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リキール・ゴンパ:(インド)ラダックのゴンパ#3
[ カシミール・ラダック略地図 ]
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 前回紹介したアルチ・ゴンパはラダック中心の町レーから西に72kmに位置するが、その手前、レーから60kmのインダス川右岸を北に10kmほどそれた所に12世紀ゲルク派の僧院リキール・ゴンパがある。

アルチ ― リキール間のインダス沿いの道                              リキール ― ラマユル間
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 ラダックに行ったのは94年なのだが、この時には日本で発売されているガイドブックにこのゴンパに関する記載が無かったので、ここを訪れる予定は無かった。この日、アルチとラマユルを回るために車をチャーターしたのだが、そのドライバーが勝手に案内してくれたのだ。
 後で分かったことだが、リキールはラダック、ザンスカール一帯のゲルグ派の総本山で、ラダックではヘミスに次ぐ権威を有している僧院なのだそうだ。しかもその座主はかのダライ・ラマ14世の弟だと言うから驚きである。ただし、建立当時の建物は残っていない。


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 尚、この数年後、高さ20mほどの金色に輝く仏像が境内に建てられたそうだが、幾つかの他のサイトに掲載された写真を見る限り、どうもチベットの僧院には似つかわしくないような気がしてしまうのは、邪心だろうか。


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by meiguanxi | 2007-01-27 12:34 | ヒマラヤ・チベット
アルチ・チョスコル・ゴンパ : (インド・ラダック)チベット仏教美術の宝庫
[ カシミール・ラダック略地図 ]
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                                      アルチ・チョスコル・ゴンパのフレスコ画(曼荼羅)

 僕自身はおそらく類稀なほど宗教と宗教的なものから遠い存在なのだけれど、何故か教会とかモスクとかいったものを見たりその中に入ったりすることがとても好きだ。同じようにチベット仏教の僧院であるゴンパを訪ねるのも好きだ。だが、教会やモスクがそうであるように、大概はどこも同じようなもので、特にそれらを見慣れた目には特別な興味でも無い限りどうということはない。けれど、時々とんでもないものに出会う事がある。
 今回も前回に引続き、ラダックのゴンパに関するフォト・アルバム的記事だ。中央チベットのサキャ寺、ラダック南東に位置するヒマーチャル・プラデーシュ州スピティ地方のタボ寺と並んで、アルチ寺はそんなとんでもなく素晴らしいゴンパの一つだ。

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 前の記事で紹介したティクセ・ゴンパのように、岩山の断崖に連なる要塞状の形式は、ラサやシガツェなど中央チベット、
スピティ(別サイト・フォトアルバム=ガザの町キ・ゴンパ / キッバル・ゴンパ)やここラダックでも一般的に見られる形式だ。実はこの形式はゲルク派のダライ・ラマが政教ともにチベットを掌握した16世紀以後に確立したものだそうだ。
 一方、10世紀にカシミールに派遣されてラダックでの仏教振興の祖と成ったリンチェン・サンポが建立したと伝えられるゴンパの中でも、今日に残る芸術的に最も重要とされるアルチ・ゴンパ(レーの西方72km)やスピティのタボ・ゴンパ(別サイト・フォトアルバム)は平地に建てられている。タボは撮影禁止だったので別サイトのフォトアルバムでも外観しか掲載できなかったが、これらアルチのフレスコ画は11世紀のものだそうだ。ものによっては傷みも酷く、現在も修復が行なわれているようだ。正確な技術による的確な修復であってほしいものだと願わずにはいられない。
 尚、近頃は内部の撮影がかなり厳しく規制されているようだ。このゴンパとその美術に関しては詳しく書かれたサイトも幾つかあるようなので、興味のある方は検索してみると良いかもしれない。

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by meiguanxi | 2007-01-21 23:47 | ヒマラヤ・チベット
ラダックのゴンパ #Ⅰ(インド : ジャンムー・カシミール州)
[ カシミール・ラダック略地図 ]
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                                            チョルテンが収められた祠(レーの町角)

