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チョモルンマ・ベースキャンプとロンブク寺 (チベット)
[ チベット周辺略地図 ]   [ エヴェレスト方面略地図 ]
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                                                   ロンブク寺からのチョモルンマ

B.C.への道、パン・ラ(峠:5210m)の登りから
b0049671_19583257.jpg この山を何と呼ぶかはちょっとした問題だ。世界的には英名のエヴェレストが通りが良いのかもしれないし、ネパール政府はサガルマータとしている。英名はインドを植民地にしていた時代のイギリス人測量師の名前であるし、ネパール名は古来使われてきたものであるかどうか疑わしく、少しく政治的な思惑が感じられる。少なくともこの山を見ることのできる地域の人々(チベット系民族)はチョモルンマと呼んできた。日本では1980年頃を境にエヴェレスト(エベレスト)とともにチョモ「ラ」ンマが用いられるようになった。しかしこのチョモランマはチベット名であるチョモルンマを中国語に音訳した珠穆朗瑪(Zhumulangma)の日本語への音訳であり、現地名とは少し異なる。例えば富士山を世界の人々が fushi と中国発音で呼ぶとするなら、ちょっと気持ちの良いものではない。ただしチベットに於ける地名の発音は隣の谷では違ってしまうようなもので、必ずしも一定ではない。またチベット名のチョモルンマは8848mのあのピークだけを指すのではなく、ローツェやヌプツェ、チャンツェなど周辺のピークを含めた山塊(参照)を指すものだという話もある。ではあるが、例えばローツェは南岳、チャンツェは北岳という意味であるので、チベット人達はそれらを含めた山塊を全体でひとつの山と見ていたということであり、従ってその最高にして中央であるピークを指してはやはりチョモルンマと呼ぶのであろう。ここでは英名のエヴェレストとともに中国名であるチョモランマを廃し、チョモルンマで呼ぶことにする。

 さて、チョモルンマ登頂のためのベースキャンプは一般的な場所で2ヶ所ある。ネパール側では北西稜南のクーンブ氷河上(参照)、チベット側では北壁からのロンブク氷河舌端だ。このうちネパール側には何日間かのトレッキングを経なければ行くことができないが、チベット側ベースキャンプへは自動車で行くことができる。僕の場合、チベットの首都(区都ではなく敢えてこう呼ぶ)ラサの宿に溜まっていた欧州人3人と日本人2人とともに6人で四輪駆動車をチャーターしてネパールとの国境を目指した。途中、ヤムドゥク・ツォシガツェ、サキャ、ギャンツェといった町や村を経由して、ロンブク寺に着いたのは4日目だった。
                                    ロンブク寺はベースキャンプの手前6・7km、標高5000mに建
ロンブク寺                            てられたニンマ派のチベット僧院で、文化大革命の時に破壊さ
b0049671_19593654.jpgれたが、その後、修復された。とはいえ、僕が訪れた時には痛みが激しく、廃墟に近い感じさえした。この寺に石積みの宿泊施設が併設されてる。木の扉は隙間から外が見えるような代物で、ブリキ製のストーブが置いてある。ここではそれにくべる薪は貴重品だ。ベッドも石を積んだもので、土でドロドロになった毛布を貸してくれる。食事は出ないので、もし暖かい物が食べたければこのストーブで持参した食材を調理することになる。缶詰を温めるとか湯を湧かすとか、そういうことだ。
 僕にとって5000mを越す場所に立つのはこの旅が始めてだった。おそらく4000mを越えたのも初めてだったのだと思う。ただロンブクに至るまでには、青海省からのバスを含めて何ヶ所か
                                   の5000mを越える峠を通って来ていた。しかもラサ(標高3650m)には2週間も滞在し、ここまでの道々の村や町も4000mを越えていたのでそれなりに高所適応している筈だった。だが5000mというのは全く別の世界であるということを思い知らされたものだ。もちろん寺の宿泊所に水道などというものは無い。水は数十メートル離れた自然の水場まで汲みに行くことになる。水を入れた鍋を持って、この僅か数十メートルが歩き切れないのだ。たった一度の水運びで息を切らせてしまった僕は、その夜、ずっと頭痛に悩まされたのだった。
 到着したその午後、ロンブク谷は霧に包まれ全く見通しが利かなかった。翌早朝、気温氷点下10℃、漸く色が薄くなり始めた空には一片の雲も無い。チャンツェからの稜線とギャチュン・カンからの稜線に挟まれた狭い谷の奥に、チョモルンマの巨大な北壁が聳えている。それは神々しく圧倒的な威容だ。

