<   2007年 08月 ( 7 )   > この月の画像一覧
ワンラ村とワンラ・ゴンパ(ラダック)
[ カシミール・ラダック略地図 ]
b0049671_19405610.jpg
                                                            ワンラ・ゴンパ

 ワンラの村はラマユルから直線距離では10数kmしか離れていないのだが、トレッキングでは1日の行程になる。ただ、今では車道が通っているので、レーからチャーター車で訪れる旅行者も多い。バスも走ってはいるのだが、週1便しかないようだ。

ラマユルからの登り                                         プリンキティ・ラ(峠:3750m)
b0049671_19415579.jpgb0049671_19423012.jpg


                                     ラマユル村の下の沢をレー方面に村外れまで歩き、谷を登り
ワンラ・ゴンパ本堂                       ながら右折すると一気に緑が消え、ラマユル特有の “月世界”
b0049671_19431997.jpg的風景の土山になる。峠の標高は3750m、富士山に近い高さではあるが、ラマユルが3540mなのでさほどの標高差ではない。峠の先は真っ直ぐに谷を下り、その後は土山が侵食されまるで迷路のようにな場所をひたすら歩く。両側を土山に挟まれた幅1mから数mの、まるで大地に付けられた傷のような場所だ。馬方はどんどん先に進んでしまい、100mも離れると数十分間もその後姿を確認できなかったりする。全く展望の無いこの路を歩いていると、本当に目的地に向かっているのかと不安になるような場所だ。残念ながらこの場所の写真は無い。その場に身を置いている者にとってはとんでもない場所なのだが、写真にしても面白くも美しくもない場所というものがある。巨大迷路の中で撮った写真など誰も見てくれない。勿論、腕にもよるのだろうが。


b0049671_19443456.jpgb0049671_19451278.jpg


 狭い谷の前方を塞ぐ巨大な岩山の手前にチョルテンが見えると、そこが谷の出口で唐突に展望が開ける。勿論より大きな谷に出たわけだが、緑の草の中を美しい小川が流れる気持ちの良い景色だ。この僅かに乳緑色を帯びた細い流れ沿いに数km、少し大きな川との合流地点にワンラ村はある。30軒ほどの小さな村なのだが、旅行者が増えているからか、あまり辺鄙な印象は感じない。ラマユルからは2時間半から4時間程度の行程になるだろう。
 ワンラ・ゴンパの本堂は非常に小さいのだが、多くの僧侶が毎日勤行をしている。本堂入口のゲートには欄間のような彫刻を施した枠組みが美しく、アルチ・チョスコル・ゴンパのスムツェクというお堂と同じカシミール形式だ。内部の三方に巨大な塑像が祀られ、四方の壁面を埋め尽くした仏画の美しさには圧倒される。
 ザンスカールへのトレッキング途上以外の旅行者の殆どはラマユルのついでに車で訪れるようだが、気持ちの良い村でもあるのでできればゆっくり時間を取ってほしい場所だ。

b0049671_1946280.jpg
                                               ワンラからザンスカール方面への路
[PR]
by meiguanxi | 2007-08-30 19:46 | ヒマラヤ・チベット | Comments(0)
ラマユル・センゲガン (ラダック) : 13世紀仏教美術
[ カシミール・ラダック略地図 ]
b0049671_173338100.jpg
                                               ナンパ・ナンツァ(毘盧遮那如来)像

 ラマユル・ゴンパといえばラダックを代表するチベット仏教僧院であり、断崖に建つその姿と背景の「月世界」とも称される光景であまりに有名だ。嘗て僕は1994年に訪れた記憶として、この寺院への道について以下のように書いたことがある。

    リキールアルチを過ぎ暫く走るとレーからカシミールに繋がる道はインダス川左岸に渡り、やがてインダスは
  北の山並みにそれる。(中略)一方、道は荒涼とした山岳地帯に入る。アルチ付近は標高3500mのレー付近より
  低く3200m程度なのだが、ここからテーブル・マウンテンが折り重なったような断崖を九十九折りに道は標高を上
  げる。レーから124km、10世紀カギュ派のラマユル・ゴンパは標高4000mの高地に建つ。


村からのラマユル・ゴンパ                                      ラマユル・ゴンパからの景観
b0049671_17345241.jpgb0049671_17392669.jpg


 だが2007年に再訪すると、ラマユルへの道は大きく変わっていた。インダス本流から反れた道は荒涼とした岩山を九十九折に登るのではく、狭い支流を挟みこむ岩山に穿った新道ができていたのだ。道はラマユルの村を過ぎると断崖を登り旧道と合流する。村には入らずゴンパ北側の断崖の上を走る旧道には数件の食堂が並び、必ずそこで停まるバスやトラックで賑わっていたのだが、今それらの建物は天井が落ち壁は崩れ、荒涼とした風景の中に何かの遺跡のように打ち捨てられていた。ラマユル・ゴンパと言えばこのトラックストップ方向からの印象的な景観(参照)が定着していたのだが、今や多くの旅行者の記憶に残るラマユルの印象も変化したのかもしれない。

断崖の民家屋上                                             昼間からチャンを呑む村人
b0049671_17403569.jpgb0049671_17412767.jpg


 ところで今回はラマユル・ゴンパの外れにある小さなお堂の話だ。センゲガンというこの小さなお堂は、ゴンパから村に下りる断崖の、集落の中にひっそりと建っている。以前とは違い、夏場は毎日レーから観光客を乗せたジープが何台も訪れるようになったラマユルだが、このお堂を見学する旅行者はさほど多くはない。おそらく欧米人にはまだあまり知られていないのかもしれない。
 ゴンパから下るにせよ村から登るにせよ狭い路は集落の間を通り、民家の一階部分を通り抜けたり崖に穿たれたトンネルのような場所を潜ったりしなければならず、少し見付け辛い。しかも普段は鍵か閉まっており、その鍵はゴンパのラマ(僧侶)ではなく村人が管理しているので、近くで何処かの家の人に声を掛けなければ中に入れない。

如来像と曼荼羅                                                  ナンパ・ナンツァ像
b0049671_17421269.jpgb0049671_17424282.jpg


 センゲガンは非常に小さいながら建立は11世紀前半とも言われ、ラマユルで最も古いお堂だそうだ。狭い堂内に入ると正面の色鮮やかなナンパ・ナンツァ(毘盧遮那如来)像に目を奪われることになる。更に右奥のより狭いゴンカンには、三体のゴンポ(大黒)像がおどろおどろしい。
 スピトク・ゴンパのゴンカンが撮影禁止であるだけに、このお堂は貴重なものなのだが、気を使ってフラッシュを焚かずに撮影した為にブレてしまったのが残念だ。

b0049671_17431374.jpg
                                                           ゴンポ(大黒)像
[PR]
by meiguanxi | 2007-08-25 17:44 | ヒマラヤ・チベット | Comments(0)
ヘミス・ツェチュ(ラダック) : チベット仏教僧院の仮面舞踏
[ カシミール・ラダック略地図 ]
b0049671_10271574.jpg
                                                 チャムが行われるヘミス・ゴンパ

 インド西北部ジャンムー・カシミール州、その東部にあるラダック地方にはチベット仏教文化が色濃く残されている。ラダックの多くのゴンパ(チベット仏教僧院)の祭りではチャムと呼ばれる仮面舞踏が行われるが、ヘミス・ゴンパで行われるヘミス・ツェチュ(チェチュ)は中でも最も有名だ。
                                               ラダックはヒマラヤ西部の山岳地帯、インダ
パドマ・サンバヴァと八化身                             ス川上流域に広がる地域だ。中心の町 レー
b0049671_10275855.jpgからインダス右岸(北側)を東に約40km遡り、対岸を7.5km分け入る。小さな集落の裏に、ゴンパは岩山にへばりつくように建っている。ヘミスはチベット仏教四大宗派のひとつであるカギュ派の一派であるドゥクパ・カギュ派の総本山で、ラダック最大の規模を誇る。
 レーからは朝夕にあるミニ・バスで2時間ほどなのだが、この集落に宿は無く、僕はゴンパ付属のキャンプ場にテントを張ったのだが民泊も可能であるようだ。尚、チェチュの期間はレーからのバスは増発される。
 この祭りはチベットに仏教を伝えたグル・リンポチェ(パドマ・サンバヴァ)を讃えるものだ。「ツェチュ」とは「(月の)10日」という意味だそうで、この日に祭りが行われるのは誕生日であるとともに、彼の多くの奇跡が月の10日に起こされたということに由来する。月はゴンパによって異なるのだが、祭りの期間は1週間でチャムはこの最後の2日間(ヘミスの場合、チベット暦5月10・11日)に行われる。因みに2007年は西暦で6月25・26日だった(以後の予定は2008年7月12・13日、2009年7月1・2日)。


