カテゴリ:絲綢之路Ⅰ[西域]( 6 )
カシュガル(東トルキスタン): 変わり行く西域のオアシス都市
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                                                        日曜バザール(同下)


 クチャから夜行バスで18時間、カシュガルは新疆ウイグル自治区の区都ウルムチを除けば西域最大の町で、ここまで来ると漢族の移入も比較的少なく新市街でもウイグル色が強い。いや、これはあくまで1993年の状況だ。


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 長安(現在の西安)を出た古来の絲綢之路(シルクロード)は、敦煌で旧道の西域南路と北寄りの新道とに別れる。更に新道はトルファンで天山北路と天山南路(西域北路)とが別れる。この天山南路と、敦煌からローラン(楼蘭)に向かった西域南路とが再び出会うのが、カシュガルだ。
 北は天山山脈、南はカラコルム山脈、西にはパミール高原、そして東にはタクラマカン砂漠が広がる。この地は古来の旅人にとっては、まさに安らぎのオアシスだったのだ。
 現代の旅行者にとってのシルクロードは、中国をそれなりに自由に旅行することができるように成った80年代後半に漸く開放され、ソ連崩壊後暫く経った後、90年代前半にはウルムチからイリを通ってカザフスタンに向かうこと(天山北路)も可能に成った。そしてついに近年、カシュガルから直接パミールを越えてキルギスに抜ける道が、個人旅行者にも解放された。しかし長い間、旅行者にとってこの東トルキスタン(ウイグルスタン)と西トルキスタン(タジクを除く現中央アジア諸国)とは分断されていた。旅行者には新疆ウイグル自治区から先、フンジェラブ峠を越えてパキスタン北部に向かう道以外は許されていなかったのだ。この中国支配領の西の果ての街は、アジア横断を目論む現代の旅行者にとっても東西の境目だった訳だ。

                                旧市街の路地
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 予断だが、初めて新疆を訪れた90年、クチャの記事に書いたとおり僕はこの街に行きそびれている。「民族暴動」の為に外国人の入域が規制され、クチャから泣く泣く引き返したのだ。訪れることができたのは93年になる。その所為か、僕にとってカシュガルは今も遥かなる街というイメージとともにある。
 ところでご存知通り99年、カシュガルまでの列車が開通した。また、中国の道路事情の改善には華々しいものがあるので、今ではクチャからの所要時間は圧倒的に短縮されたのだろう。おそらくそれに伴い中国から膨大な資本と中国文化が流入し、そして大量の漢族が植民されたのだろう。


旧市街のバザール街
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 NHK 『新シルクロード』 でカシュガルが放送されたのは2005年11月、既に2年も前になる。放送によれば中国の富裕層が大挙して旅行に訪れ、嘗ては僕たちが勝手気儘に散歩していた旧市街のバザール地区は、テーマパークさながら観光客から入場料を取るように成っていた。嘗てはこの地で富裕でもあったのだろう立派な屋敷の主人は、漢族のツアー客を自宅に招き入れ娘に民族舞踊を披露させる。職業ではない普通の少女である娘であるから、彼女は乗り気がしない。だが経済的現実を前にした父親は娘を嗜め、観光客に媚を売る。
 嘗て僕の旅したカシュガルは、例えば中国に留学してる日本人女性でも一人で踏み入るのを躊躇するような雰囲気があった。漢族の世界とは全く違う異郷だったのだ。勿論、ウイグル人たちは日本人には友好的だったが、それは対等な友好であって決して旅行者に媚びるようなものではなかった。おそらく、僕らにはそういう触れ合いが心地よかったのだろう。


                              職人街の職工と老人
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 先日、同じNKHの 『中国鉄道大紀行』 で見たカシュガルの旧市街は、嘗てとさほど変わらない雰囲気に見えた。日干煉瓦と土で固められた家、狭い道の左右を跨ぐように建て増された2階の為にトンネル状になった路地。だがそれは、ある意味では流入する資本の元で取り残される現地の姿を反映しているのかもしれない。
 シルクロード西域への憧憬、遥かなるオアシス、そんな甘い旅情や感傷をよそに現実のカシュガルは大きく変貌しつつあるのだろう。