B.C.からのロンブク氷河とチョモルンマ                           朝のチョモルンマ(ロンブクから)
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 僕がこのベースキャンプを訪れたのは1993年のことだった。その後、2005年には青海省ゴルムドからラサまでの鉄道が開通し、翌年7月からは旅客運行が開始された。それに伴い多くの中国資本と漢族、中国文化が怒濤のように中央チベットに流れ込んでいるようだ。このベースキャンプもロンブク寺周辺も、やがて大きく変わっていくのかもしれない。いや、既に珠峰観景台賓館というホテルが建っているらしい。山にゴミを散らかしたり自然を汚したりすることに掛けては日本人も秀逸だが、中国人が大挙して訪れるようになるのかと思うと少々暗い気分になるのは、あながち偏見とばかりは言えないだろう。
 ところで、2008年の北京オリンピックで聖火リレーがチョモルンマを登頂することになっている。その為にベースキャンプまでの道を舗装工事するのだそうだ。そもそもチベットは中国によって占領支配されいる土地である。占領地の最も象徴的な場所のひとつであり、被占領民の信仰の対象ともなっている山に、占領国のオリンピックの為に紛い成りにも平和の象徴でもある聖火が運ばれるなどという暴挙を、世界はただ看過するに任せて果たして良いものなのだろうか。余談だが、登頂という思考をチベット人達は持たないといったような意味のことをダライ・ラマ14世が語っていたのを思い出す。

2008.5.10 追記
5月8日、日本時間正午前、世界の懸念の声にも拘わらず遂にオリンピック・トーチはエヴェレスト山頂に運ばれた。チベットの人達にとっては陵辱されるにも等しい想いだろうと想像すると、胸が痛い。


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                                             ロンブク寺付属の宿泊所(最奥が著者)
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by meiguanxi | 2007-10-24 20:04 | ヒマラヤ・チベット | Comments(4)
アンマン (ヨルダン): シリアからヨルダンへ国境越え
[ 中東主要部略地図 ]
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                                                     ローマ劇場とアンマンの街

 シリアの首都ダマスカスからヨルダンへのチケットを、国営のカルナック・バスが売ってくれない。バスは確かに走っているのだ。実は日本赤軍絡みの問題で、シリアから陸路の日本人旅行者をヨルダンのイミグレーションが通さないことが良くある為らしい。途中で聞いた情報では、問題無く通れるようになったという話だったのだが、こういう問題は実際に現地に足を運ばないと分からないこともある。
                                     いや、これは1992年に於ける旅行事情で、現在は変わって
ローマ劇場前の列柱街路                   いるのかもしれない。少なくとも1992年当時、地中海東岸域の
b0049671_19411276.jpg国境事情は非常に厄介だった。具体的にはトルコ・シリア・ヨルダン・イスラエル・エジプトといったルートだ(この当時、前年の湾岸戦争によって、イラクへの渡航は既に難しくなっていた)。
 事態を難しくしていたのは勿論イスラエルへの入国を巡る事情だ。パスポートにイスラエルの入国印(或いは入国を示す形跡)がある場合、エジプト以外のアラブ諸国には入国できなかった。ただし不思議なことにヨルダンからイスラエル入国することはできた。ヨルダンとイスラエルが戦争状態終結宣言を交わした1994年の2年前のことだ。首都アンマンからヨルダン川に架かるアレンビー橋を渡ってウエスト・バンク(ヨルダン川西岸地域)へ入域するという建前だ。この地域への入域にはヨルダン政府の許可証を取得する必要があった。パレスチナ暫定自治政府が出来る何年も前の話で、イスラエル占領地域であるから実質的には出国であるわけだが、ヨルダン側では出国印を押さない。一方、イスラエル側のイミグレーションでは入国印を入国カードに押す。従ってここを往復する限りは、イスラエル入国の形跡はパスポートに残らないという仕組みだ。
 例えばエジプトから北上する場合、直接国境を接しているイスラエルに入国してしまうと、その後は何処にも進めなくなってしまう。この場合、シナイ半島(エジプト)のヌエバから船でヨルダンのアカバに向かうことになう。イスラエルへはアレンビー橋を往復するしかない。
 逆にトルコから南下する場合には、アレンビー橋からイスラエルに入り、陸路でエジプトに抜けることは出来る。勿論、その先は海路か空路になるのだが。ただしこのコースの場合に問題だったのが、シリアからヨルダンへの入国だった。情報では越えられるか否かはその時のイミグレ・オフィサーの気分次第という、頼りないものだった。

