カテゴリ:中東・北アフリカ( 11 )
ベツレヘム (パレスチナ) : キリスト生誕の地
                ― 或いはイスラエルによるガザ攻撃とパレスチナ問題を巡って

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                                                           ベツレヘム市街


 その名前を聞いただけで吟線に触れるような町というものがある。個人的な話だが小学校の3年間、キリスト教系の学校の寄宿舎に入っていた為に、家に帰る週末を除いて聖書と賛美歌漬けの生活だった。といっても家族の誰かがクリスチャンであった訳ではない。単に親の仕事が忙しく面倒を看ていられないからという理由で放り込まれたのだ。勿論、今の僕もキリスト教徒ではない。まあ、それは兎も角、そんな訳でエルサレムとかナザレといった地名は最も幼い時代に覚えた外国の地名だった。中でも子供にとってキリスト教に於ける楽しみと言えばクリスマスであるわけだから、従ってベツレヘムという地名はそれと意識しないままに深く刷り込まれていたようで、初めてこの町を訪れた時、教科書やテレビで知ったのだろう他の多くの町に立った時とは違う特別な感慨を覚えたものだ。だがこのエントリーもまた、ベツレヘムという町の紹介からは大きくそれることになる。
 ベツレヘム、史実としての検証は兎も角、キリスト生誕の地とされる土地だということはご存知だろうと思う。だがこの町が実は暫定自治政府の管轄するパレスチナにあるということは、以外に知られていないかもしれない。エルサレムからバスで30分程の近郊なのだが、今、この小さな町はイスラエルが建設した鉄条網とコンクリートの分離壁とに囲まれていて、町に入るゲートではイスラエル軍によるチェックが行われている。
 僕がここを訪れた1992年にはそのようなものは無く、一見には平和でのどかな町だった。。87年にイスラエル兵やイスラエル人入植者によるパレスチナ人射殺などに対する抗議運動として始まった第1次インティファーダとイスラエルによる軍事攻撃が下火に成りつつあった時であり、93年にはオスロ合意が交わされ翌年にはパレスチナ暫定自治政府が設立される。まさに雪解けの時代だった。第一次世界大戦時のイギリスの自分本位な三枚舌外交と第二次大戦後の国連による必ずしも公平とは言い難いイスラエル建国とパレスチナとの領土分割案、イギリスの無責任な撤退とアメリカによる一方的なイスラエル支援等々によって救われる術の無かったパレスチナに、漸く実質的な和平が前進した瞬間だった。PLO (パレスチナ解放機構) のアラファト議長とイスラエルのラビン首相が握手を交わすニュース映像を、世界中の人々が深い感慨を持って見たものだ。
 ところが95年、左派の労働党党首であったラビンは和平反対派のイスラエル人ナショナリスト青年によって射殺される。2000年、右派政党リクード党の党首であったシャロンが武装した護衛とともに、イスラム教徒にとっての聖域であるエルサレムの神殿の丘を訪れ、有名な岩のドームの隣に立つ アル-マスジッド・アル-アクサ (アル-アクサ・モスク) に強引に入場してパレスチナ人を挑発した。これに憤慨したパレスチナ人たちは第2次インティファーダを開始することに成る。この対立の中で行われた翌年の選挙によってシャロンは首相に就任する。僕はシャロンの岩のドームへの強引な入場を伝えるニュース映像を衝撃と怒りを持って見ていたのだが、それは実にパレスチナの和平が遠のいて行く経過だった。
 時あたかも2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起こる。これ以後、世界は 「テロとの戦い」 一色に染まっていく。ロシアのチェチェンに対する凄惨な武力攻撃も中国のチベットやウイグルに対する支配強化と強引な漢化政策もこの過程で世界から目をそらされ、支配や抑圧に対する行動は、時にそれが実力行動を伴うものであれ伴わないものであれ、全て一様に 「テロ」 というレッテルを貼られ弾圧されることになる。
 イスラエルはヨルダン川西岸地区への入植をやめるどころか分離壁の建設を始める。分離壁は入植地とパレスチナ人居住区とを隔てるだけではなく、それ自体によって多くのパレスチナ人の土地がイスラエル側に抱え込まれるように建設された。一方でパレスチナ人が新築や改築をする場合には当局の許可制とし、実質的には殆ど建設が許されない状態になる。更にはテロ防止という名目で、多くのパレスチナ人が容疑も示されないままに “予防拘束” された。こうした状況で支持を集めた対イスラエル強硬派のハマスが2006年の自治政府議会選挙で勝利、一時は大統領派のファハタ (PLO) と合意に達したが、イスラエルや欧米が反ハマスの姿勢をとる中でやがて対立するようになり、現在はガザ地区をその勢力下に収めている。
 一般民間人を標的にした自爆やロケット弾による攻撃を良しとするものではない。そのような方法が世界から共感を得られる筈はなく、むしろイスラエルによる軍事行動に口実を与える結果にもなる。だが自爆などという行動を採らせる心理は、決して民族主義や宗教的信義にだけよるのではない。自らの土地を入植によって奪われ分離壁によって分断され、なかんずくガザの場合には外界から全く隔離され食料も薬も燃料の輸送も全てが封鎖された状態にあったのだ。おそらく、不幸なことにこういう状況下に於ける急進派は一旦武力闘争を始めると戦い続けざるを得ない宿命に陥る。そのことが素朴感情としてのナショナリズム的支持の母体であるからであり、資金調達の名目でもあるからだ。だがハマスの方針を支持するものではないにしろ、武力闘争という彼らの方針に傾斜する民意がどのように形成されるのかを考えるべきなのだ。
 昨年 (2008年) 末以来のイスラエルによるガザ地区への攻撃が凄惨を極めたのはご存知の通りだ。今年 (2009年) 1月中旬、イスラエルは一方的停戦を宣言して、一応はガザへの攻撃を停止した。しかし、この停戦という言葉に酷い違和感を持つ者は僕だけではないだろう。あれはいったい戦争と言うに値する事態だったのだろうか。確かにハマスはロケット弾を発射していた。しかしその破壊力はイスラエルの装備に比べれば竹槍とそれ程の差は無い。一方、イスラエルの空爆は迎撃する術も無いパレスチナ人千数百の命を奪っている。子供も老人も病人も女性も関係なく無差別にだ。これは戦争などと呼べるものではなく、単なる大量殺戮と見做されるべきものだ。にもかかわらず当のイスラエルではこの攻撃に対する国民の支持は驚異的なほどに高い。右派政権がパレスチナ強行路線を執る所以だ。しかし支配され抑圧され排除される側に倫理を求めるなら、その前にまず力と富とを独占する側の倫理が問題にされて然るべきなのだ。
 昨年秋、アメリカが推し進めた新自由主義とグローバル経済という力による世界戦略の一端が破綻した。そして今年、共和党政権が倒れ民主党政権に変わった。アフガンとイラクを泥沼に追い込んだブッシュ政権が終わったことは歓迎するが、しかしそれらがアメリカのこの地域への政策変更に繋がるという楽観はできないということは知っている。だが、この問題を解決しない限り、世界に於ける倫理の構築は望めないのだ。それが望めない限り、世界の到る所で不幸は続くだろう。力と富による押し付けではなく、特定の有権者団体の票や特定の産業の要請によってでもなく、国際社会にはこの暴力と憎しみの連鎖を止揚する実質的な努力が、おそらく待った無しで求められている。


