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タシケント (ウズベキスタン) : 生活臭の無い街
[ 中央アジア略地図 ]
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                                                         チャルス・バザール


 概ね街というものには中心部と見なされる地域がある。その中心部には商店が並び多くの人々が行き交ってる。およそ街の賑わいというものは人々の欲望の自然発生的な集積でもあるわけだから、時に街の中心部は如何わしさのようなものを内包していたりもする。そして周辺の郊外には人々の静かな生活が広がっている。日本の都市では多少事情が異なるかもしれないが、郊外には列車の駅や長距離バス・ターミナルなどが設けられていたりもする。或いは中心部には官庁などが集中してる場合もあるかもしれないが、それとは別に商業的な意味での中心はあるものだ。東京などのように超巨大な都市にあっては中心は幾つかに分散されたり沿線沿いに長く伸びたりといったことも起こるだろうが、これは小さな町に於いて街道やメインストリート沿いに賑やかな場所が伸びていることと基本的には同じだ。だが、この街は少し様子が違っている。ウズベキスタンの首都タシケント、200万の人口を有する中央アジア最大の大都会だ。


サイルガーフ通り                                                    郊外の日曜市
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 この街には同じ旅で二度訪れている。そもそもはトルコからコーカサスを通って中央アジアから中国に抜ける予定でいたのだが、トルコでのヴィザに纏わる諸々が上手くいかず、コーカサスを後回しにしてイランから中央アジアに入っていた。そのため中国へ抜けることは諦めて、ここタシケントからコーカサスに飛び、トルコに戻ることにしたのだった (参照) 。何故タシケントからかというと、飛行機代が安いためだ。前後とも良く街を歩き回った。各国のヴィザを取ったりその為のレターを日本大使館に発行してもらったり、あるいは飛行機のチケットを取ったりといった用事を済まさなければならなかったからだ。
 そもそもこの街には観光名所のような所は殆ど無いのだが、奇妙なことに何処まで歩いても賑やかさや活気といったものとは無縁だった。綺麗に整備されてはいるし緑も美しいのだが、何処へ行っても郊外であるような雰囲気なのだ。概して中央アジア諸国の都市というものは何処か物寂しさ、或いは物足りなさを感じさせる。おそらくソ連時代のロシア式の人工的計画的な再開発の結果なのだろう。トルクメニスタンのアシュガバート、キルギスのビシュケク、カザフスタンのアルマティなど、何処も首都としての華やかさとか活気、生活感というものに欠ける印象を受ける (カザフの首都は97年にアスタナに遷都されている)。もちろん人口や経済の問題もあるだろうが、例えば経済が悪くとも日常の人々の生活は何処かしらに活気を感じさせる場所を作らずにはいないものだ。
 原因の一つには人々の日常的な買い物の場がバザールに限られるということも関係しているのかもしれない。バザールと言っても中東のスークのような自然発生的な商業地域ではなく、あくまで人工的な巨大市場だ。それでも市内には8ヶ所のバザールがあるのだそうだから、200万人の日常消費はそれでほぼ間に合ってしまっているだろう。しかしそれらのバザールも1ヶ所を除いては大概は閑散としていた。他にも数件の商店が集まるような通りが無いわけではないのだが、それらは決して賑わっているという雰囲気ではないし、人通りも多くはない。
 いや、地理的な中心は勿論あるのだ。アミール・ティムール広場という周囲1kmほどの公園広場。ソ連時代には革命広場と呼ばれていた場所だ。おそらく街はここを中心に設計されている。この西1km足らずのところにあるムスタルリック・メイダニ (独立広場 : 旧レーニン広場) との間に公官庁などが集中している。二つの公園を結ぶサイルガーフ通りが一応は最大の繁華街ということになっている。そこにはオープン・レストラン形式の屋台や土産物屋、似顔絵描きや古コイン、切手の露天などが並んでいて、さながら縁日のように賑わっている。だがそれはあくまで公園通りなのだ。アミューズメント・パークと言ったら良いだろうか。もちろん車の乗り入れはできない。そこは僕たちが普通に街の繁華街として抱くイメージとは程遠い。タシケントの鉄道駅はアミール・ティムール広場の南南東2km程のところにある。200万都市としてはさほど郊外という訳ではない距離だ。だが駅前にもやはり活気は無い。そこには団地のような高層アパートが延々と立ち並んでいるだけだ。


郊外のモスクとトラム                                         アブドゥル・ハシム・マドラサ
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 この街がロシアによって占領されたのは1867年。それ以来ロシアはここを中央アジア植民地化の拠点として開発した。だがそれでも、街の中央を北東から南西に流れるボズス運河西側の地域は、シルクロードの面影を残していたのだそうだ。1966年、街をマグニチュード 8 の大地震が襲う。タシケントの建造物の9割が被害を被ったとも伝えられるこの地震の後、当時のソ連はこの街全体を計画的に再開発した。現在なお往時の中央アジアの面影を僅かながら残しているのは、北西郊外のほんの一角だけになってしまった。
 この一画にあるチャルス・バザールだけは何時も賑わっていて、中央アジアのバザールの雰囲気を感じることができる。僕はここであれこれと買い物をしては宿に持ち帰って夕食にしたものだ。お気に入りは Korea のおばちゃんたちが作るキムチ。中でも魚のキムチは実に美味だった。チャンジャのように胃袋だけを漬けた物ではなく、実も一緒に漬けてある。中央アジアにはスターリンの時代に沿海州から強制移住させられた Korea が多い。1937年のことだ。既に彼らは朝鮮語を解さないようだった。泊まっていた郊外の宿の近くにコリアン・レストランがあるのだが、別の場所にあるロッテ資本のカフェとともに僕はこの街では随分 Korea に癒されていた。
 一日中歩き回った後は、アミール・ティムール広場に近い劇場でバレーやオペラを観た。戦後、ソ連によって抑留させられた数百人の日本兵が建設に参加させられたナヴォイ劇場だ。何時も短い演目だったけれど、なにしろ闇レートで1ドルほどで観ることができた。ただし内容は民独主義的なものが多く、この国の現実を思い知らされるような気もした。ソ連崩壊後、中央アジアの国々はいずれも民族主義的で独裁的な国になってしまった。いや、ロシア自体がそうなのだが。残念ながらソビエトというシステムは民主主義にとっては何も築くことができなかったのだ。