キング・フセイン・モスク(旧市街)                         キング・アブドゥラ・モスクと教会(新市街)
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 さて、とにかく僕の場合、シリアの国営バスであるカルナックはヨルダンへのチケットを売ってくれなかったのだ。仕方なくバスターミナルの私営のオフィスへ行ってみる。明日の朝5時に来ればアレッポからのバスが通ると告げられる。ただしリザーブは出来ない。
 「何故、カルナックはチケットを売らない?」と髭を蓄えたオフィスの男は言った。
 僕、「日本赤軍を知ってるか?」
 彼、「Oh、ファンタスティック!お前は好きか?」
 「…難しい問題だね」
 「何故?何も難しくない。殆どのアラブの政府はアメリカ政府とCIAに、犬コロみたいに尻尾を振ってやがる」
 まあ、彼の言い分も分からなくはない。だが、僕としてはパレスチナ問題では一貫してパレスチナの側に立ってはいたが、だからといって重信房子や岡本公三を支持するわけにもいかない。僕は日本赤軍とカルナックがチケットを売ってくれないこととの関係を簡単に説明した。
 髭の男は言った。「ヨルダンからイスラエルに行くのか?」
 シリアにとってイスラエルは天敵だ。ゴラン高原をイスラエルに占領されているという事実もある。厄介な話題だな、正直に言えば僕はそう思った。
 「まあね…」
 「日本人はみんなイスラエルに行く。お前はイスラエルやアメリカが好きなのか?」
 「…いや…イスラエルやアメリカの政府は嫌いだ。アメリカに尻尾を振っている日本の政府も嫌いだ」
 「なら何故、イスラエルへ…?」
 「ヨルダンからエジプトに陸路で行きたいんだ。オリエントの歴史やこの辺りの文化にとても興味があるし、尊敬している。だからどうしても陸路で全てを歩きたい。その為にはイスラエルを通らなければならない。それに、あそこにはエルサレムがある。エルサレムは、あなた達にとっても大切な場所だろ?見ておきたいんだ」
 男は遠くを見詰めながら、なるほどというように大きく頷いた。少しばかり歯が浮く思いもあったが、あながち嘘でもない。こういう場合には、立派な回答だ。ただ、男の視線の先に写っていたものが、彼が立ち入ることのできないイスラエルに占領されたパレスチナやゴラン高原の風景なのか、それとも度重なる戦争で死んでいった彼の知っていた筈の人達の顔なのか、それは分からなかった。

エル・カサル(アンマン城址)                                           エル・カサルにて
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 翌日、ほんの仮眠だけで3時45分に起きる。驚いたことに、前日その話をしていたからだろう、ホテルの人が4時に起こしに来てくれた。勿論、立派なホテルではなく、置屋を兼ねているようなただの安宿だったのだが。
 しかし、結局バスは来なかった。アレッポからのバスは既に満員だったのだろう。すると例の髭の男は、バスターミナル横のやたらと広い乗り合いタクシー広場を歩き回り、1台のタクシーを捜して来てくれた。自分で探して交渉するとしたら大変な労力を必要としたことだろう。
 「このタクシーがアンマンに行く」と男は言った。
 既に子供1人を含む4人が乗っていた。料金を聞くと悪くない。情報を得ていた相場だ。
 「Good luck!」と男は親指を立てた。彼は手数料さえ取らなかったのだ。

