<   2006年 10月 ( 11 )   > この月の画像一覧
バクー (アゼルバイジャン) : カスピ海・風の街
[ カフカス略地図 ]
b0049671_1112126.jpg
                                                イチェリ・シャハルからのカスピ海


 西に黒海、東にカスピ海に挟まれ、ロシアと西アジア(トルコ・イラン)を繋ぐ回廊のような地域がある。大国の利益が交錯する地域であり、民族の十字路でもある。
 カフカス(コーカサス)の民族は多様で、一概に国家的分類は難しい。アゼルバイジャンを始めとしたトルコ系言語、アルメニアなどの古インド・ヨーロッパ系言語、グルジアなど特殊な分類のカフカス諸語。
 東西に大カフカス山脈が走る。その南が外カフカス。内・外という呼び方は勿論ロシアから見た呼び方だ。ソ連崩壊後、アルメニア、アゼルバイジャン、そしてグルジアの各国が独立した。山脈の北の内カフカスは、現在もロシア領だが、ダゲスタン、イングーシ、北オセティア・アラニアなど幾つもの共和国を内包している。チェチェンでの紛争はご存知だろうと思う。一方、外カフカス三ヶ国も、難しい問題をそれぞれに抱え込んでいる。

旧バクー駅舎前の無許可露天バザール                 イチェリ・シャハルのクズ・ガラスゥ(乙女の塔)
b0049671_1112545.jpgb0049671_11133148.jpg


 アゼルバイジャン共和国は、世界最大の湖であるカスピ海に接した、カフカス東端の国だ。アゼルバイジャンの主要民族はアゼリー、言語も同じ名称のトルコ系言語。宗教はシーア派イスラームが大半。
 南はイラン、北はロシア領ダゲスタン共和国、西北部はグルジアに通じ、西南部はアルメニアに接する。また、アルメニア領を挟んで、イラン・トルコと接するナヒチェバン自治共和国という飛び地を有する。一方、領土内にはナゴルノ・カラバフ(旧・自治州、現在は共和国を自称している)というアルメニアの飛び地を抱えてる。しかし旧ソ連からの独立に際する戦闘で、ナゴルノ・カラバフとその西の領土とを含めてアルメニアの占領状態が続いている。アルメニアも数奇な運命に翻弄された国なので、世界中に移民社会がある。アメリカも同様だ。この為、アメリカ議会は紛争時にはアゼルバイジャンに対する経済制裁を発動、アルメニア占領地区にはアメリカから大量の資金が流れた。
 近年、アルメニアは占領地域がアゼルバイジャンの領土に属することを認めており、今後の平和的な推移に期待したい。

旧市街の老人                                                      新市街の娘達
b0049671_1114957.jpgb0049671_11144176.jpg


イスティグラーリエット通り付近                                            ラマナの要塞
b0049671_11151332.jpgb0049671_11154646.jpg


 首都バクーは、カスピ海に突き出したアブシェロン半島にある都会的な街だ。バクーとは「風の町」という意味で、カスピ海からの風が吹き付ける。近代に入って帝政ロシアに併合されるまでは、人口5000人程のさほど大きな街ではなかった。街の南端のカスピ海に沿って、城壁に囲まれたイチェリ・シャハルと呼ばれる一角があるが、当時の町はほぼこの中に納まっていたらしい。イチェリ・シャハルとは、アゼリー語で城内の意味で、ここには今でも中東を思わせる迷路の世界が広がっている。
 19世紀後半、油田開発によって急速に街は拡大し、現在では170万の大都会に成っている。油田景気に湧いた時代、富豪達は豪奢な建築を競った。この為、イチェリ・シャハルの外側を走るイスティグラーリエット通りには、ヨーロッパ・ゴシック風の美しい建物が軒を並べる。
 一旦は枯渇したと思われた石油だが、近年、バクー沖に大規模な油田が確認され再度、世界から注目を集めている。

イチェリ・シャハルの路地
b0049671_11283545.jpg 郊外のアブシェロン半島には、ラマナ、マルダキャンなど中世の要塞遺跡、また18世紀ゾロアスター教寺院アテシュギャーフなど見所も多い。
 また、旧ソ連圏だけにバレーやオペラも盛んで、この街で観た『カルメン』は実に素晴らしかった。
 そして何より、キャビアだ。キャビアなんて塩辛いだけと思っている方も多いようだが、そういう印象をお持ちの方は是非一度、ベルーガ薄塩の高級品を食べてみてほしい。もちろん僕だって日本でキャビアを食すなどということは滅多に無いし、薄塩となると殆ど口に出来ないのだが。現地ではかなり食べ応えのある瓶詰めを、正規のチショップでUS$5程で買える。ウニにも似たその味と食感は格別だ。
 ただ、ソ連崩壊後、乱獲は酷いようで資源の枯渇が心配されてもいる。市場では違法収穫のキャビアとチョウザメの肉がそちらこちらで売られている。たまに警察官が見回りにくるのだが、その時には商品は消えている。まあ、実質的にはアリバイ的取り締まりなのかもしれない。

 さて、更にどうしても付け加えなければならない特筆すべきことは、男性の容貌が濃い地域の例に漏れず、この街の女性の美しさは格別だということだ。


b0049671_11302819.jpg
                                              ゾロアスター教寺院アテシュギャーフ
[PR]
by meiguanxi | 2006-10-29 11:32 | カフカス | Comments(6)
フンジェラーブ峠 : 中国パキスタン国境
[ 北部パキスタン略図 ]                 
b0049671_12392225.jpg
                                                      フンジェラーブ峠への道

