カテゴリ:メコン流域( 8 )
ムアンシン (ラオス): 国境の少数民族、貨幣経済の欲望と旅行者の傲慢
[ 北部ラオ周辺略地図 ]
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                                 ムアンシンのメイン・ストリート (以下、写真は全て1999年)


 ラオス北部のルアンナムターは中国雲南省・磨憨 (モーハン) との国境を越えたボーテンから西へバスで 2時間少しの位置だ。この道を更に西に10時間から12時間ほど進んだフェイサイからメコンを渡ればタイのチェンコン。いや、これは2000年当時の話で、2008年に南北経済回廊と呼ばれる雲南省昆明から磨憨/ボーテンを通ってフェイサイに到るハイウェイが完成した筈だから、時間は圧倒的に短縮されたのだと思う。ちなみに2011年にはフェイサイとメコン対岸タイ側のチェンコンとの間に橋が架かるのだそうだ。
 僕はこの辺りを二度訪れているが、初めてここを訪れたのが1999年1月下旬。ボーテンからのオンボロ・バスが到着したルアンナムターのバス・ターミナルは数件の食品店謙飯屋があるだけのただの広い空き地だった。ネット上の写真を検索してみると、今はそれなりにターミナルらしくなったようだが、とにかく当時は決まった乗り場もなければ時刻表もチケット売り場も無かった。非常に閑散とはしていたが一応は町らしい所を通過した先だったので、もしかしたらここがルアンナムターのバス・ストップかなと思って車窓から顔を突き出して見回した。この時、たまたま多国籍の北京の留学生 6人が同乗していたのだが、彼らは目的地に着いたのかもしれないという発想さえしなかったほどだ。日本人カップル、ルーマニア人カップル、韓国人の男子、インド人の女子という構成の彼ら留学生集団とは国境でバスを待っていた時に知り合ったのだが、冬休みを利用してバンコックまで旅行する途中なのだそうだ。ラオの事情に関しては殆ど情報を持っていなかった彼らは、取り合えず僕と同じ所に行ってみることに決めた。僕が誘った訳ではない。リーダー的存在らしいインド人の女の娘が僕と話していてそう決めてしまったのだ。
 込み合う出入り口を避け、僕はバスを小さな窓から飛び出した。荷台に大勢の人達を満載したトラックが動き出すのが見えたからだ。駆け寄って運転手に行き先を確認する。もちろん言葉は通じないので地名を連呼するだけだ。バスに戻って窓から留学生達に知らせる。一人インド人の女の娘だけが慌てだしたのだが、他の人達は反応が無い。他の乗客たちもざわざわと降りだしているというのに、日本人の二人に到っては殆ど意識が無いのかと思うほどだった。どちらかと言うと うんざりしていたのかもしれない。インド人の彼女を除いて、雲南省の田舎やラオを旅するには向かない人達のようだった。とにかくトラックを待たせているので急いでバスの屋根に上って、客達の荷物を降ろす運転手と一緒に彼らと自分のバックパックを下ろす。留学生達はもちろん登って来ない。やれやれ。
 両側に狭いベンチ・シートが設え付けられたトラックの荷台は、沢山のおばちゃんやおじちゃん達と彼らの膨大な荷物とで足の踏み場も無い。ご免なさいね、と言いながら笑顔で愛想を振り撒く。日本でならとっても出来ない苦手な部類の作業だ。だがなにしろ待たせた上に込んだ車内に余所者が 7人も乗り込むのだ。おばちゃん達は笑顔で何が大声で喋りながら席を詰めてくれる。友好的な人々であるようだ。椅子にあぶれた人は通路の荷物の間に、或いはそれらの上に座るしかない。僕は狭い椅子の一番後ろに座っていたので、幌のパイプとか椅子の下とかにしっかりと掴まっていなければ振り落とされそうだった。トラックは未舗装の山道をうねうねと登って行く。


ムアンシンから山への路                                            町外れの赤土の路
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 60km の道程を 2時間、ムアンシンは到って素朴な田舎だ。2階建てを越える建物は無く、メイン・ストリートさえ舗装されていない。町というよりは村なのだが、メイン・ストリートの中ほどにある壁の無い壊れた体育館のような建物の前の狭い空き地にトラックは停まった。その建物が市場で、駐車場の脇では何人かのおばちゃんたちが露天を開いている。僅かな野菜とか果物とかだ。
 留学生達が近くの何軒かのゲストハウスを回って部屋をチェックしている間に、市場の裏に宿を取った僕はさっそく町に飛び出した。トラックが着いたその瞬間に既にここが気に入ってしまったのだ。木造家屋が並ぶ静かでのんびりした通り。周りは畑と木立。遠くに緑の山並みが見渡せる。埃っぽい道端で年端もいかない少女達が屋台を出している。いや屋台と言うほどのものではなく、小さな蜜柑箱のような低い木製の台と椅子だけの露天だ。焼き鳥やホーローの中国製洗面器に入れた焼きそばのようなもの。たぶん米粉で作った麺だ。なかには蛙を焼いている少女もいる。腹はすいていなかったが焼きそばの屋台の椅子に座って注文する。風呂の椅子のような低い椅子だ。あの留学生達はインド人の彼女を除いて、バイクが通る度に土埃の舞うこの屋台で焼きそばを食べるなんてできないんだろうなと思う。食べてみればもっと自由になれるのに。
 何処からどのようにでもメイン・ストリートを外れれば既にそこは郊外だ。赤土の道を暫く歩いて行くと、畑と林に囲まれた藁葺き屋根の小さな集落があった。立派な高床式家屋の前では女達が火を熾していたり男達が水浴びをしていたり、子供達が走り回ったりしている。木立の向こうに夕陽が沈んでいく。それはあまりに大きくあまりに赤い。そんな美しい夕陽を見て佇んでいる僕に、村の人達はあくまで優しかった。ここでは英語はあまり役に立たない。英語で数を数えることのできる人も殆どいない。勿論それでもなんとかなる。ここの人々は言葉が通じなくともなんとか自分の意思を伝えようと努力するし、相手の言うことを理解しようと努める。トラックのおばちゃん達の笑顔もそうだが、特に中国から来るとその笑顔が心に染み渡るように感じる。


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                                                               村の夕焼け


 朝7時、漸く明るくなり始めたばかりの市場は既に盛況だ。ここでは毎日、朝市が開かれる。簡素な大きな建物の中には幅一畳ほどの店が並び、木製の台に並べられた日用品や衣類や菓子などの商品に人々が群がっている。市場の周囲には周辺からやって来た少数民族たちの露天が並ぶ。野菜や肉などの生鮮食品だ。麺などの屋台も出ている。彼女達は夜明け前から或いはトラクターに乗り合わせて、或いは何キロもの道を歩いて集まって来るのだ。ラオの人々の他に、貝殻やコインをジャラジャラと装飾した頭飾りと刺繍入りの脛当てが特徴的なアカ族、地味な藍染の着物を着たモン族、藍の大きなターバンのような被り物とふさふさした真っ赤な太い襟飾りが目立つヤオ族。賑わう市を包む朝靄の向こうにぼんやりとした太陽が昇る。瑞々しい野菜の露が光る。人々が群がる屋台では肌寒い空気に麺の湯気が白く立ち昇る。ひとつひとつの光景が霧に霞み、あるいは早い朝の陽に照らされて実に美しい。毎日繰り返される朝の光景。一日の始まりを告げる日常的な光景だ。


