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シャー・イ・ジンダ廟 (サマルカンド : ウズベキスタン):死者達の宮殿
[ 中央アジア略地図 ]
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                                                  アーリミ・ナサフィー廟(中央左)


ピシュタークの門(入口)
b0049671_1316065.jpg シャー・イ・ジンダ廟は
 サマルカンドのアフラースィヤーブの丘の一角にある。

 イスラーム創始者ムハンマドの
 従兄弟クサム・ブン・アッバースを讃えた廟だ。
 西暦676年、サマルカンドにイスラームを伝えた人物。
 彼は677年、礼拝中に異教徒に襲われ首を刎ねられる。
 伝承によると、彼は動じること無く、
 刎ねられた自分の首を拾い上げると脇に抱え、
 地下の井戸の中に降りて行ったという。
 そしてそこで永遠の生を得たのだそうだ。
 この伝承を元に11世紀に建立されたのがこの廟。
 「シャー・イ・ジンダ」とは「生ける王」という意味。

 その後、チムールの親族などの廟が次々と建てられ、
 15世紀初めには現在の形に成ったようだ。
 階段を登り入口の門を潜ると、
 細い路が100m以上続いていて、
 20程の廟やマスジット(モスク)が両側に並ぶ。

 ここは遺跡であると同時に、
 今も人々の信仰を集める場でもあるのだ。



門から続く階段                             アミールザーデ(右)とカーズィザーデ・ルーミー(奥)
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クトゥルグ・アカ廟内部                           ホジャ・アフマド廟(中)とクトゥルグ・アカ廟(左)
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アミール・ザーデ廟                 チャール・ターク入口と             シーリーン・ビカ・アカ廟
b0049671_13215976.jpgb0049671_13225256.jpgトゥーマーン・アカ・モスクのドーム
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 サマルカンド中心部外れの、アフラースィヤーブの丘の谷を貫く淋しい道の傍らに入口がある。
 入口から数々の廟やマスジッドの並ぶ小道を最奥まで進み、そこからから外に出ると、そこはアフラースィヤーブの丘。
 蒼穹の下、庶民の墓が広がり、風が渡っている。


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                                               墓地から見たシャー・イ・ジンダ奥部
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by meiguanxi | 2007-04-28 13:27 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜] | Comments(4)
ボーテン / 磨憨 : 激変する中国・ラオス国境
[ 北部ラオ周辺略地図 ]
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                                       磨憨からラオ国境への道(1999年撮影:以下同)

 別の記事でも書いたが、僕が毎年のように数ヶ月の旅をしていた80年代終盤から90年代初頭、インドシナ半島の国々の国境は悉く閉ざされていたし、それのみか個人でその国内を自由気儘に旅行することすらできなかった。
 その意味で、タイを除けば中国雲南省南部の西双版納(シーサンパンナ)州はインドシナの空気を感じることができる特別な場所だった。ただしそこはどん詰まりであり、その先は何処の国にも出られない。中国国内の別の場所に抜けるしかなかった。ビルマ(ミャンマーという現在の国名は軍事独裁政権によるものなので、敢えてこう呼ぶ)だったかラオスだったか、越境しようとした学生が公安(中国の警察)に捕まり強制送還させられるといった事件も起きたりしていた。

ボーテンのイミグレ(右)(道の向こうが磨憨)                   さて、ラオスである。始めに断っておくが、英
b0049671_23363458.jpg語表記では Laos だが自称の発音は国名・主要民族名とも“ラオ”であるので、以後、ラオスではなくラオと表記する。
 ラオが外国人に対する旅行制限を解除したのは94年のことだそうだ。同時にこの90年代中葉以後、この地域の国境が次々に開放されることになる。だが、手元にある96年12月初版の旅行人のガイドブック 『メコンの国』 には、「ある県を出て他の県に到着したら、警察(イミグレ)に行き(…中略…)入国カードにスタンプを押してもらわなければならない」 との記載がある。同じようなシステムは嘗てのイランにもあった。僕が初めてラオを訪れた99年にはこの制度が実際に残っていたのだが、2000年に再訪した時には警察に行った記憶が無い。この時代、旅行事情にはまだ急速な
                                              変化の名残があったのだろう。ところがその
ボーテンの国境マーケット                             変化は実は、今また別の形で押し寄せている
b0049671_23372465.jpgようなのだ。