 今回はラダックにある幾つかのゴンパを紹介する。ゴンパとはチベット仏教の寺院、或いは僧院のこと。とは言っても僕はチベット仏教に特に精通している訳ではないし、その建築や美術に詳しい訳でもないので、今回はフォトアルバム的な記事。

レーの岩山に建つツェモ・ゴンパ                       人々の日常的な祈りの場であるレー・ゴンパ
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 グゲ王国時代の10世紀終盤、カシミールにリンチェン・サンポが留学僧として派遣されて以後、ラダックに仏教文化が栄えることになったと伝えられる。カシミールといえばその向こうはガンダーラだ。ラダックにはチベットと同じく、インドから後期仏教が直接にもたらされた訳だ。
 ラダックには多くのゴンパが点在しているが、インダス渓谷沿いの長い距離に分布しているので、場所によっては訪れるのが大変な場所もある。リンクした地図を見てほしいのだが、一番西のラマユルまではレーから124kmも離れているし、東のヘミスまででも45kmだ。
 ヘミス・ゴンパは歴代の王族が菩提寺としたカギュ派の寺院で、ラダック最大を誇り、最も信仰を集めているという話だが、残念ながら僕はここを訪ねることが出来なかった。
 近郊ならバスの便もあるが、ヘミスまでとなると1日1往復しかない。更にアルチやラマユル方面となると、カルギルや
シュリーナガルへの途中なのだが、バスでその日のうちに往復するのは不可能で、また、その日のうちに複数のゴンパを回ることもできない。効率的に回るならレーからジープをチャーターすることになるが、リキール、アルチ、ラマユルと急ぎ足で見学しても、早朝に出発して帰路は夕暮れになる。




【 ストック・ゴンパ 】

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インダスを渡った対岸のレーから17kmにあるストック・ゴンパには王宮(右上)が併設されている。
下段左右はフレスコ画と仏像だが、どちらも新しい物のようだ。

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【 シェイ・ゴンパ 】

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レーからインダス沿い南東に16km、カギュ派のシェイ・ゴンパは夏の離宮として作られたもの。今は荒れ果てた感じが否めず、僕が訪れた時には破損した壁面から寒風が吹き込む僧房の一室に、家を持たない家族の兄妹が住んでいた。だがその壁面には素晴らしいフレスコ画が残されていていたりするのだが。

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【 ティクセ・ゴンパ 】

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ティクセ・ゴンパはレーの南東約20kmのゲルク派の寺院。ダライ・ラマやパンチャン・ラマといった有名な高僧はこの派の僧侶だ。岩山に幾つもの伽藍が上へ上へと連なる要塞のような姿は圧巻。

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by meiguanxi | 2007-01-17 02:03 | ヒマラヤ・チベット
ブハラ (ウズベキスタン) : 土色の街
[ 中央アジア略地図 ]
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    ミーリ・アラブ・マドラサ(神学校)    カラーン・ミナール(ミナレット)    カラーン・マスジディ(モスク)


 ヒヴァの街の城壁を出て、早朝のまだ真っ暗な路上で乗り合いワゴンを捜す。ところが車など殆ど動いていない。小1時間ほど歩き回った挙句、漸くウルゲンチ行きの乗り合いを見付ける。午前6時、押し黙った人々を乗せワゴンは走り出す。
 暫くは荒涼とした風景が続く。やがて緑豊かな耕作地帯に成る。キョネ・ウルゲンチからヒヴァに向かう途中、乗り換えの為にトルクメニスタン側のダシュホーズという都会を通過したが、それを除けばトルクメニスタンの首都 アシュガバートを出て以来、砂漠と荒涼とした土漠、そして時折の耕作地と小さな町しか見ていない目に、やがて近代的な都会が姿を現す。40分でウルゲンチに着く。
 トルクメニスタンの小さな町キョネ・ウルゲンチとは別の、ウズベキスタン側ホラズム地方最大の都会だ。バスターミナルの建物はまだ扉を閉ざしている。7時過ぎ、漸く私服の警備員が鍵を開けるが、窓口に職員が現れるまでには、更に1時間半も待たなければならなかった。