フンジェラーブに至る渓谷
b0049671_1240332.jpg     スストの標高は2800m、
     ここを過ぎるとカールン・コーの北側を回り込むように
     KKH(カラコルム・ハイウェイ)は北上し、
     やがて標高をグングン上げながら東に向かう。
     中国領新疆ウイグル自治区との国境、
     フンジェラブ峠まで87kmの行程だ。

     この国境は概ね12月から4月までの5ヶ月間は、
     雪の為に閉鎖される。
     この付近に国境事務所のような物は無い。
     パキスタン側は前の記事でも書いたように、
     スストがイミグレーションになる。
     中国側はここから北に127km下った
     タシュクルガン(標高3200m)になる。

     国境超えのバスはスストからタシュクルガンまで
     運行されている(カシュガルからはタシュクルガンで
     1泊)が、フンジェラブまでの往復はどちらからも
     出来ない。
     その場合には車をチャーターすることに成る。


フンジェラブ峠は広い高原のような処で、氷河から溶け出した流れが湿地を作っている。
標高は4730m、一気に2000m近く標高を上げる事に成る。
バスやジープなどで登ることになるが、それでも頭痛や息苦しさは覚える。
勿論、ここで走り回ったりしてはいけない。
標高4730mといえば、ヒマラヤ・トレッキングでは充分な順応無しには、とても登れない高さなのだ。


    国境に立つ標識 :それぞれの国名は自国側を向いている(中国の文字の向こうはパキスタン領):著者は左
b0049671_12404543.jpgb0049671_12411597.jpg


 僕が初めて現行中国領であるウイグルスタン(新疆ウイグル自治区)に足を踏み入れたのは1990春のことだ。
 その10年前、NHK特集『シルクロード』のシリーズが放送された。日中共同制作であるにも拘らず、取材班は78年に
出来て間もないこの国境の道をパキスタンに抜けることは出来なかった。国境が第三国人に開放されるのは86年になる。
 ところが90年のその年、敦煌からやって来たトルファンの宿で、思いもよらないニュースを聞くことになる。ほんの数日前、
これより西への外国人旅行者の入域が禁止されたというのだ。疫病だという話はあったが、何処に問い合わせてみても
詳細は分からなかった。兎に角、バスターミナルの窓口は頑なにチケットを売ってくれなかった。
 結局、事実は短波ラジオでBBCを聞いた欧米人からもたらされた。カシュガル付近で民族暴動があったらしいという。
旅行者の1人が北京の日本大使館に電話をする。暴動というニュースには接しているが詳細は分からないというのが回答
で、逆にトルファンの状況を取材されたという。更に知りうる限りの滞在者の名前とパスポート№とを知らせてくれるように、
その上で即刻、新疆から立ち去るようにと指示されたらしい。ところでトルファンは穏やかそのものだったのがだ。
 この時、僕は数人の旅行者と誘い合って、観光用の幌を荷台につけた軽三輪を捕まえ、トルファンから西に向かう道が
区都ウルムチへの道と分かれる町に向かった。案の定、ウルムチから西に向かうパスを発見。僕は止まり切らない荷台
から転がり下りるようにして、バスの前に走り出た。運転手と交渉。成功だった。このようにして天山南路中間のオアシス、
クチャまでは進入したのだが、そこから進むのは3年後になる。
 93年、その年は国境を越えるには季節が合わなかった。そして何より、僕はチベットを目指していた。ウイグルスタン最後
の町、タシュクルガンまでは登ったものの、そこから引き返すことになる。
 パキスタン側からついにフンジェラーブ峠に至ったのは、96年夏の終わりだ。初めてここを目指してから、実に6年。
だが、今回、漸く取った休暇は3週間でしかなく、この国境を越えることはできない。
 それから更に10年、タシュクルガンまで127km、僕にとってそれは、今も越えられない距離として残されている。


b0049671_12415461.jpg
                      氷河から流れる水で湿地を成すフンジェラーブ峠
[PR]
by meiguanxi | 2006-10-25 12:46 | インド・パキスタン | Comments(0)
ススト(北パキスタン):国境のバザール
[ 北部パキスタン略図 ]                 
b0049671_12173096.jpg
                                                           ススト近くの山肌

カールン・コーを車は回りこむ
b0049671_12185047.jpgパスー を過ぎると、KKH(カラコルム・ハイウェイ)
カールン・コー(6977m)を回り込むようにぐんぐんと
標高を上げる。
この辺りになると、フンザ川は両側を険しい岩山に
挟まれ、幅は狭まり流れが激しくなる。

カールン・コーの裏側に出ると、そこがスストだ。
中国領新疆ウイグル自治区との国境である
フンジェラブ峠まではまだ87kmあるが、
ここがパキスタン側のイミグレーションになる。
ここも小さな場所ではあるだが、
他の村とは雰囲気が全く違う。
KKH 沿いに何軒もの宿や食堂、商店が軒を連ね、                                          中国側からの物資も並ぶ。
                                         密輸酒がこっそり売られていることもあるようだ
スストの外れから来た道を振り返る                   (パキスタンは基本的には禁酒国)。
b0049671_1281477.jpg
ここにはユーラシアを歩く旅行者が溜まっている。
中国を終えた高揚、西アジアや南アジアへ向かう
期待、ここまで来た自信とこの先への不安…
勿論、逆の道を中国側へ向かう欧米人も同じだ。
前にも書いたようにこの時、僕は夏休みと代休、
有給とで強引に取った3週間の休暇で北パキスタン
一帯を経巡っていた。
スストへはグルミットでチャーターしたジープで
登って来ていた。この先、国境のフンジェラーブ峠
まで登って、今日中にパスーまで下りる。
バックパックを背負った旅行者達の姿を横目に、今、
彼等の見ている風景と僕の見ている風景は違うの
だろうな、と漠然とした寂しさを覚えていた。

b0049671_1284898.jpg
                                           スストはこの道の両側に並ぶバザールだ
[PR]
by meiguanxi | 2006-10-22 12:12 | インド・パキスタン | Comments(4)
パスー(北パキスタン):氷河舌端の村
[ 北部パキスタン略図 ]                 
b0049671_110068.jpg
                                                      KKHに迫るパスー氷河

