カテゴリ:カフカス( 12 )
アハルツィヘ (グルジア) : 博物館学芸員とドンキー・モンキー
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                                                                城塞跡


 アルメニアという国へ陸路で旅行する場合に厄介なのは、東隣のアゼルバイジャン、西隣のトルコとの間の国境がいずれも閉鎖されていることだ。南隣のイランとの国境は開いているもの、交通の便がすこぶる悪い。従って多くの旅行者の場合、グルジアから往復することになる。アルメニアとグルジアとの間には3つの国境が開いているが、交通の利便性上、3ヶ所の真ん中にあるムガロンというポイントを通過するケースが多いと思われる。とは言え同じ国境を戻るのでは能が無い。僕がアルメニアの首都イェレヴァンからわざわざ最も西にある辺鄙なニノツミンダの国境を通ってアハルカラキとう辺境の町に立ち寄った理由の一つだ。そしてもう一つの理由がヴァルジアの遺跡を見ることだった。
 だからアハルツィヘに宿泊することになったのも、ここを目的にしてのことではなく、ヴァルジア遺跡がアハルカラキとアハルツィヘの中間に位置していたからに過ぎない。ガイドブックには特に観光目的になりそうな物に関するアナウンスはなかったし、この町もアハルカラキ同様に淋しい所なのではないかと想像していた。ところが、着いてみるとなかなか明るい町だったのだ。


川沿いの家並み                                                     川沿いの風景
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 グルジアはその南辺の東部がアゼルバイジャン、西部がトルコ、その間がアルメニアと国境を接している。アルメニアとの国境線の西部付近をジャワヘティ、トルコとの国境線の東部付近をサムツヘといい、この両者を合わせたサムツヘ・ジャワヘティ地方というのが一つの行政区になっている。以前はメスヘティと呼ばれていた地域だ。メスヘティア・トルコ人という民族をご存知だろうか。メスフ人とも呼ばれる彼らは嘗てのこの地域の住人で、1944年にスターリンによって中央アジアへ強制移住させられたムスリム (イスラム教徒) だ。少なからぬ人々がこの過程で命を落としたという。民族とは言っても元々はトルコ系やアゼルバイジャン系、クルド人、イスラム化したアルメニア人やグルジア人だったのだが、移住先での地元民との軋轢からアイデンティティを一つにしていったようだ。ソ連崩壊後、帰還運動も起こったが、この地域ではアルメニア系住民 (キリスト教徒) との間に緊張関係が発生すなど未だに多くの問題を孕んでいて、現在も中央アジア諸国やロシア、アメリカやトルコに分散しているのが実情のようだ。
 現在のサムツヘ・ジャワヘティ地方の主な住民はグルジア人とアルメニア人で、アハルツィヘには一定のユダヤ人も歴史的に住んでいる。だがジャワヘティにアルメニア人が多いのに対して、サムツヘはグルジア人の割合の方が多いようだ。これは実際に行ってみれば分かることなのだが、言語的に古欧州語に分類されるアルメニア人の容貌は比較的に中東的で、カフカス諸語という或る意味で孤立的に分類されるグルジア人の容貌がヨーロッパ的なのだから不思議だ。アルメニアの歴史が多難なものであった証しだとも言えるのだろうか。僕は中東やイスラームに好意を持ってはいるが、一人で旅を続けていると段々と疲労のような物が溜まってくるのも確かで、欧州的な顔立ちの人々にほっとしたりもする。僕の中にも沢山の偏見や差別がある証しかもしれない。久し振りに天気が回復したことも、気分を明るくさせた大きな理由ではあるのだが。


アハルツィヘ俯瞰                                                         牛飼い
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 アハルツィヘはメスヘティ (サムツヘ・ジャワヘティ) 地方の中心の町とはいえ町自体には見所は無いと思っていたのだが、町外れの丘の上に城塞跡があり、そこにメスヘティ地方とアハルツィヘに関するけっこう立派な博物館があった。人が来た時にだけ開けるみたいで、感じの良い女性が付きっ切りで英語の説明をしてくれた。彼女の存在は実に特筆に価する。博物館が3フロア、城塞の中の教会 (元々はモスク) やバザール跡、ロシア軍の駐屯していた跡といった敷地内を案内してくれ、別棟のカーペット等の展示室も見せてくれた。ざっと1時間半位は説明してくれたのではないだろうか。それでたったの0.5ラリ (当時約25セント程度) だった。彼女の落ち着いた感じの良さとその熱心な仕事振りは、僕の気分をますます良好なものにした。
 今の街の中心 (宿はそのまた中心にあるのだが) は新市街で、彼女の説明では元々は川向こうの城塞の周りの斜面が町だったのだそうだ。そして川から向かってその右側にはユダヤ人地域が広がっていたらしい。その旧市街にはこの町で初めて建てられた教会が廃墟になっていたり、トルコ時代のハマム跡のドームが見られたりする。川の景観も美しい。期待していなかっただけにアハルツィヘの印象は相当に高くなった。


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                                                            教会跡の廃墟

羊飼いの家族
b0049671_1912750.jpg 夕食を摂りに入ったレストランで出してくれたのは羊か牛かはっきりしないのだがトマト風味のシチューで、とは言ってもこの辺りによくあるトルコ風のものではなく、ブイヤベースに良く似た味でとても美味しかった。これがハルチョというものだろうか。若い男達が注文したヒンカリ (中央アジアで言うマントィ、新疆のマントゥ、羊肉の餃子を茹でた物) をひとつ分けてくれる。明日もおいでみたいに言われたが、残念ながら明日も移動だ。ビールを買いに入った店の夫婦は、日本人の若い夫婦からの手紙を見せてくれる。トビリシで彼らを泊めるか何かしたものらしい。良い旅をしている人たちもいる。そしてこの国の人達は自分達でもそう自覚しているように、とてもホスピタリティ豊かな人達だ。
 だが無責任な旅行者が感じるものと、そこで実際に生活している人達が感じることは同じではない。夕方散歩していると初老のガッチリした男に英語で声を掛けられる。周りには彼の友人の男達が数人いて、彼は自慢げに僕の話を通訳した。日本は良い国だと言うので、そうは思わないと答える。当時、グルジアの大統領はシュワルナゼだった (参照)。ソ連でペレストロイカを推し進めたゴルバチョフ大統領時代の外務大臣で、ゴルバチョフが政権維持の為に保守派と妥協した時に 「独裁がやって来る」 と演説して辞任した人物だ。独立の際の内戦で混乱した国内を纏めるために請われて大統領職に就いたのだが、ロシアの圧力と欧米の思惑という難局の中で経済の回復は思うに任せなかった。
 「見てみろ、俺達の町の汚らしさを。グルジア人の95パーセントはドンキーかモンキーだ」 と初老の男は自嘲して笑ってみせた。この4年後、「薔薇革命」と呼ばれる無血クーデターが起き、シュワルナゼは政権を追われることになる (参照)。アメリカの思惑が働いたとも言われるこの政変がその後のグルジアにとって良かったのかと問われると、僕にはあのシュワルナゼの憂鬱そうな表情を思い出すしかないのだが、あの日、自らの生活をドンキー・モンキーと揶揄した老人の生活は少しは好転したのだろうか。
 いや、いずれにしても去年 (2008年) のロシアとの軍事衝突は、例え直接の接触は無かったとしても彼の周りの多くの物を生活から奪って行ったに違いない。彼らは美しく友好的な人々で、素晴らしい文化と歴史とを有し実に美味しいワインを作ることのできる人々だ。彼らの上に爆弾や銃弾は要らない。そこに居るのは決してドンキーやモンキーではないのだということを、大国の指導者や資本家は知るべきなのだ。


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                                                          羊飼いの子供達
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by meiguanxi | 2009-01-18 19:03 | カフカス | Comments(4)
ヴァルジア遺跡 (グルジア) : 石窟修道院と岩窟都市
[ カフカス略地図 ]
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                                                        ヴァルジア遺跡遠景


 アルメニア国境西側からトルコ国境東側に掛けた地域をサムツヘ・ジャワヘティ地方といい、嘗てはメスヘティと呼ばれていた。このうちアルメニア国境付近がジャワヘティ、トルコ国境付近がサムツヘだ。アハルカラキの記事で載せた写真の宿の名前がジャワヘティだった。アハルカラキからこの地方の中心の町であるアハルツィヘに到る道の途中、ヘルトヴィスイという所の丘の上に10世紀の城塞が建っている。ここから未舗装の道を南に反れて20km、トルコ国境間近にヴァルジアの洞窟修道院と岩窟都市遺跡がある。
 石窟遺跡と言うと敦煌およびウイグルスタン (現新疆ウイグル自治区) のベセクリク (トルファン) やクズルガハ (クチャ) の仏教遺跡、南イタリアで現在も使われているマテーラの洞窟住居、そしてトルコのカッパドキアなどが思い起こされる。洋の東西を問わずこのような建築様式が存在したことは不思議なことだ。ただ、ここヴァルジアの石窟修道院は、カッパドキアがキリスト教徒の隠れ修道院として建設されたのに対して、そもそもは要塞として着工されたものだ。


