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ベツレヘム (パレスチナ) : キリスト生誕の地
                ― 或いはイスラエルによるガザ攻撃とパレスチナ問題を巡って

[ 中東主要部略地図 ]
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                                                           ベツレヘム市街


 その名前を聞いただけで吟線に触れるような町というものがある。個人的な話だが小学校の3年間、キリスト教系の学校の寄宿舎に入っていた為に、家に帰る週末を除いて聖書と賛美歌漬けの生活だった。といっても家族の誰かがクリスチャンであった訳ではない。単に親の仕事が忙しく面倒を看ていられないからという理由で放り込まれたのだ。勿論、今の僕もキリスト教徒ではない。まあ、それは兎も角、そんな訳でエルサレムとかナザレといった地名は最も幼い時代に覚えた外国の地名だった。中でも子供にとってキリスト教に於ける楽しみと言えばクリスマスであるわけだから、従ってベツレヘムという地名はそれと意識しないままに深く刷り込まれていたようで、初めてこの町を訪れた時、教科書やテレビで知ったのだろう他の多くの町に立った時とは違う特別な感慨を覚えたものだ。だがこのエントリーもまた、ベツレヘムという町の紹介からは大きくそれることになる。
 ベツレヘム、史実としての検証は兎も角、キリスト生誕の地とされる土地だということはご存知だろうと思う。だがこの町が実は暫定自治政府の管轄するパレスチナにあるということは、以外に知られていないかもしれない。エルサレムからバスで30分程の近郊なのだが、今、この小さな町はイスラエルが建設した鉄条網とコンクリートの分離壁とに囲まれていて、町に入るゲートではイスラエル軍によるチェックが行われている。
 僕がここを訪れた1992年にはそのようなものは無く、一見には平和でのどかな町だった。。87年にイスラエル兵やイスラエル人入植者によるパレスチナ人射殺などに対する抗議運動として始まった第1次インティファーダとイスラエルによる軍事攻撃が下火に成りつつあった時であり、93年にはオスロ合意が交わされ翌年にはパレスチナ暫定自治政府が設立される。まさに雪解けの時代だった。第一次世界大戦時のイギリスの自分本位な三枚舌外交と第二次大戦後の国連による必ずしも公平とは言い難いイスラエル建国とパレスチナとの領土分割案、イギリスの無責任な撤退とアメリカによる一方的なイスラエル支援等々によって救われる術の無かったパレスチナに、漸く実質的な和平が前進した瞬間だった。PLO (パレスチナ解放機構) のアラファト議長とイスラエルのラビン首相が握手を交わすニュース映像を、世界中の人々が深い感慨を持って見たものだ。
 ところが95年、左派の労働党党首であったラビンは和平反対派のイスラエル人ナショナリスト青年によって射殺される。2000年、右派政党リクード党の党首であったシャロンが武装した護衛とともに、イスラム教徒にとっての聖域であるエルサレムの神殿の丘を訪れ、有名な岩のドームの隣に立つ アル-マスジッド・アル-アクサ (アル-アクサ・モスク) に強引に入場してパレスチナ人を挑発した。これに憤慨したパレスチナ人たちは第2次インティファーダを開始することに成る。この対立の中で行われた翌年の選挙によってシャロンは首相に就任する。僕はシャロンの岩のドームへの強引な入場を伝えるニュース映像を衝撃と怒りを持って見ていたのだが、それは実にパレスチナの和平が遠のいて行く経過だった。
 時あたかも2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起こる。これ以後、世界は 「テロとの戦い」 一色に染まっていく。ロシアのチェチェンに対する凄惨な武力攻撃も中国のチベットやウイグルに対する支配強化と強引な漢化政策もこの過程で世界から目をそらされ、支配や抑圧に対する行動は、時にそれが実力行動を伴うものであれ伴わないものであれ、全て一様に 「テロ」 というレッテルを貼られ弾圧されることになる。
 イスラエルはヨルダン川西岸地区への入植をやめるどころか分離壁の建設を始める。分離壁は入植地とパレスチナ人居住区とを隔てるだけではなく、それ自体によって多くのパレスチナ人の土地がイスラエル側に抱え込まれるように建設された。一方でパレスチナ人が新築や改築をする場合には当局の許可制とし、実質的には殆ど建設が許されない状態になる。更にはテロ防止という名目で、多くのパレスチナ人が容疑も示されないままに “予防拘束” された。こうした状況で支持を集めた対イスラエル強硬派のハマスが2006年の自治政府議会選挙で勝利、一時は大統領派のファハタ (PLO) と合意に達したが、イスラエルや欧米が反ハマスの姿勢をとる中でやがて対立するようになり、現在はガザ地区をその勢力下に収めている。
 一般民間人を標的にした自爆やロケット弾による攻撃を良しとするものではない。そのような方法が世界から共感を得られる筈はなく、むしろイスラエルによる軍事行動に口実を与える結果にもなる。だが自爆などという行動を採らせる心理は、決して民族主義や宗教的信義にだけよるのではない。自らの土地を入植によって奪われ分離壁によって分断され、なかんずくガザの場合には外界から全く隔離され食料も薬も燃料の輸送も全てが封鎖された状態にあったのだ。おそらく、不幸なことにこういう状況下に於ける急進派は一旦武力闘争を始めると戦い続けざるを得ない宿命に陥る。そのことが素朴感情としてのナショナリズム的支持の母体であるからであり、資金調達の名目でもあるからだ。だがハマスの方針を支持するものではないにしろ、武力闘争という彼らの方針に傾斜する民意がどのように形成されるのかを考えるべきなのだ。
 昨年 (2008年) 末以来のイスラエルによるガザ地区への攻撃が凄惨を極めたのはご存知の通りだ。今年 (2009年) 1月中旬、イスラエルは一方的停戦を宣言して、一応はガザへの攻撃を停止した。しかし、この停戦という言葉に酷い違和感を持つ者は僕だけではないだろう。あれはいったい戦争と言うに値する事態だったのだろうか。確かにハマスはロケット弾を発射していた。しかしその破壊力はイスラエルの装備に比べれば竹槍とそれ程の差は無い。一方、イスラエルの空爆は迎撃する術も無いパレスチナ人千数百の命を奪っている。子供も老人も病人も女性も関係なく無差別にだ。これは戦争などと呼べるものではなく、単なる大量殺戮と見做されるべきものだ。にもかかわらず当のイスラエルではこの攻撃に対する国民の支持は驚異的なほどに高い。右派政権がパレスチナ強行路線を執る所以だ。しかし支配され抑圧され排除される側に倫理を求めるなら、その前にまず力と富とを独占する側の倫理が問題にされて然るべきなのだ。
 昨年秋、アメリカが推し進めた新自由主義とグローバル経済という力による世界戦略の一端が破綻した。そして今年、共和党政権が倒れ民主党政権に変わった。アフガンとイラクを泥沼に追い込んだブッシュ政権が終わったことは歓迎するが、しかしそれらがアメリカのこの地域への政策変更に繋がるという楽観はできないということは知っている。だが、この問題を解決しない限り、世界に於ける倫理の構築は望めないのだ。それが望めない限り、世界の到る所で不幸は続くだろう。力と富による押し付けではなく、特定の有権者団体の票や特定の産業の要請によってでもなく、国際社会にはこの暴力と憎しみの連鎖を止揚する実質的な努力が、おそらく待った無しで求められている。