b0049671_10284060.jpgb0049671_10291285.jpg


b0049671_10295133.jpgb0049671_10301858.jpg


 チャム初日の未明、テントの中で眠っていると夜の闇のをブォーン、ブォーンという低く大きな音に目を覚まされる。午前3時だ。ゴンパで吹かれる管楽器の音なのだが、それは闇を引き裂くのではなく、闇を包み込むように鳴り響いていた。
 早朝、フォルンのような4mはあろうかという大きな管楽器の腹の底に響くような音(未明に聴いた音だ)と、太鼓やシンバルの単調な、しかし厳粛なリズムの中で大タンカ(仏画)が開帳され、仮面を付けた僧侶達による舞踏が披露される。チャムではグル・リンポチェとその化身が、土着の神達を鎮め仏教の護法神に変えたという物語が展開される。よく「チベット・オペラ」などと言われることもあるが、実際にはオペラや例えば京劇のようないわゆる劇性は低く、仮面を付けた数人から十数人の登場人物達が輪をなして踊ることで進められていく。詳しい説明をしているHPやブログもあるようなので、興味のある方は検索してみると良いかもしれない。

b0049671_10305311.jpgb0049671_10312169.jpg


 少し残念な話。
 ヒマラヤの山奥に非常に幻想的な光景が繰り広げられるのだが、最近では観客の殆どが外国からの観光客で、地元の人々の姿は少数だ。また、何時間も前から地面に座って待っている人の前に平気で席を取ってしまう西洋人団体、日本人も含めて立ち上がったり舞踏の場に出て行って写真を撮ろうとする者も多く、良い席を確保できなかった場合には落ち着いてその雰囲気に浸ることは難しいかもしれない。

 ※ 尚、こちら(外部サイト)のフォト・アルバムも合わせてご覧頂ければ幸いです。

b0049671_10315615.jpg

[PR]
by meiguanxi | 2007-08-23 07:25 | ヒマラヤ・チベット | Comments(0)
from Tokyo : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #7
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                       2007年7月20日~

その1
その2
その3
その4
その5
その6の続き

 ひとつのゴンパと石窟を見るためにアルチからのミニ・バスを対岸のサスポルで途中下車し1泊、更に翌日はバスゴという小さな村で下りて岩山の上のゴンパを見学した後、何処かからやって来た大型バスに乗り込んでレーに辿り着いた。7月21日。22日振りのレーだ。足を傷めてから実に16日が経っていた。
                                               病院で安心と今後の旅の方針のためにレン
ニダプク(サスポル村の石窟)                           トゲンを撮ってもらう。だが、足首の骨は折れ
b0049671_8373424.jpgていたのだ。メインの骨ではなく、膝から伸びて足首で外踝(くるぶし)を形成する骨だ。折れていたのはその踝で、写真では少しずれているように見えた。医者は僕の足を石膏で固めたが、明日からは歩いても良いと言った。石膏さえ固まってしまえば問題無いということだ。ポプラの枝を杖にして石膏で固めた足を上げて片足だけで撥ねるように歩いていた僕に、ネット屋の青年が彼が嘗て腰を傷めた時に使った物だと言って松葉杖をくれた。
 町でとある西洋人の男に声を掛けられた。彼とはアルチに向かう橋で会ったのだ。僕がそこで途中下車した時、彼はそこでバスかヒッチできる車を待っていた。僕のバスからはもう一人、途中のラマユル(僕がトレッキングを開始した村だ)から乗り込んで来た西欧人女性が降りていた。彼女は現地人のガイドを連れており、やはりそこで車を待つと言った。他にも何人か、現地の人達がそこにはいた。だが歩き出した僕を見て、彼等も歩き出した。もちろん怪我をしている僕はすぐに彼等に抜かれてしまう。やがて後ろから1台のトラックが来た。停めようと思ったのだが上手くいかない。前を歩いていたガイドを連れた西欧人女性も、その前を歩いていたこの西欧人男性も停められなかった。だが先頭を歩いていた僧侶が停めた。仏教徒の地域なのだ。後ろを歩いていた全員がトラックに向かって走り、全員が荷台に積まれた砂の上に乗り込んだ。走れない僕だけが取り残された。冷たい連中だなぁと僕は独り言を呟いたが、何故かそれで良いような気もした。この足を引き摺ってでもアルチに行くと決めたのは僕なのだ。幸い、その5分後に別のトラックに僕は拾われたのだったが。
                                               そして彼とはアルチの村で少し話をし、更に
バスゴ村のゴンパ                                  僕がサスポルで降りたバスで彼はレーに戻っ
b0049671_8414170.jpgていた。松葉杖を付き、足を石膏で固められた僕を見て彼は驚いた。「どうしたんだ?!」 「いやぁ、2週間前にリンシェットのゴンパの石段で滑ってね、足首を折っちゃったんだ。リンシェットは知ってる?」 彼は少し混乱しているようだった「ちょっと待って。2週間前って、それはどういう意味?」 僕は丁寧にことの次第を説明した。アルチで会った時、彼は僕が足を引き摺っている理由を訊かなかったのだ。僕も説明はしなかったし、アルチやラダックの話をするのにそんなことは必要ではなかった。彼はその時に僕の怪我に気付かず、助けになれなかったことを詫びた。仕方無いのだ。自分自身でさえ骨折を知らなかったのだから。
 「あなたは強い人だ」と彼は言った。もちろん英語なのだが、その「you」は確かに「あなた」という響きだった。だが、僕は穴にでも入りたい気持ちだった。実はその言葉はカルシャのゴンパで、あのオランダ人夫婦の夫人(パドゥムでビールを呑んだ時にいたオランダ人だ)にも言われた言葉だった。大きく腫れ、内出血で変色した僕の足を見て彼女は、「赤や緑や紫や、物凄いカラフルな足ね」と笑った。祭りの始まりを待つゴンパの境内でのことだ。「そうだろ、まるで曼荼羅みたいだ」と僕は言った。彼女は面白そうに一頻り笑った後に言ったのだ、「あなたは強い人だわ」と。
 レーでの話しに戻る。僕は西洋人青年に言った。「ねえ、僕はミスを犯しただけだよ。そして選択肢が無かっただけなんだ。僕はちっとも強くなんかないし、一人では何も出来なかったんだ」 そう、僕はあの時、一人では何もできなかったのだ。そしてトゥクテンたちに助けられて先に進むこと以外に選択肢が無かっただけなのだ。
 1週間後、医者に言われたように再度病院に行ってみると、「何処に行っても構わないが、後2・3週間は石膏は外せない」と医者は言った。僕はお願いしてもう一度レントゲンを撮ってもらった。前の時には前方からの写真で骨折が分かったのだが、横からの写真では太いメインの骨が邪魔して良く分からなかった。写真が明る過ぎたのだ。ところが今回の写真で見ると、骨折部は上下だけではなく前後にもずれている。医者は「問題ない。良く成っている」と言った。
 僕はそのままバス・スタントに向かった。勿論、彼とは違う感想を持ったからだ。レーからバスで2泊3日、デリーに早朝着いて宿を取り、そのままエア・インディアのオフィスに向かった。バンコックへの帰路はその日の便に変更できた。当日深夜、バンコックに到着。
 帰国したのはレーで2度目のレントゲンを撮ってからちょうど1週間後だった。土曜日だったので週明けを待って病院へ。医師は手術するかどうか暫し悩み込んだ。骨折2週間以内だったら、或いは僕がもう少し若かったら確実に手術を勧めると医者は言った。足首の関節は凹凸の関係になっている。足の甲が凹で、これに凸である脚のメインの骨が嵌っているのだ。この凹の一部を成しているのが折れた外踝で、これが外側にずれてしまっているために結果的に関節が開いてしまっているというのだ。要するに凹の幅が広く成ってしまった訳だ。だが既に骨はほとんど固まってしまっていた。これから手術してもう一度骨を切り離し金属で止める場合、一応松葉杖が取れるまでに2ヶ月。既に骨折部を新しい骨が包み込んでいる状態では、骨盤から骨を移植する可能性も含めてどこまで元に戻せるか疑問が残るという。要するに自信が無いという訳だ。足専門の整形外科医がそういうのだから、確かに難しいのだろう。手術しなくとも東京で普通に生活する分には傍目にも分からないように回復するそうだ。ただ、ヒマラヤとかに行っちゃう人だというのが引っ掛かるんですよね、と医者は言った。
 僕はアスリートではないし、若者でもない。2ヶ月を無駄にできるほど裕福でもない。将来的には関節の変形や関節炎を引き起こす可能性があるそうだが、取り合えず、このまま直してしまうことにする。やれやれ、だがきっと、それもそんなに遠くない時期に、僕はまたヒマラヤ地域に行くことになるのだろうと思うのだが。
                                               レーでの僕はルーフトップ・レストランに毎晩
レーのメイン・バザールと王宮                           通っていた。レー・ゴンパの隣の平屋の屋上
b0049671_8445474.jpgレストランで、レーのレストランにしては珍しくビールを大っぴらに呑むことができた。トレッキング出発前も帰ってきてからも、僕は毎晩ここでビールを2本呑むのが日課だった。1本100ルピー、約300円だ。インドでのビールは恐ろしく高い。しかもレーは何でも高いのだ。
 最後の晩、何時ものようにビールを呑み月を眺めながら、僕はカルシャでの最後の晩のことを思い出していた。オランダ人婦人達が彼女達の食堂テント(豪勢なトレッキングではそういうものがあるのだ)から出て来て、「今日もヌードル?」と僕のコッヘルを覗き込んだ。その晩は最後のキャンプだったので、僕は豪勢な料理を作ったのだ。残っていた食用油をふんだんに使って、オニオン・フライとフレンチ・フライド・ポテトを作った。大蒜で玉葱を炒め、村で買ったトマトを入れて煮込みトマトソースを作り、その中に網で焼いた餅を入れスライス・チーズを乗せて煮込む。餅のピザ風煮込みだ。「まあ、美味しそうだこと!」と彼女達は大袈裟に驚いたが、彼女達は何時もかなり美味しそうな贅沢な食事をしていた。「さあXX」と彼女は僕の名前を呼んだ。「今日は最後のお祝いよ」と言って彼女達は僕にチョコレート・ケーキを差し出した。彼女達のトレッキングではこんなものまで出来てしまうのだ。
 その夜、眠ろうとしていた僕のテントに彼女達が訪ねて来た。僕達は出会ってから今日までのことをひとしきり話した。「あなたの2度目のアクシデントの時、眠ろうとしても、もう心配で心配で、全然眠れなかったのよ」と彼女達は言った。あの落馬した日だ。その晩はキャンプ地が違ったのだ。「でもこうしてカルシャにまで来られて、本当に良かった」
 いや、僕がこうしてここまで来られたのは、彼女達のお陰でもあるのだ。実際に彼女達が僕にしてくれたことは、或いはそんなに多くはないのかもしれない。しかしもしあの日、彼女たちに出会わなければ、そしてその後の路で彼女たちに力を貰わなければ、僕はカルシャに来て祭りを見ることはできなかったのではないかと思う。確かにあの状況では先に進むしか無かった。だからいずれにしてもパドゥムには着いただろう。だが、きっとその時には全ての気力を使い切っていたに違いない。病院に行き、或いはそのまま数万円の料金を支払ってジープでレーに戻ったのかもしれない。そしてこのトレッキングはただの失敗の苦く虚しい記憶になってしまったのかもしれない。「あなたたちに会えたことで、僕は心を強く保つことができたんです」と僕は言った。「でもね」と彼女達は言った。「タイミング良くあなたと出会えたことは、私たちにとってもラッキーだったのよ。それで凄く幸せな気持ちに成れたのだから」
                                               そんなことを思い出しながらビールを飲んだ
ルーフトップ・レストランからの王宮                        レーでの最後の晩のレストランでの話しだ。
b0049671_8492134.jpg僕は少し感傷的になっていたのだろう。4人いるウエイターたちに僅かずつのチップを渡した。彼等は何時も僕を気遣ってくれたし、親切にしてくれたのだ。店を出ると、彼等は階下まで僕を追いかけて来た。彼等は幾度か階段の上り下りを手伝ってくれていたのだが、何回目かの時、一人の方が安全だと思うからと手助けを断っていたのだ。彼等は追いかけて来て、そこに整列して僕に挨拶した。そして僕にビールを1本手渡してくれた。僕が彼等に渡したチップは僅かな額でしかないし、ビールの1本は彼等にとってはきっと贅沢過ぎる飲み物である筈だ。「また来年!」と彼等は言った。もちろん来年は僕がここに来ないだろうことを、彼等も僕も知っている。だが僕は
                                              「ああ、来年ね、maybe」と答えた。