朝市のアカ族                                                       市場裏の様子
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朝市の屋台                                              赤い襟飾りが印象的なヤオ族
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 市の終わりは早く、9時半には既に閑散とする。建物の中の店も殆どが閉めてしまう。後にはのんびりとした田舎の風景だけが残る。旅行者達は洗濯をしたり日記を書いたり本を読んだり、飯屋で誰かと話をしたり自転車で近郊の村を巡ったりして過ごす。この町から少数民族の村に行くのなら、どちらの方向でも良い。ちょっと頑張って自転車を走らせればアカやヤオ、モンなどの村を見付けられる。村々はいたって素朴だ。森の中の、土間に萱葺きの平屋が並ぶヤオ族の村。山の斜面を切り開いて高床式の大きな家屋が並ぶ集落はアカ族の村。道で擦れ違う人々はことごとく “サバイディ” と声を掛けてくる。ラオ語の挨拶だ。町から1時間ほど田園や林の凸凹の道を、途中の村々を見ながら自転車を転がすと、中国との国境に続くラオ側の小さな国境事務所に着く。我々はここから先に進むことはできない。中国側からは粗末な民族衣装を着た家族連れが砂糖黍を齧りながらてくてくとやって来る。国境というよりはただの山村の光景だ。彼らにはそもそも国境というものはあまり大きな意味を持たないものなのかもしれない。
 少し残念なのは村の中で村人の写真を撮ろうとすると、必ずと言って良いほど金を要求されることだ。どんなに遠くから景色や家並みの一部としてでも彼女達にレンズが向けられると大騒ぎになる。彼女達が要求するのは我々からすれば僅かな額だ。1000ラオ・キップ、97年のアジア通貨危機の波を被っていた当時のラオでは25円にも満たない程度。けれど僕は出さない。当時の日記を見るとこんなことが書いてある。

 金を要求されるとカメラを仕舞ってしまう。勿論、1000キップが惜しいわけでも、金を取られるのが嫌なわけもない。かと
 言って甘やかすとかスレれさせるといかいった議論に全面的に同調する気持ちもない。我々は頼まれた訳でもないのに
 他人の生活の領域に勝手にやって来て、庭先をうろうろして生活を覗き見している。おまけに写真まで撮ろうというのだ。
 彼らだって金くらい要求して当然なのだ。だいたい、こういう言い分はヒューマンなように聞こえて、実は傲慢だったりもす
 る。地元の人々の地道な経済生活を破壊するという議論もあるかもしれない。けれど我々が観光なんかで訪れること
 自体が、既に彼らの伝統的で地道な生活の破壊なのだ。どちらにしてもこちらの勝手な思い込みであることに変わりは
 ないので、僕は声を大きくして何かを主張しようとは思わない。けれど、写真を撮るのに金を支払うのは嫌なのだ。善悪
 ではなく、好悪の問題だ。同じ失礼に当たるのだとしても金を渡すことの失礼さの方が僕には胸が痛む、という僕の勝手
 な理由だ。


アカ族の村の門 (魔よけの結界のようなもの)                                アカ族の家屋内部
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 ところで僕が訪れた時にはラオを自由に旅行できるようになってまださほどの時間は経っていなかった時期だが、既に旅行者達には大の人気だった。旅行者の訪れる町や周辺の村を取り巻く環境はきっと急速に変化していくことだろうと、その時に思ったものだ。そして今や、中国から人と資本が大量に流れ込んで来てもいるらしい。Google Earth で探してみると、森林の緑の中に区画整理された正方形のムアンシン村を見付けることができる。僕の知っているムアンシンはスクエアではなくメインストリートとその周辺だけの線でしかなかった。だから今行っても僕の知っているムアンシンは既にそこには無いのだろうと思う。もちろん経済発展も町の変化もそこに暮らす人々が豊かになることである限りにおいて、旅行者の感傷などの入り込むべき事象ではないし、彼らとともに喜ぶべきなのだろう。ただ、中国の資本が流れ込んだ結果の急激な経済発展は、それまで以上に彼らの生活が貨幣経済に飲み込まれることをも意味している。それがラオや周辺少数民族の暮らしをむしろ窮迫させる結果にもなるのだとしたら、少しの憂慮を表明しても失礼には当たらないだろう。杞憂ならそれに越したことはないのだが。


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                                                               アカ族の村
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by meiguanxi | 2009-03-18 23:05 | メコン流域 | Comments(6)
ルアンナムター (ラオス) : 変わりゆく平和な停滞
[ 北部ラオ周辺略地図 ]
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                   ルアンナムターのメイン・ストリート (以下、写真は全て99年当時のルアンナムター)


 僕が初めてラオスという国を訪れた時には、日本で取得するヴィザ代は 2万円もした。僕の場合には中国雲南省の省都・昆明 (クンミン) で取ったのだが、それでも 2週間のビザで40米ドル (当時約4700円) した。しかもラオ国内では新しい県に着く度に、警察に出向いて入国カードにスタンプを押して貰わなければならないというシステムが残っていた。それが今ではヴィザ無しで入国できるようになったというのだから、変わったものだ。
 ところで、中国の町について書こうとする時、どうしても躊躇を感じる。僕が初めて中国に行ったのが90年、最も最近で2000年なのだが、変化があまりにも早過ぎて状況が全く違ってしまっているからだ。ところがここ数年はラオについても同じことが言えるようだ。以前、僕が雲南省辺りを度々訪れていた90年代前半、インドシナの国々はまだことごとく国境を閉ざしていた。カンボジアはご存知の通り内戦状態だったし、ラオやヴェトナムに関しても勝手に歩き回れるような状況ではなかった。その後、経済開放政策に舵を取ったヴェトナムとラオが、おそらく90年代中庸だと思うのだが、相次いで隣国との国境を開き個人旅行者が自由に歩けるようになると世界中から旅行者達が大挙して押し掛けた。僕がタイ以外のこの地域を初めて訪れたのが98年秋。ヴェトナムは既にバックパッカーたちのテーマパークのように観光地化されていた。彼らの商魂はかなり逞しいのだ。一方、年を越して訪れたラオは何処に行ってもまだまだ田舎といった面持ちだった。だが小さな町には不釣合いなほどの大量の旅行者達を見て、この国の素朴な風情が変わっていくまでには長い時間は掛らないだろうと感じたものだ。尤も、僕が行ったのは北部のみなので、中南部に関しては知らない。
 その後、タイからラオを通過してヴェトナムに到る東西経済回廊というハイウェイが完成、更に中国の先導で雲南省からラオを通ってタイへ通じる南北経済回廊も開通するに到って中国から大量の人と資本がラオに流れ込んだ。僕が訪れた99年や00年には殆ど見られなかった漢字の看板が、少なくと一部の町では溢れているらしい。
 と、まあ、長々と書いたがここではそれらに関して云々する積りではなく、要するに変わっちゃったと思うのでここに書くことは旅行情報としては役に立ちませんよという言い訳だ。更には、ルアンナムターに関してはさほど書くべきことを持っていないのだ。ここまで読ませて何を言ってるのかとご立腹の皆様には申し訳ない。


