カテゴリ:ヒマラヤ・チベット( 40 )
クンブル (タール寺 : チベット・アムド) : 北東チベットと中国の境界
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                                                           クンブルの僧侶達

 クンブル (塔爾寺 : タール寺) はチベットのアムド地方ルシャルにあるゲルグ派のゴンパ (チベット仏教僧院) だ。と書いても、多くの方には何処のことかピンと来ないかもしれない。現在は中国の支配下にあり、青海省西寧 (xining) の南30kmほどの湟中県 (huangzhong)にある。僕が訪れた1990年には西寧からバスで1時間ほど掛ったのだが、今では30分に短縮されたようだ。クンブルとは “十万の仏像” を意味すると言う。ラサのセラ寺 ゼポン寺 ガンデン寺、シガツェのタルシンポ寺、サンチュ (甘粛省甘南チベット族自治州夏河) のラプラン寺とともにチベット仏教最大の宗派であるゲルグ派の6大ゴンパ (チベット仏教僧院) の1つに数えられ、敷地には1000もの伽藍が犇き、最盛期には4000人の僧侶が修行したと言われる。ゲルグ派を開いたツォンカパ生誕の地に建てられた僧院で、創建は1560年。始まりは1379年、ツォンカパの母がひとつのチョルテン (仏塔) を建てたことによると伝えらる。ダライ・ラマという称号はチベット仏教に帰依したモンゴルの支配者がラサのデプン寺貫主だったソナム・ギャムツォに与えたものだが、チベット仏教では彼の前に二人の転生者いたことが判明したとされるので、彼は3世ということになる。1世はツォンカパの弟子あるゲンドゥン・トゥプだ。因みにダライ・ラマがチベット仏教全体の最高指導者となるのは5世以後のことだ。
 多くの旅サイトやブログでは、この寺のことは青海省西寧の頁に書かれている。ここではチベットにカテゴライズしアムドにある寺としてエントリーした訳だが、もちろん 僕としても少し心苦しくないわけでもない。僕が訪れた当時とは違い、今ではアムドやカム (後述) の多くの場所を外国人が旅できるようになったからだ。その心苦しさはクンブルにしか行っていないのにアムドと書くことへの、チベット好きの旅行者に対する気恥ずかしさのようなものだ。しかしどうしてもクンブルを中国のカテゴリで書くわけにはいかない。


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                                                            クンブルの伽藍

 2008年のラサでのチベット人による抵抗運動に関連したデモや抗議活動は、チベット自治区だけでなく多くの地域に飛び火した。亡命政府が把握している限りで自治区で15ヶ所であるのに対し、青海省で14ヶ所 (含・西寧)、甘粛省7ヶ所 (含・蘭州)、四川省17ヶ所 (含・成都)と、3分の2以上は自治区の外で行われている。中国ではいわゆるチベット自治区は西蔵自治区と書く。“蔵” はチベットの意味。日本語では何故か “西” が抜けてしまってチベット自治区が即ちチベットの総体であるかのような印象を与えてしまっているが、本来は西チベット自治区なのだ。地理的により正確に言うのなら西南チベットだ。清朝の時代に中国 (通歴史的意味に於ける支那) は北東チベットへの干渉を始めるが、直接的な支配が届き中国人が流入していたのは西寧とその東側一帯から省境までの海東地区と呼ばれる狭い地域に過ぎない。この地域は回族 (hui : 漢語を母語とするイスラーム教徒) などとの雑居地域だった。一方このブログを良く覗いて下さっている方には周知のことだが、その他の殆どの青海省は、現在の同省東南部に位置する玉樹 (チベット名 : ジュクンド) 地方を除き、四川省西北部の阿覇チベット族チャン族自治州 (チベット名 : ンガパ)、甘粛省南西部の甘南チベット族自治州 (同 : カロン)、同省中央南縁部に当たる天祝チベット族自治県 (同 : パリ)とともにアムドと呼ばれ、チベット人とモンゴル人とが遊牧を営むチベット文化圏だ。そしてジュクンド (玉樹チベット族自治州) は四川省西部の甘孜チベット族自治州 (チベット名 : カンゼ)、その南の木里チベット族自治県 (同 : ミリ)、雲南省西北部の迪慶チベット族自治州 (同 : デチェン) とともに同じくチベットの一地方としてのカム東部を成す。2008年5月の四川大地震で大きな被害を受けたのは、このンガパ (またはンガワ) だ。因みにンガパとカンゼ、ミリを合わせると四川省の西半分になる。
 清朝の雍正帝が北東チベット (カム、アムド) をタングラ山脈南側の地域から分割したのは1723年のことだが、1912年に清朝が倒れた時、チベットは独立を宣言する。もちろん中華民国政府はそれを承認しなかったが、中華民国自体が女真族 (満州人) という他民族支配からからの漢人の独立であったのだから、清朝が崩壊した時点でチベットはその支配から解放されたと考えるべきなのだ。事実、民国はその成立から台湾への亡命までの間、実質的にはチベットに支配の手を伸ばすことはできなかった。北東チベットに再度干渉を始めたのは人民解放軍だった。そして国民党軍を破った人民解放軍が西寧に侵攻して来たのが1949年のことだ。


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                                                               内部の仏像

 青海省統計局によるとその当時の青海省の人口は148万人で、そのうち漢人は71万だったそうだ。もちろん当時の混乱の中での、しかもチベット人やモンゴル人の多くが遊牧民であった状況でこの数字がどれほど当てになるものなのかは疑問ではあるし、この数字に進軍してきた人民解放軍や彼らに伴って流れ込んだ漢人がどれだけ含まれるのか分からない。なにしろ直前の民国による人口統計も当てになるものではないとされているのだ。だが仮にこの数字を受けて考えると2007年までの60年足らずの間に漢人は実に4.17倍に増えたことになる。07年の省全体の人口が551万、うち漢人は296万だ。因みに49年の中国人全体の人口が5億4千万とされている (これもあまり当てにならないが) から2.4倍程度の増加なのだが、これと比較しても青海省の人口増加は驚異的だ。 残る255万人の中には漢人と同じく移住して来た、あるいは殖民された4・50万人の回族も含まれる。青海省に於ける現在のチベット人の割合は20から23%と言われている。
 しかし長らく漢族や回族は西寧や海東地区に集中していた。これは99年に西寧市に合併された湟中県と湟源県とを除けば、青海省全体の2.2パーセント余りに過ぎない。青海や海東の “海” は青海省北東部にある面積5694平方km、周囲360kmという巨大な青海湖 (チベット名 : ツォ・ゴンボ、モンゴル名 : ココノール) を指している。この湖の西側には中央部の大半が砂漠である広大なツァイダム盆地が広がっているのだが、遊牧民が暮らすこの地に50年代に入って鉱脈が発見されると漢族が流入し、盆地南端にゴルムドという町を築く。ここは全くの漢族と回族の町で、その後近年になって、この広大な海西地区への本格的な農業殖民が行われるに到り、そもそも人口密度の低かったこの地域での人口比率でも漢族が多数を占めるようになってしまった。10万余の海外在住者も含めたチベット人の総数は600万人と言われているが、経済や軍事といった力だけを良しとするのなら、13億の中国人の前には簡単に飲み込まれてしまう数なのだ。事実、アムドとカムを含めた全チベット地域における漢族の数は既にチベット人を上回り750万人に達していると言われる。清朝のチベット政策が旧来の帝国的支配にすぎなったのに対し、中華人民共和国に於けるそれは乗っ取りだと言っても良いし、それは民族的ジェノサイトだとも言える所以だ。僕がここを訪れた当時、鉄道は西寧からゴルムドまでしか通っていなかったのだが、2006年にゴルムドからラサに到る青蔵鉄道が開通した。内外の観光客には大人気だし、それはチベットの経済を発展させることにもなった。だが、しかしその富は漢人がほぼ独占し、多くのチベット人は相変わらずの生活、あるいは漢人の下で搾取される存在になってしまっていることも事実だ。何より、2008年3月のラサでの事件の時にも明らかになったように、この鉄道は中国のチベット支配を強化するための軍事鉄道という側面もあるのだ。