  ☆

 僕は敢えてこの文章の最後の部分の時間を前後させて書いた。一旦東京まで持って来てからカルシャの話を後ろに回した。勿論それはオランダ婦人達との出会いが僕にとってとても大きなことだったからからなのだが、本来ならこの最後の部分は馬方との別れを書くべき場所の筈だ。そうできなかったことは僕と彼にとってとても不幸なことなのかもしれない。だがひとつ断って置きたいのだが、彼は基本的には一生懸命に仕事をしてくれる、性格的にもイイ奴なのだ。おそらく、僕と出会ってしまったこと、僕が怪我をしてしまったことは、彼にとっても非常に不幸なできごとだったのだ。僕は彼のことをこの文書でヒールのように書いてしまったかもしれない。もしこの文章を読んで彼に良く無い印象を持った人がいるとしたら、それはこの文章を書いた僕の卑小さのためた。或いは逆に、彼への僕の態度や感情に美しくないものを感じた人がいるかもしれない。けれどそういう部分も書かなければあの日々の記録にはならないのだ。僕と別れた後、彼は西欧人とのトレッキングに出掛けた筈だ。それが彼にとって良い仕事であったのなら、と思わずにいられない。
 最後に、心配をお掛けした皆さんにお詫びすると同時に、自分本位な長い文章に最後まで付き合ってくださった皆さんに心からお礼を申し上げたい。ありがとう。                                             (完)
[PR]
by meiguanxi | 2007-08-17 08:53 | Air Mail | Comments(27)
from Tokyo : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #6
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                     2007年7月10日~19日

