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from Leh : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #3
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                          2007年7月7日

その1
その2の続き

 オランダ人婦人たちを残して先に峠を下り始めたのだが、これを下り切ると狭い谷路になっていて、トレイルは消え川原を歩くことになる。岩と石だらけの川原だが、峠路に比べればずっと穏やかなものだ。谷の幅は20~30m、流れはほんの1m程の細いものだ。両側は砂山の断崖で、物音ひとつしない淋しい場所だ。なんとなく“賽の河原”などという言葉を思い浮かべる。
 しばらく行った所で後方のトゥクテンが止まった。この日何回目かの荷崩れを起こしたのだ。例によって僕の馬を曳く甥の馬方は彼を手伝いに行った。この時、何故か馬は小便をした。それが谷中に響くような轟音とともに物凄い量の小便なのだ。馬は谷の下流を向いているので、その黄色い流れは馬の4足の間を抜けて前方に流れた。馬の首の右側、山側の既に斜面になっている所に曳綱が無造作に置かれていた。その上には若い馬方の小さなリュック、更にそれには彼が持って歩いてくれている僕の杖が乗っていた。リンシェットのゴンパで拝借した例のポプラの裸枝だ。僕はそれらが小便に濡れるのではないかと気になった。しかしビシャビシャになるのならともかく、考えてみれば馬方たちがそのような多少のことを気にするとも思えなかった。だがこの時、僕は彼を呼ぶべきだったのだ。
                                               ところで馬というものは隙さえあれば食べて
リンシェット村にて                                   いる動物であるらしい。もちろん羊やヤクだっ
b0049671_7313032.jpgてそうなのかもしれないが、残念ながら僕は草食動物の生態にそんなに詳しい訳ではない。とにかく見ている限り、馬というのはそうした動物であるらしかった。
 この時も僕の乗った馬は左側に僅かに生えた草を食み始めた。草は疎らにほんの僅かしか生えていない。馬は草を求めて首を左後方に反らす。右側の斜面に置いた綱が動く。やがてその上のリュックが倒れ、杖が転がった。おそらくその一瞬だった。一声嘶くと、馬は突然左に旋回しながら走り出したのだ。勿論、リュックの倒れる音と杖の転がる音に驚いたのに違いない。馬というのは非常に臆病な動物でもある。不意を突かれた僕は既に右後方にバランスを崩していた。掴んでいるのは木製の蔵の端に過ぎない。
 「ここで終わるのか?!」僕の脳裏にそういう恐怖が走る。なにしろ下は大きな石だらけの川原であり、そちこちに岩も転がっている。しかも既にバランスを崩しているのだ。「落ちるべきだ!」次の一瞬、確かにそう思ったように記憶している。この状況では早晩振り落とされるのは必死だ。そうであるなら少なくとも自分の意思で落ちた方がまだしもマシかもしれない。次の一瞬、「ここだ!」と思った記憶がある。少なくともその瞬間に僕の視野に入った直下に大きな岩が無かったように思ったのだろう。
 勿論これら「終わるのか」「落ちるべきだ」「ここだ」は連続したほんの一瞬のことであるので、もしかしたら順番が逆だったり或いは同時だったりしたのかもしれない。そしてこの「ここだ」という判断が本当に正しいという確証は何処にも無かった。むしろそれは「終わり」をほんの数秒こちらに引き寄せる結果になるのかもしれなかった。だがこの時、僕は躊躇することなく石と岩だらけの川原に、走る馬の背から右後方に落ちたのだ。勿論それは半ばは振り落とされたのでもあるのだが、しかし半ばは明確な意思を持って自ら落ちたのでもある。
 だが不幸なことに…そもそも僕はどうしてこんな場所で馬などに乗っていたのであるか。もちろん足首を負傷していたからだ。その足首から爪先は大きく腫れ上がり、紐を最大限に緩めてもトレッキング・シューズの中に足を納めるのは至難の業だったのだ。そう、大きく膨らんだ右足のトレッキング・シューズが鐙(あぶみ)から抜けない。落ちと思った次の瞬間には、右足首を鐙に絡め取られた状態で、走り続ける馬に引き摺られていた。くどいようだが下は石と岩だらけの川原だ。僕は必死でその右脚を押えようとしていたように思う。
                                               後で分かることだが、そのようにして僕はお
ハヌマ・ラ(峠:4750m)からシンシェットを振り返る             よそ15mほど引き摺られた。その時、なぜ馬
b0049671_10363740.jpgが止まったのか、僕には分からなかった。というよりもそんなことに頓着する余裕など全く無かったのだ。これも後で知ることだが、若い馬方がロープに飛びついてくれたらしく、彼は小指を突き指していた。
