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アルゲ・バム(イラン):泥の町・失われた遺跡
 イランで日本人学生が誘拐されて以来、検索でこのページを見て下さる方が増えているようです。そこで是非、報道では語られていない旅行事情についてもご理解頂きたく、一時的に追記します。
 彼の通ったルート、つまりパキスタンのクエッタからイランのザヘダンというコースは決して特異なものではなく、陸路で西を目指す場合、シベリア鉄道を除けばアフガニスタンへの旧ソ連進軍の後は長らく唯一のルートでした。現在では中央アジアを通過するルートが可能ですが、今でもそちらの方が珍しいでしょう。彼の通った国境は、日本人を含む多くの個人旅行者が毎日のように通過している場所であるのです。
 次に、イランは一般犯罪という点では至って治安の良い国であり、多くの旅行者が口を揃えることですが、一般的にイラン人は旅行者に非常に親切であり友好的です。更に付け加えるならば、バムの遺跡はこの地域に旅行したのなら外すことの出来ない文化遺産です。
 解って頂きたいのは、彼はアフガンやイラクに行ってしまうのと同じような意味では、決して無謀な危険地志向を持っていた訳ではなく、また他の旅行者に比べて注意が足りなかった訳でもないのだろう、ということです。
 返す返すも 9.11 以後の世界の在り様が残念でなりません。                         (2007.10.13)


2008.6.15.追記)  2008.6.14. 彼が漸く解放されたというニュースが入りました。本当に良かった。旅人が自由に、安全に国境を渡っていける世界であってほしいと心から思います。

[ 西アジア略地図 ]
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                                                     城砦から俯瞰したアルゲ・バム

 始めに断ってしまうが、このページに掲載した写真の風景は既に、この地球上から永遠に失われてしまった。

城砦
b0049671_5113665.jpg 僕がイラン東部のバムという小さな町を訪れた1992年には、日本ではイランに関する個人旅行向けのガイドブックがまだ存在していなかった。旅行人の 『アジア横断』 が出版されたのが98年、『地球の歩き方・イラン編』 は更に後になる。アジアを陸路で西に渡る日本人旅行者の間では 『イランへの道』 という手書きのコピー冊子が「流通」していた。売られているものではなく、パキスタンやインド、或いはトルコで旅行者から旅行者へと手渡された。その度に旅した人の情報が書き加えられ増殖した。だから元は同じでもその内容はそれそれで違っていたのだと思う。僕も見せてもらったことはあるのだが、残念ながらこの時、それを入手することは出来なかった。手
                                              元にあったのは lonely planet 社の
城砦内の厩(うまや)                                 『West Asia』、いわゆる survival kit の
b0049671_5121525.jpg西アジア編だったが、これにもバムに関する情報は記載されていなかった。
 しかしどうしてもこの町、いやこの遺跡だけは外せない想いでいた。ペルセポリスやエスファハンのイマーム広場 (参照12) よりも、なんとしてもこの遺跡を見たかったのだ。いや、そこに立ってみたかった。僕がこの遺跡の存在を知ったのは、NHK(日本放送出版協会)刊 『シルクロード ローマへの道 第八巻 コーランの世界 イラン・イラク』(1983年初版)による。1980年にセンセーションを巻き起こした石坂浩二ナレーションによるシリーズの関連本だ。番組も見たのだと思うのだが、中国領(甘粛省および新疆ウイグル自治区)のシリーズ以外、記憶が定かでない。ただ、このシリーズ本の何冊かを、大学時代に手放した記憶がある。『コーランの世界』 は、イランへ行くに当っての資料として購入したものだった。