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                                                               生誕教会
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by meiguanxi | 2009-01-30 19:39 | 中東・北アフリカ | Comments(0)
ヌウェバ(エジプト):こんな日もある
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 写真の小屋は決して今の僕の生活ではない。
 イスラエル南端、紅海の奥、アカバ湾に面したエイラットの町からバスで15分でエジプトとの国境検問所に着く。国境といっても片側一車線の道路の脇に、ポリスボックスのような検問所があるだけだ。ここでイスラエルを出国すると、エジプト側イミグレーションまで更に1kmほど歩かなければならい。エジプト側はタバという。ホテルもあるらしいのだが、見渡す限りでは何も無い荒地だ。入国して更に歩くと駐車場がある。運が良ければバスに乗れる。そうでなければそこいらの旅行者を集めてタクシーに乗る。車は1・2台いるかいないかなので、ぼやぼやしてると取り残される。交渉は強気とそこそこ妥協も。
 タクシーで1時間、海沿いのヌウェバに着く。ここは世界でも有数の美しい海であると評判のリゾートだ。リゾート・・・貧乏長期旅行者には辛い場所でもある。そんな訳で海岸の “ コテージ ” に宿泊。正確には覚えていないが1ドル位だっただろうか…
 何しろ目の前は世界有数の美しい海、対岸にはサウジアラビアも望める。椰子の木と海との間の砂浜を、ラクダがゆっくりと歩いて行く。空には満天の星。最高じゃないか。何の問題も無い。


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by meiguanxi | 2007-12-25 19:39 | 中東・北アフリカ | Comments(4)
アンマン (ヨルダン): シリアからヨルダンへ国境越え
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 シリアの首都ダマスカスからヨルダンへのチケットを、国営のカルナック・バスが売ってくれない。バスは確かに走っているのだ。実は日本赤軍絡みの問題で、シリアから陸路の日本人旅行者をヨルダンのイミグレーションが通さないことが良くある為らしい。途中で聞いた情報では、問題無く通れるようになったという話だったのだが、こういう問題は実際に現地に足を運ばないと分からないこともある。
                                     いや、これは1992年に於ける旅行事情で、現在は変わって
ローマ劇場前の列柱街路                   いるのかもしれない。少なくとも1992年当時、地中海東岸域の
b0049671_19411276.jpg国境事情は非常に厄介だった。具体的にはトルコ・シリア・ヨルダン・イスラエル・エジプトといったルートだ(この当時、前年の湾岸戦争によって、イラクへの渡航は既に難しくなっていた)。
 事態を難しくしていたのは勿論イスラエルへの入国を巡る事情だ。パスポートにイスラエルの入国印(或いは入国を示す形跡)がある場合、エジプト以外のアラブ諸国には入国できなかった。ただし不思議なことにヨルダンからイスラエル入国することはできた。ヨルダンとイスラエルが戦争状態終結宣言を交わした1994年の2年前のことだ。首都アンマンからヨルダン川に架かるアレンビー橋を渡ってウエスト・バンク(ヨルダン川西岸地域)へ入域するという建前だ。この地域への入域にはヨルダン政府の許可証を取得する必要があった。パレスチナ暫定自治政府が出来る何年も前の話で、イスラエル占領地域であるから実質的には出国であるわけだが、ヨルダン側では出国印を押さない。一方、イスラエル側のイミグレーションでは入国印を入国カードに押す。従ってここを往復する限りは、イスラエル入国の形跡はパスポートに残らないという仕組みだ。
 例えばエジプトから北上する場合、直接国境を接しているイスラエルに入国してしまうと、その後は何処にも進めなくなってしまう。この場合、シナイ半島(エジプト)のヌエバから船でヨルダンのアカバに向かうことになう。イスラエルへはアレンビー橋を往復するしかない。
 逆にトルコから南下する場合には、アレンビー橋からイスラエルに入り、陸路でエジプトに抜けることは出来る。勿論、その先は海路か空路になるのだが。ただしこのコースの場合に問題だったのが、シリアからヨルダンへの入国だった。情報では越えられるか否かはその時のイミグレ・オフィサーの気分次第という、頼りないものだった。