ヘルトヴィスイの城塞                                                 ヴァルジア遺跡
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 断崖の側面に6層に穿たれた窟の数は600、その全てが内部で繋がっているという話だ。12世紀にギオルギ3世によって始められた建設はその後、その娘でグルジア史上初の女王であるタマラによって修道院として完成した。
 タマラ女王の時代はグルジアの王朝が隆盛を極めた時代で、南カフカスから一部は現在のトルコ領にまでその版図を広げた。時おりしも1204年に東ローマ帝国 (ビザンチン帝国) の首都コンスタンティノポリスが第4回十字軍によって陥落する。十字軍がビザンチン帝国の首都を攻めたというのは以外かもしれないが、侵略とはそもそもが自分本位な利益の略奪に過ぎない。ビザンチンの皇族達はアナトリア (現トルコ共和国) の各地に散って小国を建て、やがてそのうちの一つがコンスタンティノポリスを奪還して東ローマ帝国を復興するが、嘗ての輝きを取り戻すことはなく、やがて1453年にオスマン・トルコによって滅ぼされることになる。さてこの首都陥落の時に造られた亡命政府のひとつがギリシャ系のトレビゾンド帝国なのだが、タマラはこの建国を支援したとされる。トレビゾンドとは嘗て書いたトラブゾンのことで、もともとギリシャ人の入植によって造られた町だった。国境の近くを歩いているとこのようにして歴史が繋がることがある。だが、現在のヴァルジアは荒涼とした廃墟だ。


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                                                       石窟修道院の天井画


 僕の場合には贅沢をして早朝のアハルカラキで寂れた市場前に屯していたタクシー・ドライバーと交渉したので、ヴァルジアまで1時間、ヴァルジアからアハルツィヘまで1時間20分の快適な移動だった。しかし本当はこの辺りの交通の便は決して良くない。アハルツィヘから1日に1本バスがあるが、帰路は翌日になる。遺跡近くの村に宿はあるようだ。その他はアハルカラキ行きをヘルトヴィスイで降りて20kmをなんとかするしかない。アハルカラキから直行のバスがあるかのかどうかは不明。


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                                                     ヴァルジア村付近の景観
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by meiguanxi | 2009-01-17 16:57 | カフカス | Comments(2)
アハルカラキ (グルジア) : 辺境の小さな町
           ― 或いは偏狭な旅行者の憂鬱な移動と不毛な闘い

[ カフカス略地図 ]
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                                                       アハルカラキの町並み


 その日は、と言うかその日もとても疲れた一日だった。アルメニアの首都イェレヴァン近郊のホルヴィラップで警察に拉致された (参照) 翌々日の朝7時前、イェレヴァンで民泊したララの家族がまだ誰も起き出して来ない裡に、ちゃんとお礼を言えないことを残念に思いながら宿を出る。確かにバラックのようだったしトイレと水浴び場の汚さと言ったらなかった。けれどある意味ではアルメニアの首都の決して金持ちではない普通の民家の生活状態を体験できた訳だ。何より宿泊事情の悪いイェレヴァンにあって、お世話になったのは有り難いことなのだ。

 バスターミナルへ着くと、アハルカラキ行きのチケットを売っている窓口はまだ閉まっていた。アハルカラキは3つある国境の最も西に位置するニノツミンダというポイント越えた先にあるグルジアの町だ。グルジアとの間を行き来するバックパッカーの多くは、その東50km程の交通の便の良いポイントを通る筈だ。アハルカラキ自体が決して観光ポイントではないようで、旅行人社のガイドブックにも21文字X7行のアナウンスがあるだけだ。窓口は相変わらず閉まったままだったが、やがて先にバスがやって来る。そういうことはこういう国は良くあることだ。幸いロシア語だったのでそれがアハルカラキ行きだと分かったのだが、アルメニア文字やグルジア文字ではお手上げだった。キリル文字ならまだなんとか取っ掛かりがある。運転手らしき男が切符を売り始める。こいつが実に嫌な奴で、ロシア語は分からないと言うのに全くお構い無しに、ロシア語だけで捲くし立てて何事か怒っている。僕の場合、着いた日にアハルカラキまでは1500ドラムと聞いていたので、2000だと言う運転手にちょっと抗議したのだが、彼の不機嫌は僕に対してだけではなかった。そちらこちらに不機嫌を撒き散らし、伝染させている。なんて奴だ。バスの料金が予定していたより高かった為に、何も買うことができなくなってしまった。一口サイズのチョコを口にしただけだ。

 8時15分に出発したバスは街を出るとやがて草原が広がる丘陵地帯の単調な風景の中を走り、国境の手前で昼食休憩。グルジアへは再入国だったので僅かなグルジア・ラリを持っていたのがだ、幸いなことにここではそれが通用した。ケーキとコーラを買う。やがて国境。相変わらずの丘陵地帯の草原で、例え緑があったのだとしても荒涼感というものはあるのだと感じる。この国境に於ける両国のイミグレーションは随分と離れた所にある。どちらも遊牧民の休憩小屋のようにぽつんと建った掘っ立て小屋といった佇まいだ。まずアルメニア側イミグレーション。例によってローマ字も読めないくせに、パスポートの端から端までチェックする。他国の入国の記録を見て何になるというのだ。ドライバーが苛々してやって来る。役人(警官?)に早くしてくれと文句を言う。まあ、何事も無く通過。問題はグルジア側だった。
 そんなことは予想も想定もしていなかった。全く英語を解さない連中なので何を言っているのか分からないのだが、とにかくかなりシビアにクレームを付けている。どうも賄賂とかそういう類のことではないらしく、バスから荷物を降ろさせようとまでした。例によって全く協力的ではなく親切心の欠片も無いドライバーも、早く行きたいが為に僕を降ろして行くことに乗り気だ。なんて奴だ。どうもダブル・エントリーのヴィザを理解していないか、或いはアルメニアに出国した時のスタンプに何か問題があったのか、多分どちらかのようだった。そのうちに乗客のうちの数人の男達が乗り込んで来て、役人と口喧嘩を始める。もちろん何を言っているのかは全く分からなかったが、結果的には彼らのお陰で放免となる。ただその役人は投げ槍に成ったようで、スタンプを押してくれと言う僕に、スタンプはプロブレムだと言い捨てる。どうも後で問題になるというようなことを言っていたようにも思う。やれやれだ。お陰でトルコに入る日まで不安を抱えることに成ってしまった。いったい僕が何をしたと言うのだ。僕はちゃんと手順を踏んで貴方達の国の決めたルールに従ってダブル・エントリー・ヴィザを取得して来たのだ。これは後にトルコへ出国する時にははっきりするのだが、アルメニアに出国した際に押されたスタンプは入国印で、従って出国印の無いままダブル・エントリーのヴィザに既に2つの入国印が押されていたのだった。少し言い訳をしておくと、それらのスタンプに書かれた文字は国名を除けば全てグルジア文字で、もちろん僕には全く読めなかった。

                                     国境を越えると道はますます悪くなった。道と言うより殆ど
宿泊したホテル・ジャワヘティ                オフ・ロードと言って良さそうな状態だ。天候も悪くなる。それで
b0049671_1843686.jpgも全体に曇りがちではあるのだが、方向によってはまだ青空も覗いてはいる。ただし、ひとつの方向だけは真っ黒な雲に覆われていた。そしてその下は絶望的に真っ暗だった。そこに世界の終わりが口を開けて待っているんだというような不吉な暗さだ。勿論、バスはそこを選んだかのように真っ直ぐにまさにその方向に走っていく。なんてことだ。15時40分、休憩を含めて7時間走り続けたバスが漸くアハルカラキに入る。アハルカラキはまさにその真っ黒な雲の下にあった。道の端にはたった今しがた降った霰(あられ)がその形のまま吹き溜まっていた。