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                                                                 酥油花

 僕が雲南や四川辺りをうろうろしていた1990年代前半には殆どのカムやアムド地域への外国人の入域は禁止されていた。もちろん当時も四川などからチベットを目指した旅行者はいたが、おそらく多くは失敗したのだろうと思う。その後、四川省初め青海省、甘粛省、雲南省に属するチベット地域への入域は多くの場所で許可される傾向にあったが、2008年3月以来、再び外国人には非常に厳しい制限が敷かれた。あまり知られていないかもしれないが、今年 (2009年) には1959年の中国侵入とチベット人の蜂起、ダライ・ラマ14世の亡命と中国による占領という一連の動乱から50周年に当たる3月を控えて、チベット自治区と一方的に各省に割譲されたチベット地域の殆どの地域への外国人の入域が禁止された。報道は少ないが寺院や町角には監視カメラが設置され、この間にも幾つかの抵抗運動が弾圧され多くの人が投獄されている。
 99年に西寧市に合併させられた現在の湟中県魯沙爾鎮は漢族色の強い小さな町だが、ここが紛れも無いチベット文化圏なのだということはクンブルを見れば分かる。どのように見てもこの町はクンブルの門前町なのだ。バスを降りてチベット人たちの土産物屋や仏具を売る露天を抜けると、大きな八基のチョルテンが迎えてくれる。釈迦の八大功徳を表しているという如来塔だ。クンブルで有名なのが酥油花と呼ばれるバターで作った彫刻。だが今ではすっかり観光化されてしまったようだ。もちろん僕はただの観光客に過ぎない。それが彼らの経済的要請からくるものであるのなら、入場料でもなんでも喜んで支払おう。なにしろ余所者が彼らにとって神聖な場所を見せて貰うのだから。だが僕はテーマパークや博物館を見にチベットを訪れるのではない。まして彼らの要請とは関りの無い者たちの思惑や利益によっているとするならば、深い怒りを禁じえない。チベットの未来は、チベット人たちによって決められるべきなのだ。


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                                                               八大如来塔

More (続き) もう1枚と、チベット問題に関する僕の立ち位置
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by meiguanxi | 2009-04-21 22:59 | ヒマラヤ・チベット
ディンボチェ (エヴェレスト・トレッキング) : 奇峰とイムジャ・コーラ
[ エヴェレスト方面略地図 ] [ 日程表 ]
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 エヴェレスト・トレッキングの拠点であるナムチェ・バザールの稜線を登って暫く北に進むと漸く待望のエヴェレストが姿を現すが、1日目の宿泊地タンボチェはその絶好の遠望地として有名で、ここを最終目的地としてトレッキングをする人も少なくない。小型飛行機やヘリコプタが発着する小さな飛行場があるルクラからここまで歩くと高度順応のためのナムチェでの停滞日を含めて4日、首都カトマンドゥからの自動車道路の終点であるジリからなら既に10日になるのだが、標高3867m この村を出るといよいよ4000mを越える本格的な高所になってくる。タンボチェからはその本来の奇容をまだ隠して穏やかな面持ちのタウツェ(6501m) が見えるが、今日の目的地はあの山の向こう側だ。


パンボチェからの下りの樹林で遭遇したカモシカ                      イムジャ・コーラとアマ・ダブラム
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 タンボチェの丘からはシャクナゲなどの茂る樹林を谷まで下ることになる。運が良ければこの辺りではカモシカやシカに出くわすこともある。幾つかの集落を抜けてイムジャ・コーラ (“コーラ”は川の意) を対岸に渡る。この日の目的地の標高はタンボチェより4・5百メートル高いので、谷まで下った分を含めると結構な登りだ。しかしこのイムジャ・コーラ右岸 (進行方向左) は比較的広い谷で平坦な路が続く。ハイキング気分で2時間ほども歩けばパンボチェ村。石垣で狭く区切られたジャガイモ畑の中に幾軒かのロッジがあり、広く視界の開けた風景は6000mから8000m超の高山に囲まれているにも関わらず牧歌的な印象を与える。標高3900m の村なのだということを忘れてしまいそうだ。


パンボチェ村の畑とアマ・ダブラム                            パンボチェ付近からのアマ・ダブラム
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 ナムチェを過ぎてから見え出したクーンブ山群 (エヴェレストやその周辺の山群) 屈指の名峰アマ・ダブラム (6812m) は進むにつれてその山容を変えるが、パンボチェでは既に北側に抜けたことになる。この辺りからの姿が “母の首飾り” という意味のその名のイメージに最も近いように思われる。遠景の写真を見る限りでは随分遠いような印象を持たれるかもしれないが、実際の見た目では105mm の望遠で撮ったアップに近い。山頂までの地図上の平面直線距離で6km余り、標高差は3000m 近くにもなるのだ。


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                                     ポルツェ方面への山肌とドゥド・コシ(タンボチェから)


 尚、このパンポチェ村の背後 (進行方向左手) はタウツェやその奥のチョラツェ (6440m) へと続く稜線なのだが、歩いて来たイムジャ・コーラから離れて山塊の南側の山腹を右巻きにトラバースすれば、棚地のポルツェ村を経てドゥド・コシ流域に出る。僕の場合、この路はゴーキョ方面に向かうために、この10日後に歩くことになる。上の写真はタンボチェから撮ったものだが、右下がタウツェから下る山肌でこの斜面をポルツェ方面にトラバースする。正面の谷はドゥド・コシで、対岸にはゴーキョに伸びるトレイルが見える。右の山がゴーキョに向かう途中のマッチェルモ村の谷の奥に見えるキャジョ・リ (6186m)、左の峰は聖山と崇められるクンビラ (5761m)。ナムチェ・バザールの裏山だ。


ツロ付近からイムジャ・コーラを振り返る                           ディンボチェへの登りとローツェ
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 さて、タンボチェの高さへの順応さえ充分ならパンボチェを過ぎても比較的楽に歩けてしまうかもしれない。この日の目的地までは後2時間半から3時間ほど。ただしこの後は4000m の領域に入って行く訳だから、無理や体力任せの歩行は慎むべきだろう。やがてツロという所で左からイムジャ・コーラにチョラ・コーラが合流してくる。チョラ・コーラの上流は真っ直ぐ北に伸びていて、診療所のあるペリチェ村を通り過ぎて遡ればエヴェレストの最高の展望台であるカラ・パタールエヴェレスト・ベースキャンプに到る。一方、イムジャ・コーラはこの先ディンボチェから西に方向を変え、巨大な屏風のようなローツェ (8516m) 南壁と翼を広げたようなアマ・ダブラム北壁に挟まれたアブレーション・バレーを遡り、イムジャ氷河湖に到る。振り返ればタンボチェに覆い被さるように聳えていたタムセルク (6623m) やカンテガ (6779m) は遥か霞の向こうだ。


