カテゴリ:インド・パキスタン( 12 )
シャンドゥール峠 (パキスタン): 桃源郷の渓谷と天空の湖を越えて
[ 北部パキスタン略図 ]
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                                                           シャンドゥール峠

 僕が比較的 「沈没」 しないタイプの旅行であるのは、3ヶ月なら3ヶ月で帰国して職場に復帰するという環境のもとで旅を始めたことと関係がある。3ヶ月間というと長いようだが、バックパックを背負って旅するには決して長すぎるスパンではない。勢い一生懸命に真面目に移動することになる。とはいえ、3週間 FIX のエア・チケットを持って北部パキスタンを周遊するというのはちょっとタイトに過ぎたかもしれない。
 夕方に東京を発ち夜中にカラチで乗り換えて早朝にラーワルピンディ (首都イスラマバードの隣町) に着き、その日の午後には夜行のミニ・バスで町を離れ、翌早朝には北部の中心の町であるギルギットに到る。翌日から4泊5日でフンザグルミットパスーを経て中国領新疆ウイグル自治区 (東トルキスタン) との国境であるクンジェラブ峠を往復、更に翌日にはヒマラヤ山脈東端の8000m峰であるナンガ・パルバットのベースキャンプへ向かい、1日トレッキングを含めて3日後にギルギットに戻る。そして翌日にはこの記事のルートだ。
                                    
Gakuch 付近にて                        首都から北部へのメインルートである KKH (カラコルム・ハイb0049671_1735674.jpg                        ウェイ) はギルギット川に流れ込むフンザ川を更に北東へと遡り、クンジェラブ峠へと登って行く。一方、ギルギット川はほぼ真っ直ぐに西から流れくる。この川を遡るのは未舗装のローカル・ルートだ。ギルギットから200数十キロで標高3700超のシャンドゥール峠、ここを数十キロ下るとマスツージという村に到る。
 僕が訪れた1996年当時、この間を結ぶ公共交通機関は無く、乗り合いジープは途中の村までしか走っていなかった (現在はバスが運行され、その日のうちに横断できるようだ)。本当ならそこから数日掛けて歩くというのが、おそらくシャンドゥール峠の美しさに触れる真っ当な旅なのだろうと思う。だが、なにしろ帰りの飛行機までは残り10日しかなかった。僕はギルギットからマスツージまでの間の1泊2日、ジープをチャーターすることになったのだが、自然の美しさを堪能するためにも人々との触れ合いという点からも残念ではあった。
 ガクーチまでは未舗装とはいえ比較的幅の広い快適な道が続く。ここで昼食。チャーシという村まで行くという男を拾う。チャーターしたジープではあったが唯一の交通機関である乗り合いジープの本数は少ないのだ。実はここまでにも1人を乗せて降ろしていた。運転手は僕に承諾を得、僅かな収入を得る。北からイシュコマーン川が合流している。小さな集落だが宿はありそうな村だったので、本当なら1泊してみたいところだ。この先10kmほどでホーパル、このコースで3度目のパスポート・チェックを受け、更に1人の男を乗せる。


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                                                            Roshan 付近

 この辺りから道は極端に狭くなる。ヒンドゥークシュの山塊群を縫う谷脇の断崖に付けられた道は危うい。いつ落石や崖崩れに巻き込まれても不思議ではない。だが、その分、風景は素晴らしい。ギルギット辺りでは土色をしていた川はガクーチから先、乳緑色に変わる。荒々しくそそり立つ岩山、乳緑色の流れ、狭い耕作地とポプラの緑、澄んだ空に浮かぶ雲は真っ白だ。
 この道の北側は6000m級のヒンドゥークシュだが、60kmほど北側はパキスタンとタジキスタンに挟まれたワハーン回廊だ。アフガニスタン北東部の盲腸のような領土で、新疆ウイグル自治区に繋がっている。玄奘三蔵がガンダーラからの帰りに通ったとされる渓谷だ。


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                                                              Gupis 付近


b0049671_17375376.jpg 北から支流が合流してくるグピスで同乗者の家に招かれ、チャイとナンをご馳走になる。その谷を遡ればヤスィーンに到る筈だが、今回は憧れのまま西に進む。川はこの辺りからキズル川と名前を変え、乳緑色だった流れは見事なエメラルドグリーンに澄んでくる。村外れの岩山を越えるとそこは深い緑が美しい湖だった。おそらく崖崩れによる堰止湖なのだろう。
 ところがここでパンク。予備の物に付け替えるが、これも空気が抜けている。結局、グピスまで戻り村の修理屋へ。2時間のロスだ。お陰で宿泊地のテルーに着いた時にはすっかり暗くなっていて、嘗ての氷河モレーンが堰き止めたというパンダール湖は闇の中だった。

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                   Gupis の先の堰止湖


 テルーのレストハウスで1泊するが、なにしろ全くの山の中だ。満天の星はオリオン座すら見分けられないほどで、僕に理解できたのは天の川と火星と木星だけだった。
 その晩のレストハウスのゲストは僕とドライバーと助手だけだったのだが、翌日目覚めると宿の外に日本人の学生がシュラフに包まっていた。乗り合いジープで昨夜遅くに着いたのだが、宿に人気が無いと思ったので軒先で寝たのだそうだ。後部の荷台に満員の客が立ち尽くしたジープでは、途中の景色など何も見られなかったというから、なかなか厳しい移動のようだ。ただ、テルーまで入って来るカーゴ・ジープは少なく、32km手前のパンダールまでのものが多いと聞いていたので、その点では彼はラッキーでもあったのかもしれない。それにしても彼は昨夜、まさに満点の星に抱かれて眠ったのだ。
 レストランなどある場所ではないので、レストハウスの朝食を奢り途中まで乗せて行くことにする。


Barsat 付近                                               ジープを阻む山羊と羊の群
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 テルーから先は前日の渓谷とは違って広く開けた草原を走ることになる。小さな集落が点々とあるようで、羊や山羊を放牧する人達の姿を度々目にする。物凄い数の山羊がジープの前を阻んでしまい、暫く動けなかったりもする。一面の草の緑と水の流れが眩しいほどに美しく、そして気持ちが良い。
 バルサットを過ぎるとやがてランガルの湿原になり、ここで青年を降ろす。テルーからここまで歩けば7時間の行程で、しかもテントを持っていない場合には4時間手前のバルサット泊となるらしかった。だがここから歩き出せば今日中に峠へ登り切れるだろう。峠にはテント・ホテルがある筈だ。実はこの3年後、ストライキで混乱を極めていたカトマンドゥのロイヤル・ネパール航空オフィスで彼に再会することになるのだが、勿論この時はそんなことになるとは思ってもいない。車を降りザックを背負い直す彼に手を振りながら、僕は少し羨ましさを感じてもいた。