 西双版納州の州都・景洪からラオへの起点となる勐腊(モンラ)という街へ初めてルートを採った99年1月には、その途中に勐養(モンヤン)と基諾(ジヌォ)という2つの田舎町を訪ね歩いたのだが、本来はこちらが本道だった。細い山道を登り下りすること193km、移動時間を合計すると走行時間は7時間になる。ところが翌年8月、景洪からの直行バスに乗ると、その時間は1時間程の休憩を含めて5時間20分だった。実は、有名な観光地である橄榄壩(カンランパ : 別名を勐罕=モンハン)を通る新道ができ、171kmに短縮されていたのだ。
 手元に現地で入手した88年版と98年版の
                                               『雲南省交通図』 という一枚地図がある。88
国境マーケットの商店・竹壁の奥は飯屋                    年版では景洪から30数kmの橄榄壩は行き
b0049671_23381435.jpg止まりであり、その先には瀾滄江(ランツァンジィァン:メコン川)がラオス・ビルマ国境に向かって流れているだけだ。98年版では道は勐腊への旧道の途中に繋がってはいるが、やはり幹線道路の表記は旧道になっている。ところがこの新道、付近の遠々と続く田園と熱帯雨林という風景の中にあって、その近代的な様は異様としか言い様の無いほどに不均衡に映る代物だった。

 さて、勐腊は比較的大きな街だが、ここに見るべきものは無い。因みに前出の88年版地図ではこの街はやはり行き止まりで、迂回して景洪方面に戻る道が記されているだけだ。だが勿論、今は道は先に伸びている。長途汽車站(バス・ターミナル)から自転車人力車で10分、約2kmほどで町外れの中巴汽車站(ミニバス発着所)。ただの未舗装の広場だ。ここでワゴンのバスに乗り換えて50数km、2時間ほどで終点に着く。
 ほんの小さな町、むしろ村と言った方が正確な磨憨(モーハン)の町の、閑散とした1本道を暫く歩くと広場に出る。数十軒の小さな店が並ぶバザールだが、人通りは殆ど無く、やはり閑散としている。このバザールの突き当たりに1軒の飯屋があり、そこがゲストハウス。大概の旅行者はこの閑散としたバザールで1泊することになる。
 この広場突き当たりの角から細い道が小川沿いに熱帯雨林の中に伸びている。だが、勝手にノコノコと歩いて行くことは出来ない。広場から道への進入口に1棟の建物がある。中国側のイミグレーションだ。本当の国境線は道の先の森林の中にある。出国手続きを終え、前に停まっている軽トラック(荷台にシートを置いた、6人程度乗れば満員になるような小さなもの)で2km程の山道を行く。
 森林が突然大きく開けると、そこがボーテン。集落と言うほどのものは無いのだが、ラオ側のイミグレーションがある場所だ。その向かいにはかなり大きな未舗装の広場があり、国境マーケットに成っている。磨憨のマーケットよりも開けた感じがするが、やはり人出は少なく、閑散としている。バスはイミグレーション脇の駐車場から出るが、時刻表があるわけでもチケット売り場があるわけでもない。国境を朝の裡に越えて待っていればやがて、運が悪くとも数時間後にはバスか大型のトラックバスがやって来る。行き先は運転手に訊ねるしかないのだが。
 バスで19km、道は北のポンサリー方面、西のルアンナムター、フェイサイ方面、南のウドンサイ(ムアンサイ)、ルアンパバン(ルアンバルバン)、首都ヴィエンチャン方面に分かれる。その交差点付近の集落では、何時も民族衣装のモン族の姿を見ることができる。道はどちらに向かっても山岳少数民族の領域を走ることになる。