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by meiguanxi | 2007-12-05 14:07 | 絲綢之路Ⅰ[西域] | Comments(4)
クチャ (東トルキスタン): 田舎町の大バザールと、民族問題と旅行者と
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                                                           ナン売りの少女

 トルファン からバスで1日半、途中コルラ付近で一泊して翌日の午後、シルクロード天山南路中程の町クチャ(庫車)に着く。いや、今では鉄道はコルラからカシュガルまで伸びたのだが、それは1999年のこと。僕がこの町を訪れた90年と93年当時には、荒涼とした岩山を縫い土漠をひた走るバスしかなかったし、それも1日に1本でしかなかった。

近郊の景観                            河西回廊を抜けるとシルクロードはタリム盆地に入る。その平
b0049671_2314732.jpg地の大半は世界第2位の広さを有するタクラマカン砂漠だ。長安(現在の西安)を出発した嘗てのシルクロードは、敦煌で、アルトゥン山脈からクンルン山脈の北側、タリム盆地南辺を行く西域南路を分ける。一方、北路はトルファンの先で天山山脈に出会い中央アジアへ向かう天山北路を分ける。西域のメインルートである天山南路はタリム盆地北辺のオアシスを繋ぎ、やがてカシュガルに到る。ここで西域南路を合流してカラコルム・パミールの山岳地帯に入っていくのだ。
 クチャは天山南路のトルファンからカシュガルに到るちょうど中間に位置する。漢代には亀茲(キジ)国として栄えた。当時の西域最大のオアシス都市国家で、独自の言葉を持ち音楽と仏教が盛んだった。勿論、当時の主な住民は胡人、つまりイラン系民族だ。
 数多くの仏典を漢訳した鳩摩羅什(クマラジュウ)の出身地として、また玄奘が滞在した町としても有名だ。玄奘は当時の亀茲国について、「伽藍100、僧5000」と記している。当時の遺産は郊外のスバシ故城、クズルガハ千仏洞、キジル千仏洞、クムトラ千仏洞などに見ることができる。特にキジル千仏洞に描かれた菩薩の持つ楽器は、日本の雅楽のルーツと言われる。また、正倉院の宝物と共通する琵琶を奏でる飛天の姿も見事に残っている。
 その後、7世紀に唐によって滅亡し、9世紀にはウイグル族が侵入、やがてイスラム化していった。

スバシ故城(嘗ての亀茲国の城跡)                                     クズルガハ千仏洞
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 現在のクチャはトルファン―カシュガル間の中継地としての、落ち着いた小さな町だ。新市街にさえも当時はビルなどは無く、漢族の姿も稀だった。旧市街は2kmほど離れていて、ここでは毎週金曜日に市が立つ。これは西域(新疆ウイグル自治区)で最大のものだ。
 初めて僕が西域に足を踏み入れた年の春、トルファンの宿に着いた僕を思い掛けないニュースが出迎えた。トルファンと北西のウルムチとを結ぶライン以西へのバス・チケットを、外国人は買えなくなったというのだ。理由については当初、良く分からなかった。バス・ターミナルでも当時中国でほぼ唯一外国人を相手にしていたCITS(中国国際旅行社)のオフィスでも、分からないという答えを繰り返すだけで一向に埒が明かない。疫病が流行しているらしいという噂がまことしやかに流れてもいた。