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                                                              Langar 付近

 ランガルの湿原を回り込むと峠への登りになるが、標高差は300m程度なのでさほどの険しさは感じない。やがて広い草原にでる。下に比べれば緑は少ないが、その青さを空と競っているかのような湖が目に眩しい。湖の畔ではヤクが草を食んでいる。夏場の放牧地なのだ。
 今の僕なら例え日程が少なくなっていたのだとしても、ここでジープを返して1泊し、翌日は下りの道を数十キロ歩くという選択をするに違いない。シュラフも持っていたし荷物は少ない。だが当時まだヒマラヤでのトレッキングをする前だった僕は、少しの休憩だけで先を急いでしまった。返す返すも勿体無い。
 峠は湖を回り込んだ先になる。


シャンドゥール峠
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 シャンドゥール峠からの下りは荒涼とした荒々しい風景だ。道も危うい。対向車があれば滑落寸前といった断崖すれすれまで車を寄せなければならない。
 マスツージから谷を南西に115km、乗り合いジープで5時間も走ればチトラール。アフガニスタンは目の前だ。何時の日か峠を越え国境を越えてアフガンの地に立つことはできるだろうか。そしてその時、アフガンの人々は我々 「西側」 の人間への憎しみを抱いてはいないだろうか。だが、今のままではどちらも難しい。

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                                                          Mastuj への下り
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by meiguanxi | 2008-09-14 18:00 | インド・パキスタン
チトラール (パキスタン) : パミール、アフガニスタン国境の小さな町
           或いはアフガニスタンでの邦人拉致死亡事件によせて

[ 北部パキスタン略図 ]
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                                                           シャーヒ・モスク

 今年 (2008年) 夏の終わり、ダラエ・ヌール渓谷とかクナール川といったアフガニスタン東部の地名が頻繁に報道された。だが、これについては後で述べることにしよう。初めに断ってしまうが、このエントリーはちっともチトラールという町の紹介にはならないだろうと思う。

 チトラールはパキスタン北西部、アフガニスタンとの国境に近い小さな町だ。ラーワルピンディ (計画的に建設された首都イスラマバードの隣町で、昔からの生活の主体である街) から北部への道はパキスタン独立後に建設された (ギルギットの記事参照)。この KKH (カラコルム・ハイウェイ) を北上すると道はやがて標高約4700mのクンジェラブ峠 (フンジェラブ峠) でカラコルム山脈を越え、現中国支配域である新疆ウイグル自治区 (東トルキスタン) のカシュガルに通じている。この北部の中心がギルギットで、パキスタンがインドから独立する過程でカシミール地域が分断されてしまう前までは、ここから現インド領カシミールのシュリーナガルへ通じる道が北部と平野部とを繋ぐ道だった。勿論、現在はこの国境を通過することはできない。
 さて町を流れるギルギット川にはこのすぐ下流で北からフンザ川が合流している。KKH はこのフンザ川に沿って北上していく。一方、ギルギット川の上流は西に向かう。川はやがてキズル川と名前を変えるが、このキズル川に沿ってヒンドゥークシュ山脈を縫うように走る山岳道路がある。小さな村々を繋ぐ未舗装の危うい道だが、荒涼とした荒々しい風景と、耕作地とポプラの緑、乳緑色の川のコントラストが実に美しい。小カシミールと呼ばれる所以だ。この道の北側は6000m級のヒンドゥークシュだが、60kmほど北側はパキスタンとタジキスタンに挟まれたアフガニスタン領のワハーン回廊。玄奘三蔵がガンダーラからの帰りに通ったとされる渓谷だ。
 ギルギットから直線距離で150km程だろうか、一路西に向かうと標高3700mを越えるシャンドゥール峠に到る。5000m級の山々に囲まれたこの峠の上は広い草地で、氷河から流れ出た水が大きな湖を作っている。夜明け前の空と見紛うばかりの素晴らしい青だ。この峠を越えられるのは5月から11月頃までなのだが、夏場には湖の周囲に放牧されたヤクの姿も見ることができる。シャンドゥールを下るとマスツージという村に到るのだが、実はギルギットからマスツージへ直行する交通機関は無い (僕が訪れたのは1996年なので、現在のことは知らない)。従って峠越えの為には途中の村まで乗り合いジープで行きその先は歩くか、或いはギルギットでジープをチャーターすることになる。ジープをチャーターした場合、マスツージまでは2日の行程だ。


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                                                       マスツージ付近の風景

 マスツージはほんの小さな村に過ぎないが、充分にパミールの美しさを感じさせてくれる。ワハーン回廊との分水嶺から南西に流れるヤルフーン川は、この辺りから先ではマスツージ川と呼ばれる。ここから川に沿って乗り合いジープで5時間ほど下ると、そこがチトラールだ。メインストリート以外には数本の脇道があるだけという程度のほんの小さな町だが、イギリスがやって来る19世紀末までは独立王国だったのだそうだ。パキスタン独立後も1969年に王制が廃止されるまでは半ば独自の行政が行われていたという。町にはアフガニスタン人も多く流れ込んでいるようで、ケバブ屋やミリタリー・ジャケットを売る店の親爺もアフガン人だった。余談だが僕は12年前にここで20米ドルで買ったカーキ色のジャケットを今でも着ている。
 上流から流れてきたマスツージ川は再度名前を変え、この辺りではチトラール川と呼ばれる。チトラールから川に沿って南に20kmほどの所にアユーンという小さな集落があり、ここからピックアップ・トラックで支流のルンフール谷やブンブレット谷を西に10kmも遡れば、カラーシュ族の住むカフィリスターンと呼ばれる地域になる。彼らは特異な文化を有する非ムスリムで、カフィリスターンというのは「異教徒の国」という意味のムスリムの立場からの呼称だ。


                               チトラールの街路

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 南への道はこの更に2・30km先で川を南東に離れ標高約3200mのロワライ峠へと登って遥かペシャワールへと繋がっている。バスで12時間の行程だが、この峠を越えられるのも7月から11月頃までに限られる。一方、チトラール川はこの辺りからクナール川と名を変えて更に南西へと下って行く。先月 (2008年8月26日)、アフガニスタン東部のダラエ・ヌール渓谷で拉致され死亡したペシャワール会 (H.P.) の伊藤和也さんが農業指導していたブディアライはこのほんの150kmか200kmほど下流に当たる。クナール川はアフガニスタンのジャララバードで方向を変えるとパキスタンに戻り、やがてインダス川に合流する。