キング・フセイン・モスク(旧市街)                         キング・アブドゥラ・モスクと教会(新市街)
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 さて、とにかく僕の場合、シリアの国営バスであるカルナックはヨルダンへのチケットを売ってくれなかったのだ。仕方なくバスターミナルの私営のオフィスへ行ってみる。明日の朝5時に来ればアレッポからのバスが通ると告げられる。ただしリザーブは出来ない。
 「何故、カルナックはチケットを売らない?」と髭を蓄えたオフィスの男は言った。
 僕、「日本赤軍を知ってるか?」
 彼、「Oh、ファンタスティック!お前は好きか?」
 「…難しい問題だね」
 「何故?何も難しくない。殆どのアラブの政府はアメリカ政府とCIAに、犬コロみたいに尻尾を振ってやがる」
 まあ、彼の言い分も分からなくはない。だが、僕としてはパレスチナ問題では一貫してパレスチナの側に立ってはいたが、だからといって重信房子や岡本公三を支持するわけにもいかない。僕は日本赤軍とカルナックがチケットを売ってくれないこととの関係を簡単に説明した。
 髭の男は言った。「ヨルダンからイスラエルに行くのか?」
 シリアにとってイスラエルは天敵だ。ゴラン高原をイスラエルに占領されているという事実もある。厄介な話題だな、正直に言えば僕はそう思った。
 「まあね…」
 「日本人はみんなイスラエルに行く。お前はイスラエルやアメリカが好きなのか?」
 「…いや…イスラエルやアメリカの政府は嫌いだ。アメリカに尻尾を振っている日本の政府も嫌いだ」
 「なら何故、イスラエルへ…?」
 「ヨルダンからエジプトに陸路で行きたいんだ。オリエントの歴史やこの辺りの文化にとても興味があるし、尊敬している。だからどうしても陸路で全てを歩きたい。その為にはイスラエルを通らなければならない。それに、あそこにはエルサレムがある。エルサレムは、あなた達にとっても大切な場所だろ?見ておきたいんだ」
 男は遠くを見詰めながら、なるほどというように大きく頷いた。少しばかり歯が浮く思いもあったが、あながち嘘でもない。こういう場合には、立派な回答だ。ただ、男の視線の先に写っていたものが、彼が立ち入ることのできないイスラエルに占領されたパレスチナやゴラン高原の風景なのか、それとも度重なる戦争で死んでいった彼の知っていた筈の人達の顔なのか、それは分からなかった。

エル・カサル(アンマン城址)                                           エル・カサルにて
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 翌日、ほんの仮眠だけで3時45分に起きる。驚いたことに、前日その話をしていたからだろう、ホテルの人が4時に起こしに来てくれた。勿論、立派なホテルではなく、置屋を兼ねているようなただの安宿だったのだが。
 しかし、結局バスは来なかった。アレッポからのバスは既に満員だったのだろう。すると例の髭の男は、バスターミナル横のやたらと広い乗り合いタクシー広場を歩き回り、1台のタクシーを捜して来てくれた。自分で探して交渉するとしたら大変な労力を必要としたことだろう。
 「このタクシーがアンマンに行く」と男は言った。
 既に子供1人を含む4人が乗っていた。料金を聞くと悪くない。情報を得ていた相場だ。
 「Good luck!」と男は親指を立てた。彼は手数料さえ取らなかったのだ。