アルク(要塞)の門                                      アルクから見た絨毯バザール旧市街
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 ところが彼は言った。「ブハラへの便は無いよ」…この北部の街から南部の中心地帯へは、ブハラを通る道しか無い筈だ。西はアム・ダリア(大河)、その向こうはトルクメニスタン、東はキジル・クム(赤の砂漠)が広がる荒野なのだ。
 しかし結局、ブハラを通り更に南のカルシに行く夜行が午後2時にあるだけだった。仕方なく、チケットを取って安宿を捜す。そこは線路沿いの駅宿泊所の筈だったが、実際にはアパートのように使われている感があり、泊まれないと断られたのを強引に無理を言ってバスの時間まで1ドル程で借り、仮眠する。
 ウルゲンチを出たバスはアム・ダリアを遡り、一旦、何故かトルクメニスタンのチェック・ポストを通る。地図で見る限り国境は迂回している筈なのだが、良く事情は飲み込めない。兎に角、唯一の第三国人である僕だけが、詰め所に連れて行かれ、パスポートのチェックを受ける。アシュガバートで延長したトランジットのヴィザは当然切れていて不安だったが、問題無し。

アブドゥルアジズ・ハーン・マドラサ       カラーン・ミナール(上部)                チャール・ミナール
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 アム・ダリアの堤防(堰)を対岸に渡る。ここから路は果てしない土漠に入る。行けども行けども、何も無い。やがて陽が沈む。ガイドブックには8~9時間とある。しかし、夜23時、バスは荒野の一軒家に停まる。食事休憩だ。言葉の通じない運転手に、ブハラ到着時間を訊いてみるが、埒は明かない。
 午前1時、降ろされたのは何も無い交差点。本当に何も無い。ただ真っ暗な荒野が広がっているだけなのだ。運転手はここがブハラだと言う。ターミナルへは行かないらしい。どうやら、この交差点から街を迂回して南に進むようだ。従って、ここで降りるしかない。しかし、自分のいる場所の見当さえもつかない。後で分かったことだが、そこは街から5km離れたバスターミナルの、更に北にある交差点だったのだ。
 タクシーのドライバーが寄って来る。言葉は通じない。目的の広場の名前を言ってみる。勿論、吹っ掛けられる。他の客達はどんどん去って行く。タクシーの台数はそう多くは無い。かなり不利な状況だ。何しろ距離も分からないのだ。それでも何とか納得できる料金まで下げさせる。ついでに宿を捜すことを条件にする。高級ホテルに泊まる積りなど無い旅行者にとって、この辺りでは殆どの場合、民宿を捜すしか方法は無い。いわゆる安宿といったものは殆ど無い。こんな時間に、看板を掛けているわけでもない民宿など、独りで捜せるわけはないのだ。

イスマイール・サーマーニー廟(内部)                                   ハウズと呼ばれる溜池
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 土色の街、ブハラ。実はこの街はタジク人の街だ。コーカンなどフェルガナ盆地の町と、サマルカンドやブハラなどのウズベク南部の町には、トルコ系のウズベク人とイラン系のタジク人がもともと渾然と生活していた。それが、ソ連時代初期、中央アジアを5つの民族共和国に分ける際、ホジャンド地区以外の全てをウズベキスタンに編入させてしまったのだ。ウズベキスタン政府は現在、彼らをタジク人とは認めていない。公式にはタジク化したウズベク人ということに成っている。領土問題を避ける為だ。

ナディル・ディワンベギ・マドラサ     民族衣装の少女(ハウズの畔にて)         バラ・ハウズのマスジディ
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 中世の町並みを残したこの街の旧市街は、ヒヴァと同じくそれ自体が美術館のようだが、この街の素晴らしさは、庶民の生活と歴史的建造物が渾然と溶け合っていることだ。例えば僕が宿泊した家は、上の写真のリャビ・ハウズ(溜池)に面してある。そして、このハウズは2つのマドラサ(神学校)と1つのハーンカー(キャラバンサライ)に囲まれている。自室の窓景が既に中世の世界なのだ。
 左上の写真のナディル・ディワンベギ・マドラサもハウズに面している。このファザードには、不死鳥と人間の顔をした太陽のモザイクが施されている。偶像を排するイスラームにあっては、殆どあり得ない珍しいものだ。サマルカンド のシール・ダール・マドラサにはライオンと人間の顔の太陽が描かれれいるが、知る限りでは他にこのような具象の文様は無い。