 僕が旅を始めたのは1988年暮れのことであり、その時にはアフガニスタンが旅行できる状態ではなくなって既に長い時間が経っていた。それ以来現在に到るまで、気楽に個人旅行できる状況は回復していない。一度だけその国土を目にしたことはある。ウズベキスタン南部のテルメズ、この町の南側を流れるアム・ダイアに掛かる鉄橋、その対岸がアフガニスタンだった。1979年、ソ連の戦車がアフガニスタンに侵攻していった橋だ。橋を渡ればマザリシャリフに到る筈だが、橋には軍の詰所がありカメラを川の方向に向けることすら許されなかった。2000年のことだ。この翌年、9.11 の同時多発テロが起こり、翌10月7日にはアメリカによるアフガン攻撃が始まる。アフガン戦争ではテルメズにアメリカ空軍の基地が置かれた。
 それ以外ではジャララバードやカブールへ繋がるペシャワール、南部のカンダハルに通じるパキスタン南部のクエッタ、クエッタからイランに到る鉄道とその先のイランの町であるザヘダン、西部のヘラートへ向かうイラン北東部のマシュハドと何度か周辺をうろついてはいるものの、僕がこれまでにアフガニスタンに入国したことは無い。だからチトラールとその周辺はテルメズに次いで最もアフガンに近づいた場所だ。

 伊藤和也さんがアフガンに思いを馳せた切欠は 9.11 とそれに続くアフガン戦争だったと聞く。あの時、国際社会は一斉にアメリカのアフガン攻撃を支持した。ロシアや中国もだ。ブッシュ大統領は 「アメリカに付くかテロリストの側に付くか」 と国際社会に向かって演説した。僕は予感した。この攻撃を世界の人々が許容するなら、ロシアはチェチェンの独立運動を、中国はチベットやウイグルのプロテストを徹底的に弾圧するだろうと。勿論、「テロとの戦い」 というレッテルの下に。そして実際にそのように成ってしまった。世界はチェチェンを見殺しにし、中国によるチベットやウイグルへの文化的民族的ジェノサイドに目を瞑ったのだ。
 当時、日本のマスメディアはまるで報道管制でも敷かれているかのような状態で、アフガン開戦を回避すべきだという論調は殆ど無かった。いや、報道管制或いは思想統制は強制ではなくともソフィストケートされた形で確実にあったのだ。僕は何回かの大きなデモに出たが、それらが報道されたのを1回たりとも目にしなかった。TVのキャスターやコメンテータも口を揃えてアメリカを支持していた。そんな状況にあって、ペシャワール会の中村哲 医師だけがそれに反対していたのだ。何故アフガニスタンでタリバーンが勢力を持ち得ているのか、アフガンの旱魃の状況、戦闘に成った場合に冬を越せないだろう農村の子供達の現実。そして無責任な考えを垂れ流すだけの人々とは違い、実際、彼らはあの戦闘の最中にすらその活動を続けたのだ。どこの国の軍隊の保護も受けずに。


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                                                       アフガン人のケバブ屋

 僕のしたことはいえば何回かのデモや集会に出たこととその場でペシャワール会に僅かばかりの寄付をしたこと、後はこのブログの 「愛する者へ or Profile」 に書いたポストカードを友人知人たちに送ったことだけだ。だが伊藤和也さんはその後ペシャワール会に入り実際にアフガニスタンに出掛けて行った。そして何年にも渡り現地の人達との交流を図りながら井戸やカレーズを掘り、現地の人達と一緒に農業復興に力を尽くしてきたのだ。
 今回の事件は痛恨の極みだ。武器も持たず、ただ知識と技術を伝える為に、国家の援助も得ず国家に対してではなく庶民の為に力を尽くしていた彼が何故、死ななければならなかったのか。勿論、あの国では1979年のソ連の侵攻以来、実に30年にも渡って内戦が続いている。武器を持って闘うこと以外の仕事をしてこなかった、或いは知らない人達も数多くいるのだろう。貧困の中で憎しみや悲しみや怒りだけを学んできた人達に、喜びや希望や信頼を教えられなかった人達に、僕達の理性はどのような力を持ち得るのだろうと考える時、不条理としか言えないほどの絶望感を感じずにはいられない。いや、だが、例えばペシャワール会の活動はそうした努力の確かなひとつの試みであったし、実際に大きな成果をも実らせてきた筈なのだ。
 そもそも今回の犯人の背景や目的に関してはまだはっきしりしない。しかし戦闘という状況が常態化すると、庶民生活の復興を利敵状況であると考える者たちも現れるだろう。混乱と貧困と怨恨と不幸こそは反政府軍閥にとっての求心力であるのだから。問題がこのようなところまで来てしまった今、事態を早急に解決させるマジックなど存在しないのだろう。むしろタリバーンが政権を取っていた時の方が、幾らか話は簡単だったに違いない。アルカイーダを匿いバーミヤンの磨岩仏を破壊するような政権を支持する訳にはいかないが、少なくともペシャワール会のような活動は安全に行えたのだ。2001年当時、女子の学校教育が禁止されていることやベールで身体を覆わなければならないことを以って、非人道的であるという報道が散々流された。だからタリバーンは殲滅すべしと。勿論これはアメリカのプロパガンダであり、日本のメディアはなんの検証も批判も無しにこれを垂れ流した。だが女性の権利に関して伝統的な政権はアフガニスタンに限ったことではなかった。新米派のアラブの国々でも同じような状態であることには、しかし一切触れられなかった。もしあの時、世界が銃弾や爆弾ではなく、議論と、例えばペシャワール会のようなアプローチにこそ力を注いでいたのなら、状況は今より遥かにマシだったのではないかと思うと、返す返すも無念でならない。


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                                                      チトラールの精悍な老人

 今回の事件が2004年のイラクでの人質事件のような 「自己責任」 論議に成らなかったことは幸いだ。今の政府が当時のような行け行けドンドン的政権ではなかったからかもしれない。しかし日本政府は今回の事件を受けて 「尊い犠牲が出てしまったが、そうであればあるほどテロとの戦いに引き続き関与していくことの重要性を日本の国民のみなさんは感じたのではないか」 と官房長官が発言したり、首相もメールマガジンで 「紛争や貧困に苦しむ地域や人たちに少しでも手を差しのべていくことが、伊藤さんの遺志にもこたえ、平和協力国家としての日本の役割である」 と述べている。勿論、テロ特措法によるインド洋での自衛隊による給油活動継続の意思を示したものだ。彼の死をアメリカ追随の戦争加担に利用する、なんという欺瞞、なんという倫理的鈍感。
 中村哲 氏は滞在先のバンコックからアフガンに飛び、伊藤さんの亡骸とともに帰国した。バンコックでの彼のインタビューは各局のニュース番組で報道されたので多くの方が目にしたことだろう。だが、その中で彼が 「(今回の事件の背景には) 自衛隊の行動が関係していると思う」 と指摘していたことを知っている人はどれだけいるだろう。日本がアメリカに加担した行動を取るならペシャワール会のような活動も危険に晒されることになるかもしれないというのは、当初より彼が強調していた警鐘だ。だがメディアはこの部分をほぼ完全に圧殺し、報道で強調されたのは 「情勢に対する認識が甘かった」 という部分だった。
 ペシャワール会ですら危険に晒される状況で何をどうすれば良いのか、どうすべきなのか、その明確な答えを僕は持っていない。だが、これだけは言える。彼らに銃弾の嵐を浴びせることや爆弾の雨を降らせることでは、永遠に何も解決しないだろうと。