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                                                夕刻のラマダン明けを待つ食堂前
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by meiguanxi | 2007-10-21 19:46 | 中東・北アフリカ | Comments(2)
ダマスカス (シリア) : アラブの誇り
[ 中東主要部略地図 ]
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                                                   ウマイヤ・モスク(同以下2枚)

b0049671_22192018.jpg アラブの誇りダマスカス。シリアの首都だ。パルミラからは、土獏の中をバスで3時間。この街はアレッポと同じく、ヒッタイト、バビロニア、アッシリアなどという有史最初期からその名を現す、現存する最古の都市のひとつだ。
 また、ムハンマドに始まるイスラーム帝国(サラセン:大食)に於いて、第四代カリフの死後、いわゆる正統カリフ時代の後を引き継いだウマイヤ朝(661~750)の首都が置かれた場所でもある。街にはこの時代の、完全な形で現存する世界最古のモスクであるウマウヤ・モスク(715年建立)があり、今も多くの信者を集めている。この中の祭壇には、ヨルダンで斬首された洗礼者ヨハネの首が収められているという。イスラームも要はユダヤ教、キリスト教の流れを汲む宗教だ。イスラームに於いてもヨハネは預言者(神の言葉を預かって伝える者。予言者ではない)の一人とされている。
 イスラーム帝国の首都といえばバクダッドをイメージするかもしれない。だがそれはこの後のことだ。正統カリフ時代が終わると、イスラーム世界はカリフの正統性を巡ってスンナ派とシーア派に分裂する。ウマイヤ朝が東ローマ帝国との抗争の中で勢力が衰えると、反ウマイヤ勢力はシーア派を巻き込んでウマイヤ朝を倒しアッバス朝(東カリフ帝国)を建てる。一方、ウマイヤ朝は当時支配下に置いていたイベリア半島に逃れ、コルドバ(現スペイン)を首都に後ウマイヤ朝を建てる。この時、アッバス朝が首都を置いたのがバクダッド(現イラク)だ。
 ただしアッバス朝はシーア派国家だったわけではない。イラン
b0049671_22201715.jpgでは651年にササン朝ペルシャがサラセン帝国(ウマイヤ朝)に滅ぼされたが、スンニ派がイランに於いて確固とした勢力を得るのは、1502年、ササン朝以来のイラン人独立国家であるサファヴィ朝まで待たなければならない。
 いずれにせよ、ダマスカスはバクダッド以前にイスラーム・アラブの都だったのだ。
 サラーフ・ウッディーン(サラディン)という名前をご存知だろうか。1099年、十字軍はキリスト教・イスラーム双方の聖地であるエルサレムを陥落し、ここを首都にキリスト教国であるエルサレム王国を築く。1187年、これを奪還したイスラームの英雄がサラディンだ。尤も、彼は民族的にはクルドだったようだが。彼は今、ウマイヤ・モスク北門外の廟に祭られている。

スーク(アラブ式バザール)                                                町角の商店
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 ところでダマスカスの街を歩いていると、「マダーム?」と良く声を掛けられる。要するにポン引きだ。これはあくまで印象だが、この街の安宿にはその手の置屋を兼ねたものがかなりあるようだ。実は泊まった宿もそうだった。これはアレッポで泊まったような宿ではなく、あからさま場所だった。小さなビルの3階がレセプション。部屋は3階から5階まで。4階は全て彼女達の部屋で、昼間からあられもない姿を目にする。時々男達と開け放したドアに凭れながら交渉したり談笑したりしている。
 泊まった5階には2部屋しか無く、いわゆる屋根裏部屋だ。部屋にいてもそんなざわめきや笑い声が聞こえてくる。ラマダーン(断食月)にも関わらず漸くバザールで見付けた実に不味い白ワインを呑みながら、不貞腐れているしかなかった。

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                                                     新市街 マルジェ広場 付近
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by meiguanxi | 2007-10-17 22:24 | 中東・北アフリカ | Comments(0)
アルチ・トゥジェチェンポ・ゴンパ(ラダック):曼荼羅に囲まれたお堂
[ カシミール・ラダック略地図 ]
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                                                   トゥジェチェンポ・ゴンパ遠景