姿を変えるアマ・ダブラム(ツロの手前から)               タウツェが奇峰を現す(ディンボチェへの登りから)
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 ツロからチョラ・コーラを渡りガレ場を200m登り切ると、一旦視界から消えていたローツェ南壁が行く手を塞ぐように聳え立つ。だがここでは近過ぎてその向こう側のエヴェレストは見えない。振り返ればチョラ・コーラ対岸にタウツェとチョラツェが独特な威容で圧し掛かってくる。標高4350m のディンボチェは本来夏場のカルカだったのだろうが、今では幾軒かのロッジが建ち、風除けの石垣で区切られたジャガイモ畑が広がる。村の南 (進行方向右手) にイムジャ・コーラが流れ、その向こうにはアマ・ダブラムの切り立った稜線が迫っている。


すっかり姿を変えたアマ・ダブラム                  タウツェ(右)とチョラツェ(ディンボチェ裏の段丘から)
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 裏手 (北側) の稜線に登ると向こう側にはチョラ・コーラ沿いの段丘が広がっていて、放牧されたヤクの姿を見ることができる。広い谷底に広がるペリチェ村 (4240m)までは150mほどの標高差で、もちろん対岸は一気にタウツェとチョラツェまでせり上がっている。平坦な段丘地を谷の奥に進めば、突き当たりでペリチェからの道と合流する筈だ。一方、振り返って見下ろせばディンボチェの村を俯瞰できるが、左手方向に伸びるイムジャ・コーラの奥にイムジャ・ツェ (アイランド・ピーク : 6160m) の三角錐が見える。氷河湖はその直ぐ右麓の筈だ。更にその奥はチョー・ポル (6711m) から バルンツェ (7129m) へ到る稜線が行く手を塞いでいる。アマ・ダブラムとローツェに挟まれたこの谷は袋小路なのだ。息苦しさに逆らわないように深呼吸を繰り返しながらゆっくりゆっくりと稜線上を2・3百メートルも登れば、素晴らしいことにバルンツェの向こう側遠くマカルー (8463m) の美しい山頂を臨むことができるだろう。ローツェに次いで世界で5番目に高い山だ。


ディンボチェ村と行く手のイムジャ・コーラ                              マカルー遠望(中央左奥)
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 ディンボチェからイムジャ・ツェB.C.(アイランド・ピークB.C.; パレシャヤ・ギャブ) やイムジャ氷河湖へは、この先のチュクンからの往復になる。チュクンまでは3時間弱ほどでしかないのだが、標高差は400mほどある。前に停滞日を設けたナムチェからまだ2日しか歩いていないのだが、高度順応の為にはこの村で連泊するするのが普通だ。エヴェレスト・ベースキャンプやカラ・パタールへの拠点であるゴラクシェプ方面に向かう場合にも、ペリチェで連泊するかペリチェで1泊、ディンポチェに登って更に1泊という行程だろう。


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                                                     ディンボチェからのローツェ
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by meiguanxi | 2009-03-06 19:30 | ヒマラヤ・チベット
タンボチェ (エヴェレスト・トレッキング) : 大きなゴンパと或る山屋の青年
[ エヴェレスト方面略地図 ] [ 日程表 ]
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                                          アマ・ダブラム (ナムチェ先のトレイルから)


 馬蹄形をしたナムチェ・バザールの村から右側の山肌を登って尾根に出ると、一気に展望が開ける。深いドゥド・コシ渓谷の対岸正面にタムセルク (6623m) が迫り、右手にはクスム・カン (6367m) が白く輝く。振り返ればヌプラ (5885m) とコンデ・リ (6011m) の威容だ。ここから比較平坦な山腹道を進む。右手はドゥド・コシの断崖だ。左に巻き込むように歩くと、大きなマニ石の向こうに待望のアマ・ダブラム (6812m) が美しい姿を現す。クーンブ山群を象徴するその神々しい山容に見とれながら尚も左に巻くと、それは唐突に左の視界に入ってくる。エヴェレスト (8848m) だ。ローツェ (8516m) の屏風のような壁の上に、イエロー・バンドから上の山頂部だけを覗かせている。それにしてもローツェのピークからヌプツェ (7855m) へと続くローツェ南壁の巨大さは圧巻だ。更に左手の前衛峰の向こうにはタウツェ (6501m) も顔を出している。このタウツェという山はこの先を進むにつれどんどん山容を変化させ、今は奥に見えない隣のチョラツェ (6440m) とともに独特な威容を見せてくれる筈だ。


ヌプラとコンデ・リ                                     タウツェからアマ・ダブラムまでの景観
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                     アマ・ダブラム (右) とローツェ南壁から覗くエヴェレスト
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 この先路は谷へと下り、トレイル上に土産物屋の露天が並ぶサナサで二股に分かれる。左に進めばドゥド・コシ沿いにタウツェの西 (左手) を抜けて、エヴェレストの遠望と美しいポカリ (湖の意) で有名なゴーキョ・ピークへ到る。一方、右は支流のイムジャ・コーラで、アマ・ダブラムを通り過ぎ翌日到着するディンボチェの集落から東に進行方向を変え、ローツェ南壁直下を谷の行き詰まりであるイムジャ・ツェ (アイランド・ピーク)・ベースキャンプ (別名 パレシャヤ・ギャブ) まで続く。決壊が危惧される有名なイムジャ氷河湖のある場所だ。更にディンボチェの下のペリチェ村から反対にローツェ南壁の左端であるヌプツェを回り込むように進めば、エヴェレストの最高の展望台であるカラ・パタールベースキャンプだ。


谷に下るトレイル                                         タウツェを背景にしたポルツェ村
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 サナサの先でドゥド・コシを左岸 (進行方向右) に渡るとプンギ・テンガの集落。ドゥド・コシはこの直ぐ先でイムジャ・コーラを分ける。2つの谷に挟まれた山肌の棚地に、タウツェを背景にしたポルツェ村が見える。この村には後に、イムジャ・コーラ流域からドゥド・コシ流域にトラバースする時に宿泊することになる。さて、プンギ・テンガから標高差600mの厳しい急勾配を登りきればタンボチェだ。


アマ・ダブラムとタンボチェ・ゴンパ                                             カンテガ
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 登り切ると広場に成っていてそこが村のほぼ全てなのだが、標高3867mの丘の上にあるタンボチェはエヴェレストの遠望地として知られ、ここを目的としてトレッキングする人も多い。村の背後にはタムセルク (6623m) とカンテガ (6779m) の岩塊が圧し掛かるように迫っている。この村から見るカンテガはあまりに美しい。集落自体は非常に小さなものだが、大きなゴンパ (チベット仏教僧院) があることで有名だ。古い本の表紙にこのゴンパの写真が使われていたのを見たことがある。背景に迫るアマ・ダブラムの迫力に圧倒されて憧憬れていたのだが、1934年に再建されたその建物は89年に消失してしまった。1999年に僕が見ることができたのは95年に再建されたものだ。尚、この村の名称に関しては “タンポチェ” という記載も見掛ける。“bo” と “po” の違いだが、この手の英語表記の違いはチベット関係では良くあることで、おそらくどちらかが間違っているという訳ではないのだろう。