ナヴォイ劇場エントランス              ナヴォイ劇場礎石                   ナヴォイ劇場内部
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 ところで、この街にはあまり良い思い出が無い。僕がタシケントを訪れた2000年4月に、外国人旅行者のホテル代がドル払いになっていた。郊外の長距離バス・ターミナルから地下鉄に乗って予定していたホテルに着いたのは15時30分頃だったと思う。だがレセプションは不在で、漸く担当の男が外出から帰ったのは小1時間経ってからだった。トルクメニスタンからウズベキスタンに入国して以来、南部のテルメズを除けばヒヴァブハラサマルカンドと民宿のような処に泊まっていたので良くは分からないのだが、とにかく4月1日をもって支払い方法が変わったのだと男は言った。実勢レートで1米ドル余り、公定レートでは4倍以上になるがそれでも5ドル程度なので、ドル払い自体はたいしたことではない。問題はその支払いシステムだった。まず指定された銀行に行き宿泊費分の外貨を両替する。そのレシートを付けてホテルのレセプションで現地通貨払いするというものだ。闇両替をさせないためなのかもしれないが、ホテルでは直接ドルは受け取らない。だが、既に銀行は閉まっている時間だ。しかしドル預かりで翌日払いという妥協さえ許されなかった。社会主義ではなくなった筈だが、上からの命令には絶対服従であるらしい。非常に融通の利かない徹底的に官僚的な社会なのだ。おそらく上は現場の労働者をまったく信用していないのだろう。怒っても拝んでも埒は明かなかったが、最後にレセプションの男は郊外の安宿を紹介してくれた。タクシーを停めて彼の書いてくれたアドレスを渡す。辿り着いたのはバス・ターミナルの直ぐ側の住宅地だった。やれやれ。それは団地のような建物で、本当に住居として暮らしている人が大半であるような宿だった。1泊75円ほど。地下鉄の終点という郊外ではあったがバス・ターミナルも近く、それで充分だった。ただ困ったことが一つあった。バネの伸び切ったスプリング・ベッドで寝たことはあるだろうか。金属の枠に何本かのスプリングが縦に張ってあり、その上に薄いマットレスが敷いてある。実際に横に成るとまるでハンモックだ。朝起きると身体中が痛む。だが、それでも泊めて貰えただけ幸運だったのだ。この3週間後、カザフスタンから戻った時にはこの宿での支払いも同じシステムになっていた。支払いの為には地下鉄に乗って6つ目の駅で乗り換えて更に4つ目、タシケントの鉄道駅まで行かなければならなかった。


アブー・バクル・カッファル・シャシー廟                                 ハシュト・イマーム付近
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水路の少女                                                  下水路を掃除する老婆
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 そんな訳でこの街では良く地下鉄に乗った。街に走る2本の地下鉄の全てのホームは美術館さながらの美しいモザイクや彫刻で飾られていた。だが残念なことに撮影は禁止。構内には何時も暇そうな警官がうろうろしている。僕の場合にはほぼ3回に1回は尋問を受けた。時には詰所に連れて行かれてパスポート・チェックだけではなく外貨チェックを受けることになった。別に銀行での両替を確認するという訳ではない。単に幾ら持っているのかを調べるのだ。何のために?勿論、その中の幾許かを自分の懐に入れるために。今はどうなったか知らないが、少なくともその頃の中央アジアやコーカサスなど旧ソ連圏ではよくあることだった。国境、バス・ターミナル、鉄道駅、そういう場所にいる警察はことごとく腐敗していたし、実際に現金を抜き取られたという話はゴロゴロしていた。僕はそういう場合に備えて、ドル紙幣は額面ごとに分けて持っていた。そして更にそれぞれが何枚あるのかをメモしていた。勿論まず自分で数えてから警察に渡す。渡した1ドルの束を返してよこし自分で再度数え直すまでは5ドルの束は渡さない。そのようにして10ドル、20ドル、50ドル、100ドルと順番に進めていく。当然ながら彼らはそんなことでは諦めない。今度はあからさまに賄賂を要求してくる。そのためには問題の無い筈のヴィザに難癖を付けてきたりさえもする。掴まってしまった場合にはかなりの根気を要するし、時には恐怖心と闘わなければならないことさえあった。まあ、しかし、ウズベキスタンについてはカザフスタンなどに比べればまだマシだったかもしれない。それについては別の機会に書くことにしよう。


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                                                       市場で売っていた磁器
# by meiguanxi | 2009-05-04 22:10 | 絲綢之路Ⅱ[中央亜] | Comments(0)