その1
その2
その3
その4
その5の続き

 翌朝8時過ぎ、遅れているバスの到着を待つ僕は、トゥクテンと馬たちを見送った。穏やかな路とはいえ、彼等はこれから28kmを歩いて行くのだ。30分遅れて来たバスは出発の時点で既に満席に近かったが、進むにつれ多くの乗客を乗せた。車内は人が折り重なり、押し合い圧し合いの大騒ぎで、座っている僕の膝の上にはヤクの子供が頭を乗せていた。乗り込んできた時に心配したのだが案の定、子ヤクはバスの中で糞をしてしまう。僕のトレッキング・シューズのすぐ横に、下痢気味の糞が落ちた。
 2001年初版のガイドブックではパドゥムの町は急速に北に広がっているとあったが、既に町の中心は北側の新市街に移っていた。とはいっても三叉路の周辺に商店が集中しているだけで、旧市街に向かう路を除けば50mほどで町は終わってしまう。旧市街への路も賑やかななのはせいぜい100mまでだ。三叉路の直ぐ側に、300ルピーを250ルピーに負けてもらって宿をとる。少し高いが、痛む足で大きな荷物を背負って、幾つかの宿を比較して回ることは不可能だった。
                                               病院は町の中心の宿から150mか200m
パドゥムの旧市街                                   ほど外れたところにあった。大きな敷地の政
b0049671_821730.jpg府系病院だ。既に病院の中は沢山の患者や付き添いの人達でごった返している。外国の病院に行った場合、とりあえずそこのシステムを理解するのに苦労することになる。まあ、とにかくすったもんだの末、漸く診察になる。足首の患部を触診したドクターは、骨は折れていないと断言した。数日は安静にして足を高くして寝るようにと言って、痛み止めと消炎剤とをくれた。胸や腰、背中の痛みについても問題無いと言った。足の骨に関しては僕も同じ意見だったが、それ以外については少し違う感想を持った。自慢ではないが僕はそちらこちら何回も骨折したことがあるのだ。その経験からして肋骨や腰椎がちょっと折れた程度では人間は歩けなくなったりしないし、折ってしまった後には死ぬほどの痛みを感じたりしないのだということを知っていた。僕が心配だったのはその折れ方で、例えば肋骨が肺を圧迫していたり、腰椎が後遺症を残すことにならないかということだった。だがドクターは、もし問題があるのならそんな風に歩いたり動いたりできないだろうと言って笑った。
 診察はそれで終わった。レントゲンは無いらしい。僕としては幾許かの不安を感じはしたが、彼の言葉は少なくとも僕の期待に沿うものだった。そして何より、足を怪我して5日、落馬して3日、こうして生きて歩いている。大丈夫だ。これでカルシャに行ける、僕はそう思った。
 この町はザンスカールからラダックに戻るためのバスが発着する場所なので、また戻って来ることになる。今は無理をして観光しなくても良かった。旧市街は1kmほど北にあり、その後ろの岩山にゴンパがある。そこまで往復した後は宿でのんびりと過ごした。夕方、ビールが呑みたくなり、幾つかの商店を探してみたが見当たらない。この辺りの一般のレストランでは酒は出さない。実は三叉路の近くに小さなバーがあって酒はそこで呑めたのだが、見付けることがことができなかったのだ。三叉路に「Tourist Complex 1.5km」という看板があった。そしてそこには「Bar」の文字が。この足で1.5kmを歩くのにいったい何十分掛るのか、少し絶望的な気分だったが僕は歩き出していた。どうしてもビールが呑みたかったのだ。一応舗装がしてあったり壊れていたりといった農道のような路を、ポプラの枝を杖に歩いた。遠い山裾にへばりつくようにカルシャのゴンパが見える。気が付くと1.5km先のピピティンという村まで来てしまっていたが、目的のトゥーリスト・コンプレックスは見付けられず、夕方の水を運ぶ子供達と話をしながら町に戻る。辺りはすっかり暗く成っていた。
 町の200mほど手前に、テント・ホテルがあった。レストランの標識もある。レストラン・テントに入ってみると中年の西欧人夫婦が、お茶を飲みながら現地人と話をしていた。僕はビールを注文し、彼等と話をした。現地人はこのテント・ホテルのオーナーで、西洋人はオランダ人だった。やれやれ、またオランダ人だ。僕はことの経過を話し、オランダ人婦人達に世話に成ったことを話した。風は冷たかったが、空は満天の星だった。僕は10日振りのビールに、すっかり幸せな気分でその空を見上げていた。
                                               ところでこの日、2つのことが分かった。カル
カルシャ・グストル(カルシャ・ゴンパの祭りの仮面舞踏)          シャの祭りは1日延期になっていた。詳しいこ
b0049671_8241920.jpgとは分からなかったが、レー或いはラダックの何処かの高僧が亡くなったとかの影響らしかった。もうひとつはカルシャへの公式なバスは夕方の4時に1本あるだけだということだった。だが、トゥクテンとは3時に約束している。なんとかジープを捕まえてそれまでに行かなければならない。僅か6kmだが、ユニオンの行程価格は300ルピーもする。だがそれは仕方が無い。どうも原油の高騰は、航空運賃の燃油チャージだけではなく、こんな山の中でも僕等のような決して裕福ではない旅をする者に負担を迫っているようだった。
 翌日の午前中、僕は三叉路付近で飯屋を探していた。ホテル併設のレストランで食べても良かったのがだ、町中の普通の飯屋で食事がしたかったのだ。すると誰かが僕の肩を掴む。振り向くとトゥクテンだった。
 彼は馬を連れていなかった。乗合ジープで来たのだと言う。僕は既に怒る気力を失っていた。既に彼は来てしまったのだ。勿論、彼の村まで7kmなのだし、祭りが1日延期になったので明後日まで僕はカルシャにいる訳だから、戻って馬を連れて来いと言うことはできたのかもしれないが。僕は彼を宿のレストランに連れて行った。考えてみれば彼はザンラで、「5時にカルシャに行く」と言ったのだ。おそらくパドゥムからのバスの時間を知っていたのだろう。ザンスカールを走るミニバスは2本しか無い。1本はパドゥムからザンスカール川右岸を北へザンラまで、もう1本は川を渡ってカルシャから左岸を北西に向かう。どちらも朝はパドゥムに向かい、同じバスが夕方下って行くのだ。
 それに、彼は馬を3頭持っていると言ったのだが、考えてみればもしそうとしたなら何故わざわざ妊娠している馬を連れて来たのか。3頭は持っていないか、或いはもう1頭は連れて来られない状況にあるかのどちらかなのだ。彼は初めから馬を連れてくる意思は無かったのだ。勿論、母馬を残して1頭だけ連れて来ることは可能だったが、ザンラへの路で僕が母馬に乗った時にでさえ、僕の乗った馬にも彼のテントやストーブやその他諸々の用具が乗せられていたのだ。つまり、僕の食料が減ったとはいえ、どうやっても1頭では無理なのだ。おそらく彼は、僕の足ではどのみちトレッキングは無理だろうと判断しもしたのだろう。
 僕は彼にチャイを勧めながら静かに訊いた。「最後に1つだけ教えて欲しいんだ。何故、馬を連れて来なかったんだ?」 彼は僕の質問の「何故」という言葉を口の中で反芻した。そして「No understand」と言って難しい表情の顔を横に振った。勿論、馬を連れて来なかった理由が分からないと言ったのではなく、「何故」という単語が理解できないと言ったのだ。僕は「理由を知りたいんだ」と言い直した。彼は「理由」という単語を反芻した。「No understand」 確かに彼は基本的には英語を話せない。しかしこれまでそれなりのコミュニケーションを取ってきたのだ。僕は質問をやめた。「これでカルシャの後は何処にも行けなくなった訳だ」と僕は呟いた。「By jeep, go」と彼は言った。外国人は際限無く金を使えるとでも思っているのだろうか。