とうもろこし売りの子供達                                     バナナや砂糖黍などの甘味屋
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 さて、昆明から西双版納州 (シーサンパンナ) の州都・景洪 (ジンホン) までバスで24時間。と書くととんでもなく長く思うかもしれないが、90年当時には 2泊 3日掛ったことを思えば隔世の感がある。ここから 5時間で勐腊 (モンラー)、更にミニバスに乗り換えて2時間で磨憨 (モーハン)。小さな村の一本道を抜けると鬱蒼とした森林に囲まれた広場に出る。ここが国境マーケットになっていて、簡素で小さな店が数十件並んでいるのだが、僕が見た二回に限って言えば人通りは全く無い。この閑散としたマーケットの先に中国側イミグレーションの建物がある。00年当時は小さな村の役場といった面持ちの建物だったのだが、今や立派な近代建築に建て替えられているという。田舎の市場にすぎなかったマーケットも随分と変わったことだろう。このイミグレの前に幌付きの軽三輪自動車が停まっていて、荷台に 6人ほどが乗り込める。森の中の細い道を 2kmほど進むと突然森林が開ける。そこがラオ側のイミグレーションと国境市場のあるボーテン。こちらも到って閑散としているが、開けている分、中国側より明るく感じられた。今は中国資本の立派なホテルが建っていて、そこではラオ国内だというのに中国語しか通じず中国元しか使用できないのだそうだ。因みに、今はこの国境を挟んで双方の大きな町を往復する国際バスも走っているらしい。
 このマーケットの前の未舗装の駐車場がバス・ストップに成っているのだが、チケット・ブースも時刻表も何も無い。普段は何台かのトラックが停まっているだけだ。中国とラオとの時差は 1時間。イミグレの開くのを待って中国側を 9時過ぎに出国すれば、ラオには遡って 8時過ぎに着いてしまうという訳だ。やって来るバスやトラックに声を掛けながら目的地への乗り物を待つ。バスがバスの形をしているとは限らないからだ。この国境を同じ方向から 2回越えたが、初めにやって来るのは南に下るウドンサイ行き。世界遺産であるルアン・パバーンへ向かうのならこれに乗る。運が悪くとも 3時間程も待ては西に向かうバスがやって来る。ルアン・ナムター行きだ。


軒先の父子                                                        庭に集う家族
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 ラオの山は雲南省の多くの場所とは違って豊かな原生林が広がっている。鬱蒼とした熱帯の樹木が茂っている。ただし道は到って悪い。酷くバンピーでやたらとダースティだ。窓や継ぎ目から容赦なく土埃が入ってくる。整地してしまった熱帯樹林帯の道というのは、乾季にはパウダー状に乾燥してしまうのだ。一番後ろの席になどに座っていた場合、あっという間にシャツの裾やズボンが真っ白になる。勿論、先にも書いた通り経済回廊が開通したということだから、少しは良くなったのかもしれない。
 ボーデンから20kmほど南下した所でウドンサイへの道から分かれる。そのまま南に下るとウドンサイ、右折して西に向かえばルアンナムターだ。その分かれ道のほんの一画だけ賑やかな集落がある。といっても数件の簡素な商店があるだけだ。場所の名前は分からないのだが、ここでは鮮やかな衣装を着たモン族の人々を見ることができる (ボーテン参照)。和服をだらしなく着たような黒、または濃紺の藍染の衣装で、襟や前合わせの部分には真っ青な縁取りがある。ショッキング・ピンクの帯を締め、大概は頭にピンクの格子柄のタオルのような布を巻いているか、紫の房が付いた黒い筒帽のようなものを被っている。婆さんから小さな女の子までそういうものを身に着けているのだ。この辺りではまだまだ民族衣装や伝統が日常生活の中に残っているのかもしれない。


酒の蒸留だろうか                                       おそらく脱穀しているのだと思うが
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 バスは 2時間ちょっとでだだっぴろい閑散とした町の広い駐車場に着く。ルアンナムターだ。バスターミナルというよりは所々草が生えるに任せた空き地といった感じだ。町もだだっぴろいとは言ってもそんなに大きな町というわけではない。真っ直ぐな道が伸びていて、高い建物も賑やかな商店街も見当たらないので、その閑散とした様子がだだっぴろく感じさせるのだ。その真っ直ぐな舗装道路がメイン・ストリート、他にはそれと並行する裏道が一本と、それらと交差する路地が所々にあるといった程度だ。ところがこれを書くにあたって Google Earth を見てみたのだが、どうもルアンナムターの町は僕の知る範囲より遥かに大きく膨張しているようだ。それとも当時の僕が歩かなかっただけなのだろうか…そんな筈はないと思うのだが。
 いずれにしても僕の知るルアンナムターは取り分けて何があるという町ではない。多くの旅行者はここを基点に中国国境に近いムアンシンという村に行くか、或いは更に西に向かってタイとの国境でメコン流域のフェイサイに向かうために立ち寄る程度だろう。ただ近郊にはヤオ族、アカ族、モン族など沢山の山岳少数民族の村が点在していて、それらを巡るトレッキングをアレンジする店が何軒かあり外国人には人気のようだ。周囲には高床式の住居も見られ、主食のもち米を脱穀しているのか婦人が臼に長い杵を突いていたり、道端の露天で何かを売っている子供が来ない客を待っていたりするような、静かでのんびりした町だ。運が良ければ制服を着た子供達の下校姿を見ることができるかもしれない。この制服、どう見てもランテン・ヤオ族の民族衣装がデザインされているのだ。ラオスでは民族問題を同化政策で昇華させる方針を採っているで、ラオルム (低地ラオ)、ラオトゥン (丘陵ラオ)、ラオスン (高地ラオ) という3つの民族グループに分けられているだけで各々個別の少数民族は公式には認められていない筈なのだが、このような到って個別民族色の濃い制服は認められているのだろうか。


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                                     ランテン・ヤオ族の民族衣装と思しき制服の子供達
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by meiguanxi | 2009-03-17 21:49 | メコン流域 | Comments(4)
バックハー(ヴェトナム): 花モン族の定期市
[ 北部ラオ周辺略地図 ]
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                                                              市場の飯屋

 ヴェトナムの首都ハノイからソン・ホン(ホン川)を北西に遡ると中国雲南省河口(hekou)との国境の町であるラオカイに到る。ここから山道を西に37km、バスで1時間半入ると赤ザオ族や黒モン族が集まる定期市で有名なサパの村がある。いや、今では既に町になったかもしれない。
 実はこの周辺はサパに限らず山岳少数民族の「宝庫」だ。今ではラオカイから国境沿いを東に巡る日本からのツアーも出ているようだ。日本で2007年に公開されたヴェトナム映画 『モン族の少女 パオの物語』 の舞台にもなった地域だ。だが僕がこの辺りを訪れた1998年頃には、ハノイからラオカイに到るホン川の西側、フランスとの戦闘で有名になったディエンビェンフーを経由するラインについて書かれたガイドブックはあったのだが(旅行人 『メコンの国』 初版)、ホン川東側の情報は全く無かった。従って僕はその地域へは行っていない。
 しかしたまたま宿泊した宿でサパとは別の町の定期市へのツアーを取り扱っていた。サパのサタデー・マーケットを訪れていた旅行者を集めて、日曜日に市が開かれる場所に連れて行くというものだ。サパからラオカイを挟んでホン川の反対側にあるバックハー。今では有名になったバックハーのサンデー・マーケットだが、当時はサパで聞くまで誰もそれを知らなかった。

野菜売りの老婆                                                生きた子豚を梱包する
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 バックハーに集まって来る民族は花モン族と呼ばれる人々。モン族は中国では苗族(ミャオ族)、タイではメオ族と呼ばれる民族で、貴州省、湖南省、雲南省、四川省、広西壮族自治区、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムとかなり広い地域に渡って居住している。インドシナ周辺の少数民族の衣装は同じ民族を名乗っていても部族によって地域によって大きく違うのだが、花モン族はモン族の中でもひときは華やかだ。