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     ターキ・ザルガラーンの夕景(16世紀のバザール:ターキはバザールの意のタークに接尾語 i を伴った形)
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by meiguanxi | 2007-01-11 23:32 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜]
カラ・カルパクスタン : (ウズベキスタン)砂漠の遺跡
[ 中央アジア略地図 ]
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                                                         アヤズ・カラ小遺跡

 以前紹介したヒヴァの西にはカラ・クム(黒の砂漠)が広がっているが、ヒヴァの東数十キロを流れるアム・ダリア(川)を渡ると、そこから東はキジル・クム(赤の砂漠)だ。つまりはアム・ダリアは2つの広大な砂漠の間を流れている、或いは砂漠を分けて流れているのだ。
 カラ・クムのこの辺りから北、アラル海に掛けての地域がカラ・カルパクスタン共和国。カラ・カルパック人はウズベク人と同じくテュルク系民族で、スンニ派イスラム教徒だが、言語的にはカザフ語に幾分近く、ウズベク人が定住民族であるのに対して遊牧民族。共和国といっても自称なのだが、かなりの自治権が与えられているらしい。

アム・ダリア                                                  河岸の瓜(メロン)売り
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 ソ連時代にアム・ダリア上流域では大規模な灌漑事業が行われ、トルクメニスタンの首都アシュガバートを通過する全長850にも及ぶ大運河が建設された。この為にトルクメニスタンは世界有数の綿花生産地なった。だが、その影響はもろにウズベキスタンのこの下流域を襲った。今ではアム・ダリアは河口が先細りアラル海は海岸線が100kmも後退した。河口にあった港町は舟の墓場と化している。トルクメニスタン政府は将来、この運河をカスピ海にまで伸ばし、全長1500kmにする計画だと言う。

アヤズ・カラ大遺跡                                                   大遺跡の城壁
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大遺跡からのカラ・クム                                                 放牧する少年
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 このカラ・カルパクスタンの砂漠には、トプラック・カラ遺跡やコイ・クルルギャン遺跡など、紀元前からの遺跡が数多く点在している。上の写真はその中のひとつ、アヤズ・カラ遺跡。小高い丘の上に築かれた、城郭都市遺跡だ。実はアヤズ・カラには大小2つの遺跡がある。2枚目の写真が大遺跡で、上は大遺跡から見下ろした小遺跡。
 羊を遊牧する父子に出会ったのだが、見渡す限りの土漠。いったい彼等は何処からやって来たのだろう。
 尚、上の写真の遠方に見える煙は、天然ガスの採掘と思われる。

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                                                           トプラック・カラ遺跡
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by meiguanxi | 2007-01-09 23:59 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜]
愛する者へ



  ※ 2007.01.04 記

上の写真は2001年に僕が出した賀状だ。

僕はブログに日常の日記といったようなものを書かない。
時事に関することも基本的には書かない。
だが、今年のエントリーは、ここから始めることにする。
そしてこれは、“スナフキンの足跡” と “没関系” のプロフィールに成るだろう文章であり、
更に、大切な人へのこのブログに於ける証でもある。

さて、日記や時事に関してブログに書かないのと同じように、僕は基本的には賀状という物を出さない。
従って2001年は非常に珍しいことだったのだ。
写っているのは旅先で出会った各国の子供達。
世界が、世界の子供達の新しい世紀が、少しでも明るいものであるようにとの願いから構成したものだ。
だがその年の裡に、僕はもう1通のカードを出さなければならなくなってしまった。
下の写真がその時の写真。exblog に限らず、僕のブログに何回か立ち寄って下さったことのある方なら、
もしかしたら見覚えのある写真かもしれない。
そう、『アンナプルナの少女』で使った物だ。写真下の文章がそのカードに書いた内容。
読んでもらえれば判る通り、“9.11 テロ”の後、アフガンへの軍事攻撃を受けて書いたものだ。