ウイグルの子供達                                                     旧市街の路
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露天のケバブ屋                                              ラグメン(トマトうどん)屋
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 だが欧米の旅行者がBBCラジオの国際放送から漸く信頼できる情報を得た。カシュガル近郊で「暴動」が起こり治安当局と衝突したらしい、というのだ。同宿だった学生が北京の日本大使館に事の次第を照会する電話を掛けるが、大使館は「暴動」が起きたという一報以外には事態を全く把握していなかった。トルファンにいる日本人の氏名とパスポート番号を調べて連絡してほしい、その上で早急に新疆ウイグル自治区から退去されたい、大使館は電話をした学生にそう伝えただけだった。
 これが今に言うバリン郷事件だった。カシュガルの南10kmのアクト県バリン郷でウイグル人農民が武装蜂起し、当局はこの鎮圧のために空軍まで動員したと言われる。切欠はモスク建築に関するトラブルと、政府が産児制限(一人っ子政策)を少数民族にまで広げようとしたことに対する反発だったようだが、結果として国際アムネスティの報告によると死者は50人、反革命罪で起訴された者6000人という大規模な動乱になったようだ。事件が勃発したのが4月5日、数日間の攻防の末に武力鎮圧されたのが9日、僕がトルファンに到着したのが11日だった。だが僕がこのことを知るのはずっと後、むしろつい最近のことだ。この帰国後には、誰に聞いてもそんなニュースは知らなかった。

金曜バザールにて
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 ともかく、当時トルファンにいた僕たち旅行者にはピンとこない話だった。トルファンは春の陽光の下で葡萄棚は明るく緑に輝き、人々は愛想が良く居心地が良い。平和そのものだったのだ。僕は他3人の旅行者と西を目指した。観光用の輪タクでウルムチ方面とカシュガル方面との分岐点であるトクスンという小さな町まで2時間、そこでウルムチから来たバスをヒッチする。バスなのだからヒッチと言うのは変かもしれないが、なにしろ正式にはチケットを売ってくれない状況で、外国人観光客がいない町でバスに乗り込むというのはヒッチとしか言いようがなかった。
 そのようにして訪れたクチャではあったが、到着した日の夜、公安(中国語で警察のこと:公安警察ではない)が僕たちの宿に訪れ取調べが行われた。もちろんカシュガルから来たと答えた僕たちに、公安は東方への退去を命ずる。ただ彼らは友好的で、近郊の観光と金曜バザールだけはどうしても見たいという僕たちの要望を聞き入れてくれたのだ。こうして4日後、土曜日の朝に僕ともう一人の女の娘はトルファンへのバスに乗ったのだが、更に西を目指そうとした他の2人は、公安に捕まり強制退去させられたらしい。僕がこれより西、カシュガル方面に足を踏み入れるのはそれから3年後のことになる。

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                                                     金曜バザールの駐馬車場
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by meiguanxi | 2007-11-21 23:11 | 絲綢之路Ⅰ[西域] | Comments(0)
クチャの子供達 (東トルキスタン)
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東トルキスタン、或いはウイグルスタン。

現在は中国の新疆ウイグル自治区とされているタリム盆地、
タクラマカン砂漠北辺中央に位置するクチャ(庫車)の町には、90年と93年の2回訪れた。
これは90年当時、旧市街へ向かう1本道の途中の学校前、下校時。
8歳から10歳位の子供達だろうか。

あれから長い年月が流れ、
ウイグル自治区を巡る状況も経済も随分と変わったようだ。
そう、あの頃この町に鉄道はまだ通っていなかった。

カメラを構えるガイジンを夢中で追いかけたあの日、
もうみんな大人になったよね。

おまえら、元気に生きているか…

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by meiguanxi | 2007-11-19 19:16 | 絲綢之路Ⅰ[西域] | Comments(0)
トルファン (東トルキスタン) : 疎水と葡萄棚のオアシス
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蘇公塔
b0049671_2351227.jpg その名前を聞いただけで旅情を掻き立てられる町がある。トルファンもそんな町のひとつだ。
 NHKがシルクロードの特集を1年掛けて放送した時代、まだ中国は自由に旅のできる国ではなかった。中央アジアはソ連だった時代であり、それだけに尚のことシルクロードは手の届かない憧憬の地だった。
 東トルキスタン、現在は中国支配下で新疆ウイグル自治地区とされている。今のトルファンはトルコ系のウイグル人の町だ。しかし、この地域の歴史は複雑だ。紀元前2世紀、この地には匈奴の支配下に車師前国という国があった。現在の町から10kmの交河故城はその城址だ。前漢の時代、紀元前1世紀には高昌故城(町から40㎞離れた遺跡)付近に屯田兵を進駐させ、漢族が移入する。
 漢が滅んだ後は様々な支配者がこの地を治めたが、どれも漢族の王朝だった。5世紀に起こった高昌国もまた、漢族の国家だ。しかし、「玉門から西は胡地」というように、支配者が変わっても住民の多くはイラン系アーリア人だったと思われる。高昌国の時代、かの玄奘三蔵が訪れている。西遊記に有名な火焔山もこの近郊にある。
 その後、7世紀には唐の支配に入るが、北方騎馬民族の突厥やチベット系の吐蕃の圧力を受ける。そして9世紀半ばにはウイグルが進入し、この地はテュルク(トルコ)化する。
 しかし、住民はウイグルの他、イラン系、インド系、モンゴル系、漢族と多民族雑居の状態であったようで、ウイグルも仏教を受け入れベゼクリク千仏洞の建設に携わったりした。この地がイスラム化するのは16世紀半ばだ。


