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from Leh : ザンスカール・トレッキング・メモ
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                                                         2007.6.28

 明日、ここから120数km西のラマユルという有名なゴンパのある村に、テントやストーブ(コンロ)、コッヘルやシュラフなどの入ったメインザック、サブザック、スポーツバッグ2つに満載した食料とともに車で移動します。
 本当はここに日本で準備した装備、現地で調達した物、食料などをメモしておこうと思ったのですが、今日のレーは停電が多くなかなかネットが繋がらない上、遅くて重くてどうにも成りません。ので諦めます。帰ってから、レーからに成るかどうかは分かりませんが、準備した物と結果としてそれで足りたのか不足したのか等々、記録に残したいと思っています。
 ラマユルからザンスカールの中心パダムまで、宿も飯屋も商店も無い村とゴンパを10日間掛けて、2頭の馬と1人の馬方さんと一緒に歩きます。その後、対岸のカルシャという村にあるザンスカール最大のゴンパでの祭りを見た後、数日間パダム・カルシャ西方の村を歩き、初日から16日目にパダムに再度辿り着く予定です。
 パダムは、レーとカシミールの中心の町シュリーナガルとの中間に位置するカルギルという町から2日に1度バスが来る村で宿もあるのですが、バスかトラックか、いずれにしてもエンジンの付いた乗物でカルギルへ出て、アッパー(上)ラダックと呼ばれるラマユルからレーの間を少し見てくる積りなので、もう一度レーに戻るのは約1ヶ月後位になると思います。勿論、それまでネットは見られません^^
 では、一部の方々にはご心配をお掛けして申し訳ありませんが、無事に帰って来られたら、1ヶ月後にご連絡します。
 行ってきます!

                                                             by 没関系
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by meiguanxi | 2007-06-28 23:58 | Air Mail
from Leh : へミス・チェチュ
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                                                           2007.6.27

 6月24日の夕方から2日間、レーを留守にしていました。ここから東に30数kmほど来た道を戻るとカルという集落があり、ここでインダスを対岸(南)に渡って岩山を縫うような谷を10kmほど登るとへミス・ゴンパに着きます。ラダック最大のゴンパ(僧院)なのですが、集落はほんの小さなもので基本的に宿はありません。というのは、民宿することも可能らしいので。僕はキャンプ・サイドにテントを張っていたのですが、なんと実に、自分のテントを張るだけで200ルピー(約600円)もします。実は普段はこの半額なのですが(にしても高い!)、この数日は特別なのです。