 やがて季節は秋へと向かう。涼しくなった頃、僕はまた今年も13年目のジャケットに袖を通すことだろう。


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                                                        マスツージの子供達
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by meiguanxi | 2008-09-02 23:59 | インド・パキスタン
カシミール&ラダックへの道(インド)後編
[ カシミール・ラダック略地図 ]
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                                                          ドラス村の夜明け
こちらの記事の続き)
 レーの町とラダック地方については後日、改めて書くことにするが、今日の話の主題ではない。レーでは日々忙しく日程をこなしなから毎日、エア・インディアのちっぽけなオフィスを訪ねる。東京からリクエストを入れていたデリーへの帰路便の確認の為だが、いっこうにOKがでない。レー到着4日目、待機リストの後数人目というところまできた。キャパシティの大きな飛行ではないが、おそらく大丈夫だろう。だが、確証は無い。そして今は何より確実性が求められるケースなのだ。この日が9月13日、デリーからの東京便は17日夜だ。そして勿論、週明けには仕事が待っている。
 実はレーとマナーリを繋ぐ道がある(地図参照)。この時(1994年)、僕は90/91年版のガイドブックを持っていたのだが、それによるとこの軍用道路を旅行者は通れないとあった。だかしかし実はバスが走っていることを現地で知る。カシミール・ルートが戦乱とゲリラとで危険に成った現在では当然のルートだが、おそらくこの時には殆ど知られていなかった。或いはバス開通、または外国人への解放後間も無かったのかもしれない。いずれにしても明日14日に出発するとしてマナーリまでは1泊2日、到着の日は動けないと仮定すると、マナーリを出発するのは早くとも翌日16日朝、または夜になる。デリーまではおそらく24時間くらいだろう。上手くいけば間に会うかもしれないし、何かのトラブルやマナーリからのバス便の時刻、チケット入手の可否(空席の有無)などによっては間に合わないかもしれない。このルートは5328mの峠を通る。これは青海省からチベットの首都ラサ(現在は自治区なので“区都”なのだが、敢えてこう呼ぶ)を通ってネパールに至る道の最高標高を上まわる。僕の知る限りでは路線バスの通る最も高い場所だ。魅力的なルートではある。だが今は、諦めるのが正解のようだった。(この道を通るのは2007年のことになる : 参照
 この間のエア・インディア女性職員との話で、レーからの便は満員だが、シュリーナガルからの便ならこの場で買えるということが分かっていた。僕は後僅か数人というリストから名前を削除してもらい(キャンセルし)、17日のそのチケットを購入した。明日早朝レーを出発し、1泊2日掛けてシュリーナガルに戻り、翌々朝の便に乗る。どっちにしても運が悪ければNGだが、デリーへのチケットが確実な分、マナーリ・ルートよりはましだ。
 往路では深夜に通過してしまったために見ることのできなかったその道はこの世のものとも思えないほどに美しかったのだが、しかしトラブルにはまだ最後の〆が残っていた。

カルギルの町角                                                      ドラスの商店
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ナミカ・ラ(3718m)より                                        フォテュ・ラ(4107m)より
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 カルギルで1泊した2日目、途中5時間半もの停滞に見舞われながらもなんとか15:00、無事ソーナーマルグで遅い昼食をとった後だった。シュリーナガルへ向けて川沿いの田舎道を走るバスが突然、1本の大きな木の陰に停車した。何も無い道端だ。車内の雰囲気がおかしい。何処からか銃声がする。遠くから大砲のような音も聞こえてくる。見ると前方100m程の処に軍の大きなジープが停まっていて、銃声はそこからしていた。ジープに備え付けられた自動小銃の他に数人の軍人が川の向こう側に向けて発砲している。さほど大きな川ではないが、向こう側は森林に成っていて様子が分からない。大砲のような音はその対岸から聞こえているようだ。
 そのバスに乗っていた外国人は2人だけで、もう1人は2つ前の席に座ったイギリス人の女の娘だった。途中の休憩の時に話しかけてみたのだが、そっけなく対応されてしまっていた。その彼女か僕を振り向く。既に泣きだしそうな表情だ。彼女は何かを懇願するような目で僕を見詰めたが、しっかりと目を見返して大きく頷くこと以外に、僕に何ができるというのだ。
 やがて車掌の男が大きな声で何事かを短く、しかし鋭く叫ぶ。乗客は悲鳴を上げながら座席や通路に伏せる。僕の隣には恰幅も身なりも良い紳士が座っていたのだが、彼もスーツの汚れることも体面も省みず床に腹をつける。汚い床だ。それを見た瞬間、初めて恐怖を実感する。それってマジじゃないか!前方から軍のジープが銃撃を続けながらこちらに向かって走ってくるのが見える。まさか軍がバスを無視して撃ち続けはしないだろうと理性では分かっていても、なにしろ状況は戦闘なのだ。既に通路は隣の男が占めている。前の座席との隙間に潜り込もうとするが、極痩身の僕にそれが出来ないほどに車内は狭かった。仕方無く隣のシートに身体を倒し、窓側の脚をたたむ。持っていた大きめのデーパックで頭を覆う。そんな物が何かの約に立つとはとても思えなかったが、他に何も持っていないのだ。今回の旅の全てがそのデーパックの中にあった。おまけにバスの上部ボディは木で出来ていた。やれやれ…
 その後、1人の兵士がバスに乗り込んで来た。彼はフロントのステップ(それが唯一の乗降口だ)に片膝を付き、窓から銃口を対岸に向ける姿勢をとった。バスは走り始めた。もちろん彼は護衛する為に乗り込んで来たのでない。移動手段として必要としたのだ。彼が発砲することが無いよう、また対岸の双眼鏡が動き出したバスの窓に彼のヘルメットと銃口を見付けることが無いよう、僕はそれだけを願った。