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                                                               生誕教会
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by meiguanxi | 2009-01-30 19:39 | 中東・北アフリカ | Comments(0)
アハルツィヘ (グルジア) : 博物館学芸員とドンキー・モンキー
[ カフカス略地図 ]
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                                                                城塞跡


 アルメニアという国へ陸路で旅行する場合に厄介なのは、東隣のアゼルバイジャン、西隣のトルコとの間の国境がいずれも閉鎖されていることだ。南隣のイランとの国境は開いているもの、交通の便がすこぶる悪い。従って多くの旅行者の場合、グルジアから往復することになる。アルメニアとグルジアとの間には3つの国境が開いているが、交通の利便性上、3ヶ所の真ん中にあるムガロンというポイントを通過するケースが多いと思われる。とは言え同じ国境を戻るのでは能が無い。僕がアルメニアの首都イェレヴァンからわざわざ最も西にある辺鄙なニノツミンダの国境を通ってアハルカラキとう辺境の町に立ち寄った理由の一つだ。そしてもう一つの理由がヴァルジアの遺跡を見ることだった。
 だからアハルツィヘに宿泊することになったのも、ここを目的にしてのことではなく、ヴァルジア遺跡がアハルカラキとアハルツィヘの中間に位置していたからに過ぎない。ガイドブックには特に観光目的になりそうな物に関するアナウンスはなかったし、この町もアハルカラキ同様に淋しい所なのではないかと想像していた。ところが、着いてみるとなかなか明るい町だったのだ。


川沿いの家並み                                                     川沿いの風景
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 グルジアはその南辺の東部がアゼルバイジャン、西部がトルコ、その間がアルメニアと国境を接している。アルメニアとの国境線の西部付近をジャワヘティ、トルコとの国境線の東部付近をサムツヘといい、この両者を合わせたサムツヘ・ジャワヘティ地方というのが一つの行政区になっている。以前はメスヘティと呼ばれていた地域だ。メスヘティア・トルコ人という民族をご存知だろうか。メスフ人とも呼ばれる彼らは嘗てのこの地域の住人で、1944年にスターリンによって中央アジアへ強制移住させられたムスリム (イスラム教徒) だ。少なからぬ人々がこの過程で命を落としたという。民族とは言っても元々はトルコ系やアゼルバイジャン系、クルド人、イスラム化したアルメニア人やグルジア人だったのだが、移住先での地元民との軋轢からアイデンティティを一つにしていったようだ。ソ連崩壊後、帰還運動も起こったが、この地域ではアルメニア系住民 (キリスト教徒) との間に緊張関係が発生すなど未だに多くの問題を孕んでいて、現在も中央アジア諸国やロシア、アメリカやトルコに分散しているのが実情のようだ。
 現在のサムツヘ・ジャワヘティ地方の主な住民はグルジア人とアルメニア人で、アハルツィヘには一定のユダヤ人も歴史的に住んでいる。だがジャワヘティにアルメニア人が多いのに対して、サムツヘはグルジア人の割合の方が多いようだ。これは実際に行ってみれば分かることなのだが、言語的に古欧州語に分類されるアルメニア人の容貌は比較的に中東的で、カフカス諸語という或る意味で孤立的に分類されるグルジア人の容貌がヨーロッパ的なのだから不思議だ。アルメニアの歴史が多難なものであった証しだとも言えるのだろうか。僕は中東やイスラームに好意を持ってはいるが、一人で旅を続けていると段々と疲労のような物が溜まってくるのも確かで、欧州的な顔立ちの人々にほっとしたりもする。僕の中にも沢山の偏見や差別がある証しかもしれない。久し振りに天気が回復したことも、気分を明るくさせた大きな理由ではあるのだが。


アハルツィヘ俯瞰                                                         牛飼い
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 アハルツィヘはメスヘティ (サムツヘ・ジャワヘティ) 地方の中心の町とはいえ町自体には見所は無いと思っていたのだが、町外れの丘の上に城塞跡があり、そこにメスヘティ地方とアハルツィヘに関するけっこう立派な博物館があった。人が来た時にだけ開けるみたいで、感じの良い女性が付きっ切りで英語の説明をしてくれた。彼女の存在は実に特筆に価する。博物館が3フロア、城塞の中の教会 (元々はモスク) やバザール跡、ロシア軍の駐屯していた跡といった敷地内を案内してくれ、別棟のカーペット等の展示室も見せてくれた。ざっと1時間半位は説明してくれたのではないだろうか。それでたったの0.5ラリ (当時約25セント程度) だった。彼女の落ち着いた感じの良さとその熱心な仕事振りは、僕の気分をますます良好なものにした。
 今の街の中心 (宿はそのまた中心にあるのだが) は新市街で、彼女の説明では元々は川向こうの城塞の周りの斜面が町だったのだそうだ。そして川から向かってその右側にはユダヤ人地域が広がっていたらしい。その旧市街にはこの町で初めて建てられた教会が廃墟になっていたり、トルコ時代のハマム跡のドームが見られたりする。川の景観も美しい。期待していなかっただけにアハルツィヘの印象は相当に高くなった。


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                                                            教会跡の廃墟

羊飼いの家族
b0049671_1912750.jpg 夕食を摂りに入ったレストランで出してくれたのは羊か牛かはっきりしないのだがトマト風味のシチューで、とは言ってもこの辺りによくあるトルコ風のものではなく、ブイヤベースに良く似た味でとても美味しかった。これがハルチョというものだろうか。若い男達が注文したヒンカリ (中央アジアで言うマントィ、新疆のマントゥ、羊肉の餃子を茹でた物) をひとつ分けてくれる。明日もおいでみたいに言われたが、残念ながら明日も移動だ。ビールを買いに入った店の夫婦は、日本人の若い夫婦からの手紙を見せてくれる。トビリシで彼らを泊めるか何かしたものらしい。良い旅をしている人たちもいる。そしてこの国の人達は自分達でもそう自覚しているように、とてもホスピタリティ豊かな人達だ。
 だが無責任な旅行者が感じるものと、そこで実際に生活している人達が感じることは同じではない。夕方散歩していると初老のガッチリした男に英語で声を掛けられる。周りには彼の友人の男達が数人いて、彼は自慢げに僕の話を通訳した。日本は良い国だと言うので、そうは思わないと答える。当時、グルジアの大統領はシュワルナゼだった (参照)。ソ連でペレストロイカを推し進めたゴルバチョフ大統領時代の外務大臣で、ゴルバチョフが政権維持の為に保守派と妥協した時に 「独裁がやって来る」 と演説して辞任した人物だ。独立の際の内戦で混乱した国内を纏めるために請われて大統領職に就いたのだが、ロシアの圧力と欧米の思惑という難局の中で経済の回復は思うに任せなかった。
 「見てみろ、俺達の町の汚らしさを。グルジア人の95パーセントはドンキーかモンキーだ」 と初老の男は自嘲して笑ってみせた。この4年後、「薔薇革命」と呼ばれる無血クーデターが起き、シュワルナゼは政権を追われることになる (参照)。アメリカの思惑が働いたとも言われるこの政変がその後のグルジアにとって良かったのかと問われると、僕にはあのシュワルナゼの憂鬱そうな表情を思い出すしかないのだが、あの日、自らの生活をドンキー・モンキーと揶揄した老人の生活は少しは好転したのだろうか。
 いや、いずれにしても去年 (2008年) のロシアとの軍事衝突は、例え直接の接触は無かったとしても彼の周りの多くの物を生活から奪って行ったに違いない。彼らは美しく友好的な人々で、素晴らしい文化と歴史とを有し実に美味しいワインを作ることのできる人々だ。彼らの上に爆弾や銃弾は要らない。そこに居るのは決してドンキーやモンキーではないのだということを、大国の指導者や資本家は知るべきなのだ。


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                                                          羊飼いの子供達
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by meiguanxi | 2009-01-18 19:03 | カフカス | Comments(4)
ヴァルジア遺跡 (グルジア) : 石窟修道院と岩窟都市
[ カフカス略地図 ]
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                                                        ヴァルジア遺跡遠景


 アルメニア国境西側からトルコ国境東側に掛けた地域をサムツヘ・ジャワヘティ地方といい、嘗てはメスヘティと呼ばれていた。このうちアルメニア国境付近がジャワヘティ、トルコ国境付近がサムツヘだ。アハルカラキの記事で載せた写真の宿の名前がジャワヘティだった。アハルカラキからこの地方の中心の町であるアハルツィヘに到る道の途中、ヘルトヴィスイという所の丘の上に10世紀の城塞が建っている。ここから未舗装の道を南に反れて20km、トルコ国境間近にヴァルジアの洞窟修道院と岩窟都市遺跡がある。
 石窟遺跡と言うと敦煌およびウイグルスタン (現新疆ウイグル自治区) のベセクリク (トルファン) やクズルガハ (クチャ) の仏教遺跡、南イタリアで現在も使われているマテーラの洞窟住居、そしてトルコのカッパドキアなどが思い起こされる。洋の東西を問わずこのような建築様式が存在したことは不思議なことだ。ただ、ここヴァルジアの石窟修道院は、カッパドキアがキリスト教徒の隠れ修道院として建設されたのに対して、そもそもは要塞として着工されたものだ。


ヘルトヴィスイの城塞                                                 ヴァルジア遺跡
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 断崖の側面に6層に穿たれた窟の数は600、その全てが内部で繋がっているという話だ。12世紀にギオルギ3世によって始められた建設はその後、その娘でグルジア史上初の女王であるタマラによって修道院として完成した。
 タマラ女王の時代はグルジアの王朝が隆盛を極めた時代で、南カフカスから一部は現在のトルコ領にまでその版図を広げた。時おりしも1204年に東ローマ帝国 (ビザンチン帝国) の首都コンスタンティノポリスが第4回十字軍によって陥落する。十字軍がビザンチン帝国の首都を攻めたというのは以外かもしれないが、侵略とはそもそもが自分本位な利益の略奪に過ぎない。ビザンチンの皇族達はアナトリア (現トルコ共和国) の各地に散って小国を建て、やがてそのうちの一つがコンスタンティノポリスを奪還して東ローマ帝国を復興するが、嘗ての輝きを取り戻すことはなく、やがて1453年にオスマン・トルコによって滅ぼされることになる。さてこの首都陥落の時に造られた亡命政府のひとつがギリシャ系のトレビゾンド帝国なのだが、タマラはこの建国を支援したとされる。トレビゾンドとは嘗て書いたトラブゾンのことで、もともとギリシャ人の入植によって造られた町だった。国境の近くを歩いているとこのようにして歴史が繋がることがある。だが、現在のヴァルジアは荒涼とした廃墟だ。


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                                                       石窟修道院の天井画


 僕の場合には贅沢をして早朝のアハルカラキで寂れた市場前に屯していたタクシー・ドライバーと交渉したので、ヴァルジアまで1時間、ヴァルジアからアハルツィヘまで1時間20分の快適な移動だった。しかし本当はこの辺りの交通の便は決して良くない。アハルツィヘから1日に1本バスがあるが、帰路は翌日になる。遺跡近くの村に宿はあるようだ。その他はアハルカラキ行きをヘルトヴィスイで降りて20kmをなんとかするしかない。アハルカラキから直行のバスがあるかのかどうかは不明。


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                                                     ヴァルジア村付近の景観
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by meiguanxi | 2009-01-17 16:57 | カフカス | Comments(2)
アハルカラキ (グルジア) : 辺境の小さな町
           ― 或いは偏狭な旅行者の憂鬱な移動と不毛な闘い

[ カフカス略地図 ]
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                                                       アハルカラキの町並み


 その日は、と言うかその日もとても疲れた一日だった。アルメニアの首都イェレヴァン近郊のホルヴィラップで警察に拉致された (参照) 翌々日の朝7時前、イェレヴァンで民泊したララの家族がまだ誰も起き出して来ない裡に、ちゃんとお礼を言えないことを残念に思いながら宿を出る。確かにバラックのようだったしトイレと水浴び場の汚さと言ったらなかった。けれどある意味ではアルメニアの首都の決して金持ちではない普通の民家の生活状態を体験できた訳だ。何より宿泊事情の悪いイェレヴァンにあって、お世話になったのは有り難いことなのだ。

 バスターミナルへ着くと、アハルカラキ行きのチケットを売っている窓口はまだ閉まっていた。アハルカラキは3つある国境の最も西に位置するニノツミンダというポイント越えた先にあるグルジアの町だ。グルジアとの間を行き来するバックパッカーの多くは、その東50km程の交通の便の良いポイントを通る筈だ。アハルカラキ自体が決して観光ポイントではないようで、旅行人社のガイドブックにも21文字X7行のアナウンスがあるだけだ。窓口は相変わらず閉まったままだったが、やがて先にバスがやって来る。そういうことはこういう国は良くあることだ。幸いロシア語だったのでそれがアハルカラキ行きだと分かったのだが、アルメニア文字やグルジア文字ではお手上げだった。キリル文字ならまだなんとか取っ掛かりがある。運転手らしき男が切符を売り始める。こいつが実に嫌な奴で、ロシア語は分からないと言うのに全くお構い無しに、ロシア語だけで捲くし立てて何事か怒っている。僕の場合、着いた日にアハルカラキまでは1500ドラムと聞いていたので、2000だと言う運転手にちょっと抗議したのだが、彼の不機嫌は僕に対してだけではなかった。そちらこちらに不機嫌を撒き散らし、伝染させている。なんて奴だ。バスの料金が予定していたより高かった為に、何も買うことができなくなってしまった。一口サイズのチョコを口にしただけだ。

 8時15分に出発したバスは街を出るとやがて草原が広がる丘陵地帯の単調な風景の中を走り、国境の手前で昼食休憩。グルジアへは再入国だったので僅かなグルジア・ラリを持っていたのがだ、幸いなことにここではそれが通用した。ケーキとコーラを買う。やがて国境。相変わらずの丘陵地帯の草原で、例え緑があったのだとしても荒涼感というものはあるのだと感じる。この国境に於ける両国のイミグレーションは随分と離れた所にある。どちらも遊牧民の休憩小屋のようにぽつんと建った掘っ立て小屋といった佇まいだ。まずアルメニア側イミグレーション。例によってローマ字も読めないくせに、パスポートの端から端までチェックする。他国の入国の記録を見て何になるというのだ。ドライバーが苛々してやって来る。役人(警官?)に早くしてくれと文句を言う。まあ、何事も無く通過。問題はグルジア側だった。
 そんなことは予想も想定もしていなかった。全く英語を解さない連中なので何を言っているのか分からないのだが、とにかくかなりシビアにクレームを付けている。どうも賄賂とかそういう類のことではないらしく、バスから荷物を降ろさせようとまでした。例によって全く協力的ではなく親切心の欠片も無いドライバーも、早く行きたいが為に僕を降ろして行くことに乗り気だ。なんて奴だ。どうもダブル・エントリーのヴィザを理解していないか、或いはアルメニアに出国した時のスタンプに何か問題があったのか、多分どちらかのようだった。そのうちに乗客のうちの数人の男達が乗り込んで来て、役人と口喧嘩を始める。もちろん何を言っているのかは全く分からなかったが、結果的には彼らのお陰で放免となる。ただその役人は投げ槍に成ったようで、スタンプを押してくれと言う僕に、スタンプはプロブレムだと言い捨てる。どうも後で問題になるというようなことを言っていたようにも思う。やれやれだ。お陰でトルコに入る日まで不安を抱えることに成ってしまった。いったい僕が何をしたと言うのだ。僕はちゃんと手順を踏んで貴方達の国の決めたルールに従ってダブル・エントリー・ヴィザを取得して来たのだ。これは後にトルコへ出国する時にははっきりするのだが、アルメニアに出国した際に押されたスタンプは入国印で、従って出国印の無いままダブル・エントリーのヴィザに既に2つの入国印が押されていたのだった。少し言い訳をしておくと、それらのスタンプに書かれた文字は国名を除けば全てグルジア文字で、もちろん僕には全く読めなかった。

                                     国境を越えると道はますます悪くなった。道と言うより殆ど
宿泊したホテル・ジャワヘティ                オフ・ロードと言って良さそうな状態だ。天候も悪くなる。それで
b0049671_1843686.jpgも全体に曇りがちではあるのだが、方向によってはまだ青空も覗いてはいる。ただし、ひとつの方向だけは真っ黒な雲に覆われていた。そしてその下は絶望的に真っ暗だった。そこに世界の終わりが口を開けて待っているんだというような不吉な暗さだ。勿論、バスはそこを選んだかのように真っ直ぐにまさにその方向に走っていく。なんてことだ。15時40分、休憩を含めて7時間走り続けたバスが漸くアハルカラキに入る。アハルカラキはまさにその真っ黒な雲の下にあった。道の端にはたった今しがた降った霰(あられ)がその形のまま吹き溜まっていた。

 町に一軒の宿は営業していたし両替もできた。本当の安宿だがシャワーなんて最初から期待していない。恐ろしく淋しい町だった。むしろ村と言うか集落と言うか、そんな感じだ。まあいい、ひと晩のことだ。食事をした後、小雨の中をガランとして活気の無い淋しい町を歩いていた。車が僕の横に停まった。警察だ。彼らはそのまま僕を町外れの警察署まで連行した。なんてことだ。僕は一昨日、ホルヴィラップで警察に拉致されたばかりなのだ。いったい僕が何をしたと言うのだ。パスポートは宿にあると言うのにも関わらず、彼らは警察署に車を走らせた。警察署はまるで閉鎖になった拘置所のような建物だった。結局、パスポートをチェックするために宿まで戻ることになる。途中で地域の英語の教師だという男が拾われ、宿まで同行する。彼の通訳のお陰で、その後はそれなりに和やかに事が進むことになる。最後に
                                   は、何か問題があったら警察署まで来てくれと言って警察官は握手を求めた。言葉さえ通じれば案外に友好的な人達なのだろうか。それにしても彼はパスポートのIDを見ただけでヴィザのチェックすらしなかった。
 夕方には一旦は陽が射してきたのだが、夕暮れ時(9時過ぎだ)になるとまたすっかり曇って小雨が降りだした。宿の電気は酷いもので、薄暗いなんてものじゃない。もっと悪いことにはそれがチカチカするのだ。偏狭の田舎町とはいえ、グルジアの経済状況を目の当たりにする思いだった。サラミでビールを呑みながら日記を書いていると、誰かがドアをノックする。そんな場合に無闇にドアを開けることがどんなに危険であることか色々なニュースで知っているし、僕はそれほど不注意でもない。けれどとにかく英語が通じないのだ。相手が何事かロシア語で応答したので、怖くもあったが身構えながらドアを開けてみる。さっきの人たちとは違う警察関係者だ。やれやれ、なんてことだ。宿の親爺の所に連れて行って、既に警察が来たことを告げて貰う。それを知ると彼は I'm sorry と英語で言って去って行った。あまりに素直なので思わずこちらから握手を求めてしまった。

 いい加減にしてくれと言いたい思いだった。だが実はこの辺りの住民は殆どがアルメニア人なのだという。従って歴史的にも今もグルジア政府との間に軋轢があるらしい。2008年にロシアとの衝突があった南オセティア (参照)、西北部の事実上独立状態にあるアブハジア、トルコ国境に位置する独立志向の強いアジャラ (参照)、それらと並んでここアハルカラキのアルメニア人はグルジアの抱える民族問題のひとつなのだ。彼らの生活は僕などには分からない緊張の中にあるのかもしれない。頼まれた訳でもないのに勝手にやって来た興味本位の旅人が、少しくらい不便や不快を被ったからといって文句が言えるような筋合ではないのだろう。


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                                                       アハルカラキの町並み
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by meiguanxi | 2009-01-14 18:51 | カフカス | Comments(4)
ホルヴィラップ修道院 (アルメニア) : ノアの箱舟が漂着した山と子孫
                          或いは偏狭な世界を彷徨う偏狭な旅行者の話

[ カフカス略地図 ]
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                                                     ホルヴィラップ修道院遠景


 そんな訳で、あっ、何がそんな訳かと言えば詰まりはこんな訳で、アルメニア人は自分達をノアの子孫だと言い張っている。いや旧約聖書によれば現存する全ての人類が 「ノアの箱舟」 のノアの子孫だということになっていてるのだが、自分達こそは直系だと主張してるのだ。ノアには3人の子がいて、セム、ハム、ハベテという。ノアはこのうち、ハムの子に呪いを掛けてしまう。ノアにしてみれば孫だ。ハムが寝ている自分の裸を見たことに腹を立てたという、まあ、なんというか、しょうもない理由だ。呪いはハムの子の子孫がセムやハベテの子孫達の奴隷になるというもの。ハムがアフリカ人の、セムがアジア人、ハベテがヨーロッパ人のそれぞれ祖先になったとされる。端からアフリカ人を奴隷として差別されるべき者としているのだから酷い話だ。まあ、そもそも悪行を行っているという理由で大洪水を起こして地上の生きとし生けるものを殲滅させることにしたのが神様なのだし、神様は自分に従順なノアのみを助けたのだから、神からして偏狭で酷い奴なのだ。ここで言うセムのアジア人というのはオリエントのことで、その直系がユダヤ人というこなのだろう。いずれにせよ我々モンゴロイドはまだ人でさえない世界での話だ。で、アルメニア人たちが言うには、ノアの箱船が漂流したのがアララット山 (そう言っているのは世界中のキリスト教徒だが) で、自分達はハベテの直系だというのだ。まあ、言い張っているのかどうかは知らないが、伝承ではそうなっているらしく、従ってアララット山は彼らにとってはジェネシスとして崇められている、らしい。実際、アルメニアは西暦紀元301年、かのローマ帝国より早く世界で最初にキリスト教を国教に定めた国だ。

 アララット山、僕はこの山の標高を 5165mだとずっと思っていたのだが、近年のGPSによる調査で 5137mに修正されたらしい。日本語の表記も最近では 「アララト」 とする傾向があるようだ。やれやれ…だが僕がこの山を初めて見た時には 「アララット」 だったし、その後何度もアララットとして見てきたのだから、今更心情は変えられない。呼び名は心情とは関係が無いじゃないかという寛大な (そして尤もな) 意見もあるだろうが、そうはいかない。地名や山や川の名前は旅情や思い出と密接に結びついているのだ。だから僕は未だにインドのコルカタと言われてもしっくり来ない。英国による植民地支配下での呼び方だと非難されても、やっぱりカルカッタと言った方があのねっとりとした空気や臭いや喧騒を実感として想起できるのだから仕方が無い。僕は神やノアの程度には充分に偏狭なのかもしれない…
 閑話休止… このアララット山は現在、トルコ共和国にあり、アルメニアの領土はその東側裾野までだ。因みにこの山の南東はイラン領で、イランからトルコへの国境ポイントはこの山裾になる (アララット山画像 ;トルコ側イラン側)。アルメニア人たちが心の故郷と呼ぶ山なのだからと、ある日僕は見に行くことにした。2000年5月末のことだ。トルコやイランで既に何回か見ていた訳だが、アルメニアから見るアララットはまた何か違うのかもしれない。場所はホルヴィラップ修道院。首都イェレヴァンの鉄道駅からバスに乗り南へ約40km、トルコ国境の直ぐ近くだ。だが、結論を言えばアララットを見ることは出来なかった。天気の所為だ。上の写真の雲の中にアララットはある、筈だ。

 さて、ガイドブックには徒歩20分とあったのだが、ホルヴィラップ修道院はバスを下車したところから1時間たっぷり掛った。写真が遠くて見辛いかもしれないが、十字型の建物に円柱の塔と尖がり屋根がアルメニア教会の特徴で、グルジアの教会と非常に良く似ている(画像 : グルジア教会)。
 帰り道、乗って行きなと声を掛けてくれた車があった。とても有り難かったがその少し先で写真を撮りたかったので、丁重に断る。到って友好的な人達だ。ところがだ、一旦は走り去った筈の乗用車が暫くするとUターンして来た。そして運転手はさっきとは明らかに違う口調で言った。
「パスポートを見せろ」
 いや、英語ではない、おそらくロシア語だった。自分のIDカードをちらっと見せただけで隠すように仕舞ってしまう。怪しいことこの上ない。ナショナル・セキュリティだと言う。ナショナル・セキュリティ…国家保安官、公安、旧KGB・・・。勿論そんな訳の分からない連中に素直にパスポートを手渡す馬鹿はいない。すると彼は大声で何かを怒鳴り始めた。こちらも負ける訳にはいかない。誰がお前達みたいなのに騙されるかと必死だ。なんとか振り切ったものの、その二人組みは僕の後を車で付いて来る。なんてしつこい奴らだ。途中で追いついて来たかと思ったら、また怒鳴り合いだ。漸くもう直ぐバスが通る道に辿り着こうとした時、走って来た別の乗用車が乱暴に僕の横に車体を寄せて停まった。そして運転手以外の三人の制服警官が取り囲み、有無も言わせず両脇を抱えて車に押し込まれる。吸い掛けていた煙草を勝手に取り上げて捨てられる。そして随分と離れた街にある警察署まで連行されることになった。まあ、今度は制服を着ているのだから取り敢えずは安心なのだが…
 中央アジアやカフカスでは警官に気を付けろ、というのが当時の旅行者の常識だった。問題の無いヴィザにいちゃもんを付けて賄賂を要求したり、マネー・チェックと称して現金を抜き取るといった事例がゴロゴロしていた。実際に僕も鉄道駅やバスターミナルや地下鉄の駅や国境や到る所で警官達と闘ってきたので、相当にナーバスに成っていた。だから、あるいは必要以上に好戦的な態度を執ってしまったのかもしれない。
 警察署では薄暗い倉庫のような所に通され、十人近い警察官達に取り囲まれる。路上で最初に声を掛けてきた奴は本当に嫌な奴で、態度も横柄だった。何の問題も無いパスポートをあれやこれや弄り回し、同僚に見せたり投げたりしている。その間ずっと彼らはロシア語とアルメニア語、僕は英語と日本語とロシア語の少しの単語で喧々諤々。ついに彼は全ての出入国記録をメモし始めた。そんなことをしてお前にそれをどうできる。コンピュータだって無いみたいだし。ただの嫌がらせ、もしくは引っ込みの付かなさとしか思えなかった。すったもんだの挙句、他の警官達に説得されたらしい彼は、腹立たしそうにパスポートを投げてよこした。嫌疑は晴れ、別の警官 (僕を拉致したうちの一人だ) がバス乗り場まで連れて行ってくれることになった。彼は運転手に金は取るなと言ってくれたみたいだった。
 やれやれ、それにしても初めの親切そうな声掛けは何だったのだろう。そして僕はそんなに怪しく見えたのだろうか…世界は偏見と偏狭と非寛容に満ち満ちているようだった。憂鬱な気持ちで宿に戻った僕がその夜、買って帰ったビールとワインとをしこたま呑んだのは言うまでも無い。
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by meiguanxi | 2009-01-12 19:56 | カフカス | Comments(4)
イェレヴァン (アルメニア) : 隣国との民族紛争を巡って
[ カフカス略地図 ]
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                                                         エチミアジン大聖堂


 旧約聖書の創世記に記された 「ノアの箱舟」、それが漂着した場所がアララット山だとされる (アララット山画像 ;トルコ側イラン側)。創世記に依ればノアには3人の子がいた。セム、ハム、そしてハベテ。アルメニアの伝承によれば、このハベテの子孫がやがて 「ハイ」 という人々になる。 「ハイ」 はアルメニア人の自称だ。因みにアルメニアの自称国名はハヤスタンという。現在のアルメニアはカフカスの小国に過ぎないが、古来、アルメニアと呼ばれる地域は、黒海からアナトリア半島 (現在のトルコ) 中部およびその南に広がる広大なものだった。西暦301年に世界で初めてキリスト教を国教と定めた国としても知られる。

 さっそくで申し訳ないのだが、ここで何時ものことながらお断りしなければならなそうなのだ、このエントリーもあまりイェレヴァンの紹介にはならないようだ、と。


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                                                         イェレヴァンの街並み


 アラブ人の侵入、ペルシャによる占領、トルコとロシアによる割譲…アルメニアの歴史は多難だ。この間に多くのアルメニア人が流出する。特にオスマン=トルコ占領下の第一次世界大戦時、ロシアに付いたアルメニア人に対するトルコによる大虐殺は凄惨を極め、少なくとも100万人もの命が失われたという。これにより、西部のトルコ占領下アルメニア (東部はロシア占領)からは住民が消えた。そこに流入して来たのがクルド人だ。

 首都イェレヴァンからは、運が良ければ彼らが自らの起源であるとするアララット山が遠く望めるが、今そこはトルコ領だ。アルメニアとトルコとの国境は現在、閉鎖されている。ソ連末期の1988年、ナゴルノ・カラバフ自治州の帰属を巡り隣国アゼルバイジャンと民族紛争が勃発する。ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャン領内にありながら住民の多くはアルメニア人だったのだが、ソ連時代初期、当時民族問題の担当人民委員だったかのスターリンよにってアゼルバイジャンに編入されることに成った地域だ。91年、ソ連の崩壊により両国はそれぞれ独立するが、アルメニアはナゴルノ・カラバフにも一方的に独立を宣言させ、更にナゴルノ・カラバフとの間に横たわるアゼルバイジャン領 (ラチン回廊) を占領、住民の大半を占めていたアゼルバイジャン人は難民となった。現在に到るまでナゴルノ・カラバフを承認しているのはアルメニアのみだ。一方、アゼルバイジャン国内では多数のアルメニア人が虐殺されたとも伝えられる。この時、トルコは同じテュルク系民族の国であるアゼルバイジャンを支持し、経済制裁の為にアルメニアとの国境を閉ざし現在に到っている。94年、ロシアとフランスの仲介で停戦になったが、ラチン回廊のアルメニアによる占領は続いており、現在までこれら領土を巡る民族紛争解決の目処は立っていない。


ガルニ神殿                                                    マテナダラン古文書
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 この地域を巡る情勢は簡単に白黒を付けられるほど単純ではない。最初期、アルメニアによる占領は世界から非難されたが、ロシアはアルメニアを支援したと言われる。またアルメニア移民の多いアメリカからは大量の資金が流れた。アルメニアに経済制裁という形で圧力を掛けるトルコはしかし、アルメニアが主張する第一次世界大戦時の多量虐殺という歴史認識を共有していない。一方、両国の南に位置するイランは自国北西部に大量に抱えているアゼリー (アゼルバイジャン人) の独立志向を抑えるためにもアルメニアを支持する。実は宗教的にはアゼルバイジャンはイランと同じシーア派で、トルコはスンナ派なのだが。
 アゼルバイジャンのバクー近海のカスピ海油田に関する戦略からアメリカは、ナゴルノ・カラバフと占領地域をアルメニア領とする代わりに、ナヒチェヴァンとアゼルバイジャン本国とを南端で結ぶ幅10kmの地域 (メグリ地方) をアゼルバイジャンに割譲するという領土交換案を出している。ナヒチェヴァンとは、アルメニアとトルコに挟まれたアゼルバイジャンの飛び地だ。本国とこの飛び地とを繋ぐことによって、カスピ海油田からのパイプラインはアゼルバイジャンから直接トルコを経由して地中海に繋がることになる。勿論ロシアにとっては避けたい構図だ。また実際に既に占領 (アルメニアにしてみれば失地回復と言うのかもしれないが) しているアルメニアにとっては何のメリットも無いばかりか、支援国イランとの間が分断されてしまうことになるから、なかなか呑めない案だ。
 一方、占領がアルメニアにとって一方的に有益な状況なのかと言えば、全く事態は反対なのだ。アゼルバイジャンとの紛争とトルコによる経済封鎖によって国内経済は瀕死の状態にあり、そのために国民の流出が続いているという有様だ。実は近年、その状況を打開しようと先の領土交換案が具体的に進行しそうになったことがあるのだが、国民感情 (ナショナリズム) が政府の方針を排除してしまった経緯がある。まさにダブルバインドだ。
 ところがここにきて、ロシアやトルコによる解決模索の動きが急になってきた。グルジアでの紛争 (参照) も影響しているのだろうし、勿論それぞれの国の思惑による動きである訳だ。ロシアの思惑で事が動くというのはあまりぞっとしないにしろ、いずれにしてもアルメニアとアゼルバイジャン両国民にとって有益な結果になるような形で、平和裏に解決してほしいものではある。
 アゼルバイジャンのガバラという田舎町を一緒に散歩していた中学生が、アルメニアが如何に極悪であるのかを興奮しながら訴えてきた。「でも彼らだって君達を恨んでいるのかもしれない」 としか言えなかった僕は、とても憂鬱なものを感じていたのだった。


ゲガルド修道院                                          ゲガルド修道院参道のパイ売り
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 さて、イェレヴァンの歴史は紀元前に遡るが、現在の街はソ連時代に計画的に整備されたもので、歴史的な街並みは無い。だが、郊外にはアルメニア正教発祥の地エチミアジン大聖堂、1世紀建立のガルニ神殿跡など見所は多い。また、アルメニアは5世紀から独自のアルメニア文字を使用していたことでも有名だ。
 国境は東隣のアゼルバイジャン、西隣のトルコ及びナヒチェヴァンともにもちろん閉鎖されている。南隣のイランとの国境は開いているが、交通の便は酷く悪く、僕が訪れた2000年の情報ではバスを数日待つ覚悟が要るという状況らしい。従って最も現実的なのがグルジアからで、こちらは知る限り3ヶ所の国境が開いている。グルジアの首都トビリシからは直行バスがあり、ムガロンという国境を通って8時間。この東50kmほどの国境を通過してデベド渓谷のアラヴェルディを南下すれば近い筈なのだが、バスはここを通らない。また、ムガロンの更に西50kmほどの所にニノツミンダという国境があり、不思議なことにイスタンブールからの直行バスが通過する。直接には国境を閉ざしているのだが、グルジア経由なら四の五の言わないということだろうか。

 前にも書いたが、中央アジアやカフカスの旅では宿探しに苦労する。特にこの街にはおよそ安宿というものが無い。そこで民泊することになる。泊めてもらったのは決して状態の良い家ではなく、水周りとトイレに関しては控えめに言っても悲惨を極めた。たが、何処の馬の骨とも知れぬ怪しげな外国人を泊めてくれる家があるということだけでも、有難いことなのだ。何処の馬の骨かも知れぬ外国人に向ける寛容…仇ではあっても隣国の人々に向けられぬ筈はない、そう思うのだが。


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                                                       ゲガルド修道院の内部
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by meiguanxi | 2009-01-10 19:41 | カフカス | Comments(0)
トラブゾンとスメラ僧院 (トルコ) : 断崖の修道院と民族の交差点
[ 西アジア略地図 ]
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                                                               スメラ僧院


 イスタンブールから直行バスで19時間、黒海沿岸の街、トラブゾン。このまま東へ向かえば4時間程でカフカス(コーカサス)のグルジアとの国境だ。トラブゾンは紀元前後、ギリシャ人の殖民によって開かれ、ヨーロッパ、ロシア、ペルシャ、カフカスを繋ぐ通商の要衝として栄えた。
 街から50km程内陸に入った山深い渓谷の岩山にへばり付くように、隠れキリスタンの修道院、スメラ僧院がある。始まりは4世紀だが、現在の建物は13~14世紀、オスマン・トルコの時代の物。当時もこの地方の住人はポントス人と呼ばれ、イスラム教徒とは一線を画していた。
 第一次世界大戦で敗北したオスマン・トルコはセーブル条約で小アジア(アナトリア半島)以外の領土を失い、更に小アジアの一部もギリシャに空け渡していた。国家存亡の危機にケマル・パシャ(アタチュルク)率いるトルコ国民党の革命でオスマン・トルコは共和国に生まれ変わり近代化路線を歩みだす(参照)。その過程で、アンチ・セーブル条約の気運から、ギリシャと戦争になり小アジアからギリシャを排除する。この結果、住民交換が行われるに至り、ポントス人の多くはギリシャに送還されることに成る。


スメラ下の渓流                                               スメラ僧院への登りから
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 スメラ僧院は日本の清流のような狭い渓谷の高い断崖の中腹にある。車の入る道から小一時間は急な道を登らなければならない。まさに人里離れた隠れ修道院だ。現在も実に見事な数々のフレスコ画が見られる。写真のフレスコ画に見られる羽を広げた天使の姿を確認できるだろうか。オリエントの有翼天人像が西に伝わってキリスト教の天使は羽を持つことになり、東に伝わって仏教に飛天が生まれた。羽の代わりに羽衣を纏い女性の姿をした飛天はシルクロードを渡りガンダーラから中央アジア、そして敦煌から果ては日本にまでその姿を残すことになる。大昔に書かれたこの天子も法隆寺の飛天と共通の祖先から生まれたのだ思うと、なにか不思議な気持ちがする。


スメラ僧院内部                                                スメラ僧院のフレスコ画
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 現在のトラブゾンは、黒海沿いの幹線道路の直ぐ近くまで迫った急峻な断崖の上に開けている。近代的ではあるが落ち着いた美しい街だ。街の中心である広場から海岸公園に下りる道ある。夕刻、この坂から見る黒海に沈む夕陽は実に美しい。郊外にはこの街の象徴のようなアルメニア様式の教会・アヤ・ソフィア寺院があり、現在ではそれ自体が博物館になっていて色鮮やかなフレスコ画を観ることができる。


アヤ・ソフィア寺院博物館                                        キリム(絨毯)を洗う婦人
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 ところで、ソ連崩壊後、この街には多くのロシア系の商人が押し掛けた。また、多くのチェチェン人難民達が集まり、通過して行ったのもこの街だ。港近くの海岸通り脇に300mは続くかと思われるアーケード(半透明の天井を付けたトンネルのような造り)があり、そこがロシア・マーケットに成っていて日用品などを並べた露天が延々と連なっている。夜、この近くの飲食店には派手な衣装を着たロシア系女性達が屯し、なにやら怪しげな様子になる。国境の街というのは何時の日、そして良くも悪くも文化や民族の混ざり合う場所なのだ。


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                                                        トラブゾン郊外と黒海
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by meiguanxi | 2009-01-07 19:08 | 絲綢之路Ⅲ[西亜] | Comments(2)
2009年迎春 (クチャの子供達)
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 昨年秋以来の金融危機と世界同時不況はとどまることを知らず、この国でも多くの失業者を出している。だがおそらく、本格的な痛みはこれから我々を襲うのだろう。
 切欠はアメリカのサブプライム・ローン問題だった。これはアメリカ・モデルの金融立国という政策の明確な破綻である訳だが、同時に1980年代中庸以来アメリカが推し進めてきた、そして90年代以後この国をも席捲してきたグローバル経済と市場原理主義というイデオロギーの崩壊でもある。確かにそれらは中国とかロシアといった一部の途上国の経済を発展させた。しかしその結果もたらされた物は、無茶苦茶なリバレッジを掛けた投機によるエネルギーと穀物との異常な高騰だった。これは殆ど貧しい者達からの略奪行為にも等しい。略奪という意味ではこの間、規制緩和の名の下にこの国で蔓延してしまった非正規労働とワーキング・プアという問題もまたパラレルだ。語弊を恐れずに忌憚なく言えば、派遣業と言えば聞こえは良いが昔は口入屋と呼ばれ真っ当な人間の職業ではなかった。規制緩和の美名の下にピン撥ね屋を合法とする、なんという品性の欠如。
 アメリカは 「テロとの戦い」 をエクスキューズにして原油利権を求めてイラク戦争を始め、ロシアはその豊富なエネルギー資源を力に世界の倫理には反するような嘗ての覇権を回復しようとした。経済力を付けた中国ではルール無用の剥き出しの資本主義が幅を利かせ貧富格差が信じ難いレベルに達し、地下資源と領土を巡ってチベットや東トルキスタン (新疆ウイグル自治区) への支配と抑圧とを強めている。世界は 「テロとの戦い」 の中でチェチェンを見殺しにし、強大な市場に屈してチベットを見捨てようとしている。

 この未曾有の経済的危機は今年、世界と我々をジワジワと蝕んでいくのだろう。だがしかし、グローバル経済主義と市場原理主義、金融万能思想というモデルは良くも悪くも崩壊したのだ。この先、僅かずつでも世界が理性と品性とを持った方向に再編されていくことを願って止まない。





写真は東トルキスタン、クチャの子供達だ
世界中の子供達の笑顔が笑顔のままであり続けられますように
チベットでも
ウイグルスタン、ダルフールやパレスチナでも
そして、この国でも

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by meiguanxi | 2009-01-04 19:07 | non-category | Comments(0)