に子馬が生まれてしまったのだ。この先も子馬を連れて歩く訳にはいかないし、どのみちパドゥムの次はお祭りを見るために僅か6kmしか離れていないカルシャに向かうのだし、そこにはバスも走っている。そんな訳で彼の申し出を承諾していたのだ。だが、明後日、僕達は何処かでどのようにしてか落ち合わなければならない。食料等の荷物は彼に預けることになるだろう。そうした相談をしなければならないのだ。
                                               しかも、ザンラに向かって歩いている途中、
チョモ・ゴンパ(尼僧院)からのザンラ                      彼は奇妙な申し出をしていた。パドゥムとカル
b0049671_89367.jpgシャには馬を連れていかなくて良いか、というものだった。ザンラに到着したのが7月9日、ラマユルから出発してちょうど10日目だった。僕の契約は16日間あり、当初予定ではカルシャの祭りを観た後、更に数日、中心地より西側の村を回ってパドゥムに帰って来ることになっていた。確かに僕は負傷してしまっていたし、その為にザンラから先の村を訪ねることを諦めて病院のあるパドゥムに急ぐことにしたのだった。だが、病院での診察の結果次第では、当初予定通りとはいかないまでも、もう少し近場の村は訪ねることができるかもしれないと思ってもいたのだ。いや、ことと次第によってはカルシャの祭りも諦めるしかないのかもしれない。なにしろ翌日10日にパドゥムの病院に行ったとして、祭りは11日と12日なのだから。だがもちろん僕はこの申し出は承認しなかった。彼に言わせると「パドゥムやカルシャには良い草がない」からというのが馬を連れて行きたくない理由なのだが、どうもこの話は合点が行かない。なにしろトレッキングのコースは事前に伝わっている筈なのだから。勿論、彼が何頭の馬を所有しているのかについても訊いていたし、彼の答えは3頭だった。母馬を置いて来ても2頭は連れて来られる。彼は不服そうではあったが、当然ながらそれについては了承した。
 家人の帰りを待つ間、それらにつても話をしたのだが、どうもきちんとした会話が成立しない。僕の提案は、明後日、とにかくカルシャに行くということだった。足は酷く痛んだし腫れている。だが幸いなことに骨が折れているということはなさそうだし、落馬によるダメージも酷かったが急いでどうこうという時期を過ぎてもこうして取り合えずは生きている。ここまで来てカルシャの祭りを観ない訳にはいかない。だが、とにかく病院に行き、ドクター・ストップが掛ってしまった場合には諦める。そうでない場合には16日間の期限までは幾つかの村を回る。
 しかしこの提案には少し無理があったのは事実だ。トゥクテンには明後日、カルシャで会おうと言ったのだが、もしドクター・ストップが掛った場合には僕はそこに行けないことになる。だが僕はその可能性を無視した。「ねえトゥクテン、僕はどうしても明後日、カルシャに行く。だから君は祭りの終わる午後で良いからカルシャのゴンパに来てくれ。そして、もし医者が問題無いと言ったのなら旅を続けるから、馬は連れて来てくれ」 彼は了承し、明後日の10時にパドゥムに行くと言った。「祭りが何時に始まるか知ってるかい?」 彼はそれを知らなかった。僕も知らないしガイド・ブックにも書いていない。派が違うが、先月末に観たヘミス・チェチュの初日は朝から始まった。分からない以上、早朝に行くしかない。「僕は早朝にバスかジープを捕まえて行くから、君は午後で良い。できれは3時(15時)頃にゴンパに来てくれないか?」 ところが始めは10時にパドゥムに行くと言った彼の言葉が急転する。5時(17時)だと言い張るのだ。彼の村からパドゥムまで彼の足で1時間半、そこからカルシャまでも同じくらいの筈だ。しかし頑として譲らない。なぜ彼がその時間に拘るのか、そしてどうして急に話が違ってしまったのか、僕には全く理解できなかった。
 「“メラ”をやっているから5時で問題無い」と彼は言った。どうも彼は“メラ”という言葉を祝い事一般を指すものとして使っているようだ。だが、ヘミスの祭りは午後のそんなには遅く無い時間に終わっていたように思う。多分、4時とかそのくらいだ。少し勝手かもしれないが、祭りが終わった後でお茶もテントも無く、言ってみれば保障があるとも言い難いかもしれない彼を待っているのはやや憂鬱な気がしていた。
 ところが彼はここで唐突にさっき済んでいる筈の話題を持ち出した。「Padum Karsha horse no go. OK?」 もちろん彼は明らかに酔っていた。僕は辛抱強く初めから丁寧に説明を繰り返した。「いいかい、僕は明日パドゥムに行って、病院に行く。そして明後日の朝、カルシャに行く。もし医者が…」 トゥクテンの言葉が僕を遮る「After tomorrow no go Karsha!」 今度はカルシャに行かないと言い出したのだ。「ねえ、僕はカルシャ・グストルが観たいんだよ」 「Tomorrow Karsha no “mera”」 「いや、明日じゃない、明後日だ」 「Oh! After tomorrow Karsha no “mera”」 「ねえ、今日は9日だ。明日は10日。僕は明後日の11日の朝、カルシャに行く。カルシャの祭りは11日と12日だろ?」 彼は日にちを頭の中で反芻して「そうだ、そうだ」と言って謝ったが、馬を連れて行くということについては承諾しない。
 僕はそれらのことについて彼と話すことを諦めた。「OK、僕の見るところ、君はちょっと呑み過ぎている。この話は明日にしよう」 彼は酔っていることを認めなかったが、僕は彼を無視した。「ところで、既に8時に近いんだけど、“メラ”は何時に終わるのかな?」 「知らないけど、9時か10時か…」 やれやれ、さっきとは話が違う。「ねえ、僕も承諾しはしたけど、今日はテントを張らずに民家に泊まると言い出したのは君だ、そうだよね? 僕は非常に疲れているし足の状態も良くないし身体のそちこちも痛い。早く部屋に入ってお茶を飲んで食事をして休みたいんだ」 トゥクテンは明確に自信を持って答えた、「tea, dinner, room, no problem!」 良くは分からないが、彼としては家人さえ帰宅すれば部屋はもとより食事も出してくれるから心配は要らないという意味のことを言っているらしい。「もう1回言うけど、僕は非常に疲れていて足も痛い。咽喉も乾いたしお腹も空いた。そして何よりも休みたいんだ。できれは君が“メラ”に行って家人を連れて来てくれるか、或いは鍵を貸してもらって来てくれないか?」 彼は明確にしっかりと回答した、「No!」 そう、今日は“メラ”なのだ。
 僕は諦めて黙り込んだ。或いは健康な状態であったなら、その“メラ”に一緒に潜り込んで呑んだり喰ったり写真を撮ったりといった方向に流れを持って行けたのかもしれない。しかし今、僕には全くそんな元気は無かったし、身体だけでなく精神的にも疲れていた。黙り込んで溜息をつく僕にトゥクテンが、明確で迷いの無い声で訊いた、「Problem?」 その声は質問と言うよりは疑問、或いは詰問にさえ聞こえた。
 「This is problem!」 僕は少し声を荒立てた。「トゥクテン、君はなぜ今日はキャンプではなく民家に泊まると言い出したんだ? 酒を呑みたいからなのか?!」 言い掛かり的な言い方だったかもしれないが、少なくとも彼は酒を呑み食事を済ませているのだ。彼ははっきりと答えた、「yes!」 やれやれ、勿論そんな筈はないだろう。おそらくこの村に入るまでは結婚式のことなど知る筈もなかったのだ。英語が上手く通じていないのか、或いは単に酔っているだけなのか、僕には良く分からなかった。僕はこの10日間、彼に対して怒ったことも声を荒げたことも無い。だが、この一言とその自信に満ちた表情は疲労した僕の理性を切ってしまうのには充分だった。僕の修行は年齢の割りには未熟なのだ。「“メラ”が何時終わるのか知らないが、トレッキングでは9時といったら全てのトレッカーが眠りに就く時間だ。なのに8時を過ぎて僕はまだ1杯のチャイさえ飲めずにいる。君は酒を呑み食事もした。なのに僕は食事もできず横になることもできない。怪我をしているのに何故、この石段に座って待っていることだけしか許されないんだ?!」 彼はキョトンとしていた。急に声を荒げた僕に驚いたのかもしれない。
                                               暫くして彼は、「じゃあ、テントを張るか?」と
ザンラ・カル(王宮)                                  言った。それは「そんじゃテントを張れば良い
b0049671_813345.jpgんだろ!」的に僕には聞こえた。或いはそう聞こえたのは僕が偏狭だからなのかもしれないが、いずれにせよ今更テントを張るという言葉に僕の脆弱な精神はかなり打ちのめされた。「何処に?」と力無く溜息交じりに訊く僕の前を通り過ぎると、彼は建物の横に付いた木戸を開け、その向こうを指差した。そこは馬を繋いである場所だ。藁が敷かれ、馬の排泄物が散乱している。「そこは馬の場所だ」と言うと、彼は「No!」と言ってその脇を指した。確かにその脇に少し壇に成った僅かな場所があった。おそらく家人が何かの作業に使う場所なのだろう。だが、テントを張れるようなスペースではない。
 僕はいい加減、うんざりしていた。塀の外の道端にテントを張れる程度の僅かなスペースがあることを僕は知っていた。勿論そこは道端であり、スペースがあることとそれに適していることとは違う。とにかく何処でも良いから横になりたかった。「水は何処から汲めば良いんだ?」と僕は訊き、答えを待たずに門扉をくぐった。後ろから付いて来たトゥクテンが僕を追い越し、どんどん村の裏に登って行く。この村は30軒ほどの集落で、中心部は路に沿って非常に狭い範囲に民家が連なっている。路から2軒先の山側に流れる水路で彼は立ち止まった。しかし、僅かな距離とはいえ、その暗く成ってしまった斜面を登ることは今の僕にはけっこうな苦労を要した。少し意地の悪い気持ちになっていたのだろう。漸く追い付いた僕は「あまりに高過ぎる」と静かに言った。「俺が運ぶから問題ない!」 そう言って彼はどんどん斜面を下って言った。斜面の下から彼が斜に振り向いて言った、「dinner, you go Gompa, problem!」 ゴンパなんかに行ってるから食い損なうんだ、とでも言おうとしたのだろうか。一方的に捲し立てられて彼も腹を立てたのだろう。確かにこんな身体で断崖のゴンパに登るなど、真っ当ではないのかもしれない。だが、僕は仕事でトレッキングをしているのではないのだ。ゴンパなんかに行ってるから食い損なった?何故そんなことを言われなければならないのだ。斜面を下る時、トゥクテンはポリタンクを持ってもう一度登って来たが、僕は彼を無視して擦れ違った。彼は暫く戻って来なかった。