ラマユル付近の断崖の道                                        アルチ付近のインダス川
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 さて、勿論、無事であったからこそ今、これを書いている訳だ。
 夜遅く真っ暗なダル湖(シュリーナガルの湖)の、細い裏路の先の小さな桟橋から、往路に宿泊したハウスボートに声を掛ける。ボートにはシカラ(手漕ぎボート)でしか渡れない。勿論オーナー氏は歓迎してくれた。「今日もゲストが居ないから何も無いんだ」と言って雑用係のボーイ君が作ってくれた質素な料理。じゃが芋のカレー、菜っ葉のカレー、豆のスープ、そんなものだ。しかしそれは、涙が出るほどに美味しいく思われたし、暖かく、ほっとする時間だった。
 僕はあまり無謀な旅を喜びとするタイプではない。日程の無謀は仕方が無い。しかし身の危険という意味での無謀は良しとしない。できれば今後、二度とこのような経験はしたくないと思っている。しなくて済むような様々な情勢の到来を、心から望んでいる。
 蛇足だが、シュリーナガルを早朝に離陸する筈だった飛行機は一向にやって来ず、14時を過ぎてフライト・キャンセルに成る。代替の飛行機が飛んで来て、デポジットの荷物確認を済ませて飛び立ったのが15時。遠かったデリーに、しかし飛行機は僅か1時間15分で着陸する。東京便までは少し余裕がある。僕は簡単な買い物をする為に、街に向かった。

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                                                         レーのバス・スタンド

※ 2007.8.26 追記
  現在では上の写真のバス・スタンドはタクシー・スタンドに成っており、風景も一変した。
  バス・スタンドは更に500mほど南に移設されている。
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by meiguanxi | 2006-12-20 00:09 | インド・パキスタン
カシミール&ラダックへの道(インド)前編
[ カシミール・ラダック略地図 ]
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                                                ゾジ・ラ(峠)への登りで停滞する

 東京からのエア・インディアは17:20、デリーのインディラ・ガンジー国際空港に着陸する。1994年夏の終わりのことだ。
 入管と税関を過ぎて到着ロビーを出た瞬間からインドは始まる。街までのタクシーとの早速の不毛な交渉、いや闘いからしか事は始まらないのだ。
 しかしこの時の僕には彼等とゆっくり遊んでいる時間は無かった。代休と有給を夏休みに組み込んだ休暇は僅か2週間。14日後には帰国していなければならない。2週間で陸路、デリーからジャンムー・カシミール州のシュリーナガルを経てラダックのレーに至る。至るだけならまだしも、13日後の東京便はもちろん FIX だ。しかも、レーからの帰路、デリーまでは国内線のフライトに乗るならばなんとか日程をこなせるだろうという無謀な計画。ところが、当然の様に、その便の予約ステータスはリクエスト。金銭より時間という割り切りではあったのだが、この便のステータスOKを東京で、しかも個人で取るのは不可能に近かった。

シュリーナガルのハウスボート自室にて       とにかくタクシーを飛ばして街へ急ぐ。ニューデリー駅前の旅行者が
b0049671_1139108.jpg集まるメインバザールと呼ばれる狭い道、その入口周辺に悪名高い旅行代理店が集中している。旅行者が集まるといってもバンコックのカオサン・ストリートのような所を想像してはいけない。地元の人々の生活の場であり、地方から出て来た人、物乞い、車、オートリクシャー、牛、そんな全てインドがもぞもぞと蠢いている場所だ。できるならこの辺りの代理店とはあまり関わらない方が無難だ。タクシーから降りた僕は、だが真っ直ぐにそんな店の1軒に飛び込んだ。今日中にシュリーナガルに向けて出発する交通機関は在るや無しや?しかしてそれはあった。代理店に話を持ち掛けて15分後、ピックアップ・バスに乗り郊外へ。路上で待ち受けていた夜行バスに乗り換える。デリーに着陸してから1時間35分後のことだ。
 暗い夜道をひたすら走り続けたバスは早朝7:30、ジャンムー郊外の路上で停車する。ここで前に停まっていたバスに乗り換えさせられる。代理店は直行だと言っていたのだが、まあ、良くある話で、とにかくチケットが確かに全線通しであったのだから、文句は無い。
 15分後に走り出したバスの中でどの様に過ごしたのか、車窓はどうだったのか、食事休憩はどんな場所だったのか、全く記憶に無い。早朝に家を出たのだから前の晩もろくに寝ていない。それで長いフライト直後の夜行バスだ。2日間まともに眠っていない。しかもインドの長距離バスだ。リクライニングはもとより、サスペンションという概念があるのかすら怪しいような代物なのだ。ところがそう、まだジャンムー
                                でしかない。
 とにかく記憶に無いものは書きようが無い。
ただ、走り出して数時間で崖崩れ現場に遭遇         シュリーナガルでの故障で左から右に乗り換えて再出発
b0049671_11394854.jpgし暫く停車したこと、この後、度々同じような
崖崩れの為に停滞したことは覚えている。だがはっきりした次の記憶は12時間以上後の事のことになる。夜の20時だ。バスは薄暗い田舎バザールの路上に停車した。バザールといっても中東のそれではない。要するに商店が集まった場所だ。そこは街道沿いに幾軒かの食堂や商店の並ぶ、言ってみればドライブインのような村であるらしかった。ドライバーが何事が早口で乗客に叫ぶ。客達はざわつき、苛立ち、或いは溜息をつく。悲しいことに状況をキチンと説明してくれるような人はいなかったのではっきりしないのだが、とにかく、今夜はここからバスが動くことはないらしい。この先に大きな峠があり、そこがトンネルに成っていて、そこを越えるとシュリーナガル盆地である筈なのだが、どうやらそのトンネルを通過する時間に間に合わないとか、或いは到着が遅く成り過ぎるとか途中の道が危険だとか、要するにそんなことのようだ。やれやれ、何も判っていない…バスを降りて宿を探してみるが、空き部屋を見付けることができない。しかたなくバスに戻ると、殆どの乗客達が車中で夜を明かすようだった。疲労と不安とを抱えながら、バスが停車している近くの飯屋に入って適当な食事をとり、水と煙草とビスケットを買って、狭い車内に戻る。
 翌朝、まだ暗い道をバスは走り出した。バザールを過ぎると山道はぐんぐん標高を上げる。九十九折の道を喘ぎながら、ゆっくりとした速度でバスは登っていく。霧が樹木を濡らしている。やがて問題のトンネル。
 こうして漸くシュリーナガルに到着したのは、インドに降り立って3日目の午前11:30だった。
 シュリーナガルはジャンムー・カシミール州の有名な観光地だが、この時、ゲリラの活動が活発になってきており、訪れる旅行者は極少ないようだった。詳しくはこちら