 バムの遺跡(アルゲ・バム)に色はない。総てが日干し煉瓦と泥だけでできた土色の世界だ。直径約1km周囲3kmの城壁に囲まれたこの遺跡は、イラン南東部の砂漠の沈黙の中に佇んでいる。
 その歴史は紀元前にまで遡るそうだが、ここに初めて城塞が築かれたのはササン朝ペルシャ(A.D.226~651)の時代。度重なる戦火で破壊と建設が繰り返され、現在残っているものはサファヴィー朝の17世紀の物だと言う。城壁の中には、城と高官の居所、兵舎、商業地区や住宅地区などが整備され、モスクやキャラバン・サライもあった。中央アジア一帯では良く見られる設備だが、山裾から引いたカナートという地下水路も整備されていた。この要塞都市は軍事的側面ばかりではなく、東西交易の要衝でもあったのだ。高さ40m程の城の背後には川が流れていた跡があるが、今は涸れてしまっている。
 18世紀前半、アフガン人の侵攻で打撃を受け、町は放棄される。一説によるとその後、19世紀初頭の水不足が町を完全に打ち捨てさせた最終的な原因だとも言う。完全に放棄されて200年、これだけの泥の町がほぼ原型を留めていたのは、もちろん極端に少ない降水量のためでもあるのだが、人々の生活はそう楽なものではなかったのかもしれない。
 現在のバムの町は、遺跡の南西に広がっている。ナツメヤシが生い茂る美しいオアシス都市で、人口は周辺を含めて12万5千。

民家                                                               厩の内部
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 僕がこの遺跡を訪れた1992年には入り口で暇そうな管理人に入場料を払うだけで自由に歩き回れたし、城壁に登ることも出来た。観光客も殆どいなかった。少なくともイスラム革命後にはそもそも外国人旅行者の少ないイランにあっても、当時の知名度は更に低かったのだろう。しかしその後、整備された順路に沿った見学しか出来なく成ったようだ。この遺跡が圧倒的な迫力で迫ってきたのは、城以外には殆ど修復されていない、まさに廃墟、死の町といった面持ちだった。泥の家屋に挟まれた狭い小道を歩いていると、ついその先の角から顔中に立派な髭を蓄えた当時のイラン人の男がひょいと出て来るような、或いは笑い声と理解できない言語で囁き合う家族のざわめきが玄関の奥から聞こえたような、そんな錯覚にふと陥ってしまったりしたものだ。
 だがその後の写真を見ると、修復が進み小奇麗に成ってしまい、地下に立派なチャイ・ハネ(茶店)まで出来たようだ。石の建造物と違って泥であるから、修復は復元というに近い方法になってしまう。仕方がないこととは言え、惜しい気がして成らない。
 と、思っていた。

バザール通り                                      2003年12月、この地方を大きな地震が襲
b0049671_5145424.jpgう。マグニチュード6.6、震源は市街地から10数km。震度は中程度だったというが、遺跡同様、今でも日干し煉瓦構造の家屋が圧倒的だった町はあまりにも大きな被害を被る。建造物の60~80%が倒壊し、死亡者は人口の実に 3分の1 に当たる4万3千人。殆どが建造物の倒壊によるものだ。
 勿論、アルゲ・バムの被害も甚大だった。幾つかの画像を見る限りでは、遺跡は無残なほど壊滅的な打撃を被ったようだ。修復された建造物のほぼ100%、全遺跡の80%が崩れ落ちたという。これを受けてユネスコはアルゲ・バムを世界遺産と同時に危機遺産に指定する。修復の為には日本も貢献し、特にNHKが嘗て撮影した空中撮影映像は大きな資料
                                              になっているという。復元的修復には否定的
モスク                                          なのだが、今回ばかりは修復はされるべきだ
b0049671_5153629.jpgし、その為の協力は賞賛されるべきだ。
 少しく話は反れるが、彼らが必要としているものは核兵器でも空爆でもなく、町の経済が復興することであり、世界中から多くの人がこの遺跡を訪れることだろう。
 だがそれは別の話として、それは資料としての貴重さは測り知れなく、また訪れる者を古の世界に誘(いざな)う魅力をも回復するだろうが、しかしそれでも修復されてしまったものには当時の威厳が失われるだろうことは、残念ながら確かなのだろう。
 ここに掲載した僅かばかりの稚拙な写真は、現在web上で見られるアルゲ・バムの画像の中でも、最も古い姿のひとつだろうと思われる。

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                                                        城壁から城砦を遠望する
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by meiguanxi | 2007-02-27 23:37 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
騰沖 (Tengchong 雲南省) : ビルマ国境への旅
[ 雲南省略地図 ]
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                                                              騰沖の市場