 だがそんなことに思いを致す余裕を持たない僕は、今自分に起きた現実すらうまく把握できず、何処から来るのかも分からない痛みと、何よりも全身を支配した恐怖と闘っていた。ウォーウォーと意味も無く叫ぶ僕に駆け寄ったトゥクテンは、力の限りに僕を抱きしめ、上体を起こそうとした。その様子がむしろ、大変なことが起きたのだということを僕に自覚させた。しかしそれにしても、この人はなぜ僕の上体を起こそうとしているのか。全く冷静さを取り戻せない意識の中で、僕はそんなことを思っていた。無理だから寝かせてくれ、僕は漸くそう言葉にした。まだ痛みが何処から来るもので、何処に問題があり無いのか、全く自分自身で把握できないのだ。
 やがてその痛みは左肘と右臀部脇からくるらしいことが理解できる。そこを見ると激しい擦傷に血が滲み、或いは流れている。実は同じような傷は左股間や尻の上の割目その他にもあったのだが、この時にはまだ気付かなかった。だが問題は、それらの傷を確かめるために見ようとすると右肋骨と右腰椎、それに右肩甲骨が激しく痛むということだった。肋骨と椎間板くらいは折れたのかもしれない。
 頭は打っていない、そう思った。それが確かなことなのかどうか、今もって分からない。とにかく打った記憶も症状も無かった。大丈夫だ、僕は自分に言い聞かせた。そして横に置かれたサブザック―そう、このザックを背負っていなかったらもっと酷いことに成っていた筈だ―から一眼レフのアナログ・カメラを取り出し、その動作を確認した。問題ない。次に腰に着けたポーチからデジカメを取り出して同じように動かしてみる。これも問題なかった。それにしてもあの落下とそれに続く引き摺られた衝撃で、特にザックの中の一眼レフが傷ひとつ負わなかったというのは奇跡に近い。
 だが、僕は何をやっているのだ。今問題なのはカメラなどではない。己の身体なのだ。全く冷静などではなかった。僕は傷の手当てをすることにすら思い至らずに、荷直しをする2人の馬方と馬とを眺めていたのだ。トゥクテンがやって来て「Go?」と訊く。それは訊いたのかそれとも「行くぞ」と言ったのか僕には良く分からなかったけれど、しかしそれにしてもこの人はいったい何を言っているのだ。僕はたった今馬から落ちて、もしかしたらそちらこちらを骨折しているかもしれないのだ。幸いにも頭や内臓にはおそらく問題は無さそうだとはいものの、僕は荷物ではない。乗り直してすぐに出発などできる筈がないではないか。
                                               だがそれについては何も言わず、この時に
ハヌマ・ラから来た路を見下ろす                          なって漸く僕はメインザックの中に薬が入って
b0049671_738211.jpgいるということをトゥクテンに伝えた。トゥクテンは驚いたように「今か?今要るのか?」と訊いた。気持ちは分からないでもない。崩れた荷を漸く直し終えたばかりなのだ。その為には結構な労力を必要とする。なによりそれを僕は眺めていたのだ。薬を取り出すためにはその荷を全て解かなければならない。それは分かった。しかし僕はなにも意地悪で眺めていた訳ではないのだ。傷の消毒をするために今以後、より適切で有効な時間がもし存在するのなら是非とも教えてほしいものだ、正直なとこと僕はそう思った。だがこの時の僕にはそのように誰かを罵ったり攻めたりするようなエネルギーなど爪の先ほども無かった。「そう、今だ」と力無く伝えるのが精一杯だった。
 メインザックから取り出した消毒薬を左肘と右大腿部、それと左股間に吹き付ける。本当は薬の入ったポーチにはガーゼや包帯、絆創膏なども入っていたのだが、不思議なことにこの時の僕はそれらを使うことに全く思い至らなかった。ただポケットから取り出したバンダナを、右手と口とを使って左肘に縛り付けただけだった。
 トゥクテンがもう一度「Go?」と訊いた。お願いだからもう30分だけ休ませてくれ、と僕は答えた。その30分という時間に何かの意味があるわけではない。とにかく冷静さを取り戻す必要があったし、もう一度馬に乗って移動を再開するにはそれなりの覚悟と決意、勇気とを必要としたのだ。馬方たちはちょっと困ったような表情をした。僕は若い馬方に向かって静かに、本当に小さな声で言った、「これは君が綱を放したことが原因で起きたミスだと思う」と。勿論それを許した(というより彼を呼んだのはトゥクテンなのだ)トゥクテンの責任でもある。では僕自身はどうなのか。確かに、決して綱を放すなと命じるべきだったのだ。馬がおとなしいからと、馬方たちがそうするのだからと、根拠の無い安心をしていた僕の無知が引き起こした事故でもある。だがそれは旅人としての自覚的反省であって、仕事で引き受けている彼らの責任とは全く別のところにある問題だ。
 その30分が過ぎようとした頃、オランダ人婦人たちが彼女たちのガイド(もちろん英語を話す)を伴って追い付いて来た。彼女たちは熱心に事情を訊いたが、流石にこの状況で彼女たちにできることは殆ど無かった。表面的な傷の消毒も既に終えているのだ。彼女たちは心配そうに暫くそこに留まっていたが、やがて僕に何か声を掛けると先に進んで行った。