グルミット を過ぎると、幾つかの峰を迂回し綴折りにKKH(カラコルム・ハイウェイ)は北上する。
グルミットから先、スストの手前まで暫くはフンザ川の右岸(進行方向左側)を走るのが、実は左山腹からは谷ごとに、
グルミット、グルキン、バトゥーラーなど幾つもの氷河が KKH 間際まで迫っている。
氷河の移動で道が寸断されることもあるという。


フサニ付近からのシスパーレ(7610 :右奥                      パスー手前からグルミットを振り返る
b0049671_1104047.jpgb0049671_1181018.jpg



パスー氷河舌端付近からのカールン・コー(6977)                         牛の散歩をする村人家族
b0049671_114678.jpgb0049671_1122137.jpg



特にパスー村寸前の氷河(パスー氷河)の景観は絶景。
尾根を回り込み KKH は真っ直ぐパスー氷河に向かって進む。氷河舌端で180度カーブし、やがてパスー村に入っていく。
実はこの時は3週間の夏休みでの強行軍だったので、グルミットでチャーターしたジープでフンジェラーブ峠まで登り、
このパスーに下りて来たのだが、中国との国境を往き来するのなら、むしろ絶景を眺めながら歩いてしまった方が
気持ちの良い距離かもしれない。
パスーも小さく静かな村で、宿は数軒。ここからもグルミットで見たカールン・コーのノコギリの歯のような山肌が望まれる。
パスー氷河は割合に緩やかな氷河で、サイド・モレーンを奥まで進むトレッキングも人気がある。
ただ、ここもご多分に漏れず、地球温暖化の影響で氷河の後退が見られるそうだ。
今はどう成っていることか。嘆かわしいことだ。


b0049671_1145098.jpg
                                                           パスー氷河舌端
[PR]
by meiguanxi | 2006-10-21 11:11 | インド・パキスタン | Comments(0)
グルミット(北パキスタン):奇山と杏娘
[ 北部パキスタン略図 ]                 
b0049671_125190.jpg
                                    グルミットからのフンザ川カールン・コー(6877m)

フンザから西にカラコルム・ハイウェイを走ると、トリポール(7720m)やルプガールサール(7200m)の山塊に
行く手を阻まれる。
ここから再び北に進路取ると、ゴジャール地区だ。上部フンザとも呼ばれるが、フンザとは民族が異なり、
ワーヒー人という。彼等の言葉はワーハーン語。


b0049671_1463439.jpgb0049671_1273427.jpg


この北にはパキスタンとタジキスタンに挟まれた、アフガニスタン領の細い渓谷が中国領・新疆ウイグル自治区に
伸びている。そう玄奘が天竺(てんじく:ガンダーラ:現パキスタン)からの帰りに通ったワーハーン回廊だ。
ゴジャール地区は中国との国境までの広い範囲をさすが、ここはカシミールではなく、もはやパミールなのだ。


b0049671_1482146.jpg  道が北を向いて最初の村がグルミット。
  宿は数件あるが、カラコルム・ハイウェイの両脇に広がる
  小さな田園の村だ。安宿に置いてある僅かな品を除けば、
  日用品の買い物をする店もない。
  この辺りの谷は割合に開けていて、
  フンザ川もゆったりと流れている。
  川の上流にはカールン・コー(6977m)の
  美しい奇岩が怪しくそそり立っている。
  背後にはグルミット氷河が迫っていて、
  モレーンの上まで登ることも出来る。

  この辺りの宗教はフンザと同じで、
  イスラーム・シーア派の中のイスマイリー派。
  シーア派一派とはいってもあまり戒律の厳しくはない
  宗派なので、女性達はスカーフをしてはいても
  髪を出している。

  氷河へのミニ・トレッキングの帰り道、
  岩の斜面を駆け下りて来た少女は、
  何も言わずに杏子を差し出してくれた。



b0049671_1262432.jpg
                                                 谷の正面を右に回りこむとフンザ
[PR]
by meiguanxi | 2006-10-19 14:10 | インド・パキスタン | Comments(6)
フンザ(北パキスタン):風の谷
[ 北部パキスタン略図 ]                 
b0049671_11573687.jpg
                                                フンザからのラカポシフンザ渓谷

夜明けのラカポシ
b0049671_1249273.jpgパキスタン北部の中心の町ギルギットの早朝、
バスはダンボールやら大きな麻袋やら
生きた羊やら何やらかにやら訳の分らない荷物を
満載して出発した。勿論、乗客もその隙間を埋める。
KKH(カラコルム・ハイウェイ)を北に向かったバスは、
フンザ川沿いに山塊を回り込み、やがて東に方向を
変える。
南にラカポシ(7788m)、ディラン(7273m)、
北にはシスパーレ(7610m)、パトゥーラ(7785m)、
それぞれに7000m級の山塊に挟まれた渓谷だ。