包子(パォヅ:肉饅)売りの三輪自転車
b0049671_1173583.jpg 六庫(リィゥク)から怒江沿いに真っ直ぐ南に下る。一旦、雲南省最西端でビルマに繋がる公路に出て、援蒋ルート(「六庫」の記事参照)攻防戦で日本軍が玉砕した龍陵(ロンリン)から再度北上すると、六庫から8時間で騰沖(タンチョン)に着く。雲南西部に、岬のように一部ビルマに突き出した部分がある。その付け根だ。
 インドからの補給路を断つ目的で日本軍が空爆した歴史がある。雲南省の西からだけでなはく、北からも援蒋ルートはこの町を通って延びていた。これほど遠く、一見日本とは何の関係も無さそうな山深い小さな町さえも、戦争は巻き込んでいたのだ。


                                                                露天商の老人
b0049671_1182440.jpg この付近は騰沖火山地熱風景区に指定されていて、近くには源泉94度の温泉地がある。だが、勿論ここに温泉に入る為に来たわけではない。旅の目的はと言えば町を渡り歩くことそれ自体としか言い様は無いのだが、副次的には少数民族を訪ねる旅だ。
 この町に寄ったのは、目的地への途中下車だ。騰沖の町自体に何かの目的があった訳ではない。考えて見れば、民族衣装や伝統的生活を求めての訪問というのも、随分と失礼な話ではある。専門的な研究とか調査といった訳でもなく、なにしろただ他人の生活の場を覗き見に行くのだから。
 この町に着いた時(1999年初頭)、メインストリートは全面的に掘り起こされて、改修中だった。酷く埃っぽい。小さな町でおそら一番と思われるホテルに入ったのだが、水道さえ出ない。朝までは出ないと言う。勿論、シャワーなど望むべくもない。ボロバスでの長い山道の移動、埃っぽい街路、やれやれだ。
 だが、それさえ除けば、何があるという訳ではないが、落ち着いた静かな町並みは悪くはなかった。市場にも思いのほか活気があった。なんといっても、雲南の町ではよく見る光景だが、夜になれば数軒の屋台が出る通りがあった。
 屋台でビールでも呑めば、僕は大概の事は許せてしまえるのだ。



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                                                           騰沖の裏路にて
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by meiguanxi | 2007-02-23 02:51 | 雲南省と少数民族
六庫 : (Liuku・中国雲南省)翡翠色の河とリス族の町
[ 雲南省略地図 ]
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                                                             怒江に掛る橋

 雲南省西北部にはチベットから3本の大きな河が、横断山脈の谷沿いに並ぶように流れ込んでいる。
 一番東が金沙江(ジンシャージィァン)。この河は 麗江(リージィァン)付近で大きく南北に蛇行し、省北辺の四川省との省境を流れ、雲南を離れると長江と名を変える。下流域では揚子江と呼ばれるあの河の上流だ。次が瀾滄江(ランツァンジィァン)。この河は 大理(ダーリ)の洱海から流れ出た川を合流し、省を真っ直ぐ南下してビルマ・ラオス国境線に流れ出すと、メコンになる。最も西が怒江(ヌゥジィァン)。この河はビルマ国境近くを南下し、やがてビルマ領に入るとタルウィンと呼ばれる。何れも東アジア有数の大河だ。

リス族の民家(怒江対岸)
b0049671_11194083.jpg 大理の下関(シィァグゥァン:現在は大理市という大きな街に成っているが、嘗てはこう呼ばれていた)を出たバスは、真っ直ぐ西に向かう。
 援蒋ルートという言葉をご存知だろうか。日中戦争の際、日本軍に首都の南京を追われた蒋介石の中華民国政府は、 内陸の重慶に臨時政府を置く。これを支援するために米英はビルマから大量の物資を陸送した。その補給路を断つ為に日本軍は雲南西部に守備隊を配し、壮絶な攻防戦が繰広げられる。軍部は雲南戦線よりもインド北西部のインパール戦線を重視した為、雲南での日本軍の戦いは凄惨を極める。中でも龍陵(ロンリン)での絶望的な戦闘は、数年前、NHK特集でも取り上げられたので、ご覧になられた方も多いのではないだろうか。昆明(クンミン)から下関を通り、更に西に延びるこの滇緬公路は、まさにそのルートなのだ。だが現在、昆明からビルマ国境の瑞麗(ルィリ)まで立派なハイウェイが完成し、当時の公路の面影は無い。