薪を運ぶ小坊主                                                     勤行する僧侶
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 ナムチェからタンボチェまで僕の場合で4時間10分、宿で昼食を取った後に広場で山の景色を眺めていると、僕より幾つか若い青年を伴った一組の高齢な夫婦が登ってきた。50歳代から60歳というところだろうか。聞けばこの登りだけで4時間掛かったという。ガイドブックやトレッキング案内書では概ねナムチェから5時間から5時間半でそのうちこの登りに2時間半とあるが、日本での日常の生活からやって来たその年代の普通の人達には、その位の時間が掛かってもおかしくはないきつい登りなのだ。
 その夜、ロッジで食事をしながら彼らと話をすることになったのだが、夫婦はこの前の年にエヴェレスト登山での遭難で息子を亡くしたのだそうだ。青年は息子の山仲間で、どうしてもエヴェレストを見たいと言う夫婦を心配して同行したのだった。僕は彼と話しながら、視線の置き場所に少し戸惑っていた。彼の両手の何本かの指は失われていて、鼻の一部も欠けていたからだ。聞けばカンチェンジュンガ (8586m : 世界第3位峰) に登頂した時に凍傷でやられたのだという。しかし、そんな話をする彼はとても穏やかで謙虚な青年だった。


タンボチェ背後の斜面からのエヴェレスト山群                 夕景のタンボチェ(背後の斜面から俯瞰)
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 翌2000年、テレビ朝日で俳優の西田敏行氏が南米最高峰であるアンデス山脈のアコンカグア (6962m) に挑戦するという番組があった。登頂は果たされなったのだが、そのサポート・チームの一員に見覚えのある顔があった。タンボチェで会った青年だ。彼はプロだったのだ。奥田仁一 (まさかず)、調べてみると彼がカンチに登頂したのはタンポチェで会った実に前年で、帰路ビバークになり5名のうち2名が遭難、鼻と手の指の他に足の指も何本か失っている。前の年にそんなことがあったというのに、翌年には友人の両親のトレッキングをサポートしているということに、僕は驚いた。僕にとってはエヴェレスト・トレッキングだって一大事だったのだから。だが彼はそれに留まらず同じ年、チョー・オユー (8201m) に登頂したり
シシャパンマ (8046m) に挑戦したりしている。なんという人だ。僕は知りもしないでとんでもない人と話しをしていたのだ。僕には山屋という人種の気持ちは分からないが、とにかくその精神力は想像を絶する。彼も今では既に40代前半だろう。今も元気でヒマラヤに通っているのだろうか。


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                                         ゴンパから見たカンテガ (左) とタムセルク
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by meiguanxi | 2009-02-27 19:34 | ヒマラヤ・チベット
ナムチェ・バザール (ネパール) : エヴェレスト・トレッキングの拠点
[ エヴェレスト方面略地図 ] [ 日程表 ]
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                                                              土曜定期市


 ドゥド・コシ (コシは川の意) の渓谷を登って来るとクンビラ (5761m) の山塊にぶつかり、上流は二股に分かれる。北東に向かうのがエヴェレスト方面に到るドゥド・コシ本流、北西に向かうのがターメを通って北上しチベット本土との交易路であるナンパ・ラ (ラは峠の意) へ到るボテ・コシ。正面のクンビラへの断崖を九十九折に標高差600m 登り切ると、そこがナムチェ・バザールだ。背後にはクンビラへの断崖が迫り、左右に聳える稜線は村を挟み込むようにしてそれぞれドゥド・コシとボテ・コシに迫り出している。標高3440m のナムチェは三方を山肌に囲まれたすり鉢状の棚地で、ボテ・コシに面した断崖だけが開けている。断崖の向こうには歩いて来た巨大なドゥド・コシの渓谷が真っ直ぐ伸びていて、左岸に聳えるクスム・カン (6367m) が印象的だ。


ナムチェを俯瞰する                                   ナムチェからドゥド・コシ下流を振り返る
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 小さな空港のあるルクラから歩いて2日、首都カトマンドゥからの自動車道路の終点であるジリからなら8日程の行程になる。この標高での600m 一気の登りはかなり辛いが、登り切れば食料品店や雑貨店、ロッジやレストラン、山用品店や土産物屋、喫茶店にケーキ屋まで立ち並ぶ町並みが迎えてくれる。小さな村だが外国人トレッカーや登山客で賑わう様は、これまで険しい峠や電気も無いような小さな村々を何日も歩いて来た目には、賑やかと言うよりむしろ華やかにさえ映る。僕が訪れたのは1999年早春だが、今ならインターネットも使えるようになっているのかもしれない。下から登ってきたトレッカー達は、例えルクラから2日しか歩いていないとしても、この村で連泊して高度順応するのが一般的だ。


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                                          ナムチェ・ゴンパ(背景はヌプラとコンデ・リ)


 毎週土曜日の午前中には傾斜地でハートと呼ばれる定期市が開かれ、沢山の人々でごった返す。周辺のシェルパ族たちにとっては生活物資を入手するために欠くことのできない市だ。売り手は低地から来たインド・ネパール系、国境を越えて来たチベット人と様々で、荒地の斜面いっぱいに広がった人々と溢れる色彩はまさにインドとチベットを繋ぐ交易の中心地としてのバザールの名躍如といった光景だ。実は僕がハートを見たのはこの後半月以上のトレッキングの後なのだが、写真に写った精悍な顔立ちをした男をこの翌日、ナムチェから3時間程のターメ村で再度見掛けることになる。彼は畑にテントを張っているところで、聞けばナンパ・ラを越えてチベットに帰る途中だと言う。標高5700m を上回る峠まで彼の足でも2・3日は掛るだろう。そこを越えて彼の村までは何日なのだろう。その間を、商品をテント・食料・燃料などと一緒に運んで来るのだ。帰路も売った金で買ったものを逆に持ち帰るのだろう。なかなか厳しい生活だ。因みにこのナンパ・ラは、2006年秋、越境亡命しようとした無抵抗のチベット人グループ70人に対して中国人民解放軍が発砲し少なくとも7名程が犠牲になったという映像が、外国の登山隊によって撮影された場所でもある。


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                             ハート (土曜定期市)

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 三方を山肌に囲まれたナムチェからの展望は南側だけで、深いボテ・コシの渓谷対岸に聳えるヌプラ (5885m) とコンデ・リ (6011m) の白い峰はナムチェを象徴する景観だ。ルクラで見た姿とは全く山容を異にしている。確かに反対側に来たのだ。民家は三方の斜面に広がっているから、郵便局に行くのもちょっとしたトレッキングのようだ。谷に向かって右側の稜線を登るとナムチェ・ゴンパがあり、その脇の細い路を北西に辿ればターメに到る。ゴンパから更に少し歩けばコンデ・リの先にテン・カン・ポチェ (6500m) まで見渡すことができる。


クスムカン                                                           タムセルク
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 北側の展望を臨むためにはこの反対側の稜線を登る。エヴェレスト方面へのルートだ。登り切ればドゥド・コシ対岸正面にタムセルク (6623m) が迫り、振り返れば馬蹄形のナムチェの村を俯瞰できる。少し先まで進めば、いよいよアマ・ダブラム (6812m) が姿を現す。クーンブ・ヒマールを象徴する名峰として名高いその姿の美しさには、まさに息を飲む思いだ。この先、路はエヴェレストの展望で有名なカラ・パタールエヴェレスト・ベースキャンプへの路と、優雅なチョー・オユー (8201m) とギャチュン・カン (7922m) の威容、そして美しい湖が印象的なゴーキョへの路とに分かれる。目指すエヴェレストの姿を目にするまでは、もうほんの一息だ (こちら)。


