[ 中央アジア略地図 ]
漢の武帝が恋焦がれたという汗血馬、その馬を有していた月氏の国である大宛が存在していたのがフェルガナ地方だ。フェルガナは東西300km、南北150kmにも及ぶ広大な盆地で、周囲は険しい山岳地帯に囲まれている。現在はその平野部分の大半がウズベキスタン領になっているが、周辺はキルギスとタジキスタンの国境線が複雑に入り組んでいて、ウズベキスタンの平野部からは山脈で隔てられている。そのため首都タシケントからは冬季には雪の為に通行不能になることもあるカムチク峠を越えなければならない。僕が訪れた2000年当時にはトンネルが建設中だった。アム・ダリア (ダリアは川の意) と並んで中央アジアを代表する河川であるシル・ダリアが盆地の西方に流れ出ていて、ロシア支配からソ連時代に掛けて築かれた鉄道や幹線道路はこのシル・ダリアに沿ってサマルカンド方面と繋がっている。いや、おそらくは古来このルートが主要な交易路だったのだろう。だが今はその間にタジキスタン領が横たわっているために、少なくとも2000年当時にはシル・ダリア沿いのルートを直行するバスは運行されていなかった。 中央アジアでよく見掛ける近郊バス 一般的なアパート ケバブ屋 陶器工場 本当はサマルカンドからタジキスタンのホジャンドに寄ってシル・ダリア沿いにフェルガナに向かう予定にしていたのだが、ヴィザの問題もあり、サマルカンドで泊まらせてもらったタジク人の反対に従って、タシケントから峠を越えるルートを取ったのだった。タジクでの内戦は97年に一応は和平合意に至ってはいたものの、98年には日本人を含む4人の国連タジキスタン監視団が殺害されていたし、翌年にはフェルガナ盆地南辺のキルギス領でタジキスタンから侵入したウズベキスタンの反政府勢力によってJICAの日本人4人を含む技術者7人が誘拐されるという事件も起きたばかりだった。 ソ連によって策定された国境線が入り組んでいるだけではなく、それぞれの国内に隣国の飛び地があったりある町の多数を占める住民が隣国民族であったりと民族模様は非常に複雑で治安状況はとても不安定だった。ソビエト時代末期にも90年に盆地東辺のキルギス領オシュでキルギス人とウズベク人による大規模な衝突 (オシュ事件) 、89年にはスターリンによってコーカサスから強制移住させられたメスフ人 (メスヘティア・トルコ人 : 参照) とウズベク人との間での衝突 (フェルガナ事件) など悲惨な事件が起きていた。 フェルガナ地方の困難は民族問題だけではない。人口は700万 (2007年) を越え、ウズベキスタン全体の4分の1を上回る。元々は豊かな水と肥沃な土地に恵まれた人口密度の高い地域なのだが、ロシア支配、ソ連時代を通じて農業の殆どが綿花栽培に集約される政策が採られたために、産業のモノラル化と慢性的な土地不足とに悩まされることになり、経済も停滞した。また原理主義的なイスラーム宗派の強い保守的な地域でもあることが、更にこの地域を難しくしている。僕が訪れた5年後、東部のアンディジャンで大規模な反政府暴動が起こり、政府発表でも187人、一説には500とも700とも言われる人々が軍によって殺害された (アンディジャン事件)。 マーダリ・ハーン廟 ブダヤル・ハーンの宮殿 ジャーメ・マスジディ (金曜モスク) タシケントから標高2267mのカムチク峠を越える道はかなり本格的な山岳ルートだ。中央アジアに入って以来平坦な草原や土漠ばかりを見てきた目には、黒い山肌や白い雪は新鮮な風景だ。しかし峠からの下り道はさほど長くはない。盆地の標高がそれなりに高いのだろう。だが盆地に下りてからの道が果てし無く長い。盆地北西部の峠から道は一路南に下る。やがて山陰も見えなくなり、そこが山岳地帯の盆地であるということを忘れそうになる。なにしろ盆地といっても四国に匹敵する面積を有するのだ。 紀元前2世紀に大宛の都があったのは盆地の中央部やや北側だと言われている。月氏がいかなる民族であったのかははっきりとしないが、いずれにしてもこの地が完全にテュルク (トルコ) 系民族によって支配されイスラム化するのは10世紀になってからだ。現在のナマンガンという町の近郊にアフシケントの遺跡が発掘されている。モンゴルの侵入による破壊で壊滅的な打撃を受け、17世紀の地震で打ち捨てられた往時の都だ。 フェルガナ観光の目玉は盆地南西に位置するコーカン (コーカンド) の町だ。この町の歴史は長いが、繁栄した時代はそれほど昔ではない。18世紀中庸、この地を支配したウズベク族のコーカンド・ハーン国によるロシアと清朝との交易によって栄えた。しかしその繁栄は長くは続かず、19世紀後半にはロシアによって滅ぼされることになる。盆地中央南部にその名もフェルガナという町があるが、これは占領したロシアによって築かれた町だ。 チャイハナとミナレット 灌漑用水路と旧市街の家並み 僕の訪れた4月のコーカンは朝には外出するのにジャケットを必要とするくらいの気候で、適度な湿度を持った空気と背の高い街路樹のプラタナスの緑が気持ちがいい。陽が照り始めるとさすがに暑くなってきたが、人工的で何処か閑散とした物寂しさを感じる他の幾つかの中央アジアの町とは違い、その緑と潤いが心地良いだけではなくちゃんと町らしい町の表情を持っていた。新市街のメイン・ストリートはそれほど賑やかではないが、人口18万の田舎町としては落ち着いた感じの良さを与えている。細い運河が流れる旧市街の路地裏でファインダーを覗くと、道の両側に続く家々の白い壁と青い空との対比が眩しい。人々は気さくで概ね友好的に接してくれる。この地方の難しい現実を上手く実感として把握できない思いだった。 #
by meiguanxi
| 2009-05-10 20:02
| 絲綢之路Ⅱ[中央亜]
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Comments(4)
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by meiguanxi
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