怒江と六庫を俯瞰する)                                    竹竿のように見えるのは砂糖キビ
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市場にて
b0049671_11211760.jpg 下関から130km程でバスは瀾滄江を渡り、その後ハイウェイから分かれて小さな谷沿いに北上する。昔ながらの山道を100kmほど遡ると、怒江に出る。下関から11時間半、六庫(リィゥク)の町だ。20~30km西はビルマ国境、まさに辺境のこの町は怒江リス族自治州の州都だ。リス族と言えば、タイ北部の少数民族を思い起こされる方もいるかもしれない。彼らはこの辺りから移住して行ったのだ。
 雲南の山岳少数民族は、低地民族(タイ族など)の奴隷的存在に甘んじていた。その為に逃げ出した者も多かったと言う。また、日本軍の侵入、共産軍の侵攻、毛沢東時代の森林伐採、文化大革命時代の民族的伝統への抑圧…その度に多くの山岳少数民族が雲南を捨てビルマやタイに逃れた。タイ北部に暮らすリス族は、共産革命時に国民党軍と一緒にタイに逃れたものだろうか。

 現在、雲南省に住むリス族は45万人ほど。だが、自治州州都の六庫の町では、民族衣装はまず見られない。漢族が多く移入してることもあるが、雲南の少数民族の漢化が進行しているのだ。確かに、安い既製服が幾らでも手に入る状況では、民族衣装は不便極まりない物なのかもしれない。また、中国政府による積極的な同化政策(漢族男性と少数民族女性の婚姻)という現実もあるようだ。

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                                                      包子(パォヅ:肉饅)売り
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by meiguanxi | 2007-02-18 11:22 | 雲南省と少数民族
イマーム広場 #2 : (イラン・エスファハン)マスジッデ・シェイク・ロトフォラー
[ 西アジア略地図 ]
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                               アリ・カプ宮殿前まで広がるマスジッデ・イマームの金曜礼拝

 ( エスファハンイマーム広場 の続き)
 マスジッデ・イマームを背に広場を見て左側(西側)に建つのが、アリ・カプ宮殿。正面の構造は、7階建ての背面同等の高さにも関らず2階建てで、上階は幾本もの長い柱に支えられたテラスになっている。柱に支えられたテラス状の構造はイラン様式の宮殿には良く見られるものだが、2階部分に採用されているのは珍しい。

アリ・カプ宮殿内部
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 広場を挟んでアリ・カプ宮殿の向かいに見える美しいドームはマスジッデ・シェイク・ロトフォラー。およそ世界中の至るモスクにはミナレットが付いている。祈りの時間を知らせるアザーンを流す為だ(もともとはその度に人の朗詠していたのだが、今では殆どの場合、録音)。イラン形式ではマスジッデ・イマームがそうであるように、一般にファザードの両側に付いている。ところがこのモスクにはそれが無い。実は王族専用の礼拝用に建てられたモスクであるので、アザーンを朗詠する必要が無かったのだ。
 イランのモスクであるだけにそのドームのタイル装飾は美しいのだが、このモスクは内部のタイル装飾も素晴らしい。イランに良く見られる青や緑といより、クリーム色やピンクといった明るい色調が印象的だ。

マスジッデ・シェイク・ロトフォラー
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バザール入口
b0049671_12551582.jpg マスジッデ・イマームの反対側(北側)一辺の中央に、常に人々の出入りで賑わう薄暗い入口がある。この裏側一帯がバザールになっていて、連続したドームの下、入り組んだ路地が延々と続いている。内部は概ね暗いく、人の流れに身を任せれば方向を失う迷宮は中世への通路のようでもある。

 このバザールの入口の脇、広場を取り囲むアーケード状建築の上のテラスにチャイハネがある。乾燥し、何処までも青く澄んだ空の下、ここでビールを飲みながら…と言いたいところだが、ここは禁酒国イラン、正しく角砂糖を齧りつつブラックのチャイを啜りながら広場を見渡せば、美しい広場の遥か反対側にマスジッデ・イマームが青く輝いている。
 尚、 イマーム広場は世界遺産に登録されているが、近年、広場自体ではなく、それを取り囲む環境の変化、具体的には高層ビルの存在が、この世界遺産を危機遺産リストに追い込んでいるのも事実だ。


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                                                             イマーム広場
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by meiguanxi | 2007-02-16 03:10 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
イマーム広場 #1 : (イラン・エスファハン)マスジッデ・イマーム
[ 西アジア略地図 ]

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                          マスジッデ・イマームのファザード

 往時、“世界の半分”とまで言わしめたエスファハン、その中心がイマーム広場だ。
 北を上に見てやや西に傾いた長方形の広場は、縦510m、横163mという広大なもので、2つのモスクと宮殿、そして絨毯屋やミニチュアールの店、チャイハネや多くの土産物屋がが並ぶアーケードが噴水と芝生の広場を取り囲んでいる。

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                 イマーム広場の夜景マスジッデ・イマームアリ・カプ宮殿

 この南側の一辺で異彩を放っているのがイラン・イスラーム建築の最高傑作、マスジッデ・イマーム(イマームのモスク)だ。2本のミナレットに挟まれた高いファザードはイラン形式のモスクに特徴的なものだが、青い色タイルと精緻な鍾乳石飾りで飾られたこのモスクのファザードは圧倒的な異彩を放っている。広場に面したファザードに足を踏み入れると、出口は右方向に45度傾いている。続く中庭も建造物も、全て広場に対して傾いているのだ。実に奇妙に思える構造だが、実は礼拝堂奥のミフラーブが正確にメッカの方角を向くための工夫だ。

マスジッデ・イマーム
中央礼拝所                         ファザード                     裏路地からのドーム
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 金曜日(イスラームの安息日)には何十台もの大型バスが沢山の巡礼団を運んでくる。厳重な警備の中、集団礼拝の場と化し多くの人々で埋め尽くされたイマーム広場の光景はまさに壮観だ。
後編に続く)

金曜礼拝のイマーム広場b0049671_23553940.jpgb0049671_6355752.jpg


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by meiguanxi | 2007-02-14 23:58 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
エスファハン : (イラン)“世界の半分”と讃えられた街
[ 西アジア略地図 ]
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                                                             イマーム広場

 “ Esfahan Nesf‐e Jahan ” エスファハンは世界の半分―そう讃えられたイランの古都、サファヴィー朝の都だ。
 西暦642年、アラブのイスラム帝国(サラセン帝国)によってササン朝ペルシャが滅ぼされて以来、イランは長らく他民族の支配するところとなっていた。アラブ、セルジューク・トルコ、モンゴル、その支国であるイル・ハン国、チムールと支配者は変わった。

イマーム広場とマスジッデ・イマームの夜景                      マスジッデ・イマームの中央礼拝所
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 イスラーム教シーア派の一派で、アルデビルを中心に活動していた神秘主義のサファヴィー教団からでたイスマイルが起こした朝廷が、チムール帝国の衰退に乗じて1502年、チムールが支配していたイランとその周辺地域を掌握する。実に860年振りのイラン人王朝によるイラン統一だった。タブリーズに都を置いたイスマイルは、スンナ派(スンニ派)主流のイスラーム世界にあって初めてシーア派を国境と定める。また、皇帝を指すアラビア語起源のスルタンを廃し、イラン語のシャーを採用した。

