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石林 (Shilin 雲南省) : サニ族と奇岩の村
[ 雲南省略地図 ]
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                                                               石林風景

 雲南省の省都 昆明(クンミン)の茶花賓館というホテルの前の歩道に、民族衣装を着た女性達がたむろしている。日がなそこで刺繍をしながら、外国人相手に民族的刺繍製品を売っているのだ。実は或る副業もしているのだが、明るく信用の置ける彼女達はバックパッカー達に重宝がられている。また、彼女達は誰に教わったものか、東北弁あるいは北関東訛りの日本語を流暢に操る。しかし中国の経済的開放政策が進んで、彼女達の副業収入は縮小してしまったようだ。
 彼女達は南路彝族という。彝族(イ族)の居住地域は全省に渡り、330万の人口を誇る。これは雲南省の少数民族最大だが、部族によって民族衣装は大きく異なりバラエティーに飛んでいる。このうち、南路彝族は自称をサニと言い、その故郷は奇岩で有名な石林(シーリン)だ。

サニ族(南路彝族)の娘達
b0049671_814681.jpg 石林の奇岩群は、トルコのカッパドキアやイランのキャンドワンとは成り立ちが異なる。後者が火山の噴出物が固まった凝灰岩の侵食によってできたのに対し、石林は石灰岩が侵食されたものだ。ここは2億8千万年前、海底だった。珊瑚やその他の海洋生物が、二酸化炭素を骨格に変える事で石灰岩ができる。やがてそれが隆起し、海抜1750mの陸地に成る。山口県の秋芳洞と同じ、いわゆるカルスト台地だ。
 長い年月の風雨でそれが浸食されのが、石林の奇岩群。勿論、大規模な鍾乳洞も数多くある。

 昆明から南東に126km、バスで2・3時間ということもあり、
                                   小さな村ながら、石林は早くから観光開発された。昆明から毎日
公式ガイド(漢族?)                     沢山の観光ツアーや送迎バスが出る。
b0049671_82261.jpg 現地には、綺麗な民族衣装を身に纏いメイクもバッチリ決めた女性ガイド達がいる。だがこの公式ガイドの殆どは、実は漢族らしい。勿論、結構な料金を取る。
 一方、質素な民族衣装に陽に焼けた笑顔で寄って来るのは、本物のサニ族。彼女達の手は農作業でひび割れている。彼女達は数人で勝手に寄って来て、歌など唄いながら日本語で勝手にガイドしてくれる。こちらは無料。
 ただし勿論、何も無しでは済まない。一通りの観光が終わると、刺繍を買うようにねだられる。



 石林の奇岩群に「阿詩瑪石」という岩がある。サニ族の叙事詩に『阿詩瑪』(アスマ)という悲恋物語があるが、その女性主人公(阿詩瑪)の姿を映した岩だ。雲南は煙草の産地として高名だが、その中にやはり「阿詩瑪」というやや高級な煙草もある。
 また、8月に行われる松明祭(火把節)は有名で、闘牛や踊り、歌垣や松明の行列などが見られるようだ。歌垣、この辺りの少数民族には広く見られる若い男女の出会いの場としての風習だが、なんとも色っぽい響きではないか。
 彼女達はとても気さくなので、昆明からの日帰りではなく、時間があるなら1泊して、たまにはカモに成りながら仲良く成って、阿詩瑪の物語でも聞いてみるのも不錯(ブゥツゥォ:悪くない)。

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                                                               阿詩瑪石
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by meiguanxi | 2006-11-29 01:40 | 雲南省と少数民族 | Comments(4)
テヘラン : イラン旅行事情の昔話
[ 西アジア略地図 ]

 首都テヘラン…なのだが、あまり書く事も写真も無い。そこで、夢物語のような昔話。

マスジェデ・モタハリ                                          バザールの穀物卸問屋街
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 1993年3月までイランとは相互ヴィザ免除協定を結んでいたので、日本人はヴィザ無しで入国することができた。ところが、日本への不法労働目的の入国が増えた為に、日本側が一方的にこれを休止した。それ以来、ヴィザの取得は大変困難なものになった。当初、日本でヴィザを取得する場合には旅行代理店を通さなければならず、取得までに2週間、料金も2・3週間有効のヴィザで数万円を要した。第三国で取得する場合にはこれ程は掛からないが、それでも取得できるか否かは運次第という状態があった。だが近年、日本人のヴィザ取得には寛容に成ってきており、日本でも数千円で取得できるようになったようだ。
 この国には2度訪れているが、たまたまその1回目がヴィザ不要の最後の月だった。ところで、この時にはイラン・リアルの為替レートは公定も闇もあまり違わなくなっていたのだが、嘗てその差が数十倍も開いていた時代があるのだそうだ。つまりとんでもなく高いレートで換金させられていたのだ。
 だか実はこれはバックパッカー旅行者には以っての幸いだった。入国時の外貨チェックさえ擦り抜けてしまえば、闇両替ができる。つまり、実質ほんの数ドル程度で高級ホテルに泊まることもできた訳だ。国内線の飛行機に乗っても1000円程だったという。
 テヘラン郊外に有名は日本料理店がある。何が有名かと言えば、まずここがテヘランで最も高いレストランであるらしいということ。そして、キャビア寿司だ。当時のバックパッカー達はキャビアの軍艦巻きを、まさに鱈腹堪能したらしい。天国だ。

テヘランの街角にて                                               縄跳びを持った少女
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 今も闇両替はあるが、レート利は数パーセント程度で、銀行での手続きが煩わしいので利用するといった感じだ。それでも、今もイランは旅人には安い。食事は1ドル程度、宿も東南アジアの安宿と同じ程度の料金で、上手くすればホットシャワー付きの清潔な宿に巡り合うこともある。長距離バスも8時間位の距離で1ドル程度。さすが産油国。ただ、都会のホテルでは外国人料金が設定されていたり、物価上昇も激しいようで、イランもさ程には割安感が無くなりつつあるようだ。
 因みに、既に「天国」ではなくなっていた2000年、キャビア寿司は2巻500円程度だった。つまりイランでの一般的外食5食分だ。朝はレストランに入らないとすれば、実に2日分の外食費。だが勿論、それでも高級ベルーガの薄塩だったことを考えると、東京では考えられない安さだ。ただ当然、それは為替とう決して公平とばかりは言えないシステムの問題でもあるのだが。