この道は山腹の急な斜面を削って造られていて、
片側は深い谷、反対側の斜面からは落石や
崖崩れが日常茶飯事だ。

この間の移動はボロバスだったので途中の景観を写真に撮れなかったのが残念なのだが、非常に運が悪ければ車ごと
谷底に落ちることもあるようだ。

フンザからのディラン(中央奥)                                         バルチット・フォート
b0049671_95481.jpgb0049671_12502815.jpg



バルチット村老人
b0049671_1251178.jpg道はやがてカラコルムの高みに向かってぐんぐんと標高を
上げ、現中国実行支配領である新疆ウイグル自治区との
国境フンジェラーブ峠(4600m)に至る。
だがその手前、絶景の危うい道を走ること3時間、
バスの行く手フンザ川右岸(行く手左側)にフンザに至る
分かれ道が見えてくる。

乾燥した青い空に白い雲がゆっくりと流れ、
高いポプラと狭い畑の緑を風が渡る。
春にはアプリコットの花が里を染める。
『風の谷のナウシカ』の「風の谷」のモデルはこの辺り
であるとも言われている。

ここの人々の言葉は他の地域とは孤立していて、
一説にはアレキサンダーの末裔だという伝承もある。

フンザの中心はカリーマーバードと言う。
KKH沿いからミニバスか徒歩で登ることになる。
斜面に綴れ折りの狭い道が縫うほんの小さな村、
それでも今では、観光客の為の宿や土産物屋も軒を連ねる
明るい村だ。
この地域は1974年までは藩王の自治王国だったのだそうだ。


b0049671_12513272.jpg
                                                   下校風景(カリーマーバード)
[PR]
by meiguanxi | 2006-10-18 12:59 | インド・パキスタン | Comments(4)
ギルギット(北パキスタン):カシミールとパミールの麓
[ 北部パキスタン略図 ]
b0049671_4325342.jpg


 パキスタンというと、どういった風景や街並みを想像するだろうか。ベールを被って顔を隠した女性、イスラム化したインド的街並み、灼熱の砂漠…勿論、中南部の風景はその通りだ。そして西南部はバロチスタンという砂漠地帯。だが、北部にはカシミール、カラコルム山脈、パミール高原、ヒンドゥークシュ山脈といった美しい山岳風景が広がっている。

 インド亜地域は1947年にイギリスから独立するが、この際にヒンドゥとイスラームという宗教の違いから、インドとパキスタンは分離されることに成なった。イギリスの直轄地は住民投票で、藩王国はマハラージャー(藩王)の決定によってそれぞれへの帰属が決められた。カシミールは14世紀にはイスラーム化した土地だったが、当時の藩王はヒンドゥ教徒だった為、インドへの帰属を宣言する。これに対し、ギルギットなどの北西部の住民はパキスタンへの帰属を宣言。これが第一次の印・パ戦争に繋がるのだが、1949年の停戦時に停戦境界線が設定される。その結果、カシミールの北西部の1/3がパキスタン、南東部の 2/3 がインド支配と成り、概ねこの実効支配ラインが今日までの実質的国境として続くことに成る。
 この時まで、カシミールを含む北部山岳地域から平野部へは、シュリナガルを通る道があった。しかし分裂でシュリナガルがインド領に編入された為、ギルギットからパキスタン平野部への交通路を建設する必要に迫られる。


b0049671_4363556.jpg


 今日、パキスタンの首都イスラマバード (計画的に新しく建設されたのが首都イスラマバードだが、古くからの人々の生活の場は20kmほど離れたラーワルピンディにある) の西から北上すると、道はやがてインダス川と合流する。1959年に建設が始まった道だ。その後この道は 1967年には中国の協力の下で国際山岳道路として本格的に建設されることになる。1978年に完成したこの KKH (カラコルム・ハイウェイ) は4700mのクンジェラブ (フンジェラブ) 峠を越えて、現中国支配領である新疆ウイグル自治区 (東トルキスタン) のカシュガルまで続いている。86年には第三国の旅行者にも開放され、以後、中国支配域である新疆ウイグル自治区から旧ソ連圏中央アジアへの道(カザフスタン、キルギス)が開放される90年代後半までの間、現代のシルクロードを歩く旅行者にとって、重要な唯一の道に成った。
 というと美しい話のようでもあるが、残念ながら世界はそのように美しくばかりは構成されてはいない。最近は一定の友好関係が見られるとはいうものの中国はインドとの間には、ネパールやブータンを挟んで東側にも西側にも未だに国境問題を抱えており、1959年から62年に掛けては中印国境紛争が起こっている。以来、現在のインド領カシミール東部であるラダック地域 (参照) の北西側にあたるアクサイチンは中国が支配している。1959年といえばダライ・ラマ14世がインドに亡命した年だ (参照)。当時、印パ間でのカシミール領有問題を巡ってはソ連がインド支持の立場を取っていた。インドとの国境問題のみならず、ソ連との間には社会主義を巡る路線問題と国境問題を抱えていた中国がパキスタンを支援したのもそうした状況の故でもあったのだろう。この道の着工は1967年、完成が78年だが、事実、69年には中ソ国境紛争が起きている。