ソーナーマルグ                                            ソーナーマルグからの山並み
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ゾジ・ラ付近                                                      ゾジ・ラ東側付近
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 さて、シュリーナガルのダル湖に浮かぶ小さなハウス・ボートで2泊した翌朝、1時間以上遅れて8:40に出発したレー行きのバスは、暫く走った所でギア・トラブルに見舞われる。まあ有体に言えばよくある故障だ。応急処置をして町に引き返し、代替のバスに乗り換え再出発したのが10:40。この旅での移動にはつくづくツキが無いらしい。
 ソーナーマルグで昼食。この先はゾジ・ラ(ラ=峠:3530m)への急な登りに成る。ソーナーマルグは谷沿いの草原地で、四方を山に囲まれた美しい場所だ。植生の薄い山肌を縫うように、目の前にはゾジ・ラへの道筋が九十九折に登っている。
 シュリーナガルへのそれとは比べ物にならない登りを、それこそ喘ぎながら、一歩々々踏みしめるようにしてバスは進む。狭い未舗装の山道には、沢山のトラックが連なっている。一回ではハンドルを切りきれない折り返しを何度も切り返す。16時、バスは停まった。そのまま動かない。先を見ると、道の遥か上まで繋がったトラックの列も、ピタリと動きを止めている。進むことも戻ることも出来ない危うい道。ソーナーマルグの村が断崖の遥か下方に見える。やがて陽が沈む。時間だけが無意味に流れていく。トラックのドライバー達の中には、断崖と車の連なる狭いスペースにコッヘルを広げて食事を作り出す者達もいる。だれも騒がないし文句を言っている様子も無い。何処からどうやってやって来たのか、物売りがスナックや水を売りに来る。空には満天の星。
 もしも時間のある旅だったのならこんな状況もそれとして楽しめるのだろうな、僕は星空を見上げながらそんなことを思っていた。しかし今は、焦りだけが募っていた。仕事に間に合うように帰りつけるのか?
 22時、隊列は何の予告も無くぞろぞろと動き出した。23時、ゾジ・ラ通過、1時、ドラス村通過、4時、カルギル到着。この5年後、99年の戦闘で壊滅的な打撃を受けたと報道されることになる村だ。本当ならここで1泊の筈だった。バス駐車場には何軒か、こんな時間だというのに灯りが点った店がある。灯りといっても電気ではなくランプだ。バスを降り簡単なスナックを買い食いする。真っ暗な駐車場は未舗装らしく、ぬかるみに足を突っ込む。
 宿泊の筈が30分の休憩だけで発車したバスはその後、まだ暗いナミカ・ラ(3718m)、漸く東の空が白み始めたフォテュ・ラ(4107m)を越え、要塞ゴンパ(チベット仏教寺院)で有名なラマユルのドライブイン(町ではない)でブランチ休憩を取り、そして遂にとうとう16時にレーの町に到着する。東京を出発して5泊6日、うち3泊がバス車中というハードな移動だった。勿論、シュリーナガルからのバスに関して言うならば本当にハードだったのはドライバーであって、危険な峠道の連続を眠っていないドライバーが運転するバスに乗っていた我々乗客にとっては、無地に目的地に辿り着いたことが既に、ただ単に幸いだったと言うべきなのかもしれない。
 だが、話はこれでは終わらないのだ。

後編に続く:深夜に通過した筈の下4枚の写真が存在する理由を含め)

カルギルにて(同右)
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by meiguanxi | 2006-12-17 11:46 | インド・パキスタン
シュリーナガル(インド):戦乱と吉祥の町
[ カシミール・ラダック略地図 ]
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                                                        ハウスボート・ホテル

水パイプを吸うシカラ漕ぎの爺さん
b0049671_7412282.jpg インド地域は1947年にイギリスから独立するが、この際にヒンドゥとイスラームという宗教の違いからインドとパキスタンとに分裂することに成る。イギリスの直轄地は住民投票で、藩王国はマハラージャー(藩王)の意向でそれぞれへの帰属が決められた。
 カシミール藩王は独立を志向するが、パキスタンが軍を出したことを受け、ヒンドゥだった藩王はインドに支援を求め、インドへの帰属を承認する。一方、カシミール主要部は14世紀にはイスラーム化した土地だったので住民はこれに反発する。これが第一次の印パ戦争に繋がるのだが、49年の停戦時に停戦境界線が設けられ、北西域1/3はパキスタン、南東域2/3をインドが支配することになる。その後60年近く、今日まで概ねこのラインを境にカシミールの分裂状態が続いている。尚、北東部のアクサイチン地域は中国がチベット自治区と新疆ウイグル自治区とを結ぶ要衝として実効支配しており、これがインドとの国境問題として残されている。
 シュリーナガルはインド領ジャンムー・カシミール州に属するが、住民の多くは今でもムスリムだ。町には幾つものモスクがあり、特にジャマー・マスジッド(金曜モスク)はサラセン建築のモスクとして有名。


ダル湖のハウスボート                                                    蓮の収穫
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生活の場としてのハウスボート                                町中の川に浮かぶハウスボート
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 ジェーラム川とダル湖に囲まれた美しいこの町はまた、ムガール帝国(中央アジア・チムール系のイスラーム帝国。16世紀前半からイギリスに占領される19世紀半ばまでインド北部を支配した王朝))時代の皇帝達にも愛された土地で、当時の皇帝が建設させた幾つかの庭園も残されている。また、ダル湖に浮かぶ数々のハウスボートは旅行者達の宿として人気を集めている。シカラという手漕ぎボートで揺られるダル湖のひと時は至福の時間だ。
 ただし80年代から一部で独立を志向する機運が高まり、90年代に入って散発的な戦闘が繰り返されることになる。当然、観光は壊滅的な打撃を受ける。僕が訪れたのは94年だが、この時には既に観光客は殆どいなかった。客室が2つしかない小さなハウスボートに泊まっていたのだが、オーナー氏は1人で町に出ることを許さなかった。食事の用意や雑用をする青年が1人いた。町に出る時には彼をガイドに付けるというのだ。料金は取らない。彼も駄賃を要求したりはしない。町では突発的な銃撃戦が頻発しているということだった。事実、町中の所々に土嚢が積まれたポリスボックスのような看視所があり、軍人が銃を構えていた。
 ハウスボートから眺めるダル湖の風景は明媚で、ここが争いの最中にある場所なのだという現実感を俄かには上手く捕まえられない。だが事実、この後、僕の乗った長距離バスはゲリラと政府軍との銃撃戦に巻き込まれそうに成ってしまったのだ (参照)。