 町に一軒の宿は営業していたし両替もできた。本当の安宿だがシャワーなんて最初から期待していない。恐ろしく淋しい町だった。むしろ村と言うか集落と言うか、そんな感じだ。まあいい、ひと晩のことだ。食事をした後、小雨の中をガランとして活気の無い淋しい町を歩いていた。車が僕の横に停まった。警察だ。彼らはそのまま僕を町外れの警察署まで連行した。なんてことだ。僕は一昨日、ホルヴィラップで警察に拉致されたばかりなのだ。いったい僕が何をしたと言うのだ。パスポートは宿にあると言うのにも関わらず、彼らは警察署に車を走らせた。警察署はまるで閉鎖になった拘置所のような建物だった。結局、パスポートをチェックするために宿まで戻ることになる。途中で地域の英語の教師だという男が拾われ、宿まで同行する。彼の通訳のお陰で、その後はそれなりに和やかに事が進むことになる。最後に
                                   は、何か問題があったら警察署まで来てくれと言って警察官は握手を求めた。言葉さえ通じれば案外に友好的な人達なのだろうか。それにしても彼はパスポートのIDを見ただけでヴィザのチェックすらしなかった。
 夕方には一旦は陽が射してきたのだが、夕暮れ時(9時過ぎだ)になるとまたすっかり曇って小雨が降りだした。宿の電気は酷いもので、薄暗いなんてものじゃない。もっと悪いことにはそれがチカチカするのだ。偏狭の田舎町とはいえ、グルジアの経済状況を目の当たりにする思いだった。サラミでビールを呑みながら日記を書いていると、誰かがドアをノックする。そんな場合に無闇にドアを開けることがどんなに危険であることか色々なニュースで知っているし、僕はそれほど不注意でもない。けれどとにかく英語が通じないのだ。相手が何事かロシア語で応答したので、怖くもあったが身構えながらドアを開けてみる。さっきの人たちとは違う警察関係者だ。やれやれ、なんてことだ。宿の親爺の所に連れて行って、既に警察が来たことを告げて貰う。それを知ると彼は I'm sorry と英語で言って去って行った。あまりに素直なので思わずこちらから握手を求めてしまった。

 いい加減にしてくれと言いたい思いだった。だが実はこの辺りの住民は殆どがアルメニア人なのだという。従って歴史的にも今もグルジア政府との間に軋轢があるらしい。2008年にロシアとの衝突があった南オセティア (参照)、西北部の事実上独立状態にあるアブハジア、トルコ国境に位置する独立志向の強いアジャラ (参照)、それらと並んでここアハルカラキのアルメニア人はグルジアの抱える民族問題のひとつなのだ。彼らの生活は僕などには分からない緊張の中にあるのかもしれない。頼まれた訳でもないのに勝手にやって来た興味本位の旅人が、少しくらい不便や不快を被ったからといって文句が言えるような筋合ではないのだろう。


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                                                       アハルカラキの町並み
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by meiguanxi | 2009-01-14 18:51 | カフカス | Comments(4)
ホルヴィラップ修道院 (アルメニア) : ノアの箱舟が漂着した山と子孫
                          或いは偏狭な世界を彷徨う偏狭な旅行者の話

[ カフカス略地図 ]
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                                                     ホルヴィラップ修道院遠景


 そんな訳で、あっ、何がそんな訳かと言えば詰まりはこんな訳で、アルメニア人は自分達をノアの子孫だと言い張っている。いや旧約聖書によれば現存する全ての人類が 「ノアの箱舟」 のノアの子孫だということになっていてるのだが、自分達こそは直系だと主張してるのだ。ノアには3人の子がいて、セム、ハム、ハベテという。ノアはこのうち、ハムの子に呪いを掛けてしまう。ノアにしてみれば孫だ。ハムが寝ている自分の裸を見たことに腹を立てたという、まあ、なんというか、しょうもない理由だ。呪いはハムの子の子孫がセムやハベテの子孫達の奴隷になるというもの。ハムがアフリカ人の、セムがアジア人、ハベテがヨーロッパ人のそれぞれ祖先になったとされる。端からアフリカ人を奴隷として差別されるべき者としているのだから酷い話だ。まあ、そもそも悪行を行っているという理由で大洪水を起こして地上の生きとし生けるものを殲滅させることにしたのが神様なのだし、神様は自分に従順なノアのみを助けたのだから、神からして偏狭で酷い奴なのだ。ここで言うセムのアジア人というのはオリエントのことで、その直系がユダヤ人というこなのだろう。いずれにせよ我々モンゴロイドはまだ人でさえない世界での話だ。で、アルメニア人たちが言うには、ノアの箱船が漂流したのがアララット山 (そう言っているのは世界中のキリスト教徒だが) で、自分達はハベテの直系だというのだ。まあ、言い張っているのかどうかは知らないが、伝承ではそうなっているらしく、従ってアララット山は彼らにとってはジェネシスとして崇められている、らしい。実際、アルメニアは西暦紀元301年、かのローマ帝国より早く世界で最初にキリスト教を国教に定めた国だ。

 アララット山、僕はこの山の標高を 5165mだとずっと思っていたのだが、近年のGPSによる調査で 5137mに修正されたらしい。日本語の表記も最近では 「アララト」 とする傾向があるようだ。やれやれ…だが僕がこの山を初めて見た時には 「アララット」 だったし、その後何度もアララットとして見てきたのだから、今更心情は変えられない。呼び名は心情とは関係が無いじゃないかという寛大な (そして尤もな) 意見もあるだろうが、そうはいかない。地名や山や川の名前は旅情や思い出と密接に結びついているのだ。だから僕は未だにインドのコルカタと言われてもしっくり来ない。英国による植民地支配下での呼び方だと非難されても、やっぱりカルカッタと言った方があのねっとりとした空気や臭いや喧騒を実感として想起できるのだから仕方が無い。僕は神やノアの程度には充分に偏狭なのかもしれない…
 閑話休止… このアララット山は現在、トルコ共和国にあり、アルメニアの領土はその東側裾野までだ。因みにこの山の南東はイラン領で、イランからトルコへの国境ポイントはこの山裾になる (アララット山画像 ;トルコ側イラン側)。アルメニア人たちが心の故郷と呼ぶ山なのだからと、ある日僕は見に行くことにした。2000年5月末のことだ。トルコやイランで既に何回か見ていた訳だが、アルメニアから見るアララットはまた何か違うのかもしれない。場所はホルヴィラップ修道院。首都イェレヴァンの鉄道駅からバスに乗り南へ約40km、トルコ国境の直ぐ近くだ。だが、結論を言えばアララットを見ることは出来なかった。天気の所為だ。上の写真の雲の中にアララットはある、筈だ。

 さて、ガイドブックには徒歩20分とあったのだが、ホルヴィラップ修道院はバスを下車したところから1時間たっぷり掛った。写真が遠くて見辛いかもしれないが、十字型の建物に円柱の塔と尖がり屋根がアルメニア教会の特徴で、グルジアの教会と非常に良く似ている(画像 : グルジア教会)。
 帰り道、乗って行きなと声を掛けてくれた車があった。とても有り難かったがその少し先で写真を撮りたかったので、丁重に断る。到って友好的な人達だ。ところがだ、一旦は走り去った筈の乗用車が暫くするとUターンして来た。そして運転手はさっきとは明らかに違う口調で言った。
「パスポートを見せろ」
 いや、英語ではない、おそらくロシア語だった。自分のIDカードをちらっと見せただけで隠すように仕舞ってしまう。怪しいことこの上ない。ナショナル・セキュリティだと言う。ナショナル・セキュリティ…国家保安官、公安、旧KGB・・・。勿論そんな訳の分からない連中に素直にパスポートを手渡す馬鹿はいない。すると彼は大声で何かを怒鳴り始めた。こちらも負ける訳にはいかない。誰がお前達みたいなのに騙されるかと必死だ。なんとか振り切ったものの、その二人組みは僕の後を車で付いて来る。なんてしつこい奴らだ。途中で追いついて来たかと思ったら、また怒鳴り合いだ。漸くもう直ぐバスが通る道に辿り着こうとした時、走って来た別の乗用車が乱暴に僕の横に車体を寄せて停まった。そして運転手以外の三人の制服警官が取り囲み、有無も言わせず両脇を抱えて車に押し込まれる。吸い掛けていた煙草を勝手に取り上げて捨てられる。そして随分と離れた街にある警察署まで連行されることになった。まあ、今度は制服を着ているのだから取り敢えずは安心なのだが…
 中央アジアやカフカスでは警官に気を付けろ、というのが当時の旅行者の常識だった。問題の無いヴィザにいちゃもんを付けて賄賂を要求したり、マネー・チェックと称して現金を抜き取るといった事例がゴロゴロしていた。実際に僕も鉄道駅やバスターミナルや地下鉄の駅や国境や到る所で警官達と闘ってきたので、相当にナーバスに成っていた。だから、あるいは必要以上に好戦的な態度を執ってしまったのかもしれない。
 警察署では薄暗い倉庫のような所に通され、十人近い警察官達に取り囲まれる。路上で最初に声を掛けてきた奴は本当に嫌な奴で、態度も横柄だった。何の問題も無いパスポートをあれやこれや弄り回し、同僚に見せたり投げたりしている。その間ずっと彼らはロシア語とアルメニア語、僕は英語と日本語とロシア語の少しの単語で喧々諤々。ついに彼は全ての出入国記録をメモし始めた。そんなことをしてお前にそれをどうできる。コンピュータだって無いみたいだし。ただの嫌がらせ、もしくは引っ込みの付かなさとしか思えなかった。すったもんだの挙句、他の警官達に説得されたらしい彼は、腹立たしそうにパスポートを投げてよこした。嫌疑は晴れ、別の警官 (僕を拉致したうちの一人だ) がバス乗り場まで連れて行ってくれることになった。彼は運転手に金は取るなと言ってくれたみたいだった。
 やれやれ、それにしても初めの親切そうな声掛けは何だったのだろう。そして僕はそんなに怪しく見えたのだろうか…世界は偏見と偏狭と非寛容に満ち満ちているようだった。憂鬱な気持ちで宿に戻った僕がその夜、買って帰ったビールとワインとをしこたま呑んだのは言うまでも無い。
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by meiguanxi | 2009-01-12 19:56 | カフカス | Comments(4)
イェレヴァン (アルメニア) : 隣国との民族紛争を巡って
[ カフカス略地図 ]
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                                                         エチミアジン大聖堂