ベゼクリク千仏洞                                                   交河故城の高台
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日干煉瓦の民家と老人                                                半地下の農家
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 今のトルファンの町は、葡萄棚がアーケードを成す美しい町だ。小さな町なので、旧市街やバザールをそぞろ歩くくらいしか町中には見所は無いが、それだけで充分だ。また郊外には交河故城や高昌故城といった都市遺跡の他、ベゼクリク千仏洞、アスターナ古墳、火焔山、カレーズという地下水路など多くの見所が点在している。
 町から2.5kmほどの郊外に蘇公塔と呼ばれる1779年建立のモスクがある。44mもの高さを誇る中央アジア様式のミナレットが印象的だ。ここへ向かう未舗装の一本道には日干煉瓦と土壁で固められた民家が並び、カレーズから敷かれた用水路が流れている。この小路、正式には解放路というのだが、通称をバイバイ・ストリートという。旅行者を見掛けた子供達が、「バイバイ」と手を振って無邪気に走り寄って来る。この町を2度目に訪れたのが1993年、15年近くの時が過ぎた今、この通りは昔のまま残っているのだろうか。


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                                                          解放路の用水路
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by meiguanxi | 2007-11-16 23:54 | 絲綢之路Ⅰ[西域] | Comments(10)
敦煌と鳴沙山 : 砂漠の青い泉と石窟美術
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                                                   莫高窟・北大仏殿 (第96窟)

 嘉峪関(jia yu guan)の西460kmで、かの余りにも有名な敦煌に着く。嘉峪関の東20数kmに位置し夜光杯という玉器で有名な酒泉(jiu quan)からなら、バスで8時間といったところだ。
 最寄の鉄道駅である柳園(liu yuan)からだと、バスで2・3時間。この130kmの道は凄い。見渡す限りのゴビ灘の土漠の中を、延々と真っ直ぐに貫かれているのだ。フロントガラス越し、遥か地平線と交わる路上に小さな点が見え始める。初めはそれが何なのか分からない。やがて対向車らしいと気付く。だが、一向に距離は縮まらない。5分以上、いや時には擦れ違うまでに10分も掛かる。やれやれ、なんという道だ。
                                    敦煌、中国語読みで dun huang : ドゥンフゥァン。敦煌の歴
鳴沙山へのポプラ並木                    史は1世紀初頭、武威(wu wei)・張掖(zhang ye)・酒泉と
b0049671_20313654.jpgともに、漢の武帝が西域経営の為にここに郡を置いたことに始まる。当初は東西交易と軍事上の要衝として建設されたのだ。
 後漢の時代に仏教が伝来し、莫高窟(mo gao ku)の石窟は4世紀から始まり、唐代に全盛期を向かえる。14世紀までの約1000年に渡り、南北1600mの岸壁に500近くの石窟が穿たれた。その後、長く忘れさられていたが、1900年、大量の古文書が発見され注目される。しかし多くはスタインや大谷探検隊によって国外に持ち出されてしまった。しかしそこに残された色鮮やかな壁画や塑像などの仏教美術は、今に至るまでその輝きを伝えている。
 実はここには二回訪れている。初めは河西回廊を西域に向かい、次はここから南にアルトゥン山脈を越えツァイダム盆地を突っ切って青海省(チベット圏のアムド地方にほぼ相当する)ゴルムドに向かった。だが、莫高窟の内部は撮影禁止であったため写真が無いのが残念だ。