b0049671_4372068.jpg


 さて、取り合えず中国のことは放って置いて KKH を進もう。インダスを遡ると道は大きく東に方向を変える。途中、数年前にインダスの氾濫で大きな洪水に見舞われたチラースを過ぎて100kmほど東に進むとヒマラヤ山脈東端であるナンガ・パルバット (8126m) に突き当たり、川筋は再度北を向く。ここから先の山系はカラコルムだ。やがてジャグロットという小さな集落に着く。ここから対岸に渡って未舗装の道を南に進むとナンガ・パルバット南麓のベースキャンプへの基地であるタルシン村に到るが、途中、タルシン方向へ右折せずにそのまま南下する道が、嘗てこの地域とインド平野部とを結んでいたルートだ。もちろん現在は通行できないが、本来なら峠を越えてインド領カシミールのシュリーナガルに通じている筈だ。
 一方、インダス本流はジャグロットの10kmほど北で東に逸れる。やがて東南に方向を変えたインダスの上流は、ラダックから西チベットへと向かうだろう。だが現在、チベットからラダック (インド)、パキスタン領カシミールと国境を越えることが出来るのはその流れのみだ。


b0049671_4381741.jpg


 インダス本流と分かれた道は支流を北上し、やがて北部の中心であるギルギットの町に着く。だが中心とはいっても人口3万の小さな落ち着いた町だ。北のフンジェラブ峠 (カラコルム) から流れるフンザ川と、西のシャンドゥール峠 (パミール) から流れるギルギット川とがここで合流する。そして町の南20数km程で、カラコルムとヒマラヤの間から流れ出たインダス川に注ぐ。北には多くの7000m級の峰が連なり、南にはヒマラヤの西端、ナンガーパルバット (8126m) が控える。ヒマラヤの北にあたるので、モンスーンの影響は無く、何処までも青く澄んだ空、蒼い高みに白く輝く雪、緑成す麓の里。ここはパミールとカシミールの境だ。


b0049671_985839.jpg


 首都からバスで16時間、陸路で訪れるには少しだけ大変な場所ではあるが、この町から北にはそれだけの苦労に値する風景と、そして人々の美しい暮らしが待っている。だが近年、この地域がこの国の中で置かれた微妙な立場と、シーア派とスンニ派の宗教対立、更には世界を席巻したムハンマド風刺漫画に対する講義などによって、この穏やかで美しい地域の治安が不安に晒されているようだ。願わくは、彼等の生活が穏やかで、我々旅人を暖かく迎えてくれる場所で在り続けて欲しいのだが。
                  (※ 2008年9月1日、大幅に加筆しました)

b0049671_9235542.jpg

[PR]
by meiguanxi | 2006-10-14 02:09 | インド・パキスタン | Comments(7)
マラナ村の不思議な風習(インド:ヒマーチャル・プラデーシュ州)
[ ヒマーチャル・プラデーシュ略地図 ]
b0049671_1045494.jpg
                                                       マラナ村の中央の広場

広場とヒンドゥ寺院                               インド西北部、ヒマラヤ南麓のヒマーチャル・プラデ
b0049671_10463925.jpgーシュ州は、ダライラマが亡命政府を開くダラムサラがあることでも有名で、東でチベット(現中国占領状態)と国境を接している。マラナ村はこの州のちょうと真ん中にある。
 しかしマラナへの道は遠い。
 1997年8月下旬、溜りに溜まった代休と夏休み、それに多少の有給を一気に繋ぎ、3週間連続の休暇を強引に取得した。一般人には3週間の休暇と言えばちょっとあり得ない長さかもしれない。とはいえ、3週間で「旅」を簡潔させるのは想像よりかなりキツイものなのだ。
 17:10、エア・インディアはデリーに着陸する。街までタクシーを飛ばし、そのまま19:20発のバスに飛び乗る。夜行バスだ。ところが午前4時半、何も無い真
                                          っ暗な山道で突然バスは止まる。崖崩れだ。この地
ヒンドゥ寺院                                  方の道では良くあることで、この先も思うように日程を
b0049671_1047249.jpgこなせる保障は全く無い。
 結局3時間程は動いたり止まったりが続く。だが、夜が明けてもバスの行く手は長い。13:15、この州を南北に突っ切るメインルートであるクル渓谷のブンタールという田舎町に着く。ここで乗り換え。
 街道の交差点で降ろされ、雨のそぼ降る中、ローカルバスの停留所まで歩く。14時、ローカルバスは本道を東に外れ、細い道をパルバティ渓谷へと入って行く。いつ崖崩れが起こっても不思議ではないような危うい道を走る事1時間強、15:10、漸く最初の目的地であるジャリに着く。ブンタールからジャリまでは19
km。それを1時間10分だ。どんな道かが分かると思う。
 この道はこの先15kmで行き止まり成る。だから
                                          ジャリでさえ相当な田舎町なのだが、この記事の目
マラナに至る石窟路                             的地であるマラナまでは、実はここからが長い。ここ
b0049671_1048975.jpgから更に丸1日、山の中を歩かなければならないのだ。
 ジャリから谷を下り山を登り沢を渡り歩くこと15km、更に綴れ折りの急勾配を登る事3km、計6間半掛けて漸く辿り着く。人によっては9時間でも足りないかもしれない。途中には山肌の岩盤をアーケード状に穿った場所があったりもする。勿論、重機が入れるような所ではない。長い年月を掛け彼等の祖先が手作業で穿ったのだ。
 標高2650m、人口約1000人のこの村は周りから完全に孤立していて、独自の文化を育んでいる。建築物にはネパールのカトマンドゥ盆地に見られるような美しい彫刻が為されていたりするのだが、とはいえ物資は例の路を人力で運び入れるしかなく、村にある商店といったら間口のカウンターの向こうに僅かばかりの品物が並ぶだけの、キオスクのような雑貨屋が1軒あるだけだ。だがそれにも関わらず、特にヒンドゥ寺院や長老の集会場といった建物は立派で、とても徒歩でしか出入りできない山奥の村とは思えないほどだ。
 ただし、それらは神聖な場所とされ、我々が触れることは許されない。それだけではなく、道を塞ぐ巨石なども神聖な物とされていて、これにもさわれない。触れてしまうと罰金を取られるのだ。そういう建物には場合によっては掲示が掛けられていて、「振れた者、1000ルピーの罰金」と書かれている。なんでも、余所者に触れられた穢れを清める為に屠られる羊の代金だとか。