華やかな衣装の老婆                                 サトウキビを品定めする古い衣装の老婆
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 ところでここからはバックハーとは直接の関係が無い話。
 民族衣装というものは伝統的生活上の利便が考慮されている部分もある筈だが、実際にはかなり不便なものでもある。これは私見だが、特に女性の民族衣装は他民族・他部族から女性を区別する、或いは男性が女性を縛るという意味合いもあるのかもしれない。勿論、それを着ることで民族的アイデンティティが保管されるという側面もあるだろうから、縛ると言ってもそれは必ずしも強制というものではなく、あくまでそのように作用するシステムとでもいうようなものだとは思うのだが。
                                                衣装だけではなく身体的装飾も同じような
                                              意味合い、役割りなのだろう。例えば日本に
市場から引き上げる人々                              もあった御歯黒などは単に他の男に対しての
b0049671_20485633.jpg宣言という意味合いが強そうだが、インドシナ周辺のようなモザイク状態に少数民族が混在する地域では他民族・他部族から女性を防衛するという側面もあったのではないだろうか。既婚あるいは成人女性の剃眉、剃髪、或いは刺青などという風習もこれに当たるだろう。ビルマからタイのメーホーソン郊外に亡命しているいわゆる首長族(カヤン族)の長く誇張された首などはその最たる例であると思うのだが、どうだろうか。
 さて以上はあくまで私見であるのでそのまま真に受けないでほしい。だが民族衣装に関して、実は実生活上はかなり不便でもあるというのは事実だ。これらは主に手縫いで本人が、或いは母親や家族が作る。精緻な刺繍も同じだ。つまり作るのに大変な時間と労力とを要する。もちろんコストも結構な多寡につく筈だ。しかも洗濯するのにも非常に労力が必要なので、時には不衛生に成ることも少なくない。彼らの多くは農作業に従事していると思われるが、民族衣装というものは時に重く動き辛い。農作業をするのなら動き安く洗い易く、できれば安価に大量消費できるものの方が圧倒的に便利である筈なのだ。
 だから人や情報の流れが速くなり経済が発展し価値観が変容すれば、このような民族衣装は早晩廃れていくのだろう。事実、雲南省では大量に出回る化繊の既製品に取って代わられているケースが非常に多い。もちろん中国の場合にはその裏に政府による漢化政策もあるのだが。しかし善悪判断はともかく、日本の着物がそうであったようにヴェトナムやラオスのこの地域の少数民族の装束もやがては冠婚葬祭以外では見られなくなるのかもしれない。


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by meiguanxi | 2008-01-26 20:56 | メコン流域 | Comments(7)
シンチャイ村(ヴェトナム・サパ): 黒モン族の質素な村
[ 北部ラオ周辺略地図 ]
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 ヴェトナム最北、中国雲南省との国境に近いサパの小さな町は、黒モン族や赤ザオ族が集まる定期市のために週末だけ沢山の外国人もやって来て大変な賑わいになる。ところが日曜の朝を過ぎると町は一変する。ゲストハウスも市場も商店も開店休業状態で、のんびりというよりはまさに閑散といった感じだ。少なくとも1998年12月にはそのようだったし、それは町というよりは村だった。
 その週末、サパを訪れていた日本人旅行者はハノイからのツアーを別にして4人いたのだが、そのうちの僕を含めた3人はたまたま同じ宿だった。日曜日も町に留まった僕たちは月曜日、近くまでミニトレッキングに出掛けることにした。サパ周辺には沢山の少数民族の村が点在している。だが十分な準備もなかったし、3人のうちの1人は女の娘だったのだが、彼女はその日の夜行列車でハノイに戻ることになっていたので、午後のバスで町を離れなければ成らなかった。そんな訳で遠出はできない。僕たちはモン族の村カットカットと近くの滝を訪ねることにした。そこなら往復3時間程度で行って来られる。


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 カットカットへはサパの町外れから谷に向かって坂道を下って行く。我々はずっと真っ直ぐに進んだ。ところが幾ら行っても滝は現れないし谷にも降りられない。かなりの距離を歩いた所でやがて村が現れた。ぽつりぽつりと点在する家々は板や竹で組まれた簡素な平屋で、屋根は木の皮で葺いてある。軒先には藍染が干されていて、その庭先ではモン族の女性が縫物だか刺繍だかをしている。ここはカットカットですかと訊くと、「ああ、シンチャイ、シンチャイ」と答える。後で分かったことだけれど、僕たちは途中で路を間違えてしまったらしい。下り坂の途中に石段を下る標識があったのを見落としてしまったのだ。シンチャイ村はカットカット村より少し先にあるらしかった。子供たちは「ハロー、ハロー」と元気良く迎えてくれたし大人の女性たちも友好的だった。男の人の姿は見当たらない。遠くの畑に出掛けているのかもしれないし、出稼ぎに行っているのかもしれない。やたらと犬の多い村で彼らは全く友好的ではなかった。逃げても追い払っても沢山の犬が吠えながら威嚇してくる。この辺りの犬が狂犬病の予防接種などしているとも思えない。もし1人だったら萎えていただろうと思う。
                                     幾ら進んでも滝には行き着けそうになかったし(当然だが)、
                                   一緒に行った女の娘もかなり疲れてきているようだった。僕たち
b0049671_20311133.jpgちは前方に見えた小さな丘を終点にしようと決めた。そこには2人の幼い子供がいて、下半身裸のような姿で遊んでいた。近寄ると丘の陰に一軒の家があり、お婆さんが笑いながら出てくる。
 僕たちはお婆さんの家に招待された。それは小屋といった感じの家で、床は土間になっている。広間は一応ふたつに仕切ってあり、隅に2つの寝室があった。竹で組まれた簡素なベッドにはかなり汚れた毛布が無造作に乗っていた。あまり衛生的な生活環境とは言えなさそうだ。当然だがもちろん電気も水道もない。
 お婆さんは土間に薪で火を熾し、真っ黒に煤けた薬缶でお湯を沸かしてご馳走してくれた。お茶ではなくただのお湯だ。驚くことに直火に掛けられた把手の付いていない薬缶を、お婆さんは素手で扱った。驚愕というよりも殆ど焦ってしまった僕たちはお婆さんの掌を見せてもらった。なかなか大変な生活であるようだった。粗末なお椀に注がれたお湯は少し黒ずんでいて、油が浮きゴミが沈んでいた。勿論、有り難く頂いた。お婆さんは、良し良しというように笑顔で頷いた。


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 帰り道で気が付いたことだが、サパからの下り道の途中には立派なホテルが建設中だった。もうすぐあの村のほんの近くまでも観光開発されるのかもしれないし、上手くいけばあのお婆さんの暮らしも少しだけ楽になるのかもしれない。いや、利益や恩恵はホテルやレストランを経営するヴェトナム人にしか回らないだろうか。そんなことを思いながら僕たちは町に戻って行った。そう、98年12月のある日のことだ。


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by meiguanxi | 2008-01-22 20:38 | メコン流域 | Comments(0)
サパ (ヴェトナム): 少数民族の市と観光化と
[ 北部ラオ周辺略地図 ]
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                                                               赤ザオ族


 ハノイからの夜行列車は朝霧に包まれたラオカイ駅に到着する。それは何も無い荒地にポツンと建っていた。列車の駅が郊外にあるというのは良くあることだが、それにしてもそれは唐突と言ってもよいような光景だった。駅前には建物らしい建物は無く、駅前広場建設の為にそこらじゅう掘り起こされている。1998年12月のことだ。
 ラオカイはヴェトナムの首都ハノイからソン・ホン(ホン川)を北西に遡った、中国雲南省河口(hekou)との国境にある町だ。夜行列車の3段ベッド向かい合わせのコンパートメントに乗り合わせたのは全て西洋人だった。閑散とした駅前にはバスが列車の到着を待っている。乗り込んで待っていると、他にも何組もの西洋人が駅舎から出てくる。いや、日本人も数人混ざっている。バスは鬱蒼とした山道を登り峠を越え、37kmの距離を1時間半も掛けてノロノロと走る。
 ヴェトナムを外国人が自由に旅行できるようになったのが94年だという。僕がサパを訪れたのはそれから僅か4年後でしかないのだが、こんな山奥の辺境であるにも拘らずサパの人気は既に大変なもののようだった。ヴェトナム全土の主だった観光地に於ける観光産業は沸騰せんばかりの状態で非常にツーリスティな印象を受けたのだが、この小さな村にも数多くのホテルやゲストハウスが林立している。ただし、少なくとも僕の訪れた時には、その賑わいは土曜日の朝から(もしかすると金曜の夜からかもしれないが)日曜の朝までという、非常に限定された期間に限られていた。