 ところが戻って来てポリタンクを置くなり、彼は僕の荷物を担いで言った、「Go!」 Go?何処へ? 「Room」 そう言うと僕のメインザックと食料の入ったスポーツバッグを担いだ彼は、僕の答えを待たずに門を出て歩き出した。僕は慌ててサブザックだけ担いで彼の後を追う。彼が向かったのは初めに酒を呑んでいたあの家だった。この辺りの家の1階は真っ暗な土間で物置とかそういうスペースに成っている。ヘッドランプを付けて奥にある筈の階段を探す。狭く急な石の階段だ。登り切ると2つの部屋に電気が付いていた。トゥクテンはさっき男達が酒を呑んでいた部屋に荷物を置いた。「家の人は?」と訊くと“メラ”という答えが帰って来た。どうも了解を取っている訳ではないらしい。「OK?」とトゥクテンは訊いた。その声は「これでいいだろ!」といった響きに聞こえた。
 水と灯油タンク、それともう1つの食料バッグをもって戻って来たトゥクテンに、「ストーブを焚きたいんだが」と訊いてみた。部屋には入れても家人がいないのではお茶も飲めないのだ。彼は「ここで良い」と半ば捨て鉢に言った。確かに人々が土足で上がっていた部屋ではある。彼等は土足で部屋に上がり、敷かれた絨毯に土足で座る。しかし紛い成りにも絨毯の敷かれた部屋でストーブを焚くのか?僕は暫くぼうっとしていた。もちろん絨毯は汚れている筈だったが、そんなことはどうでも良かった。置かれたザックに頭を乗せるとその場に横に成った。「茶を沸かさないのか?」と訊く彼の質問を無視して、「バスは朝の8時だったよね。君はどうする?」と訊いた。「朝7時半ここに来る」 彼はここにではなく、さっきの家に泊まるのだという。
                                               彼が部屋を出て行った後、僕はその場で
ジョン・カル(旧王宮)のゴンパからザンラ村                  MSR(ストーブ)のボトルにタンクから灯油を
b0049671_8163313.jpg入れた。隣の部屋には炊事用の土間があることを僕は知っていたが、そこまで行く気力が湧かない。どうでもいいというような気持ちに成っていた。或いはさっきのトゥクテンの言葉が捨て鉢に聞こえたのは、僕の気持ちが捨て鉢だったからなのかもしれない。断熱版を敷いてその上でストーブに余熱を入れた。このMSRというストーブ(コンロ)の余熱は、ボトルから少量の燃料を受け皿に流し、そこに直接火を付ける仕組みに成っている。炎は小さなストーブ全体を包み込むほど大きく成る。幾ら断熱版を敷いているとはいえ、とても絨毯の上で使うような代物ではない。少なくともこの家の人には何の責任も無いのだから、酷い話だ。だが、そういったことにさえ気を使えないほど、僕の心は荒んでいたのだ。
 ところがお湯を湧かしていると家人が帰宅した。主人が部屋に入って来る。僕は「ジュレー」と笑顔で挨拶するしかない。やれやれ、僕が何者なのかについては知ってはいるだろうが、どうしてその僕がここにいるかについて、そしてどうしてストーブなんかを燃やしているのかについて、どうやって説明したものか。おそらく彼は英語など話せないのだ。だが彼は「やー、ジュレー、ジュレー」 と挨拶すると 「プリーズ、プリーズ、スリープ」と言って一番奥の少し壇に成った場所を、上に向けた掌で指した。言ってみればそこは上座で、おそらくは家長とか主賓の席だろうと思われた。僕はストーブを使っていることについて心苦しく思ったのだが、彼はそのことについては何も言わなかったし、それを見さえしなかった。むしろ卑屈とさえ見える表情で僕に奥の場所を勧めて出て行った。他の家族達は部屋に入って来ない。どうやら隣の土間のある部屋(そこは昼間、僕がチャイをご馳走になった部屋だ)にみんな入って行ったようだ。
 家主が出て行ってしまうと、僕はティーポットにチャイを入れ、カップにネスカフェを入れた。例によってそのコーヒーにブランデーを注いだ。だが、それ以上の作業をする気には成れなかった。鞄からビスケットと取って置きのハムの缶詰を取り出した。サブザックの中には今朝、オランダ人婦人が半ば無理矢理に押し込んだドライ・アプリコットがあった。それらを奥の壇の前に置かれた低いテーブルに運んで食事をした。時間は既に9時を回っていた。空腹の筈だったが、食事は上手く進まなかった。やがて部屋の電気が消えた。それと同時に隣の部屋の話し声や物音も消えた。この部屋に電気のスイッチは無い。隣で消したのかもしれないし、或いは消える時間が来たのかもしれない。     (つづく
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by meiguanxi | 2007-08-13 10:51 | Air Mail
from Bangkok ― Tokyo : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #4
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                       2007年7月8日~9日

その1
その2
その3の続き

 その夜は激しい風がテントのフライシートをばたつかせる音に何度も目を覚まされた。未明には降っては止む雨がテントを叩く音に幾度か目を覚ました。その度に身体の何処かの痛みが甦った。
 幸いなことに朝には雨は上がっていた。トゥクテンが作ってくれたインスタント・ラーメンを食べ、彼らに手伝ってもらってテントをたたむ。雲は低く世界を覆い、行く手の峠の上空は真っ暗だった。一旦谷に下ってから、この日も厳しい登りになる。勿論トレイルは昨日に続き危うい。
 出発して暫くすると雨が落ち始めた。始めのうちは小降りだったのだが、馬方に止まってくれと言い出せぬままに、気が付けばびしょ濡れに成っていた。とても止まって荷物から何かを取り出せるような路ではなかったし、なにしろ自分が怪我を負って負担を掛けているという負い目が何処かにあった。漸く一つの峠を越えて谷の下に下りた時、この日はトゥクテンが背負っていてくれたサブザックからレインコートのポンチョを取り出す。そのザックはびっしょりと濡れ、色が黒く変わっている。本当はその中のカメラが気に成っていたのだが、とてもそれをポンチョの下に自分で背負って馬に揺られることはできそうになかった。胸も背中も腰も痛むのだ。カメラは濡れ、フィルムはダメになるかもしれない。しかし気には成ったが、今はカメラや写真のことを気にしている場合ではなかった。雨は降り続け、気温は一向に上がらない。まるで真冬に降る冷たい雨と同じだった。路は険しく、この日も何ヶ所か危険な断崖を、馬を下りて杖を突いて上り下りしなければならなかった。間も無く、僕たちより少し先にテントを張っていた例のオランダ人婦人たちを追い越す。彼女たちは僕に何か声を掛けたが、僕は「大丈夫、多分ね。後で」と答えるのが精一杯で、馬上で凍えていた。
 漸く峠道が終わった時、念願のザンスカール川に出た。それは両岸とも数百mの、垂直にそそり立つ岩の断崖に挟まれた激流だった。荒々しく、今の僕には苦しくさえ映る光景であったが、それは非常に美しい風景でもあった。だが降り続く雨の断崖に付いたトレイルの馬上で、カメラを構えることはできない。止まってくれと言えないし、そう要求をしたりカメラを構えたりといったことに使うべきエネルギーはその時の僕には無かった。こんな思いをしながら、この風景一枚の写真すら撮れないのだ。
 やがて断崖が低くなりザンスカール川の表情が少し穏やかになった。路も低くなり周りも平坦になった場所で、僕の馬を曳く若い馬方が「タバコをくれないか」と言った、「酷く寒いんだ」。一瞬、どうしてコイツは僕にそんなことを頼めるんだろう、というような意地悪な気持ちが浮かんだ。次に、そんな物を吸ったらますます指先や足の先が冷えてしまうぞと教えてあげようかと思った。だが、何かで気分を少しでも変える必要があったのは僕も同じだった。3人とも完璧に凍えている。
 この後、雨で増水したために小さな沢に掛かる橋までの十数mのトレイルが崩れてしまった場所があり、若い馬方は荷馬の荷の上に乗り、トゥクテンは激しい流れに膝上まで浸かりながら僕の馬を曳いて渡河した。キャンプ地の平坦なカルカはすぐ先に見えていたが、沢を渡った後のトレイルも危険な状態にあり、そこからは杖を突いて歩くことになる。
 川沿いの平坦なカルカは広く、石積みをコンクリートで補強した3軒の小屋があった。それらの壁にはHotelとペンキで書かれていたが営業している雰囲気はなく、人もいなかった。トゥクテンは適切と思われる少し高くなった場所に彼のテントを張った。オランダ人婦人たちの馬方たちも、同じ場所にテントを張った。彼女たちはまだ到着しない。僕はしかし、彼らとは離れて1軒の小屋の前にテントを張った。その小屋は吹きさらしだったが、取りあえず雨風を凌げる。そこが簡単な茶屋になっているようで、その奥の扉には鍵が掛かっていた。
 僕はその吹き曝しの小屋でMSRのストーブ(小型のコンロ)を組み立てた。この日、幸いだったことはこのMSRの調子がすこぶる良かったことだ。ガソリン、灯油両用という優れたストーブで、僕は馬方に合わせて灯油を使っていたのだが(馬方は勿論、インド製の無骨な灯油ストーブを使っていた)、青い色の付いたインド製の灯油(何故、灯油が青いのだ?)との相性が悪いのか、時折不完全燃焼を起こしたりしていたのだ。だが、この日は美しい青い炎を力強く燃やした。その火で、お湯を沸かし、ガーリック・スープを作って飲んだ。次にティー・ポットにチャイを淹れ、カップにネスカフェを淹れ、その中にブランデーを入れた。そしてそれらを飲みながら濡れたジャケットとシャツの袖、それとズボンを乾かした。右足に巻いたずぶ濡れの包帯を取って足先を暖める。左足の指には間も無く体温が戻ったが、負傷している右足の爪先にはなかなか感覚が戻って来なかった。まるで凍傷で壊死でもしてしまったかのようだった。