カシミール様式の建築                                         シャー・ハムダーン・モスク
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 95年にはパキスタンとの間で大規模な戦闘があり、この町の西、ラダックとの中継地であるカルギルという小さな町付近が壊滅的な打撃を受けたというニュースがあった。カルギルは秘境ザンスカールへの道を分ける要衝でもあるのだが、その後どうなったことか。
 一方、2005年パキスタン・カシミール地震の際には、実行支配線を越えた国際バスの運行が始まったという良いニュースもあった。
 町の名前は女神ラクシュミーを表すシュリーの町(ナガル)という意味だ。ラクシュミーとは日本で言うところの吉祥天のことなので、“吉祥の町”といったところだ。吉祥の町が半世紀を越える争いの地となっていることは、実に皮肉でもあり悲しい現実だ。

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                                シュリーナガルの町並み:シャー・ハムダーン・モスク遠景
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by meiguanxi | 2006-12-13 02:39 | インド・パキスタン
フンジェラーブ峠 : 中国パキスタン国境
[ 北部パキスタン略図 ]                 
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                                                      フンジェラーブ峠への道

フンジェラーブに至る渓谷
b0049671_1240332.jpg     スストの標高は2800m、
     ここを過ぎるとカールン・コーの北側を回り込むように
     KKH(カラコルム・ハイウェイ)は北上し、
     やがて標高をグングン上げながら東に向かう。
     中国領新疆ウイグル自治区との国境、
     フンジェラブ峠まで87kmの行程だ。

     この国境は概ね12月から4月までの5ヶ月間は、
     雪の為に閉鎖される。
     この付近に国境事務所のような物は無い。
     パキスタン側は前の記事でも書いたように、
     スストがイミグレーションになる。
     中国側はここから北に127km下った
     タシュクルガン(標高3200m)になる。

     国境超えのバスはスストからタシュクルガンまで
     運行されている(カシュガルからはタシュクルガンで
     1泊)が、フンジェラブまでの往復はどちらからも
     出来ない。
     その場合には車をチャーターすることに成る。


フンジェラブ峠は広い高原のような処で、氷河から溶け出した流れが湿地を作っている。
標高は4730m、一気に2000m近く標高を上げる事に成る。
バスやジープなどで登ることになるが、それでも頭痛や息苦しさは覚える。
勿論、ここで走り回ったりしてはいけない。
標高4730mといえば、ヒマラヤ・トレッキングでは充分な順応無しには、とても登れない高さなのだ。


    国境に立つ標識 :それぞれの国名は自国側を向いている(中国の文字の向こうはパキスタン領):著者は左
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 僕が初めて現行中国領であるウイグルスタン(新疆ウイグル自治区)に足を踏み入れたのは1990春のことだ。
 その10年前、NHK特集『シルクロード』のシリーズが放送された。日中共同制作であるにも拘らず、取材班は78年に
出来て間もないこの国境の道をパキスタンに抜けることは出来なかった。国境が第三国人に開放されるのは86年になる。
 ところが90年のその年、敦煌からやって来たトルファンの宿で、思いもよらないニュースを聞くことになる。ほんの数日前、
これより西への外国人旅行者の入域が禁止されたというのだ。疫病だという話はあったが、何処に問い合わせてみても
詳細は分からなかった。兎に角、バスターミナルの窓口は頑なにチケットを売ってくれなかった。
 結局、事実は短波ラジオでBBCを聞いた欧米人からもたらされた。カシュガル付近で民族暴動があったらしいという。
旅行者の1人が北京の日本大使館に電話をする。暴動というニュースには接しているが詳細は分からないというのが回答
で、逆にトルファンの状況を取材されたという。更に知りうる限りの滞在者の名前とパスポート№とを知らせてくれるように、
その上で即刻、新疆から立ち去るようにと指示されたらしい。ところでトルファンは穏やかそのものだったのがだ。
 この時、僕は数人の旅行者と誘い合って、観光用の幌を荷台につけた軽三輪を捕まえ、トルファンから西に向かう道が
区都ウルムチへの道と分かれる町に向かった。案の定、ウルムチから西に向かうパスを発見。僕は止まり切らない荷台
から転がり下りるようにして、バスの前に走り出た。運転手と交渉。成功だった。このようにして天山南路中間のオアシス、
クチャまでは進入したのだが、そこから進むのは3年後になる。
 93年、その年は国境を越えるには季節が合わなかった。そして何より、僕はチベットを目指していた。ウイグルスタン最後
の町、タシュクルガンまでは登ったものの、そこから引き返すことになる。
 パキスタン側からついにフンジェラーブ峠に至ったのは、96年夏の終わりだ。初めてここを目指してから、実に6年。
だが、今回、漸く取った休暇は3週間でしかなく、この国境を越えることはできない。
 それから更に10年、タシュクルガンまで127km、僕にとってそれは、今も越えられない距離として残されている。


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                      氷河から流れる水で湿地を成すフンジェラーブ峠
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by meiguanxi | 2006-10-25 12:46 | インド・パキスタン
ススト(北パキスタン):国境のバザール
[ 北部パキスタン略図 ]                 
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                                                           ススト近くの山肌

カールン・コーを車は回りこむ
b0049671_12185047.jpgパスー を過ぎると、KKH(カラコルム・ハイウェイ)
カールン・コー(6977m)を回り込むようにぐんぐんと
標高を上げる。
この辺りになると、フンザ川は両側を険しい岩山に
挟まれ、幅は狭まり流れが激しくなる。

カールン・コーの裏側に出ると、そこがスストだ。
中国領新疆ウイグル自治区との国境である
フンジェラブ峠まではまだ87kmあるが、
ここがパキスタン側のイミグレーションになる。
ここも小さな場所ではあるだが、
他の村とは雰囲気が全く違う。
KKH 沿いに何軒もの宿や食堂、商店が軒を連ね、                                          中国側からの物資も並ぶ。
                                         密輸酒がこっそり売られていることもあるようだ
スストの外れから来た道を振り返る                   (パキスタンは基本的には禁酒国)。
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ここにはユーラシアを歩く旅行者が溜まっている。
中国を終えた高揚、西アジアや南アジアへ向かう
期待、ここまで来た自信とこの先への不安…
勿論、逆の道を中国側へ向かう欧米人も同じだ。
前にも書いたようにこの時、僕は夏休みと代休、
有給とで強引に取った3週間の休暇で北パキスタン
一帯を経巡っていた。
スストへはグルミットでチャーターしたジープで
登って来ていた。この先、国境のフンジェラーブ峠
まで登って、今日中にパスーまで下りる。
バックパックを背負った旅行者達の姿を横目に、今、
彼等の見ている風景と僕の見ている風景は違うの
だろうな、と漠然とした寂しさを覚えていた。