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                    最高峰5000m級のアルボルズ山脈の北はカスピ海
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by meiguanxi | 2006-11-23 23:50 | 絲綢之路Ⅲ[西亜] | Comments(10)
アルデビル (イラン):サファヴィ朝発祥の地
[ 西アジア略地図 ]
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                                                   シェイク・サファ・ウッディン廟

 タブリーズから東にバスで4時間、アルデビルは標高1300mの高原にある。
 東のカスピ海までは5~60kmだが、カスピ海は海抜 マイナス28mなので、途中は激しい傾斜道が続く。これを下り切った所がアゼルバイジャンとの国境アスタラだが、第3国人の通過は流動的であるようだ。首都テヘランからアルデビルまでは、カスピ海西岸を遡り、アスタラ経由で10時間。


シェイク・サファ・ウッディン廟入口               イランは642年、ササン朝ペルシャがアラブのサラセン帝国に
b0049671_2324111.jpg滅ぼされて以来長く、アラブやモンゴルなど他民族の支配を受けることになる。ティムール帝国が衰退した1502年、サファヴィ朝がササン朝以来のイラン人政権を建てる。実に860年振りの独立、その発祥の地がアルデビルだ。

 イスラーム世界ではムハンマドの死後、親友アブー・バクルが彼を後継し、カリフ(教主)を名乗り政教両面の指導者となる。この後、2代ウマル・3代オスマンの時代に、アラブのイスラーム帝国(サラセン)は隆盛を極める。ゾロアスター教だったササン朝が滅ぼされるのはこの時代だ。
 イスラームの多数派であるスンナ派(スンニー派)では4代カリフまでを正統カリフ時代と呼ぶが、シーア派ではムハンマドが生前、神意を受けて従兄弟であるこの4代カリフ・アリーを後継に指名していたとし、それ以前の3代のカリフを認めていない。
 アラブではアリーが暗殺され正統カリフ時代が終わった後、サラセン帝国をウマイヤ朝が引継ぐ。
 シーア派ではアリーの血縁を唯一正統な継承としているが、その子フサインがウマイヤ朝に殺害され、フサインの生き残った子である小アリーの母がササン朝ペルシャ最後の皇帝の娘だという伝承がある。
 サファヴィ朝はシーア派の主流である12イマーム派のサファヴィ教団に始まるが、イスラーム主流派であるスンナ派とシーア派の対立は、アラブとペルシャとの対立に始まっているとも言える
                                   かもしれない。

 街にはサファヴィ教団の祖であるシェイク・サファ・ウッディンの聖廟があり、ここにはアラブ風のスルタンという呼び名を廃し、ペルシャ風のシャーを名乗ったサファヴィ朝初代皇帝イスマイルⅠ世も葬られている。
 しかし今、普段の廟は訪れる人も少なく、雪深い落ち付いた地方都市にひっそりと静かに佇んでいる。

シェイク・サファ・ウッディン廟外観                      金色に輝くシェイク・サファ・ウッディン廟内部
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 尚、隣のイラクで2003年の戦争後、04年に凄惨な戦闘が繰り広げらたナジャフで、サドル師率いる民兵組織が立て篭もり、アメリカの攻撃による破損も伝えられたモスクとは、アリーが祭られたイマーム・アリー廟を内包するモスクのことだ。シーア派にとって、その戦いが繰り広げられた場所、そして攻撃を受けた場所が、どれ程の聖地であるのかが分かると思う。皮肉なことに、サダム・フセイン政権が倒れた後、イラン人達が国境を越えてこのアリー廟を訪れることが自由になった。今ではバスを連ねた巡礼が後を絶たない。一方で、革命ホメイニ政権を潰そうとアメリカがイラクの後押しをしたイラン・イラク戦争以来の、イラン人のアメリカに対する憎しみはイラク戦争後の今、最高潮に達している。

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                                                         バザールの干物屋
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by meiguanxi | 2006-11-22 23:31 | 絲綢之路Ⅲ[西亜] | Comments(2)
タブリーズ と奇岩住居の村キャンド・ワン (イラン)
[ 西アジア略地図 ]
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                                                      バザールの宝飾品店街

 カスピ海の西、トルコ国境までのイラン西北部の角のような地方を、アゼルバイジャン州という。北にはカスピ海側にアゼルバイジャン共和国、トルコ国境側にアゼルバイジャンの飛地ナヒチェヴァン共和国、それらに挟まれて僅かにアルメニアと国境を接している。この地方の主要民族は、アゼルバイジャンと同じアゼリー。クルド人も多い地域だ。
 その最大の街がタブリーズ。サファヴィ朝の時代には一時、都が置かれた。トルコ国境に近い人口120万のこの街は、イラン第2位の貿易・産業を誇るが、旅行者の目にはさほどの活気は見られない、落ち着いた静かな街だ。
 トルコ国境への最後の町マクーからバスで4時間、首都テヘランからなら9時間の距離。

マスジッデ・カブード                                       マスジッデ・カブードのファザード
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アルゲ・タブリーズ                                   街角の壁画(肖像はホメイニ師:92年)
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 街の歴史は古く紀元前にまで遡るが、度重なる破壊と地震の為に見るべき歴史的建造物は殆どない。おそらく多くの旅行者にとっては通過するか移動途中便宜的に1泊するといった印象の街だろう。
 街の中心にアルゲ・タブリーズが建っている。これはモンゴルの地方政権であったイル・ハン国時代、13世紀の要塞跡だ。その姿は近代的な街の中で唐突とも映るが、真下から見上げる巨大さには圧倒される。
 また、チムール占領時の15世紀に建立されたマスジッデ・カブードは、流石は“青の都”と賞されるサマルカンド(現ウズベキスタン)の街を建設したチムール朝の建築だけあって、青い色タイルで装飾された姿は別名“青のモスク”と呼ばれるのだが、保存状態は良くない。ただ、近年は修復に力が入れられているようだ。