 彼女たちが行ってしまうと僕は取り残されたような気持ちになったが、逆に「行くしかないだろう」という気持ちも少し湧いてきた。そう、行くしかないのだ。たとえ今現在、この身体がどんなことに成っているのだとしても、ここでじっとしている訳にはいかないし、じっとしていても何かがどうにか成る訳ではない。仮に動くのは危険な状態なのだとしてもだ。休める場所は先にしかないし、病院は遥か先なのだ。
                                               だがこの後の路は危険を極め、川原の先は
袋に入れられた子馬(ネルツェ出発時)                     残雪と崖崩れとでトレイルは壊れ、大きな岩
b0049671_74238.jpgの割れ目や段差を下らなければならなかったりした。馬から全ての荷物を下ろし、馬方たちがそれを5m下の岩の下に下ろす。僕は杖を突いてその岩を一歩ずつゆっくりと降りる。健康でも危険な落差だ。この時、ここは非常な難所に成っていて、逆方向に谷を登って来たインド人の2頭の馬がどうしてもこの岩を登ろうとしない。うち1頭は足を滑らせて5m下の沢に落ちた。馬は転ぶことはなかったが、もしトレイル上で同じような起これば僕はひとたまりもなく谷底に転落するだろう。いずれにせよ、今の僕は無能なほどに無力だった。馬方たちがいなければ何もできないし、僅かずつ進むことすらできないのだ。
 この後も何ヶ所か同じように馬を下りて自力で歩かなければならない場所があった。最も危険な場所を、杖を突いてそちらこちらの痛みに耐えながら下ったのだ。少し表現が自分に対して同情的に過ぎるだろうか。そうであるかもしれない。だが実際にはこの時、自分に同情する余裕など精神的にも肉体的にも無かった。ただ必死で耐えていただけなのだ。
 この日のキャンプ地は谷が棘のある潅木の林になり、その枝を腕で除けながら少し登った狭い丘の上にあった。石積みの小屋が一軒あり、茶屋になっている。その中の狭い土間は暗く、そして非常に汚れていて、無数の蝿が飛び回っていた。大概の汚い場所なら慣れてもいたが、流石にこの時にはこの小屋の中に腰を下ろす気持ちにはなれなかった。ヤクを放牧しているので、テントを張るのにもその糞を足で退かさなければならないようなん場所だった。通って来た谷の奥から轟々と風が吹き抜けていた。
 食事は自分で作るのがこのトレッキングの契約だったが、この時ばかりは気を利かせたトゥクテンが「何か食べるか?」と訊いてきた。だが僕は「何も要らない」と答える。「メギー(マサラ味のインスタントラーメン)でも作ろうか?」と彼は更に言う。「明日の朝、何か食べるから」と僕は断る。食欲などというものは身体中の何処を探しても見付からなかった。ただ常に吹き付ける強い風と寒さ、このカルカの決して美しいとは言えない状態、そちらこちらの痛み、そしてともすると陥りそうになるある種の絶望感とに耐えていたのだった。気分の助けに成ってくれたのは今のところ、タバコと、お湯を貰って入れたネスカフェだけだった。月は、この季節の北西インドの上空から完全に姿を消して久しかった。        (つづく
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by meiguanxi | 2007-07-27 20:08 | Air Mail
from Leh : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #2
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                       2007年7月6日~7日

この手紙の続き

 それにしてもトレイルを踏み外すとか落石に当たるとか、馬に突き飛ばされるとか子供を助けようとして怪我をしたとかならまだ格好もつくが、幾ら丸まった危険な石が使われていたとはいえ、ゴンパの石段で躓いて足首を痛めたのだとあってはどうにも間抜けだ。しかもトレッキングの最中に、こんなにも隔絶された場所で。
 怪我をした翌日、ゴンパのキャンプ地に泊まっていたドイツ人カップルが、続いて200m下にキャンプを張っていた例のオランダ人婦人たちが相次いで僕に声を掛けてテントの前を通り過ぎて行った。僕は1人でテントも持たずに歩いていたコロンビア人の姿が見えないことを気にしていた。彼は頑強そうに見えたが、厳しいトレイルにかなり参っているように見えたからだ。
                                               だが気にすべきは自分の足と今後だった。
リンシェット村入口峠のチョルテン                         この日はとにかく停滞にして、キャンプ下の細