 夕食を作っているとオランダ人婦人たちがやって来たので、野菜を切ったりラーメンを取り出したりしながら話をする。「何よりも、あなたが今こうして立って話をしている、しかも少しだけだけれど笑顔でね。そのことが私にはとても嬉しいし、幸せなな気持ちなのよ」と彼女たちは言った。本当はこうして野菜を洗ったり水を汲んだりするのにさえ非常に苦労をしていたし、何をするにも辛かったのだが、そんな彼女たちの言葉は僕を少しだけ勇気付けてくれるようだった。雨は上がっていた。少しだけだが、陽の光が夕暮れの空を染めていた。
                                               次の朝は良く晴れ渡った。昨日のあの寒さ
ハナムル付近のザンスカール川                          が幻であったかのように、朝から気温はグン
b0049671_751144.jpgグンと上がった。僕をここまで運んでくれた白馬は、トゥクテンの甥に連れられてリンシェットに帰って行った。出発間際に若い馬方が僕の所に来て、料金を請求した。これが日本の旅行会社が企画したポニー・トレッキングだったとしたなら、料金は愚か損害賠償物だなという思いが浮かぶ。だが問題は、白馬はレーのエイジェンシーで手配したのではないばかりではなく、若い馬方のものでさえないということだ。確かにその馬の持ち主は彼の父方の伯父であり、更に彼とその馬を紹介したのは母方の叔父であるトゥクテンではある。だがもし支払わないとなれば、その交渉はトゥクテンとしなければならないし、そうなればこの若い馬方かトゥクテンがその穴埋めを請求されるのかもしれない。支払いの中に甥の取り分が幾らか含まれていたのだとしても、馬の料金は1日350ルピー、帰り1日分の400ルピーを含めても1100ルピー(約3300円)でしかない。確かにインドでは決して少なくはないだろう。だが彼の取り分が仮に3日で200ルピーだったとしても、それは僕にとってレーでのビール2本分でしかないのだ。そして同時にそれは、彼にとっては何某かの金額でもある。彼はこの2日間歩いて来た険しい道を、今日1日で馬を曳いて帰って行くのだ。3300円を東京で稼ぐのに僕はどれだけの労働を必要とするのかを思った。事故への制裁として僕が受け取ることのできる対価にしてはあまりに少ない。そして一時の気晴らしのためにその僅かな金額を彼から奪い取ることは、あまりに卑しい。
 僕は彼に料金を私ながら言った。「今後、もし君がまた誰か外国人を馬に乗せる機会があるのなら、絶対に綱を放してはいけない。絶対にだ」 彼は「分かった」と言って頷いた。彼の後姿を見送りながら、この2日間の厳しい道程を思った。少なくとも彼が来てくれなかったら、僕はここまで来ることはできなかったのだ。
 白馬が行ってしまうとトゥクテンは荷造りを始めた。この日は始めて子馬を歩かせるのだ。僕はこの数日の移動ですっかり駄目に成った野菜の殆どを捨てていた。残った野菜はジャガイモと玉葱、大蒜だけだった。荷物はすっかり少なく成っていた。大方の荷物を1頭の馬に載せ、母馬にはトゥクテンのテントやその為の布類が乗せられた。僕はその上に乗る。鞍の上では多くの布類の為に高過ぎて不安定だったし、鞍の後ろでは鞍に積まれた袋に入った何か硬い物が右脚に当たって非常に乗り辛かった。鐙(あぶみ)は無い。
                                               だが道は確かに起伏が無く歩き易い。ザン
ザンスカール川対岸の民家にて                          スカール川も穏やかな表情を見せている。そ
b0049671_755029.jpgれでも何ヶ所かは下りなければならない場所があり、それを機に歩くことにした。鐙が無く少しとはいえ荷物の乗った馬の背中に乗っているのは、思った異常に辛かったのだ。杖を突きながら歩き出してみるとその方がずっと楽に思えたが、実際には半歩ずつしか歩けず、特に砂利や石に覆われたような場所、傾斜などは非常に歩き辛く、あっという間に馬達との距離は数百メートル離れてしまう。昨日の雨でずぶ濡れになってしまったトレッキングシューズは紐を結んで馬に掛けてあったので、足元はサンダルだ。2日前に生まれたばかりの子馬よりも遥かに情け無い歩行だった。
 ザンスカール川を橋で対岸に渡ると1軒の石積みの小屋があり、トゥクテンはそこで休憩すると言った。ヤギを放牧している家のようで、家族達が庭でチャン(麦で作られた醸造酒)やチャイを呑んでいる。僕は茶店なのかと思ったのだが、最後に金を請求されなかったので単に好意で休憩させてくれたのか、或いはトゥクテンの知り合いなのかもしれない。庭の石に座るなりチャンを勧められる。このアルコール量の少ない白濁して少し酸味のある酒は大好物ではあったが、この時に1杯にとどめ後はチャイを呑んで硬いチベット・パンを齧っていた。僕は今日の目的地であるにザンラに早く着いて、出来れば今日のうちに車を手配してパドゥムに行きたいと思っていた。だがトゥクテンは勧められるままに3杯か4杯のチャンを呑んだ。空は青く、雲は白い。緩やかな川の周囲には平地が広がり、山はそれを取り囲んでいる。「まあ、いいか、明日の朝にはバスがあるのだし」そう思わせるような非常に穏やかで暖かな風景だった。
                                               ここからザンラの村までは再び馬に乗った
ザンラ村にて                                      のだが、荒地ではあるが緩やかな平地が続
b0049671_7572560.jpgく。村の入口の丘の上に尼僧院がある。トゥクテンが「寄って行くか?」と質問する。せっかくここまで来たのだし、パドゥムへ行くのは明日でもいいのではないか、という思いが湧く。トゥクテンははここで「今日はキャンプをせず、民家に泊まろうと思うが、良いか?」と聞いてきた。足も落馬したダメージも大きかったが、いずれにせよ落馬から既に2日目なのだ。今すぐになんとかしなければ命に関わるかもしれないという状況は、良くも悪くも過ぎてしまっている。それに民家に泊まるのならば、怪我をした足では煩わしい食事の支度やテントの設営もしなくて済むのだ。
 僕は馬を下り、トゥクテンは村に向かった。ゴンパを見学した後、足を引き摺った僕が村に着いたのはおそらくトゥクテンより数十分遅れてだったと思う。1軒の民家の中屋上からトゥクテンが僕を呼ぶ。その家に上がり込んでみると、彼は酒を呑んでいるところだった。何故だか訳は知れなかったが、7・8人の男達がその家の2階で酒を呑んで騒いでいた。チャンだけではなくラムのボトルまであり、トゥクテンの顔は既に赤らんでいる。「今日はこの家に泊まるのか」と僕はトゥクテンに訊き、彼は「そうだ」と答えた。荷物は外に置いてあるから心配するなと言う。僕はチャンを断り、ゴンパを見学してくることにする。尼僧院とは反対側の村外れの断崖の上にあるゴンパだ。そこまで登るのかと思うと、この足では気が遠くなりそうだったが、時間は未だ昼下がり。ゆっくり往復できるだろう。
                                               僕が家を出ると、トゥクテンが一緒に付いて
ザンラの王宮跡とゴンパ                              来る。ゴンパは鍵が閉まっているので、村人
b0049671_802892.jpgに訊いて鍵を探すのだという。そして1軒の比較的大きな家を指差し、「今日はこの家に泊まる」と彼は言った。ん?さっきの家ではないのか?どうもこの辺り、コミュニケーションが上手く取れない。「ゴンパから帰って来ても俺がこの家にいなかったら、さっきの家にいるから」と彼は言う。結局、鍵は見付からなかったが、僕はとにかくゴンパのある場所まで登ってみることにする。
 なにしろ足を引き摺りなからであるから、この断崖の上のゴンパまでの往復にはけっこうな時間が掛かったし、負担も掛かってクタクタになって戻ったのは5時半だった。泊まると言った家にはトゥクテンはいなかった。ちいさな木戸を開けて敷地に入ると、2人の沢山の荷物が母屋の壁に立てかけられていた。声を掛けてみるが、家人もいないようだ。実はゴンパに向かっている時から気に成っていたのだが、やっぱりトレッキングシーズを干しておいてくれるといった類の気は回してくれていなかった。それどころか、せっかく馬の背で干していた靴は、彼のズタ袋の中に押し込まれていた。やれやれ、この天気でこの乾燥した気候なのだ、外に出しておいてさえくれれば直ぐに乾いただろうに。が、まあ、そういう気を使えと要求する方が無理なのかもしれない。村に着いた時に、宿泊する家と荷物とを自分できちんと確認しなかったのがいけないのだ。
 ところで、さっきの酒宴の家に行ってみるが、そこにも彼はいなかった。それどころかさっきはあれだけ沢山いた人々が家人も含めて誰もいない。僕は泊まる筈の家に戻り、置かれた荷物の脇の石段に腰掛けて煙草に火を付けた。だがトゥクテンは6時になっても6時半になっても現れない。その民家の敷地にも周辺にもテントを張れそうな場所は見当たらなかったし、飲料の水を探し回るには右足が限界を超えていた。やれやれ、今、僕に出来ることは何も無さそうだった。    (つづく
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by meiguanxi | 2007-08-09 11:12 | Air Mail
from Leh : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #3
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                          2007年7月7日

その1
その2の続き

 オランダ人婦人たちを残して先に峠を下り始めたのだが、これを下り切ると狭い谷路になっていて、トレイルは消え川原を歩くことになる。岩と石だらけの川原だが、峠路に比べればずっと穏やかなものだ。谷の幅は20~30m、流れはほんの1m程の細いものだ。両側は砂山の断崖で、物音ひとつしない淋しい場所だ。なんとなく“賽の河原”などという言葉を思い浮かべる。