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                                               アマ・ダブラムとトレイル脇のマニ石
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by meiguanxi | 2009-02-20 23:39 | ヒマラヤ・チベット
ルクラからナムチェ・バザールへ : エヴェレスト・トレッキングの序章
[ エヴェレスト方面略地図 ] [ 日程表 ]
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                                                      ドゥド・コシを渡る吊り橋


第1日目 9:10 Lukla ⇒ 13:50 Monjo (2840m)
第2日目 8:15 Monjo ⇒ 10:45 Namche Bazar (3440m)


 首都カトマンドゥから小型飛行機やヘリコプタで飛んだ場合、トレッキンのスタートはルクラになる。エヴェレスト方面への拠点となるナムチェ・バザールまでは2日の行程だ。ルクラ村の700m下の谷底にはドゥド・コシ (ドゥド川) が流れていて、上流は真っ直ぐ北に遡って大きな山塊に突き当たる。クンビラ (5761m) だ。目指すナムチェはこれを登る途中の棚地にある。
 ドゥド・コシの対岸上流奥にヌプラ (5885m) を見ながらルクラを歩き始める。この山をコンデ・リ (6011m) とする表記も見かけるが、あながち間違いではない。実は大きな一つの山の2つのピークがコンデ・リとヌプラで、ルクラからはこれらがほぼ重なって三角錐に見えるのだが、良く見ると右側に少しコンデ・リのピークが覗いている。
 空路ではなく、カトマンドゥからバスで10時間ほどのジリから陸路を歩いて来ると (参照)、6日目の終盤は沢の流れ落ちるスルケという集落からルクラまで500mのきつい登りになる。僕はルクラに立ち寄ったのだが、本来は谷のもっと下を歩いてスルーするのが本道だ。ルクラから歩き始めると緩い下りになり、140mほど下ったチョプルンという所で下流からの本道に合流する。ドゥド・コシ左岸 (進行方向右側) を進むと右手から谷が合流し、その奥にクスム・カン (6367m) を臨むことができる。
 初日の宿泊地にするトレッカーも多いパクディンマの村まで2時間ほど。だが遅い時間に歩き始めたのでなければ、長い吊り橋を対岸に渡って先に進みたい。このコースには目も眩めば足も竦む高く長い吊り橋が多い。やがて対岸にタムセルク (6623m) が見えてくる。左岸に渡り返せばチュモア、更に沢を越えて少し登ればモンジョ。ここまでルクラから3時間半から5時間ほどか。


チュモアにて
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                     マニ車を回す老婆
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 僕が宿泊したモンジョの宿は沢脇の傾斜した路にあり、まだ建設中だった。沢にせり出して建てられているので、柱に支えられた建物が宙に浮いた構造になっている。その建物の下に小屋があり、まあ、地下室と呼べば呼べなくもないのだが、ここがシャワーになっていて上のキッチンから水槽に溜められたお湯が流れる仕組みだ。もちろん鉄砲水だし湯量は少ないので寒いのだが、こんな場所でシャワーが使えるだけ有り難い。
 モンジョの村を散策しているとラマ (チベット仏教の僧侶) に声を掛けられる。言葉は通じないのだが、半ば強引に一軒の大きな民家に連れて行かれる。そこには沢山の村人達が集まっていて、なにやら法要のようなものが行われていた。チベット人の民家には立派な仏間や仏壇があるのが普通だが、もしかするとあれは村のゴンパ (チベット仏教の僧院) だったのだろうか。いずれにしても訳の分からないまま僕はそこでツァンパ (チベット人の主食で麦焦がしのような物) とバター茶、そしてチャン (大麦のどぶろく) をしこたま振舞われたのだった。酸味がありアルコール度数が低いこのチャンという飲み物は、ビール呑みである僕にとってはヒマラヤに於ける宝の水だ。


チュモア付近                                                ジョルサレ付近の吊り橋
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 谷は相変わらず深く険しいのだが、この辺りまで来るとドゥド・コシの流れはかなり小さくなる。モンジョを出て対岸に渡って少し登ると森林の中にジョルサレのチェック・ポスト。小さな小屋だがここがサガルマータ国立公園 (サガルマータはエヴェレストのネパール名) の事務所で、トレッキング・パーミットのチェックを受け入園料を支払うことになっている。僕の訪れた1999年には600ルピーだったが、今は1000ルピー位らしく、トレッキング・パーミットは必要なくなったらしい。


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                        木陰から覗くローツェ南壁とエヴェレスト
ヌプラ(左)とコンデリ                                                       ヌプラ
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 森林の中のアップ・ダウンの多い路を進むと、やがてドゥド・コシの谷はクンビラに到る山塊にぶつかり、左右に分かれる。右は北東のエヴェレスト方面へ伸びるドゥド・コシ本流、左は北西にターメを通ってチベットとの峠であるナンパ・ラ (ラは峠の意) へと続くボテ・コシだ。ナムチェへは正面の急峻な壁面を600mの登りだ。休憩する場所の無い標高差600mの九十九折は厳しい。いい加減にしてくれと言いたくなったころ、右手の松の間から初めてエヴェレスト山塊が見える。写真では背景が雲で分かり辛いのだが、巨大なローツェ (8516m) 南壁の上にエヴェレスト (8848m) のピークが僅かに覗いている。やがて視界が開けると右手背後にクスムカン、左手ボテ・コシ対岸にルクラで見た綺麗な三角錐とは全く山容を異にしたコンデ・リとヌプラが大きく迫ってくればナムチェ・バザールはもう直ぐそこだ。


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                                                               クスムカン
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by meiguanxi | 2009-02-17 19:42 | ヒマラヤ・チベット
ルクラ (ネパール) : エヴェレスト山群の入り口
[ エヴェレスト方面略地図 ] [ 日程表 ]
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                                                  ヌプラを背景にしたルクラ空港


 ルクラはエヴェレストを含むクーンブ山群に向かう多くの人にとって入り口となる村だ。登山パーティにしろトレッカーにしろ、首都カトマンドゥから空路でエヴェレスト方面を目指す人々はこの村の空港に降り立つことになる。小型飛行機やヘリコプタで40分ほど。ヌプラ (5885m) がその美しい姿で迎えてくれる。陸路の場合にはカトマンドゥからお世辞にも立派とは言い難いバスで10時間前後のジリという村から歩くこと6日程度 (トレッキングの様子はこちら)。