マスジッデ・ジャメ                                          マスジッデ・ジャメの列柱回廊
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 ところで、エスファハン(イスファハン)の歴史は古く、かのアッシリアを滅ぼした紀元前7世紀のメディア王国(アーリア系)の時代にはアスパダナと呼ばれた。アラブの侵入後も東西交易の要衝として栄えたが、例によってモンゴルの攻撃は凄惨を極め、廃墟と化したという。
 第5代シャーであるアッバース1世の時代にサファヴィー朝は全盛期を迎え、1597年、カズビンから遷都したエスファハンは再興され、繁栄を極めることになる。
 街の中心にイマーム広場がある。南北からやや西に傾いた長方形の広場は、縦510m、横163mという広大なもので、2つのモスクと宮殿、そして商店が並ぶアーケードが噴水と芝生の広場を取り囲んでいる。エスファハンのイスラーム芸術の核心部であるこの美しい広場は世界遺産に登録されている。


b0049671_10523993.jpgb0049671_105396.jpg         バザールにて
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 この南側の一辺で異彩を放っているのがイラン・イスラーム建築の最高傑作、マスジッデ・イマーム(イマームのモスク)。この広場の1.5km北東には、エスファハン最古のモスクであるマスジッデ・ジャメ(金曜モスク)があるのだが、金曜日(イスラームの安息日)に人々が集まるのはマスジッデ・イマームの方だ。何十台もの大型バスが運んできた多くの巡礼者達で埋め尽くされ、集団礼拝の場と化したイマーム広場の光景はまさに壮観だ。

ポレ・ハーシュ                                              シオ・セ・ポルのチャイハネ
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 この反対側、北側一辺の裏一帯はバザールになっている。ドームを連続したアーケードの路地が入り組み、薄暗い空間に並ぶ鍛冶屋や彫金、ミニチュアール工房、宝石屋、絨毯屋、香辛料を堆く積んだ店、そんな小さな店々を冷かしながら歩けば方向を見失う中東らしい迷宮が広がっている。
 街の南を流れるザーヤンデ川にはシオ・セ・ポル、ポレ・ハーシュなどの美しい橋が架かり、たもとのチャイハネは人々の憩いの場になっている。人口130万(近年200万を越えたという記載もある)を誇る大都市だが、派手さは無く、かといって閑散としているわけでもなく、街は全体に落ち着いた静けさに包まれ、まさに古都といった面持ちだ。世界に名を馳せた都市であるにも関わらず、観光客は以外に少ない。落ち着いた美しい街並みとイラン人特有のホスピタリティは、旅する人を快く包み込んでくれる。
(イマーム広場についてはこちら⇒ その1その2
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                                                マスジッデ・イマーム裏の路地にて
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by meiguanxi | 2007-02-12 11:05 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]
サマルカンド : (ウズベキスタン)青の都
[ 中央アジア略地図 ]
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    レギスタン広場 : ウルグ・ベク・マドラサ  ティッラ・カーリー・マドラサ  シールダール・マドラサ

 「青の都」…西は東アナトリア(現在のトルコ)・シリア、南はペルシャ・現在のパキスタン・インドのデリー、東はタリム盆地(中国新疆)に及ぶ広大な帝国を築いたティムールの都だ。尚、北部インドを支配したイスラーム帝国ムガールはチムールの流れを汲む帝国だ。

ウルグ・ベク・マドラサ                                           シール・ダール・マドラサ
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 しかしこの町の歴史は2500年前にまで遡る。後に東西交易の主役として名を馳せるソグド人(イラン系)が築いたのが始まりだ。その後、アレクサンダー、アラブ人、チンギスと、幾度もの支配と破壊が繰り返された。ソグド人は8世紀からのアラブの侵入とそれに続くトルコ化の流れの中で歴史に埋もれて行った。それでも町は、支配者や主要民族が変化し破壊と建設を繰り返しながらも栄え続けた。

           シール・ダール・マドラサドームミナレット(左右)、ファザードの具象画(中央)
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 だが、13世紀初頭、かの「蒼い狼」チンギス・ハーンの侵攻は苛烈だった。彼は町を徹底的に破壊し尽くした。住民を殺し尽くした。後には草一本生えていなかったと言う。この時代までの町は、現在のアフラスィャブの丘にあった(写真:最下)。今そこには羊が放牧される草地だ。草を踏んで広大な高台を歩くと、所々に発掘された当時の遺構が唐突に掘り下げられている。といっても見学用に整備されている訳でもなく、青い陶器片が無造作に転がっていたりする。、当時の人々の生活も思いも、全ては草叢を吹き渡る風の中だ。