バンナモ付近のモン族                     さてところで、2006年12月、タイとラオの国境を流れるメコンに
b0049671_2339543.jpg第2国際橋が掛けられた。第1橋はラオの首都ヴィエンチャンとタイ東北のノーンカイを渡すものだが、今回掛けられたのはラオ第2の都市で中部のサワンナケートとタイ東部ムクダハンを繋ぐものだ。これによって既に完成していたヴェトナム沿岸地域までのハイウェイとタイが結ばれたことになる(東西経済回廊)。さらにヴェトナム側でこの道は北に向かえば2005年に完成した中国へのハイウェイに繋がる。
 そして今年2007年には南北経済回廊が開通しようとしている。まさに雲南省の省都・昆明から磨憨 / ボーテン、ビエンチャン /
ノーンカイからバンコックを結ぶ動脈だ。いや、もちろん道はあった。実際に僕が2回通っている。だが、今回はその道が圧倒的に整備全線開通しようとしているのだ。更には北西部のフェイサイからタイ北部のチェンコンへのハイウェイも整備されているという。チェンコンのルートを通れば、タイからラオを抜けて雲南国境まで3・4時間で結ばれるという。

 この磨憨やボーテンも様相を大きく変えようとしているようだ。事実、あの殺風景で閑散としていたボーテンの国境マーケットに、中国資本の高級ホテルが開業したのだそうだ。しかもそこでは中国語しか通じず、流通する通貨も中国元のみ。先ごろ放送されたNHKの取材によると、中国から大量の物資と資本と人がラオに
                                  流れ込んでいるという。その中には安価な中国製既製服も含まれる。少数民族の暮らしは大きく変化しつつあるようだ。
 あの、どうやっても発展など夢のまた夢と思われたラオの発展のチャンスはラオ人と共に喜びたいのだが、果たして本当に彼等の為の彼等による発展になるのか否か、他人事ながら疑心暗鬼に苛まれてもいる。中国はあまりに大きく、そしてその資本力は強い。ラオはあまりに小さく、そして資本というものを殆ど持っていないのだ。何時かラオが実質的に「老撾省」のように成ってしまう日が、自給自足の生活をしていた少数民族達が資本の下で貧しいまま過酷な労働に明け暮れなければならない日が、来るのではないかと。いや、それは直ぐそこに迫っているのかもしれない。勿論、穿った杞憂であるのなら、それに越したことは無いのだが。


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                                                       バンナモ付近のモン族
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by meiguanxi | 2007-04-24 00:48 | メコン流域 | Comments(0)
景洪 (Jinghong 雲南省):変貌を超えて、喪失
[ 雲南省略地図 ]
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                                    景洪の周辺風景:タイ族の村(1990年撮影:以下同)

 ラオスとビルマに国境を接する西双版納(シーサンパンナ)傣(タイ)族自治州の州都・景洪(ジンホン)。雲南省の省都・昆明(クンミン)から南西に700km程。96年初版98年第3刷のガイドブックのデータでは691kmと成っている(98年発行『雲南省交通図』では707km)が、88年に省測絵局編制の『雲南省交通図』という地図には742kmとある。
 初めてこの町を訪れたのは90年。その時は昆明から2泊3日のバスの旅だった。直通バスなのだが、途中、専用の宿泊所で停車するのだ。他に1泊2というバスもあったが、早朝出発して翌日の深夜に着くというハードなものだった。山道を稜線に沿って道はうねうねと続いた。中国製のおんぼろバスは喘ぐように漸く走っているという状態。走れど走れど一向に直線距離が稼げない道。途中の宿泊所は、西遊記に出てくるような魔物が現れるのではないかと思えるような山奥の寒村。
 途中の思芽(スーマォ)という町まで飛行機もあるにはあったが、チケットはまず取れない上に、そこから更に何時間もバスに揺られなければならなず、しかも当日の乗り継ぎは不可能だった。