窓枠の装飾                                                バルコニーの老婆
b0049671_10484921.jpgb0049671_10494176.jpg


村のメインストリート
b0049671_10513181.jpg だがこの村の最も奇妙な風習は、彼等自信が我々外界の人間に決して触れないということだ。外の世界の人間に触れると穢れると信じられていて、貨幣や物品の受け渡しすら直接手渡しはしない。先に書いた売店で煙草を買うのにも、店番はそれをカウンターの向こうから放ってよこす。我々はそのカウンターに代金を置くしかないのだ。
 ところで、人々の着物も御世辞にも立派ではないのだが、奇妙な事にこの村の人々はことごとく金持ちらしいのだ。郵便局(当然、この村には無い)に多額の貯金があるという。勿論、それには訳がある。彼等がアレキサンダーの子孫だという村に伝わる伝説は別にして(そういう伝説は至る土地にある)、もっと現実的な収入源があるのだ。この村で産出されるある特産の加工品があり、その品質の良さで一部の人達には有名なのだそうだ。取り合えずここではマラナ・チョコレートとでも言っておこうか。もちろん標高2650mのこんな山奥でカカオを栽培している訳ではない。ここにその特産品を書くのは憚られるので、後はご想像にお任せすることにする。
 宿泊した村長の民宿で、夜、マラナチョコレート・パーティが始まった。僕はあまり好きではないので愛想程度にしておいたのだが、唯一の同宿だったイタリア人カップル達は、ろれつも回らぬほど へらへらだら~ん に成っていた。


  ※ 尚、更に詳しくは下記フォト・アルバムを合わせてご覧いただければ幸いです。
     不思議な風習のマラナ村(H.P.州 #1)  サイト名 : TRAVELOG (http://www.travelog.jp/)

 また、蔵前仁一氏著『インドは今日も雨だった』(世界文化社:97.5.1初版)を読んでこの村を訪ねたのだが、当時、日本ではこの地方に関する情報は皆無に等しかった。今では恐らく、蔵前氏の主宰する出版社・旅行人のガイドブックに詳しく掲載されているのではないだろうか。


b0049671_1052932.jpg
                                                              窓辺の家族
[PR]
by meiguanxi | 2006-10-09 10:58 | インド・パキスタン | Comments(15)
昆明 (Kunming 中国雲南省): 失われた街
[ 雲南省略地図 ]
b0049671_9205794.jpg
                                                         長春路(1990・春)

 中国、僕がこの国に興味と憧憬を初めて抱いたのは、1980年に連続放送されたドキュメンタリ、『NHK特集―シルクロード(絲綢之路)』だ。当時、中国は自由に旅行できる状態ではなかった。一方、中央アジアは旧ソ連の時代であり、これも自由な旅行は出来なかった。それだけにシルクロードと中国への想いは益々深まった。当時、学生だった僕は、毎年池袋の文芸座などで開催される中国映画祭出品作品を見捲くった。
 80年代終盤、僕は漸く海外を歩く機会を得る。そして天安門事件の翌年、90年2月、遂に中国の大地を踏んだ。大阪からの船は3泊4日掛けて上海に着いた。当時の上海は、今の超近代的な未来都市とは全く違った。上海駅の裏には、平屋の貧しい家々が犇くように軒を並べていた時代。夕暮れの上海には、薪で湯を炊く独特の匂いが立ち込めていた。
 その後、91年、93年と中国を再訪することになる。この何れの時も、インドシナ半島の付け根でありチベットの東に接する雲南省を訪れている。省都は昆明(こんめい:クンミン)。この街は雲南各地の少数民族を訪ねる為のベースで、多くの旅行者は1・2泊で通過する。僕もそうだった。