 その日の午後、僕達はジープをチャーターしてカルシャに向かった。僕には不思議だった。確かに彼は僕の荷物を運び、ジープを探してくれた。だが、例え大変でもそれだけなら僕にでもできる。カルシャでは3泊することになるが、その間、彼にはやるべきことは何も無い。勿論、馬を連れて来ていてもそれは同じだが、少なくともそれにはその後の移動の待機という意味がある。しかし3日後、彼は僕の荷物をバスに載せ、バスから宿に運ぶだけのためにその3日間を待つのだ。いったいこの人は何のためにパドゥムに来たのだろう。
                                               カルシャのキャンプはとある民家の庭で、門
カルシャ・グストル                                   と仕切りのある気持ちの良い草地だった。と
b0049671_8284968.jpgころがそこにいた先客は、あのオランダ人婦人達だったのだ。彼女達は僕達の到着を歓迎し、キッチンボーイにお茶とスープを入れさせ、病院での診察結果を熱心に聞いた。僕は、もうこれでいいのかな、という気持ちに成っていた。あのリンシェットで怪我をした直後に彼女達に世話に成り、ここまでの路々何回か会い、その度に気遣ってもらった。ザンラに向けて出発する日、彼女達は対岸の路を別の村に向かった。本当なら僕はそこに寄ってからザンラに回る予定だった村だ。その時、カルシャで会おうと言った彼女達との「maybe」であった約束が、こうして果たされたのだ。ここで良いのかも知れない。ここを最後にして良いのかも知れない。いずれにせよ馬が無い以上、僕はここから先へは進めない訳だが、これで良いのかも知れないと思っていた。その夜、午前3時、ヘミスで聞いたものと同じような管楽器の音がゴンパから聞こえた。低く重いその単調な音は夜中の静けさを乱すというよりは、その静けさと暗さとを包み込むように鳴り響いていた。
 3日後の早朝、カルシャから直接1泊2日掛けてジープでレーに向かうオランダ人婦人たちを見送った時、パドゥムへのバスは8時にカルシャを通るとキャンプ地の主人は教えてくれた。トゥクテンはバスは9時だから8時半にテントに来ると言っていた。彼はゴンパの僧房に泊まっていたのだ。僕は慌ててテントをたたみ、馬方が来たら食料などの荷物の入った2つのバッグと灯油タンクを渡してくれと主人に頼み、ザックを背負いサブザックを抱え杖を突きながらバスストップに歩いた。バスの停まる村外れのチョルテン(ストゥーパ)には学校へ向かう子供や数人の尼僧、そのほか沢山の人達がバスを待っていた。だがバスは遅れていた。8時過ぎ、大慌ての様子でトゥクテンが駆け下りて来た。かれはバスの様子を見に村の下の方に歩いて行ったが、そのまま暫く戻って来なかった。その間に何台ものジープや軽トラが通っては人々を満載してパドゥムに向かって行った。僕は荷物を背負って駆け乗ることはできない。
 やがて1時間近く送れたバスがチョルテンの角にやって来て、そのドアからトゥクテンが飛び降りる。満員の人々を乗せたバスは停まることなく、待っていた人々の前を通過した。「No seat」とトゥクテンが言った。彼が言うには、バスは一旦パドゥムに行ってからもう一度戻って来るらしい。祭りの次の日で今日は特別なのかもしれない。その後も2台ほどのジープが通ったがトゥクテンは運転手に何か話し掛けるだけで、「ダメだ」といった表情で僕の方に首を振るだけだった。他の人達が乗り込むのが早過ぎるのだ。彼は諦めて1mほど高くなった草地に座りこんだ。その数十分後、やって来た軽トラに向かって僕は走り出した。勿論ザックを背負いサブザックを抱えて足を引き摺っているのだから、その歩みは亀のようだ。だが出だしは他の人達よりも早かった。トゥクテンが慌てて僕の方に駆け寄ってくる。僕は運転手に聞く前に荷物を荷台に放り込んだ。他の人達は既に乗り込んでいる。自分で、動かなければダメなのだ。僕は旅を、しているのだ。そんなことを思っていた。
 パドゥムに帰り着き、宿のレストランでトゥクテンに最後の食事を奢った。レストランはポーランド人の団体に占拠されたような状態で、注文のフライド・ライスが出てくるまでに1時間も掛かった。その間、僕達はティーポットで注文したチャイを呑んで待った。トゥクテンは僕と顔を合わせないようにしているようだった。こちらから話し掛けることにポツポツと答えるだけで、すぐにあらぬ方向を向いてしまったり地元の人と話始めたりした。最後の別れの言葉は既に部屋で済ませていたし、僕としても何を話したものか困っていた。食事が済んでしまうと僕はもう一度、彼に別れと礼とを言って握手をしその場を離れた。16日間の契約の14日目だ。2週間一緒に旅をし、そして世話になった人との分かれとしては、あまりに素っ気無い瞬間だった。
                                               パドゥムからレーへの直行バスは、町に戻
ドゥルン・ドゥン氷河(パドゥム―カルギル間のバス車窓)          って2日目の夕方に到着したが、翌日の客が
b0049671_8313085.jpg集まらないという理由で出発は4日目の早朝4時になった。午前4時に出発し午後の6時にカルギルに到着、翌日の4時半に再出発する。僕はレーまで62km手前のサスポルという村に入る手前で途中下車した。村まで2kmほどのその場所に、インダス川を渡る橋がある。その橋を渡って4kmでアルチという集落に着く。チベット仏教美術ではあまりにも有名なゴンパのある村だ。僕は13年前にそこを訪れていたのだが、もう一度その壁画や塑像を見たかった。本来は更にこの10kmほど手前のウレ・トクポという集落で降りる予定だったのだが、見たかったマンギュというゴンパまではインダスを渡った集落から6km歩かなければならず、諦めてパスしたのだ。アルチなら橋からヒッチができるかもしれない。実際、登りのきつい途中の2kmは砂運搬のトラックに乗せてもらえた。
 ほんの小さな村は以前とは違って随分観光化されていた。1日中、レーからのジープが西洋人グループを連れて来ては戻っていく。アルチ・チョスコル・ゴンパは撮影禁止になっていたし管理をしている僧は非常に感じが悪かったが、以前は情報が無かった為に見ることのなかったドゥジェチェンポ・ゴンパの素晴らしい壁画を見ることができ、僕は上機嫌だった。この村に2泊して洗濯などをした。安宿だったが宿の庭はガーデン・テラスになっていて、そこで満天の星を眺めながら呑むビールは最高で、危うく足の怪我や落馬のことなど忘れてしまいそうになった。2本呑んだ後で、今日は特別にもう1本呑んじゃおうかなと思った時、上の方から誰かの笑い声が聞こえたような気がした。その声のした方を見上げると、そこには庭の横の高く細いポプラの木の上で、まるで箒の先のようにそこにだけ茂った葉が風に揺れていた。ふと目の端に眩しいものを感じる。少し身を乗り出して木の向こうの隣の家の壁の脇を覗くと、空の非常に低い所に、しかし明るくしっかりした月が出ていた。下弦の月だ。デリーからの夜行バスで見て以来、実に久し振りの月だった。                (つづく
[PR]
by meiguanxi | 2007-08-15 10:06 | Air Mail | Comments(0)
from Tokyo : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #5
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                          2007年7月9日