ルクラの町並み                                                        宿の厨房
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 村はドゥド・コシ (コシは川の意) が流れる大きな谷の断崖の上の棚地に造られている。メイン・ストリートの両側に集落が並ぶだけの小さな村だが、ロッジやレストラン、土産物屋や山用品店などには不自由しない。ポーターを必要とするトレッカーはカトマンドゥの旅行代理店で雇うか、或いはここで雇うことになる。因みに僕の場合、カトマンドゥから一緒だったポーターとはここで別れ、新たに雇った別のポーターとこの先を目指した。ちなみに料金はここまでが1日8ドルとポーターの帰路用飛行機代1500ルピー (当時、1ルピーが1.7円位)。ただしこの航空運賃はローカル・プライスで、我々が乗る場合には83ドル。ネパーリーの彼が僕の為に見付けて来てくれたシェルパのポーターは1日6ドルだった。もちろん多くのトレッカーがポーター無しで歩いているし、ここから先は迷うようなコースでもない。ただ、季節やその年の状態にもよるだろうがゴラクシェプからエヴェレスト・ベースキャンプへの道は氷河上を歩くこともあるので、山岳経験の無い素人が単独で歩くことは必ずしも安全とは言えない。実際、僕がルクラで会った別々に来た日本人青年2人は、2人とも途中で諦めて引き返したそうだ。


子供達
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 ルクラの標高に関しては色々な記載があるが、これは村の何処の標高を採用しているかの違いだ。一番奥の山側に空港入り口があるのだが、滑走路はここから谷側に伸びていて、飛行機はその端から断崖に飛び出すようになっている。空港建物の位置で2840m位、断崖手前の滑走路の端ではおそらく2780mを切る。水平ではないのだ。誇張して言えばスキーのジャンプ台みたいなものだ。谷底の標高は2100m余りしかないので、標高差は実に700mにもなる。下流の村からルクラを目指して断崖に付けられた路を歩いている時に見たのだが、飛行機はその路の遥か下を飛んでいた。さて、谷に向かって斜めになった未舗装の滑走路をガタガタと走って飛び出した飛行機は、見送りの人々の視界から一瞬消える。飛び出した瞬間に一旦谷に吸い込まれるように高度を落とすのだ。つまり離陸するまえに谷に飛び出すというわけだ。しかもすぐ目の前には対岸の山が壁のように迫っている。それをかわすために上昇すると同時に大きく左に旋回する。見ているだけでも恐ろしい。2001年、大規模な改修工事が行われて漸く舗装されたようだが、多分、滑走路が長くなったわけではないだろうと思う。長くしようがないのだ。


帰路に乗ったヘリコプタ (左はヌンブル:6957m)                  ルクラ空港のチェックイン・カウンタ
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 3週間後、ここから飛行機に乗らなければならないことが憂鬱で仕方がなかったのだが、トレッキングを終えて戻って来てみるとロイヤル・ネパール航空 (2006年、“ロイヤル”は削除された) がストライキをやっていて、ルクラは足止めをくった旅行者達でごった返していた。食事をしに入ったある飯屋の親爺がヘリコプタの話を持ってくる。チャーター機の帰り便のパッセンジャーを探しているというのだ。僕は持っていたチケットをキャンセルすることにして喜んで飛びついた。足止めをくうこともなく、しかもあの飛行機に乗らなくて良いのだ。パイロットと助手席に地元の婦人、後部座席にトレッカー4人が肩をずらしながら詰め込まれるという小さなヘリだった。なにしろ沢山の人が順番待ちをしている状況なので、料金はオーストリア人2が各90ドル、たまたま同乗した日本人青年はドルと日本円で100ドル分支払ったらしい。さすが欧米人はしぶといと言うべきか。彼には言えなかったのだが、実は僕が払ったのは正規料金の83ドルだった。
 ルクラはドゥド・コシの左岸にある。谷に向かって右側が上流だ。トレッキングの拠点となるナムチェ・バザールまでは地図上の直線距離で15kmにも満たないし、歩き通すなら7時間程度でしかないのだが、高度順応の為に2日の行程になる。
                                                (ナムチェ・バザールまでの様子はこちら


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                                  ルクラ空港の滑走路 (この後 2001年に舗装改修された)
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by meiguanxi | 2009-02-14 18:14 | ヒマラヤ・チベット
ラムジュラ・バンジャンを越えて : エヴェレスト街道#2 (セテ~ルクラ)
[ エヴェレスト方面略地図 ] [ 日程表 ]
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                                                ラムジュラ・バンジャン(登りから)

前回の続き)

1999年2月25日 ~ 2月27日
第3日目 8:00 Sete ⇒ 15:50 Junbesi (2675m)
第4日目 8:20 Junbesi ⇒ 15:40 Manidingma(Nuntala)(2194m)
第5日目 8:00 Manidingma ⇒ 14:00 Buksa (2320m)
第6日目 8:00 Buksa ⇒ 15:10 Lukla (2804m)


シャクナゲの森を登り切った尾根上のバッティ                 山の食事はダル・バート(地元の人夫達)
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途中の村の子供達                                 下りからラムジュラ・バンジャンを振り返る
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 ジリから歩き始めて3日目、セテの村を出ると路はシャクナゲの森をさっそく登り始める。尾根に出たところにバッティ (茶屋兼簡易宿泊所) があり、ここで一息して尾根路を進む。やがてこの尾根から離れ左巻きにトラバースすると右に急峻な登り。森林を抜け荒涼とした風景の中をひたすら上り詰めると、ナムチェ・バザールまでのコースでは標高点である標高3530m のラムジュラ・バンジャンという峠。峠の上には無数の祈りの旗タルチョがはためいていて、チベット文化圏であることを実感する。ちなみに “ラ” はこのブログのお馴染みさんならご存知の通りチベット語 (ここではその支族のシェルパ語) で峠の意味。“パンジャン” は・・・そう、ご想像の通りネパール語で峠。なのでこれを “ラムムラ・バンジャン峠” と表記してしまうと大変な重複表現になってしまうのだが、“ラムジュ峠” では認識度があまりに低いので困ってしまう。


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                                ラムジュラ・バンジャンへの登りで擦違った馬のキャラバン


 ここを左側に回り込むように下ると、ジュンベシというシェルパ族の村。このコース最大のゴンパがある民家が50戸ほどの大きな村なので、ルクラまでの間に停滞日を設けるならここが良いだろう。ゴンパに寄ってみると子供達に捕まる。僧侶に頼まれて暫し英語の授業になってしまう。ネパール語が分からない僕の授業を一生懸命に聞くのだから、こういう地域の子供達の語学に関する積極性は凄いものだ。蛇足ながら、僕は人に教えられるほどの英語力は持っていないのだが・・・
 この日の宿は50ルピー(この当時で1ルピーが1.7円程度)。概してネパール・トレッキングに於ける宿代は安い。ただし飲食費には外国人料金が設定されていて高い。ジリで35ルピーだった ダル・バート・タルカリ (白米、豆のスープ、カレー風味のじゃが芋や菜っ葉が一口、ピクルス程度の定食) がこの辺りで80ルピー、フライド・ライスで100ルピー。この先ではフライド・ライスは150ルピー位まで高くなる。これは公式に決められた料金なので、ぼるとか値切るとかいう類のものではない。


ジュンベシのゴンパ                                                  洗物をする少女
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 さて宿代だが、安いとはいえ10ルピーだった日もあるのだから、決してこの地域としては安いわけではない。ナムチェ・バザールのそれなりに綺麗な宿と同じくらいだ。確かに非常に綺麗な宿で、ダイニング兼リビングの居心地も良かった。何故か 『季刊民族学』 という日本の雑誌が一冊あったので開いてみると、ジュンベシの特集記事が載っていた。
 記事はその宿の親爺に寄り添って書かれたもので、学校教育制度とトレッキングによって伝統が変貌していく様を取材したものだった。そんなことから彼の身の上話を聞くことになったのだが、幼少の頃に父を亡くし、続いて母が駆け落ちをしてしまったという。青年になった彼は恋をした女性を追ってカトマンドゥに行き、その後、キッチン・ボーイから初めてトレッキング・ガイドになり、貯めた金でこのゲスト・ハウスを建てて成功した。こんな山奥の自動車道路も電気も通っていない村の話としては、なかなかハードな人生だ。しかしそんな話をする彼の枯れた顔は、穏やかな微笑に包まれていた。