 旧約聖書の創世記に記された 「ノアの箱舟」、それが漂着した場所がアララット山だとされる (アララット山画像 ;トルコ側イラン側)。創世記に依ればノアには3人の子がいた。セム、ハム、そしてハベテ。アルメニアの伝承によれば、このハベテの子孫がやがて 「ハイ」 という人々になる。 「ハイ」 はアルメニア人の自称だ。因みにアルメニアの自称国名はハヤスタンという。現在のアルメニアはカフカスの小国に過ぎないが、古来、アルメニアと呼ばれる地域は、黒海からアナトリア半島 (現在のトルコ) 中部およびその南に広がる広大なものだった。西暦301年に世界で初めてキリスト教を国教と定めた国としても知られる。

 さっそくで申し訳ないのだが、ここで何時ものことながらお断りしなければならなそうなのだ、このエントリーもあまりイェレヴァンの紹介にはならないようだ、と。


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                                                         イェレヴァンの街並み


 アラブ人の侵入、ペルシャによる占領、トルコとロシアによる割譲…アルメニアの歴史は多難だ。この間に多くのアルメニア人が流出する。特にオスマン=トルコ占領下の第一次世界大戦時、ロシアに付いたアルメニア人に対するトルコによる大虐殺は凄惨を極め、少なくとも100万人もの命が失われたという。これにより、西部のトルコ占領下アルメニア (東部はロシア占領)からは住民が消えた。そこに流入して来たのがクルド人だ。

 首都イェレヴァンからは、運が良ければ彼らが自らの起源であるとするアララット山が遠く望めるが、今そこはトルコ領だ。アルメニアとトルコとの国境は現在、閉鎖されている。ソ連末期の1988年、ナゴルノ・カラバフ自治州の帰属を巡り隣国アゼルバイジャンと民族紛争が勃発する。ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャン領内にありながら住民の多くはアルメニア人だったのだが、ソ連時代初期、当時民族問題の担当人民委員だったかのスターリンよにってアゼルバイジャンに編入されることに成った地域だ。91年、ソ連の崩壊により両国はそれぞれ独立するが、アルメニアはナゴルノ・カラバフにも一方的に独立を宣言させ、更にナゴルノ・カラバフとの間に横たわるアゼルバイジャン領 (ラチン回廊) を占領、住民の大半を占めていたアゼルバイジャン人は難民となった。現在に到るまでナゴルノ・カラバフを承認しているのはアルメニアのみだ。一方、アゼルバイジャン国内では多数のアルメニア人が虐殺されたとも伝えられる。この時、トルコは同じテュルク系民族の国であるアゼルバイジャンを支持し、経済制裁の為にアルメニアとの国境を閉ざし現在に到っている。94年、ロシアとフランスの仲介で停戦になったが、ラチン回廊のアルメニアによる占領は続いており、現在までこれら領土を巡る民族紛争解決の目処は立っていない。


ガルニ神殿                                                    マテナダラン古文書
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 この地域を巡る情勢は簡単に白黒を付けられるほど単純ではない。最初期、アルメニアによる占領は世界から非難されたが、ロシアはアルメニアを支援したと言われる。またアルメニア移民の多いアメリカからは大量の資金が流れた。アルメニアに経済制裁という形で圧力を掛けるトルコはしかし、アルメニアが主張する第一次世界大戦時の多量虐殺という歴史認識を共有していない。一方、両国の南に位置するイランは自国北西部に大量に抱えているアゼリー (アゼルバイジャン人) の独立志向を抑えるためにもアルメニアを支持する。実は宗教的にはアゼルバイジャンはイランと同じシーア派で、トルコはスンナ派なのだが。
 アゼルバイジャンのバクー近海のカスピ海油田に関する戦略からアメリカは、ナゴルノ・カラバフと占領地域をアルメニア領とする代わりに、ナヒチェヴァンとアゼルバイジャン本国とを南端で結ぶ幅10kmの地域 (メグリ地方) をアゼルバイジャンに割譲するという領土交換案を出している。ナヒチェヴァンとは、アルメニアとトルコに挟まれたアゼルバイジャンの飛び地だ。本国とこの飛び地とを繋ぐことによって、カスピ海油田からのパイプラインはアゼルバイジャンから直接トルコを経由して地中海に繋がることになる。勿論ロシアにとっては避けたい構図だ。また実際に既に占領 (アルメニアにしてみれば失地回復と言うのかもしれないが) しているアルメニアにとっては何のメリットも無いばかりか、支援国イランとの間が分断されてしまうことになるから、なかなか呑めない案だ。
 一方、占領がアルメニアにとって一方的に有益な状況なのかと言えば、全く事態は反対なのだ。アゼルバイジャンとの紛争とトルコによる経済封鎖によって国内経済は瀕死の状態にあり、そのために国民の流出が続いているという有様だ。実は近年、その状況を打開しようと先の領土交換案が具体的に進行しそうになったことがあるのだが、国民感情 (ナショナリズム) が政府の方針を排除してしまった経緯がある。まさにダブルバインドだ。
 ところがここにきて、ロシアやトルコによる解決模索の動きが急になってきた。グルジアでの紛争 (参照) も影響しているのだろうし、勿論それぞれの国の思惑による動きである訳だ。ロシアの思惑で事が動くというのはあまりぞっとしないにしろ、いずれにしてもアルメニアとアゼルバイジャン両国民にとって有益な結果になるような形で、平和裏に解決してほしいものではある。
 アゼルバイジャンのガバラという田舎町を一緒に散歩していた中学生が、アルメニアが如何に極悪であるのかを興奮しながら訴えてきた。「でも彼らだって君達を恨んでいるのかもしれない」 としか言えなかった僕は、とても憂鬱なものを感じていたのだった。


ゲガルド修道院                                          ゲガルド修道院参道のパイ売り
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 さて、イェレヴァンの歴史は紀元前に遡るが、現在の街はソ連時代に計画的に整備されたもので、歴史的な街並みは無い。だが、郊外にはアルメニア正教発祥の地エチミアジン大聖堂、1世紀建立のガルニ神殿跡など見所は多い。また、アルメニアは5世紀から独自のアルメニア文字を使用していたことでも有名だ。
 国境は東隣のアゼルバイジャン、西隣のトルコ及びナヒチェヴァンともにもちろん閉鎖されている。南隣のイランとの国境は開いているが、交通の便は酷く悪く、僕が訪れた2000年の情報ではバスを数日待つ覚悟が要るという状況らしい。従って最も現実的なのがグルジアからで、こちらは知る限り3ヶ所の国境が開いている。グルジアの首都トビリシからは直行バスがあり、ムガロンという国境を通って8時間。この東50kmほどの国境を通過してデベド渓谷のアラヴェルディを南下すれば近い筈なのだが、バスはここを通らない。また、ムガロンの更に西50kmほどの所にニノツミンダという国境があり、不思議なことにイスタンブールからの直行バスが通過する。直接には国境を閉ざしているのだが、グルジア経由なら四の五の言わないということだろうか。

 前にも書いたが、中央アジアやカフカスの旅では宿探しに苦労する。特にこの街にはおよそ安宿というものが無い。そこで民泊することになる。泊めてもらったのは決して状態の良い家ではなく、水周りとトイレに関しては控えめに言っても悲惨を極めた。たが、何処の馬の骨とも知れぬ怪しげな外国人を泊めてくれる家があるということだけでも、有難いことなのだ。何処の馬の骨かも知れぬ外国人に向ける寛容…仇ではあっても隣国の人々に向けられぬ筈はない、そう思うのだが。