 しばらく行った所で後方のトゥクテンが止まった。この日何回目かの荷崩れを起こしたのだ。例によって僕の馬を曳く甥の馬方は彼を手伝いに行った。この時、何故か馬は小便をした。それが谷中に響くような轟音とともに物凄い量の小便なのだ。馬は谷の下流を向いているので、その黄色い流れは馬の4足の間を抜けて前方に流れた。馬の首の右側、山側の既に斜面になっている所に曳綱が無造作に置かれていた。その上には若い馬方の小さなリュック、更にそれには彼が持って歩いてくれている僕の杖が乗っていた。リンシェットのゴンパで拝借した例のポプラの裸枝だ。僕はそれらが小便に濡れるのではないかと気になった。しかしビシャビシャになるのならともかく、考えてみれば馬方たちがそのような多少のことを気にするとも思えなかった。だがこの時、僕は彼を呼ぶべきだったのだ。
                                               ところで馬というものは隙さえあれば食べて
リンシェット村にて                                   いる動物であるらしい。もちろん羊やヤクだっ
b0049671_7313032.jpgてそうなのかもしれないが、残念ながら僕は草食動物の生態にそんなに詳しい訳ではない。とにかく見ている限り、馬というのはそうした動物であるらしかった。
 この時も僕の乗った馬は左側に僅かに生えた草を食み始めた。草は疎らにほんの僅かしか生えていない。馬は草を求めて首を左後方に反らす。右側の斜面に置いた綱が動く。やがてその上のリュックが倒れ、杖が転がった。おそらくその一瞬だった。一声嘶くと、馬は突然左に旋回しながら走り出したのだ。勿論、リュックの倒れる音と杖の転がる音に驚いたのに違いない。馬というのは非常に臆病な動物でもある。不意を突かれた僕は既に右後方にバランスを崩していた。掴んでいるのは木製の蔵の端に過ぎない。
 「ここで終わるのか?!」僕の脳裏にそういう恐怖が走る。なにしろ下は大きな石だらけの川原であり、そちこちに岩も転がっている。しかも既にバランスを崩しているのだ。「落ちるべきだ!」次の一瞬、確かにそう思ったように記憶している。この状況では早晩振り落とされるのは必死だ。そうであるなら少なくとも自分の意思で落ちた方がまだしもマシかもしれない。次の一瞬、「ここだ!」と思った記憶がある。少なくともその瞬間に僕の視野に入った直下に大きな岩が無かったように思ったのだろう。
 勿論これら「終わるのか」「落ちるべきだ」「ここだ」は連続したほんの一瞬のことであるので、もしかしたら順番が逆だったり或いは同時だったりしたのかもしれない。そしてこの「ここだ」という判断が本当に正しいという確証は何処にも無かった。むしろそれは「終わり」をほんの数秒こちらに引き寄せる結果になるのかもしれなかった。だがこの時、僕は躊躇することなく石と岩だらけの川原に、走る馬の背から右後方に落ちたのだ。勿論それは半ばは振り落とされたのでもあるのだが、しかし半ばは明確な意思を持って自ら落ちたのでもある。
 だが不幸なことに…そもそも僕はどうしてこんな場所で馬などに乗っていたのであるか。もちろん足首を負傷していたからだ。その足首から爪先は大きく腫れ上がり、紐を最大限に緩めてもトレッキング・シューズの中に足を納めるのは至難の業だったのだ。そう、大きく膨らんだ右足のトレッキング・シューズが鐙(あぶみ)から抜けない。落ちと思った次の瞬間には、右足首を鐙に絡め取られた状態で、走り続ける馬に引き摺られていた。くどいようだが下は石と岩だらけの川原だ。僕は必死でその右脚を押えようとしていたように思う。
                                               後で分かることだが、そのようにして僕はお
ハヌマ・ラ(峠:4750m)からシンシェットを振り返る             よそ15mほど引き摺られた。その時、なぜ馬
b0049671_10363740.jpgが止まったのか、僕には分からなかった。というよりもそんなことに頓着する余裕など全く無かったのだ。これも後で知ることだが、若い馬方がロープに飛びついてくれたらしく、彼は小指を突き指していた。
 だがそんなことに思いを致す余裕を持たない僕は、今自分に起きた現実すらうまく把握できず、何処から来るのかも分からない痛みと、何よりも全身を支配した恐怖と闘っていた。ウォーウォーと意味も無く叫ぶ僕に駆け寄ったトゥクテンは、力の限りに僕を抱きしめ、上体を起こそうとした。その様子がむしろ、大変なことが起きたのだということを僕に自覚させた。しかしそれにしても、この人はなぜ僕の上体を起こそうとしているのか。全く冷静さを取り戻せない意識の中で、僕はそんなことを思っていた。無理だから寝かせてくれ、僕は漸くそう言葉にした。まだ痛みが何処から来るもので、何処に問題があり無いのか、全く自分自身で把握できないのだ。
 やがてその痛みは左肘と右臀部脇からくるらしいことが理解できる。そこを見ると激しい擦傷に血が滲み、或いは流れている。実は同じような傷は左股間や尻の上の割目その他にもあったのだが、この時にはまだ気付かなかった。だが問題は、それらの傷を確かめるために見ようとすると右肋骨と右腰椎、それに右肩甲骨が激しく痛むということだった。肋骨と椎間板くらいは折れたのかもしれない。
 頭は打っていない、そう思った。それが確かなことなのかどうか、今もって分からない。とにかく打った記憶も症状も無かった。大丈夫だ、僕は自分に言い聞かせた。そして横に置かれたサブザック―そう、このザックを背負っていなかったらもっと酷いことに成っていた筈だ―から一眼レフのアナログ・カメラを取り出し、その動作を確認した。問題ない。次に腰に着けたポーチからデジカメを取り出して同じように動かしてみる。これも問題なかった。それにしてもあの落下とそれに続く引き摺られた衝撃で、特にザックの中の一眼レフが傷ひとつ負わなかったというのは奇跡に近い。
 だが、僕は何をやっているのだ。今問題なのはカメラなどではない。己の身体なのだ。全く冷静などではなかった。僕は傷の手当てをすることにすら思い至らずに、荷直しをする2人の馬方と馬とを眺めていたのだ。トゥクテンがやって来て「Go?」と訊く。それは訊いたのかそれとも「行くぞ」と言ったのか僕には良く分からなかったけれど、しかしそれにしてもこの人はいったい何を言っているのだ。僕はたった今馬から落ちて、もしかしたらそちらこちらを骨折しているかもしれないのだ。幸いにも頭や内臓にはおそらく問題は無さそうだとはいものの、僕は荷物ではない。乗り直してすぐに出発などできる筈がないではないか。
                                               だがそれについては何も言わず、この時に
ハヌマ・ラから来た路を見下ろす                          なって漸く僕はメインザックの中に薬が入って
b0049671_738211.jpgいるということをトゥクテンに伝えた。トゥクテンは驚いたように「今か?今要るのか?」と訊いた。気持ちは分からないでもない。崩れた荷を漸く直し終えたばかりなのだ。その為には結構な労力を必要とする。なによりそれを僕は眺めていたのだ。薬を取り出すためにはその荷を全て解かなければならない。それは分かった。しかし僕はなにも意地悪で眺めていた訳ではないのだ。傷の消毒をするために今以後、より適切で有効な時間がもし存在するのなら是非とも教えてほしいものだ、正直なとこと僕はそう思った。だがこの時の僕にはそのように誰かを罵ったり攻めたりするようなエネルギーなど爪の先ほども無かった。「そう、今だ」と力無く伝えるのが精一杯だった。
 メインザックから取り出した消毒薬を左肘と右大腿部、それと左股間に吹き付ける。本当は薬の入ったポーチにはガーゼや包帯、絆創膏なども入っていたのだが、不思議なことにこの時の僕はそれらを使うことに全く思い至らなかった。ただポケットから取り出したバンダナを、右手と口とを使って左肘に縛り付けただけだった。
 トゥクテンがもう一度「Go?」と訊いた。お願いだからもう30分だけ休ませてくれ、と僕は答えた。その30分という時間に何かの意味があるわけではない。とにかく冷静さを取り戻す必要があったし、もう一度馬に乗って移動を再開するにはそれなりの覚悟と決意、勇気とを必要としたのだ。馬方たちはちょっと困ったような表情をした。僕は若い馬方に向かって静かに、本当に小さな声で言った、「これは君が綱を放したことが原因で起きたミスだと思う」と。勿論それを許した(というより彼を呼んだのはトゥクテンなのだ)トゥクテンの責任でもある。では僕自身はどうなのか。確かに、決して綱を放すなと命じるべきだったのだ。馬がおとなしいからと、馬方たちがそうするのだからと、根拠の無い安心をしていた僕の無知が引き起こした事故でもある。だがそれは旅人としての自覚的反省であって、仕事で引き受けている彼らの責任とは全く別のところにある問題だ。
 その30分が過ぎようとした頃、オランダ人婦人たちが彼女たちのガイド(もちろん英語を話す)を伴って追い付いて来た。彼女たちは熱心に事情を訊いたが、流石にこの状況で彼女たちにできることは殆ど無かった。表面的な傷の消毒も既に終えているのだ。彼女たちは心配そうに暫くそこに留まっていたが、やがて僕に何か声を掛けると先に進んで行った。
 彼女たちが行ってしまうと僕は取り残されたような気持ちになったが、逆に「行くしかないだろう」という気持ちも少し湧いてきた。そう、行くしかないのだ。たとえ今現在、この身体がどんなことに成っているのだとしても、ここでじっとしている訳にはいかないし、じっとしていても何かがどうにか成る訳ではない。仮に動くのは危険な状態なのだとしてもだ。休める場所は先にしかないし、病院は遥か先なのだ。
                                               だがこの後の路は危険を極め、川原の先は
袋に入れられた子馬(ネルツェ出発時)                     残雪と崖崩れとでトレイルは壊れ、大きな岩