 25日26日とへミス・チェチュというお祭りがあり、チャムという仮面舞踏が執り行われるのです。会場のゴンパ中庭は早朝から詰め掛けた夥しい人々の場所取りでてんやわんやです。特別な人や特別なツアーには椅子の席が設けられているようですが、一般人(ツアーも含む)は地べたに座って観るのですが、石畳に座った高さの温度は実に45℃を超える暑さです。座席番号とかがある訳ではないので、場所を離れる訳にもいきません。ただ乾燥しているのでまだ楽なのですが、腕や顔はボロボロになりそうです。
 僕は8時頃から待っていたのですが、チャムは予定時間の10時を1時間過ぎて漸く始まりました。4mはあろうかという長い管楽器が非常に低い単調な音を奏でます。その音だけでおどろおどろしい雰囲気が辺りを包み込みます。太鼓やシンバルのような鐘の音が厳かに流れます。数名から十数名ほどの演者が、それぞれの幕によって大きな様々な仮面と豪華な衣装を付けて現れては、音楽に合わせて単調な舞踏を繰り広げ、それは午前中2時間、午後2時間、翌日の午前に少しと昼に2時間続くのです。残念ながらその様子を適切に表現する文章力と時間を今は有しません。
 ただ、実は今日、レーの南8kmほどにあるスピトク・ゴンパを砂曼荼羅の制作を見学したのですが、制作をしているラマがへミス・チェチュについて嘆いたのが印象的でした。それは僕も感じていたことなのですが、チャムを観ている人々の実に半数近く(正確な数字ではありませんが)が外国人、特に西洋人で、その他に多くのインド人観光客(ラダッキや周辺の人ではなく)地元の人はほんの僅かでしかなかったのです。これは日本で言うお祭りとはちがってもう少し純粋に宗教儀式という意味合いが強いのだろうかとも思ってみたのですが、やはりあまりにも観光化し過ぎた為にそうなってしまったという部分もあるのでしょうか。少なくと外国人に関する限り、拝観料30ルピーの他にチャムを観る為に250ルピーの料金を必要としました。勿論、僕もそうした外国人の一人ではある訳です。
 チャム自体は物凄く素晴らしかったのですが、席取りで後から来たにも関わらず待っている人の前に座ってしまって頑としてどこうとしなかったり、写真を撮るために演者のすぐ前まで出て行ってしまって他の見物人のことなど意に介さない白人達(勿論一部ですが)の傲慢傍若無人な行動に辟易として白けてしまっていたのも事実です。欧米人はインド人とは違って、このようなことは決して本国ではしないでしょう。まさに旅の恥は掻き捨てという訳でしょうか。
 このチャムを観ることが今回の具体的な目的の一つでもあり、もう一度言っておきますがチャム自体はとても素晴らしいものでした。ただ、その時間とでもいうのでしょうか、そういう意味では岩山の谷でのキャンプの夕暮れや、深夜3時に翌日の練習の為なのでしょうか、ゴンパから谷に流れる例の低い単調な管楽器の音、或いは今日、砂曼荼羅の制作を横でずっと見ていた時間、そういった事々のほうがむしろ、強く心に残るような気がしています。
 (乱筆乱文誤字脱字誤変換、小学生日記的文章等々、推敲の時間無く申し訳なく)