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小学校                                         高床式竹製住宅の下は豚の居所(曼聴路)
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 この時代、インドシナ各国(雲南、ビルマ、ラオス、ヴェトナム、タイ)はそれぞれ陸路の国境を閉ざしたままで、何処の国から何処の国に行くことも出来なかった。また中国国内も今のようには自由に移動できず、開放地区はほんの僅かだった。雲南省でいえば、昆明・石林大理麗江、それとこの西双版納でほぼ全てだった。例えば、景洪から大理に真っ直ぐ向かうルートがあるが、そのルートは留学生でもない限り通過は許されず、いずれも昆明から往復しなければならなかった。
 西双版納は正にどん詰まりだった。それだけに、当時タイ以外は入国もまま成らなかったインドシナの雰囲気を感じさせてくれるエキゾティックな、そして特別の場所だったのだ。

小川で漁をする女性                                          ビルマ式の仏塔(近郊の村)
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 町は至って簡単な構造をしていた。南北に走る数百mのメインストリート、その東に版納賓館というホテルのある通り、賓館の裏はもう瀾滄江(ランツァンジィァン)、メコン川だ。この2本を繋ぐ通りは、メインストリートとの交差点から先すぐに未舗装に成る。この南に賓館の通りの南端からカーブし道成りにメインストリートまで繋がる裏道がある。これらをぐるっと一回りしても20分程だろうか。その外側は未舗装の、村人の生活道だ。賓館から、どちらの方向でも良い、自転車でのんびり10分も走ればタイ族始め少数民族の村に着く。村の家々は伝統的な高床式で、質素な瓦葺き。或いは茅葺き。軒では豚が放し飼いにされている。
 賓館の通りの南端から曼聴路という細い未舗装の道が伸びている。この通りに、タイ族の家屋を利用したタイ飯屋が数件
                                   ある。高床の下の、本来は家畜の為のスペースに壁を付けて食
近郊の勐混(モンフン)で開かれる日曜市          堂にしているのだ。勿論、ドアなどは無い。上階は民宿に成って
b0049671_0242580.jpgいて、そこは下階が隙間から透けて見えるような板張りの、まさにタイ族の民家だ。
 ここで雲南名物の紫米(黒餅米)と巨大な獅子唐の肉詰めなどのタイ料理に舌包みを打ちながらビールを呑み、旅の話など語らっていると、奥地まで遥々来たものだという感慨が甘く忍び寄る。周りはタイ族の村。
 賓館にはバンブーハウスと呼ばれる2階建てのドミトリー(3・4人部屋)があり、そこの共用バルコニーで日がな本を読むも良し、自転車で村を回るも良し、時にはバスや船に乗って近郊へ遠出するも良し、或いは7・8人集まればワゴンでツアーを出すも良し。何日いても飽きない雰囲気がそこにはあった。

 人口3万程度の田舎町が、ほんの5・6年で市人口37万、市街地人口でも十数万の大都会に変貌することを想像できるだろうか。今や町ではなく、街だ。そして観光と貿易の最前線都市なので、人口から想像するより遥かに都会だ。
 街の規模は拡大され、かつて村が点在した範囲にまで区画整理された舗装道路が張り巡らされ、ビルが林立する。どの通りにも商店が犇めき、毎日、飛行機が無数の観光客とビジネスマンとを運んでくる。あの曼聴路は舗装道路に整備され、両側には沢山のタイ料理屋が並ぶ。嘗てのタイ飯屋ではない。立派なレストランだ。どの店でもタイ族伝統舞踊のショーを売り物にしている。夕刻、店の前には洗練された華美な民族衣装を身に付け、しっかりと化粧を施した女性達が中国人団体観光客を出迎える。