b0049671_74238.jpgの割れ目や段差を下らなければならなかったりした。馬から全ての荷物を下ろし、馬方たちがそれを5m下の岩の下に下ろす。僕は杖を突いてその岩を一歩ずつゆっくりと降りる。健康でも危険な落差だ。この時、ここは非常な難所に成っていて、逆方向に谷を登って来たインド人の2頭の馬がどうしてもこの岩を登ろうとしない。うち1頭は足を滑らせて5m下の沢に落ちた。馬は転ぶことはなかったが、もしトレイル上で同じような起これば僕はひとたまりもなく谷底に転落するだろう。いずれにせよ、今の僕は無能なほどに無力だった。馬方たちがいなければ何もできないし、僅かずつ進むことすらできないのだ。
 この後も何ヶ所か同じように馬を下りて自力で歩かなければならない場所があった。最も危険な場所を、杖を突いてそちらこちらの痛みに耐えながら下ったのだ。少し表現が自分に対して同情的に過ぎるだろうか。そうであるかもしれない。だが実際にはこの時、自分に同情する余裕など精神的にも肉体的にも無かった。ただ必死で耐えていただけなのだ。
 この日のキャンプ地は谷が棘のある潅木の林になり、その枝を腕で除けながら少し登った狭い丘の上にあった。石積みの小屋が一軒あり、茶屋になっている。その中の狭い土間は暗く、そして非常に汚れていて、無数の蝿が飛び回っていた。大概の汚い場所なら慣れてもいたが、流石にこの時にはこの小屋の中に腰を下ろす気持ちにはなれなかった。ヤクを放牧しているので、テントを張るのにもその糞を足で退かさなければならないようなん場所だった。通って来た谷の奥から轟々と風が吹き抜けていた。
 食事は自分で作るのがこのトレッキングの契約だったが、この時ばかりは気を利かせたトゥクテンが「何か食べるか?」と訊いてきた。だが僕は「何も要らない」と答える。「メギー(マサラ味のインスタントラーメン)でも作ろうか?」と彼は更に言う。「明日の朝、何か食べるから」と僕は断る。食欲などというものは身体中の何処を探しても見付からなかった。ただ常に吹き付ける強い風と寒さ、このカルカの決して美しいとは言えない状態、そちらこちらの痛み、そしてともすると陥りそうになるある種の絶望感とに耐えていたのだった。気分の助けに成ってくれたのは今のところ、タバコと、お湯を貰って入れたネスカフェだけだった。月は、この季節の北西インドの上空から完全に姿を消して久しかった。        (つづく
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by meiguanxi | 2007-07-27 20:08 | Air Mail
from Leh : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #2
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                       2007年7月6日~7日

この手紙の続き

 それにしてもトレイルを踏み外すとか落石に当たるとか、馬に突き飛ばされるとか子供を助けようとして怪我をしたとかならまだ格好もつくが、幾ら丸まった危険な石が使われていたとはいえ、ゴンパの石段で躓いて足首を痛めたのだとあってはどうにも間抜けだ。しかもトレッキングの最中に、こんなにも隔絶された場所で。
 怪我をした翌日、ゴンパのキャンプ地に泊まっていたドイツ人カップルが、続いて200m下にキャンプを張っていた例のオランダ人婦人たちが相次いで僕に声を掛けてテントの前を通り過ぎて行った。僕は1人でテントも持たずに歩いていたコロンビア人の姿が見えないことを気にしていた。彼は頑強そうに見えたが、厳しいトレイルにかなり参っているように見えたからだ。
                                               だが気にすべきは自分の足と今後だった。
リンシェット村入口峠のチョルテン                         この日はとにかく停滞にして、キャンプ下の細
b0049671_10404750.jpgい用水で足を冷やしたり、向かいの婆さんの家に上がり込んだりして過ごす。この家は面白い構造をしていて、おそらくチベットでは珍しくはないのだが、2階の中央部分が屋上のように成っていて、片側のひさしの下に釜戸まどがる。屋上だから土間なのだが、この青天井が彼女の居間兼食堂でもあるらしかった。汚いと言えば確かに汚い。だが彼女自身もその服も埃だらけで真っ黒なのだ。
 午後、馬方のトゥクテンが僕のテントに来る。彼には取り合えず4・5日は動けないと伝えてあったのだが、彼はもう1頭馬を雇ってはどうかと提案に来たのだ。言い忘れていたが、彼は基本的には英語は話せない。幾つかの簡単な単語を並べるだけの会話だ。馬に乗る、それは僕も考えていたことではあった。だがこれは後で分かったことなのだが、彼には僕とのトレッキングを15日に終えた後、23日にはまたラマユルからの新しいトレッキングの予定が入っていた。そのためにはザンスカールの中心パドゥムから7kmの彼の村を、17日には馬を連れて出なければならなかったのだ。僕としては日程を延ばしたくはなかったが、パドゥム以後、その西側を歩く予定の6日間をキャンセルすればなんとかなるかもしないと考えていた。勿論、念願のカルシャの祭りはこの際、もう無理だと諦めていた。だがそれにしても雨で既に1日失い、今日で2日目の停滞だった。
 夕方、僕は馬を雇うことを決める。今日が6日、車の通るザンラまで3日、上手くすればその日のうちにパドゥムまでのジープなりを見つけられるかもしれない。病院に行って、もし骨に問題が無ければ11・12日のカルシャの祭りに間に合うかもしれない。勿論、その間の村は飛ばしてしまうことになるが、それはこの際やむを得ない。やれやれ、諦めが悪いのだ。
 しかし実際には足の状態は非常に宜しくなかった。足を冷やしに用水まで行くのにも、5mほど斜面を下ればよい所を右に20m、左に同じ距離といった具合に迂回しなければならなかった。食事の仕度のためや飲料水を沸かすための水を汲みに行く場所はテントから20mほど斜面を登った所にあったが、この足でそこへ行くためには70mくらいは歩かなければならなかった。それらの行為は非常に困難で、そして疲労を伴うことだった。歩いて峠を越えることはもとより、数日間馬に乗るなどということも今は避けるべきなのかもしれない。もし出来るのであれば。
                                               夜、トゥクテンが渋い顔をしてやって来た。
リンシェット・ゴンパ(左上)とテント                        彼は妹の旦那の実家(それは数百m先に見
b0049671_10413278.jpgえる隣家だった)に馬を借りに行ったのだが、その馬には先に予定があるらしく2日間しか借りられないという。その馬を曳く馬方は彼の若い甥が勤めてくれるらしいが、3日目の1日を掛けてこの村に戻らなければならないのだと。この村で他の馬を探せるのかどうか、それについてはコミュニケーションが上手く取れないので分からない。とにかく今は、この馬しか僕のために動いてくれる馬を見付けられない。やれやれ、この先2日間のキャンプ地は村ですらないのだ。だがトゥクテンは3日目は峠も無いフラットな路なので、荷物を1頭の馬に載せてもう1頭に僕を乗せるから大丈夫だと言う。とにかく僕には、回復するかどうか定かではない数日をここで無為に過ごすか、或いは2日先のカルカでしかない場所に向けて進むしかないのだ。
 翌朝、何時ものように5時半に目覚める。間もなくトゥクテンがまたもや渋い顔でやって来る。おはようを言うなり次の言葉が「プロブレム」だった。なんとしたことか、未明に彼の連れて来た2頭の馬のうちの1頭が子供を産んだというのだ。妊娠していたことはラマユルで見た時から知っていた。いつ生まれるのかとの問いに、彼はちゃんとした回答をせずに困ったような表情をしていた。英語が上手く通じないのか、或いはまだ先のことではっきりしないのかだと僕は思っていた。だがその少し困ったような曖昧な表情は、今日明日にでも生まれてもおかしくないという意味だったのだ。やれやれ、僕はレーの町でちゃんとしたエイジェンシーを通して馬と馬方とを手配したのだ。その辺の路上でそこらの農家に声を掛けた訳ではない。何故トレッキング中に子供が生まれてしまうような馬が準備されなければならないのだ。或いは僕はエイジェントに確認するべきだったのだろうか。「その馬は妊娠なんかしてないですよね?」と…やれやれ
 トゥクテンは「ディス・トレッキング・ヴェリー・プロブレム」と言った。確かに怪我をしてしまったのは完璧に僕のミスだ。だが馬が子供を産むに至っては、彼がそれを言うのはどんなものなのだろう。だが僕は黙っていた。生まれてしまったものはここで文句を言っても何かがどうにか成るわけではないのだ。今日は出発できないのかという僕の問いに、彼はただ渋い顔で困ったように首を振るばかりではっきりした答えを出さない。
 馬は30mほど斜面を登った彼の妹の家の前の囲いにいる筈だった。僕は100mくらい迂回してゆっくりとそこまで登ってみた。なるほどそこには生まれたばかりで、まだしっかりと立っていることすら覚束ないような子馬が、母馬の乳を探してヨチヨチしていた。今日は駄目なのだな、と僕は静かに思った。そうなると親戚の馬も使えないということになる。仕方なく子馬の写真など撮ろうとしていると突然、トゥクテンが言った。「Go!」
                                               どうも上手く言葉が通じないというのは戸惑
リンシェット村の民家の屋上兼居間                       うことが多い。何を彼の親戚たちと相談したの
b0049671_10421471.jpgか、彼はいきなり出発すると言い出したのだ。そして僕の返事を聞くこともなく、2頭の彼の馬と子馬、親戚から借りた新しい馬を斜面に追い立ててテントの方に下りて行ってしまった。僕が呆気にとられながらも、また100mの踏跡を迂回して下に降りた時には、既に荷造りが始まっていた。僕は痛む足を庇いながら大慌てでテントを畳む。子馬は親馬に駆けられた袋の中に、4足を縛られて入れられた。まるでカンガルーの子状態だ。でなくとも2頭の馬では厳しいくらいの荷物だった上に子馬だ。2頭の馬、特に子供を乗せた方ではない方の馬の荷物は大変なものになった。