     9月11日、私達はあってはならなかった忌むべき恐ろしい光景を目にしました。人類は未だこのようでしかない
   のかと、胸の詰まる思いでした。
    そしてその後のこのひと月半、それにも劣らない愚劣な事態の進行を目の当たりにしています。武力で何かの
   問題が解決できるという発想は悪しきロマン主義にすぎません。空爆によって今アフガニスタンでは、UNHCR や
   NGO の支援を受けられなくなった何万もの人々が飢餓と寒さ、そして戦火に命を落としつつあります。もし、我々
   “西側”の文明の到達に今日一定の優位があるのだとしたら、それは「武力によらない」という発想を我々はし得る
   のだ、ということ一点に掛っているのではないでしょうか。今、私達の文明は正に品性と知性とを問われているの
   だと思います。
    私達の政府は、中東やイスラム圏に対して欧米とは違うパイプを持っているにも拘らず、し得るべき真の貢献を
   かなぐり捨て、憲法さえをも等閑にした戦争加担をしようとしています。私はこの間、幾つかの集会とデモに、全く
   個人の資格で、個人の倫理にのみ従って参加しました。デモなんて17年振りです。勿論それで何かが直ぐにどう
   にか成る訳ではありません。私達一人ひとりの想いはなんと無力なのでしょう。けれど、マスコミの余りにも偏った
   報道の向こうで、それでも必死に訴え続けている人々が、決して少なからずいることも事実です。そして、この時に
   何らかの具体的な行動を執ることを回避する「知識人」を、私は今後インテリとは認めないでしょう。
    友人・知人の皆さん、せめて私はあなたに訴えます。今やるべきことは決して戦争に加担することではないのだと。
   もし賛同してくれるなら、あなたの友達にハガキを書いて下さい。法案は可決され、自衛隊は海外に派兵されるで
   しょう。まだまだ多くの人間の血が流されるのかもしれない。けれど私は諦めません。今進行していることに対する
   抵抗は決して諦められて良いものではないから。
    (これは個人の発想による行動であって、何らの組織・団体にも関係しません)   2001.10.21(国際反戦デー)