b0049671_10404750.jpgい用水で足を冷やしたり、向かいの婆さんの家に上がり込んだりして過ごす。この家は面白い構造をしていて、おそらくチベットでは珍しくはないのだが、2階の中央部分が屋上のように成っていて、片側のひさしの下に釜戸まどがる。屋上だから土間なのだが、この青天井が彼女の居間兼食堂でもあるらしかった。汚いと言えば確かに汚い。だが彼女自身もその服も埃だらけで真っ黒なのだ。
 午後、馬方のトゥクテンが僕のテントに来る。彼には取り合えず4・5日は動けないと伝えてあったのだが、彼はもう1頭馬を雇ってはどうかと提案に来たのだ。言い忘れていたが、彼は基本的には英語は話せない。幾つかの簡単な単語を並べるだけの会話だ。馬に乗る、それは僕も考えていたことではあった。だがこれは後で分かったことなのだが、彼には僕とのトレッキングを15日に終えた後、23日にはまたラマユルからの新しいトレッキングの予定が入っていた。そのためにはザンスカールの中心パドゥムから7kmの彼の村を、17日には馬を連れて出なければならなかったのだ。僕としては日程を延ばしたくはなかったが、パドゥム以後、その西側を歩く予定の6日間をキャンセルすればなんとかなるかもしないと考えていた。勿論、念願のカルシャの祭りはこの際、もう無理だと諦めていた。だがそれにしても雨で既に1日失い、今日で2日目の停滞だった。
 夕方、僕は馬を雇うことを決める。今日が6日、車の通るザンラまで3日、上手くすればその日のうちにパドゥムまでのジープなりを見つけられるかもしれない。病院に行って、もし骨に問題が無ければ11・12日のカルシャの祭りに間に合うかもしれない。勿論、その間の村は飛ばしてしまうことになるが、それはこの際やむを得ない。やれやれ、諦めが悪いのだ。
 しかし実際には足の状態は非常に宜しくなかった。足を冷やしに用水まで行くのにも、5mほど斜面を下ればよい所を右に20m、左に同じ距離といった具合に迂回しなければならなかった。食事の仕度のためや飲料水を沸かすための水を汲みに行く場所はテントから20mほど斜面を登った所にあったが、この足でそこへ行くためには70mくらいは歩かなければならなかった。それらの行為は非常に困難で、そして疲労を伴うことだった。歩いて峠を越えることはもとより、数日間馬に乗るなどということも今は避けるべきなのかもしれない。もし出来るのであれば。
                                               夜、トゥクテンが渋い顔をしてやって来た。
リンシェット・ゴンパ(左上)とテント                        彼は妹の旦那の実家(それは数百m先に見
b0049671_10413278.jpgえる隣家だった)に馬を借りに行ったのだが、その馬には先に予定があるらしく2日間しか借りられないという。その馬を曳く馬方は彼の若い甥が勤めてくれるらしいが、3日目の1日を掛けてこの村に戻らなければならないのだと。この村で他の馬を探せるのかどうか、それについてはコミュニケーションが上手く取れないので分からない。とにかく今は、この馬しか僕のために動いてくれる馬を見付けられない。やれやれ、この先2日間のキャンプ地は村ですらないのだ。だがトゥクテンは3日目は峠も無いフラットな路なので、荷物を1頭の馬に載せてもう1頭に僕を乗せるから大丈夫だと言う。とにかく僕には、回復するかどうか定かではない数日をここで無為に過ごすか、或いは2日先のカルカでしかない場所に向けて進むしかないのだ。
 翌朝、何時ものように5時半に目覚める。間もなくトゥクテンがまたもや渋い顔でやって来る。おはようを言うなり次の言葉が「プロブレム」だった。なんとしたことか、未明に彼の連れて来た2頭の馬のうちの1頭が子供を産んだというのだ。妊娠していたことはラマユルで見た時から知っていた。いつ生まれるのかとの問いに、彼はちゃんとした回答をせずに困ったような表情をしていた。英語が上手く通じないのか、或いはまだ先のことではっきりしないのかだと僕は思っていた。だがその少し困ったような曖昧な表情は、今日明日にでも生まれてもおかしくないという意味だったのだ。やれやれ、僕はレーの町でちゃんとしたエイジェンシーを通して馬と馬方とを手配したのだ。その辺の路上でそこらの農家に声を掛けた訳ではない。何故トレッキング中に子供が生まれてしまうような馬が準備されなければならないのだ。或いは僕はエイジェントに確認するべきだったのだろうか。「その馬は妊娠なんかしてないですよね?」と…やれやれ
 トゥクテンは「ディス・トレッキング・ヴェリー・プロブレム」と言った。確かに怪我をしてしまったのは完璧に僕のミスだ。だが馬が子供を産むに至っては、彼がそれを言うのはどんなものなのだろう。だが僕は黙っていた。生まれてしまったものはここで文句を言っても何かがどうにか成るわけではないのだ。今日は出発できないのかという僕の問いに、彼はただ渋い顔で困ったように首を振るばかりではっきりした答えを出さない。
 馬は30mほど斜面を登った彼の妹の家の前の囲いにいる筈だった。僕は100mくらい迂回してゆっくりとそこまで登ってみた。なるほどそこには生まれたばかりで、まだしっかりと立っていることすら覚束ないような子馬が、母馬の乳を探してヨチヨチしていた。今日は駄目なのだな、と僕は静かに思った。そうなると親戚の馬も使えないということになる。仕方なく子馬の写真など撮ろうとしていると突然、トゥクテンが言った。「Go!」
                                               どうも上手く言葉が通じないというのは戸惑
リンシェット村の民家の屋上兼居間                       うことが多い。何を彼の親戚たちと相談したの
b0049671_10421471.jpgか、彼はいきなり出発すると言い出したのだ。そして僕の返事を聞くこともなく、2頭の彼の馬と子馬、親戚から借りた新しい馬を斜面に追い立ててテントの方に下りて行ってしまった。僕が呆気にとられながらも、また100mの踏跡を迂回して下に降りた時には、既に荷造りが始まっていた。僕は痛む足を庇いながら大慌てでテントを畳む。子馬は親馬に駆けられた袋の中に、4足を縛られて入れられた。まるでカンガルーの子状態だ。でなくとも2頭の馬では厳しいくらいの荷物だった上に子馬だ。2頭の馬、特に子供を乗せた方ではない方の馬の荷物は大変なものになった。
 僕の乗る馬は白馬だった。ちゃんと鐙(あぶみ)も付いていたが、鞍は木製で、その盛り上がった前の部分を掴むようになっている。正直に言って不安定だ。僕は椎名誠ではないのだ。馬などに日頃乗りつけている訳ではない。出発して直ぐに荷馬が荷崩れをおこした。僕の馬を曳く若い馬方は曳綱を僕に預けると、荷直しをするトゥクテンを手伝いに行った。そんな物を預けられても僕は馬上で、しかも飛び降りることも儘ならぬ怪我人なのだ。やれやれ。
 路はこれまでよりも遥かに厳しいように思われた。村を出る最初の小さな峠、といってもかなり高いのだが、その峠の下りに差し掛かった時、僕は思わず「インポッシブル!」と叫んだ。下りでは腰を前にずらし、上体を後ろに反らして垂直を保つ。右手で鞍を握り、身体が前にのめらないように左手でその右手を突っ張る。これは教えられたことではなく、そうしないことにはバランスを保てないのだ。
 馬方の若者は「ノープロブレム」と言う。しかし、もしこれがプロブレムでないとするならプロブレムとはいったいどのような状況を言うのか。後ろに反らせた僕の背中は馬のそれにくっ付かんばかりで、馬の頭はほぼ垂直に前方に傾いていた。その先には少なくとも数百mの断崖。あまりに斜度がきつ過ぎて下が見えない程だ。僕は荷物ではないのだから、馬に括り付けられている訳ではない。実際、馬は幾度も足を滑らせた。馬が滑落することはなくとも、僕がバランスを、不幸なことに谷川に崩したなら、自力で元に戻ることはとても不可能に思えた。
 真っ当な神経なら降りて歩くべきだし、この恐怖心を素直に受け入れて降りることが冷静な理性というものだ。この状況でなお馬上に留まることは、むしろ狂気の沙汰であるように思われる。僕は馬に乗って出発したことを早くも後悔していた。僕がそれでも馬上に留まったのは、もちろん自力では歩けないからに他ならない。他に選択肢が無かったのだ。もし性格の悪い神が、もう1度だけたった1時間で良いからあの路を馬に乗ることと、今後1年間の通勤に一切の乗り物を使わないこととどちらかを選択せよと命じたのならば、僕は躊躇無く1年間歩くことを選ぶ。確かに僕は多少高所恐怖症の気はあるが、これは僕が非常に臆病者だからではなく、馬で通るには本当に生きた心地のしない路だったのだ。
                                               峠を下り切ると直ぐに次の登りが始まる。大
リンシェット村の子供                                 きな砂山で、もちろん危険極まりない路だ。ト
b0049671_7264912.jpgレイルの幅は20~30cm、山側・谷側両方の殆ど踏まれていない部分を含めたとしても精々40~50cm程度で、トレイル自体が谷側に傾いている。その大きな峠を下り切った所に小さな沢が流れていて、直ぐにまた登りになる。これが4750mの峠への登りだ。とにかく上っては激しく下り、下ってはひたすた登るというのがこの日のルートだった。
 頂上付近から振り返ると、うねうねと続く山並みの遥か遠くに、リンシェットのゴンパと村の緑が小さく見える。なんていう路なんだ、とつくずく思い知らされる。
 風と揺れとに堪えながら頂上を目指していると、その頂上からこちらにカメラを向けている西洋人がいる。やれやれ、格好の被写体になってしまった。と、登っていくとそのカメラを構えていたのはあのオランダ人婦人たちではないか。彼女たちは余りの路の厳しさに、前の沢で1泊したのだという。彼女たちは2人の他にガイドとキッチンボーイ、馬方3人と7頭の馬という大編成なのだが、もし僕があの狭い谷に馬方と2人でテントを張ったのなら、淋しさの余り泣き出してしまったかもしれない。西洋人のおばさんはひたすらに明るく、そしてどこまでも強いのだ。
 峠は登りから1歩を踏み出せば向こう側の断崖という鋭角な場所で、高齢の方の婦人は岩陰で強風に堪えるようにしながら、ドライ・アプリコットを差し出してくれた。オランダから持ってきた貴重なものだ。どんなに辞退しても、スペシャル・ヴィタミンだからもっと食べろと言ってきかない。そういう自分が風に震えているのだ。そう、この日は曇りがちの1日で、陽が射せばあれほど肌を焼く気候が、一旦曇るとそれなりの服を着ていても震えるほどに冷え込む。写真を送るからと彼女たちは僕の住所を訊いた。今夜のキャンプ地は僕より少し先のようだった。
 彼女たちに別れを告げて峠を下り始める。彼女たちに会ったことで僕は少し元気を取り戻していた。下りはもちろん厳しかったけれど、しかし、僕にとって現実的な危険と本当の意味での危機は、このような危うい路にあるのではなかったのだ。 (つづく
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by meiguanxi | 2007-07-25 20:02 | Air Mail
from Leh : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                   2007年6月30日~7月6日

 ラダックからザンスカールへのトレッキングは、例えばネパールのアンナプルナやクーンブ(エヴェレスト方面)へのそれとは全く様相を異にする。ネパールでは1日の行程は4・5時間程度、1日の標高差(登り)はせいぜい500m程で、これが高所障害を避けるための高度差だとされている。確かにクーンブに至るいわゆるエヴェレスト街道と呼ばれるソル地方では1日の行程は8時間ほどにも及ぶが、ザンスカールに比べたらハイキングのよぷなものだと今は感じている。
 人を寄せ付けないような断崖に建つその姿で有名なゴンパ(チベット僧院)と、その荒涼とした景観が月世界とも例えられるラマユル(標高3540m)は、ラダックの中心レーから東に120数kmにある。カシミールからレーに至る街道は以前、この僧院のすぐ北側の断崖を通過しており、そこからの景観がラマユルの映像的印象にも成っていたものだが、今は狭い谷の岩山を穿った新道が開通し、道は僧院の断崖の下の村の中を通過している。旅行者にとってのラマユルの映像的印象も昔とは変わってきているのかもしれない。
                                               ザンスカールへのトレッキングはここから始
ラマユル・ゴンパ                                    まる。馬2頭と馬方1人との旅の始まりだ。馬b0049671_10484519.jpg方の名前はトゥクテン、40歳。僕より少し若く背は低いが、大きな掌をした山の男だ。第1日目、トレイルは荒涼とした険しい砂山を登る。登り切った峠からは岩山と砂山の間の、雨が降れば水の通り道になるのだろう狭い谷をまるで迷路のように下る。初日のキャンプ地ワンラまでは、道は険しいものの難なく着くことができた。ワンラは薄乳緑色の比較的大きな沢が流れる気持ちの良い場所で、何よりも村の断崖の上に建つゴンパの、ほんの小さな本堂の中の塑像と壁画の素晴らしさに疲れも忘れる思いだった。
 2日目はひたすらの登り。だがワンラが3170mと低いためになかなか標高は稼げない。途中までは調子が良かったのだが、充分に高度に順応していないためか途中から肩甲骨の間に痺れを感じ、歩行を困難なものにする。この日のキャンプ地はハヌパタという村を通り過ぎた谷の突き当たりなのだが、僕はその1km程手前にテントを張ることにした。どちらにしても村からは離れているただのキャンプ地だ。とにかく日差しが強い。周囲にはそれを避けるための物は無く、勿論テントの中などにいることは出来ない。外でジリジリと陽光に焼かれるしかないのだ。
                                               3日目もひたすらの登り。この日は大きな峠
ワンラからの路                                     を越えなければならないのだが、この峠の悪
b0049671_10491611.jpgいところは、あそこが峠かと思って登りつめると道は更に上に向かって続いているという繰り返しだということだ。ひたすら登ったカルカのテント茶屋で、その先に初めて見えた本当の峠を目の当たりにした時、僕は思わずへたり込んでしまった。変な例えだが蛙の水掻きを思い起こしてほしい。指が山で水掻きの中央が峠だ。こちら側とあちら側の幅は至って狭いのだが、まるで屏風のような急な登り、そしてその向こうは急激な断崖の下り。雨が降り始めていた。背中は昨日以上に痛む。だが、1歩ずつ進めば何時かは向こう側に辿り着けるのだと自分に言い聞かせ、泣くような思いで歩を進める。漸くの思いで登りつめた4990mの峠の向こうは砂の断崖。上から見下ろすと、いったいどうやって下るのだと恐怖すら感じるような断崖だ。