グーリ・アミール廟                                            ハズラット・ヒズル・モスク
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 チンギスの死後、モンゴルは分裂する。そしてチムールが現れる。「チンギスは破壊し、チムールは建設した」という言葉がある。彼は世界中から集めた建築家を使って、現在の位置に町を再建した。レギスタン広場に面する3つのマドラサ(神学校)、中央アジア最大のモスクであるビビ・ハヌム、壮大なシャー・イ・ジンダの霊廟群など、現在この町に残る遺跡としてのイスラーム建築は全てこの時代のものだ。

ビビ・ハヌム・モスク                                               イシュラット・ハナ廟
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 しかし、中央アジアの多くの街がそうであるように、この街もまた度重なる地震の被害を受けた。ソビエトの時代にロシア風に再建された現在の街に、それら一部の遺跡的イスラーム建築を除いては、伝統的街並みを垣間見ることは難しい。それでもタシケントなどに比べれば僅かながらに旧市街と呼べる場所もあり、何処とは無しに落ち着いた古都の品格とでもいうべき雰囲気を有している(参照)。
 ところで、チムールの栄華も長くは続かなかった。遠征中に命を落とした彼は、故郷のシャフリサブスに葬られることを願っていたが、願いは叶わず、今、グーリ・アミール廟に眠っている。

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                       アフラスィャブの丘からのビビ・ハヌム・モスク
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by meiguanxi | 2007-02-06 23:40 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜]
ラマユル・ゴンパ : (インド・ラダック)荒涼の中の精神世界
[ カシミール・ラダック略地図 ]
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 ラダックのチベット僧院であるゴンパに関するフォト・アルバム的記事の最終回。
 以前の記事で教会やモスクと同様にゴンパを訪れるのが好きだと書いたが、教会やモスクには無いゴンパの魅力の一つは、時折出会うその立地の景観だ。もちろん教会でも山奥や断崖の絶景に建つものもある訳だが、なんと言ってもゴンパはその多くがチベットやヒマラヤといった非常に特殊な環境に存在しているだけに、背景の壮大さでは時に他を圧倒する。

ラマユル ― アルチ間の断崖
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 リキールアルチを過ぎ暫く走ると、ラダックの中心の町レーからカシミールに繋がる道はインダス川左岸に渡り、やがてインダスは北の山並みにそれる。少し北方でパキスタン領に入り、バルティスターンを経てやがてギルギット方面に至るだろう。
 一方、道は荒涼とした山岳地帯に入る。アルチ付近は標高3500mのレー付近より低く3200m程度なのだが、ここからテーブル・マウンテンが折り重なったような断崖を九十九折りに道は標高を上げる。レーから124km、10世紀カギュ派のラマユル・ゴンパは標高4000mの高地に建つ。この先15kmでフォテュ・ラ(“ラ”は峠の意:4107m)、文化的にカシミールとチベット世界とを分ける分水嶺だ。

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このゴンパを取り囲む自然の光景はよく“月世界のような”と比喩される。凡庸な表現ではあるが、まさに言い得ていて他に例えろと言われても火星くらいしか思い付かない。そんな風景の中に凛として建つその姿は、煩悩渦巻く人里から隔絶された異次元空間のような壮観さだ。ただし、遠目にはそうでも、近寄ってみるとゴンパの下には谷底に門前村とでも言うべき小さな村が日常の生活を営んでいるのだが。

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                                                        ラマとドライバー:僧房にて
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 尚、ここから南の山並みに分け入る谷道を登ればザンスカールに至る。ただし自動車道はもとよりロッジも茶屋も無く、天幕と食料・燃料を携帯しての徒歩になる。中心の村パダムまで歩くこと9日ほどの行程だが、僕にとっては今のところ憧憬れのままにとどまっている。

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※ 2007.8.30 追記
  1) この記事は1994年に訪問した時の記憶によるもので、2007年に再訪した時にはラマユルへの道は大きく変わっ
    ていた。その様子、及び近くのセンゲガンというお堂に関してはこちら
  2) この記事の後、ザンスカールには2007年に訪れることになった。(旅行記
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by meiguanxi | 2007-02-03 03:00 | ヒマラヤ・チベット