その1
その2
その3
その4の続き

 赤ら顔のトゥクテンが戻って来たのは7時近くになってからだった。何処へ行っていたのかとの僕の問いに彼は、「今日は“メラ”なんだ」と答えた。「ねえトゥクテン、家の中へは入れるのかな?」「No」彼の声は力強く明確に響いた、「今日は“メラ”だ」。僕には彼が何を言っているのか、初めのうち良く理解することができなかった。「家の人は何処に行ったの?」「“メラ”」…“メラ”というのがなんであるのか僕は質問してみた。彼は暫くそれについて考えていたが、やがてこう答えた、「One Zanra sister go XXXX」最後の部分は地名らしかったが、僕の知らない地名だった。
                                               そういえばゴンパからの帰りに村外れで太
ザンラ村の結婚式                                   鼓や笛の音に誘われて1軒の家に近付くと、
b0049671_863472.jpg何人もの子供達が塀越しに庭を覗き込んでいた。沢山の人達が庭に敷かれた絨毯に座り、何かしらの宴が執り行われている。中にはラダックでも滅多に見かけることのない正装をした男達もいる。どうやら結婚式のようだったが、新郎新婦の姿は塀の外からは確認することができなかった。こういう場合、もう少し積極的に目立ってみたりすると、酔っ払った誰かが珍しい陳客として強引に招き入れてくれたりするのが常なのだが、体調不良の状態の僕にはその元気は無く、塀越しに数枚の写真を撮ってその場を離れたのだった。
 彼とのたどたどしい会話からすると、どうもこの “sister” というのは彼の姉妹という意味では無く、要するに「このザンラ村のとある女性が何処かの村に嫁いで行く」という意味らしい。それが彼の知り合い筋なのかどうか、そこまでは確認できない。「今日はこの家に泊まるんだよね?」と僕は確認してみた。「そうだ」彼の答えは明確で自信に溢れている。「じゃ、どうして家の中に入れないんだろう?」「今日は“メラ”」…「家の人は何時になったら帰って来るのかな?」「知らないが…7時か8時か…」「ねえトゥクテン、もう既に7時だ。もう直ぐ帰って来るってことかな?」「…今日は“メラ”なんだ」やれやれ、どうも僕に出来ることはまだ何もないらしい。なにしろ今日は“メラ”なのだ…
 ところでこの夜は結婚式に関係した人々にとってばかりではなく、僕達2人にとってもある意味で大切な夜であったのだ。なにしろ明日早朝、僕は病院に行くためにバスで35km離れたザンスカールの中心パドゥムに移動する。トゥクテンは彼の希望でその7km手前の彼の村に1泊することになっていた。本来ならトレッキングの期間内に、いくら通り路だからといっても馬方が自分の村に帰ってしまうなどはありえないことではあるのだが、僕が負傷し、連れていた馬に子馬が生まれてしまったのだ。この先も子馬を連れて歩く訳にはいかないし、どのみちパドゥムの次はお祭りを見るために僅か6kmしか離れていないカルシャに向かうのだし、そこにはバスも走っている。そんな訳で彼の申し出を承諾していたのだ。だが、明後日、僕達は何処かでどのようにしてか落ち合わなければならない。食料等の荷物は彼に預けることになるだろう。そうした相談をしなければならないのだ。
                                               しかも、ザンラに向かって歩いている途中、
チョモ・ゴンパ(尼僧院)からのザンラ                      彼は奇妙な申し出をしていた。パドゥムとカル
b0049671_89367.jpgシャには馬を連れていかなくて良いか、というものだった。ザンラに到着したのが7月9日、ラマユルから出発してちょうど10日目だった。僕の契約は16日間あり、当初予定ではカルシャの祭りを観た後、更に数日、中心地より西側の村を回ってパドゥムに帰って来ることになっていた。確かに僕は負傷してしまっていたし、その為にザンラから先の村を訪ねることを諦めて病院のあるパドゥムに急ぐことにしたのだった。だが、病院での診察の結果次第では、当初予定通りとはいかないまでも、もう少し近場の村は訪ねることができるかもしれないと思ってもいたのだ。いや、ことと次第によってはカルシャの祭りも諦めるしかないのかもしれない。なにしろ翌日10日にパドゥムの病院に行ったとして、祭りは11日と12日なのだから。だがもちろん僕はこの申し出は承認しなかった。彼に言わせると「パドゥムやカルシャには良い草がない」からというのが馬を連れて行きたくない理由なのだが、どうもこの話は合点が行かない。なにしろトレッキングのコースは事前に伝わっている筈なのだから。勿論、彼が何頭の馬を所有しているのかについても訊いていたし、彼の答えは3頭だった。母馬を置いて来ても2頭は連れて来られる。彼は不服そうではあったが、当然ながらそれについては了承した。
 家人の帰りを待つ間、それらにつても話をしたのだが、どうもきちんとした会話が成立しない。僕の提案は、明後日、とにかくカルシャに行くということだった。足は酷く痛んだし腫れている。だが幸いなことに骨が折れているということはなさそうだし、落馬によるダメージも酷かったが急いでどうこうという時期を過ぎてもこうして取り合えずは生きている。ここまで来てカルシャの祭りを観ない訳にはいかない。だが、とにかく病院に行き、ドクター・ストップが掛ってしまった場合には諦める。そうでない場合には16日間の期限までは幾つかの村を回る。
 しかしこの提案には少し無理があったのは事実だ。トゥクテンには明後日、カルシャで会おうと言ったのだが、もしドクター・ストップが掛った場合には僕はそこに行けないことになる。だが僕はその可能性を無視した。「ねえトゥクテン、僕はどうしても明後日、カルシャに行く。だから君は祭りの終わる午後で良いからカルシャのゴンパに来てくれ。そして、もし医者が問題無いと言ったのなら旅を続けるから、馬は連れて来てくれ」 彼は了承し、明後日の10時にパドゥムに行くと言った。「祭りが何時に始まるか知ってるかい?」 彼はそれを知らなかった。僕も知らないしガイド・ブックにも書いていない。派が違うが、先月末に観たヘミス・チェチュの初日は朝から始まった。分からない以上、早朝に行くしかない。「僕は早朝にバスかジープを捕まえて行くから、君は午後で良い。できれは3時(15時)頃にゴンパに来てくれないか?」 ところが始めは10時にパドゥムに行くと言った彼の言葉が急転する。5時(17時)だと言い張るのだ。彼の村からパドゥムまで彼の足で1時間半、そこからカルシャまでも同じくらいの筈だ。しかし頑として譲らない。なぜ彼がその時間に拘るのか、そしてどうして急に話が違ってしまったのか、僕には全く理解できなかった。
 「“メラ”をやっているから5時で問題無い」と彼は言った。どうも彼は“メラ”という言葉を祝い事一般を指すものとして使っているようだ。だが、ヘミスの祭りは午後のそんなには遅く無い時間に終わっていたように思う。多分、4時とかそのくらいだ。少し勝手かもしれないが、祭りが終わった後でお茶もテントも無く、言ってみれば保障があるとも言い難いかもしれない彼を待っているのはやや憂鬱な気がしていた。
 ところが彼はここで唐突にさっき済んでいる筈の話題を持ち出した。「Padum Karsha horse no go. OK?」 もちろん彼は明らかに酔っていた。僕は辛抱強く初めから丁寧に説明を繰り返した。「いいかい、僕は明日パドゥムに行って、病院に行く。そして明後日の朝、カルシャに行く。もし医者が…」 トゥクテンの言葉が僕を遮る「After tomorrow no go Karsha!」 今度はカルシャに行かないと言い出したのだ。「ねえ、僕はカルシャ・グストルが観たいんだよ」 「Tomorrow Karsha no “mera”」 「いや、明日じゃない、明後日だ」 「Oh! After tomorrow Karsha no “mera”」 「ねえ、今日は9日だ。明日は10日。僕は明後日の11日の朝、カルシャに行く。カルシャの祭りは11日と12日だろ?」 彼は日にちを頭の中で反芻して「そうだ、そうだ」と言って謝ったが、馬を連れて行くということについては承諾しない。
 僕はそれらのことについて彼と話すことを諦めた。「OK、僕の見るところ、君はちょっと呑み過ぎている。この話は明日にしよう」 彼は酔っていることを認めなかったが、僕は彼を無視した。「ところで、既に8時に近いんだけど、“メラ”は何時に終わるのかな?」 「知らないけど、9時か10時か…」 やれやれ、さっきとは話が違う。「ねえ、僕も承諾しはしたけど、今日はテントを張らずに民家に泊まると言い出したのは君だ、そうだよね? 僕は非常に疲れているし足の状態も良くないし身体のそちこちも痛い。早く部屋に入ってお茶を飲んで食事をして休みたいんだ」 トゥクテンは明確に自信を持って答えた、「tea, dinner, room, no problem!」 良くは分からないが、彼としては家人さえ帰宅すれば部屋はもとより食事も出してくれるから心配は要らないという意味のことを言っているらしい。「もう1回言うけど、僕は非常に疲れていて足も痛い。咽喉も乾いたしお腹も空いた。そして何よりも休みたいんだ。できれは君が“メラ”に行って家人を連れて来てくれるか、或いは鍵を貸してもらって来てくれないか?」 彼は明確にしっかりと回答した、「No!」 そう、今日は“メラ”なのだ。