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                                                夕刻のラマダン明けを待つ食堂前
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by meiguanxi | 2007-10-21 19:46 | 中東・北アフリカ | Comments(2)
ダマスカス (シリア) : アラブの誇り
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                                                   ウマイヤ・モスク(同以下2枚)

b0049671_22192018.jpg アラブの誇りダマスカス。シリアの首都だ。パルミラからは、土獏の中をバスで3時間。この街はアレッポと同じく、ヒッタイト、バビロニア、アッシリアなどという有史最初期からその名を現す、現存する最古の都市のひとつだ。
 また、ムハンマドに始まるイスラーム帝国(サラセン:大食)に於いて、第四代カリフの死後、いわゆる正統カリフ時代の後を引き継いだウマイヤ朝(661~750)の首都が置かれた場所でもある。街にはこの時代の、完全な形で現存する世界最古のモスクであるウマウヤ・モスク(715年建立)があり、今も多くの信者を集めている。この中の祭壇には、ヨルダンで斬首された洗礼者ヨハネの首が収められているという。イスラームも要はユダヤ教、キリスト教の流れを汲む宗教だ。イスラームに於いてもヨハネは預言者(神の言葉を預かって伝える者。予言者ではない)の一人とされている。
 イスラーム帝国の首都といえばバクダッドをイメージするかもしれない。だがそれはこの後のことだ。正統カリフ時代が終わると、イスラーム世界はカリフの正統性を巡ってスンナ派とシーア派に分裂する。ウマイヤ朝が東ローマ帝国との抗争の中で勢力が衰えると、反ウマイヤ勢力はシーア派を巻き込んでウマイヤ朝を倒しアッバス朝(東カリフ帝国)を建てる。一方、ウマイヤ朝は当時支配下に置いていたイベリア半島に逃れ、コルドバ(現スペイン)を首都に後ウマイヤ朝を建てる。この時、アッバス朝が首都を置いたのがバクダッド(現イラク)だ。
 ただしアッバス朝はシーア派国家だったわけではない。イラン
b0049671_22201715.jpgでは651年にササン朝ペルシャがサラセン帝国(ウマイヤ朝)に滅ぼされたが、スンニ派がイランに於いて確固とした勢力を得るのは、1502年、ササン朝以来のイラン人独立国家であるサファヴィ朝まで待たなければならない。
 いずれにせよ、ダマスカスはバクダッド以前にイスラーム・アラブの都だったのだ。
 サラーフ・ウッディーン(サラディン)という名前をご存知だろうか。1099年、十字軍はキリスト教・イスラーム双方の聖地であるエルサレムを陥落し、ここを首都にキリスト教国であるエルサレム王国を築く。1187年、これを奪還したイスラームの英雄がサラディンだ。尤も、彼は民族的にはクルドだったようだが。彼は今、ウマイヤ・モスク北門外の廟に祭られている。

スーク(アラブ式バザール)                                                町角の商店
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 ところでダマスカスの街を歩いていると、「マダーム?」と良く声を掛けられる。要するにポン引きだ。これはあくまで印象だが、この街の安宿にはその手の置屋を兼ねたものがかなりあるようだ。実は泊まった宿もそうだった。これはアレッポで泊まったような宿ではなく、あからさま場所だった。小さなビルの3階がレセプション。部屋は3階から5階まで。4階は全て彼女達の部屋で、昼間からあられもない姿を目にする。時々男達と開け放したドアに凭れながら交渉したり談笑したりしている。
 泊まった5階には2部屋しか無く、いわゆる屋根裏部屋だ。部屋にいてもそんなざわめきや笑い声が聞こえてくる。ラマダーン(断食月)にも関わらず漸くバザールで見付けた実に不味い白ワインを呑みながら、不貞腐れているしかなかった。

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                                                     新市街 マルジェ広場 付近
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by meiguanxi | 2007-10-17 22:24 | 中東・北アフリカ | Comments(0)
パルミラ遺跡 (シリア): 砂に消えた悲劇の貴婦人
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                                                           記念門(凱旋門)

b0049671_10563011.jpg 緑豊かなユーフラテス川を離れ、デリゾールから西南西に、道は土漠へと入って行く。デリゾールから2時間、それは荒涼とした土漠の中に唐突に姿を現す。古来、この地はダドモルと呼ばれ、交易で栄えてきた。ダドモルもパルミラも、それぞれ古代セム語とギリシャ語のナツメヤシに由来する。その名が示す通り、豊かなオアシスであり、水とともに塩原にも恵まれていた。
 だがパルミラが本格的に繁栄するのは紀元前1世紀。当時、西のローマ帝国と東のパルティア王国(ペルシャ)との勢力が拮抗する中で、緩衝地帯としての特権を得、両大帝国からの巨額の関税で栄華を誇ることになる。
 紀元270年、暗殺されたオダイナトス王の幼少の後継者に代わって、その母セノビアが摂生を執る。伝承によれば、彼女は自らクレオパトラの子孫を名乗る程の美貌を備えていたという。この時代、ユーフラテス川(現イラク)からナイル川(エジプト)までをその領土として誇った。
 だが、野望が彼女を悲劇へと導く。ローマ征服を画策したパルミラに、272年、ローマ皇帝アウレリアヌスが兵を向ける。ゼノビアは処刑され、交易都市としての機能を失ったこの都市国家は歴史の表舞台から姿を消す。オスマン帝国の時代には都市としての機能も失われ、嘗て栄華を誇った街はやがて砂の中に埋もれていった。

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                                                             パルミラ全景

 現在のダドモル(パルミラ)の町は人口3万程度の小さな田舎町に過ぎない。町に隣接する遺跡群は最大幅1km近く、長さ2kmにも及ぶ。しかし首都ダマスカスから230km、バスでも3時間の距離だ。時折やって来る観光客達は慌しく見学を終え、大型バスで去って行く。

アラブ城遠景                                                           四面門
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ペル神殿                                                          ゼノビア宮殿
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 一面、赤い土漠。容赦なく照り付ける陽射しを避ける物は何も無い。誰もいない広大な遺跡、乾燥した風が吹き抜ける音だけが耳に鳴り渡る。乾燥は体内の水分を激しく奪っていく。暑さと光に少し朦朧とした意識の中で、古代の人々のざわめき、石畳を駆け抜ける馬車の響き、物売りの威勢の掛け声…そんなものが聞こえてきそうな錯覚に陥る。夕暮れ時、荒野に真っ赤な太陽が沈んでいく。その手前には古代の列柱や門、神殿がシルエットになって浮かび上がる。古の都に古い夢の欠片たちが蘇る時間だ。

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                                                             パルミラ夕景
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by meiguanxi | 2007-10-13 11:13 | 中東・北アフリカ | Comments(0)
デリゾール (シリア) : ユーフラテスに沈む夕陽
[ 中東主要部略地図 ]
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                                           ユーフラテスに沈む夕陽とデリゾール大橋

デリゾールの露天バザール
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 アレッポは比較的近代的な街で、スーク(アラブ式バザール)を除けばさほどの違和感は感じられないが、ここから奥地へ入ると地のアラブ世界を実感することができる。
 トルコ国境に近いアレッポから西に進むと、アサド湖に突き当たる。トルコ領から南下して来たユーフラテス川を堰き止めた人造湖だ。チグリス川と共にメソポタミア文明を育んだ中東有数の川は、ここから進路を大きく南東に変え、やがてアラビアンナイトの都、イラクのバクダッドに向かう。
 この川沿いには多くの古代遺跡が点在している。中でもイラク国境近くのマリの遺跡から発掘された王室公式文書(マリ文書)は、ヘブライ人(“川の向こうから来た人”の意)の祖先がアブラハムの一族であるという旧約聖書の記述を照明したとされることで有名だ。
 方向を変えた川沿いに更に走るとデリゾールの町に至る。アレッポからバスで3時間。これといった観光資源も無いほんの小さな町だ。ただ、ユーフラテスに掛けられた大きな橋、その向こうの平原に沈む真っ赤な太陽だけが印象的だ。
 男達の多くは、カフィーヤという布を頭に被り、イカールという紐輪で止めている。PLOのアラファトが被っていたような布だ。この辺りの物は、白地に濃いピンクのチェック。日焼けした堀の深い顔、鋭い眼光。ここは異郷だ。



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                                                       デリゾールの町角にて
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by meiguanxi | 2007-10-10 20:17 | 中東・北アフリカ | Comments(0)
アレッポ (シリア):古代商業都市への長い道
[ 中東主要部略地図 ]
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                                                          アレッポの町並み

b0049671_154434.jpg 嘗て、日本でシリアのヴィザを個人で取得するには、旅行会社からの推薦書や英文日程表などの面倒な書類が必要だった。勢い旅行会社に高い金を払うことになる。現在ではこのレギュレーションは大きく変わっているよだが、とにか1992年は面倒だったのだ。時間に余裕があるなら、こういうものは隣国で取る方が一般的には簡単だ。イスタンブール(トルコ)の領事館では、日本領事館からのレター(推薦書)があれば翌日には発行された。レターは日本領事館で15分で書いてくれた。定型文に名前やパスポート番号などを記入するだけの形式的なものだ。
 トルコのアンタクヤのある地域は、地中海沿いに少しシリア領に入り込んでいる。ここからシリア第2の都会であるアレッポまでは、直線距離にすると100km程しかない。しかし12時半に出発したバスは、この100kmに6時間も掛かってしまう。そのうちの4時間は、
アレッポ城跡                                      シリア側イミグレーションでの時間待ちだ。
b0049671_18334440.jpg トルコ側の出国手続きを終え、十字軍の要塞跡を横目に見ながら5分、あっという間にシリア側に着く。ここまで出発から1時間。第三国人の入国手続きは至って簡単なのだが、何しろ職員の対応が遅く、満員の乗客(殆どがシリア人)全員の手続きに小1時間掛かる。この先がカスタム。これは高速道路の料金所のように成っていて、4車線それぞれにバス3台分位の長さのプラットホームがある。ここで全ての荷物を降ろしてチェックされるのだが、まず始まるまでに2時間ほど待たされる。いざ始まると第三国人はノーチェック。しかしチェック中はバスの中へは入れない。シリア人達の荷物は膨大だ。トルコから買い出してきたのだろう大きな毛布、玉葱を詰めた麻袋、パンパンに膨らんだ訳の
                                   分からないポリ袋、机、椅子…全てが終わるまで小1時間、寒
                                   風に耐えることになる。