 勿論、こんな物が何かの役に立つ訳ではない。自己満足の極みであり、自分は反対したんだというアリバイ的跳ね上がりに過ぎない。しかし、もしアフガンを武力攻撃したのなら、例えばロシアはチェチェンへの武力行使と弾圧とを正当化するだろう、中国はチベット支配とその為の弾圧とを正当化するだろう、そう直感していた。勿論、“テロとの闘い”という大義名分のもとで。
 しかしながらアメリカはアフガンに進攻し、この国でも圧倒的多数の人々がそれを支持した。マスコミもまた、反対意見を述べることが禁止された統制下にあるのかと思うような状況だった。僕は酷い居心地の悪さを感じていた。いや、比喩としてではなく現実的な身体的嫌悪感すら覚えていた。事実、何回かのデモの後に体調を崩した僕は、劇症の帯状疱疹を患い2週間の入院を強いられることに成ったのだ。恐らくはストレスが相当に免疫力を低下させていたのだろう。
 結果、タリーバーン政権は掃討されたが、アフガン国内の情勢は未だに泥沼の様相を呈している。ロシアのチェチェン弾圧に関しては案の定、国際社会は口を噤むことになる。中国のチベット支配は加速し、その象徴としての鉄道が開通し、漢民族とその資本、文化が圧倒的な勢いで雪崩れ込んでいる。
 ところが事態はこれだけでは終わらなかった。そう、2年後のイラク戦争。サダム・フセイン政権はイスラーム原理主義とは無縁だったのだが、アルカイーダとの関係云々という無茶苦茶な理由付けさえされた。この時には欧州諸国の一部に根強かった反対論もあってか、この国のマスコミも少しはましな対応だった。だが、やはり多くの人々が戦争を支持した。結果、それから3年経った現在のイラクは、御存知の通りの悲惨な状況だ。現在、当のアメリカではあの戦争が間違いであったとの論調が主流に成った。一方この国では、当時の総括をしようという動きは、皆無と言っても良い。あの時この国の賛成は強力にアメリカの後を押したのだが。市民の賛成がその後ろ盾だったのだが。
 ところで、中東でイスラーム原理主義が台頭する背景の一つには、経済のグローバリズムがある。グローバリズムという名の経済支配、或いは経済搾取によって、国内・域内の経済格差が拡大し一向に希望の見えない貧困層がますます困窮する。そういう時にナショナリズムは求心力を持つ。イスラーム原理主義もまた、ナショナリズムのひとつの形だと言って良いだろう。
 この国もまた90年代初頭からのグローバリズムの嵐の中で経済格差が拡大した。そして今、特に若い層でナショナリズムが急速に振興しているように見える。中東と違うのはそれがアンチ・グローバリズムという形は取らず、むしろそれを積極的に受け入れる政権が先導しているという点だ。ナショナリズムを成立させる為には、一般的に言って2つの敵を仮想することが必要になる。外敵と内なる異端。近隣諸国が外敵になり、反対者は異端(非国民)になる。
 思うのだが、バブル経済崩壊後(素地はその時代に築かれたのかもしれないが)、この国は酷く下品に成ったように見える。己の利益のみに頓着し、他者への気遣いとか社会の未来とか、或いは恥というものを忘れた。昨今のM&I云々を巡る動きや言動はその端的な表れだ。ここでもグローバリズムが印籠に使われる。近頃、国益という言葉を良く政治家から聞く。確かに政治はそれを念頭に置くべきなのだろうが、アメリカで現在の政権が誕生し、その補佐官がその言葉を使うまで、少なくともこの国の政治家が国益という言葉を使うことは殆ど無かったのではないだろうか。今ではそれは誰も反論できない印籠の如くに成っているが、けだし国益のみに頓着するということは、利己的であるということと同義だ。
 同じように“普通の国”という言葉も良く耳にする。普通の国とは何だろう。実質的に一党独裁体制で労働者の人権も無視した剥き出しの資本主義を社会主義の名の下に突き進み、他民族の土地と人民を長きに渡って支配占領し続ける国が普通の国だろうか。伝統的宗教と結び付き、大統領の権力を独裁に近いまでに高め、エネルギー資源を糧に大国主義復活を目論む国が普通だろうか。或いはその圧倒的経済力と軍事力をもって他国に軍事侵攻して、一国の元首を逮捕し、自国の法律で裁いてしまうような国が普通なのだろか。世界に、おかしな国は数あれど、普通の国などというものは、無い。
 僕は“みんな一緒”という言い方が好きではない。一見それは理念として美しい言葉であるように見える。しかしそこには、一緒ではない者、異質な者に対する偏見と差別、その結果としての排除や抑圧、等々といったものへの抵抗の契機が欠如しているように思われるからだ。我々は“同じ”ではなく、“違っていて良いのだ”ということから始めるべきなのだ。もちろんそれは、みんな好き勝手で良いということを意味しない。“違っていて良い”為には、自己とは異なる他者を尊重することを必須とするからだ。グローバル化、僕はある意味でのそれは必要だと考えている。だがそれは、貧富格差の解消や人権意識の啓蒙、或いは地球環境という観点からの必要性なのであって、今のそれとは理念を異にするものだ。そしてそれは長い時間を経て徐々に達成される、或いは達成され続けるものであって、決して一国の力によってその理念を押し付けるような類の問題ではない。また、それでは解決しない種類の問題だ。それまでの間、むしろローカリズムは最大限に尊重されるべきなのだ。そのローカルなもの同士の絶え間無い衝突と軋轢(争いではなく)の中から、やがてグローバルなものが生まれていき、定着するという方法でしか、おそらく進歩は無い。そしてそれは、国家やナショナルなるものの止揚といったものとも繋がる、遠い道だろう。