 僕は諦めて黙り込んだ。或いは健康な状態であったなら、その“メラ”に一緒に潜り込んで呑んだり喰ったり写真を撮ったりといった方向に流れを持って行けたのかもしれない。しかし今、僕には全くそんな元気は無かったし、身体だけでなく精神的にも疲れていた。黙り込んで溜息をつく僕にトゥクテンが、明確で迷いの無い声で訊いた、「Problem?」 その声は質問と言うよりは疑問、或いは詰問にさえ聞こえた。
 「This is problem!」 僕は少し声を荒立てた。「トゥクテン、君はなぜ今日はキャンプではなく民家に泊まると言い出したんだ? 酒を呑みたいからなのか?!」 言い掛かり的な言い方だったかもしれないが、少なくとも彼は酒を呑み食事を済ませているのだ。彼ははっきりと答えた、「yes!」 やれやれ、勿論そんな筈はないだろう。おそらくこの村に入るまでは結婚式のことなど知る筈もなかったのだ。英語が上手く通じていないのか、或いは単に酔っているだけなのか、僕には良く分からなかった。僕はこの10日間、彼に対して怒ったことも声を荒げたことも無い。だが、この一言とその自信に満ちた表情は疲労した僕の理性を切ってしまうのには充分だった。僕の修行は年齢の割りには未熟なのだ。「“メラ”が何時終わるのか知らないが、トレッキングでは9時といったら全てのトレッカーが眠りに就く時間だ。なのに8時を過ぎて僕はまだ1杯のチャイさえ飲めずにいる。君は酒を呑み食事もした。なのに僕は食事もできず横になることもできない。怪我をしているのに何故、この石段に座って待っていることだけしか許されないんだ?!」 彼はキョトンとしていた。急に声を荒げた僕に驚いたのかもしれない。
                                               暫くして彼は、「じゃあ、テントを張るか?」と
ザンラ・カル(王宮)                                  言った。それは「そんじゃテントを張れば良い
b0049671_813345.jpgんだろ!」的に僕には聞こえた。或いはそう聞こえたのは僕が偏狭だからなのかもしれないが、いずれにせよ今更テントを張るという言葉に僕の脆弱な精神はかなり打ちのめされた。「何処に?」と力無く溜息交じりに訊く僕の前を通り過ぎると、彼は建物の横に付いた木戸を開け、その向こうを指差した。そこは馬を繋いである場所だ。藁が敷かれ、馬の排泄物が散乱している。「そこは馬の場所だ」と言うと、彼は「No!」と言ってその脇を指した。確かにその脇に少し壇に成った僅かな場所があった。おそらく家人が何かの作業に使う場所なのだろう。だが、テントを張れるようなスペースではない。
 僕はいい加減、うんざりしていた。塀の外の道端にテントを張れる程度の僅かなスペースがあることを僕は知っていた。勿論そこは道端であり、スペースがあることとそれに適していることとは違う。とにかく何処でも良いから横になりたかった。「水は何処から汲めば良いんだ?」と僕は訊き、答えを待たずに門扉をくぐった。後ろから付いて来たトゥクテンが僕を追い越し、どんどん村の裏に登って行く。この村は30軒ほどの集落で、中心部は路に沿って非常に狭い範囲に民家が連なっている。路から2軒先の山側に流れる水路で彼は立ち止まった。しかし、僅かな距離とはいえ、その暗く成ってしまった斜面を登ることは今の僕にはけっこうな苦労を要した。少し意地の悪い気持ちになっていたのだろう。漸く追い付いた僕は「あまりに高過ぎる」と静かに言った。「俺が運ぶから問題ない!」 そう言って彼はどんどん斜面を下って言った。斜面の下から彼が斜に振り向いて言った、「dinner, you go Gompa, problem!」 ゴンパなんかに行ってるから食い損なうんだ、とでも言おうとしたのだろうか。一方的に捲し立てられて彼も腹を立てたのだろう。確かにこんな身体で断崖のゴンパに登るなど、真っ当ではないのかもしれない。だが、僕は仕事でトレッキングをしているのではないのだ。ゴンパなんかに行ってるから食い損なった?何故そんなことを言われなければならないのだ。斜面を下る時、トゥクテンはポリタンクを持ってもう一度登って来たが、僕は彼を無視して擦れ違った。彼は暫く戻って来なかった。
 ところが戻って来てポリタンクを置くなり、彼は僕の荷物を担いで言った、「Go!」 Go?何処へ? 「Room」 そう言うと僕のメインザックと食料の入ったスポーツバッグを担いだ彼は、僕の答えを待たずに門を出て歩き出した。僕は慌ててサブザックだけ担いで彼の後を追う。彼が向かったのは初めに酒を呑んでいたあの家だった。この辺りの家の1階は真っ暗な土間で物置とかそういうスペースに成っている。ヘッドランプを付けて奥にある筈の階段を探す。狭く急な石の階段だ。登り切ると2つの部屋に電気が付いていた。トゥクテンはさっき男達が酒を呑んでいた部屋に荷物を置いた。「家の人は?」と訊くと“メラ”という答えが帰って来た。どうも了解を取っている訳ではないらしい。「OK?」とトゥクテンは訊いた。その声は「これでいいだろ!」といった響きに聞こえた。
 水と灯油タンク、それともう1つの食料バッグをもって戻って来たトゥクテンに、「ストーブを焚きたいんだが」と訊いてみた。部屋には入れても家人がいないのではお茶も飲めないのだ。彼は「ここで良い」と半ば捨て鉢に言った。確かに人々が土足で上がっていた部屋ではある。彼等は土足で部屋に上がり、敷かれた絨毯に土足で座る。しかし紛い成りにも絨毯の敷かれた部屋でストーブを焚くのか?僕は暫くぼうっとしていた。もちろん絨毯は汚れている筈だったが、そんなことはどうでも良かった。置かれたザックに頭を乗せるとその場に横に成った。「茶を沸かさないのか?」と訊く彼の質問を無視して、「バスは朝の8時だったよね。君はどうする?」と訊いた。「朝7時半ここに来る」 彼はここにではなく、さっきの家に泊まるのだという。
                                               彼が部屋を出て行った後、僕はその場で
ジョン・カル(旧王宮)のゴンパからザンラ村                  MSR(ストーブ)のボトルにタンクから灯油を
b0049671_8163313.jpg入れた。隣の部屋には炊事用の土間があることを僕は知っていたが、そこまで行く気力が湧かない。どうでもいいというような気持ちに成っていた。或いはさっきのトゥクテンの言葉が捨て鉢に聞こえたのは、僕の気持ちが捨て鉢だったからなのかもしれない。断熱版を敷いてその上でストーブに余熱を入れた。このMSRというストーブ(コンロ)の余熱は、ボトルから少量の燃料を受け皿に流し、そこに直接火を付ける仕組みに成っている。炎は小さなストーブ全体を包み込むほど大きく成る。幾ら断熱版を敷いているとはいえ、とても絨毯の上で使うような代物ではない。少なくともこの家の人には何の責任も無いのだから、酷い話だ。だが、そういったことにさえ気を使えないほど、僕の心は荒んでいたのだ。
 ところがお湯を湧かしていると家人が帰宅した。主人が部屋に入って来る。僕は「ジュレー」と笑顔で挨拶するしかない。やれやれ、僕が何者なのかについては知ってはいるだろうが、どうしてその僕がここにいるかについて、そしてどうしてストーブなんかを燃やしているのかについて、どうやって説明したものか。おそらく彼は英語など話せないのだ。だが彼は「やー、ジュレー、ジュレー」 と挨拶すると 「プリーズ、プリーズ、スリープ」と言って一番奥の少し壇に成った場所を、上に向けた掌で指した。言ってみればそこは上座で、おそらくは家長とか主賓の席だろうと思われた。僕はストーブを使っていることについて心苦しく思ったのだが、彼はそのことについては何も言わなかったし、それを見さえしなかった。むしろ卑屈とさえ見える表情で僕に奥の場所を勧めて出て行った。他の家族達は部屋に入って来ない。どうやら隣の土間のある部屋(そこは昼間、僕がチャイをご馳走になった部屋だ)にみんな入って行ったようだ。
 家主が出て行ってしまうと、僕はティーポットにチャイを入れ、カップにネスカフェを入れた。例によってそのコーヒーにブランデーを注いだ。だが、それ以上の作業をする気には成れなかった。鞄からビスケットと取って置きのハムの缶詰を取り出した。サブザックの中には今朝、オランダ人婦人が半ば無理矢理に押し込んだドライ・アプリコットがあった。それらを奥の壇の前に置かれた低いテーブルに運んで食事をした。時間は既に9時を回っていた。空腹の筈だったが、食事は上手く進まなかった。やがて部屋の電気が消えた。それと同時に隣の部屋の話し声や物音も消えた。この部屋に電気のスイッチは無い。隣で消したのかもしれないし、或いは消える時間が来たのかもしれない。     (つづく
[PR]
by meiguanxi | 2007-08-13 10:51 | Air Mail | Comments(0)
from Bangkok ― Tokyo : 満身創痍・惨敗のザンスカール・トレッキング #4
[ カシミール・ラダック略地図 ]                                       2007年7月8日~9日