カーン・アル・ワジール(キャラバンサライ)                                     アルメニア教会
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旧市街の路地とモスクの鐘楼
b0049671_18414486.jpg 漸く走り出したかと思うと、ポリスが乗り込んできて全員のパスポートチェック。そしてバスは10kmでエンスト。応急修理をし、更にガゾリンスタンドで何かをし…そうこうするうちに辺りは暗くなる。周囲は荒野だ。この先に都会があるなんてとても思えない。しかしシリア人達は一向に気にしていないようだ。18時、乗客たちはラマダン明けの軽食(イスラームでは年に1ヶ月間の断食月があり、この時は夜明けから日暮れまで一切の食物を口にしない)を食べながら、大きな声で話をしている。インシャ・アッラー(神の思し召しのまま)なのだ。それにしても隣の人間と話をするのに、何故こんなに大きな声が必要なのか。
 僕は町のロクな地図すら持っていなかった。当時、日本語の個人旅行用ガイドブックはこの国をまだ扱っていず、持っていた英語のガイドブックには地図が掲載されていなかった。東京での18時の在り方について思い起こしてみた。TVが一斉に夕方のニュースを流し始める時間だ(現在は17時前からニュースを放送しているが、1992年には17時台はドラマの再放送か娯楽版番組の時間枠だった)。まだ会社にいれば、軽い夕食を終えて残業に入る時間だ。定時で終わっていれば、近くの店でニュースを見ながらビールの最初の1杯に口を付ける時間だ。大丈夫、そう考えればまだたいした時間ではないのだ。

スーク(バザール)                                                     スークの天井
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 アレッポの歴史は古い。伝承を含めれば5000年に及ぶ。紀元前17世紀にはヒッタイトに占領されたとの史実がある。街に残るアレッポ城址は紀元前10世紀に起源を持つという。ハム人(エジプト)、セム人(アラブ)、アーリア人(イラン)が攻防を繰り広げ、モンゴルやチムールの攻撃に耐え、十字軍が走りぬけて行った。その間、一貫して繁栄を持続し続けた街。
 バザールをアラビア語でスークと言うが、そこは長さ2km、幅500mもあるだろう巨大な屋根付きの迷路だ。そしてそこには何時も人々の活気が溢れている。
 ところで、すっかり暗くなったこの街で飛び込んだ安宿は、夜の職業の女性達がアパート代わりにしているアットホームな宿だった。入り口に小さなロビーがあり、その周囲と上階に部屋がある。ロビーの石油ストーブは、彼女達の井戸端会議の場だ。夕方の出勤時間が近づくと、共同シャワーからあられもない姿で出て来たりする。そしてそのまま話の輪に加わる。まるでストリップ劇場の楽屋のような宿だ。
 僕にとって幸いだったことは、彼女達はことごとく若くはなかったということだ。もしそうではなかったなら、とてもじゃないが、落ち着いてはいられなかっただろう。

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                                              グラン・モスク(ジャミア・ザカリーエ)
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by meiguanxi | 2007-10-06 18:50 | 中東・北アフリカ | Comments(0)
エルサレム#3(イスラエル):イスラーム
[ 中東主要部略地図 ]
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                                                       岩のドーム(神殿の丘)
(エルサレム#1:ヘブライ・イスラエル・ユダヤ
(エルサレム#2:イエス=キリスト   の続き)                                     ダマスカス門
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1世紀後半にユダヤを滅亡させたローマ帝国は、直後に分裂し、
パレスチナは東ローマ帝国(ビザンチン)の支配するところとなった。

一方、時代は下り570年頃のアラビア半島のメッカにムハンマドが
産まれる。40歳の頃に神の啓示を天使を通して受けたとされ、最後
の預言者(神の言葉を預かる者という意味:予言者とは違う)として
イスラームを開く。メッカでの迫害を逃れてヤスリブ(後のメディナ)に
移ったのが622年、これをヘジラ(聖遷)といい、この年がイスラーム
暦の紀元元年になる。630年にメッカを陥落したイスラーム勢力は
急激に勢力を伸ばし、教団国家の体制が確立する。アラビア半島を
占領したムハンマドは、更にシリアへ遠征途中に没する。
しかしイスラームの勢いは衰えることなく、サラセン帝国(ウマイヤ朝
―アッバス朝)は東はインダス川、西は北アフリカからイベリア半島
(スペイン)にまで及ぶ広大な領土を誇ることに成る。

パレスチナがこのアラブの勢力下に入るのは673年。そして691年、
ユダヤのヤーベ神殿跡にイスラーム寺院が建設される。ユダヤ神殿
壁面跡である「嘆きの壁」の上、今の神殿の丘に立つ岩のドームだ。
これはムハンマドが天使を従えて昇天したとされる岩の上に建てられ


b0049671_2012332.jpg ている。以来、イスラーム教徒にとっての
 エルサレムは、メッカ、メディナに次ぐ
 聖地と成った。

 その後、セルジュク・トルコからエルサレムを
 奪還した十字軍によって11世紀終盤から
 13世紀終盤までエルサレム王国が建てられ
 たのを除けば、1917年、第1次世界大戦の
 結果としてオスマン・トルコからイギリス統治
 に移るまでの間、パレスチナは一貫して
 イスラーム教徒の土地だったのだ。

 現在のエルサレム旧市街は一辺約1km
                                           四方の城壁で囲まれているが、これは
                                           オスマン・トルコ時代の16世紀のものだ。
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 さて、イギリスのアラブ人とユダヤ人への
 相矛盾する公約とその裏でのフランス
 (イラクを統治していた)との密約という
 三枚舌外交が、今日のパレスチナ問題の
 始まりになる。