 アルチはインド西北部ヒマラヤ山中ラダックの中心の町レーからインダス川右岸を西に下ること60数km、サスポル村の先で街道と分かれ、吊橋で対岸に渡り4kmほどの所にある小さな村だ。この村を有名にしているのはラダックに留まらずチベット文化圏随一とも言われる仏教美術の宝庫、アルチ・チョスコル・ゴンパ(ゴンパはチベット仏教僧院)の存在だ。
 今では夏の2・3ヶ月の間、毎日のようにチャーターされた四輪駆動車がレーから沢山の外国人旅行者を運んで来る。1994年に訪れた時にはなんのことはない農村に過ぎなかった村、だが2007年に再訪すると村には多くのゲストハウスが建ち、チョスコル・ゴンパの狭い参道には土産物屋が軒を連ね、ケーキを食べさせるカフェまでできていた。村の規模と観光客数のアンバランスに戸惑ってしまうほどだ。だが多くの旅行者はゴンパを見ただけで足早にレーに戻ってしまうし、宿泊客たちもそれぞれのゲストハウスで食事を取るので、夜の村は至って静かで道は暗い。
 この旅行者数の変化はチョスコル・ゴンパ拝観のレギュレーションにも変化をもたらしていた。そのひとつは内部の写真撮影が完全に禁止されてしまったことだ。その意味では94年に僅かばかり撮った写真は貴重なものになってしまった。もうひとつは、少なくとも2007年の夏、ひとつのお堂が公開されなくなっていたということだ。僧侶に訊ねると、忙しいからというのがその理由だった。このゴンパは日常的に僧侶達が勤行をしているゴンパではない。拝観は1人(時に2人)だけで番をしている僧侶に拝観料を支払い、彼が順番に錠前を外してくれるお堂を見学するのだが、彼はそのつど鍵を掛け直す。しかも撮影禁止である訳だから、誰かが何処かのお堂を見学している間、彼はそれに付き添っていることになる。確かに忙しいし、うっとしいことだろう。彼は常に不機嫌で苛立っていた。
 さて、僕はこの時、ザンスカールでのトレッキングで足首を骨折しており、痛む足を引き摺ってインダスの橋から歩いて来ただけに、これらの変化や僧侶の対応にかなり凹んでいた。ところが、以前には情報不足から観ることのなかった別のゴンパを訪れたことで、僕の気分は一気に晴れ渡ってしまった。
 トゥジェチェンポ・ゴンパはチョスコル・ゴンパへの参道に背を向けて、村の民家と畑の中を歩き、澤を渡った村外れの岩の上にひっそりと建っている。チョスコル・ゴンパとは違って訪れる人も少なく、常住する僧侶もいない。それぞれ独立した建物が小さな中庭を囲んでいる。ゴンパというよりはお堂の集まりだ。
 近所の住民が世話をしているらしいが、普段開いているのは中央のツァツァプリ・ラカンと右側のトゥジェチェンポ・ラカンの2つ。どちらの内部もその壁面の全てが素晴らしい曼荼羅で埋め尽くされている。僕が訪れた時にはたまたまもうひとつ、左側の建物の2階に或るあるお堂でドイツ人の若い女性が壁画の誇りを払い、ひび割れ捲り上がってしまった塗料を押し返す作業をしていた。痛みが激しいのだ。小さなトーチで照らしながら乾いた綿(わた)でそっと押さえる。神経を使う地道な作業だ。ひび割れた塗料は数ミリの破片になって浮き出している。彼女の所属するプロジェクトの規模は分からないが、早急な、根本的な対策が施されるべき文化遺産は、この地域にはあまりに多い。



                             【トゥジェチェンポ・ラカン】

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                              【ツァツァプリ・ラカン】

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                              第三のお堂(名称不明)

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              第三のお堂入口からのトゥジェチェンポ・ラカン(右)とツァツァプリ・ラカン
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by meiguanxi | 2007-10-14 23:41 | ヒマラヤ・チベット | Comments(0)
パルミラ遺跡 (シリア): 砂に消えた悲劇の貴婦人
[ 中東主要部略地図 ]
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                                                           記念門(凱旋門)

b0049671_10563011.jpg 緑豊かなユーフラテス川を離れ、デリゾールから西南西に、道は土漠へと入って行く。デリゾールから2時間、それは荒涼とした土漠の中に唐突に姿を現す。古来、この地はダドモルと呼ばれ、交易で栄えてきた。ダドモルもパルミラも、それぞれ古代セム語とギリシャ語のナツメヤシに由来する。その名が示す通り、豊かなオアシスであり、水とともに塩原にも恵まれていた。
 だがパルミラが本格的に繁栄するのは紀元前1世紀。当時、西のローマ帝国と東のパルティア王国(ペルシャ)との勢力が拮抗する中で、緩衝地帯としての特権を得、両大帝国からの巨額の関税で栄華を誇ることになる。
 紀元270年、暗殺されたオダイナトス王の幼少の後継者に代わって、その母セノビアが摂生を執る。伝承によれば、彼女は自らクレオパトラの子孫を名乗る程の美貌を備えていたという。この時代、ユーフラテス川(現イラク)からナイル川(エジプト)までをその領土として誇った。
 だが、野望が彼女を悲劇へと導く。ローマ征服を画策したパルミラに、272年、ローマ皇帝アウレリアヌスが兵を向ける。ゼノビアは処刑され、交易都市としての機能を失ったこの都市国家は歴史の表舞台から姿を消す。オスマン帝国の時代には都市としての機能も失われ、嘗て栄華を誇った街はやがて砂の中に埋もれていった。