                                                             by 没関系
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by meiguanxi | 2007-06-27 22:17 | Air Mail
from Leh : ツーリスティな辺境
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                                                           2007.6.24

 インド領ヒマラヤ西域ラダック地方の中心地レーは、北側がヒマラヤの支脈であるラダック山脈、南側がザンスカール山脈に挟まれたインダス川上流の、北の山脈から流れるインダスの支脈が作る広い扇状地の奥に開けた町だ。
 この町を訪れることは、少なくとも陸路による限り、かなりハードな道程になる。これについては前の手紙で述べた通りだが、実は13年前、僕はこれとは違う道を辿ってこの町を訪れている。インド領カシミールの中心地で美しい湖が有名な観光地であるシュリーナガルから、1泊2日のバスで、やはり4000m急の峠を越えてやって来たのだが、時折りしもカシミールを巡るインドとパキスタンの紛争、それに独立派ゲリラの紛争が激化する寸前で、乗ったバスが政府軍とゲリラとの銃撃戦に遭遇してしまったりしたものだ。
 北にはパキスタンとの停戦ライン、すぐ東は現中国占領下の西チベットであるこの町は、まさに奥地というに相応しい地理的条件にある。しかし、このブログには度々登場願っている後藤ふたば氏がこの地を訪れたのは1993年だっただろうか。そのときの著書に彼女は、「レーは秘境ではないのだ」といったことを既に書いている。僕が出たばかりのその『もうひとつのチベット行』を読み、強引にぶち抜いた2週間の休暇で陸路カシミールからラダックに至るという強硬な旅にでたのが翌94年、しかしその時にはまだもう少し素朴な雰囲気が残っていたように記憶している。
 今もこの町は居心地が良い。メインバザールと呼ばれるメインストリートの、車道と歩道の段差に野菜を並べた露天のおばちゃん達の姿もそのままし、町の北側の高台に聳える、かのラサのポタラ宮のモデルになったという王宮の廃墟もそのままだ。旧市街の石と土壁で作った、迷路のような家並みも健在だ。だが町は拡張され、僅か夏場の2・3ヶ月間の賑わいとはいえ、ちょっとしたネパールはカトマンドゥのタメル地区(旅行者街)化してしまった感がある。
 さて、ところで、何時でも何処でも兎に角はビールの僕である。しかしここは紛い成りもインド、安レストランには少なくとも大っぴらにはアルコールは置いていない。旅行者を目当てにした店を選ぶと、ボトルをテーブルに運ぶのは憚られるという訳で、奥でグラスに注いだビールを運んでくれる。グラスが空になるとまた注いで来てくれるという訳だ。勿論、ここは奥地、値段は高い。1本約(100ルピー)300円もする。ホットシャワーの出る宿が200ルピーなのだ。酒飲みであることが辛いのも、インドなのだ。
 ところで、飯を食いビールを飲み、僅かばかりながらチップを置く自分が、どうしてインド人の物乞いに1ルピー出すことを躊躇うのか。勿論、言訳なら幾らで思い付くし、それらはそれなりに説得力が無くもない。だが、そういうこととは少し、違う。
 13年前、町の中心にあるゴンパ(僧院)で、美しい服を着たラダッキ(ラダック人)の少女姉妹を写真に撮っていた時、「パンジャビ(シーク教徒の住むインド西部の州)、ジャパニ(日本人)、フレンド」と言って手を差し出すインド人少女がいた。どうしてパンジャビとジャパ二がフレンドなのか分からないが、そんなことには意味は無いのだろうし何処の国の旅行者にもそう言っているのだろう。弟を片腕に抱いたその10歳か12歳ほどの少女は、非常に美しい目と顔立ちとを持っていたが、残念ながらそれに相応しい身成りを有してはいなかった。顔も手も腕も脚も真っ黒に汚れ、髪は捩れて痛み切っていた。美しい顔は魅力的な可愛らしい笑顔を作ったが、そこには媚が混ざらざろうえなかった。僕は写真を撮らせてもらう換わりに、僅かばかりのバクシーシを与えた。10ルピーで彼女の自尊心と肖像権とを買ったのだ。
 もし、彼女が生き延びているのなら、ちょうど妙齢の美しい盛りを迎えている頃だ。しかし勿論、実際には美しさとは程遠い人生であるに違いない。だが、願わくは生き延び、苦しくともそれなりの、出来れば今日食う物に困らない生活をしていてくれるのなら、と思わずにいられない。
 などどいう無責任な感傷は、実はビールの肴だったりするのかもしれない。僕の心は、実はそのことに、本当には傷付いてなどいないのだ。それは歳を取ったということかもしれないし、日本の政治に関して達観してるということと何処か繋がるのかもしれない。
 ただ、無責任であるが、若者にはそういうことを感じるためにだけでも1度だけ、旅をして欲しいと思ったりもするもだ。もっとも、今の日本の若者がそういうことを感じるのかどうか、既に分からない年齢に僕は成っているのだが。
 (誤字脱字、推敲の時間が無く、申し訳なく)
                                                            by 没関系
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by meiguanxi | 2007-06-24 16:34 | Air Mail
from Leh : 長く険しい移動
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                                                           2007.6.20