赤ザオ族                                                 黒モン族(市場の食堂にて)
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黒モン族(同右1枚)
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 この山奥の村を有名にしているのは、土曜日に開かれる少数民族の定期市だ。バスが到着した8時半には既に大勢の少数民族たちでごった返していた。こうなるとミーハーな旅行者としては宿を確保するのももどかしく、心踊るままに飛び出すことになる。この土曜マーケットに集まってくる少数民族は、赤ザオ族、黒モン族、ザイ族などとなっているが、残念ながら僕の時にはそれと分かるザイ族の民族衣装は目にできなかった。因みにザオとモンは、中国ではそれぞれヤオ族、ミャオ族と呼ばれる人々だ。ただインドシナ山岳地帯の少数民族の衣装はそれぞれの地域で大きく違うので、例えばこれまで雲南省の民族として紹介したミャオ族とは随分違うと思う。ザオ族にしても金平の紅頭ヤオ族との違いは一目瞭然だろう。或いはタイ北部の少数民族に詳しい方なら、真っ赤な長いファーのような襟飾りが印象的なザオ族の姿をイメージされるかもしれない。だがザオ(ヤオ)族の場合、良く見るとダボダボのパンツの柄に共通点があったりする。


黒モン族(同右1枚)
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 夕方になり市が跳ねる頃には多くの人々がそれぞれの村に帰って行くのだが、一部は遅い時間まで残っている。おそらく一泊して翌日明るくなってから歩いて帰るのだろう。市場の一角では民族衣装の若者たちが集まって歌を唄っている姿を目にすることができる。といってもいわゆる伝統的な歌垣というよりは、若い男女たちが遅くまで夜遊びしているといった面持ちだ。まあ、歌垣とは本来そういう目的のものなのだから、ギターを奏でて屯する姿も伝統の変容した形なのかもしれない。
 さて、人様の生活や装束を覗きにやって来て写真を撮りまくるというのは、どうやってもあまり品の良い行為とは思われない。何時もながら少しく後ろめたかったりもする。ところが夜になるとこれが逆転するのだ。旅行者たちの多くはメインストリートのレストランで食事をすることになるが、その窓際に土産物を売ろうと民族衣装のおばちゃんたちが集まってくる。とはいってもその時間になると彼らもあまり熱心ではなく、窓越しにレストランのテレビを観ていたり或いは旅行者の食事風景をからかうように眺めていたりするのだった。
 衆人注目のもとで食事をするというのはあまり落ち着きの良いものではないが、しかしこれが日曜日の夜となると状況は一変する。まさに寂しいほどに人がいなくなるのだ。もちろん個人でバック・パックを背負ってやって来る旅行者も多いのだが、ハノイからの現地ツアーでやって来て日曜日には帰ってしまう人の方が多いようだった。
 ところで、サパは村じゃないという意見もあるかもしれない。今頃は僕が見た光景とは全く違うほど発展していることだろう。少数民族の伝統的な装束や市が外国人旅行者に人気を博した訳だが、その結果としてほんの数年で有数の観光地と化したことが彼らの生活にその後どのような影響を与えることになったのか、不勉強と怠惰のゆえに知らない。


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by meiguanxi | 2008-01-19 19:36 | メコン流域 | Comments(9)
ボーテン / 磨憨 : 激変する中国・ラオス国境
[ 北部ラオ周辺略地図 ]
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                                       磨憨からラオ国境への道(1999年撮影:以下同)

 別の記事でも書いたが、僕が毎年のように数ヶ月の旅をしていた80年代終盤から90年代初頭、インドシナ半島の国々の国境は悉く閉ざされていたし、それのみか個人でその国内を自由気儘に旅行することすらできなかった。
 その意味で、タイを除けば中国雲南省南部の西双版納(シーサンパンナ)州はインドシナの空気を感じることができる特別な場所だった。ただしそこはどん詰まりであり、その先は何処の国にも出られない。中国国内の別の場所に抜けるしかなかった。ビルマ(ミャンマーという現在の国名は軍事独裁政権によるものなので、敢えてこう呼ぶ)だったかラオスだったか、越境しようとした学生が公安(中国の警察)に捕まり強制送還させられるといった事件も起きたりしていた。

ボーテンのイミグレ(右)(道の向こうが磨憨)                   さて、ラオスである。始めに断っておくが、英
b0049671_23363458.jpg語表記では Laos だが自称の発音は国名・主要民族名とも“ラオ”であるので、以後、ラオスではなくラオと表記する。
 ラオが外国人に対する旅行制限を解除したのは94年のことだそうだ。同時にこの90年代中葉以後、この地域の国境が次々に開放されることになる。だが、手元にある96年12月初版の旅行人のガイドブック 『メコンの国』 には、「ある県を出て他の県に到着したら、警察(イミグレ)に行き(…中略…)入国カードにスタンプを押してもらわなければならない」 との記載がある。同じようなシステムは嘗てのイランにもあった。僕が初めてラオを訪れた99年にはこの制度が実際に残っていたのだが、2000年に再訪した時には警察に行った記憶が無い。この時代、旅行事情にはまだ急速な
                                              変化の名残があったのだろう。ところがその
ボーテンの国境マーケット                             変化は実は、今また別の形で押し寄せている
b0049671_23372465.jpgようなのだ。

 西双版納州の州都・景洪からラオへの起点となる勐腊(モンラ)という街へ初めてルートを採った99年1月には、その途中に勐養(モンヤン)と基諾(ジヌォ)という2つの田舎町を訪ね歩いたのだが、本来はこちらが本道だった。細い山道を登り下りすること193km、移動時間を合計すると走行時間は7時間になる。ところが翌年8月、景洪からの直行バスに乗ると、その時間は1時間程の休憩を含めて5時間20分だった。実は、有名な観光地である橄榄壩(カンランパ : 別名を勐罕=モンハン)を通る新道ができ、171kmに短縮されていたのだ。
 手元に現地で入手した88年版と98年版の
                                               『雲南省交通図』 という一枚地図がある。88
国境マーケットの商店・竹壁の奥は飯屋                    年版では景洪から30数kmの橄榄壩は行き
b0049671_23381435.jpg止まりであり、その先には瀾滄江(ランツァンジィァン:メコン川)がラオス・ビルマ国境に向かって流れているだけだ。98年版では道は勐腊への旧道の途中に繋がってはいるが、やはり幹線道路の表記は旧道になっている。ところがこの新道、付近の遠々と続く田園と熱帯雨林という風景の中にあって、その近代的な様は異様としか言い様の無いほどに不均衡に映る代物だった。