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                                                             パルミラ全景

 現在のダドモル(パルミラ)の町は人口3万程度の小さな田舎町に過ぎない。町に隣接する遺跡群は最大幅1km近く、長さ2kmにも及ぶ。しかし首都ダマスカスから230km、バスでも3時間の距離だ。時折やって来る観光客達は慌しく見学を終え、大型バスで去って行く。

アラブ城遠景                                                           四面門
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ペル神殿                                                          ゼノビア宮殿
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 一面、赤い土漠。容赦なく照り付ける陽射しを避ける物は何も無い。誰もいない広大な遺跡、乾燥した風が吹き抜ける音だけが耳に鳴り渡る。乾燥は体内の水分を激しく奪っていく。暑さと光に少し朦朧とした意識の中で、古代の人々のざわめき、石畳を駆け抜ける馬車の響き、物売りの威勢の掛け声…そんなものが聞こえてきそうな錯覚に陥る。夕暮れ時、荒野に真っ赤な太陽が沈んでいく。その手前には古代の列柱や門、神殿がシルエットになって浮かび上がる。古の都に古い夢の欠片たちが蘇る時間だ。

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                                                             パルミラ夕景
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by meiguanxi | 2007-10-13 11:13 | 中東・北アフリカ | Comments(0)
デリゾール (シリア) : ユーフラテスに沈む夕陽
[ 中東主要部略地図 ]
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                                           ユーフラテスに沈む夕陽とデリゾール大橋

デリゾールの露天バザール
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 アレッポは比較的近代的な街で、スーク(アラブ式バザール)を除けばさほどの違和感は感じられないが、ここから奥地へ入ると地のアラブ世界を実感することができる。
 トルコ国境に近いアレッポから西に進むと、アサド湖に突き当たる。トルコ領から南下して来たユーフラテス川を堰き止めた人造湖だ。チグリス川と共にメソポタミア文明を育んだ中東有数の川は、ここから進路を大きく南東に変え、やがてアラビアンナイトの都、イラクのバクダッドに向かう。
 この川沿いには多くの古代遺跡が点在している。中でもイラク国境近くのマリの遺跡から発掘された王室公式文書(マリ文書)は、ヘブライ人(“川の向こうから来た人”の意)の祖先がアブラハムの一族であるという旧約聖書の記述を照明したとされることで有名だ。
 方向を変えた川沿いに更に走るとデリゾールの町に至る。アレッポからバスで3時間。これといった観光資源も無いほんの小さな町だ。ただ、ユーフラテスに掛けられた大きな橋、その向こうの平原に沈む真っ赤な太陽だけが印象的だ。
 男達の多くは、カフィーヤという布を頭に被り、イカールという紐輪で止めている。PLOのアラファトが被っていたような布だ。この辺りの物は、白地に濃いピンクのチェック。日焼けした堀の深い顔、鋭い眼光。ここは異郷だ。



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                                                       デリゾールの町角にて
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by meiguanxi | 2007-10-10 20:17 | 中東・北アフリカ | Comments(0)
アレッポ (シリア):古代商業都市への長い道
[ 中東主要部略地図 ]
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                                                          アレッポの町並み

b0049671_154434.jpg 嘗て、日本でシリアのヴィザを個人で取得するには、旅行会社からの推薦書や英文日程表などの面倒な書類が必要だった。勢い旅行会社に高い金を払うことになる。現在ではこのレギュレーションは大きく変わっているよだが、とにか1992年は面倒だったのだ。時間に余裕があるなら、こういうものは隣国で取る方が一般的には簡単だ。イスタンブール(トルコ)の領事館では、日本領事館からのレター(推薦書)があれば翌日には発行された。レターは日本領事館で15分で書いてくれた。定型文に名前やパスポート番号などを記入するだけの形式的なものだ。
 トルコのアンタクヤのある地域は、地中海沿いに少しシリア領に入り込んでいる。ここからシリア第2の都会であるアレッポまでは、直線距離にすると100km程しかない。しかし12時半に出発したバスは、この100kmに6時間も掛かってしまう。そのうちの4時間は、
アレッポ城跡                                      シリア側イミグレーションでの時間待ちだ。
b0049671_18334440.jpg トルコ側の出国手続きを終え、十字軍の要塞跡を横目に見ながら5分、あっという間にシリア側に着く。ここまで出発から1時間。第三国人の入国手続きは至って簡単なのだが、何しろ職員の対応が遅く、満員の乗客(殆どがシリア人)全員の手続きに小1時間掛かる。この先がカスタム。これは高速道路の料金所のように成っていて、4車線それぞれにバス3台分位の長さのプラットホームがある。ここで全ての荷物を降ろしてチェックされるのだが、まず始まるまでに2時間ほど待たされる。いざ始まると第三国人はノーチェック。しかしチェック中はバスの中へは入れない。シリア人達の荷物は膨大だ。トルコから買い出してきたのだろう大きな毛布、玉葱を詰めた麻袋、パンパンに膨らんだ訳の
                                   分からないポリ袋、机、椅子…全てが終わるまで小1時間、寒
                                   風に耐えることになる。

カーン・アル・ワジール(キャラバンサライ)                                     アルメニア教会
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旧市街の路地とモスクの鐘楼
b0049671_18414486.jpg 漸く走り出したかと思うと、ポリスが乗り込んできて全員のパスポートチェック。そしてバスは10kmでエンスト。応急修理をし、更にガゾリンスタンドで何かをし…そうこうするうちに辺りは暗くなる。周囲は荒野だ。この先に都会があるなんてとても思えない。しかしシリア人達は一向に気にしていないようだ。18時、乗客たちはラマダン明けの軽食(イスラームでは年に1ヶ月間の断食月があり、この時は夜明けから日暮れまで一切の食物を口にしない)を食べながら、大きな声で話をしている。インシャ・アッラー(神の思し召しのまま)なのだ。それにしても隣の人間と話をするのに、何故こんなに大きな声が必要なのか。
 僕は町のロクな地図すら持っていなかった。当時、日本語の個人旅行用ガイドブックはこの国をまだ扱っていず、持っていた英語のガイドブックには地図が掲載されていなかった。東京での18時の在り方について思い起こしてみた。TVが一斉に夕方のニュースを流し始める時間だ(現在は17時前からニュースを放送しているが、1992年には17時台はドラマの再放送か娯楽版番組の時間枠だった)。まだ会社にいれば、軽い夕食を終えて残業に入る時間だ。定時で終わっていれば、近くの店でニュースを見ながらビールの最初の1杯に口を付ける時間だ。大丈夫、そう考えればまだたいした時間ではないのだ。

スーク(バザール)                                                     スークの天井
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 アレッポの歴史は古い。伝承を含めれば5000年に及ぶ。紀元前17世紀にはヒッタイトに占領されたとの史実がある。街に残るアレッポ城址は紀元前10世紀に起源を持つという。ハム人(エジプト)、セム人(アラブ)、アーリア人(イラン)が攻防を繰り広げ、モンゴルやチムールの攻撃に耐え、十字軍が走りぬけて行った。その間、一貫して繁栄を持続し続けた街。
 バザールをアラビア語でスークと言うが、そこは長さ2km、幅500mもあるだろう巨大な屋根付きの迷路だ。そしてそこには何時も人々の活気が溢れている。
 ところで、すっかり暗くなったこの街で飛び込んだ安宿は、夜の職業の女性達がアパート代わりにしているアットホームな宿だった。入り口に小さなロビーがあり、その周囲と上階に部屋がある。ロビーの石油ストーブは、彼女達の井戸端会議の場だ。夕方の出勤時間が近づくと、共同シャワーからあられもない姿で出て来たりする。そしてそのまま話の輪に加わる。まるでストリップ劇場の楽屋のような宿だ。
 僕にとって幸いだったことは、彼女達はことごとく若くはなかったということだ。もしそうではなかったなら、とてもじゃないが、落ち着いてはいられなかっただろう。

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                                              グラン・モスク(ジャミア・ザカリーエ)
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by meiguanxi | 2007-10-06 18:50 | 中東・北アフリカ | Comments(0)
アンタクヤ (トルコ) : シルクロードの終点
[ 西アジア略地図 ]
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                                                         アンタクヤの町並み

 現在ではイスタンブールのオトガル(バスターミナル)は旧市街からトラム(路面電車)と地下鉄とを乗り継いだ遥か郊外に移ってしまったが、以前は中心部から5km程の テオドシスの城壁 のすぐ外にあり、トプカプ・ガラジと呼ばれていた。それは現在のオトガルのように近代的な場所ではなく、舗装もされていない広大な広場に無数のバス会社のブースが無秩序に立ち並び、数え切れないバスが犇く、それは混沌の坩堝のような場所だった。現在ではアジア側に渡る多くのバスが第2ボスポラス橋を渡るのかもしれないが、まだボスポラス海峡に架かる橋が1本だった時代だ。
 午後3時にトプカプ・ガラジを出発したバスは、約20時間掛けて地中海の最奥北端の小さな町に着く。ここを南に下ればシリアやヨルダンといったアラブ中東。トルコの外れの町であり、中東への玄関口だ。アンタクヤは第一次世界大戦から暫くフランス統治下のシリアに編入されていたことがあり、現地では当時の呼び名であるハタイの方が通じが良い。だが、歴史や聖書に詳しい方には、ギリシャ風にアンティオキアと言った方がピンと来るだろう。


旧市街の路地とモスクの鐘楼                                ハビブ・ナシャル・ジャミィ(モスク)
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 東は中央アジアからインダス川(現パキスタン)にまで及ぶ大帝国を打ち立てたギリシャ(マゲドニア)のアレクサンドロス(アレクサンダー)の死後、帝国は本拠地バルカン半島のマケドニア王国、プトレマイオス朝のエジプト王国、セレウコス朝のシリア王国、及びその他の小国に分裂する。この内、小アジア(アナトリア:現在のトルコ)からインダス川に及ぶ西アジア一帯の広大な領土を引き継いだのが、シリア王国だ。アンティオキアは、セレウコスⅠ世によって紀元前300年頃に建設され、シリア王国の首都となった。


聖ペテロ教会(外観)                                              聖ペテロ教会(内部)
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     キリストの死後、使徒ペテロがこの地を拠点に布教活動を始め、
   弟子達が初めて「キリスト者(クリスチャン)」と呼ばれたのも、この町
   だ。勿論キリストはキリスト教徒であった訳はないので、ここがキリス
   ト教という宗教発祥の地だと言っても過言ではない。町の郊外には、
   ペテロが初めて説教をし、キリスト者のコミュニティを作ったとされる
   石窟寺院、聖ペテロ教会が今も残る。尤も、山の斜面に穿たれた内
   部は意外に狭く、壮麗な装飾も無い。ただ想像力だけが往時への案
   内人だ。
  また、ローマ時代には、ローマ、アレクサンドリア(エジプト)、コンスタンティノープル(イスタンブール)、エルサレムと並んで、ローマ教会の五大本山が置かれた場所でもある。しかし、6世紀の大地震やイスラームの進入により、現在では見るべき遺跡も殆ど残っていない。
 ここは遥か長安から続いてきたシルクロードの陸の終点だ。物品はここから船でローマを始め各地に輸送されていった。しかし、現在のアンタクヤの町は静かな田舎町だ。12世紀の十字軍によって造られた教会が、後にイスラームのモスクに改修されが、このハビブ・ナジャル・ジャミィだけが、僅かに往時を偲ばせる。町にはアラブ系の住民も多く、ここから西に1時間程、十字軍時代の要塞跡などが残る道を行けば、シリアとの国境。シリアの地図では今も、この町はシリア領として記載されていると言う。
 僕がこの町を訪れたのは1992年、当時はここからシリアやヨルダンに向かうためには、イスタンブールの日本領事館(又はアンカラの大使館)で発行してもらったレターを持って当該領事館(大使館)でヴィザを取得しなければならなかったが、その後、ビザを巡る状況は時々に変化しているようだ。現在のアンタクヤの町は往時の賑わいもさほど観光資源があるわけでもないが、いずれにせよ陸路に拘る旅行者にとって今もこの町は要衝であることに変わりはない。

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                                                              町のナン屋
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by meiguanxi | 2007-10-04 18:34 | 絲綢之路Ⅲ[西亜] | Comments(0)