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                                           スストはこの道の両側に並ぶバザールだ
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by meiguanxi | 2006-10-22 12:12 | インド・パキスタン
パスー(北パキスタン):氷河舌端の村
[ 北部パキスタン略図 ]                 
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                                                      KKHに迫るパスー氷河

グルミット を過ぎると、幾つかの峰を迂回し綴折りにKKH(カラコルム・ハイウェイ)は北上する。
グルミットから先、スストの手前まで暫くはフンザ川の右岸(進行方向左側)を走るのが、実は左山腹からは谷ごとに、
グルミット、グルキン、バトゥーラーなど幾つもの氷河が KKH 間際まで迫っている。
氷河の移動で道が寸断されることもあるという。


フサニ付近からのシスパーレ(7610 :右奥                      パスー手前からグルミットを振り返る
b0049671_1104047.jpgb0049671_1181018.jpg



パスー氷河舌端付近からのカールン・コー(6977)                         牛の散歩をする村人家族
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特にパスー村寸前の氷河(パスー氷河)の景観は絶景。
尾根を回り込み KKH は真っ直ぐパスー氷河に向かって進む。氷河舌端で180度カーブし、やがてパスー村に入っていく。
実はこの時は3週間の夏休みでの強行軍だったので、グルミットでチャーターしたジープでフンジェラーブ峠まで登り、
このパスーに下りて来たのだが、中国との国境を往き来するのなら、むしろ絶景を眺めながら歩いてしまった方が
気持ちの良い距離かもしれない。
パスーも小さく静かな村で、宿は数軒。ここからもグルミットで見たカールン・コーのノコギリの歯のような山肌が望まれる。
パスー氷河は割合に緩やかな氷河で、サイド・モレーンを奥まで進むトレッキングも人気がある。
ただ、ここもご多分に漏れず、地球温暖化の影響で氷河の後退が見られるそうだ。
今はどう成っていることか。嘆かわしいことだ。


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                                                           パスー氷河舌端
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by meiguanxi | 2006-10-21 11:11 | インド・パキスタン
グルミット(北パキスタン):奇山と杏娘
[ 北部パキスタン略図 ]                 
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                                    グルミットからのフンザ川カールン・コー(6877m)

フンザから西にカラコルム・ハイウェイを走ると、トリポール(7720m)やルプガールサール(7200m)の山塊に
行く手を阻まれる。
ここから再び北に進路取ると、ゴジャール地区だ。上部フンザとも呼ばれるが、フンザとは民族が異なり、
ワーヒー人という。彼等の言葉はワーハーン語。


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この北にはパキスタンとタジキスタンに挟まれた、アフガニスタン領の細い渓谷が中国領・新疆ウイグル自治区に
伸びている。そう玄奘が天竺(てんじく:ガンダーラ:現パキスタン)からの帰りに通ったワーハーン回廊だ。
ゴジャール地区は中国との国境までの広い範囲をさすが、ここはカシミールではなく、もはやパミールなのだ。


b0049671_1482146.jpg  道が北を向いて最初の村がグルミット。
  宿は数件あるが、カラコルム・ハイウェイの両脇に広がる
  小さな田園の村だ。安宿に置いてある僅かな品を除けば、
  日用品の買い物をする店もない。
  この辺りの谷は割合に開けていて、
  フンザ川もゆったりと流れている。
  川の上流にはカールン・コー(6977m)の
  美しい奇岩が怪しくそそり立っている。
  背後にはグルミット氷河が迫っていて、
  モレーンの上まで登ることも出来る。

  この辺りの宗教はフンザと同じで、
  イスラーム・シーア派の中のイスマイリー派。
  シーア派一派とはいってもあまり戒律の厳しくはない
  宗派なので、女性達はスカーフをしてはいても
  髪を出している。

  氷河へのミニ・トレッキングの帰り道、
  岩の斜面を駆け下りて来た少女は、
  何も言わずに杏子を差し出してくれた。



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                                                 谷の正面を右に回りこむとフンザ
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by meiguanxi | 2006-10-19 14:10 | インド・パキスタン
フンザ(北パキスタン):風の谷
[ 北部パキスタン略図 ]                 
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                                                フンザからのラカポシフンザ渓谷

夜明けのラカポシ
b0049671_1249273.jpgパキスタン北部の中心の町ギルギットの早朝、
バスはダンボールやら大きな麻袋やら
生きた羊やら何やらかにやら訳の分らない荷物を
満載して出発した。勿論、乗客もその隙間を埋める。
KKH(カラコルム・ハイウェイ)を北に向かったバスは、
フンザ川沿いに山塊を回り込み、やがて東に方向を
変える。
南にラカポシ(7788m)、ディラン(7273m)、
北にはシスパーレ(7610m)、パトゥーラ(7785m)、
それぞれに7000m級の山塊に挟まれた渓谷だ。

この道は山腹の急な斜面を削って造られていて、
片側は深い谷、反対側の斜面からは落石や
崖崩れが日常茶飯事だ。

この間の移動はボロバスだったので途中の景観を写真に撮れなかったのが残念なのだが、非常に運が悪ければ車ごと
谷底に落ちることもあるようだ。

フンザからのディラン(中央奥)                                         バルチット・フォート
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バルチット村老人
b0049671_1251178.jpg道はやがてカラコルムの高みに向かってぐんぐんと標高を
上げ、現中国実行支配領である新疆ウイグル自治区との
国境フンジェラーブ峠(4600m)に至る。
だがその手前、絶景の危うい道を走ること3時間、
バスの行く手フンザ川右岸(行く手左側)にフンザに至る
分かれ道が見えてくる。

乾燥した青い空に白い雲がゆっくりと流れ、
高いポプラと狭い畑の緑を風が渡る。
春にはアプリコットの花が里を染める。
『風の谷のナウシカ』の「風の谷」のモデルはこの辺り
であるとも言われている。

ここの人々の言葉は他の地域とは孤立していて、
一説にはアレキサンダーの末裔だという伝承もある。

フンザの中心はカリーマーバードと言う。
KKH沿いからミニバスか徒歩で登ることになる。
斜面に綴れ折りの狭い道が縫うほんの小さな村、
それでも今では、観光客の為の宿や土産物屋も軒を連ねる
明るい村だ。
この地域は1974年までは藩王の自治王国だったのだそうだ。


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                                                   下校風景(カリーマーバード)
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by meiguanxi | 2006-10-18 12:59 | インド・パキスタン