 さて、勐腊は比較的大きな街だが、ここに見るべきものは無い。因みに前出の88年版地図ではこの街はやはり行き止まりで、迂回して景洪方面に戻る道が記されているだけだ。だが勿論、今は道は先に伸びている。長途汽車站(バス・ターミナル)から自転車人力車で10分、約2kmほどで町外れの中巴汽車站(ミニバス発着所)。ただの未舗装の広場だ。ここでワゴンのバスに乗り換えて50数km、2時間ほどで終点に着く。
 ほんの小さな町、むしろ村と言った方が正確な磨憨(モーハン)の町の、閑散とした1本道を暫く歩くと広場に出る。数十軒の小さな店が並ぶバザールだが、人通りは殆ど無く、やはり閑散としている。このバザールの突き当たりに1軒の飯屋があり、そこがゲストハウス。大概の旅行者はこの閑散としたバザールで1泊することになる。
 この広場突き当たりの角から細い道が小川沿いに熱帯雨林の中に伸びている。だが、勝手にノコノコと歩いて行くことは出来ない。広場から道への進入口に1棟の建物がある。中国側のイミグレーションだ。本当の国境線は道の先の森林の中にある。出国手続きを終え、前に停まっている軽トラック(荷台にシートを置いた、6人程度乗れば満員になるような小さなもの)で2km程の山道を行く。
 森林が突然大きく開けると、そこがボーテン。集落と言うほどのものは無いのだが、ラオ側のイミグレーションがある場所だ。その向かいにはかなり大きな未舗装の広場があり、国境マーケットに成っている。磨憨のマーケットよりも開けた感じがするが、やはり人出は少なく、閑散としている。バスはイミグレーション脇の駐車場から出るが、時刻表があるわけでもチケット売り場があるわけでもない。国境を朝の裡に越えて待っていればやがて、運が悪くとも数時間後にはバスか大型のトラックバスがやって来る。行き先は運転手に訊ねるしかないのだが。
 バスで19km、道は北のポンサリー方面、西のルアンナムター、フェイサイ方面、南のウドンサイ(ムアンサイ)、ルアンパバン(ルアンバルバン)、首都ヴィエンチャン方面に分かれる。その交差点付近の集落では、何時も民族衣装のモン族の姿を見ることができる。道はどちらに向かっても山岳少数民族の領域を走ることになる。

バンナモ付近のモン族                     さてところで、2006年12月、タイとラオの国境を流れるメコンに
b0049671_2339543.jpg第2国際橋が掛けられた。第1橋はラオの首都ヴィエンチャンとタイ東北のノーンカイを渡すものだが、今回掛けられたのはラオ第2の都市で中部のサワンナケートとタイ東部ムクダハンを繋ぐものだ。これによって既に完成していたヴェトナム沿岸地域までのハイウェイとタイが結ばれたことになる(東西経済回廊)。さらにヴェトナム側でこの道は北に向かえば2005年に完成した中国へのハイウェイに繋がる。
 そして今年2007年には南北経済回廊が開通しようとしている。まさに雲南省の省都・昆明から磨憨 / ボーテン、ビエンチャン /
ノーンカイからバンコックを結ぶ動脈だ。いや、もちろん道はあった。実際に僕が2回通っている。だが、今回はその道が圧倒的に整備全線開通しようとしているのだ。更には北西部のフェイサイからタイ北部のチェンコンへのハイウェイも整備されているという。チェンコンのルートを通れば、タイからラオを抜けて雲南国境まで3・4時間で結ばれるという。

 この磨憨やボーテンも様相を大きく変えようとしているようだ。事実、あの殺風景で閑散としていたボーテンの国境マーケットに、中国資本の高級ホテルが開業したのだそうだ。しかもそこでは中国語しか通じず、流通する通貨も中国元のみ。先ごろ放送されたNHKの取材によると、中国から大量の物資と資本と人がラオに
                                  流れ込んでいるという。その中には安価な中国製既製服も含まれる。少数民族の暮らしは大きく変化しつつあるようだ。
 あの、どうやっても発展など夢のまた夢と思われたラオの発展のチャンスはラオ人と共に喜びたいのだが、果たして本当に彼等の為の彼等による発展になるのか否か、他人事ながら疑心暗鬼に苛まれてもいる。中国はあまりに大きく、そしてその資本力は強い。ラオはあまりに小さく、そして資本というものを殆ど持っていないのだ。何時かラオが実質的に「老撾省」のように成ってしまう日が、自給自足の生活をしていた少数民族達が資本の下で貧しいまま過酷な労働に明け暮れなければならない日が、来るのではないかと。いや、それは直ぐそこに迫っているのかもしれない。勿論、穿った杞憂であるのなら、それに越したことは無いのだが。


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                                                       バンナモ付近のモン族
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by meiguanxi | 2007-04-24 00:48 | メコン流域 | Comments(0)
シソフォン(カンボジア):果てし無き悪路
[ インドシナ周辺略地図 ]
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 以前、僕が良く中国雲南省やタイ付近を旅していた90年代初頭、いわゆるインドシナ半島の国々の国境は悉く閉鎖されていたし、ラオス・ヴェトナムなどは個人旅行者が自由に旅することは認められていなかった。勿論、カンボジアに至ってはバックパックを背負ってノコノコ立ち入ることのできるような状況ではなかった。したがって、例えば雲南省に中国の他の場所からやって来たのならば、他国に陸路で出国することはできず、言ってみれば行き止まりだった。なんとか少しでも越境しようとした学生が当局に逮捕され、強制送還させられるといった事件も起きたりしていた。
 特にカンボジアでは1991年に内戦が一応の和平を迎えた後も、国内の治安は不安定を極めていた。一部ではタイから空路で直接アンコール・ワットを訪れるツアーも組まれていたが、ヴェトナムから陸路カンボジア入りして陸路シェムリアップ(アンコール・ワットのある町)に向かうことは不可能だったし、トレンサップ川とトレンサップ湖を経ての水路にも危険が伴ったようだ。タイとの国境は相変わらず閉鎖されていた。