 僕の乗る馬は白馬だった。ちゃんと鐙(あぶみ)も付いていたが、鞍は木製で、その盛り上がった前の部分を掴むようになっている。正直に言って不安定だ。僕は椎名誠ではないのだ。馬などに日頃乗りつけている訳ではない。出発して直ぐに荷馬が荷崩れをおこした。僕の馬を曳く若い馬方は曳綱を僕に預けると、荷直しをするトゥクテンを手伝いに行った。そんな物を預けられても僕は馬上で、しかも飛び降りることも儘ならぬ怪我人なのだ。やれやれ。
 路はこれまでよりも遥かに厳しいように思われた。村を出る最初の小さな峠、といってもかなり高いのだが、その峠の下りに差し掛かった時、僕は思わず「インポッシブル!」と叫んだ。下りでは腰を前にずらし、上体を後ろに反らして垂直を保つ。右手で鞍を握り、身体が前にのめらないように左手でその右手を突っ張る。これは教えられたことではなく、そうしないことにはバランスを保てないのだ。
 馬方の若者は「ノープロブレム」と言う。しかし、もしこれがプロブレムでないとするならプロブレムとはいったいどのような状況を言うのか。後ろに反らせた僕の背中は馬のそれにくっ付かんばかりで、馬の頭はほぼ垂直に前方に傾いていた。その先には少なくとも数百mの断崖。あまりに斜度がきつ過ぎて下が見えない程だ。僕は荷物ではないのだから、馬に括り付けられている訳ではない。実際、馬は幾度も足を滑らせた。馬が滑落することはなくとも、僕がバランスを、不幸なことに谷川に崩したなら、自力で元に戻ることはとても不可能に思えた。
 真っ当な神経なら降りて歩くべきだし、この恐怖心を素直に受け入れて降りることが冷静な理性というものだ。この状況でなお馬上に留まることは、むしろ狂気の沙汰であるように思われる。僕は馬に乗って出発したことを早くも後悔していた。僕がそれでも馬上に留まったのは、もちろん自力では歩けないからに他ならない。他に選択肢が無かったのだ。もし性格の悪い神が、もう1度だけたった1時間で良いからあの路を馬に乗ることと、今後1年間の通勤に一切の乗り物を使わないこととどちらかを選択せよと命じたのならば、僕は躊躇無く1年間歩くことを選ぶ。確かに僕は多少高所恐怖症の気はあるが、これは僕が非常に臆病者だからではなく、馬で通るには本当に生きた心地のしない路だったのだ。
                                               峠を下り切ると直ぐに次の登りが始まる。大
リンシェット村の子供                                 きな砂山で、もちろん危険極まりない路だ。ト
b0049671_7264912.jpgレイルの幅は20~30cm、山側・谷側両方の殆ど踏まれていない部分を含めたとしても精々40~50cm程度で、トレイル自体が谷側に傾いている。その大きな峠を下り切った所に小さな沢が流れていて、直ぐにまた登りになる。これが4750mの峠への登りだ。とにかく上っては激しく下り、下ってはひたすた登るというのがこの日のルートだった。
 頂上付近から振り返ると、うねうねと続く山並みの遥か遠くに、リンシェットのゴンパと村の緑が小さく見える。なんていう路なんだ、とつくずく思い知らされる。
 風と揺れとに堪えながら頂上を目指していると、その頂上からこちらにカメラを向けている西洋人がいる。やれやれ、格好の被写体になってしまった。と、登っていくとそのカメラを構えていたのはあのオランダ人婦人たちではないか。彼女たちは余りの路の厳しさに、前の沢で1泊したのだという。彼女たちは2人の他にガイドとキッチンボーイ、馬方3人と7頭の馬という大編成なのだが、もし僕があの狭い谷に馬方と2人でテントを張ったのなら、淋しさの余り泣き出してしまったかもしれない。西洋人のおばさんはひたすらに明るく、そしてどこまでも強いのだ。
 峠は登りから1歩を踏み出せば向こう側の断崖という鋭角な場所で、高齢の方の婦人は岩陰で強風に堪えるようにしながら、ドライ・アプリコットを差し出してくれた。オランダから持ってきた貴重なものだ。どんなに辞退しても、スペシャル・ヴィタミンだからもっと食べろと言ってきかない。そういう自分が風に震えているのだ。そう、この日は曇りがちの1日で、陽が射せばあれほど肌を焼く気候が、一旦曇るとそれなりの服を着ていても震えるほどに冷え込む。写真を送るからと彼女たちは僕の住所を訊いた。今夜のキャンプ地は僕より少し先のようだった。
 彼女たちに別れを告げて峠を下り始める。彼女たちに会ったことで僕は少し元気を取り戻していた。下りはもちろん厳しかったけれど、しかし、僕にとって現実的な危険と本当の意味での危機は、このような危うい路にあるのではなかったのだ。 (つづく
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by meiguanxi | 2007-07-25 20:02 | Air Mail
from Leh : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                   2007年6月30日~7月6日

 ラダックからザンスカールへのトレッキングは、例えばネパールのアンナプルナやクーンブ(エヴェレスト方面)へのそれとは全く様相を異にする。ネパールでは1日の行程は4・5時間程度、1日の標高差(登り)はせいぜい500m程で、これが高所障害を避けるための高度差だとされている。確かにクーンブに至るいわゆるエヴェレスト街道と呼ばれるソル地方では1日の行程は8時間ほどにも及ぶが、ザンスカールに比べたらハイキングのよぷなものだと今は感じている。
 人を寄せ付けないような断崖に建つその姿で有名なゴンパ(チベット僧院)と、その荒涼とした景観が月世界とも例えられるラマユル(標高3540m)は、ラダックの中心レーから東に120数kmにある。カシミールからレーに至る街道は以前、この僧院のすぐ北側の断崖を通過しており、そこからの景観がラマユルの映像的印象にも成っていたものだが、今は狭い谷の岩山を穿った新道が開通し、道は僧院の断崖の下の村の中を通過している。旅行者にとってのラマユルの映像的印象も昔とは変わってきているのかもしれない。
                                               ザンスカールへのトレッキングはここから始
ラマユル・ゴンパ                                    まる。馬2頭と馬方1人との旅の始まりだ。馬b0049671_10484519.jpg方の名前はトゥクテン、40歳。僕より少し若く背は低いが、大きな掌をした山の男だ。第1日目、トレイルは荒涼とした険しい砂山を登る。登り切った峠からは岩山と砂山の間の、雨が降れば水の通り道になるのだろう狭い谷をまるで迷路のように下る。初日のキャンプ地ワンラまでは、道は険しいものの難なく着くことができた。ワンラは薄乳緑色の比較的大きな沢が流れる気持ちの良い場所で、何よりも村の断崖の上に建つゴンパの、ほんの小さな本堂の中の塑像と壁画の素晴らしさに疲れも忘れる思いだった。
 2日目はひたすらの登り。だがワンラが3170mと低いためになかなか標高は稼げない。途中までは調子が良かったのだが、充分に高度に順応していないためか途中から肩甲骨の間に痺れを感じ、歩行を困難なものにする。この日のキャンプ地はハヌパタという村を通り過ぎた谷の突き当たりなのだが、僕はその1km程手前にテントを張ることにした。どちらにしても村からは離れているただのキャンプ地だ。とにかく日差しが強い。周囲にはそれを避けるための物は無く、勿論テントの中などにいることは出来ない。外でジリジリと陽光に焼かれるしかないのだ。
                                               3日目もひたすらの登り。この日は大きな峠
ワンラからの路                                     を越えなければならないのだが、この峠の悪
b0049671_10491611.jpgいところは、あそこが峠かと思って登りつめると道は更に上に向かって続いているという繰り返しだということだ。ひたすら登ったカルカのテント茶屋で、その先に初めて見えた本当の峠を目の当たりにした時、僕は思わずへたり込んでしまった。変な例えだが蛙の水掻きを思い起こしてほしい。指が山で水掻きの中央が峠だ。こちら側とあちら側の幅は至って狭いのだが、まるで屏風のような急な登り、そしてその向こうは急激な断崖の下り。雨が降り始めていた。背中は昨日以上に痛む。だが、1歩ずつ進めば何時かは向こう側に辿り着けるのだと自分に言い聞かせ、泣くような思いで歩を進める。漸くの思いで登りつめた4990mの峠の向こうは砂の断崖。上から見下ろすと、いったいどうやって下るのだと恐怖すら感じるような断崖だ。
 これを下り切るとポタクサルとう村の外れに着く。キャンプチは村の手前1km程の、沢脇の湿地。コースは村を通らずこの沢を対岸に渡り、向かいの山を迂回して行くのだという。僕はその湿地を避け、対岸の山道を登り始めた。馬方は1時間で別のキャンプ地に着くと言ったのだが、きつい登りを必死で登って1時間半たっぷりと掛かった。そこは対岸の村を200mほど眼下に見下ろす高台のカルカで、テント茶屋が1軒あるだけの場所だ。轟々と風だけが吹き抜けている。
 翌日は朝からの雨で停滞することにする。次はこのコースの最高標高5060mの峠を越えなければならいのだ。
 その翌日、道は大きな谷の奥へと山腹を、また河原を進んでいく。しかし、高い場所で振り返ると一向に前に超えた峠の高さに至らない。谷を遡っているにも拘らず、一向に標高を稼げないようだ。正面には峠がはっきりと見える。やはり屏風のようにそそり立つ峠だ。そこからは残雪がこちら側に迫り出している。いったいどうやって登るのだ。漸く直下まで来てみると、それは砂の断崖だった。いったい砂がこんなに鋭角にどうしたらそそり立っていられるのか不思議なくらいだ。そこをトレイルは「く」の字型に登っている。迫り出した残雪が雪崩でもしたらお仕舞だ。
                                               標高5060mの向こうはやはり断崖の下り
ポタクサルのカルカ                                  で、馬方の姿は既に見えない。幸い他のトレ