月牙泉                                                     砂漠に生きる胡楊の木
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 現在の敦煌は、莫高窟から25km離れた党河(dang he)沿いの小さな町だ。いや最近では観光開発が進み、それ相応の町に発展しているのかもしれない。党河は祁連(qi lian)山脈から流れ出ているが、夏の間以外は干上がっている。
 ところで、町から5㎞の所に鳴沙山(ming sha shan)という、東西40㎞、南北20kmの広大な砂丘がある。その様はまさに我々が抱く砂漠のイメージそのままだ。この砂丘の上からは果てしなく広がるゴビ灘を見渡すことができる。
 この鳴沙山の脇に、青々とした水を湛える月牙泉(yue ya quan)という泉がある。畔には胡楊の木が静かに立っている。砂の海に青い泉、そして緑の胡楊。なんとも幻想的でロマンチックな光景だ。

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                                                                 鳴沙山
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by meiguanxi | 2007-11-15 20:34 | 絲綢之路Ⅰ[西域] | Comments(6)
嘉峪関 (Jiayuguan 河西回廊): 西の果ての長城
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 西安から西に伸びるシルクロード(絲綢之路)は河西回廊を経て、やがてタクラマカン砂漠の広がるタリム盆地(東トルキスタン:現在は新疆ウイグル自治区)に至る。

                         河西回廊の「河」とは黄河のことだ。青海省を流れ出た黄河は蘭州で大きく北に
b0049671_1821534.jpg向きを変え、オルドスを回り込んで南に折り返す。このオルドスこそ黄土高原であり、ここを通過する際に大量の黄土を削る。黄河の由縁だ。黄河の西に伸びる一本の道。北には内モンゴル自治区のバダインジャラン砂漠、南には祁連山脈が横たわる。それらに挟まれ北西に伸びる狭いルート、それが河西回廊だ。現在の甘粛省に相当する。
 この河西回廊がタリム盆地に出る手前、要衝である酒泉の町の西20kmに嘉峪関はある。万里の長城の東の端は渤海に突き出している。程無く「天下第一関」と称される山海関があるが、そこから西に遥か6000km、ここが最後の関だ。嘉峪関は「天下雄関」と呼ばれ、往時、ここが漢族世界の西の果てであり、ここから先は外界であり、果てしなく続く砂漠だ。長城はこの先7kmで北大河の絶壁に至って終わる。長城第一墩と呼ばれる場所だ。
 嘉峪関が作られたのは明代の1372年。チンギス・ハンが建てたモンゴル帝国のフビライによって13世紀に漢族は支配され、モンゴルは名称を元と変え、大都(北京)に都を置いた。それから百年余、元を北に追いやった漢族の朝廷が明だ。嘉峪関は北方の異民族からの守りの為に作られたのだ。



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 内城の城壁は11m以上の高さを誇る。実際に城壁の下に立ってみると、その高さに圧倒される。北京からも長安からも遠く離れた辺境に築かれたこの建造物の壮大さが、当時の遊牧民の攻撃の苛烈さと、そしてこの狭い回廊の当時に於ける重要さとを伝えている。

b0049671_18233558.jpg 河西回廊はオアシスの町を出ると、殆どが土漠の世界。城壁に登ると、砲台の隙間からその果てしの無い荒野を臨むことができる。そしてそこには、崩れ掛けた長城が延々と続いている。その先には、祁連山脈の主峰(5547m)が雪を頂いている。
 万里の長城もここまで来ると北京近郊の八達嶺とは随分と趣きを異にする。現代の旅人の目にはそれは古の夢の後、或いは西へのロマンとして写るかもしれない。
 道はこの先、敦煌を経てタクラマカンに続く。商隊にせよ西に赴く兵にせよ、当時、ここを出て行く旅人の想いは、如何ばかりであっただろうか。


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by meiguanxi | 2007-11-11 18:07 | 絲綢之路Ⅰ[西域] | Comments(2)