                                               1997年末から98年春に掛けて、ポル・ポト
b0049671_3432086.jpg派残党が支配を続けるタイとの国境地帯への政府軍による大規模な掃討が行なわれた。この4月、ポル・ポトは死亡する。戦闘による死亡ではないく、服毒自殺とも薬殺とも言われるが詳細は不明だ。いずれにせよこの結果、国境が開き、タイのアランヤプラテートとシェムリアップとを結ぶルートが一般に開放されることになる。
 今ではバンコックのカオサンロード(個人旅行者街)から毎日、直行のツアーバスが出ている。ツアーバスといっても、いわゆる観光バスではなく、個人旅行者を現地に運ぶ為のバスだ。だが、国境が開いて半年しか経っていない98年10月には、そんなものはまだ存在しなかった。ビザ取得など慌しい一日を送った翌早朝、僕はバンコックのホアランポーン駅(中央駅)5:55発の列車に乗った。(バンコックでの一日についてはこちらを参照)
 バンコックの広い郊外を抜けるとビルや家並みは疎らになり、やがて森林や田園、そしてインドシナ特有の赤土の大地を走る。アランヤプラテートは本当に小さな田舎駅で、駅舎を出るとさっそくバイク・タクシーのドライバーが寄ってくる。だが彼
                                   等を擦り抜ければバスはすぐそこに停まっている。バスは15分
b0049671_344055.jpg程で国境バザールに着く。広場に沢山の店が犇いているバザールは楽しそうではあったが、その賑わいを横目にバザール外れのタイ側イミグレーションへ急ぐ。徒歩で国境線を跨ぎカンボジア側イミグレーション。その小さな建物の屋外で入国書類を記入していると、歳若い、まだ少年と言って良いくらいの小柄な男が声を掛けてくる。英語は通じない。構いはしないのだ、行き先と値段さえ分かれば彼としてもこちらとしてもそれで充分なのだから。ピックアップ・トラックの客引きだ。運転席がセダン型で後部が荷台に成っている日本製軽トラックの荷台には沢山の荷物が詰まれている。車内には既にぎゅうぎゅうの乗客。僕が乗るべき場所は勿論、荷台の荷物の隙間、或いはその上だ。
 その数年後、TVのバラエティー番組で、応募した視聴者達がこの国境からシェムリアップまでの道を舗装(といってもアスファルト舗装ではなく、凸凹を修復するだけだが)するという連続企画があったのを覚えているだろうか。この旅はそれよりも以前の話だ。世の中にこれほどまでに酷い道が在ったのかと、ある種の感慨を覚えたものだ。
 軽トラックは一時もその車体が道路との並行を保つことが無かった。というより正確には、平行を保つべき道路が無かった。いや、道は続いているのだ。ただ、至る所に大きな穴が開き、まるでモグラ叩きのゲーム盤の上をドライブしているようなものだった。穴の直径は大きいものでは2メートル以上あったと思う。恐らくは地雷によるものなのだろう。或いは雨季のぬかるんだ穴を車両が更に掘り下げてしまった部分もあるのかもしれない。そんな凸凹で全くスピードを上げられない道でも、その道は数十センチでさえ外れられない。そこは既に地雷原なのだ。至る所に建てられた看板では、それを示すドクロの不穏な笑みがこちらを見詰めている。
                                               さて、この時でも国境からダイレクトにシェム
                                               リアップに向かうピックアップ・トラックはあっ
b0049671_3444090.jpgた。従ってバンコックを早朝の列車で出発したなら、夜の8時か9時にはシェムリアップに着くことができた。だが僕は、途中のシソフォンという小さな村で途中下車することにした。ほんの小さな村だ。
 村の道端に、木枠の粗末な台に何やら乗せているだけの露天がある。風呂椅子くらいの小さな木の椅子に客の男が数人。覗き込むとおばちゃんがコップを勧める。男達は昼日向から酒を呑んでいたのだ。透明の、舐めただけで咽喉の奥が痺れるような強い酒。肴はポンティアコーン、孵化し掛けのアヒルの茹卵だ。卵黄に血管が走っているだけのものから明日孵化してもおかしくないまでに成長したものと状態には様々ある。前者では詰まらないし後者では羽根や骨が邪魔して食べ辛い。
 僕に以外だったのは、村の人々が悉く明るく、笑顔だったことだ。勿論、どんな悲惨な出来事も不幸を抱えていても、何時までも泣き明かしてばかりはいられないのが、人間の生活ではあるのだ。気付けば隣の男には片足が無い。孵化し掛けのアヒルの茹卵、咽喉にヒリヒリする強い酒、木箱のような食台、低い椅子、おばちゃんの笑い声、通じない言葉、赤土の道の遥か向こうに、大きく真っ赤な太陽が、ゆっくりと落ちて行く。(記事の露天は写真の屋台ではありません)

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by meiguanxi | 2007-04-13 02:02 | メコン流域 | Comments(2)
バンコック : 楽宮旅社の夜は更けて
[ インドシナ周辺略地図 ]
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                                                中華街ヤワラート通りの惣菜売り

 バンコックの話である。言わずと知れたタイの首都だ。だが今回は街の紹介ではない。

 今ではバンコックのバックパッキング旅行者の集まる安宿街と言えばカオサン・ロードの独壇場だが、欧米人の集まるカオサンを避け、嘗て日本人旅行者にチャイナタウン周辺が好まれていた時代があった。バンコック中央駅ホァラムポーン近くのチャイナタウンの裏に、「7月22日ロータリー」という広場がある。6本の道が集まる広いロータリーで中央は公園に成っているのだが、基本的には裏街だ。1990年代半ばまで、この一角に「ジュライ」という汚いホテルがあり、ほぼ日本人宿化していた。
                                                だが、この一角にはもっと古い時代からの
楽宮旅社と北京飯店                                 有名な安宿がある。谷恒生の『バンコク楽宮
b0049671_3581190.jpgホテル』という小説をご存じないだろうか。「豊かな青春、惨めな老後」という嘗てのバックパッカーの標語のような有名な落書きが、部屋の壁に始めて書かれたのもこの宿だ。
 「楽宮旅社」に看板は無い。(※下段注釈)
 ロータリーから駅裏の運河に向かう裏道に、「北京飯店」という薄汚れた飯屋がある。この飯屋には必ず誰かしら日本人がいて、ビールなど呑み、カツ丼など食べつつ『少年ジャンプ』などを読んでいる。長期旅行者か、半ばバンコックの住人化した、いわゆる「沈没」した旅行者だ。そう、ここでは簡単な日本食を食べることができる。店の女将は片言の日本語を話し、日本人がタイ語で注文をすると不機嫌になり、顔を鬼瓦化するのだ。

 この飯屋の脇に、薄暗い、如何にも怪しげな階段が建物の中に伸びている。階段の壁に直接ペンキで書かれた「請登三楼旅社」の文字。「三階の宿に登られたし」といった意味の中国語だ。とにかく階段は真っ直ぐに三階に繋がっている。下階がどうなっているのか、全く不明だ。登り切るとそこに、鉄格子の付いた宿直場がある。大概は誰もいないか、あるいはその前の廊下に出した籐ベッドに誰かが腹を出して横たわっている。管理人だ。薄暗い廊下が真っ直ぐ建物の端まで伸びている。両側に数十の木の扉が並ぶ。日本で想像できる「汚い宿」のイメージを捨てて欲しい。そして出来る限り「在り得ない汚さ」をイメージして欲しい。少しは「楽宮旅社」の画像に近付くかもしれない。
 ところで、この階段下には、夜になると幾人もの女性達が階段に座ってたむろする。娼婦だ。そう、ここはいわゆる娼婦宿でもあるのだ。部屋に装飾は何も無い。壁の薄汚れた六畳から八畳ほどの四角い箱。一角に一畳ほどの水場がある。仕切りの壁の上部は天井に達してなく、上部が開いている。ここに洗面台があり、桶で水道水を汲めば水浴びもできるようになっている。シャワーは無い。あとは汚れたベッドがひとつ置いてあるだけだ。ここで一生懸命に仕事をしている女性達には申し訳ないのだが、こういう場所で然るべき行為に及ぶ客の気は、ちょっと知れない。