近郊の哈尼(ハニ)族の村にて                               瀾滄江(ランツァンジィァン:メコン川)
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 初めに書いた道路距離に50km程の差があるのは、もちろん整備が進んだ為だ。2000年には昆明から景洪まで、夜行バスで20時間だった。勿論、途中宿泊などは無い。おそらく現在はもっと縮まっていることだろう。
 99年、ビルマ国境地帯の辺境を旅して辿り着いたその街に、のんびりとした9年前のあの町の面影は全く、見付けることができなかった。某作家風に言えば、「しかし」も「けれど」も「ただし」も無く、完璧に、一片も。それは違う街だった。従って、ここに掲載した写真は既に、世界中の何処にも存在しない風景であり光景だ。

 ※ 勐混 (menghun) 日曜市 1990 的風景
                1999 的風景
                日曜市 1999 的風景

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                                                  近郊の哈尼(ハニ)族の村にて
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by meiguanxi | 2007-04-20 00:54 | 雲南省と少数民族 | Comments(6)
シソフォン(カンボジア):果てし無き悪路
[ インドシナ周辺略地図 ]
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 以前、僕が良く中国雲南省やタイ付近を旅していた90年代初頭、いわゆるインドシナ半島の国々の国境は悉く閉鎖されていたし、ラオス・ヴェトナムなどは個人旅行者が自由に旅することは認められていなかった。勿論、カンボジアに至ってはバックパックを背負ってノコノコ立ち入ることのできるような状況ではなかった。したがって、例えば雲南省に中国の他の場所からやって来たのならば、他国に陸路で出国することはできず、言ってみれば行き止まりだった。なんとか少しでも越境しようとした学生が当局に逮捕され、強制送還させられるといった事件も起きたりしていた。
 特にカンボジアでは1991年に内戦が一応の和平を迎えた後も、国内の治安は不安定を極めていた。一部ではタイから空路で直接アンコール・ワットを訪れるツアーも組まれていたが、ヴェトナムから陸路カンボジア入りして陸路シェムリアップ(アンコール・ワットのある町)に向かうことは不可能だったし、トレンサップ川とトレンサップ湖を経ての水路にも危険が伴ったようだ。タイとの国境は相変わらず閉鎖されていた。