街角の老人
b0049671_1512024.jpg 尚、ここから北へ向かうと、嘗てのソ連と列車で繋がれた重要な国境ジョルファに至るが、現在その国境はナヒチェヴァンとの国境になっている。国境は開いているが、ナヒチェヴァンから先にはトルコにしか抜けられない。領土をめぐるアゼルバイジャンとアルメニアとの紛争の結果だ。(カフカス地図
 ナヒチェヴァンがアゼルバイジャンの飛び地なら、アゼルバイジャン内にはアルメニアの飛び地であるナゴルノ・カラバフがある。実はその住民の多数派はアゼリー(アゼルバイジャン人)なのだ。ソ連からの独立後、この帰属を巡って戦争が起きる。アルメニア人にはその悲惨な歴史からユダヤ人同様に多くの海外移住者がいる。パレスチナ問題でアメリカが常にイスラエルを支援するのと同じように、この時、多額の資金がアメリカからアルメニアに流れた。結果、アルメニアはナゴルノ・カラバフの東側アゼルバイジャン領(ラチン回廊)を含めて占領、ナゴルノ・カラバフは独立国として共和国を名乗ることになる。ただし、これを承認しているのはアルメニアだけだ。あまりに複雑な民族構成と歴史。紛争や対立は何時の時代も旅人の道を塞ぐ。
 近年、アルメニアはこの地域が本来アゼルバイジャンに属することを認めた。その後の経緯が明るいものであってほしいものなのだが。
 その東にアルメニアとの国境ノウデーズが開いているが、こちらは双方とも非常に交通の便が悪く、特にアルメニア側では、バスを数日待つこともあるという。

 ところで、タブリーズから車で1時間半ほど南に、キャンド・ワン(キャンド・ヴァン)という村がある。凝灰岩の侵食によってできた奇岩に、穴を穿って住居が造られている。
 こう言うと、トルコの有名な観光地、カッパドキアを思い起こされる方も多いだろう。勿論、あれ程の規模ではない。だが、ここはカッパドキアとは違い、殆ど観光地化していない。2・3の茶屋はあるものの、ここにはアゼリー達の日常の生活が今も息づいている。

キャンド・ワン村
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 この村の全景ついては、他の幾つかのサイトに素晴らしい写真が掲載されているようなので、興味のある方は検索してみると良いかもしれない。
 (尚、近年、ここへのツアー等も出てきたようで、もしかしたら現在では少し観光化が進んだかもしれない)

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by meiguanxi | 2006-11-21 23:55 | 絲綢之路Ⅲ[西亜] | Comments(0)
マクーと “黒の教会” ガラ・ケリサ (イラン)
[ 西アジア略地図 ]
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                       バザルガン付近からの大アララット山(5165m)と小アララット山(3914m)


 トルコの東の果てドウバヤジットから、アララット山南麓を35km、ドルムシュ(ミニバス)で30分ほど走るとイランとの国境ギュルブラックに着く。
 ここは何もない場所だが、イラン側には2km程の広い敷地が広がっていて、検問を待つ沢山のトラックが何時も列をなしている。そこを出るとバザルガンという小さなバザールだ。トルコ側(ギュルブラック)イミグレーションの外には小さな両替所があるが、イラン側(バザルガン)では寄って来る闇両替屋と交渉することになる。
 イランの国境は何処でもそうだと思うが、至って友好的あるいはビジネスライクであり、何かに困ったり問題が起こることは無い。勿論、常識的に違法であるようなものの他に、ポルノやアルコールは御法度だが。もしもイミグレーションに沢山のイラン人・トルコ人が並んでいたなら、窓口の役人か警備員が気が付くようにパスポートをかざしてみるとよい。一番前に出してくれる筈だ。

マクー背後の断崖(同右)
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マクーの町並み                                                      マクーの町角
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 国境からマクーに向かう道で北側を振り返ると、アララット山(5165m)が雄大に聳えている。その東側山麓はアルメニアだ。しかしアルメニア国境線に沿ってトルコ領が細く延びていて、その南はアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァンに成るので、この辺りではイランとは国境を接してはいない。アルメニアにはずっと南の国境が開いているが、アルメニア側の交通は非常に悪く、国境でバスを数日待たなければならないこともあるようだ。
 バザルガンからバスかタクシーで20分、22kmで最初の町、マクーがある。渓谷の高さ200m程の断崖にへばり付くような小さな町で、特に見るべき物は無いが、タブリーズ(4・5時間程の大きな街)―ドウバヤジット間の移動の途中に1泊入れるには手頃な場所だ。

アルメニア教会・ガラ・ケリサ(黒の教会:13世紀側)                              同17世紀側
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 この南20kmの処にガラ・ケリサ(黒の教会)というアルメニア教会がある。
 アルメニアは最も早くにキリスト教を受け入れた国のひとつだ。この教会は12使徒の一人タダイ(タデウス)がこの地に葬られたという伝承によって、紀元68年に建てられた。現在の建物は13世紀に建て直され、17世紀に増築された物。毎年夏にはアルメニアから巡礼団が訪れるという。
 “ガラ”とはペルシャ語で“黒”の意だが、13世紀に建設された部分が黒いのでそう呼ばれるようになったそうだ。

17世紀側の精緻なレリーフ                                        13世紀側の黒い内部
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 ここを訪れる交通機関はなく、タクシーをチャーターするしかない。しかも直線距離では20kmしかないのだが、自動車道路は大きく回り込み90kmも走らなければならない。周囲にはクルド人の土壁の民家が僅かにあるだけで、あとは荒野に風が吹き抜けるだけの場所だ。

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                                             冬枯れた荒野の中に建つガラ・ケリサ
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by meiguanxi | 2006-11-18 11:15 | 絲綢之路Ⅲ[西亜] | Comments(4)
ドウバヤジット (トルコ):民族の十字路
[ 西アジア略地図 ]
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                                    イサク・パジャ・サライドウバヤジット遠景(1989年)


 イスタンブール から直行バスなら24時間、トルコの最東端、それがドウバヤジットだ。
 あの「ノアの箱舟」が流れ着いたと言われるアララット山(5165m)の景観でも有名。イスラームの国であるトルコに
「ノアの箱舟」とは違和感を覚える方もいるかもしれない。「ノアの箱舟」といえば旧約聖書(タナク)の物語であり、
従ってユダヤ教やキリスト教の話だと。確かにその通りなのだが、「ノアの箱舟」が記されている旧約聖書「創世記」が
書かれた時代はムハンマドが生まれる遥か以前のことであり、またイスラームに於いてもノアはモーゼやキリストと共に
預言者(神の言葉を預かる者)とされているのだ。