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                                                       ゲガルド修道院の内部
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by meiguanxi | 2009-01-10 19:41 | カフカス | Comments(0)
クタイシ (グルジア) : ナショナリズムと大国の思惑
     或いは南オセチア(オセティア)問題を巡って

[ カフカス略地図 ]
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                                                          バグラティ大聖堂


 クタイシなどという街の名前を知っている日本人は決して多くはないだろうし、何か特別なことでも起こらない限り日本でマスメディアに載るようなことは無い筈の街だ。グルジアにとっては2番目に大きな街だとはいえ人口20万に満たないような規模の田舎町に過ぎないし、街外れの丘に建つのバグラティ大聖堂と近郊のゲラティ修道院は世界遺産にも登録されているとはいえ派手なものでもなく知名度は必ずしも高くはない。ところがそんな街の名前がここ数日、ニュースで盛んに流されている。
 2008年8月8日、グルジア国内でありながら事実上の独立状態にあった中北部の南オセチア (オセティア) 自治州 (自称) にサアカシュヴィリ政権が軍事侵攻した(とされる)のに対して、南オセティアの後ろ盾であるロシアが介入、2日後にはグルジア軍は自治州から撤退し、フランスの調停で停戦合意が成されたにも拘らず、ロシアは自治州から境界を越えてグルジア中部の都市ゴリに進行、さらに西進してクタイシに迫っているというのだ。
 首都トビリシからゴリを通ってクタイシに到るルートは、グルジアにとっては鉄路・道路ともに最大の大動脈だ。ここから更にバスで2・3時間程西には黒海に面した重要な港湾都市であるポティ (ポチ)、その南にはトルコとの国境に近いパドゥミがある。トビリシから西に向かうルートはグルジアにとって正に生命線なのだ。

 さて、南オセティアを巡る問題それ自体に関しては今、どちらがどうだと言えるような情報・資料を持っていない。そもそもグルジアの国境線が画定したのはソビエトの時代であり、7割を占める主要民族カルトヴェリ (グルジア人) でさえ東西で歴史が異なる。4世紀頃にはキリスト教を受け入れた聖教会系の民族だが、古来、グルジア東部がイヴェリア (カルトリ) と呼ばれたのに対し、ここ西部はコルキスと言った。『女王メディア』 という戯曲をご存知だろうと思う。その舞台が、実はこの地方なのだそうだ。東部はペルシャの影響が強く、西部はギリシャやビザンツ、オスマン・トルコの影響力が強かった為、現在のグルジアが有史上統一されていたことは、10~12世紀を除けば無い。その時のバグラット朝の時代には、ここクタイシに首都が置かれていた。
 また先に挙げたパドゥミのあるトルコとの国境付近にはつい4年前の2004年まではアジャラ (アジャリア) 自治共和国というグルジア内共和国があり、戦闘状態といういうような状況ではなかったものの中央とは独立した運営がなされていた。大方のカルトヴェリがグルジア聖教徒であるのに対し、アジャリアの民族であるアジャラ人はオスマン・トルコの時代にイスラーム化したカルトヴェリだ。2004年、“薔薇革命” と呼ばれるグルジアの政変を巡っては一食触発状態になり、その経緯の中でアジャリアは大統領直轄統治になって今に到っている。


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                                                           モツァメタ修道院


 このように同じカルトヴェリ内ですら複雑であるのだが、この国をより難しくしているのが西北部のアブハジア自治共和国 (自称) と 南オセティア自治州 (自称) だ。アブハジアが自治共和国としてグルジアに編入させられたのはソ連時代なのだが、帝政ロシアの支配から逃れるようにムスリム化していた多くのアブス人(アブハジア人)がオスマン・トルコに流失しており、グルジアに編入された時点での人口比では既に圧倒的な少数になっていたらしい。だが、アブハジアをグルジアに編入させたのはあのスターリンだ。ご存知の通りスターリンはゴリ出身のグルジア人だ。

 1991年、ソ連邦の崩壊によってグルジアは独立する。その過程で旧勢力と民主派・民族主義派などの改革派が激しく対立するが、結果的には改革派が勝利してグルジア最高会議議長だったガムサフルディアが初代大統領に就任する。しかし他の多くの旧ソ連圏の独立国がそうだったように、就任すると民族主義的かつ独裁的な色合いを強めることになる。アブハジアの自治を廃し極端な反ロシア政策を進める中で、ロシアに後押しされたアブハジアとの戦闘は泥沼化し、十数万とも言われるグルジア系住民がアブハジアを追われて、グルジア国内で難民化した。トビリシの記事で紹介したホテル・イヴェリアが難民アパートに成ってしまったものこの時の戦乱の為だ。ちなみにクタイシのホテル・クタイシも同様に僕が訪れた2000年になってもアブハジア難民の宿舎化していて、洗濯の水も午前中2時間だけ出るという有様だった。
 92年、こうした状況に反大統領派がクーデターを起こし、彼はチェチェンに亡命する。この結果として新しい指導者として招かれたのが、ゴルバチョフ時代の外務大臣を務めたシュワルナゼだ。翌93年、アブハジアと接するサメグレロで起こった反乱に乗じて帰国したガムサフルディアは、一時はクタイシを占領するに到る。改革派とロシアとの間で難しい舵取りを迫られていたシュワルナゼがCIS (独立国家共同体 : 旧ソ連邦の国々で作る国家連合体) への加盟を呑むことになったのはこの時だ。これにより反乱軍はロシア軍の援助の下で鎮圧され、ガムサフルディアは自殺する。これ以後、アブハジアとグルジアは戦争状態とはいえ、国境には国連停戦監視団やCIS平和維持軍 (実質的にはほぼロシア軍) が展開することになり、国際社会の承認は得られないもののアブハジアは実質的にロシア保護下の独立状態が続いている。

 一方、今回の直接的問題である南オセティアでもグルジアの独立以来、グルジアからの分離独立・ロシア内の北オセティア共和国への編入への運動が激しく、アブハジア同様にグルジア軍との間で激しい内戦が続いたが、シュワルナゼが就任した年に停戦合意がなされ、OSCE (欧州安全保障協力機構) が監視に当たり、事実上は双方不干渉という曖昧な状態にあった。以前紹介したグルジア軍用道路はこの境界線の直ぐ東側を北上している。帝政ロシアがコーカサス進軍の為に作ったこの道は、国境を越えればロシア連邦北オセティア共和国の首都ウラジカフカス (ソ連時代の名称=オルジョニキーゼ) に繋がっている。



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                                ゲラティ修道院


 さて、分からないことが2つある。オセティアの主要民族であるオセット人は北が正教徒、南がムスリムだったのではないかということが1つ。北オセチアのオセット人が比較的親ロシア的だったとしても、ムスリムである南のオセット人にはロシアへの反感はないのだろうか。2001年の9.11 以後、僕が予想した通りロシアはチェチェンの独立派にテロリストというレッテルを貼ってボコボコに虐殺した。その時に前線基地にされていたのが北オセティアだ。それまではチェチェン問題ではロシアに批判的だった国際世論は、「テロとの戦い」 というお題目の下にチェチェンを見殺しにしたのだ。その為に故郷を追われた多くのチェチェン難民を受け入れているのは他ならぬグルジアであり、そのこともまたグルジアとロシアとの関係を微妙なものにしている一因なのだが、南オセット人にしてみれば同じムスリムであるチェチェンへの同情やロシアへの反感があっても不思議ではない気がするのだが。
 グルジア独立直後の内戦の停戦後、南オセティアでは独立を巡る住民投票が行われ圧倒的な支持を得たとされるが、そもそも現在の南オセティアに於ける民族構成はどうなっているのだろう。また上記のような状態で国際社会の監視無しに行われた投票の結果には、どの程度の信憑性があるのだろうか。そして、グルジアからの離脱の意思はロシア連邦への編入の意思を伴うものなのだろうか。
 この辺の事情についてマスコミは伝えない。アメリカやロシアなど大国の思惑と戦略上のことには興味があっても、グルジアという小国自体の事情にはあまり関心が無いのかもしれない。