 これを下り切るとポタクサルとう村の外れに着く。キャンプチは村の手前1km程の、沢脇の湿地。コースは村を通らずこの沢を対岸に渡り、向かいの山を迂回して行くのだという。僕はその湿地を避け、対岸の山道を登り始めた。馬方は1時間で別のキャンプ地に着くと言ったのだが、きつい登りを必死で登って1時間半たっぷりと掛かった。そこは対岸の村を200mほど眼下に見下ろす高台のカルカで、テント茶屋が1軒あるだけの場所だ。轟々と風だけが吹き抜けている。
 翌日は朝からの雨で停滞することにする。次はこのコースの最高標高5060mの峠を越えなければならいのだ。
 その翌日、道は大きな谷の奥へと山腹を、また河原を進んでいく。しかし、高い場所で振り返ると一向に前に超えた峠の高さに至らない。谷を遡っているにも拘らず、一向に標高を稼げないようだ。正面には峠がはっきりと見える。やはり屏風のようにそそり立つ峠だ。そこからは残雪がこちら側に迫り出している。いったいどうやって登るのだ。漸く直下まで来てみると、それは砂の断崖だった。いったい砂がこんなに鋭角にどうしたらそそり立っていられるのか不思議なくらいだ。そこをトレイルは「く」の字型に登っている。迫り出した残雪が雪崩でもしたらお仕舞だ。
                                               標高5060mの向こうはやはり断崖の下り
ポタクサルのカルカ                                  で、馬方の姿は既に見えない。幸い他のトレ
b0049671_1050196.jpgッカーの馬隊(6頭)が同じ時間に峠に差し掛かったので一緒に下り始めるが、あっという間に取り残されてしまう。下り切ってみるとそこにキャンプ地があったが、打ち捨てられた崩れた小屋が1軒あるだけで誰もいない。例の馬隊もいない。トレイルはそこから上り返して続いているようだが、見ると遥か向こうの山陰に道は消えている。その間、誰もいない、何も見えない。なぜ馬方はこういう大事な場所で待ってくれないのだろうか。しばらくその淋しいトレイルを進むが、道は更に別の山を回りこんでいるようだ。幸い向こうから地元の人が2・3頭の馬を連れてやって来る。言葉は通じないが地名と指差しだけの会話で、進んでいる道が間違いないことだけは分かる。実はこの日のキャンプ地には地図上にもガイドブックにも地名がなく、僕は峠直下がそうだと思っていたのだ。老人が向こうからマニ車を回しながらやって来る。いったいこんな夕暮れの時間に、どうしてこんな老人がこんな場所を歩いていなければならないのか不思議だが、とにかく地名と指差し会話だ。訊いたのは翌日のキャンプ地である村。間違いはない。遥か下に村が見える。それはコースから外れる村なのだが、このまま馬方とはぐれたままだったらあの村に下りようと思う。それにしても下るまでに1時間半は掛かりそうだ。
 次の尾根を回り込んだ時、そこに10頭くらいの馬を休ませている一団がいた。2頭の馬と馬方を知らないかと尋ねると、すくその先にいると教えてくれる。更に少し回り込んだトレイル上の狭い平地に馬方のテントと別のトレッカーの馬隊がいた。トゥクテンのテントは1枚の大きなビニールシートの端に支柱を立てて入り口にし、四方に直接ペグを打ち込むというワイルドなものだ。僕は彼に近寄り言った。どんなに早く先に行っても良いが、大事な所で見えなくなるのは困る。僕はルートを知らないのだから。彼はOKと頷いた。確かに彼はガイドではないし、馬方というものはトレッカーのペーストとは関係なく進むものだということは知っているのだが、少し我侭を言えば我々は二人きりなのだ。大事な所では方向を示してもらわないことには時に困ったことになる。特に今日のようにキャンプ地が村ではないような場合には。
                                               翌日は幾つかの緩やかな峠を越えてリンシ
シンゲ・ラ(峠:5060m)                              ェットという民家85軒ほどのこのコース途上で
b0049671_10503416.jpg最も大きな村に向かう。ここがコースの中間点でもある。村は三方を断崖の山に囲まれたすり鉢状の土地に広がっている。三方の山から谷に向かって民家が点在しているのだが、谷は深く、両岸は垂直の岩の壁。村に出入りするには周りを取り囲む高い峠を越えるしかない。
 村を見下ろせる最後の峠に差し掛かった時、既に下方にトゥクテンの姿は無かった。やれやれ。だが幸いなことに断崖の道を村に向かって下りて行って最初に出会うのがゴンパであるらしい。その横は綺麗に整地された広い平地に成っていて、どうやらそこがキャンプ地であるらしい。例の馬隊が見える。そこまでの道は下に下りて見上げると大したことがないように見えるのだが、上から見下ろすと果てしなく遠く険しい下りに見える。実際それは狭い危険なトレイルだった。