b0049671_1050196.jpgッカーの馬隊(6頭)が同じ時間に峠に差し掛かったので一緒に下り始めるが、あっという間に取り残されてしまう。下り切ってみるとそこにキャンプ地があったが、打ち捨てられた崩れた小屋が1軒あるだけで誰もいない。例の馬隊もいない。トレイルはそこから上り返して続いているようだが、見ると遥か向こうの山陰に道は消えている。その間、誰もいない、何も見えない。なぜ馬方はこういう大事な場所で待ってくれないのだろうか。しばらくその淋しいトレイルを進むが、道は更に別の山を回りこんでいるようだ。幸い向こうから地元の人が2・3頭の馬を連れてやって来る。言葉は通じないが地名と指差しだけの会話で、進んでいる道が間違いないことだけは分かる。実はこの日のキャンプ地には地図上にもガイドブックにも地名がなく、僕は峠直下がそうだと思っていたのだ。老人が向こうからマニ車を回しながらやって来る。いったいこんな夕暮れの時間に、どうしてこんな老人がこんな場所を歩いていなければならないのか不思議だが、とにかく地名と指差し会話だ。訊いたのは翌日のキャンプ地である村。間違いはない。遥か下に村が見える。それはコースから外れる村なのだが、このまま馬方とはぐれたままだったらあの村に下りようと思う。それにしても下るまでに1時間半は掛かりそうだ。
 次の尾根を回り込んだ時、そこに10頭くらいの馬を休ませている一団がいた。2頭の馬と馬方を知らないかと尋ねると、すくその先にいると教えてくれる。更に少し回り込んだトレイル上の狭い平地に馬方のテントと別のトレッカーの馬隊がいた。トゥクテンのテントは1枚の大きなビニールシートの端に支柱を立てて入り口にし、四方に直接ペグを打ち込むというワイルドなものだ。僕は彼に近寄り言った。どんなに早く先に行っても良いが、大事な所で見えなくなるのは困る。僕はルートを知らないのだから。彼はOKと頷いた。確かに彼はガイドではないし、馬方というものはトレッカーのペーストとは関係なく進むものだということは知っているのだが、少し我侭を言えば我々は二人きりなのだ。大事な所では方向を示してもらわないことには時に困ったことになる。特に今日のようにキャンプ地が村ではないような場合には。
                                               翌日は幾つかの緩やかな峠を越えてリンシ
シンゲ・ラ(峠:5060m)                              ェットという民家85軒ほどのこのコース途上で
b0049671_10503416.jpg最も大きな村に向かう。ここがコースの中間点でもある。村は三方を断崖の山に囲まれたすり鉢状の土地に広がっている。三方の山から谷に向かって民家が点在しているのだが、谷は深く、両岸は垂直の岩の壁。村に出入りするには周りを取り囲む高い峠を越えるしかない。
 村を見下ろせる最後の峠に差し掛かった時、既に下方にトゥクテンの姿は無かった。やれやれ。だが幸いなことに断崖の道を村に向かって下りて行って最初に出会うのがゴンパであるらしい。その横は綺麗に整地された広い平地に成っていて、どうやらそこがキャンプ地であるらしい。例の馬隊が見える。そこまでの道は下に下りて見上げると大したことがないように見えるのだが、上から見下ろすと果てしなく遠く険しい下りに見える。実際それは狭い危険なトレイルだった。
 トゥクテンはゴンパの木陰にいた。彼はゴンパ横のこのキャンプ地ではなく、谷の向こうに見える家の前にテントを張るという。見ると直線で500m程だろうか、彼の指す方向に数件の民家が見える。彼の姉の嫁ぎ先なのだそうだ。ゴンパ横のキャンプ地には石積みの売店兼茶屋もあり、整地もされていて水場も近く気持ちが良さそうだったのだが、まあ、そういうのならそれも良かろうと承諾する。彼は先に姉の家に、僕はゴンパに寄ることにした。
 さて、ここまで長々と読んで下さった皆さんには大変に申し訳ないのだが、実はここまでは前書きなのだ。
 ゴンパ基底部はまるで廃墟か遺跡のようで、石積みと土で塗り固められた狭い通路が通っている。6.7段の階段の石は河原から持ってきた物か、ツルツルに丸まっていて非常に危険だ。だが若い僧侶たちはなんなく走って上り下りしている。本堂を見学させてもらった後、その階段や通路の様子を写真に撮ろうと階段の上からカメラを構えるが、フレームの中に収めてしまうと何か今ひとつピンとこない。そこで下からのアングルを試してみることにした。トレッキング中、特に狭いトレイルを歩いている時など2つの事を同時にするな、と常日頃自分に言い聞かせている。例えばキョロキョロするのなら歩を止めるとか、そういうことだ。だがこの時、場所がゴンパの中だということで注意が散漫になってしまったのだろう。おそらく僕はカメラのスイッチだかレンズキャップだかを気にしながらその階段を下った。そして右足が滑った。
 その場に座り込むが右足首の余りの痛さに声も出ない。小坊主達が集まってくる。だが動けない。暫く座っていたが埒が明かないので、とにかくキャンプ地まで行こうと立ち上がるが、殆ど歩けない。ゴンパの裏に積んであったポプラの裸にされた枝(それはおそらく建築材として、天井を葺くのに使われるものだ)から適当な長さの物を拝借し、杖にする。ところが道が良く分からない。僧侶に聞くとここを下りて行けというのだが、それは道でもないような断崖だったりすのだ。手を貸してくれたり何処かに連絡してくれそうな様子は無い。或いは僕は頼むべきだったのかもしれないが。
 トゥクテンのテントの手前200mほどの沢の横の民家に綺麗なテントが見える。きっと西洋人のトレッカーだろう。そこまでトレイル上で3・400mだろうか。しかしそこまでが断崖なのだ。暫く歩いては、トゥクテンのテントに向かって杖を振ってみるということを繰り返したが、そこに立っているように見える人影は僕に気付かない。何回目だろうか、漸く気付いたらしいトゥクテンがこちらに向かって歩き始めたのが見える。彼がその5・600mを歩いて僕の所に辿り着くまでに、僕はおそらく30mも進めなかった。
 彼は事情を聞いて驚いたり困ったりしたが、肩を貸してくれるとか馬を連れてくるとかはしようとはしなかった。杖を突いている右腕を支えたりしている。そんなことをされてもかえって邪魔になるだけなのだが。或いは僕は頼むべきだったのかもしれない。肩をかしてくれと。或いは馬を連れてきてくれと。だがいずれにしてもトレイルは狭く、所々は岩の上を下らなければならず、肩を組んだ2人がずっと並んで歩くには危険すぎたかもしれない。
 なんとか沢まで降りて来ると、そこにテントを張っていたのはやはり西洋人だった。後で分かることだが、オランダ人の2人の婦人。1人は50代半ば、もう1人は60を越しているように見えた。彼女たちは馬方の他にガイドと数人のポーター、キッチンボーイを連れていて、厳しい道とはいえ優雅なトレッキングをしているのだった。彼女たちは飲料用に引かれた用水の流れに足を晒すように言った。トレッキング・シューズを脱ぐと腫れるだろうからそのままでと。10分間、そうやって僕は右足を流水に晒した。その後、彼女たちは靴を脱がせ、何かの軟膏を足に塗ると丁寧に包帯を巻いてくれた。骨はどうか、と彼女たちは尋ねた。多分、骨は大丈夫だと思うと僕は答える。おそらく明日は物凄く腫れるだろう、と彼女たちは言った。4・5日は安静にしなくちゃね、時間はあるの?と彼女たちは訊いた。そして消炎剤の入った痛み止めを3日分くれた。
 そこからなんとか自分のキャンプ地まで辿り着くが、テントの設営やなにやかにや、今は全てがハードワークだった。ただ、彼女たちに出会ったことで、僕は幾分か気が楽になったように思う。もしそうでなかったなら、もっと気が滅入り、不安な思いを抱え込んでいたと思う。
 翌日、キャンプの5mほど下の用水で足を冷やして過ごす。痛みは幾分か治まってきたが、腫れが酷い。関係の無いだろう指先までまるで大きな昆虫の幼虫のように膨らんでいた。足首はまるでアトムやサリーちゃんのようだ。紫、緑、青、まるで曼荼羅のように様々な色が入り乱れていた。さて、これではおそらく4・5日では歩けそうにない。少なくとも険しい峠越えなんて無理だ。後方には5060mを始めとした峠、車道のあるワンラまで健常で4日、更にレーは先だ。前方には4750mを始めとした峠、車道のあるザンラまで4日、そこからザンスカールの中心パドゥムはまだ先だ。
 どうする没関系。 (つづく
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by meiguanxi | 2007-07-23 19:37 | Air Mail
from Leh : ザンスカール・トレッキング・メモ
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                                                         2007.6.28

 明日、ここから120数km西のラマユルという有名なゴンパのある村に、テントやストーブ(コンロ)、コッヘルやシュラフなどの入ったメインザック、サブザック、スポーツバッグ2つに満載した食料とともに車で移動します。
 本当はここに日本で準備した装備、現地で調達した物、食料などをメモしておこうと思ったのですが、今日のレーは停電が多くなかなかネットが繋がらない上、遅くて重くてどうにも成りません。ので諦めます。帰ってから、レーからに成るかどうかは分かりませんが、準備した物と結果としてそれで足りたのか不足したのか等々、記録に残したいと思っています。
 ラマユルからザンスカールの中心パダムまで、宿も飯屋も商店も無い村とゴンパを10日間掛けて、2頭の馬と1人の馬方さんと一緒に歩きます。その後、対岸のカルシャという村にあるザンスカール最大のゴンパでの祭りを見た後、数日間パダム・カルシャ西方の村を歩き、初日から16日目にパダムに再度辿り着く予定です。
 パダムは、レーとカシミールの中心の町シュリーナガルとの中間に位置するカルギルという町から2日に1度バスが来る村で宿もあるのですが、バスかトラックか、いずれにしてもエンジンの付いた乗物でカルギルへ出て、アッパー(上)ラダックと呼ばれるラマユルからレーの間を少し見てくる積りなので、もう一度レーに戻るのは約1ヶ月後位になると思います。勿論、それまでネットは見られません^^
 では、一部の方々にはご心配をお掛けして申し訳ありませんが、無事に帰って来られたら、1ヶ月後にご連絡します。
 行ってきます!

