ビシュケク (キルギス) : トイレの思想とポプラの種子
[ 中央アジア略地図 ]
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                                           アラトー山脈を背景にしたビシュケクの街


 トクトグルからのワゴンは街の郊外を走り回り、順番に乗客たちを降ろしていった。焦る気持ちをよそに夜はどんどん深まっていく。キルギスの首都ビシュケクは首都というには非常に暗かった。少なくとも車が走った場所に明るい賑やかな場所は無かった。最後に運転手が僕を降ろした時には23時に近かった。だがそこは空き地の真ん中のような小さな交差点で、こんな郊外で降ろされても困るというような場所だった。僕が指定した場所は街のほぼ中心に近い場所の筈だ。しかし走って来た道の前後150m位は空き地か公園のようだ。左側を見ると向こう側の建物まで400m位は離れていて、その真ん中を道路が突き抜けている。広場のずっと先に何かのモニュメントが見えた。困惑する僕に運転手は反対側を指差して、僕の指定したホテルの名前を言った。その指の先も空き地のように見えた。1ブロック向こう、200mくらい先に確かに建物が見えた。2階建の暗くくすんだ建物だ。その左手前に丸い大きな建物が見える。なるほどここは僕が指定した街の中心に違いないようだ。地図によれば丸い建物はサーカス場の筈だ。


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                                                  ホテル前の広場とモニュメント


 戦前のカトリックの寄宿舎みたいなホテルは至って殺風景だった。シャワーは無い。部屋にではなくホテルにシャワーというものが存在しなかった。ホテルの造りはコの字型になっていて、中庭を回り込むように廊下を曲がるとトイレがある。広いトイレで、共同洗面所になっている。その洗面所でシャンプーする。全身に石鹸を塗ったくってタオルで拭き取る。洗濯もする。何しろ全身埃だらけなのだ。ウズベキスタンのコーカンを離れてからオシュ、トクトグルとシャワーを使えていなかった。これで4日目だ。


トロリー・バスの走る街並み
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 トイレについて書いておこう。旅行記に於いてトイレといえばなんと言っても中国だ。扉という物が無いこととその類稀な汚れ方に於いて、中国のトイレの右に出るものはない。中国のトイレに慣れた旅行者に怖いもの無し、という格言があるくらいだ。今は中国も都会では変わったのかもしれない。だが90年代前半の中国に於けるトイレはレーゾンデートルを揺さぶられるほどの代物だった。その中国に何回も足を運んだ僕が、けれど二の足を踏み、目を疑うトイレがあったのだ。ビシュケクのホテルのそれだ。扉の無い東洋式のトイレには驚かなかった。慣れている。問題はその非密閉性や汚さにあるのではない。その形状、或いは思想にあった。しゃがみ式の便器の素材は鉄、然るべき場所に直径20センチほどの穴が開いている。素材を除けは普通だ。普通ではなかったのは便器自体の大きさだった。幅が80センチ程もある。もちろん跨いではしゃがめない。絶対に無理だ。便器の中の穴の横に、ほんの僅かの厚さの足型がある。高さにして2センチ程だ。つまり、使用する人は便器の中にしゃがむように作られているのだ。
 流石に躊躇した。小用の便器は見当たらない。残念ながら女性用のトイレには入っていないので知らないが、男性用の場合、小の方をする場合には立ったままでその便器を使うことになる。いや、本来この辺の人たちは小用の時にもしゃがむのかもしれないが、少なくともロシア人や若者は立って用を足す。当然、その足型の突起だって汚れている。できればそんな所に自分の靴を載せたくはない。けれどホテルのトイレだ。使わないわけにはいかない。あなたは決して清潔ではない便器の中にしゃがんで用を足したことがあるだろうか。屈辱的だった。僕はこの便器の製作者の想像力の欠如を激しく怨んだ。いったいどうして足型まで付いたこんなに大きな便器を作らなければならいないと言うのか。そう、想像力の無い人間はわざわざこんな手の込んだ便器なんかを作ったりは決してしない。勿論その製作者は想像力豊かな人間であるに違いないのだ。ただ、彼はその製作のコンセプトを使用者の便宜に置かなかっただけだ。彼が意図したのはそれを掃除する人、つまり管理する側の便宜だったのだ。ちょっと大袈裟に聞こえるかもしれないが、僕はロシア・ソビエト型社会主義の本質を見る思いだった。何の為の社会主義革命だったのか。