その1
その2
その3の続き

 その夜は激しい風がテントのフライシートをばたつかせる音に何度も目を覚まされた。未明には降っては止む雨がテントを叩く音に幾度か目を覚ました。その度に身体の何処かの痛みが甦った。
 幸いなことに朝には雨は上がっていた。トゥクテンが作ってくれたインスタント・ラーメンを食べ、彼らに手伝ってもらってテントをたたむ。雲は低く世界を覆い、行く手の峠の上空は真っ暗だった。一旦谷に下ってから、この日も厳しい登りになる。勿論トレイルは昨日に続き危うい。
 出発して暫くすると雨が落ち始めた。始めのうちは小降りだったのだが、馬方に止まってくれと言い出せぬままに、気が付けばびしょ濡れに成っていた。とても止まって荷物から何かを取り出せるような路ではなかったし、なにしろ自分が怪我を負って負担を掛けているという負い目が何処かにあった。漸く一つの峠を越えて谷の下に下りた時、この日はトゥクテンが背負っていてくれたサブザックからレインコートのポンチョを取り出す。そのザックはびっしょりと濡れ、色が黒く変わっている。本当はその中のカメラが気に成っていたのだが、とてもそれをポンチョの下に自分で背負って馬に揺られることはできそうになかった。胸も背中も腰も痛むのだ。カメラは濡れ、フィルムはダメになるかもしれない。しかし気には成ったが、今はカメラや写真のことを気にしている場合ではなかった。雨は降り続け、気温は一向に上がらない。まるで真冬に降る冷たい雨と同じだった。路は険しく、この日も何ヶ所か危険な断崖を、馬を下りて杖を突いて上り下りしなければならなかった。間も無く、僕たちより少し先にテントを張っていた例のオランダ人婦人たちを追い越す。彼女たちは僕に何か声を掛けたが、僕は「大丈夫、多分ね。後で」と答えるのが精一杯で、馬上で凍えていた。
 漸く峠道が終わった時、念願のザンスカール川に出た。それは両岸とも数百mの、垂直にそそり立つ岩の断崖に挟まれた激流だった。荒々しく、今の僕には苦しくさえ映る光景であったが、それは非常に美しい風景でもあった。だが降り続く雨の断崖に付いたトレイルの馬上で、カメラを構えることはできない。止まってくれと言えないし、そう要求をしたりカメラを構えたりといったことに使うべきエネルギーはその時の僕には無かった。こんな思いをしながら、この風景一枚の写真すら撮れないのだ。
 やがて断崖が低くなりザンスカール川の表情が少し穏やかになった。路も低くなり周りも平坦になった場所で、僕の馬を曳く若い馬方が「タバコをくれないか」と言った、「酷く寒いんだ」。一瞬、どうしてコイツは僕にそんなことを頼めるんだろう、というような意地悪な気持ちが浮かんだ。次に、そんな物を吸ったらますます指先や足の先が冷えてしまうぞと教えてあげようかと思った。だが、何かで気分を少しでも変える必要があったのは僕も同じだった。3人とも完璧に凍えている。
 この後、雨で増水したために小さな沢に掛かる橋までの十数mのトレイルが崩れてしまった場所があり、若い馬方は荷馬の荷の上に乗り、トゥクテンは激しい流れに膝上まで浸かりながら僕の馬を曳いて渡河した。キャンプ地の平坦なカルカはすぐ先に見えていたが、沢を渡った後のトレイルも危険な状態にあり、そこからは杖を突いて歩くことになる。
 川沿いの平坦なカルカは広く、石積みをコンクリートで補強した3軒の小屋があった。それらの壁にはHotelとペンキで書かれていたが営業している雰囲気はなく、人もいなかった。トゥクテンは適切と思われる少し高くなった場所に彼のテントを張った。オランダ人婦人たちの馬方たちも、同じ場所にテントを張った。彼女たちはまだ到着しない。僕はしかし、彼らとは離れて1軒の小屋の前にテントを張った。その小屋は吹きさらしだったが、取りあえず雨風を凌げる。そこが簡単な茶屋になっているようで、その奥の扉には鍵が掛かっていた。
 僕はその吹き曝しの小屋でMSRのストーブ(小型のコンロ)を組み立てた。この日、幸いだったことはこのMSRの調子がすこぶる良かったことだ。ガソリン、灯油両用という優れたストーブで、僕は馬方に合わせて灯油を使っていたのだが(馬方は勿論、インド製の無骨な灯油ストーブを使っていた)、青い色の付いたインド製の灯油(何故、灯油が青いのだ?)との相性が悪いのか、時折不完全燃焼を起こしたりしていたのだ。だが、この日は美しい青い炎を力強く燃やした。その火で、お湯を沸かし、ガーリック・スープを作って飲んだ。次にティー・ポットにチャイを淹れ、カップにネスカフェを淹れ、その中にブランデーを入れた。そしてそれらを飲みながら濡れたジャケットとシャツの袖、それとズボンを乾かした。右足に巻いたずぶ濡れの包帯を取って足先を暖める。左足の指には間も無く体温が戻ったが、負傷している右足の爪先にはなかなか感覚が戻って来なかった。まるで凍傷で壊死でもしてしまったかのようだった。
 夕食を作っているとオランダ人婦人たちがやって来たので、野菜を切ったりラーメンを取り出したりしながら話をする。「何よりも、あなたが今こうして立って話をしている、しかも少しだけだけれど笑顔でね。そのことが私にはとても嬉しいし、幸せなな気持ちなのよ」と彼女たちは言った。本当はこうして野菜を洗ったり水を汲んだりするのにさえ非常に苦労をしていたし、何をするにも辛かったのだが、そんな彼女たちの言葉は僕を少しだけ勇気付けてくれるようだった。雨は上がっていた。少しだけだが、陽の光が夕暮れの空を染めていた。
                                               次の朝は良く晴れ渡った。昨日のあの寒さ
ハナムル付近のザンスカール川                          が幻であったかのように、朝から気温はグン
b0049671_751144.jpgグンと上がった。僕をここまで運んでくれた白馬は、トゥクテンの甥に連れられてリンシェットに帰って行った。出発間際に若い馬方が僕の所に来て、料金を請求した。これが日本の旅行会社が企画したポニー・トレッキングだったとしたなら、料金は愚か損害賠償物だなという思いが浮かぶ。だが問題は、白馬はレーのエイジェンシーで手配したのではないばかりではなく、若い馬方のものでさえないということだ。確かにその馬の持ち主は彼の父方の伯父であり、更に彼とその馬を紹介したのは母方の叔父であるトゥクテンではある。だがもし支払わないとなれば、その交渉はトゥクテンとしなければならないし、そうなればこの若い馬方かトゥクテンがその穴埋めを請求されるのかもしれない。支払いの中に甥の取り分が幾らか含まれていたのだとしても、馬の料金は1日350ルピー、帰り1日分の400ルピーを含めても1100ルピー(約3300円)でしかない。確かにインドでは決して少なくはないだろう。だが彼の取り分が仮に3日で200ルピーだったとしても、それは僕にとってレーでのビール2本分でしかないのだ。そして同時にそれは、彼にとっては何某かの金額でもある。彼はこの2日間歩いて来た険しい道を、今日1日で馬を曳いて帰って行くのだ。3300円を東京で稼ぐのに僕はどれだけの労働を必要とするのかを思った。事故への制裁として僕が受け取ることのできる対価にしてはあまりに少ない。そして一時の気晴らしのためにその僅かな金額を彼から奪い取ることは、あまりに卑しい。
 僕は彼に料金を私ながら言った。「今後、もし君がまた誰か外国人を馬に乗せる機会があるのなら、絶対に綱を放してはいけない。絶対にだ」 彼は「分かった」と言って頷いた。彼の後姿を見送りながら、この2日間の厳しい道程を思った。少なくとも彼が来てくれなかったら、僕はここまで来ることはできなかったのだ。
 白馬が行ってしまうとトゥクテンは荷造りを始めた。この日は始めて子馬を歩かせるのだ。僕はこの数日の移動ですっかり駄目に成った野菜の殆どを捨てていた。残った野菜はジャガイモと玉葱、大蒜だけだった。荷物はすっかり少なく成っていた。大方の荷物を1頭の馬に載せ、母馬にはトゥクテンのテントやその為の布類が乗せられた。僕はその上に乗る。鞍の上では多くの布類の為に高過ぎて不安定だったし、鞍の後ろでは鞍に積まれた袋に入った何か硬い物が右脚に当たって非常に乗り辛かった。鐙(あぶみ)は無い。
                                               だが道は確かに起伏が無く歩き易い。ザン
ザンスカール川対岸の民家にて                          スカール川も穏やかな表情を見せている。そ
b0049671_755029.jpgれでも何ヶ所かは下りなければならない場所があり、それを機に歩くことにした。鐙が無く少しとはいえ荷物の乗った馬の背中に乗っているのは、思った異常に辛かったのだ。杖を突きながら歩き出してみるとその方がずっと楽に思えたが、実際には半歩ずつしか歩けず、特に砂利や石に覆われたような場所、傾斜などは非常に歩き辛く、あっという間に馬達との距離は数百メートル離れてしまう。昨日の雨でずぶ濡れになってしまったトレッキングシューズは紐を結んで馬に掛けてあったので、足元はサンダルだ。2日前に生まれたばかりの子馬よりも遥かに情け無い歩行だった。
 ザンスカール川を橋で対岸に渡ると1軒の石積みの小屋があり、トゥクテンはそこで休憩すると言った。ヤギを放牧している家のようで、家族達が庭でチャン(麦で作られた醸造酒)やチャイを呑んでいる。僕は茶店なのかと思ったのだが、最後に金を請求されなかったので単に好意で休憩させてくれたのか、或いはトゥクテンの知り合いなのかもしれない。庭の石に座るなりチャンを勧められる。このアルコール量の少ない白濁して少し酸味のある酒は大好物ではあったが、この時に1杯にとどめ後はチャイを呑んで硬いチベット・パンを齧っていた。僕は今日の目的地であるにザンラに早く着いて、出来れば今日のうちに車を手配してパドゥムに行きたいと思っていた。だがトゥクテンは勧められるままに3杯か4杯のチャンを呑んだ。空は青く、雲は白い。緩やかな川の周囲には平地が広がり、山はそれを取り囲んでいる。「まあ、いいか、明日の朝にはバスがあるのだし」そう思わせるような非常に穏やかで暖かな風景だった。
                                               ここからザンラの村までは再び馬に乗った
ザンラ村にて                                      のだが、荒地ではあるが緩やかな平地が続
b0049671_7572560.jpgく。村の入口の丘の上に尼僧院がある。トゥクテンが「寄って行くか?」と質問する。せっかくここまで来たのだし、パドゥムへ行くのは明日でもいいのではないか、という思いが湧く。トゥクテンははここで「今日はキャンプをせず、民家に泊まろうと思うが、良いか?」と聞いてきた。足も落馬したダメージも大きかったが、いずれにせよ落馬から既に2日目なのだ。今すぐになんとかしなければ命に関わるかもしれないという状況は、良くも悪くも過ぎてしまっている。それに民家に泊まるのならば、怪我をした足では煩わしい食事の支度やテントの設営もしなくて済むのだ。
 僕は馬を下り、トゥクテンは村に向かった。ゴンパを見学した後、足を引き摺った僕が村に着いたのはおそらくトゥクテンより数十分遅れてだったと思う。1軒の民家の中屋上からトゥクテンが僕を呼ぶ。その家に上がり込んでみると、彼は酒を呑んでいるところだった。何故だか訳は知れなかったが、7・8人の男達がその家の2階で酒を呑んで騒いでいた。チャンだけではなくラムのボトルまであり、トゥクテンの顔は既に赤らんでいる。「今日はこの家に泊まるのか」と僕はトゥクテンに訊き、彼は「そうだ」と答えた。荷物は外に置いてあるから心配するなと言う。僕はチャンを断り、ゴンパを見学してくることにする。尼僧院とは反対側の村外れの断崖の上にあるゴンパだ。そこまで登るのかと思うと、この足では気が遠くなりそうだったが、時間は未だ昼下がり。ゆっくり往復できるだろう。
                                               僕が家を出ると、トゥクテンが一緒に付いて
ザンラの王宮跡とゴンパ                              来る。ゴンパは鍵が閉まっているので、村人
b0049671_802892.jpgに訊いて鍵を探すのだという。そして1軒の比較的大きな家を指差し、「今日はこの家に泊まる」と彼は言った。ん?さっきの家ではないのか?どうもこの辺り、コミュニケーションが上手く取れない。「ゴンパから帰って来ても俺がこの家にいなかったら、さっきの家にいるから」と彼は言う。結局、鍵は見付からなかったが、僕はとにかくゴンパのある場所まで登ってみることにする。
 なにしろ足を引き摺りなからであるから、この断崖の上のゴンパまでの往復にはけっこうな時間が掛かったし、負担も掛かってクタクタになって戻ったのは5時半だった。泊まると言った家にはトゥクテンはいなかった。ちいさな木戸を開けて敷地に入ると、2人の沢山の荷物が母屋の壁に立てかけられていた。声を掛けてみるが、家人もいないようだ。実はゴンパに向かっている時から気に成っていたのだが、やっぱりトレッキングシーズを干しておいてくれるといった類の気は回してくれていなかった。それどころか、せっかく馬の背で干していた靴は、彼のズタ袋の中に押し込まれていた。やれやれ、この天気でこの乾燥した気候なのだ、外に出しておいてさえくれれば直ぐに乾いただろうに。が、まあ、そういう気を使えと要求する方が無理なのかもしれない。村に着いた時に、宿泊する家と荷物とを自分できちんと確認しなかったのがいけないのだ。
 ところで、さっきの酒宴の家に行ってみるが、そこにも彼はいなかった。それどころかさっきはあれだけ沢山いた人々が家人も含めて誰もいない。僕は泊まる筈の家に戻り、置かれた荷物の脇の石段に腰掛けて煙草に火を付けた。だがトゥクテンは6時になっても6時半になっても現れない。その民家の敷地にも周辺にもテントを張れそうな場所は見当たらなかったし、飲料の水を探し回るには右足が限界を超えていた。やれやれ、今、僕に出来ることは何も無さそうだった。    (つづく
[PR]
by meiguanxi | 2007-08-09 11:12 | Air Mail | Comments(10)