                                                             by 没関系
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by meiguanxi | 2007-06-28 23:58 | Air Mail
from Leh : へミス・チェチュ
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                                                           2007.6.27

 6月24日の夕方から2日間、レーを留守にしていました。ここから東に30数kmほど来た道を戻るとカルという集落があり、ここでインダスを対岸(南)に渡って岩山を縫うような谷を10kmほど登るとへミス・ゴンパに着きます。ラダック最大のゴンパ(僧院)なのですが、集落はほんの小さなもので基本的に宿はありません。というのは、民宿することも可能らしいので。僕はキャンプ・サイドにテントを張っていたのですが、なんと実に、自分のテントを張るだけで200ルピー(約600円)もします。実は普段はこの半額なのですが(にしても高い!)、この数日は特別なのです。
 25日26日とへミス・チェチュというお祭りがあり、チャムという仮面舞踏が執り行われるのです。会場のゴンパ中庭は早朝から詰め掛けた夥しい人々の場所取りでてんやわんやです。特別な人や特別なツアーには椅子の席が設けられているようですが、一般人(ツアーも含む)は地べたに座って観るのですが、石畳に座った高さの温度は実に45℃を超える暑さです。座席番号とかがある訳ではないので、場所を離れる訳にもいきません。ただ乾燥しているのでまだ楽なのですが、腕や顔はボロボロになりそうです。
 僕は8時頃から待っていたのですが、チャムは予定時間の10時を1時間過ぎて漸く始まりました。4mはあろうかという長い管楽器が非常に低い単調な音を奏でます。その音だけでおどろおどろしい雰囲気が辺りを包み込みます。太鼓やシンバルのような鐘の音が厳かに流れます。数名から十数名ほどの演者が、それぞれの幕によって大きな様々な仮面と豪華な衣装を付けて現れては、音楽に合わせて単調な舞踏を繰り広げ、それは午前中2時間、午後2時間、翌日の午前に少しと昼に2時間続くのです。残念ながらその様子を適切に表現する文章力と時間を今は有しません。
 ただ、実は今日、レーの南8kmほどにあるスピトク・ゴンパを砂曼荼羅の制作を見学したのですが、制作をしているラマがへミス・チェチュについて嘆いたのが印象的でした。それは僕も感じていたことなのですが、チャムを観ている人々の実に半数近く(正確な数字ではありませんが)が外国人、特に西洋人で、その他に多くのインド人観光客(ラダッキや周辺の人ではなく)地元の人はほんの僅かでしかなかったのです。これは日本で言うお祭りとはちがってもう少し純粋に宗教儀式という意味合いが強いのだろうかとも思ってみたのですが、やはりあまりにも観光化し過ぎた為にそうなってしまったという部分もあるのでしょうか。少なくと外国人に関する限り、拝観料30ルピーの他にチャムを観る為に250ルピーの料金を必要としました。勿論、僕もそうした外国人の一人ではある訳です。
 チャム自体は物凄く素晴らしかったのですが、席取りで後から来たにも関わらず待っている人の前に座ってしまって頑としてどこうとしなかったり、写真を撮るために演者のすぐ前まで出て行ってしまって他の見物人のことなど意に介さない白人達(勿論一部ですが)の傲慢傍若無人な行動に辟易として白けてしまっていたのも事実です。欧米人はインド人とは違って、このようなことは決して本国ではしないでしょう。まさに旅の恥は掻き捨てという訳でしょうか。
 このチャムを観ることが今回の具体的な目的の一つでもあり、もう一度言っておきますがチャム自体はとても素晴らしいものでした。ただ、その時間とでもいうのでしょうか、そういう意味では岩山の谷でのキャンプの夕暮れや、深夜3時に翌日の練習の為なのでしょうか、ゴンパから谷に流れる例の低い単調な管楽器の音、或いは今日、砂曼荼羅の制作を横でずっと見ていた時間、そういった事々のほうがむしろ、強く心に残るような気がしています。
 (乱筆乱文誤字脱字誤変換、小学生日記的文章等々、推敲の時間無く申し訳なく)

                                                             by 没関系
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by meiguanxi | 2007-06-27 22:17 | Air Mail
from Leh : ツーリスティな辺境
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                                                           2007.6.24

 インド領ヒマラヤ西域ラダック地方の中心地レーは、北側がヒマラヤの支脈であるラダック山脈、南側がザンスカール山脈に挟まれたインダス川上流の、北の山脈から流れるインダスの支脈が作る広い扇状地の奥に開けた町だ。
 この町を訪れることは、少なくとも陸路による限り、かなりハードな道程になる。これについては前の手紙で述べた通りだが、実は13年前、僕はこれとは違う道を辿ってこの町を訪れている。インド領カシミールの中心地で美しい湖が有名な観光地であるシュリーナガルから、1泊2日のバスで、やはり4000m急の峠を越えてやって来たのだが、時折りしもカシミールを巡るインドとパキスタンの紛争、それに独立派ゲリラの紛争が激化する寸前で、乗ったバスが政府軍とゲリラとの銃撃戦に遭遇してしまったりしたものだ。
 北にはパキスタンとの停戦ライン、すぐ東は現中国占領下の西チベットであるこの町は、まさに奥地というに相応しい地理的条件にある。しかし、このブログには度々登場願っている後藤ふたば氏がこの地を訪れたのは1993年だっただろうか。そのときの著書に彼女は、「レーは秘境ではないのだ」といったことを既に書いている。僕が出たばかりのその『もうひとつのチベット行』を読み、強引にぶち抜いた2週間の休暇で陸路カシミールからラダックに至るという強硬な旅にでたのが翌94年、しかしその時にはまだもう少し素朴な雰囲気が残っていたように記憶している。
 今もこの町は居心地が良い。メインバザールと呼ばれるメインストリートの、車道と歩道の段差に野菜を並べた露天のおばちゃん達の姿もそのままし、町の北側の高台に聳える、かのラサのポタラ宮のモデルになったという王宮の廃墟もそのままだ。旧市街の石と土壁で作った、迷路のような家並みも健在だ。だが町は拡張され、僅か夏場の2・3ヶ月間の賑わいとはいえ、ちょっとしたネパールはカトマンドゥのタメル地区(旅行者街)化してしまった感がある。
 さて、ところで、何時でも何処でも兎に角はビールの僕である。しかしここは紛い成りもインド、安レストランには少なくとも大っぴらにはアルコールは置いていない。旅行者を目当てにした店を選ぶと、ボトルをテーブルに運ぶのは憚られるという訳で、奥でグラスに注いだビールを運んでくれる。グラスが空になるとまた注いで来てくれるという訳だ。勿論、ここは奥地、値段は高い。1本約(100ルピー)300円もする。ホットシャワーの出る宿が200ルピーなのだ。酒飲みであることが辛いのも、インドなのだ。
 ところで、飯を食いビールを飲み、僅かばかりながらチップを置く自分が、どうしてインド人の物乞いに1ルピー出すことを躊躇うのか。勿論、言訳なら幾らで思い付くし、それらはそれなりに説得力が無くもない。だが、そういうこととは少し、違う。
 13年前、町の中心にあるゴンパ(僧院)で、美しい服を着たラダッキ(ラダック人)の少女姉妹を写真に撮っていた時、「パンジャビ(シーク教徒の住むインド西部の州)、ジャパニ(日本人)、フレンド」と言って手を差し出すインド人少女がいた。どうしてパンジャビとジャパ二がフレンドなのか分からないが、そんなことには意味は無いのだろうし何処の国の旅行者にもそう言っているのだろう。弟を片腕に抱いたその10歳か12歳ほどの少女は、非常に美しい目と顔立ちとを持っていたが、残念ながらそれに相応しい身成りを有してはいなかった。顔も手も腕も脚も真っ黒に汚れ、髪は捩れて痛み切っていた。美しい顔は魅力的な可愛らしい笑顔を作ったが、そこには媚が混ざらざろうえなかった。僕は写真を撮らせてもらう換わりに、僅かばかりのバクシーシを与えた。10ルピーで彼女の自尊心と肖像権とを買ったのだ。
 もし、彼女が生き延びているのなら、ちょうど妙齢の美しい盛りを迎えている頃だ。しかし勿論、実際には美しさとは程遠い人生であるに違いない。だが、願わくは生き延び、苦しくともそれなりの、出来れば今日食う物に困らない生活をしていてくれるのなら、と思わずにいられない。
 などどいう無責任な感傷は、実はビールの肴だったりするのかもしれない。僕の心は、実はそのことに、本当には傷付いてなどいないのだ。それは歳を取ったということかもしれないし、日本の政治に関して達観してるということと何処か繋がるのかもしれない。
 ただ、無責任であるが、若者にはそういうことを感じるためにだけでも1度だけ、旅をして欲しいと思ったりもするもだ。もっとも、今の日本の若者がそういうことを感じるのかどうか、既に分からない年齢に僕は成っているのだが。
 (誤字脱字、推敲の時間が無く、申し訳なく)
                                                            by 没関系
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by meiguanxi | 2007-06-24 16:34 | Air Mail