 もう1点、分からないことは現在のサアカシュヴィリ政権が何故この時期に南オセティアに侵攻したのかということ。先にも述べた通り、シュワルナゼは改革派と旧勢力、民主派と民族派との均衡の上に難しい舵取りをしていただけではなく、地勢的条件として欧米化とロシアからの圧力という更に難しい綱渡りをしていた。だがそれは急進派から見れば中途半端な改革と映る。漸進的な改革は勢い旧勢力の腐敗を助長、或いはその温床にもなる。アブハジアや南オセティアに対する姿勢は、ガムサフルディアの時とは反対に軟弱だと民族主義派には映る。これはソ連に限ったことではないが、支配や抑圧から民族が独立していく時には常に民族主義が後ろ盾になるしかないという現実がある。
 2003年11月、議会選挙が不正だったとして反政府派が議会を占拠する。この時、アメリカもこの選挙の不正を指摘し非難した。シュワルナゼは辞任に追い込まれ、翌04年1月の大統領選挙で当選したのが反政府派の統一候補だったサアカシュヴィリだ。因みに、先に触れたようにロシアの後ろ盾の下で独自の自治権を行使していたトルコ国境のアジャラ自治共和国の最高会議議長アスラン・アバシゼがこれを認めず、大統領支持派によって辞任に追い込まれた結果、アジャラの自治権が失われたのはこの時だ。


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クタイシ遠景                                                     バルコニーの老人


 この2003年末の政変、実質的無血クーデターは薔薇革命と呼ばれるが、この政変にはアメリカの意思が大きく作用したらしい。こんな小さな国に何故、ロシアやアメリカなど大国の思惑が絡むかといえば、その最大の現実的原因はその地勢的条件なのだろう。グルジアの東にはトルコ系民族のアゼルバイジャンがある。アゼルバイジャンのカスピ海沿岸ではとうの昔に一旦は枯渇したと思われた油田が再発見され、そのパイプラインがグルジアを通ってトルコから地中海に伸びている。こう言ってはなんだか、経済的にも国土面積でも人口でも取るに足らないような小国にすぎないが、しかしながらロシアにとっても欧州にとっても非常に重要な国であるのだ。
 この薔薇革命が起こった時 (当時はそのような名称はまだ付いていなかったが)、「民主派の勝利」というニュアンスとして伝えられたにも拘わらず、僕は何か少し不安なものを感じていた。改革が進んで経済が発展し、民主主義や人権やといった概念が欧州並みの方向へ向かうのならば歓迎すべきことだが、先にも述べたように急進的な変革は時に民族主義や強権独裁の色彩を帯びることがある。グルジアの民族模様は複雑で地勢上も難しい位置にあり、まして時代は 「テロとの戦い」 の時代であり、後ろ盾がブッシュ政権であるらしいということが非常に引っ掛かっていたのだ。
 今回の南オセティアへの侵攻がどのような国内外の状況・事情、思惑の下に行われたのかについての情報を持っていない。だた、南オセティア進行後の8月12日、CIS脱退の意向を表明し EU や NATO への加盟をめざしもいるらしいサアカシュヴィリではあるが、民族主義的のみならず近年は言論統制をするなど独裁的傾向への傾斜に反発も強まっていると言われる。僕は必ずしも例えばオセティアのようなマイクロナショナリズムを歓迎するものではないが、思うにグルジアのやるべきことはソ連からの独立後に必要でもあったのだろうナショナリズムからそろそろ脱して行く方向を模索することであるし、その中で南オセティアやアブハジアなどのマイクロナショナリズムを止揚する為の寛容や共存といった理念を学ぶことなのだ。なにも模範はロシアやアメリカだけに求める必要はない。


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                                                      バグラティ大聖堂の内部


 以上、長々と歴史と状況を辿ってみても尚、今回の南オセティアを巡る事態に関しての責任の所在、正義の所在がどの辺にあるのかを勧善懲悪的に確定させることはできない。アメリカのブッシュ大統領は 「武力で隣国の主権国家を侵略し、民主的に選ばれた政府を脅かすやり方は21世紀の外交手法として受け入れがたい」 とロシアを非難したそうだ。一方のロシアは 「ロシアが警告してきたにも関わらず、グルジアの軍備増強を支援するという危険なゲームを続けてきたのはアメリカだ」 と反論した。「危険なゲーム」 をアメリカがしていたからといってロシアのグルジアへの進軍の正当化にはならないが、ブッシュの発言もロシアへの批判としては的を射てはいるものの、結果としてサアカシュヴィリの民族主義や強権的傾向を助長させ、それが今回の南オセティア進行に繋がったのだということも事実だろう。ロシアが力でグルジアを封じ込めようとしていることとグルジアの南オセティアに対する政策は相似的なのだ。そして何より、ブッシュの言葉は彼自身がアフガンやイラクで行っていることに対する、見事な 「批判」 となっている事実に彼は気付くべきだ。

 ただ、今言えることは、南オセティアからのグルジア軍の撤退とフランス仲介による停戦合意が成されたにも拘わらず、ロシアがグルジア領内に軍を展開し続け、更にそれを拡大しようとしていることに正当性が無いということだけは確かだということだ。
 クタイシの街外れ、ウキメリオニの丘にある1000年前に建立されたバグラティ大聖堂は完璧な廃墟だ。長いこの街の歴史を見下ろしてきたこの大聖堂が、今一度戦乱を目撃することの無いように願わずにはいられい。


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 僕はグルジア人のホスピタリティに触れてすっかりこの国が好きになった。ワインは美味いし美人だって多い。上の写真はクタイシの物ではない。今年 (2008年) の正月にこのブログで挨拶として使った物で、首都トビリシで撮影されたものだ。その時僕はこう書いたのだった。


           ほんの少しずつでも きっと何時の日か
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by meiguanxi | 2008-08-17 21:30 | カフカス | Comments(6)
アラヴェルディ (アルメニア) : 断崖の上の修道院の町
[ カフカス略地図 ]
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                                  川沿いの町と対岸の断崖の上の町とを繋ぐロープウェイ

 グルジアの首都 トビリシ から、南のアルメニアに向かう道は2本ある。このうち首都イェレヴァンへの国際バスは、ムガロンという国境を通る。だがこの道は西に迂回するので、デベド渓谷沿いのアラヴェルディは通らない。トビリシから真っ直ぐ南にバグラタシェンという国境がある。ところが中央バスターミナルに行くとこの国境へのバスは、無い。しかも、どこからそのバスが出るのか、全くコミュニケーションが取れない。英語が通じない国を旅する難しさ。

サナヒン修道院(以下3枚同)         結局、50km程も西に迂回するムガロン国境経由で、ヴァナゾルという町まで
b0049671_183736.jpgのバスに乗る。アラヴェルディの南50kmの町。ここでバスを乗り換え、渓谷を1時間半も北に遡らなければならない。それよりなにより、真っ直ぐ南に下れば国境まで直線距離で100kmも無い筈なだが、迂回路(こちらが幹線)でヴァナゾルまでは6時間も掛かってしまう。山岳路である上、道が至って悪い。
 しかも、15時半に到着したそのヴァナゾルのターミナルでは、既にアラヴェルディへのバスは終わったと、チケットブースで告げられる。やれやれ。そこに登場するタクシードライバー。どうにも納得できない気分で、そこら中の人を捕まえては声を掛ける。勿論、英語は通じない。その間、タクシードライバーは一々口を出してくる。そのうち、たっぷりと髭を蓄えた恰幅の良い男が、そのタクシードライバーと激しく罵り合いを始めた。胸座をつかみ合う勢いだ。こちらには何のことか全く分からない。その男は僕に何事か告げると、そちらこちらと歩き、誰彼に何事か話し掛けて廻る。僕は途方に暮れる。人口17万人の、アルメニアで第3位の町とはいえ、閑散として面白味の無さそうなこの町に、今日は泊まるしかないのか。
 ところがだ、バスはあったのだ。男が見つけてくれたのは、ミニバスだった。おそらくミニバスはチケットブースの取扱い外なのだろう。タクシードライバーは体格では髭の男に敵わない。しかし、憤懣やる方無いといった様子で、髭の男に口汚く何事か罵声を浴びせて去っていく。貧しい国、折角の久々の上客を取り損なった訳だ。尤も、僕はそのタクシーに乗る気は端から無かったのだが。


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 ミニバスは大変な混みようで、通路には大量の荷物、おまけに子山羊まで乗っていた。それでも乗客達が至って友好的だったことは、気持ちが荒んでいただけに救われる。
 デベドは小さな川だが、渓谷は深い。アラヴェルディは谷底の小さな町で、川沿いの街道には直ぐに断崖が迫っている。雨が降り出す。考えてみれば、この国の通貨を手にする暇さえ無かった。国境は何も無い山の中で、両替所どころが、民家一つ無かった。ミニバスは1ドル紙幣で乗ったのだ。さて、山の中のこの小さな町に両替する場所があるのものかどうか。既に18時だった。