タクシンドゥ・ラ                                             マニディンマからのヒマール
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 脱線してしまった。先を急ごう。4日目は一旦谷に降りてから3071m のタクシンドゥ・ラという峠を越え、2194m のマニディンマまで下る。本当にアップ・ダウンのきついコースなのだ。ここで漸く行く手にドゥド・コシの渓谷とヒマラヤの高嶺が見える。深く巨大な渓谷だ。5日目にドゥド・コシを吊橋で対岸へ渡るのだが、川の標高は1600m 余り、登り返すブクサの村は2320m だ。ひたすら東を目指した路は、ここから大渓谷の山腹を北に向かうことになる。断崖に付けられた危うい路だ。6日目のことになるが、ルクラに向かう山腹路で飛行機の音を聞いたので見上げるが見付からない。どうも平衡感覚が少しおかしい。飛行機は歩いている山腹路の遥か数百メートル下を飛んでいたのだ。なんという渓谷だ。


ブクサ村にて                                                     魚を捕まえる女性
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by meiguanxi | 2009-02-12 21:46 | ヒマラヤ・チベット
エヴェレスト街道トレッキング#1 (ジリ~セテ)
[ エヴェレスト方面略地図 ] [ 日程表 ]
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                                                    ジリの先で出会った子供達


 エヴェレスト (エベレスト) 街道と言えば一般的には飛行場のあるルクラからトレッキングの拠点となるナムチェ・バザールを経てカラパタールベース・キャンプゴーキョ・ピークなどを目指すトレッキング・コースを指すのだろうが、僕は自動車道路の終点であるジリからルクラまでを指してそう呼ぶことにしている。へそ曲がりなのだ。
 僕がこの地域を歩いたのは1999年2月23日から4週間ほどなのだが、その時には確かにトレッキング・パーミットという許可証が必要で、カトマンドゥ のイミグレーション・オフィスで長蛇の列に並んで取得したものだ。しかも前年までは旅行者街であるタメル地区にあったオフィスが、この年には郊外に引っ越していて、午前中に申請、午後にまた受け取りの為にリクシャーで出向かなければならなかった。このパーミットに関してはその年の夏には不要になり、更に2年後には復活。また無くなったと思っていたら数年前には認可された現地の旅行代理店で公式のガイドを雇わなければならなくなったとか、結局は機能していないとか色々と聞くのだが、実際のところを知らないので確かなことは分からない。とにかく僕の時には日程とコースとを申請して20ドルほどの料金を払ったのだ。尚、エヴェレスト方面へのトレッキングでは、ルクラの先、ナムチェ・バザールの手前のジョルザレというところのチェック・ポストで、サガルマータ (エヴェレストのネパール名) 国立公園への入域料として650ルピー(当時で1100円位)を支払う。今は1000ルピーくらいするらしい。
 ジリの村外れで自動車道路が途切れる所からコースに入っていくと、いきなり世界は変わる。ここから先、下界との交渉は徒歩と馬やロバが運ぶ物品だけだ。ロッジにシャワーは無いのが普通で、洗面器一杯のお湯で顔と手足を洗い、ついでに靴下も洗うなんてこともある。路は雨季に雨水が流れ落ちて削られた跡にも見えるような細く危う場所も多く、ひたすらうねうねと登り下りしている。西に向かうこのコースでは、エヴェレスト方面から南下するドゥド・コシの大渓谷に出会うまでの5日間、ヒマラヤの展望は臨めない。長く険しくきつい行程だが、時折出会う小さな集落で迎えてくれる子供達の笑顔が疲れた身体と心を癒してくれる。


1999年2月23日 ~ 2月24日
第1日目 8:00 Jiri (1905m)⇒ 16:20 Bhandar(Chyangma)(2195m)
第2日目 8:00 Bhandar ⇒ 15:00 Sete (2575m)



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(左) 第1日目、シバラヤ (1767m) からデオラリ (2740m)への登りから見下ろすキムティ・コーラの流れ
(右) 切り株に座る少女。背景は急峻な棚田


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(左) 1日目の宿泊地バンダル (シェルパ名:チャンマ) のチョルテン。カトマンドゥのボダナートなどと同じ形式
(右) 第2日目、バンダルからの登りで出会った家族とロバのキャラバン


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(左) 途中の村で会った幼児。顔と膝についた蠅も気にせず自家製のパンを食べている。逞しく育つに違いない
(右) 休憩をした途中の村のロッジ


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(左) バンダル (2195m) から一旦登って1634m の谷まで下り、更にセテ (2575m) まで登り返す
(右) 2日目の宿泊地セテの村にて。アルマイトの器を持った幼児

                                                            (第3日目以後に続く)
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by meiguanxi | 2009-02-10 19:16 | ヒマラヤ・チベット
ジリ (ネパール) : エヴェレスト・トレッキングの始点
[ エヴェレスト方面略地図 ] [ 日程表 ]
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                                          メイン・ストリートの突き当りが道路の終点


 ネパールでエヴェレスト (エベレスト;チョモランマ) 方面のトレッキングをする場合、多くの人は首都カトマンドゥからルクラという村まで飛ぶのが通だが、陸路で向かう場合にはジリという村までバスで移動することになる。カトマンドゥからのバスは右側が3席、左が2席のそれぞれベンチシートで、控えめに言っても快適な旅とは程遠い。登り下りの険しい山道を11時間 (今では運が良ければ7時間で着くこともあるらしい)、ジリは未舗装の車道の終点の村だ。


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 ジリの村に入るとそれまでは細く危うかった道が広くなり舗装されている。真っ直ぐ伸びたこの広場のような道路の両側が集落で、宿や食料品店が並ぶ。インド・ネパール方面で言うところのバザールなのだが、それほどの賑わいは無い。この時は2月22日だったのだが、3月に入ればトレッカーで賑わうのだろうか。住民は仏教徒、ヒンドゥー教徒相半ばといったところのようだ。ここから奥、少なくともルクラ手前までの村々への物流はここが基点だ。短いメイン・ストリートが斜面に突き当たった所で道は終わる。そこから先は人と家畜だけが通れる山路が右側に続いている。物品はロバやヤクの背に乗せられて何日も先の村まで届けられるのだろう。



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 ジリの標高は1900mほど。カトマンドゥが1300m余りだから、11時間掛けて600mも登っていないことになる。実はここからのトレッキング行程自体が同じようなもので、登っては下るの繰り返しだ。西に向かうこの路がナムチェ・バザールに続くドゥド・コシの大渓谷に出会うまで5日、最高標高3530mを始めとした幾つもの峠を越えてひたすら歩くことになる。この間、ヒマラヤの景観は臨めない。ルクラまで6日、ナムチェ・バザールまでは停滞日を設けなくとも8日の行程になる。
                                                       (トレッキングの様子はこちら


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                                       バンコックからの機上からのクーンブ・ヒマール
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by meiguanxi | 2009-02-06 23:59 | ヒマラヤ・チベット
バスゴ (ラダック・インド): 断崖の上の伽藍
[ カシミール・ラダック略地図 ]
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                                       街道脇のチョルテンから見上げるラプラン・ラツェ