ボックス型の商店街
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 中央アジアの都会のご多分に漏れずビシュケクの街にも緑が多く、グリーン・ベルトのような美しい公園通りが幾つもあった。街全体が森林公園のようだと言っても良い。着いた時に見た空き地は全て公園か広場だった。何処へ行っても郊外といった印象はあるものの、人口100万の街としてはこれで良いのかもしれないと思われた。タシケントなどと違うのはトレーラー・ハウスのようなボックス型の商店が軒を連ねる場所がそちらこちらにあり、それはそれなりに街らしくもあった。ロシア人の比率もかなり高そうに見えた。残念なのは人々の衣装に民族色は薄く、ロシア人以外でも現代的でお洒落な女性たちが多いことだった。そもそもキルギス人は遊牧民族なのだし、ビシュケクもロシアが攻め込んで来るまでは砦程度のものだったのだ。


ユルト (ゲル・パオ) のカフェ                                         街中で見掛けたリス
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 実はキルギス東部にあるウスク・キョル湖方面に行って帰って来たり、カザフスタンのアルマティに行って帰って来たりと、僕はこの街に都合8泊もしている。もちろんシャワー無しで過ごすのは辛過ぎるので、他の宿も当たってみた。ボロ宿の隣はアパートのような外観の屋号の無いホテルで、その入り口から向かいの公園に掛けては昼間から娼婦たちが屯していた。時には客を連れてこちらの宿にもやって来るようだったが、彼女たちはあまりやる気が無いように見えた。外国人である僕の姿を見ても無視するだけだった。400mくらい離れた突き当たりにある、こちらもアパートのような外観のホテルは中国人経営に変わっていたようで、シャワー付ではあるが 1泊400Ks (キルギス・ソム、僕の訪れた2000年当時 1Ks=2.3円、$1 = 48.2Ks) もした。泊まっていた宿が120Ks なので痛かったが仕方がない。中国旅社には漢族の他にウイグル族の青年がいて、中国語の他にロシア語を話した。ここで商売をしているのだから当然なのかもしれないが、新疆ウイグル自治区での彼らを見慣れている目にはウイグル人がロシア語を話す姿はなんとなく奇妙なものに映った。勿論ウイグル自治区で彼らが中国語を話しているのだって本当は同じなのかもしれない。嘗て同じようなことを、中国語を話すチベット自治区の人々とヒンディを理解するラダックの人々に感じたことがある。長い支配の年月の後、同じトルキスタンとはいえ旧ソ連圏の西トルキスタンの人々と中国支配の東トルキスタンの人々とでは、文化も心情も今は少なからず違ってしまっているのかもしれない。


路上の露天                                                      オシュ・バザール
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 その後、これらの宿の裏側に 22Ks で使える共同シャワー場を見付けて元の宿と中国宿とを行ったり来たりする。物凄く大きなシャワー場で、一度に何十人も使えるのだが、何時も何人もが順番待ちをしていた。キルギスは中央アジアでは比較的湿潤である筈だが、生活水事情や生活水準という意味合いでは決して恵まれてはいないのだろう。入り口の外に飲み物を売るおばちゃんがいたりして、毎日行っていると仲良くなる。まさに銭湯だ。路地に煙草を売る少女がいて仲良くなる。ほんの子供だ。僕は毎日のように彼女から煙草を買ったが、彼女の持っている封を切っていない煙草は少ない。1本ずつばら売りしているだ。毎日ここに座ってどれだけの収入になるのだろう。驚くほど日本人に良く似たその顔立ちは年齢に比較してとても利発そうに見えたが、彼女が上の学校に進むのは至難のことなのかもしれない。
 ビシュケクの街についてはヴィザ取得に関するあれこれやバス・ターミナルの警察との攻防といった話以外これといって語るべきことは無いしさほど面白みも無かったけれど、それはそれで居心地は悪くはなかったのだ。気候は穏やかで湿度も程よく、街の南側遠景には雪を頂いた大きな山脈が聳えていた。街に着いた頃にはアカシアの実が桜吹雪のように散っていたし、最後に離れる頃には綿毛に包まれたポプラの種子が雪のように舞っていた。


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                                                           煙草売りの少女
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# by meiguanxi | 2009-05-23 18:22 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜]