<   2007年 11月 ( 12 )   > この月の画像一覧
カルシャ・グストル (ザンスカール):ヒマラヤ秘境の仮面舞踏
[ カシミール・ラダック略地図 ]
b0049671_195473.jpg

 ヒマラヤの山々に抱かれたインド西北部、チベット仏教文化圏であるラダック地方から更に隔絶されたザンスカール地方。チベット仏教僧院カルシャ・ゴンパは岩山にへばりつくように沢山の伽藍が上へ上へと建てられている。岩山の麓の村の標高が3630m、ゴンパ最上部は3800mもある。延々と続く九十九折の坂道を登折り返し折り返し、最上部までは20分ほど掛かる。
 チベット暦5月28・29日(西洋暦7月)、カルシャ・ゴンパではグストルという祭りが開かれる。グストルとは九日施食の意味で、祭りは9の付く日が最終日となるように行われる施餓鬼供養で、これはチベット仏教各宗派の中でもゲルク派に特有のもの。1週間続く法要の最後の2日間に、チャム(仮面舞踏)が行われる。


b0049671_18564656.jpgb0049671_18573022.jpg


 2007年のチャムは本来、西洋暦で7月11・12日だったのだが、ラダックで高僧が亡くなった関係とかで1日順延になった。ゴンパ最上部にドゥカン・ヨクマとドゥカン・ゴンマという2つのお堂がある。ツェチュはこのドゥカン・ヨクマの中庭で行われる。僕はこの時、ラダックからのトレッキング途中で右足外踝を骨折していた(紀行)。怪我から5日後、漸く辿り着いたザンスカールで唯一の一応 “町” と呼べなくもないパドゥムの病院には X-ray は無く、医師は捻挫だと診断した。その2日後の7月12日昼、腫上がった足を引き摺りながら急勾配をゆっくりと登る。
 その場所は以外にも狭く、ラダックのヘミス・ツェチュの舞台とは随分とちがう。しかもドゥカン・ヨクマの中庭には数人の西洋人が所在無げにしているだけだ。ヘミス・ツェチュの時には何時間も前から場所取りの観光客でごった返していたのだが。前日から何人かの僧侶に開始時間を聞いているのだが、12時半だと言う人もいれば14時だと言う人もいて、どうもはっきしない。これから有名な祭りが始まるのだといった緊張感が全く無い。だが仮面を付けた2人の男が真鍮製の水差しから掌に液体を配っている。舐めてみると甘い。清めかなにかなのだろうか。やはりここでチャムが行われるのだ。


b0049671_1858649.jpgb0049671_18583598.jpg



b0049671_18591817.jpgb0049671_18594652.jpg


 やがて三々五々観客たちが集まって来る。そしていつの間にか会場は一睡の余地も無いほどの人々で埋め尽くされた。殆どはザンスカールの人々で、外国人観光客はお互いに顔見知りになるほどしかいない。仮面を付けた小坊主たちが2本の棒を持って観客たちの間をまわって歩く。棒の先が紐で繋がっていて、これで観客を捕らえてお布施を強要する。茶化してお菓子などを渡してみると、怒って近くに座っていた子供に投げ付けるようにして行ってしまう。しつこくはあるがユーモラスでもある存在だ。
 ドゥカン・ヨクマの入り口に沢山の僧侶たちが集まって来る。いよいよ準備は整った。楽士の僧侶たちが所定の位置に付き、厳かな音が奏でられる。中でもギャリン(チベット・チャルメラ)とスイルニェン(シンバル)、そしてなんと言っても4m位はありそうなドゥンチェン(チベット・ホルン)の重い音が印象的だ。ヴォーン、ヴォッ、ヴォッと単調な調べに、時折スイルニェンの銅鑼が響く。腹の底を突き上げられるような音。


b0049671_1903178.jpgb0049671_19058100.jpg



b0049671_1913944.jpgb0049671_192870.jpg


 ドゥカン・ヨクマの中庭から狭い階段がドゥカン・ゴンマに登っていて、これが花道になる。まずハシャン(和尚)とハトゥク(子供達)が登場する。彼らは2日間を通して舞台隅に座って儀式を見守るのだ。そして様々な忿怒護法尊、墓場の主である骸骨装束のチティパティ、黒帽の行者ンガッパなどがそれぞれの舞踏を奉納する。カルシャ・グストルではこのンガッパの役割がヘミス・ツェチュに比べて遥かに大きいように感じる。
 運良く花道である階段脇に陣取った観客の夫人たちは、登退場する舞踏演者である僧侶たちに深々と頭を下げ、下げた頭を舞踏衣装の裾に擦り付けようとする。信心の深さの表れでもあり、功徳を願う想いの強さでもあるのだろう。


b0049671_1925488.jpgb0049671_1932051.jpg
b0049671_1935837.jpg

 2日目のチャムはヤク、馬、山羊、犬、4匹の黒い動物たちが舞台に登場させられ、祝福を与えられて始まる。前日と同じような舞踏が疲労された後、ツァンパ(チベット系民族の主食であるチンコー麦の麦焦がし)で作ったダオという人形が舞台に置かれる。クライマックスだ。そこに登場するはシャワという鹿面。シャワはダオを切り刻み破壊し、その破片を中庭の外、つまり断崖に放り出す。煩悩や悪霊を払う儀式だ。そして全ての忿怒護法尊とンガッパによる舞をもってチャムは終わる。
 終わっても尚、身体の中にはドゥチェンの重い音と単調だが魂を揺さぶるような調べが流れているかもようだ。祭りが終わり、僧侶たちは日常に戻る。ドゥカン・ゴンマ奥の独立した小さなお堂ゴンカンでは今日も僧侶たちの読経が始まる。僕は配られた塩辛いバター茶を啜りながら、その調べに身を任せる。ザンスカールの短い夏の、特別な一日が終わる。

※ 別サイトでフォト・アルバムにしましたので、合わせてご覧頂けると幸いです。

b0049671_22435020.jpg

[PR]
by meiguanxi | 2007-11-30 19:07 | ヒマラヤ・チベット
チューチグザル・ゴンパ (ザンスカール): カルシャ村の尼僧院
[ カシミール・ラダック略地図 ]
b0049671_2173685.jpg
                                 チューチグザル・ゴンパ(手前)と対岸のカルシャ・ゴンパ

 インド西北部、ヒマラヤに抱かれたザンスカール地方の中心であるシュンという地域の盆地北辺、急峻な岩山にへばりつくようなカルシャ村。カルシャのゴンパ(チベット仏教僧院)といえば勿論カルシャ・ゴンパだが、この村にはもうひとつ素晴らしいゴンパがある。
 カルシャ・ゴンパを村の中心まで下り、狭い沢を渡って少し上り返すとキャンプ地。ここからカルシャ・ゴンパとは谷を挟んだ向かい側の岩山に登る。沢は細くとも谷は深い。岩山を標高差70mほど登るとチューチグザル・ゴンパという尼僧院がある。

b0049671_2182017.jpg
                                                          チューチグザル像

 建立はカルシャ・ゴンパよりも古い11世紀だという。本尊はチューチグザル(千眼千手十一面観音)像。正確に言うと千手ではなく、八臂だ。高さは6mもある。トーテンポールのように重なった十一面も壮観だが、背景の精緻なトーラナが素晴らしく華やかだ。トーラナとは一般にヒンディで門を指す言葉だが、チベット仏教ではこのような仏像の装飾を指すらしい。
 チューチグザル像が祀られた本堂であるドゥカン・ニンパではまた、これも見事な壁画を見ることができる。お堂の壁面が全て赤を基調にした壁画で埋め尽くされているのだ。これはカルシャ・ゴンパのラブランの物よりも古く、13世紀の作であるらしい。


b0049671_2185817.jpgb0049671_219255.jpg



 ゴンパの伽藍群を更に少し登ると、古いチョルテン(仏塔)がある。ロツァヴァ・チョルテンと呼ばれるものだ。チョルテン内部の天井は何重にもなっている。このような構造と彩色はアルチ・チョスコル・ゴンパなどにも見られるものだが、このチョルテンの特質すべきは内部左右壁面に穿たれた棚に塑像が収められていることだ。小さいものではあるのだが、それを目の当たりにした時の驚きは相当のものだった。古の人々の仏へ帰依する想いは如何ばかりであったかと。


ロツァヴァ・チョルテンの天井                              ロツァヴァ・チョルテン内部壁面の塑像
b0049671_2110157.jpgb0049671_21102914.jpg


 2007年、NHK BS1 で放送されたフランスZED製作の 『テンジンとパルキット~ザンスカール高地の娘たち~』 (原題 : Becoming a Woman in Zanskar)という番組を、ご覧になっただろうか。パルキットという若い女性が親に反対されながらも尼僧になることを志すのだが、彼女を支えた伯母が所属していたのがこの尼僧院だ。
 麓から70mも高い岩山の上にある尼僧院だから、洗濯をするにも谷を中程まで下らなければならない。断崖の中腹に谷の奥の沢上流から引いてきた水路がある。飲用水もここから運び上げるのだ。夏場の風景は穏やかで緑も優しいが、ここは一年の三分の二は深い雪で外界から閉ざされる場所だ。厳しい生活だ。

※ カルシャ・ゴンパとチューチグザル・ゴンパを別サイトでフォト・アルバムにしました。合わせてご覧頂ければ幸いです。

b0049671_211136.jpg
                                                        ロツァヴァ・チョルテン
[PR]
by meiguanxi | 2007-11-28 21:11 | ヒマラヤ・チベット
カルシャ・ゴンパ (ザンスカール): ヒマラヤの天空に聳える伽藍
[ カシミール・ラダック略地図 ]
b0049671_1841480.jpg
                                                        カルシャ・ゴンパ全景

 ザンスカール最大のチベット仏教僧院であるカルシャ・ゴンパの伽藍群はカルシャの村よりも遥かに規模が大きいかに見える。所属する僧侶は200人、常住する僧だけでも数十人になるといわれ、岩山の急斜面にへばり付くように沢山の伽藍が上へ上へと連なっている。その壮観な景観は圧倒的で、6km離れたパドゥムからでもはっきりとそれと分かる。
 逆三角形をしたシュンの盆地北辺を西から東に流れるトゥ川が、盆地南角奥の谷から南東辺を流れてきたツァラプ川と盆地北辺東角で合流してザンスカール川になる。この合流地点の少し西、トゥ川北側の岩山に続く急勾配の扇状地にカルシャ村がある。扇状地の傾斜を登り切り、急峻な岩山に突き当たったところが村の中心で、パドゥムからの乗り合いジープが着く小さな広場だ。広場には数件だけだが小さな商店もある。


キャンプ地から見上げたカルシャ・ゴンパ               最上部ドゥカン・ヨクマ屋上からのドゥカン・ゴンマ
b0049671_18414841.jpgb0049671_18422522.jpg


 この広場から幅1mほどの登り路が付いている。その上り口にチャンバリンという小さなお堂がある。普段は鍵が掛けられていて村人に声を掛けて鍵を開けてもらう。すると正面が岩の山肌であることが分かる。良く見るとその壁面に大きな仏が彫られている。高さ8mもの磨崖仏だ。だが、彫りは非常に浅く、知らなければ気付かないほどだ。お堂はこの磨崖仏を覆うために11世紀に建てられた。カルシャ・ゴンパの創建は15世紀というが、このチャンバリンが基となって発展したのだそうだ。
 さて参道は今ではコンクリートで固められていて歩き易いとはいえ、その九十九折の勾配はきつい。息を切らせて5分から10分ほど、漸く最初のお堂であるラブランに着く。これはカルシャで最も古いお堂だそうで、大きなチューチグザル(千眼千手十一面観音)像と15世紀グゲ様式の見事な壁画が見られる。


ラブランの壁画
b0049671_18463296.jpgb0049671_18473533.jpg


 ここから先、沢山の僧房を擦り抜けて勾配は更にきつくなる。最上部のドゥカン・ヨクマとドゥカン・ゴンマという2つのお堂まで、麓から20分ほど掛かる。チベット暦5月28・29日(西洋暦7月)、このドゥカン・ヨクマの中庭で行われる祭りがカルシャ・グストルだ。2日間のチャム(仮面舞踏)は幻想的で神秘的だ。外国人観光客も訪れるがラダックのヘミス・ツェチュとは違いその数は僅かで、観客の多くはザンスカールの人々だ。


グストルのチャムが行われるドゥカン・ヨクマの中庭                ドゥカン・ヨクマからチャムを観る高僧
b0049671_18442696.jpgb0049671_18445440.jpg


 ドゥカン・ヨクマの中庭から階段が登っている。チャムの時にはこの階段が踊り手である僧侶たちの花道になるのだが、この上にドゥカン・ゴンマがある。このドゥカン・ゴンマの奥に小さな部屋があって、独立したお堂になっている。ゴンカンと呼ばれるもので、多くの古い仏像が祀られた暗い室内はおどろおどろしい雰囲気だ。夕刻、ここでは常住する数十人の層達が勤行する姿が見られる。狭い室内に入り切れない沢山の僧侶たちは、小さな入り口を隔てたドゥカン・ゴンマで読経する。


ゴンカンの入り口                                               ゴンカンで勤行する僧
b0049671_18453446.jpgb0049671_18455988.jpg
b0049671_18463879.jpg

 勤行時は僧たちにとって食事の時間でもあり、ツァンパ(麦焦がし)とバター茶を若年の僧が配る。持参の器に注がれたバター茶でツァンパを練って食する。食後に注がれた茶で器を濯ぎ、それを飲み干し器を僧衣で拭く。その間も読経は続く。食事も修行の一環なのだ。
 この時には同席させてもらっている僕のような観光客にも、ツァンパ(麦焦がし)とバター茶またはチャイが振舞われる。塩味のバター茶を啜り、僧侶たちの音楽のような読経の波に身を任せる。無信仰者ではあるが、心が深く静まる時間だ。

※ カルシャ・ゴンパとチューチグザル・ゴンパを別サイトでフォト・アルバムにしました。合わせてご覧頂ければ幸いです。

b0049671_18471634.jpg

[PR]
by meiguanxi | 2007-11-25 18:50 | ヒマラヤ・チベット
カルシャ (ザンスカール): ヒマラヤ天空、仏教の里
[ カシミール・ラダック略地図 ]
b0049671_19493225.jpg
                                                    カルシャ・ゴンパからの風景

 インド西北部、ヒマラヤの奥深く、5000 から 6000m級の峻険な山々が連なる高地、それがザンスカールだ。ジャンムー・カシミール州のチベット文化圏と言えばラダックが有名だが、ここはそのラダックからさえも隔絶されている。

ザンスカールの婦人達                      その中心地がシュンと呼ばれる地域で、一片が6kmから7km
b0049671_19504449.jpgほどの逆三角形をした盆地だ。この盆地の南の角に当たる部分に中心の町であるパドゥムがある。町と言うよりは村に毛が生えたようなものだが、インドで言うところの、商店が集まる場所という意味でのバザールと言ったら分かり易いだろうか。事実、ザンスカールではここの他にカルシャ村の数軒を除けば商店と呼べるものは殆どない。今ではこの盆地と北辺東西の角からそれぞれ伸びる谷には、パドゥムを基点に一日一往復のミニ・バスが走っているが、この地域を出ようとする場合、どちらに向かっても5000m超の峠を越えて8日から10日ほど歩かなければならない。いや、唯一1本だけ自動車道路がありバスが走っているのだが、ほぼ2日に1便だけで、ラダックの中心の町レーからだと途中カルギルというムスリムの町で1泊する2日間の行程なる。それとて12月から6月の7ヶ月間は運行されない。途中のペンジ・ラという4401mの峠が降雪で通行不能になるためだ。


谷の対岸からのカルシャ・ゴンパ                                           チョルテン群
b0049671_19593784.jpgb0049671_2005683.jpg



ゴンカンでの勤行                         盆地北辺の岩山の急斜面にへばり付くように沢山の伽藍が上
b0049671_2015056.jpgへ上へと連なっている。ザンスカール最大のチベット仏教僧院であるカルシャ・ゴンパだ。その規模は壮観で、6km離れたパドゥムからでもはっきりとそれと分かる。麓の広場からゴンパへは九十九折の路が付いているが、これがかなりの傾斜だ。延々と続く坂道を最上部のドゥカン・ヨクマとドゥカン・ゴンマという2つのお堂まで20分程は掛かる。僧侶200人を擁するという。夕刻、ドゥカン・ゴンマ奥のゴンカンという部屋では、常住する数十人の層達が読経する姿が見られる。このゴンカンには多くの古い仏像が祀られ、暗い室内はおどろおどろしい雰囲気だ。この時には同席させてもらっている僕のような観光客にも、ツァンパ(麦焦がし)とバター茶またはチャイが振舞われる。


カルシャ・グストルのチャム
b0049671_2023941.jpgb0049671_203650.jpg



 チベット暦5月28・29日(西洋暦7月)にドゥカン・ヨクマの中庭で行われる祭りカルシャ・グストルは有名で、2日間のチャム(仮面舞踏)の時には外国人観光客も訪れる。とはいってもラダックのヘミス・ツェチュのように観光客だらけというのではなく、観客の多くはザンスカールの人々だ。へミス・ゴンパのツェチュに比べると仮面の数や踊る僧侶の規模では劣るかもしれないが、ヒマラヤの白い峰を背景に地元の人々に押されながら観るチャムは格別で、旅情とともにチベットの世界にどっぷりと浸らせてくれる。勿論、これは本来の見方ではない訳だが。
 村はゴンパの麓に広がっていて、中心の広場に数軒の商店があるが、もちろん殆どは農家だ。1軒だけ宿があるようなのだが、僕が訪れたグストルの時にさえ閉まっていた。また、村からはカルシャ・ゴンパとは谷を挟んだ向かいの岩山の上にチューチグザル・ゴンパという尼僧院があり、美しい仏像と壁画とを観ることができる。


b0049671_2044218.jpg
                                              キャンプサイドからのカルシャ・ゴンパ
[PR]
by meiguanxi | 2007-11-24 20:06 | ヒマラヤ・チベット
クチャ (東トルキスタン): 田舎町の大バザールと、民族問題と旅行者と
b0049671_231029.jpg
                                                           ナン売りの少女

 トルファン からバスで1日半、途中コルラ付近で一泊して翌日の午後、シルクロード天山南路中程の町クチャ(庫車)に着く。いや、今では鉄道はコルラからカシュガルまで伸びたのだが、それは1999年のこと。僕がこの町を訪れた90年と93年当時には、荒涼とした岩山を縫い土漠をひた走るバスしかなかったし、それも1日に1本でしかなかった。

近郊の景観                            河西回廊を抜けるとシルクロードはタリム盆地に入る。その平
b0049671_2314732.jpg地の大半は世界第2位の広さを有するタクラマカン砂漠だ。長安(現在の西安)を出発した嘗てのシルクロードは、敦煌で、アルトゥン山脈からクンルン山脈の北側、タリム盆地南辺を行く西域南路を分ける。一方、北路はトルファンの先で天山山脈に出会い中央アジアへ向かう天山北路を分ける。西域のメインルートである天山南路はタリム盆地北辺のオアシスを繋ぎ、やがてカシュガルに到る。ここで西域南路を合流してカラコルム・パミールの山岳地帯に入っていくのだ。
 クチャは天山南路のトルファンからカシュガルに到るちょうど中間に位置する。漢代には亀茲(キジ)国として栄えた。当時の西域最大のオアシス都市国家で、独自の言葉を持ち音楽と仏教が盛んだった。勿論、当時の主な住民は胡人、つまりイラン系民族だ。
 数多くの仏典を漢訳した鳩摩羅什(クマラジュウ)の出身地として、また玄奘が滞在した町としても有名だ。玄奘は当時の亀茲国について、「伽藍100、僧5000」と記している。当時の遺産は郊外のスバシ故城、クズルガハ千仏洞、キジル千仏洞、クムトラ千仏洞などに見ることができる。特にキジル千仏洞に描かれた菩薩の持つ楽器は、日本の雅楽のルーツと言われる。また、正倉院の宝物と共通する琵琶を奏でる飛天の姿も見事に残っている。
 その後、7世紀に唐によって滅亡し、9世紀にはウイグル族が侵入、やがてイスラム化していった。

スバシ故城(嘗ての亀茲国の城跡)                                     クズルガハ千仏洞
b0049671_232476.jpgb0049671_2332038.jpg


 現在のクチャはトルファン―カシュガル間の中継地としての、落ち着いた小さな町だ。新市街にさえも当時はビルなどは無く、漢族の姿も稀だった。旧市街は2kmほど離れていて、ここでは毎週金曜日に市が立つ。これは西域(新疆ウイグル自治区)で最大のものだ。
 初めて僕が西域に足を踏み入れた年の春、トルファンの宿に着いた僕を思い掛けないニュースが出迎えた。トルファンと北西のウルムチとを結ぶライン以西へのバス・チケットを、外国人は買えなくなったというのだ。理由については当初、良く分からなかった。バス・ターミナルでも当時中国でほぼ唯一外国人を相手にしていたCITS(中国国際旅行社)のオフィスでも、分からないという答えを繰り返すだけで一向に埒が明かない。疫病が流行しているらしいという噂がまことしやかに流れてもいた。

ウイグルの子供達                                                     旧市街の路
b0049671_23402.jpgb0049671_2345157.jpg


露天のケバブ屋                                              ラグメン(トマトうどん)屋
b0049671_2353454.jpgb0049671_236610.jpg


 だが欧米の旅行者がBBCラジオの国際放送から漸く信頼できる情報を得た。カシュガル近郊で「暴動」が起こり治安当局と衝突したらしい、というのだ。同宿だった学生が北京の日本大使館に事の次第を照会する電話を掛けるが、大使館は「暴動」が起きたという一報以外には事態を全く把握していなかった。トルファンにいる日本人の氏名とパスポート番号を調べて連絡してほしい、その上で早急に新疆ウイグル自治区から退去されたい、大使館は電話をした学生にそう伝えただけだった。
 これが今に言うバリン郷事件だった。カシュガルの南10kmのアクト県バリン郷でウイグル人農民が武装蜂起し、当局はこの鎮圧のために空軍まで動員したと言われる。切欠はモスク建築に関するトラブルと、政府が産児制限(一人っ子政策)を少数民族にまで広げようとしたことに対する反発だったようだが、結果として国際アムネスティの報告によると死者は50人、反革命罪で起訴された者6000人という大規模な動乱になったようだ。事件が勃発したのが4月5日、数日間の攻防の末に武力鎮圧されたのが9日、僕がトルファンに到着したのが11日だった。だが僕がこのことを知るのはずっと後、むしろつい最近のことだ。この帰国後には、誰に聞いてもそんなニュースは知らなかった。

金曜バザールにて
b0049671_236532.jpgb0049671_239257.jpg


 ともかく、当時トルファンにいた僕たち旅行者にはピンとこない話だった。トルファンは春の陽光の下で葡萄棚は明るく緑に輝き、人々は愛想が良く居心地が良い。平和そのものだったのだ。僕は他3人の旅行者と西を目指した。観光用の輪タクでウルムチ方面とカシュガル方面との分岐点であるトクスンという小さな町まで2時間、そこでウルムチから来たバスをヒッチする。バスなのだからヒッチと言うのは変かもしれないが、なにしろ正式にはチケットを売ってくれない状況で、外国人観光客がいない町でバスに乗り込むというのはヒッチとしか言いようがなかった。
 そのようにして訪れたクチャではあったが、到着した日の夜、公安(中国語で警察のこと:公安警察ではない)が僕たちの宿に訪れ取調べが行われた。もちろんカシュガルから来たと答えた僕たちに、公安は東方への退去を命ずる。ただ彼らは友好的で、近郊の観光と金曜バザールだけはどうしても見たいという僕たちの要望を聞き入れてくれたのだ。こうして4日後、土曜日の朝に僕ともう一人の女の娘はトルファンへのバスに乗ったのだが、更に西を目指そうとした他の2人は、公安に捕まり強制退去させられたらしい。僕がこれより西、カシュガル方面に足を踏み入れるのはそれから3年後のことになる。

b0049671_23101213.jpg
                                                     金曜バザールの駐馬車場
[PR]
by meiguanxi | 2007-11-21 23:11 | 絲綢之路Ⅰ[西域]
クチャの子供達 (東トルキスタン)
b0049671_1916194.jpg

東トルキスタン、或いはウイグルスタン。

現在は中国の新疆ウイグル自治区とされているタリム盆地、
タクラマカン砂漠北辺中央に位置するクチャ(庫車)の町には、90年と93年の2回訪れた。
これは90年当時、旧市街へ向かう1本道の途中の学校前、下校時。
8歳から10歳位の子供達だろうか。

あれから長い年月が流れ、
ウイグル自治区を巡る状況も経済も随分と変わったようだ。
そう、あの頃この町に鉄道はまだ通っていなかった。

カメラを構えるガイジンを夢中で追いかけたあの日、
もうみんな大人になったよね。

おまえら、元気に生きているか…

[PR]
by meiguanxi | 2007-11-19 19:16 | 絲綢之路Ⅰ[西域]
トルファン (東トルキスタン) : 疎水と葡萄棚のオアシス
b0049671_1751699.jpg
                                                          交河故城への道

蘇公塔
b0049671_2351227.jpg その名前を聞いただけで旅情を掻き立てられる町がある。トルファンもそんな町のひとつだ。
 NHKがシルクロードの特集を1年掛けて放送した時代、まだ中国は自由に旅のできる国ではなかった。中央アジアはソ連だった時代であり、それだけに尚のことシルクロードは手の届かない憧憬の地だった。
 東トルキスタン、現在は中国支配下で新疆ウイグル自治地区とされている。今のトルファンはトルコ系のウイグル人の町だ。しかし、この地域の歴史は複雑だ。紀元前2世紀、この地には匈奴の支配下に車師前国という国があった。現在の町から10kmの交河故城はその城址だ。前漢の時代、紀元前1世紀には高昌故城(町から40㎞離れた遺跡)付近に屯田兵を進駐させ、漢族が移入する。
 漢が滅んだ後は様々な支配者がこの地を治めたが、どれも漢族の王朝だった。5世紀に起こった高昌国もまた、漢族の国家だ。しかし、「玉門から西は胡地」というように、支配者が変わっても住民の多くはイラン系アーリア人だったと思われる。高昌国の時代、かの玄奘三蔵が訪れている。西遊記に有名な火焔山もこの近郊にある。
 その後、7世紀には唐の支配に入るが、北方騎馬民族の突厥やチベット系の吐蕃の圧力を受ける。そして9世紀半ばにはウイグルが進入し、この地はテュルク(トルコ)化する。
 しかし、住民はウイグルの他、イラン系、インド系、モンゴル系、漢族と多民族雑居の状態であったようで、ウイグルも仏教を受け入れベゼクリク千仏洞の建設に携わったりした。この地がイスラム化するのは16世紀半ばだ。


ベゼクリク千仏洞                                                   交河故城の高台
b0049671_23514127.jpgb0049671_2352195.jpg


日干煉瓦の民家と老人                                                半地下の農家
b0049671_2353535.jpgb0049671_23532921.jpg



 今のトルファンの町は、葡萄棚がアーケードを成す美しい町だ。小さな町なので、旧市街やバザールをそぞろ歩くくらいしか町中には見所は無いが、それだけで充分だ。また郊外には交河故城や高昌故城といった都市遺跡の他、ベゼクリク千仏洞、アスターナ古墳、火焔山、カレーズという地下水路など多くの見所が点在している。
 町から2.5kmほどの郊外に蘇公塔と呼ばれる1779年建立のモスクがある。44mもの高さを誇る中央アジア様式のミナレットが印象的だ。ここへ向かう未舗装の一本道には日干煉瓦と土壁で固められた民家が並び、カレーズから敷かれた用水路が流れている。この小路、正式には解放路というのだが、通称をバイバイ・ストリートという。旅行者を見掛けた子供達が、「バイバイ」と手を振って無邪気に走り寄って来る。この町を2度目に訪れたのが1993年、15年近くの時が過ぎた今、この通りは昔のまま残っているのだろうか。


b0049671_23541126.jpg
                                                          解放路の用水路
[PR]
by meiguanxi | 2007-11-16 23:54 | 絲綢之路Ⅰ[西域]
敦煌と鳴沙山 : 砂漠の青い泉と石窟美術
b0049671_20303550.jpg
                                                   莫高窟・北大仏殿 (第96窟)

 嘉峪関(jia yu guan)の西460kmで、かの余りにも有名な敦煌に着く。嘉峪関の東20数kmに位置し夜光杯という玉器で有名な酒泉(jiu quan)からなら、バスで8時間といったところだ。
 最寄の鉄道駅である柳園(liu yuan)からだと、バスで2・3時間。この130kmの道は凄い。見渡す限りのゴビ灘の土漠の中を、延々と真っ直ぐに貫かれているのだ。フロントガラス越し、遥か地平線と交わる路上に小さな点が見え始める。初めはそれが何なのか分からない。やがて対向車らしいと気付く。だが、一向に距離は縮まらない。5分以上、いや時には擦れ違うまでに10分も掛かる。やれやれ、なんという道だ。
                                    敦煌、中国語読みで dun huang : ドゥンフゥァン。敦煌の歴
鳴沙山へのポプラ並木                    史は1世紀初頭、武威(wu wei)・張掖(zhang ye)・酒泉と
b0049671_20313654.jpgともに、漢の武帝が西域経営の為にここに郡を置いたことに始まる。当初は東西交易と軍事上の要衝として建設されたのだ。
 後漢の時代に仏教が伝来し、莫高窟(mo gao ku)の石窟は4世紀から始まり、唐代に全盛期を向かえる。14世紀までの約1000年に渡り、南北1600mの岸壁に500近くの石窟が穿たれた。その後、長く忘れさられていたが、1900年、大量の古文書が発見され注目される。しかし多くはスタインや大谷探検隊によって国外に持ち出されてしまった。しかしそこに残された色鮮やかな壁画や塑像などの仏教美術は、今に至るまでその輝きを伝えている。
 実はここには二回訪れている。初めは河西回廊を西域に向かい、次はここから南にアルトゥン山脈を越えツァイダム盆地を突っ切って青海省(チベット圏のアムド地方にほぼ相当する)ゴルムドに向かった。だが、莫高窟の内部は撮影禁止であったため写真が無いのが残念だ。

月牙泉                                                     砂漠に生きる胡楊の木
b0049671_20322576.jpgb0049671_20325852.jpg


 現在の敦煌は、莫高窟から25km離れた党河(dang he)沿いの小さな町だ。いや最近では観光開発が進み、それ相応の町に発展しているのかもしれない。党河は祁連(qi lian)山脈から流れ出ているが、夏の間以外は干上がっている。
 ところで、町から5㎞の所に鳴沙山(ming sha shan)という、東西40㎞、南北20kmの広大な砂丘がある。その様はまさに我々が抱く砂漠のイメージそのままだ。この砂丘の上からは果てしなく広がるゴビ灘を見渡すことができる。
 この鳴沙山の脇に、青々とした水を湛える月牙泉(yue ya quan)という泉がある。畔には胡楊の木が静かに立っている。砂の海に青い泉、そして緑の胡楊。なんとも幻想的でロマンチックな光景だ。

b0049671_20333592.jpg
                                                                 鳴沙山
[PR]
by meiguanxi | 2007-11-15 20:34 | 絲綢之路Ⅰ[西域]
嘉峪関 (Jiayuguan 河西回廊): 西の果ての長城
b0049671_18211177.jpg

 西安から西に伸びるシルクロード(絲綢之路)は河西回廊を経て、やがてタクラマカン砂漠の広がるタリム盆地(東トルキスタン:現在は新疆ウイグル自治区)に至る。

                         河西回廊の「河」とは黄河のことだ。青海省を流れ出た黄河は蘭州で大きく北に
b0049671_1821534.jpg向きを変え、オルドスを回り込んで南に折り返す。このオルドスこそ黄土高原であり、ここを通過する際に大量の黄土を削る。黄河の由縁だ。黄河の西に伸びる一本の道。北には内モンゴル自治区のバダインジャラン砂漠、南には祁連山脈が横たわる。それらに挟まれ北西に伸びる狭いルート、それが河西回廊だ。現在の甘粛省に相当する。
 この河西回廊がタリム盆地に出る手前、要衝である酒泉の町の西20kmに嘉峪関はある。万里の長城の東の端は渤海に突き出している。程無く「天下第一関」と称される山海関があるが、そこから西に遥か6000km、ここが最後の関だ。嘉峪関は「天下雄関」と呼ばれ、往時、ここが漢族世界の西の果てであり、ここから先は外界であり、果てしなく続く砂漠だ。長城はこの先7kmで北大河の絶壁に至って終わる。長城第一墩と呼ばれる場所だ。
 嘉峪関が作られたのは明代の1372年。チンギス・ハンが建てたモンゴル帝国のフビライによって13世紀に漢族は支配され、モンゴルは名称を元と変え、大都(北京)に都を置いた。それから百年余、元を北に追いやった漢族の朝廷が明だ。嘉峪関は北方の異民族からの守りの為に作られたのだ。



b0049671_18223261.jpgb0049671_18225977.jpg


 内城の城壁は11m以上の高さを誇る。実際に城壁の下に立ってみると、その高さに圧倒される。北京からも長安からも遠く離れた辺境に築かれたこの建造物の壮大さが、当時の遊牧民の攻撃の苛烈さと、そしてこの狭い回廊の当時に於ける重要さとを伝えている。

b0049671_18233558.jpg 河西回廊はオアシスの町を出ると、殆どが土漠の世界。城壁に登ると、砲台の隙間からその果てしの無い荒野を臨むことができる。そしてそこには、崩れ掛けた長城が延々と続いている。その先には、祁連山脈の主峰(5547m)が雪を頂いている。
 万里の長城もここまで来ると北京近郊の八達嶺とは随分と趣きを異にする。現代の旅人の目にはそれは古の夢の後、或いは西へのロマンとして写るかもしれない。
 道はこの先、敦煌を経てタクラマカンに続く。商隊にせよ西に赴く兵にせよ、当時、ここを出て行く旅人の想いは、如何ばかりであっただろうか。


b0049671_18241264.jpg

[PR]
by meiguanxi | 2007-11-11 18:07 | 絲綢之路Ⅰ[西域]
[ 西アジア略地図 ]
b0049671_2243672.jpg


ここは駅だ。
夜、21時半くらいだろうか。待合室で国際列車を待っている。ここはその始発駅だ。
それにしては閑散としている。正面のベンチに写っている以外にも、
この部屋の中には何人かの人達が壁に備え付けられたベンチに座っている。
でも彼らは列車を待っている訳ではない。ただの酔っ払いであり、或いはジャンキー…
そもそも国際列車の出発駅の待合室にしては、シートが少な過ぎる。
まあ、文句を言ってもどうにか成るものではないのだが。
だいたい、この時間の乗降客自体が多くはない。
これから国際列車が発車するんだぞ、というような緊張感は駅の何処を探しても見当たらない。
必要以上に高い天井に吊るされた古めかしいシャンデリアはほの暗く、
まるで前衛演劇の舞台セットのように空気が止まっている。
この待合室の片隅にいた老女が自分のベンチを離れて突然、芝居じみた大きな声で何かを叫ぶ。
その声が、高い天井にわざとらしい程に反響する。
勿論、僕にはその言葉の意味は分からない。
けれどこの国の人達である他の人々にも、その意味がどのくらい伝わっていたのか。
彼女は時々、それを繰り返す。明らかに精神に問題を抱えているのだろう…。
その声を、港からの汽笛が打ち消す。

イスタンブール、シルケジ駅。ヨーロッパ側の終着駅だ。
ここを22時に発車した列車には2等車両しか繋がれていない。
乗客は疎らで、乗った車両には他に誰もいない。寒さに凍える車内。
いつの日か、今度はアジアから渡って戻ってくるよ…
1989年1月末、動き出した列車の窓外に過ぎるアヤ・ソフィアを見上げながらそう呟いた。
そして事実、僕はその後2回の旅で3回もこの街を訪れることになったのだ。
[PR]
by meiguanxi | 2007-11-06 22:57 | 絲綢之路Ⅲ[西亜]