 トゥクテンはゴンパの木陰にいた。彼はゴンパ横のこのキャンプ地ではなく、谷の向こうに見える家の前にテントを張るという。見ると直線で500m程だろうか、彼の指す方向に数件の民家が見える。彼の姉の嫁ぎ先なのだそうだ。ゴンパ横のキャンプ地には石積みの売店兼茶屋もあり、整地もされていて水場も近く気持ちが良さそうだったのだが、まあ、そういうのならそれも良かろうと承諾する。彼は先に姉の家に、僕はゴンパに寄ることにした。
 さて、ここまで長々と読んで下さった皆さんには大変に申し訳ないのだが、実はここまでは前書きなのだ。
 ゴンパ基底部はまるで廃墟か遺跡のようで、石積みと土で塗り固められた狭い通路が通っている。6.7段の階段の石は河原から持ってきた物か、ツルツルに丸まっていて非常に危険だ。だが若い僧侶たちはなんなく走って上り下りしている。本堂を見学させてもらった後、その階段や通路の様子を写真に撮ろうと階段の上からカメラを構えるが、フレームの中に収めてしまうと何か今ひとつピンとこない。そこで下からのアングルを試してみることにした。トレッキング中、特に狭いトレイルを歩いている時など2つの事を同時にするな、と常日頃自分に言い聞かせている。例えばキョロキョロするのなら歩を止めるとか、そういうことだ。だがこの時、場所がゴンパの中だということで注意が散漫になってしまったのだろう。おそらく僕はカメラのスイッチだかレンズキャップだかを気にしながらその階段を下った。そして右足が滑った。
 その場に座り込むが右足首の余りの痛さに声も出ない。小坊主達が集まってくる。だが動けない。暫く座っていたが埒が明かないので、とにかくキャンプ地まで行こうと立ち上がるが、殆ど歩けない。ゴンパの裏に積んであったポプラの裸にされた枝(それはおそらく建築材として、天井を葺くのに使われるものだ)から適当な長さの物を拝借し、杖にする。ところが道が良く分からない。僧侶に聞くとここを下りて行けというのだが、それは道でもないような断崖だったりすのだ。手を貸してくれたり何処かに連絡してくれそうな様子は無い。或いは僕は頼むべきだったのかもしれないが。
 トゥクテンのテントの手前200mほどの沢の横の民家に綺麗なテントが見える。きっと西洋人のトレッカーだろう。そこまでトレイル上で3・400mだろうか。しかしそこまでが断崖なのだ。暫く歩いては、トゥクテンのテントに向かって杖を振ってみるということを繰り返したが、そこに立っているように見える人影は僕に気付かない。何回目だろうか、漸く気付いたらしいトゥクテンがこちらに向かって歩き始めたのが見える。彼がその5・600mを歩いて僕の所に辿り着くまでに、僕はおそらく30mも進めなかった。
 彼は事情を聞いて驚いたり困ったりしたが、肩を貸してくれるとか馬を連れてくるとかはしようとはしなかった。杖を突いている右腕を支えたりしている。そんなことをされてもかえって邪魔になるだけなのだが。或いは僕は頼むべきだったのかもしれない。肩をかしてくれと。或いは馬を連れてきてくれと。だがいずれにしてもトレイルは狭く、所々は岩の上を下らなければならず、肩を組んだ2人がずっと並んで歩くには危険すぎたかもしれない。
 なんとか沢まで降りて来ると、そこにテントを張っていたのはやはり西洋人だった。後で分かることだが、オランダ人の2人の婦人。1人は50代半ば、もう1人は60を越しているように見えた。彼女たちは馬方の他にガイドと数人のポーター、キッチンボーイを連れていて、厳しい道とはいえ優雅なトレッキングをしているのだった。彼女たちは飲料用に引かれた用水の流れに足を晒すように言った。トレッキング・シューズを脱ぐと腫れるだろうからそのままでと。10分間、そうやって僕は右足を流水に晒した。その後、彼女たちは靴を脱がせ、何かの軟膏を足に塗ると丁寧に包帯を巻いてくれた。骨はどうか、と彼女たちは尋ねた。多分、骨は大丈夫だと思うと僕は答える。おそらく明日は物凄く腫れるだろう、と彼女たちは言った。4・5日は安静にしなくちゃね、時間はあるの?と彼女たちは訊いた。そして消炎剤の入った痛み止めを3日分くれた。
 そこからなんとか自分のキャンプ地まで辿り着くが、テントの設営やなにやかにや、今は全てがハードワークだった。ただ、彼女たちに出会ったことで、僕は幾分か気が楽になったように思う。もしそうでなかったなら、もっと気が滅入り、不安な思いを抱え込んでいたと思う。
 翌日、キャンプの5mほど下の用水で足を冷やして過ごす。痛みは幾分か治まってきたが、腫れが酷い。関係の無いだろう指先までまるで大きな昆虫の幼虫のように膨らんでいた。足首はまるでアトムやサリーちゃんのようだ。紫、緑、青、まるで曼荼羅のように様々な色が入り乱れていた。さて、これではおそらく4・5日では歩けそうにない。少なくとも険しい峠越えなんて無理だ。後方には5060mを始めとした峠、車道のあるワンラまで健常で4日、更にレーは先だ。前方には4750mを始めとした峠、車道のあるザンラまで4日、そこからザンスカールの中心パドゥムはまだ先だ。
 どうする没関系。 (つづく
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by meiguanxi | 2007-07-23 19:37 | Air Mail