イサク・パジャ・サライドウバヤジット遠景(2000年)                  イサク・パジャ・サライ(2000年)
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アララット(アラムート)(5165m)                                ドウバヤジット俯瞰(2000年)
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 現在は、アララット山頂はトルコ領に成っている。その東の麓からが、アルメニア領。アルメニアがキリスト教を国教としたのは2世紀終盤というから、世界で最も早くキリスト教を正式に受け入れた国と言って良く、彼等はノアの子孫を自称する。因みに、ローマ帝国がキリスト教国に成ったのは4世紀前半のことだ。今でこそカフカスの小国に過ぎないが、嘗ては
アナトリア(現在のトルコ共和国のアジア側領土)の半分を領土にしていたほどの国だった。
                          だが、今はその国境を越えることはできない。キリスト教国のアルメニアと
16世紀のモスクと紀元前の要塞跡  イスラームのアゼルバイジャンの間に、旧ソ連からの独立後に起こった領土問題           
b0049671_9493788.jpgにより、トルコがその国境を閉ざした為だ。
 一方、北の黒海沿いにグルジアとの国境は開いている。この為、グルジア経由での国際バスはトルコからアルメニアに運行している。不思議な話しでもある…。
 さて、ここからミニバスで30分程、アララット南の山中にはイランとの国境が
ある。こちらはオープンで、現代のシルクロードの旅人が行き来している。
 実は僕はこの町を3度訪れているのだが、初めて訪ねた1989年初頭、
ドウバヤジットは国境の要衝とは言っても極小さな田舎町に過ぎなかった。
当時の『地球の歩き方』によれば人口5,000人程度。だが次に訪れた92年、
町には新しい幾つものホテルが建設中で、何処か知らない町のように成って
いた。この時の『旅行人』に記された人口は36,000人。3度目は2000年だったのだが、この時には既に始めて来た時の面影は感じられなかった。イランとの国境貿易の中で、急速に発展しているのかもしれない。
 だが、そんな中でも変わらない風景がある。ひとつはアララット、もうひとつは
イサク・パジャ・サライだ。
 国境の町だけに郊外には大きな軍の駐屯地があるのだが、その前を通り過ぎ何も無い荒野の道を5km、最後のきつい坂を登り切った丘の上にイサク・パジャは建っている。17世紀終盤に着工され100年を費やして建設させたクルド人の王宮だ。さほど大きな建造物ではないが、往時、宮殿の中には366もの部屋があったという。変わらない風景と書いたが、外観は兎も角、実は初めに訪れた時に比し、2000年には内部は相当に修復が進んでいた。

クルド子供達                                            ロカンタ(トルコの飯屋)の親爺
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 アララットとその裾野に広がる広い荒野、そしてドウバヤジットのこじんまりとした町並みとを背景に静かに佇むイサク・パジャ。ここから見る光景はトルコ、イラン、アルメニア、そしてクルドという民族の歴史の舞台だ。もちろん同時にここは現代の重要な交通路であり、今も変わらぬ難しい民族の十字路なのだ。

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                                                      メインストリート(1989年)
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by meiguanxi | 2006-11-11 09:55 | 絲綢之路Ⅲ[西亜] | Comments(10)
イスタンブールの憂鬱・アイリナの微笑
   =或いは中央アジア・カフカス諸国VISAを巡る攻防=

[ 西アジア略地図 ]  [ 中央アジア略地図 ]  [ カフカス略地図 ]
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                                            新市街側からの金角湾とイエニ・ジャミィ

   アイリナはちょっとそこら辺でお目に掛かれるという程度の美人ではない。
  「ご機嫌いかが?」飛び切りの笑顔で彼女は言った。
   その笑顔には何時もながら心奪われてしまうが、その言葉は僕にはブラック・ジョークにしか聞こえなかった。
  「まあね」と答えて笑顔を作ろうとしたのだけれど、たぶん上手く出来ていない。
  「そう、それは良かったわ」そう言う彼女の顔からは、だが既に笑顔は一片の破片さえも残さずに消えていた。
  「あたしは今日もあまり元気じゃないのよ」

旧市街からの金角湾と新市街遠望                    2000年2月3日木曜、バンコックからイスタンブール
b0049671_11292963.jpgに着く。
 カオサン(バンコックの旅行者街)の代理店は何処も、日本の偽装、或いは盗品パスポートによる不法入国防止の為に片道チケットでの入国をトルコ政府が拒否しているという理由で、往復以外のチケットを売ってくれず、たった一軒、ビルの入口に机を置いただけのちっぽけな店の歳若い娘だけが、何があっても保証しないという条件で売ってくれただけだった。だが、イスタンブールの空港では、日本語で書かれた質問用紙に解答するだけで入国スタンプを押してくれた。「日本を出国したのは何年であるか、西暦ではなく年号で答えよ」そんな幾つかの質問だ。
 この街を訪れるのは3度目だ。初めの時は崩壊前夜のユーゴスラヴィア(チトーの権威が辛うじてまだ残っていたユーゴだ)から入り、イラン国境まで回って戻ったイスタンブールから2泊3日の夜行列車でギリシャに抜けた。2度目はイランから入り、イスタンブールでVISAを整えてシリアへ抜けた(当時、シリア・ヨルダンへ行くには日本大使館・領事館からのレターを持って各国大使館・領事館にVISA申請をしなければならなかった)。今回ここに来たのは、カフカス(コーカサス)と中央アジア諸国を巡って中国に至るという目的の為だ。中央アジア、それはソ連崩壊後ずっと抱き続けていた憧憬の地であった。
 思わせ振りな書き出し方をしてしまったので断っておくが、これは恋愛とかアバンチュールとか、そういった方面を巡る話では、残念ながらない。