 現在この地では、ユダヤ・キリスト教対
 イスラームという対立構造に成っているが、
 歴史を見る限り、ユダヤを迫害して来たのは
 イスラームではなくキリスト教社会だった筈
 なのだが。



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by meiguanxi | 2004-11-02 20:16 | 中東・北アフリカ | Comments(6)
エルサレム#2(イスラエル):イエス=キリスト
[ 中東主要部略地図 ]
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                                                     聖墳墓教会(ゴルゴダ跡)
エルサレム#1:ヘブライ・イスラエル・ユダヤの続き)
                                                                オリーブの丘
b0049671_20281874.jpg紀元前1025年頃にできたヘブライ人初の国家
(ヘブライ王国)は前925年、イスラエル王国と
ユダ王国とに分裂する。その後、前722年に
イスラエル王国がアッシリアに、前586年に
ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされる。
イスラエルの人々は離散して他民族に飲み込
まれ、ユダの人達はバビロンに強制移住させ
られる。彼等はその捕囚の中で、何時の日に
か救世主(メシア)が現れてユダヤを救い、
永遠の国が約束される筈だという宗教的信念
を強めていくことになる。

前539年、新バビロニアは勢力を急速に伸ば
してきたアケメネス朝のペルシャ帝国に滅ぼ
される。そして前537年、ユダヤ人達はカナン                               マグダラのマリア教会b0049671_2029735.jpg
(パレスチナ)に戻ることを許される。
前332年には支配者はギリシャに移る。
アレクサンダーの時代だ。宗教やローカル
文化には比較的寛大だったペルシャに比し、
ギリシャの締め付けは厳しいものだった。
その為、叛乱を起こしたユダヤは前164年、
一旦は独立を勝ち取る。だが、前60年、
今度はローマによってまたも占領される。

相次ぐ民族の苦難、ローマ支配下で腐敗する
王侯貴族の治世、パリサイ人の独善、精神的
荒廃。そんな時代を背景に、バプテスマの
ヨハネが現れる。彼はユダヤの悲運は唯一神
への信仰の荒廃によるのであり、悔い改めな
ければ神の怒りをかうだろうと予言する。                                      ゼッセマネ教会
b0049671_20294423.jpg前4年頃に生まれたとされるイエスは、彼の
弟子と成り、洗礼を受ける。

キリストとは元々はメシアに相当するギリシャ
語のクリストス(油を注がれし者)であり、
彼が自ら神の子としてメシアを名乗ったことに
由来する。イエスはヨシュア(神は救い給う)
がラテン語化したもの。
彼はエルサレム近郊のベツレヘムで生まれた
ということになっているが、史的確証は薄い。
旧約聖書によれば、メシアはヘブライ王国の
ダビデ王(ヘブライ12支族のうちユダ族)の
子孫にベツレヘムで現れると予言されている。

イエスの墓(聖墳墓教会)             マリアとヨセフの故郷であるガリラヤ(イスラエル北部)で伝道を
b0049671_20302044.jpg 始めた彼の教えは、一種の宗教改革であった。ユダヤの選民主義
 (民族主義)、律法主義、そして現世主義を否定し、地上での権力
 や富は虚しいものであり、人は神の下には平等であり、律法に
 よってではなく神への愛によって救われるのだと説いた。
 この教えは虐げられた者、貧しき者達に大いに共感を呼ぶ。
 数々の奇跡を起こしたという噂も、その求心力の助けとなった。
 しかしそれは一方でユダヤの支配層にとって異端であるばかりか、
 ローマにとっては反逆者の思想に他ならない。伝道開始から僅か
 2年、彼は捕らえられる。有罪を言い渡された彼は、自らが貼り付
 けられる十字架を背負わされ、エルサレムの町を歩き、ゴルゴダの
 丘で処刑される。紀元30年のことだ。
 キリスト教という宗教は、彼の死後、ペテロ等使徒がイエスの教え
 を伝道することで成立したものだ。

 この40年後、紀元66年に叛乱を起こしたユダヤは70年、ローマに
 よって滅ぼされる。バビロン捕囚後に再建された神殿は完全に
 破壊される。その外壁跡こそが、今日のユダヤ人達の精神的拠り
 所ある「嘆きの壁」だ。その後、135年再び叛乱が失敗し、ユダヤ
 人達は完全に離散し、パレスチナでは極少数派となる。

4世紀初頭、コンスタンティヌス帝のローマ帝国                 最後の晩餐が行われたとされる館(右手2階)
b0049671_20305520.jpgはキリスト教を国教に定める。ローマ帝国の
首都がビザンチウム(コンスタンティノポリス:
後のイスタンブール)に移されたのと相前後
する時代だ。こうなると逆に、イエスをメシア
だとは認めないユダヤ教こそが異端になる。
これにより、以後キリスト教化したヨーロッパ
に於ける、ユダヤ人達の迫害の歴史が決定
付けられた。
今日のエルサレム旧市街には、イエスが十字
架を背負って歩いたとされる路、ヴィア・ドロロ
ーサが残されており、死刑判決を受けた総督
官邸からゴルゴダ跡に建てられたとされる
聖墳墓教会まで、新約聖書のエピソードに
沿った14のステーションが設けられている。