ハグパット修道院(以下5枚同)       対岸の崖の上までロープウェイが登っている。いったい何年前に造られた物な
b0049671_187017.jpgのか、いつ落ちてもおかしくないように思える程オンボロだ。そして恐ろしいほど高度が高い。その断崖の上にホテルがある筈だった。小さな広場があり、町というよりは村、商店が2・3軒。そんな処には不釣合いなひとつの大きなビル。その8階か9階建ての建物がホテルだ。だが入口にはチェーンが掛けられ、閉鎖されている。やれやれ。また途方に暮れることになる。こんな物寂しい町に、他に泊まれる施設はあるのだろうか。入り口の前で呆然としていると、一人の男が声を掛けて来る。例によって、言葉は通じない。
 やがてその男に呼ばれた別の男がやって来て、チェーンの鍵を開ける。管理人らしい。チェックインも何も無い。彼は4階の部屋に案内する。しかし、ソファーが壊れている。彼は「やれやれ」というふうに微笑んで、6階に上がる。言っておくが、エレベータなんてものは当然、無い。ちょっと待て、こんなに大きなホテルで、しかもチェーンで入口が閉じられているからには他に客はいない筈なのに、通されるのがいきなり4階で、次が6階なのか。
 だが、他の部屋がどんなことに成っているのか、想像してみることはやめることにする。部屋にはバスタブがあったが、水が出ない。トイレも流れない。彼は水差しに飲み水を持って来る。流石にちょっと文句を言ってみる。案内されたのは地下室。ボイラー室のような処だ。電気は通じていない。そちこちにダクトが通っている。打ち捨てられた廃屋といった面持ちだ。バルブを開くと、無造作に転がっていたホースから水が出た。水に困ったらここから運べということらしい。やれやれ。


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 近所にレストランや飯屋などがありそうな気配ではない。おそらくロープウェイで下の町まで下りなければならないだろう。それでもあるかどうかの確証は無い。少し憂鬱な気持ちでそんなことを考えていると、ドアがノックされる。このようなホテルでドアをノックされるのは気持ちの良いものではない。ところが、誰であるのかとの問いに答えたのは若い女の声だった。開けて見ると美しい女が満面の笑みでそこに立っていた。やれやれ、こんな寂れたホテルにもその手の女がいるのか。だが、残念ながら彼女は「食事はいかが?」と言ったのだ。ホテルのエントランスを出て外を回り込むと、同じ建物の一階に彼女の小さなカフェ、或いはバールはあった。同じ建物なのだが、ホテルとは繋がっていない。どうやら彼女が一人でやっているようだ。
                           ところがこのカフェ、非常に困ったことにメニューを出さない。値段を訊いても答
b0049671_1894214.jpgえない。心配しないでとか、大丈夫とか言うばかりで一向に埒が開かない。挙げ句には勝手にどんどん料理を持って来てしまう始末まのだ。といっても大した料理ではない。サラダなどを覗けば殆どが出来合いだろう。もちろん僕はすぐには食べずにしつこく値段を訊く。すると漸く彼女は500円程の値段を口にした。アルメニアで金を出すのはロープウェイ以来2度目なので確かことは分からないが、アゼルバイジャンやグルジア、それにトルコの物価と比較しても高過ぎる。そう告げると彼女は、「you, how mach?」と訊いてくる。やれやれ、ここはインドか。それらを僕が注文したわけではないので、並べられた皿を指差して一皿ずつ要らないと断る。後には2皿の料理が残った。ここでもう一度値段交渉をすると漸く300円程になる。勿論それでも高い。おそらくこの国では1ドルかそこらで食事はできる筈だ。だが、問題は他に食事をする場所が無いということだった。
 ビールの無い食事を済ませ、すっかり暗くなった広場にあった店でミネラル・ウォーターを求めるが無い。他にはキオスクのような売店があるだけだったがそこにも水は無く、仕方なくコーラを買ってホテルに戻る。この時になって始めて気付いたのだが、このホテル、電気を基本的に切ってある。宿直室だけにほの暗いランプのような電球が点いている。そこには爺さんがひとり、ぼつんと座っていた。電気が点くのは僕の部屋と宿直室だけで、夜になると廊下も階段も真っ暗なのだ。もう一度言うが、8階か9階建ての大きなビルだ。手探りで真っ暗なビルの階段を6階まで登ったことがあるだろうか。それがどんなに恐ろしいことか、想像してもらえるだろうか。さて、水差しの水は到着した時に身体を拭くのに使ってしまっていた。だが、あの地下室までトーチを照らして下りて行くなどできよう筈がない。やれやれ、今夜と明朝はコーラで歯を磨くのだ。
 翌朝、宿直室の爺さんは既にいなかった。エントランスには・・・外からチェーンが掛けられている。僕はこの廃屋(のようなではない、それは間違いなく廃屋だ)に閉じ込められているのだ。やれやれ、なんてこった。

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by meiguanxi | 2007-09-07 18:11 | カフカス | Comments(0)
グルジア軍用道路 (グルジア) : 大カフカス山脈を越える道
[ カフカス略地図 ]
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                                   ムツヘタの町:大きな建物はスヴェティ・ツホヴェリ大聖堂


 グルジアの首都 トビリシ からアラグヴィ川沿いに北に伸びる一本の道がある。
 道は大カフカス山脈を越えて、ロシア領北オセティア・アラニア共和国の首都ウラジカフカス(オスジョニキーゼ)までの200kmを走る。元々この道は南北カフカスを繋ぐルートだったようだが、道路としては1799年、帝政ロシアが軍用に整備した。この地域を支配していたカルトゥリ・カヘテ王国は、ペルシャの驚異から積極的にロシアの保護国となった。この軍事道路を足掛かりに、ロシアは南カフカスを併合していったのだ。
 ロシアの文学者プーシキンやレルモントフはこの地に魅了され、作品の舞台とした。それがロシアや旧ソ連領での、この道への憧れを決定付けた。

スヴェティ・ツホヴェリ大聖堂:(ムツヘタ)
b0049671_15364994.jpg トビリシを出ると北西に30分程で、道はまずムツヘタの町を通る。ムツヘタはアラグヴィ川とムトゥクワリ川とが合流する場所にある小さな町だ。古来、この地方はイヴェリア(ギリシャ語)と呼ばれたが、地元ではカルトゥリと自称された。現在これはグルジア語を意味する言葉でもある。カルトヴェリというグルジア人の自称もここから発している。
 ムツヘタは紀元前には古代イヴェリア王国の都が置かれた場所であり、4世紀にはキリスト教を受け入れた土地でもある。12世紀にトビリシに移されるまで、ここはグルジア正教最大の聖地でもあった。スヴェティ・ツホヴェリ大聖堂は往時を偲ばせる最大の見所。


アナヌリ教会:(アラグヴィ川沿いにある要塞建築の教会)                         アナヌリ教会の鐘楼
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ジュワリ(十字架)峠付近からの景観
b0049671_15392297.jpg ムツタヘから道はいよいよアラグヴィ川の渓谷を北へ遡る。途中、アナヌリ教会の威容やジュワリ(十字架)峠(2379m)など、美しい風景が続く。渓谷を遡ること30kmほどで、ダムに遮られた人造湖に出会う。この北側の端に建つアナヌリ教会は17世紀終葉に建設された要塞建築の教会で、渓谷の関のようにも映るその姿の美しさは絶賛に値する。
 だがこの道の西はイラン系オセット人の南オセティア自治州(自称)で、グルジア独立に際しては編入問題で政府との間に激しい戦闘があり、グルジア領でありながら現在は双方が干渉しないとう曖昧な状態が続いている。この国の難しい問題が垣間見られる場所でもあるのだ。

 ジュワリ峠からはテレク川沿いを下る。ムツヘタ観光をトビリシからの往復で別にすれば、途中の見学も含めて4時間程で、グルジア側最後の村カズベギに着く。カズベギはテレク川沿いの小さな山村だ。訪れた時にはホテルも閉まっていて、チャーターしたタクシー・ドライバーが民宿を探してくれるという状態だった。


カズベギ村とツミンダ・サメバ教会、カズベキ峰                               カズベギの老母娘
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 村外れの山頂に14世紀の美しい小さな教会がポツンと建っている。ツミンダ・サメバ教会。カズベキ峰(5033m)を背景に浮かび上がるその姿は神秘的だ。
 道はこの後、ウラジカフカスへ向かうが、現在旅行者が通行できるのかは不明。また、チェチェン共和国も直ぐ近くの場所なので、この村にも難民が流れ込んでいる。


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                                                 ツミンダ・サメバ教会:(カズベギ)
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by meiguanxi | 2007-09-01 15:46 | カフカス | Comments(2)
トビリシ (グルジア) : シュワルナゼの憂鬱
[ カフカス略地図 ]
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                                       ナリカラ要塞跡から見たトビリシ旧市街の街並み