 2泊3日のバスといえば、今時はすこしはマトモなバスなのだろうと、僕は期待していた。
 一昔前、インドのバスといえば大財閥のTATA製のバスしかなく、これは中国のバスとともに最悪の乗物として世界中の旅行者から恐れられ、忌み嫌われていた。だが当時の旅行者には他に選択の余地が無かったので、まるで何かの苦行にでも入るような面持ちで戦々恐々として乗り込んだものだ。だが現在、中国では場所によっては日本製やドイツ製の高級バスが走っていたりもする。インドでも経済開放後はもっとマシなバスが走ってる。
 だが勿論、僕の乗るべきバスはTATAバスだった。片側2席、片側3席の、シート幅の極めて狭い、サスペンションという概念があるのかすら疑わしいようなバスだ。この歳になってまたもこのバスに乗ることになった運命を、僕は軽く恨む。唯一幸いだったことは、前方ドアのすぐ後ろだったことだ。僕の前にシートは無い。
 デリーを15:45に発車したバスは、北インドの果てしなく続く大平原をひたすらに北上する。何処まで行っても平らな耕作地と疎らな林、そして荒れた草地が続く。大自然と言うには何処と無く美しさを感じないのがインドだ、と言ったら偏見だろうか。隣の席の大男は大股を広げて、僕の方に頭を乗せて他愛も無く眠っている。いったいどういう理由で、アジアで長距離のボロバスに乗ると決まって隣には大股を広げる大男が座ることになっているのだろう。
 車窓には下弦の月が西の空低く傾いている。そのすぐ上に木星が輝いている。その距離があまりに近いので、まるで何処かの国の国旗のように見える。やがて木星は、月の陰の部分に吸い込まれた。夜半近く、インド平原の西北辺の要衝であるチャンディガルを通過すると、道は細くなり山がちになる。
 あれほど暑かったデリーが嘘のように、夜明けに着いた田舎町の空気はピンッとしていた。午前中、ヒマーチャル・プラデーシュ州の有名な観光地マナーリでギュウギュウ詰めの新しい客を満載したバスは、標高3978mのロータン峠への九十九折の道を喘ぎながら登る。10年前にこの峠を越えてスピティ地方に行った時とは違い、今は雪の残る峠はインド人観光客で溢れていた。
 峠で止まることなくバスは北側に下る。谷にはチャンドラ川が東西に流れ、これを東に遡ればスピティに至る。今回は西に下る。やがてこの川と別れ、バガ川を遡ればラホール地方の中心ケーロンの集落、17時、今日の宿泊地だ。先に進む乗客たちはそれぞれ宿を探しに散っていく。ほんの小さな町に過ぎないが、ホテルもレストランもあり、電気も通っている。24時間ホットシャワーが浴びられるというから驚く。この辺りはすっかりチベット文化圏で、ゴンパ(僧院)やチョルテン(仏塔)が目に付き、チベット服を着た女性が行きかっている。今は通り過ぎるだけだが、1ヶ月先にもう一度訪れることになるかもしれない。
 翌日、デリーから3日目の早朝5:15、まだ明け切らぬ山道をバスは再度走り出す。ケーロンから30kmほどのダルチャを過ぎると集落は殆ど無くなり、道は危うい峠道の連続になる。樹木は無く、白茶けた岩山と土と、時折の残雪だけの単色の世界だ。ただ、谷の遥か下方に見える川の乳緑色と空の蒼だけは果てしなく鮮やかだ。
 3950m、続いて3950m、5050mと標高の高い峠が続く。峠の上にはさっきまでの青空が嘘のように、雪が真横に吹雪いていたりする。やがてこのコースの最高地点、5317mのタグラン峠を登る。僕の知る限り、定期路線バスが運行されている世界で最も標高の高い道だ。不思議なことに、その峠を登り切るとそこは広い平原が続いている。その土漠のような高原をひた走り、やがて長い九十九折を下り切ると、チョルテンが目に入る。無人地帯から人の住むラダック地方の谷に降りたのだ。道はインダス川上流に合流し、これを更に150km西に下れば、漸くラダックの中心の町、レーに至る。
 19:30、ケーロンでの宿泊休憩を除いても実に40時間に及ぶ厳しい移動だった。
 まずはビールだ。しかし、頭と首筋が酷く痛んではいるのだが。
       (誤字脱字、推敲の時間が無く、申し訳ありません)
                                                              by 没関系
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by meiguanxi | 2007-06-23 21:39 | Air Mail
from Delhi : パハールガンジ
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2007. 6.17