7月22日ロータリーの旧ジュライホテル前       さて、話しはここに泊まった時のことだ。勿論「然るべき行為」を
b0049671_3585616.jpg目的としての宿泊ではない。1998年秋で宿代150バーツ、450円ほどだ。カオサン近辺でなら80~120バーツほどだったので、決して安くはない。翌日、その春に漸くポルポト派が一掃されて国境が開いたばかりのカンボジアに向かう予定に成っていた。国境への列車は午前5時台。カオサンからタクシーなりトゥクトゥクなりを飛ばしても良かったのだが、朝の1時間の睡眠を大事にしたかったので、あまり気は進まなかったのだが、ここに引っ越したのだ。ジュライ・ホテルは既に閉鎖されていた。
 その日は実に忙しい一日だった。午前中にバスを乗り継いでカンボジア大使館にヴィザの申請をしに行く。その帰りに楽宮旅社に宿を確保し、カオサンへ戻って泊まっていた宿をチェックアウト、荷物を背負って楽宮にとんぼ返り。この時点で既にかなり疲れていた。暑いバンコック、重い荷物、なかなか来ないバスと混んだ車内、渋滞・・・。遅めの昼食をとると既に出掛ける時間だった。もう一度、大使館に戻ってヴィザを受け取らなけばならない。こう書いてしまうと大した労力ではないように思うかもしれないが、旅の中ではこれはもう重労働の域なのだ。
 その夜、水場で今日二回目の水浴びを終えてさっぱりし、近くの屋台でカオニャオ(もち米)と素揚げの川魚、茹でた菜っ葉で晩飯。ジュライ・ホテル前の歩道に、昔からそこで飯屋とジュース屋の屋台をしている姉妹がいる。イサーンと呼ばれる東北部出身のおばさん達。今ではカオサンにしか泊まらないが、昔、初めてこの街を訪れた時にジュライ・ホテルに泊まって以来、バンコックに来ると一度はこの屋台で手掴みの食事をしないと落ち着かない。客は近所のおっさんや娼婦、時たま今でも沈没した日本人中年の顔も見る。
 その後、夜のチャイナタウンを散歩し、適当な屋台で更にビールを飲む。夜のチャイナタウンは、大通りの歩道いっぱいに屋台が立ち並び、それはわくわくする場所だ。
 宿に戻る途中、ストリートガールが纏わり付くような視線を送ってくる。実は楽宮に限らず、この辺りにはその手の娼婦宿が何軒もある。またチャイナタウンのメインストリートから7月22日ロータリーに入ってくる道や、ロータリーからホァラムポーン駅へ向かう道は、ストリートガールのメッカなのだ。とは言っても、いわゆる特別な繁華街を想像してはいけない。道では子供達が遊び廻っている、至って日常的な場所でもあるのだ。娼婦の値段は300バーツ程度。中には100バーツで良いと言って来る娼婦もいる。先の宿代で換算されたし。今、「そんなら行ってみるか」と思った男性諸君。やめた方が良い・・・

チャルンクルン通りの屋台                              忙しい一日が終わり、ビールにもありつい
b0049671_3595737.jpgた。後は早朝の出発に備えて寝るだけだ。と、ベッドに腰掛けた足元を、一匹のゴキブリが走り抜けた。この辺りのゴキブリは、背中にツキノワグマのような白い線が一本入っている。それはそうと、さてどうしたものか。僕はゴキブリという生物が死ぬほど嫌いだ。見つけてしまった以上、殺さなければ案心して眠れない。明日履く為の靴を持って、奴の後を追った。自分の靴でそんなものを潰すのは気が進まなかったが、他に適当なものは見当たらなかった。
 奴は水場の扉の陰に隠れた。木でできた水場の扉は内開きで、つまり水場の内側に開けるようになっている。開けっ放しにしていたので、水場の壁に押し付けられた扉の裏に、蝶番の所から滑り込んだのだ。中に入って扉を閉めなければならない。そんな閉塞された場所でゴキブリと格闘しなければならない運命を、軽く恨む。
 水場に入り、取っ手を掴んで扉をそうっと壁から離す。・・・
 僕はギャッと短く叫んだ。そして扉を戻し、わなわな震える足でベッドに戻り、へなへなと腰を落とす。扉の裏に見たものは、一匹のゴキブリではなかった。十匹ほどの大きなゴキブリ達だったのだ。
 部屋を変えて貰うにも、すでに時計は24時を指している。それに、他に変わっても事情に大きな違いがある保障はなさそうだった。管理人に馬鹿にされるのが落ちかもしれない。だが、もしここがバンコックでなかったなら、間違いなく宿主に文句を言っただろう。部屋が無ければ管理人室でもなんでも良いのだ。ゴキブリの巣窟よりはマシだ。
 しかしここはバンコック、24時間営業のコンビニがある。僕は服を着て夜の街に出た。当時、日本でもゴキジェットが出始めた頃で、バンコックにはまだあの即効性の殺虫剤は無かった。少なくともそのコンビニには無かった。あったのはキンチョール・ゴキブリ用の特大スプレー缶。まあ仕方がない。無いよりはマシなのだ。得用缶では余って無駄になるが、それも仕方がない。なにしろこのままでは眠れないのだ。

 特大のキンチョールを持って部屋に戻った僕は、しばらく躊躇った。当然だ。流石に水場に入って扉を内から閉める勇気は出て来ない。相手は十匹の大きなゴキブリなのだ。悩んだ末、蝶番の隙間から噴射することにした。後は出てきたところを処理すれば、なんとかなるだろう・・・
 恐る恐る蝶番の隙間からキンチョールを噴射する。







        ・

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ゴソゴソゴソ ・・・


 ガサガサガサ ・・・


  バタバタバタ ・・・








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        ・













ンギャーーーーーー!!

 う゛お゛ぉ~~~~~!!



 僕の悲鳴だ。キンチョールを噴射した瞬間、ガサガサガサ・ゴソゴソゴソという物凄い音がして、続いて扉がガタガタガタと揺れる。次ぎの瞬間、扉の上から下から横から、ゴキブリ達が飛び出す。十匹などではない。無数のゴキブリの群だ。つまり扉の中が腐っていて、その中がゴキブリのコロニーに成っていたのだ。飛び出したゴキブリ達は水場中そこかしこで走り回る。仕切りのこちら側にも飛び出してくる。僕の身体に飛び付いて来る奴もいる。優に

100 を超えると思われる 大群

 僕は頭の中が真っ白だった。パニックだった。だが、平和に暮らしていた連中も、突然の殺虫剤でパニックだった筈だ。昆虫パニック映画を地で行く恐怖感の中、何がなんだか訳も分からぬまま、う゛お゛ぉぉーっと叫びながらキンチョールを噴射し続けた。

北京飯店の女将・スワニーさん                           何分くらいの時間が流れたのだろう。僕が
b0049671_40473.jpg次ぎに僅かながら正気を取り戻したのは、床で未だジタバタするゴキブリに噴射していたキンチョールが出なくなった時だ。特大缶が空になったのだ。ジタバタしている奴は何匹もいたが、幸いなことに元気に走り回っている奴は既に見当たらなくなっていた。バンコックのゴキブリは、東京のそれに比べて殺虫剤に対する抵抗力が弱いのかもしれない。水場の内外には、無数のゴキブリ達の死骸が、まるで殲滅された戦場のように散らばっていた。ふっと周りを見ると、部屋はさっきの僕の頭の中のように真っ白い霧に覆われていた。六畳か八畳ほどの部屋で得用缶の殺虫剤を使い切るまで一気に噴出させた経験のある方はいるだろうか。多分、いない。やれやれ、僕はなんていう環境の中で呼吸しているんだ。ゴキジェット得用缶でなかったのは、むしろ幸いだったのかもしれない。
 窓は締め切りになっていて開かない。部屋のドアをバタバタさせて空気を入れ替える。夜中の1時だ。薄暗い廊下の付き当たりでは、管理人が下着姿で籐ベットに横たわり、太い腹を出して団扇で扇いでいる。あれだけ大きな悲鳴を上げたにも関わらず、誰一人として廊下には人影は無い。僕は空しくドアをパタパタと煽り続けていた。

※注) 実はこの話は exblog 以前に別所で掲載したものだ。“「楽宮旅社」に看板は無い”と僕は思い込んでいた。
   或いは当時のガイドブックにそう書いてあったのかもしれないし、初めてここを訪れた1990年には確かに無かった
   のかもしれない。いずれにしても楽落旅社は2005年、閉鎖された。そして06年春に自分の目で確認したのだ
   が、なんと楽宮旅社には立派な看板があったのだ。

※2012.11追記) スワニーさんの北京飯店について
    2012年1月には営業していたのだが、11月に確認したところ、閉店されていた。シャッターから中を除いてみた
   が工事中のようで、今更改装でもないだろうと思う。

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                                              7月22日ロータリー付近で働く娘達
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by meiguanxi | 2006-12-26 00:43 | メコン流域 | Comments(12)