メテヒ教会とムトゥクワリ川
b0049671_11541364.jpg カフカスは民族の十字路であるだけに民族構成は至極複雑である上、旧ソ連下での領土線引きや独立問題、それに際しての領土問題、新旧勢力の争い等々、多くの問題を抱えている。

 東西に走る大カフカス山脈。その北側である内カフカス(内外というのは勿論、ロシアからの見方)は現在もロシア領だが、ダゲスタン、イングーシ、北オセティア・アラニアなど幾つもの共和国を内包している。チェチェンでの紛争はご存知だろうと思う。
 一方、外カフカス三ヶ国も難しい問題をそれぞれに抱え込んでいる。イスラームのアゼルバイジャンとキリスト教のアルメニアには、それぞれナヒチェヴァンとナゴルノ・カラバフという飛び地が存在し、特に後者をめぐる戦闘は凄惨を極めた( 参照 )。

 グルジアもまた、ひとり平和であった訳ではない。独立とその後の推移の中で、旧共産党系、民主派、民族主義派入り乱れての内乱があった。誤解して欲しくないのだが、ここで言う民主派が常に民主的であった訳ではない。混乱した状況を立て直す為に、ソ連を崩壊に導いたエリツィン政権を除き実質的なソ連最後の政権、ゴルバチョフ政権で外務大臣を勤めたシュワルナゼが新しい大統領に招かれた。1992年のことだ。この後は一応の平穏を保ったが、それでも国内には黒海沿岸トルコ国境に独自性の強いアジャラ自治共和国、ロシア領の北オセティア・アラニア共和国国境には中央政権の意の届かない南オセティア自治州(自称)があり、更に黒海沿いロシア国境のアブハジア自治共和国(自称)は、激しい戦闘の結果、境界線を国連やロシアなどCIS(旧ソ連の独立国家共同体)の監視軍が展開する状態で、実質的には独立国として振舞っている。この問題はロシアとアメリカという大国の思惑も絡み、国内外の大きな政治問題に成っている。

アブハジア難民アパート化したホテル・イヴェリア                 銃弾の跡が残るグルジア共和国議会
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画家・画商が集まる路上                                               路上の八百屋
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 首都トビリシにあるホテル・イヴェリアは、ソ連時代にはインツーリスト(ソ連国営旅行社)の管理するグルジア随一のホテルだったのだが、現在は殆どアブハジア紛争の難民宿舎と化している。居住面積や収納スペースを増やす為にベランダにベニヤ板やブルーシートが張られたその姿には、嘗ての高級ホテルの面影は無い。
 また、グルジアにはチェチェン紛争から逃れた難民が多数流入していて、シュワルナゼ政権は彼等に対する人道的保護政策を取っていたが、「9.11」 以後、民族独立運動の全てに「テロ」というレッテル張りを許容する現象が見られ(これは中国領のチベットやウイグル自治区でも同じ)ロシアは「テロリストを匿っている」との名目で干渉を強める。その裏には、カスピ海油田からのパイプライン利権も絡んで、グルジアを実質的に「内」と取り込んでしまいたいという野望も見え隠れする。
 シュワルナゼ政権は、大国の思惑と国内の保守派や民族主義派の鬩ぎ合いの中で良く国家を纏めては来たが、一向に上向かない経済に国民の不満は爆発、'04年、無血クーデターによって彼は政権を追われる。しかし、この政変の裏にも、アメリカの思惑があったとも囁かれている。

                                        ハマムの屋根と丘の上のナリカラ要塞、左にモスク
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ムトゥクワリ川と街並み
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           ペルシャ風家屋の正面にグルジア式教会
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 さて、トビリシの街は美しい。旧市街は伝統的な屋並が守られ、迫出したバルコニーがペルシャ統治時代の面影を今に残す。町外れの高台にあるナリカラ要塞跡に登ると、オレンジ色の屋根の連なりと木々の緑とのコントラストが鮮やかだ。その中をムトゥクワリ川がゆったりと流れる。旧ソ連圏の都会にしては街には活気があり、幾つもの教会を散策しながらのそぞろ歩きも気持ちが良い。


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 グルジアの主要民族はカルトヴェリと呼ばれる所謂グルジア人。独立後は独自のグルジア文字が復活している。願わくは美しくホスピタリティ溢れるこの国が、政変後、民族主義的傾向を強めて行くことの無いように、祈りたい。


(※ 2008.8.17 追記 : '04年のクーデターと '08年の南オセチアを巡る問題についてはこちらに書きました)

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                                                            ナリカラ要塞跡
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by meiguanxi | 2007-05-20 12:05 | カフカス | Comments(4)
テラヴィ (グルジア) ワインと聖堂の里
[ カフカス略地図 ]
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                                                        アラヴェルディ大聖堂


 アゼルバイジャンのシェキからバスと乗合ワゴン、タクシーを乗り継いで西に3時間半、国境を越えるとグルジアに入る。
 シルクロードや中東などをバスで旅していると、放牧された羊の群を良く見掛けるが、カフカスも同じだ。ただ、アゼルバイジャンからグルジアに入ると、イスラーム圏の外に出た事を実感する光景を目にする。羊の他に道端をうろつく豚が目に付くようになるのだ。人々の顔立ちも変わる。アゼルバイジャンや中央アジアがトルコ系またはイラン系民族であるのに対して、グルジアの主要民族カルトヴェリは全くヨーロッパ人的な顔をしている。だが、言語はカフカス諸語という特殊な範疇に入り、インド=ヨーロッパ語とは明確に分離されている。グルジア地域には4世紀にキリスト教が入った。


昼過ぎには閑散とする市場                                         旧市街・石積みの屋並
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アラヴェルディ大聖堂からの大カフカス山脈                                   イカルト修道院
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質素な料理、市場のチーズ、ワインはムクザニ      国境で人待ちしているタクシーに乗り換え、更にワゴンとバス
b0049671_12345629.jpgを乗り継ぐ。道は大カフカス山脈の支脈の低い山並みの北斜面を縫うように西に伸びる。斜面の北側には平野が広大な大河のように広がっていて、遥か彼方には雪を冠した大カフカス山脈の連なりが美しい。3時間間ほどでカヘティ地方の中心の町、テラヴィに着く。
 カヘティはカルトゥリと呼ばれる首都トビリシムツヘタなど中央部と民族的には同じだが、古来、別の国を形成していた。トビリシからならバスで3時間半ほど。山脈に挟まれた東西に長い平野は葡萄の産地として名高く、特にサペラヴィ種のグルジア・ワインは世界的に有名だ。

 ピロスマニ(1862~1918)という画家ををご存知だろうか。
ピロスマニ小画集(トビリシ国立芸術博物館刊:仏語)   『百万本のバラ』という歌のモデルとしても有名なグルジアの国
b0049671_12354446.jpg民的画家。彼の『赤シャツの釣り人』がラベルになったムクザニというワインがある。フルボディの赤、その深みのある渋みは絶品だ。他にも彼の絵がラヴェルに用いられている銘柄は多い。その名も「ピロスマニ」という銘柄もある。余談だが、静岡の業者がグルジア・ワインを輸入していて、ネット購入もできる。
 テラヴィは遥かに続く葡萄畑の彼方に大カフカス山脈を望む静かな町で、ペルシャ様式の王宮はこの町の象徴だ。近郊にはアラヴェルディ大聖堂やイカルト修道院などの美しい教会建築も多い。グルジア教会やアルメニア教会は十字形の基底部と、中央の円筒形の塔、円錐屋根が特徴だが、この地方の教会の円筒塔と円錐屋根はその高さ、美しさで突出している。

民泊したマナナ未亡人のアパートメント裏口        グルジアでは良くあることだが、ここのホテルもやはり北西部
b0049671_12361968.jpgのアブハジア分離独立を巡る内戦によって流れ出た難民の住居化していて、水や電気など基本的インフラも荒廃している。
 レセプションに誰も居ないホテルのロビーで困り果てていると、外を通り掛った初老の婦人に声を掛けられる。英語は通じないが、要はこのホテルは設備がダメだから友人の家を紹介するということらしい。連れて行かれたのは近くのアパートメント。
 マナナは数年前に20代後半の一人娘を事故で亡くした老未亡人で、今はそのアパートに一人暮らしだそうだ。中央の部屋に入り口のある3間とキッチンの鰻の寝床。彼女の用意してくれる夕食は非常に質素だ。だが、市場で買ったチーズとムクザニを添えれば、心温まるグルジアの家庭の味だ。夜になると女友達が数人訪れ、彼女は毎晩バックギャモンに興じていた。


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                                             アラヴェルディ大聖堂付近の田園風景
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by meiguanxi | 2007-04-01 12:39 | カフカス | Comments(2)