                                               1997年末から98年春に掛けて、ポル・ポト
b0049671_3432086.jpg派残党が支配を続けるタイとの国境地帯への政府軍による大規模な掃討が行なわれた。この4月、ポル・ポトは死亡する。戦闘による死亡ではないく、服毒自殺とも薬殺とも言われるが詳細は不明だ。いずれにせよこの結果、国境が開き、タイのアランヤプラテートとシェムリアップとを結ぶルートが一般に開放されることになる。
 今ではバンコックのカオサンロード(個人旅行者街)から毎日、直行のツアーバスが出ている。ツアーバスといっても、いわゆる観光バスではなく、個人旅行者を現地に運ぶ為のバスだ。だが、国境が開いて半年しか経っていない98年10月には、そんなものはまだ存在しなかった。ビザ取得など慌しい一日を送った翌早朝、僕はバンコックのホアランポーン駅(中央駅)5:55発の列車に乗った。(バンコックでの一日についてはこちらを参照)
 バンコックの広い郊外を抜けるとビルや家並みは疎らになり、やがて森林や田園、そしてインドシナ特有の赤土の大地を走る。アランヤプラテートは本当に小さな田舎駅で、駅舎を出るとさっそくバイク・タクシーのドライバーが寄ってくる。だが彼
                                   等を擦り抜ければバスはすぐそこに停まっている。バスは15分
b0049671_344055.jpg程で国境バザールに着く。広場に沢山の店が犇いているバザールは楽しそうではあったが、その賑わいを横目にバザール外れのタイ側イミグレーションへ急ぐ。徒歩で国境線を跨ぎカンボジア側イミグレーション。その小さな建物の屋外で入国書類を記入していると、歳若い、まだ少年と言って良いくらいの小柄な男が声を掛けてくる。英語は通じない。構いはしないのだ、行き先と値段さえ分かれば彼としてもこちらとしてもそれで充分なのだから。ピックアップ・トラックの客引きだ。運転席がセダン型で後部が荷台に成っている日本製軽トラックの荷台には沢山の荷物が詰まれている。車内には既にぎゅうぎゅうの乗客。僕が乗るべき場所は勿論、荷台の荷物の隙間、或いはその上だ。
 その数年後、TVのバラエティー番組で、応募した視聴者達がこの国境からシェムリアップまでの道を舗装(といってもアスファルト舗装ではなく、凸凹を修復するだけだが)するという連続企画があったのを覚えているだろうか。この旅はそれよりも以前の話だ。世の中にこれほどまでに酷い道が在ったのかと、ある種の感慨を覚えたものだ。
 軽トラックは一時もその車体が道路との並行を保つことが無かった。というより正確には、平行を保つべき道路が無かった。いや、道は続いているのだ。ただ、至る所に大きな穴が開き、まるでモグラ叩きのゲーム盤の上をドライブしているようなものだった。穴の直径は大きいものでは2メートル以上あったと思う。恐らくは地雷によるものなのだろう。或いは雨季のぬかるんだ穴を車両が更に掘り下げてしまった部分もあるのかもしれない。そんな凸凹で全くスピードを上げられない道でも、その道は数十センチでさえ外れられない。そこは既に地雷原なのだ。至る所に建てられた看板では、それを示すドクロの不穏な笑みがこちらを見詰めている。
                                               さて、この時でも国境からダイレクトにシェム
                                               リアップに向かうピックアップ・トラックはあっ
b0049671_3444090.jpgた。従ってバンコックを早朝の列車で出発したなら、夜の8時か9時にはシェムリアップに着くことができた。だが僕は、途中のシソフォンという小さな村で途中下車することにした。ほんの小さな村だ。
 村の道端に、木枠の粗末な台に何やら乗せているだけの露天がある。風呂椅子くらいの小さな木の椅子に客の男が数人。覗き込むとおばちゃんがコップを勧める。男達は昼日向から酒を呑んでいたのだ。透明の、舐めただけで咽喉の奥が痺れるような強い酒。肴はポンティアコーン、孵化し掛けのアヒルの茹卵だ。卵黄に血管が走っているだけのものから明日孵化してもおかしくないまでに成長したものと状態には様々ある。前者では詰まらないし後者では羽根や骨が邪魔して食べ辛い。
 僕に以外だったのは、村の人々が悉く明るく、笑顔だったことだ。勿論、どんな悲惨な出来事も不幸を抱えていても、何時までも泣き明かしてばかりはいられないのが、人間の生活ではあるのだ。気付けば隣の男には片足が無い。孵化し掛けのアヒルの茹卵、咽喉にヒリヒリする強い酒、木箱のような食台、低い椅子、おばちゃんの笑い声、通じない言葉、赤土の道の遥か向こうに、大きく真っ赤な太陽が、ゆっくりと落ちて行く。(記事の露天は写真の屋台ではありません)

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by meiguanxi | 2007-04-13 02:02 | メコン流域 | Comments(2)
盈江(Yingjiang 雲南省):タイ族の町
[ 雲南省略地図 ]
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                                                             タイ族の飯屋

 騰沖(タンチョン)から南西に100kmほど行くと盈江(インジィァン)。100kmがバスで4時間掛かるのだから、相当な山道や悪路と思われるかもしれないが、この辺りの山谷は六庫(リィゥク)辺りに比べると随分穏やかだ。平地が増え、空気に湿り気を感じるようになる。
 雲南省というと伐採によって腐葉土が流された禿山を思い起こす方もいるかもしれない。確かに省都の 昆明(クンミン)を中心に、ヴェトナム国境の河口(へコゥ)に掛けて、ラオス国境の西双版納(シーサンパンナ)州の景洪(ジンホン)に掛けて、大理(ダーリ)や石林(シーリン)などに掛けての地域を見ると、一部には目を覆いたくなるような光景がある。だが、この辺りの山にはまだ手付かずの密林が多く見られるのは嬉しいことだ。
 これまで紹介してきた雲南省の町(昆明・石林・大理・麗江・六庫・騰沖・古永)に比べて、東南アジアに来たという印象を強く持つ。ページ上の地図を見てほしいのだが、騰沖の西と龍陵の西を結ぶライン以西の、ビルマに突き出した地域が徳宏タイ族ジンポー族自治州になる。雲南省のタイ族といえば西双版納が有名だが、タイ王国(タイランド)の言葉にはこちらの方が近いのだそうだ。