エルサレム#3:イスラームに続く)                               (↓)聖墳墓教会内のミサ
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by meiguanxi | 2004-10-31 20:02 | 中東・北アフリカ | Comments(2)
エルサレム#1(イスラエル):ヘブライ・イスラエル・ユダヤ
[ 中東主要部略地図 ]
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   (↑)エルサレム旧市街(城壁より)

                                                       嘆きの壁の上に岩のドーム
b0049671_9562571.jpg 聖地エルサレム。言わずと知れたユダヤ、イスラーム、
 そして キリスト教、3つの宗教にとっての聖地だ。
 紀元前2000~1500年頃にメソポタミアを追われたセム系
 (後のアラブ主要民族の祖先)遊牧民のある部族は、
 旧約聖書によれば族長アブラハムが神から受けた啓示
 に従ってカナン(パレスチナ)に移住する。パレスチナの
 原住民たちは彼らのことを「川(ユーフラテス)の向こう側
 から来た人」という意味の「ヘブライ」と呼んだ。
 アブラハムの孫ヤコブは天子と戦う夢を見たことから、
 「イスラ(戦う)+エル(神)」と呼ばれる。
 この頃、カナンは深刻な飢餓にみまわれる。この時、
 エジプトで高官に登用されたヤコブの子ヨゼフを頼って、
 彼の一族はエジプトに移住する。彼らはヤコブの子という
 意味で「イスラエルの子等」と呼ばれることに成る。
 ヤコブには12人の息子がいた。
 以後、イスラエル人には12の支族が生まれる。
 エジプトはイスラーム以後、アラブというアイデンティティを
 受け入れていくが、そもそもはハム系民族であり、
 メソポタミアやアラビア半島の民族とは幾分違う。


嘆きの壁
b0049671_10113835.jpg    やがて時あたかもエジプト新王朝
    ラムセスⅡ世の時代、イスラエル
    人達はこの地での隷属と迫害から
    逃れ、前1250年頃、モーゼに率い
    られてエジプトを脱出し、シナイ半島
    での放浪を経てカナンの地へ再帰
    する。途中、モーゼはシナイ山で、
    ヤーベ(エホバ)神と契約をかわす。
    ヤーベへの帰依とカナンでの安住。
    モーゼの十戒だ。これがやがて
    ユダヤの宗教に成っていく。



メア・シュアリーム地区(旧市街ユダヤ人地区)
b0049671_10142384.jpg    そして前1025年頃、
    パレスチナの先住民を征服した
    サウル王が、イスラエル12支族を
    統一したヘブライ王国を築く。

    「イスラエルの子等」が
    エジプトに移住してから500年、
    つまりこのヘブライ王国を築いた
    のは嘗てのヘブライ人の一部だと
    いうことになる。




                                                          伝統的なユダヤ人男性
b0049671_10232776.jpg ダビデ王、ソロモン王の時代に栄華を極め、
 このソロモンがエルサレムにヤーベ神殿を建てる。
 だが、彼の死後、前925年頃、王国は10支族を率いた
 北のイスラエル王国と、2支族を率いた南のユダ王国に
 分裂する。
 ユダというのは、12支族の中の1つの族名で、
 ダビデ王もこの族の出身。
 また、ユダヤとは「ユダの人達」という意味。

 その後、前722年にイスラエル王国がアッシリアに、
 前586年にユダ王国が新バビロニアに滅ぼされる。
 追放されたイスラエル王国の10支族の消息は、
 歴史の中に埋もれて行った。
 一方、ユダ王国の人々はバビロンに強制移住させられる。
 この人たちはその地でもヤーベへの信仰を崩さす、
 むしろ神への帰依という絆によって、
 そのアイデンティティを強めていくことになる。
 何時の日か救い主が現れるというメシア思想は、
 こうした中での必然的希求によって生まれていったのだろう。

 数十年後、オリエントはペルシャ(アケメネス朝)大帝国の                       旧市街の典型的な路地
b0049671_10394065.jpg 時代に入る。新バビロニアを滅ぼしたペルシャは、
 ユダヤ人達がパレスチナに帰ることを許す。
 属国としてではあったが、ユダヤのヘロデ王は
 新バビロニアに破壊されたヤーベ神殿を再建する。

 しかしその後、支配者はペルシャからギリシャ、
 そしてローマへと移る。
 紀元70年、叛乱を起こしたユダヤをついにローマは滅ぼす。
 これ以後もユダヤ人達は暫くはこの地に残り、
 破壊されたヤーベ神殿の残された外壁を信仰の拠り所に
 するようになる。これが、今日の「嘆きの壁」だ。
 だが2世紀前半、再び叛乱に失敗したユダヤ人は
 離散し、多くはカナンを離れる。

 彼らの子孫を自称する現在のイスラエル人達が、
 再びこの地に彼らの国を造るのは
 1800年以上後、第2次大戦後のことだ。

  (エルサレム#2:イエス=キリストに続く)

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                                              エルサレム旧市街(シオンの丘より)
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by meiguanxi | 2004-10-28 10:58 | 中東・北アフリカ | Comments(0)