エミノニュのサバ・サンドウィッチ舟                    イスタンブールに降り立った翌日、当該領事館(イス
b0049671_11301560.jpgタンブールは首都ではないので、各国公館は大使館ではなく領事館になる)で直接申請できないウズベキスタンとアゼルバイジャンのVISAを取得すべく、新市街タキシム広場裏の Elma Tourism を訪ねた。担当をしてくれた Arina(アイリナ)は非常に美しくチャーミングな女性で、しかもとても好感の持てるフレンドリー且つしっかりとした接客態度を身に躾けていた。最初の握手をする彼女の美しい笑顔は、この旅の成功と輝きとの先駆けであるように思われた。上々だ、この旅は祝福されている。
 彼女曰く「アゼルバイジャンは問題なく4営業日後に取れるわ。でもウズベキスタンはちょっと問題で、2週間くらい掛かるのよ。そうね、受取日は17か18日ね」アゼルバイジャンVISAがUS$120もすることを除けば問題ない。予定していた通りだ。おまけにアイリナはとびきりの笑顔で相手をしてくれたのだ。問題がある筈がない。
 ところが、というか勿論、問題はちゃんとあった。「その日程はダメだわ」と彼女は言った。旧ソ連系の国ではVISAに入国日を指定するという忌まわしいシステムが残っている。その日に入国しなければならない訳ではないのだが、その日から滞在可能日数のカウントが始まってしまうのだ。つまり入国が遅れればそれだけ滞在可能日数は減る。ガイドブック『旅行人』によれば2・3ヶ月先まで指定できるとあったのだが、なんとウズベクの入国日が取得日の実質1ヶ月先までしか指定できないというのだ。カフカス3国とイランを経て中央アジアから中国に抜けようとしていたのだが、1ヶ月ではウズベクまで辿り付くのはその日程では不可能だ。出来なくはないのだろうが、そういうのは旅行ではなく単なる移動という。食い下がってみたがどうにもならない。しかたなく嘗て行ったことのあるイランをパスすることにして(本当は前回飛ばしてしまったイラン最大のシーア派の聖地マシュハドに行きたかったのだが)、更にグルジアから一度入国するとアゼルバイジャンに行くには再度グルジアに戻らなければならないアルメニア(アルメニアとアゼルバイジャンは国境を接しているが、領土問題での戦争以来、双方の国境を閉ざしている)は、殆どトランジット状態に成りそうだった。アイリナの所為ではないのだ。仕方が無い。いずれにしてもウズベクの場合、取得日当日まではパスポートをホールドされないので、アゼルバイジャンを受け取った後、トルクメニスタンとグルジアのVISAをそれぞれの領事館で取ることが出来るだろう。
 リンクの地図を見てこう思った方もいらっしゃると思う。ウズベクに辿り付くまでには幾つもの国を通る訳だから、その何れかで取れば良いのではないか、と。ところがこのトルコを除くと、途中の国での取得は大変に困難なものとなるのだ。ウズベク本国からのレターが必要だったり、そもそも取得ルートが無かったり。少なくともこの当時、イスタンブールからウズベクに向かう場合には、トルコ国内で取得しておく必要があった。
 Elma に行ったのが金曜日だったので、4営業日後であるアゼルバイジャンの受け取りは翌週の木曜10日だ。その午前中、アイリナから宿に電話が入る。Elma Tourism が提携している旅行会社から連絡が入り、イスタンブールのアゼルバイジャン領事館では急遽VISAを取れなく成ったので、アンカラ(トルコの首都)の大使館にパスポートを送らなければならない。その為に費用がもうUS$40掛かり、取得は翌週の火曜日(15日)に成るが良いか、という内容だった。$40はあまりに痛いけれど仕方が無い。問題は申請から2営業日後取得のトルクメンのVISAは曜日の関係でイスタンブール出発日に間に合わないかもしれないということだが、それなら週末にアンカラまで移動すれば、上手くいけば即日発行してくれる筈だ。日程的には大丈夫だろう。
                                            ここでもう一度、同じ疑問を持たれるかもしれない
イスティクラル通りのトラム                        (地図)。アゼルバイジャンの前にはグルジアとアルメ
b0049671_113195.jpgニアを通るのじゃないのか、と。その通りだ。だが、領土戦争後国交を絶っているアルメニアはもとより、グルジアでもアゼルバイジャンのVISAは取れない。カフカスや中央アジアを巡るVISA取得は理不尽なほどに面倒なことになっているし、混沌としていた。
 15日、なかなかアイリナからの電話が掛かってこない。夕方、自分から電話してみると、アイリナより遥かに流暢な英語を話す女性の声で、既にウズベクのOKは出ているのだけれど、アゼルバイジャンがもう2日掛かるようなので木曜日に来て欲しいと言う。なんてことだ。それではグルジアのVISAも取れないではないか。結局二つのVISAが揃うまでパスポートをホールドされっぱなしに成ってしまった。よろしい。どのみちトラブソン(黒海沿いのトルコの街で、グルジアへのゲットウェイになる)に寄らなければならないのだし、グルジアのVISAはそこで即日取得できる筈だ。文句を言ったってパスポートがアンカラに行っている以上どうしようもないのだ。
 ところが彼女は駄目を押すようにこう付け加えた。最悪の場合は金曜に成るかもしれない、と。「ちょっと待って。その場合、ウズベクはどうなるの?」「月曜に成るかしら」冗談じゃない。そんなことしていたら本当に入国日に辿りつけない。
 僕は諦めて予定を大幅に変更した。イランに継いでアルメニアもパス、更にグルジアもトランジットで抜けてアゼルバイジャンへ。カスピ海を渡ってトルクメンに入りウズベク。新しい情報ではキルギス(キルギスのVISAはウズベクで取れる)で簡単にウズベクのVISAが取れるように成ったらしいので、キルギスからカザフ領を通って再びウズベクに戻り、更にトルクメンを通ってイランからアルメニア、そしてグルジアを今度はちゃんと観光してイスタンブールに戻る。
 僕は陸路による中国までの横断には拘るし残念ではあるが、もう若者ではなく、色々と旅を繰り返して来たのだ。上海からポルトガル・モロッコまでも、既にチベットを通って足跡は繋がっている。大人には仕方の無い状況を受け入れることだって、時には必要なのだ。今回は大陸横断は諦めよう。それに中国とだって、イスタンブールを通して足跡は繋がるのだし。
 3回目の受け取り予定日である17日木曜日の午前中、アイリナから電話が入る。ちょっと話したいことがある。内容は会ってから話すので来て欲しいと言う。アイリナの英語は電話でこまごまとしたことを澱み無く伝えるには充分ではない。暗い気分に成る。けれどもうこうなったらどんなことが起ころうとも驚かないし慌てふためいて見苦しく取り乱したりはしないぞ、と自分に言い聞かせるようにして Elma へ。
 僕が泊まっていた安宿は旧市街の中心、スルタン・アフメット・ジャミィ(ブルー・モスク)やアヤソフィア寺院のある広場の裏にある。新市街へはシルケジ駅(イスタンブール駅)を抜けてエミノニュという港を通り過ぎ、金角湾に掛かる長さ500mものガラタ橋を渡る。
                                     僕が初めてこの街を訪れた時には、橋は今よりも100mほど
手風琴弾きの少女:イスティクラル通り          手前(駅寄り)に架かっていた。嘗てこの細長い湾を挟んで住ん
b0049671_113279.jpgでいた2人のイギリス人が毎晩交代でこの橋を渡り、相手の家でトランプに興じていたという。ブリッジというゲームの由来だ。
 橋は二階構造に成っていて、上階は車道と歩道、下階はロカンタ(この国の大衆レストレン)が並ぶ。店先に並べられた魚介を冷かしながらボスポラス海峡からの風に吹かれて歩けば、橋は大きく揺れる。イスタンブール観光のひとつの目玉であり、東西の狭間に立つ旅情を最も感じさせてくれる場所だ。しかし、2度目に訪れた92年、隣に超現代的なもう一本の橋が平行して架けられていた。旧橋の老朽化とロカンタから出た火事が、架け替えの切欠だったともいう。そして今回、旧橋の姿は既に無くなっていた。
 この橋を渡ってすぐ、両側に小さな商店が犇く狭い裏路の急坂を500mほど登るとイスティクラル通り。さほど広い通りではないが、お洒落な店が並ぶイスタンブールきっての繁華街で、道の中央には玩具のようなトラム(路面電車)が走る。この道を1kmほどで漸くイスタンブール新市外の中心、タキシム広場に着く。宿からは小1時間掛かる距離だ。勿論バスもあるにはある。だがエミノニュのターミナルからタキシム広場までのバスは、ガラタ橋よりも少し金閣湾奥のアタチュルク橋を通り、新市街の丘を回り込むように登るのでかなりの遠回りになり、待ち時間等を考えると、歩いてもさほど違わない。それにしても長い距離だ。この道をしかし、僕はまだ何回も通うことになる。