首都の中央駅の前から1kmほど伸びる通りがある。
車道と歩道が分かれているような通りではなく、裏道だ。
しかしそこには沢山の商店、飲食店、土産物屋、旅行代理店などが建ち並び、
働く地元の人、地方からのお登りさん、路上の物売り、物乞い、
訳も分からず声を掛けてくる輩、バイク、自転車リクシャー、オートリクシャー、
そして蝿と犬と牛とが犇き蠢いている。
そちらこちらから意味不明な大声・奇声が飛び交い、
始終八方からクラクションが鳴り響き、
舗装されているにも関らず、至る所が水溜りになっていて、
路上は何処もゴミが散乱している。
勿論、注意して歩かなければ牛の糞だって踏むことになる。
ニューデリーはパハール・ガンジ、メインバザールと呼ばれるこの通りは、
決してバンコックのカオサン・ストリートなどとは違う。
そんなに温い場所ではない。
10年振りのインドだがやはり、やれやれという思いにさせられる場所だ。
日本にてインドの町の風景や音楽がTVで流れると、
懐かしくてつい行きたいと思ってしまうのだが、
着いてみれば、やれやれなのである。
不思議な国だ。
さて、インドのインド的なるものが決して得意ではない僕は、
明日の午後にはこの街を離れる。
2泊3日、非常に長く、途中からは非常に厳しい道の移動になりそうだ。

by 没関系

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by meiguanxi | 2007-06-17 16:12 | Air Mail
from Bangkok : 潰された定宿
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2007. 6.15

といわけで、何時もの Bangkok です。
バンコックの急激な物価の上昇に加え、円安バーツ高の進行でなんとも辛い状況です。
中でも航空券の高騰は、例の燃油チャージというものを別途徴収するシステム以来、
貧乏人は旅するなとでも言われているような気分です。

さて、バンコックに限らずですが、旅行中に“居場所”ということを時々考えます。
例えばバンコックならバンコックで、僕のことを見知っていてくれる人がいる、
或いはお気に入りの宿や屋台、または場所があるということは、
この街に帰って来る際の喜びと安心感とになるでしょう。
この1年の間に、カオサン・ロードの北側の運河を渡った処にある僕の定宿は
ホテル建設の為に更地にされたようです。
バンラムプー運河を渡ったサムセン通りに
運河に沿って New World Lodge という大きなホテルがあります。
その裏のソイにあった宿の名前は Samsen 2 Guest House。
怪しげなインド人やバングラ人の自称ビジネスマン、若くない娼婦、
パキスタン人の太った娼婦、酷く美しいニューハーフ、
そんな人達が定宿にしている楽しいゲストハウスだったのですが。
その界隈の屋台は相変わらずしぶとく営業しているようで喜ばしいのですが、
なにしろ目の前は建設現場、なんとも情緒の無い光景になってしまいました。

ところで、そんな淋しさに追い討ちを掛けるように、
この街で初めて、病院のお世話に成ってしまいました。
屋台で食べた魚のフライが良くなかったのでしょうか。
20年近くこの街に出入りしていて初めての経験です。
まあ、丸1日苦しんだだけで大事には至らず、
明日にはこの国を出ることになります。
もう一度この街に戻ってくるのは、おそらく2ヶ月くらい先のことになりそうです。

by 没関系

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by meiguanxi | 2007-06-15 18:40 | Air Mail
from Tokyo : 旅立ち
b0049671_1441296.jpg                             2007. 6.11

旅に出ます。
実に7年振りの本格的な旅立ちです。
ここのところ、緩慢な更新だったのですが、
紙焼きの写真をスキャンしている僕の更新には結構それなりの時間を要します。
実際、気も漫ろでそれどころではなかったのが事実です。
ところで昔とは違い、
今ではネットでその途上から情報を発信できる世の中に成りました。
でも、世界にはインターネットはおろか、電気さえ通じない地域だって未だに少なくありません。
旅の間も時には消息をお伝えしたいと思っていますが、
今回ばかりはあまり当てに出来そうにありません。
いや、そういう旅ができるかどうか、
実のところ今の僕にはあまり自信もないのですが(笑)
さて、出掛けます。
勝手ですが、このページを長い目で見守って頂けると幸いです。
ま、明朝、寝坊しなければね^^

                                                                 by 没関系
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by meiguanxi | 2007-06-11 20:07 | Air Mail