 この国は今、明らかに憲法違反である防衛庁を省に格上げし、いずれ憲法9条を変えようとしている。しかし、憲法を変え軍備を強化し“愛国”教育を徹底すれば核ミサイルから国を防衛できるのか。国民の命と財産を守ることができるのか。コスタリカという国がある。憲法で軍隊を完全に放棄した国だ。アメリカ経済に依存し、近隣にはそのアメリカと敵対するキューバがある。直ぐ近くのエルサルバドルでは長い内戦の中で人口の5%が殺害された。そんな中で、アメリカからの再軍備の圧力を撥ね付け、彼等は永世中立を宣言した。勿論、その決断には高い倫理性とともに大きな覚悟を必要とするだろう。もし隣国が武力攻撃してきた時には、国家として少なくとも早急な武力防衛はしないということなのだから。彼等にとって幸いだったことは、我々の国に比べて隣国にそれ程の恨みを買っていなかったことだとも言えるかもしれない。逆に彼等にとっての障害は、この国以上にアメリカ経済に依存していたことだ。しかし、彼等はそれを決断した。
 「しかし現実的には」という反論が聞こえる。
 実際に攻められる可能性を考えたなら無責任ではないか、という声が聞こえる。愛する人を守らないのか、と。目の前で愛する人に危害を加えようとしている人間に対峙した場合と、これは違う問題なのだ。よろしい。それでも攻めるのなら攻めれば良い。覚悟をした以上、それは仕方の無いことでもある。戦争ではお前の愛する人が卑しめられるかもしれないんだぞ、という声が聞こえる。愛する人よ、例えその身が辱めを受ける時にも、高潔な心を失わずにいてほしい。あなたが、汚される訳ではないのだから。私はあなたの手を取り、何がなんでも逃げ通すだろう。逃げられなくなったなら、銃剣の前であなたを抱きしめよう。もし、一緒にいられなかった場合にも、その瞬間まで、私の心はあなたと供にいるだろう。彼等の決意とはそういうことを含むのだろう。誇り高く、美しい国民ではないか。
 1980年頃から、マスコミが“現実的”という言葉を頻繁に使うようになった。それに押されるような形で、左派政党や労働組合の中でもいわゆる“現実路線”が取られるようになる。結果、どうなったか。政党は風前の灯になり、労組は求心力と闘争力を失った。日教組に対するマスコミの攻撃は甚だしいものがあったが、それが弱体化する過程と義務教育の現場が崩壊する過程は見事に一致していたように見える。僕はいわゆる左派政党に組みするものではない(理念と方法論とを異にするから)し、労組運動も必ずしも好きではない(目的論が違うから)。しかし、それらは必要なのだ。批判の対象としてより高次の思考をする為だけにでも、必要なのだ。それらが力を無くした時、この国の多くの人々は理念的思考をほぼ停止したように見える。教育現場の荒廃は戦後民主主義の所為であるかのような論調が保守派からなされる。しかしそれを荒廃させたものは理念的思考の欠如なのだ。
 アフガニスタン復興に当たって、部族の武装解除に日本の組織が大きな貢献をしているという。それは、憲法9条を持った国にしか出来なかったことだと、現地の人も語っている。勿論、日本には自衛隊があり、アメリカの基地があるのだから、幸いな誤解というべき部分はあるのだが。我々は、在りもしない“普通の国”などという怪しげな印籠に翻弄されること無く、むしろこの9条を持って世界に発言し貢献していくことが、遥かに現実的であり、“美しい国”という誇りを持てることなのではないだろうか。
 第二次大戦に於ける国民は騙されたのだという言い方がある。そうでもあるだろう。しかし、何か事があった後で、その言葉はそれだけでは不充分だ。そこには反省が無いから。騙されたのでもあるかもしれないが、結果、その声が、手が、被害者を作り、挙句には自らをも苦しめたのだ。為政者の責任を追及する一方で、自らの責任をも問わなければ、それは反省とはならないだろう。しかし、為政者の責任さえをも曖昧にしてしまったこの国の人々が、自らの責任を問題にすることは、極めて狭い範囲の人々の間でしか行われなることがなかった。挙句には過去の過ちを検証する姿勢を“自虐史観”だなどという訳の分からない論調まである。何時の日か、またぞろ騙されたという言い訳をすることのないよう、しっかりと見極めて行きたいものだ。

 愛する人よ、大切な人よ、僕の心はあなたとともにある。
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by meiguanxi | 2007-01-04 10:29 | 愛する者へ or Profile