街子(定期市)にて
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街子からオート三輪で村に帰る少数民族
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 町外れに街子(ガイヅ:雲南読)が開かれる広場がる。少数民族に広く見られる定期市だ。一般的に平地民族であるタイ族の衣装は山岳民族に比べて派手さは無い(花腰タイ族など、例外はある)が、市の日にはサロン(腰巻スカート)姿にタオルをターバンのように巻いたタイ族女性達で賑わう。少数ではあるが、他の民族の姿も見かける。比較的大きな町だが、町の外には水田と密林が広がり、のんびりしたインドシナの雰囲気がある。


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b0049671_0112024.jpg 町中の一角に、屋根を付けた駐車場のような広場があり、ここが屋台村に成っている。沢山の洗面器に調理済みの惣菜が盛られ、その場で食べさせるタイ飯の屋台だ(一番上の写真とは別)。夕暮れ時、2・3の料理(一皿の量は少ない)を頼んでビールを飲みながら暮れ行く町を眺めていると、屋台のおばちゃんが 「呑んでばっかりいないで、ちゃんと食べなきゃダメじゃないか!だから痩せてるんだよ!」 と説教する。そういう彼女は、どんぶりの大盛り飯に売り物の惣菜をあれこれ乗せて掻き込んでいる。頼もしい働くおばちゃんだ。
 どんぶりを覗くと、茶色い塊がある。納豆だ。日本の物とは違い粘り気は無く、乾燥しておこし状に固まっている。おばちゃんに分けて貰って食べてみると、唐辛子が混ざっているようだ。
                                   食べ終わった彼女は、残った納豆を僕の皿に移しながら、「それ
                                   はビールじゃなく米飯(ミィファン)と一緒に食べるもんだよ!」 と
b0049671_011545.jpgまた説教。
 翌日もその屋台に行く。例によって2品ほどの惣菜でビールを飲んでいると、注文していない惣菜をあれこれと僕の皿に盛ってくれる。ちょっとお裾分け程度ではない。断っても箸を休める隙さえ与えないかのような勢いで次々に勝手に盛る。しまいには米飯までよそって有無も言わせず急かされる。食べ終わった時には、2本目のビールを注文できない程に腹が膨れていた。
 勘定を聞くと7元(1元=13円)。そのうちビール代が4・5元である筈。勿論、勝手に盛られた分は勘定に入っていない。僕は礼を言って10元札を手渡す。釣銭を探す彼女に、「明日、町を出るんだ」 と言って席を立つ。おばちゃんは慌てる。僕はそれを無視して手を振る。満面の笑みで送ってくれる。言い付けられて他の屋台に10元札を両替に走った15歳位の娘も、諦めてにっこり微笑んで親指を突き出す。3元ではとっても間に合わないほど食べさせられたのだ。


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                                  「暇やねぇ」 「せやなぁ~」 「ちぃとも売れへんわぁ~」
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by meiguanxi | 2007-04-05 01:39 | 雲南省と少数民族 | Comments(2)
テラヴィ (グルジア) ワインと聖堂の里
[ カフカス略地図 ]
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                                                        アラヴェルディ大聖堂


 アゼルバイジャンのシェキからバスと乗合ワゴン、タクシーを乗り継いで西に3時間半、国境を越えるとグルジアに入る。
 シルクロードや中東などをバスで旅していると、放牧された羊の群を良く見掛けるが、カフカスも同じだ。ただ、アゼルバイジャンからグルジアに入ると、イスラーム圏の外に出た事を実感する光景を目にする。羊の他に道端をうろつく豚が目に付くようになるのだ。人々の顔立ちも変わる。アゼルバイジャンや中央アジアがトルコ系またはイラン系民族であるのに対して、グルジアの主要民族カルトヴェリは全くヨーロッパ人的な顔をしている。だが、言語はカフカス諸語という特殊な範疇に入り、インド=ヨーロッパ語とは明確に分離されている。グルジア地域には4世紀にキリスト教が入った。


昼過ぎには閑散とする市場                                         旧市街・石積みの屋並
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アラヴェルディ大聖堂からの大カフカス山脈                                   イカルト修道院
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質素な料理、市場のチーズ、ワインはムクザニ      国境で人待ちしているタクシーに乗り換え、更にワゴンとバス
b0049671_12345629.jpgを乗り継ぐ。道は大カフカス山脈の支脈の低い山並みの北斜面を縫うように西に伸びる。斜面の北側には平野が広大な大河のように広がっていて、遥か彼方には雪を冠した大カフカス山脈の連なりが美しい。3時間間ほどでカヘティ地方の中心の町、テラヴィに着く。
 カヘティはカルトゥリと呼ばれる首都トビリシムツヘタなど中央部と民族的には同じだが、古来、別の国を形成していた。トビリシからならバスで3時間半ほど。山脈に挟まれた東西に長い平野は葡萄の産地として名高く、特にサペラヴィ種のグルジア・ワインは世界的に有名だ。

 ピロスマニ(1862~1918)という画家ををご存知だろうか。
ピロスマニ小画集(トビリシ国立芸術博物館刊:仏語)   『百万本のバラ』という歌のモデルとしても有名なグルジアの国
b0049671_12354446.jpg民的画家。彼の『赤シャツの釣り人』がラベルになったムクザニというワインがある。フルボディの赤、その深みのある渋みは絶品だ。他にも彼の絵がラヴェルに用いられている銘柄は多い。その名も「ピロスマニ」という銘柄もある。余談だが、静岡の業者がグルジア・ワインを輸入していて、ネット購入もできる。
 テラヴィは遥かに続く葡萄畑の彼方に大カフカス山脈を望む静かな町で、ペルシャ様式の王宮はこの町の象徴だ。近郊にはアラヴェルディ大聖堂やイカルト修道院などの美しい教会建築も多い。グルジア教会やアルメニア教会は十字形の基底部と、中央の円筒形の塔、円錐屋根が特徴だが、この地方の教会の円筒塔と円錐屋根はその高さ、美しさで突出している。

民泊したマナナ未亡人のアパートメント裏口        グルジアでは良くあることだが、ここのホテルもやはり北西部
b0049671_12361968.jpgのアブハジア分離独立を巡る内戦によって流れ出た難民の住居化していて、水や電気など基本的インフラも荒廃している。
 レセプションに誰も居ないホテルのロビーで困り果てていると、外を通り掛った初老の婦人に声を掛けられる。英語は通じないが、要はこのホテルは設備がダメだから友人の家を紹介するということらしい。連れて行かれたのは近くのアパートメント。
 マナナは数年前に20代後半の一人娘を事故で亡くした老未亡人で、今はそのアパートに一人暮らしだそうだ。中央の部屋に入り口のある3間とキッチンの鰻の寝床。彼女の用意してくれる夕食は非常に質素だ。だが、市場で買ったチーズとムクザニを添えれば、心温まるグルジアの家庭の味だ。夜になると女友達が数人訪れ、彼女は毎晩バックギャモンに興じていた。


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                                             アラヴェルディ大聖堂付近の田園風景
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by meiguanxi | 2007-04-01 12:39 | カフカス | Comments(2)