 アイリナからの呼び出しに、もうこうなったらどんなことが起ころうとも驚かないし慌てふためいて見苦しく取り乱したりはしないぞ、と自分に言い聞かせ…
 話を聞いて、僕は充分に慌てたし充分に取り乱した。申請時に提出した日本領事館からのレターの宛先がイスタンブールのアゼルバイジャン領事館宛に成っているということに対して、アンカラのアゼルバイジャン大使館がクレームを付けてきたというのだ。アンカラの日本大使館からアゼルバイジャン大使館宛のレターを取り直すように言われたという。無理だ。何時もそうなのだが、どうしてそう言う問題は発行日およびそれを過ぎてから判明するのだ。とにかく Elma としては通していた旅行社をキャンセルして、パスポートを引き揚げ、別の旅行社を通してイスタンブールで取ることが可能であるが、その為には翌週の木曜日(24日)まで待って欲しい、ウズベクはその翌日に成る、と言う。もしそんなことが可能なのならば、どうしてアンカラ云々という話に成った時点でそういう方向を探らなかったのか。
「ねぇ、アイリナ、僕は思うのだけれど、こういうのは僕にはとても理解できないし、こういったことは全て君達の会社の責任なんじゃないかな?」
「ねぇ、XXX(僕のファースト・ネーム)、私達としては一生懸命にやっているんだけれど、これが彼等のメンタリティーなの。私やあなたとは違うのよ。分かる?」
 アゼーリー(アゼルバイジャンの主要民族)とはトルコ系民族ではないのか。しかも幾つもに分けられるトルコ系言語の中でも共にトルメン語派系に属する、言ってみればトルコ共和国とは双生児みたいな民族関係ではないのか。であるにも関わらず、アイリナはアゼルバイジャンを“彼等”と呼び、アジアの反対側の国の人間である僕を“私達”に分類するのだ。やれやれ、世界はとんでもなく錯綜し歪んでいるようだ。
 僕は怒る気力も無く、トボトボと宿に帰って、力無くベッドに倒れ込んだ。夕方、電話でアゼルバイジャンをキャンセルする。いい加減うんざりだし、あまりに駆け足の移動に成ってしまうことに嫌気がさしたのだ。カフカスを無視してトルコからイランを抜けてトルクメンに入ろう。ウズベクだけなら週明け(21日)に取れると聞かされていた。イランVISA取得には1週間から10日掛かるという話だが、どの道マシュハドと出来ればコムだけ見られれば良いのだ。それにその間にトルクメンのVISAも取れる。本来イランのVISAを取る積りならパスポートをポールドされないのでウズベクと同時進行で取れた筈だということを考えると、どうにも苦々しいが。中央アジアへ行った後、ウズベクのタシケントで各国のVISAを整えて、闇両替の為に正規の4分の1で買えるというエア・チケット(ウズベク国内ではウズベク航空のチケットは外貨払いではなく、しかもバンク・レシートが要らない)でアゼルバイジャンに飛び、グルジア、アルメニアを旅してイスタンブールに戻る。いったい何度、入国指定日や曜日に悩まされながら大幅な予定変更を繰り返せば良いのだろう。
                                    ここのところイスタンブールはずっと天気が悪い。街ごと永久に
宿近くの路地:旧市街                     寒風と曇天の中に閉じ込められてしまったようだ。
b0049671_1132575.jpg 21日月曜日夕方、明日の午前中にトルクメニスタン領事館に提出するためのレターを日本領事館で書いて貰い、相変わらずの小雨の中、約束の時刻に Elma を訪ねる。こんなにも待ちに待ったウズベクのVISAを漸く手に出来るというのに、ちっとも気持ちは浮き立たない。むしろ天気と同じようにどんよりとしていて憂鬱だ。
「ご機嫌いかが?」飛び切りの笑顔でアイリナは言った。
その笑顔には何時もながら心奪われてしまうが、その言葉は僕にはブラック・ジョークにしか聞こえなかった。
「まあね」と答えて笑顔を作ろうとしたのだけれど、たぶん上手く出来ていない。
「そう、それは良かったわ」そう言う彼女の顔からは、だが既に笑顔は一片の破片さえも残さずに消えていた。
「あたしは今日もあまり元気じゃないのよ」皮肉とも取れる苦笑を浮かべた彼女は、受話器を取ってウズベク領事館に電話を掛ける。何事か語気きつく話をして受話器を置く。やれやれ、どっちにしてもあまり良い情報ではないらしい。彼女の言うには、今朝、確かに今日中という確認を取って領事館にパスポートを提出したのだが、大事な会議とかで明日に成ると今に成って領事館が言っているという。冗談じゃない。というか、こんな出来すぎた話、どんなに才能の無い通俗的なシナリオ・ライターだって書きはしない。