 インド北西、ジャンムーカシミール州の東側に位置するラダックは今尚チベット文化を色濃く残す地域として有名だが、近年は観光ブームで毎年夏には沢山の外国人旅行者で賑わうようになった。中心の町であるレーでは進む観光開発の中で旧市街が荒廃するという問題も起きている。勿論これはムスリム優勢の州政府の中での仏教徒の町という問題である側面も持つのだが。そういえば2007年夏には、レーのメインバザールの中心に新しいモスクが建設中だった。
 さて、ラダックはヒマラヤ西部のインダス川上流域に広がる地域で、レーの町はインダスから北に10km弱外れた扇状地のようなような場所にある。ここから東をインダス川の上流という意味で上ラダックと呼び、下流を下ラダックという。上流に遡れば道はレー遷都以前の王都として有名なシェイのシェイ・ゴンパ(チベット仏教僧院)、ティクセ・ゴンパの岩山全体を覆い尽くすような伽藍群が壮観な姿、そしてラダックを代表するお祭りであるヘミス・ツェチュで知られるヘミス・ゴンパなど経て、やがて幾つかの5000m級の峠を越えてヒマーチャル・プラデーシュ州のマナーリへ向かう(参照)。一方、下流に下ればラダック・チベット仏教美術の珠玉であるアルチ(アルチ・チョスコル・ゴンパアルチ・トゥジェチェンポ・ゴンパ)、月世界とも例えられる荒涼とした地層の中に建つゴンパの姿が印象的なラマユル(ラマユル・ゴンパセンゲガン)を経て、カシミールのシュリーナガルに到る(参照)。どちらの道も幾つもの危うい峠を越える1泊2日(途中泊)の長いバスの旅だ。
 ところで下ラダック方面ではラマユルやアルチ、それにリキール・ゴンパなどを四輪駆動車を雇って訪れる旅行者が多いようだが、その途中にはおどろおどろしい塑像に圧倒されるチャンバ・ラカンや見事な壁画に埋め尽くされた石窟寺院ニダプク・ゴンパなどが見られるサスポル、アルチと並び賞されるマンギュ・ゴンパなどの素晴らしい見所が点在している。訪れる人は多くないが、バスゴもそんな場所のひとつだ。


バスゴの集落                                                ラプラン・ラツェへの登り
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 レーから西に向かう道は飛行場の脇をインダスに向かって下っていくが、砂曼荼羅で有名なスピトクを過ぎるとやがてインダスを離れ一旦内陸の荒涼とした荒地を走ることになる。レーから36kmのニンム付近で再び川岸に出ると、南からザンスカール川が合流する。この川を遡ればザンスカールへ到る訳だが、現在、この川沿いの自動車道路を建設中だ。数年後、この道が完成した暁にはザンスカールとレーが5時間程で結ばれることになるという。さて、ニンムから6km、大きな岩山をひとつ回りこむとバスゴの集落が現れる。バスゴの先、道は村外れで急峻な丘を登り、再び荒涼とした内陸の棚地に入る。バスゴは岩山の麓にひっそりと佇む小さな集落だ。


チャムチュン・ラカンの壁画
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 実はこの村を訪れた時、僕はザンスカールのトレッキングで右足首を骨折していた(参照)。右足は南瓜のように腫れあがり内出血は曼荼羅のようだったのだが、なんとか辿り着いたザンスカールの中心の町であるパドゥムの診療所にはレントゲンが無かった。僕は物凄い痛みに苛まれながらも、捻挫だという医師の診断を無邪気にも信じていた。不思議なことに骨折である可能性を現実的に意識したのは骨折から2週間後、漸く戻り着いたレーの病院で撮影されたレントゲンが現像されるのを待っている時だった。おそらく、その可能性を僕の脳はある種の防衛機制として無意識裡で排除していたのだろう。そんな訳でザンスカールのカルシャカルシャ・ゴンパチューチグザル・ゴンパ)でカルシャ・グストルという仮面舞踏で有名なお祭りを観て、途中1泊のバスでアルチに寄り2泊、更にサスポルで途中下車して1泊するという足にとっては無謀な旅を続けてしまったのだった。


セルザン・ゴンパのチャンバ像                                     セルザン・ゴンパの天井
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セルザン・ゴンパの壁画
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 アルチからのミニバスはインダスを右岸に渡りサスポルの集落を過ぎると岩山の間を内陸に登って行く。荒涼とした大地を走り続けるバスが再び緑を見るのは20km先、道が突然断崖の上に差し掛かった時だ。その下に見える集落がバスゴだ。しかし集落を進めど停まる様子の無いバス。そう言えば乗車の時に料金で揉めたのだ。大喧嘩と言っても良いほど揉めたのだが、結局はうんざりした僕が諦めたていた。僕は集落も外れに差し掛かる頃、慌ててバスを停めさせた。行き先を告げた僕の発音がどうも彼には通じていなかったようなのだ。或いは外国人はレーに行くと決めて掛かっていたのかもしれない。リーフからザックを降ろしてくれた車掌は、彼が余分に受け取ってしまった料金を払い戻してくれる。
 降りたは良いのだが、どっちに歩いたものかも分からない。なにしろいきなり停めさせたのだから。幸い、向かうべきゴンパは見えた。バスを降りた道の脇には高い断崖が聳えている。その上に目指すべきものは見えた。やれやれ、この足で、またこんな所を登らなければならない。道の向かいに立派な家屋がある。この辺りの家屋としてはいささか立派過ぎる感すらある。看板は無いが、訪ねてみるとやはりゲストハウスだった。


チャンバ・ラカンの堂内
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 集落の背後に聳えるラプラン・ラツェと呼ばれる断崖の丘は嘗ての湖沼堆積物だという。丘の上には3つのお堂と城址がある。危うい参道を登りつくと最初に迎えてくれるのはチャムチュン・ラカンという3m四方程の小さなお堂。収められたチャンバ像(弥勒菩薩)を囲む壁面は一寸の空きも無く壁画で埋め尽くされている。小さいながらその内部に身を置いて見るその光景は圧巻だ。
 その先に建つのが普段の勤行の場でもあるセルザン・ゴンパ。といってもラプラン・ラツェには2人しか常住する僧侶はいないのだが。暗い内部は長年に渡って灯された灯明で黒く煤けている。正面には巨大なチャンバ像、天井には板絵だろうか、色鮮やかな装飾があるのだが、暗いためにはっきりとは分からない。
 この隣に15世紀の城址であるラブラン・ラツェ・カルが建っているが、今は廃墟だ。農民たちによって修復作業が進められていたので、いずれは再建されるのかもしれない。ここから最奥のお堂であるチャンバ・ラカンへはこの下を通るトンネルを潜ることになる。名前の通りここもチャンバ像を祭ったお堂だが、高さは10mほどもある大仏だ。広い堂内は壁面も柱も全て鮮やかな壁画で彩られている。
 断崖の上からはバスゴの小さい集落から遠くニンムまで続いている緑の耕作地を見渡せる。振り返ればサスポルから続いていた荒涼とした高台だ。


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                                              ラプラン・ラツェ・カルとバスゴの風景
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by meiguanxi | 2008-02-19 21:24 | ヒマラヤ・チベット