宝善街(1991・春)                              90年、僕は西の果ての新疆ウイグル自治区からパ
b0049671_9213015.jpgキスタンに抜けて帰国する予定だったのだが、新疆のトルファンに入ると、民族暴動の為に奥地へ行けなくなっていた。ヒッチなどでなんとか天山南路の中間クチャまでは行ったものの、そこからは戻るしかなかった。この先の道を進むのは93年になる。
 ヴィザが切れそうになっていた。中国の観光ヴィザには普通、有効期限と滞在期限のニつが記されている。有効期限は入国が許される期限、滞在期限は何日間滞在可能かを示している。ところが僕のヴィザには有効3ヶ月としか書かれていなかった。これを受け取った時、僕は取得日から3ヶ月後には出国しなければならないものと判断していた。入国までに既に1ヶ月を費やしていたので、入国後2ヶ月が経つ時、新疆の区都ウルムチの公安局外事課(警察のイミグレー
                                          ション・オフィス)に出向いた。中国では1ヶ月のヴィザ
宝善街(1991・春)                             延長が可能である筈だったのだ。公安職員は言っ
b0049671_9221068.jpgた。「お前のヴィザは new type のヴィザだ。このヴィザで入国から3ヶ月滞在が可能なので、延長の必要は無い」…
 ところで、この場合、香港から帰国というのが常套だろう。だが、3ヶ月の旅を中国圏だけで終わりたくなかった。僕はウルムチから列車を乗り継ぎ、5泊6日(途中、成都で1泊)掛け、遥々昆明に戻った。タイのバンコックへ飛ぶ為だ。当時、この辺りの国の国境は悉く閉鎖されたままで、ラオスなども旅行者が入れる状態ではなかった。バンコックへの飛行機も、当時は週1本しかなかった。
 幸いな事に1週間程先のチケットが取れた。それまでの間、石林(せきりん:シーリン)や大理(だいり:ダーリ)・麗江(れいこう:リージィァン)などを巡って過ご
                                          す。初めてのバンコックを堪能してゴールデン・ウイー
宝善街(1991・春)                             ク開けには出勤できる。完璧だ。
b0049671_9225216.jpg
 完璧である筈だった。フライトの日、イミグレーション職員は僕を引き止めた。出国させてくれない。彼は言った。「お前のヴィザはオーバーステイだ」…ウルムチでの事情を説明するが、勿論、取り合ってもくれない。航空機のボディー倉庫に潜り込んで、自分の手で荷物を引きずり出した経験のある方はいらっしゃるだろうか。なんとも情け無い気分のものだ。
 街に戻り、公安へ出頭。公安職員は言った。「ウルムチはウルムチ、昆明は昆明だ。文句があるならお前がウルムチに連絡してその証明をしろ」…なんて馬鹿げたシステムなんだ。だが彼は続けた。「これ以上煩わせると、事態はもっとシリアスになる」…

 3日間公安に通った。英文で上官への事情説明をする。結局、100元(当時、公定1元=23円、闇16円だったが、当然、公定レート払い)の罰金で1ヶ月の延長が認められた。その100元が公安職員達の懐に入ったのだとしても、その額は相当に情状酌量された額だろう。
 フライト出来なかった日、公安の次に中国民航のオフィスでフライトの変更を申し出る。窓口の小姐(シィァォジィェ:若い女性職員)は流暢な英語で言った。「1ヶ月後まで空席はありません」…当時の中国では、航空会社でもコンピュータなど使ってはいなかった。全ては台帳で管理されていたが、彼女はその台帳さえ見なかった。
 僕は事情を説明する。小姐「パスポートは?」、僕「公安に」。小姐はササっとチケットを書き換えた。1週間後のフライトだ。今度も彼女は台帳を見るでもなく、上司に相談する訳でもなく、1ヶ月後まで無かった筈なのに、ただ、ササっと書き換えたのだ…やれやれ、どんなシステムになってるんだ。
                                                    宝善街付近の民家(1991・春)
b0049671_9235031.jpg そんな訳で、僕はこの昆明という内陸の都会に、当初フライト前の2日間を含めて9日間も連続で滞在することになったのだ。そもそも新疆へ行く前の雲南の地方への行き帰り、新疆から帰って来た時と、既に何日も滞在していた。
 僕は公安通いの合間に、暇に任せてこの街を隅から隅まで歩き廻った。都会とは言っても、高層ビルがある訳ではない。街には長屋のような2階建ての伝統的な家並が軒を連ねていた。その柱や窓枠の何れもが、街角によって茶色か緑色に色分けされていた。通りには美しい並木が陽光に輝いていた。飲食店街には小さな、決して綺麗とは言えない店々から、何とも言えない食欲をそそる匂いが立ち込めていた。街の人々は、当時の中国にあっては異例なことだったが、みんな友好的で微笑を絶やさなかった。茶花賓館というホテルのドミトリー(大部屋)も清潔で、服務員の愛想も良く、過ごし心地は上々だった。
 金碧街という通りに南来盛というベーカリーがあった。当時の中国にあっては珍しく、本格的なフランスパンや揚げパンなどを作って売っていた。ベーカリーと言っても、見た目は薄汚れた惣菜屋か何かのような、小さな店だ。中国では一流ホテルのレストランでさえ、コーヒーと言ったらネスカフェだった時代。ここでは煮出しの、濃い欧州風のリアル・コーヒーを飲むことができた。店の二階に簡単な休憩室がある。休憩室と言うより、打ち捨てられた倉庫のような場所だったが、採光だけは良かった。マクドナルドのコップのような形の、硬いプラスチックの容器に波々と注がれたブラック・コーヒーを持って、僕はその二階で何度と無く午後の時間を過ごした。片隅では何時も、数人の男達がトランプ賭博に興じていた。十元札が何枚も飛び交う。当時、そこそこの公務員でも月給300元程だった時代、どの道ろくな素性の男達ではないのだろう。けれどそこは僕にとって、とても心落ち着く秘密の場所だった。
 この9日間の間に、普通の旅行者にとってはただの通過地に過ぎないこの街が、僕は大好きになっていた。何時かまた戻って来たいと、本気で思ったものだ。そして事実、その後3年の間に2回も戻ったのだ。

金碧路(1991・春)                              それから暫く、長い旅に出られない時期が続いた。
b0049671_9242459.jpg 98年暮、その時は来た。もう一度、あの昆明に戻れる。この間にインドシナ諸国の旅行事情は一変していた。カンボジア、ヴェトナム、ラオス、タイ、そして雲南省の国境が悉く開き、何処も自由に旅できるように成っていた。バンコックからカンボジア、ヴェトナムを渡り歩きながら、僕は昆明に恋焦がれていた。それを楽しみに旅していたと言っても過言ではない。
 ヴェトナムから雲南省に入り、田舎町をバスで転々と移動した。そして遂に…しかし、そこにあったのは見知らぬ街だった。バスターミナルを一歩出た所で、僕は本気で自分が何処にいるのか分からなかった。僕の目に映る風景は、東京の都心と変わらぬ近代的な大都会だった。数十階建ての高層ビルが林立している。ターミナルから鉄道駅は直ぐ近くだった筈だ。3回
                                          も訪れてその度にあれだけ歩き廻った街、だが、今、
ベーカリー「南来盛」(1991・春)                    僕には駅の方向さえ分からなかった。それは、確か
b0049671_925254.jpgに、全く別の街だった。
 なんとか辿り着いた茶花賓館のドミトリーは、薄暗い別館に移動されていた。荷を置いた僕は、真っ直ぐに金碧路を目指した。しかし、その道が見付からない。大通りではないが、片側一車線ずつの通りだ。見落とす訳はない。だが、その付近を何回歩いても、見付けられない。
 99年、昆明では世界花博覧会が開かれたのだが、その為に大規模な再開発が行われたのだ。それは再開発というような代物ではなかった。僅か6年足らずの裡に、無差別爆撃で一旦全てを焼き払い、大急ぎで全てを近代的に作り直したかのようだった。ハリウッドのハリボテでもここまではできない。

 結局、金碧路は俄かには信じ難いほどに拡張されていた。その辺りの道筋さえ変わっていた。街は清潔になったが、嘗ての美しい家並みは何処を探しても、無かった。南来盛は勿論、無くなっていた。世界中の何処にでもあるコンクリートの街。僕は街の一角に佇み、総ガラス張りのひとつの高層ビルを見上げていた。中国語で一階一階数えていく。それは40数階ほどあった。呆然とビルを見上げて階数を数えている人間なんて、今の昆明にはいない。それよりもっと高いビルだって、幾らでもあるのだ。僕は、知らず目を腫らしていた。

 昆明、中国雲南省の省都だ。あなたも時間さえあれば訪れることができる。僕の愛した街だ。
 だが、あの昆明は、世界中探しても何処にも、もう、無い。

b0049671_9254187.jpg
                開発の波に取り壊された古い街並み・金碧路付近(1998・暮)
[PR]
by meiguanxi | 2006-10-07 09:30 | 雲南省と少数民族 | Comments(2)
アンナプルナ内院(ネパール):標高差4000mの坩堝
[ アンナプルナ地方略図 ]
b0049671_12365474.jpg
 西 Annapurna Souht(7219m)     Fang(7647m)      AnnapurnaⅠ峰(8091m) 北西

b0049671_13272958.jpg
 東 Gandhrvachuli(6248m)                      Machhapuchhare(6993m) 南東


アンナプルナ内院という処をご存知だろうか。ネパール・ヒマラヤの只中、アンナプルナ登頂のベースキャンプだ。
標高は4130m。6000mから8000m級の峰にほぼ四方を囲まれた、標高差4000mのすり鉢上の場所で、まさに
内院と呼ぶに相応しい。
四方を囲まれていたのではトレッキングできないのでは、という疑問もあるかもしれない。ここから東に4km、標高3650m
のマチャプチャレB.C.(ベースキャンプ)から、モディ・コーラ(コーラは川の意)の谷を南東に下れば低地に至る。
つまり、マチャB.C.で道は90度以上折り返すことに成るので、ここからは何処を見回してもヒマールなのだ。


朝陽に染まるアンナプルナⅠ峰
b0049671_12382437.jpgアンナプルナ山群と湖の景観で有名なポカラの町
から車で30分(バスなら小1時間)、フェディという
小さな集落に着く。ここから登り始め、尾根を2つほど
越えるとモディ・コーラに出る。
標高差4・5百mの谷を上り下りして対岸に渡り、
後はひたすら右岸(進行方向左側)を登り続ける。
歩くこと6日ほどの行程だ。
途中には大きな村も幾つかあり、ヒマラヤの生活を
垣間見ることができる。
ただ、後半はマチャプチャレB.C.まで展望が
なくなり、辛い行程に成る。
また、場合によっては高所障害に苦しむこともある。



アンナプルナⅠ峰と氷河
b0049671_123998.jpgしかしそれにも増してここからの景観は絶景である。
左の写真を見て頂きたい。
なんとも単純に喜んでいるのは、もちろん僕だ。


以前はパーミットさえ取得すれば良かったのだが、
今年に成ってネパールでのトレッキング・ルールが
変更に成ったようで、政府から公認されたエージェント
を通した公式のガイドまたはポーターの同行が義務
付けられたようだ。
僕はその場で雇った1日4ドルのポーターと歩いたの
だが、そういう気楽な行動はできなくった。勿論、高く
付くことになる。


  ※ 尚、更に詳しくは下記フォト・アルバムを合わせてご覧いただければ幸いです。
     アンナプルナ#1 (アンナプルナ内院へ)  サイト名 : TRAVELOG (http://www.travelog.jp/)


b0049671_12394947.jpg
                                                     朝の太陽とマチャプチャレ
[PR]
by meiguanxi | 2006-10-03 12:43 | ヒマラヤ・チベット | Comments(11)