 僕はアッラーの神に何処までも見放されているようだ。確かにそちこちでジハードだと言ってテロを引き起こしているイスラーム原理主義には辟易しているけれど、アメリカがイラクに空爆した時(91年の湾岸戦争)にはアメリカを非難したし、ボスニアの時だってセルビアを非難したぞ。確かに僕はイスラエルに入国した事があるけれど、パレスチナに関しては一貫してイスラエルを非難し続けてきた。でもアッラーは冷たいみたいだ。(この旅は9.11テロの前年)
 流石に苦情を並べながらも、もう少しで大声で怒鳴り散らしそうに成るのを必死で押さえて、冷静を装おうとしていたがどうも上手くいかない。もし彼女が男なら、或いは愛想の無いおばちゃんだったなら、僕は間違い無く組んでいた脚で目の前の低いテーブルを蹴り上げていたに違いない。いっそ自嘲的に笑ってみたのだけれど、引き攣った笑いはともすると泣き顔に成りそうだった。しかもアイリナは、気の毒な迷子を宥めるかのような目で見詰めている。なんてことだ。
 イスタンブールに着いて既に20日が経とうとしている。なのに僕はまだたった1つのVISAさえも手に出来ていない。僕自身がこの寒風と曇天の中に永遠に囚われてしまったかのようだ。そしてアイリナは気の毒そうに、けれど決して責任は自分には無いと言う前提で、僕の目を同情を持って覗き込むのだ。
                                            そして不幸はまだ続く。翌火曜日、つまりVISAの
路地の子供達:旧市街                           下りる日の朝、パスポートのコピーを持って思い切っ
b0049671_11334921.jpgてイラン領事館に行ってみる。初めはパスポートを持って来いと言われるが、時間が無い由を告げると、その場で申請を許可してくれる。けれど次に来るのは10日後(3月3日:この年は閏年)だと言うので、お願いだから1週間後にと頼むと来週の木曜日(3月1日)と言い直してくれた。もう少しだと思い、勿論丁寧にそして下手に丁重に「月曜日になんとか」と行ってみた途端、アプリケーション・ホームを付き返してよこし、パスポートと一緒に出直して来いと言ったきり、彼はどんなに誤っても受け付けてくれようとはしなかった。確かに少ししつこかったかもしれないけれど、あんなに丁重にお願いしたのだ。なにも機嫌を損ねなくたって良いじゃないか。本当に全てをキャンセルして帰ってしまいたくなった。帰ったからって何かがどうにか成る訳ではないけれど、もう本当にこれ以上この街で頑張ることも、これを乗り越えて旅を続けることも、僕にはもうそんな気力は残ってはいないような気がした。
 昨日と同じ夕刻、街には小雪がちらつき始める。アイリナは領事館がダメだというのを押し切って5日間入国指定日を繰り下げたウズベキスタンVISAを取って来てくれた。今更たかが5日間、けれど今だからこそ僕にとってその5日間は有難くもあったのだ。いや、5日間でも繰り下げてくれた彼女の気持ちが。
 これでアイリナともお別れだ。
「Bon Voyage」と彼女は言った。勿論、最高の笑顔で。
 降る雪はこの先の新たなる苦難を暗示しているようでもある。けれど、こういうふうにも思われた。最後に成って降ったこの雪は、確実に1つのストーリーの終わりを象徴しているのだ、と。

[ 補足:旅の顛末 ]
 結局のところ、トルクメニスタンのトランジット・VISAとイラン、ウズベキスタンのVISAとを持ってイスタンブールを出発する。3月3日、イスタンブールに降り立ってからちょうど1ヶ月後の日だった。
 → イラン → トルクメニスタン(通過VISA延長) → ウズベキスタン(キルギスVISA取得) →
 キルギス(カザフスタン通過VISA取得、ウズベキスタンVISA申請) → カザフスタン →
 キルギス(ウズベキスタンVISA取得、カザフスタン通過VISA取得) ―(カザフスタン領通過)→
 ウズベキスタン(アゼルバイジャンVISA取得、グルジア複入国VISA取得) ―(飛行機)→ アゼルバイジャン →
 グルジア(アルメニアVISA取得) → アルメニア → グルジア → トルコ

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                                         金角湾と旧市街の夕陽:新市街ガラタ塔から
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by meiguanxi | 2006-11-05 11:37 | 絲綢之路Ⅲ[西亜] | Comments(2)
アヤ・ソフィア寺院(イスタンブール・トルコ) : 1650年間の証人
[ 西アジア略地図 ]
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                                                          アヤ・ソフィア冬景

 イスタンブール観光のハイライトのひとつアヤソフィアは、スルタン・アフメット・ジャミー(ブルー・モスク)の正面に向かい合って建っている。その紅くごつごつしたとも言える姿は、滑らかな線とドーム、細く鋭角的なミナレットが特徴的なトルコ形式のモスクの最高傑作であるスルタン・アフメットとは対照的な威容だ。嘗てはスルタン・アフメットと同じように、人々が集い、祈る場としての生きたモスクだったが、今は建築それ自体の博物館と成っている。だが、アヤ・ソフィアが建設されたのは、イスラームの創設者であるムハンマドが生まれる210年も前のことだ。勿論、キリスト教会として。


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 イスタンブールの歴史は、紀元前のギリシャ人の殖民に始まるとされる。
 ローマの後期帝政時代、キリスト教を実質的に国教としたコンスタンティヌス大帝は紀元330年、首都をビザンティウムに移し、自らの名をとってコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)とした。
 アヤソフィアというキリスト教会が初めて建てられたのは、紀元360年、コンスタンティヌスの子のコンスタンティウスの時代だ。当時、ローマ、エルサレム、アンティオキア(現トルコ・アンタクヤ、シリア名ハタイ)、アレキサンドリア(現エジプト)と並んで5大本山とされた。アヤソフィアとは、「聖知」の意味。
 395年、ローマ帝国は東西に分裂、コンスタンティノープルは東ローマ帝国の首都となる。アヤソフィアは幾度かの破壊と焼失の後、ユスティニアヌス帝の537年、再建される。これが今日にまで続くアヤソフィアだ。中央ドームの直径33m、高さ56m、幾本もの大理石の柱が支える。ビザンティン建築の傑作だ。東ローマ帝国は1453年まで続くことになるが、1503年にバチカンのサンピエトロ寺院が建立されるまで、アヤソフィアはキリスト教世界にあって最大を誇った。


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 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の後半は、外敵の侵入の為に苦難の連続だったが、1453年、ついにオスマン・トルコによって滅ぼされ、1000年の長きに渡った歴史に幕が惹かれる。この時、金角湾を封鎖したコンスタンティノープルに対し、オスマン軍はボスポラスから戦艦を陸に引き上げ、今の新市街の丘を人力で引いて金角湾に出たというのは有名な話し。イスタンブールという名の街の始まりだ。
 さてこの時、イスラームであるトルコは異教徒の教会であるアヤソフィアを破壊しなかった。キリスト教色を払拭し、モスクとして利用したのだ。現在見られるミナレットや、アッラーやムハンマドの名が記された大きなメダリオンは、こうして付け加えられた。
 近代に入ると、ヨーロッパ列強の進出のためにオスマン・トルコは衰退を余儀なくされる。第1次世界大戦で同盟国側に加わって敗れると、国家存亡の危機に陥る。1920年、トルコ国民党のケルマ・パシャ(後に“アタ・チュルク”を名乗る。“トルコの父”の意)はアンカラ(現在の首都)に独立政府を樹立。22年、スルタン=カリフ制が廃止され、翌23年、トルコ共和国が成立する。ケルマ・パシャは政教分離を宣言し、イスラム法を廃止して近代ヨーロッパ法を採用、婦人解放や国語改革も推進し、トルコ近代化政策を推し進めた。現在のトルコ語がアラビア文字ではなくローマ字表記であるのも、この為だ。


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 ところである時、アヤソフィア内部の漆喰の下から、見事なモザイク画が幾つも発見される。コンスタンティノープルを征服したオスマン・トルコは、偶像崇拝を禁止したイスラームの常套に反し、アヤソフィアのモザイクを破壊せずに漆喰で塗り込めたのだ。
 モスクとして利用されたのだから、内部にはメッカの方向を示すミフラーブという窪みがある。現在、そのミフラーブの上の天井ドームに、正教系の聖母子像の見事なモザイクが見られる。それは正に、アヤソフィアの数奇な歴史を物語るようである。
 アヤソフィアは、間違いなくこの街の盛衰を1650年間近くもの長きに渡り、静かに見続けて来たのだ。



      新市街ガラタ塔からの旧市街:手前が金角湾・岬の奥はボスポラス海峡・その向こうの陸陰がアジア
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    中央がアヤ・ソフィア・すぐ右がスルタン・アフメット・ジャミィ
                                     1992年、ガラタ橋は新旧2本平行して架かっていた

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by meiguanxi | 2006-11-04 08:58 | 絲綢之路Ⅲ[西亜] | Comments(4)
イスタンブール : アジアとヨーロッパの狭間
[ 西アジア略地図 ]
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                                        スルタン・アフメット・ジャミー(ブルー・モスク)

アジアの西の端、黒海に繋がるボスポラス海峡が地中海の内海であるマルマラ海に出る処、金角湾が川のように内陸に入り込む。この3つの海が接する処こそが、イスタンブールだ。
マルマラとボスポラスの東がアジア、西がヨーロッパ。ヨーロッパ側は、金角湾が旧市街と新市街とを分ける。
イスラームの祈りの時間を告げる為にモスクから流れるアザーン、路上の物売りの声を掻き消す船の汽笛。ヨーロッパ側から旅して来た者は中東を感じ、アジア側からの旅人はヨーロッパの匂いを嗅ぐ、不思議な場所。この街はコンスタンノープルの昔から、東西の文化が行き交う場所だ。

ルーメリヒッサールとボスポラス大橋                                         アヤ・ソフィア
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グラン・バザール                                        旧ガラタ橋上からのイェニ・ジャミィ
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旧市街と新市街とを繋ぐのがガラタ橋。嘗て2組のイギリス人が新旧市街に分かれて住んでいた。彼等は夜ごとトランプに興じていた。一日交代でこの橋を渡って通ったのだ。トランプの「ブリッジ」の由来だ。橋は2層に成っていて、下階には海鮮レストランが並ぶ。長いこの橋は常に風に揺れている。歩いていると、まるで身体が浮いているような感覚がする。橋の上からは、何時も多くの市民が釣糸を垂らしている。
だが、このガラタ橋はもう、無い。今は超近代的な新しい橋に架け替えられている。初めてここを訪れた1989年、橋はそこにあった。92年には、2本の橋が並んでいた。2000年、三度訪れた街に、古い橋は既に無かった。新しい橋にレストラン街は造られなかったが、それでも、忙しげに足早に橋を渡る人々と釣り人、そして橋上の物売りの姿は変わらない。

スルタン・アフメット・ジャミー(ブルー・モスク)                           カーリエ・モザイク博物館
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この橋の旧市街側をエミノニュと言う。ここはボスポラス対岸や各地へのフェリーの港であり、ヨーロッパ側の鉄道の終着シルケジ駅も近く、何時でも賑わっている。
路上に小さな台を置いただけの物売りが声を上げる。ムール貝にピラフを詰めたスナックだ。その場でレモンを絞り、立ち食いする。サバ・サンドという食べ物をご存知だろうか。文字通り鯖の半身をオリーブオイルで焼き、フランスパンにトマトや紫玉葱などと挟んだサンドウィッチだ。これが実に素朴で美味い。エミノニュの岸壁に停泊したサバ・サンド舟はイスタンブールの名物だ。
夕暮れ、人々は家路を急ぎ、恋人達はカモメにパンを投げる。旅人は長い旅を想い返し、汽笛とアザーンと物売りの声の中、暮れなずむ街を眺めている。

補足) アヤ・ソフィアはこちら
     旅行記はこちら

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                                                      曇天・寒風の旧ガラタ橋
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by meiguanxi | 2006-11-02 00:34 | 絲綢之路Ⅲ[西亜] | Comments(4)